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斉太公(太公望呂尚)の歴史紹介
酷吏列伝(抄)
| 抄録 |
| 人民は本にそむいて巧詐多く、法軌をおかし法を弄び、善人はこれを教化することができなかった。ただ厳酷刻薄にあつかってはじめて、よくこれを斉えることができた。 〔法は末、本は徳〕孔子曰く、「政治にあたって、法令をもって導き、刑罰をもってととのえれば、人民は刑罰にさえ免れれば、悪事をおこなっても何ら恥ずるところはないと思うようになる。徳をもって導き、礼をもってととのえれば、人民は不善を恥じて正道を歩もうとするようになる」(『論語』為政篇)、老子曰く、「上徳の人は、おのれに徳があるのにその徳に気付かない。だからこそ、真の徳がある。下徳の人は、おのれに徳がないのに徳があると思っている。だからこそ、真の徳がない(第三十八章)。法令が明らかに整備されればされるほど、盗賊はその裏をかいて多くなる(第五十七章)」 太史公曰く、これらの言葉は本当だ。法令は政治の道具ではあるが、民心の清濁を制治する根源ではない。むかし、秦時代においては、天下の法網は非常に精密であった。しかし、姦邪偽悪はきざし起こり、その極においては、官吏は責任をのがれ人民はたくみに法網をくぐり、救うべからざる亡国の道をたどったのである。当時、官吏の政治の方法は、火災を消し熱湯を鎮めるのに、火元をそのままにしておいて末節につとめるような状態であった。蛮勇厳酷の人物でなくては、どうしてその任務にたえて愉快でありえたろうか。道徳をうんぬんするものは、ただ、その職務の間に沈滞していたわけだ。だから、「訴訟がおこってしまってから、それを裁くことにおいては、わたしは人とかわりはない。ただ、訴訟が起こらないようにし対のだ」(『論語』顔淵篇)、「つまらない人物は、大道を聞いても理解できないから、大いに笑うだけである」(『老子』第四十一章)は、虚言ではない。 漢が興ると、方形を削って円形にするように、厳刑を去って簡易にしたがい、修飾をほどこさずに素朴な彫刻にするように、巧偽をおさえて敦厚につとめ、その法網は呑舟の魚をも逃がしてしまうほどに緩やかになった。しかも、官吏の政治の方法は、純一で姦悪には走らず、人民は治まってやすらかであった。以上の点によって判断すれば、治道の要諦は道徳にあって法令の厳酷なことにはない。 〔趙ウ〕趙ウはタイの人である。佐史から中都官に補任され、廉潔であるというので令史になり、太尉の周亜父に仕えた。亜父が丞相になると、ウは丞相府の属官になった。役所では、みながその廉潔公平をたたえた。しかし、亜父は信任しないでいった。 「ウが公平であることはよく知っている。しかし、法をあまり深刻に適用しすぎる。丞相府に勤務させるべきではない」 今上陛下の時代に、ウは下っ端役人として労苦を積み、しだいに昇進して御史になった。帝は能吏だと認めた。太中大夫になり、張湯とともにもろもろの律令を論定し、見知[犯人を知っていて告げないものは同罪に処する)の条項をつくった。また、官吏がたがいに監察しあうようにした。法をますます深刻に用いるようになったのは、これから始まったのである。 〔張湯〕(張湯)が糾問しようとした人物が、帝が処罰したいと思っている者であれば、監・吏のうちで罪を重くし厳酷に判決する者に引き渡し、帝が釈放してやろうとのぞんでいる者であれば、監・吏のうちで罪を軽くし公平に判決する者に引き渡した。また、糾問する相手が勢力家であれば、かならず法をあやつって巧に罪に落とし、貧乏で無力なものであれば、口頭で帝に、 「法文上では有罪でありますが、陛下がご賢察をくだしてご決裁あらんことをねがう次第であります」 と告げたので、往々にして湯が言上した人物の罪は許された。 湯は大官になると、品行が正しくなった。賓客と交際しては飲食歓談し、旧知の人の子弟で官吏になったもの、および貧しい兄弟たちは、手厚く庇護した。諸公を訪問し面接するのには、寒暑をいとわなかった。それ故に、湯は厳酷に法を持し、また猜忌深くて公平専一ではなかったが、それにもかかわらず名声と栄誉を勝ちえたのである。 湯が参朝して事を奏し、国家の財政を語るたびに、帝は日が傾くまで食事を忘れて傾聴した。丞相はただその地位にあるというだけで、天下の大事はみな湯の意によって決定された。しかし、人民は生活の安定を欠いて騒動を起こし、政府の復興策がまだその効果をあげないうちに、姦吏どもがみな不当の利益を貪った。そこで、峻烈に彼らの罪をただして処罰したが、公卿から庶民にいたるまでのすべてのものが、こうした事態の責任は湯にあるとした。このような状況下で、あるとき湯が病気にかかると、帝はみずからその病床を見舞った。それほどまでに湯は帝に尊重されていたのである。 〔王温舒〕若いころに、人を撲殺してひそかに埋めたりして、悪事をおこなった。やがて、試みに県亭の長に補任されたが、しばしば廃された。官吏になると、獄事を糾明して属官になり、張湯につかえた。その後、遷って御史となり、盗賊を取り締まったが、罪人を殺傷することが非常に多かった。次第に昇進して広平郡の都尉になった。郡中の豪勇果敢で任ずるに足る官吏を十余人えらんで自分の爪牙とし、かれらがひそかに犯していた重罪の証拠をにぎり、それを見逃してやって盗賊を督察させた。捕えたいと思っていた盗賊を捕えて意を満たしてくれる人があれば、その人に百罪あったとしても罰しなかった。もし盗賊をさけたりするものがあれば、そのことを責めてその者を殺し、またその一族を皆殺しにした。それ故に、斉・趙地方では、盗賊はあえて広平に近づかなかった。かくて、広平では道路に落ちているものがあっても誰もねこばばしない、という評判がたった。 王温舒がふたたび中尉になった。温舒の人となりは優雅さが少なく、朝廷にあっては中尉以外の職についているときは、ぼんやりとして、職務もよく遂行されなかったが、中尉になると活発に心意をひらき、よく盗賊を取り締まった。もともと関中の習俗に習熟していて、有力で姦悪な官吏をよく知っていた。有力で姦悪な官吏も、またよく彼のためにはたらき、策にしたがって動き、盗賊や不良少年たちを苛酷なまでに見回った。また投書函をそなえたり、懸賞金をかけたりして姦事を告発させ、村落の長を置いて姦悪なものや盗賊を見張ったり、逮捕させたりした。温舒は、また、人にへつらう性格があり、勢力者にはよく仕えたが、無力者は奴隷のようにみなした。権勢のある家は、姦悪なことが山のようにあっても侵犯せず、権勢のないものは、たとえ貴戚のものであっても、かならず侵辱した。法文をしいて適用して下層の悪人を罪に落とし、そのことによって、脛にきずのある権勢家をおびやかした。その中尉としての職分のつくしかたは以上のようであった。 太史公曰く、シッ都から杜周にいたる十人のものは、みな酷烈をもって評判になった。しかし、シッ都は剛直で、是非に照らして天下の大体を争い守った。張湯は智恵を働かせて帝の意のあるところを伺い、おのれの言動を帝の意にあわせた。また、時としては、ことの当否を弁じて当を堅持し、国家はそのために利便を受けた。趙禹は時には法に拠って正平を守った。杜周はへつらったが、言葉がすくなかったために重々しかった。張湯が死んでから後は、法網はますます細密で、官吏は人を誣いてまで厳酷に法を適用し、政事は次第に衰微した。九卿はただ碌々としてその官職を奉ずるだけで、過失のないようにと汲々としており、どうして法度以外のことなど論ずる暇があったろうか。しかし、この十人のうちで、廉潔なところは模範とするに足り、その姦悪なところは人の戒めにするに足りる。とにかく、方略を使い教導にあたり、一切の姦邪を禁止した。あきらかに文武の素質を兼備していたのであり、惨酷ではあったが、その地位にふさわしい人物であった。蜀の太守の馮当が暴強で人を挫いたり、広漢の李貞がほしいままに人の肢体を切り刻んだり、東郡の彌僕が鋸で人の首をひいたり、天水の酪璧が椎で撃って人を服罪させたり、河東のチョ広が妄りに人を殺したり、京兆の無忌や馮翊の殷周が毒蛇や猛禽のように苛酷であったり、水衡都尉の閻奉が人を撲殺したり、賄賂をとって罪を赦してやったりしたようなことは、数え上げるまでもないことだ。数え上げるまでもないことだ。 |