★習えば遠し 第1章 生活の中で学ぶ 第2章 生きる 第3章 養生ー心身 第4章 読 書 第5章 書 物
第6章 ことば 言葉 その意味は 第7章 家族・親のこころ 第8章 IT技術 第9章 第2次世界戦争 第10章 もろもろ

昭和45年暦

第9章  第2次世界戦争

WORLD WAR 

PEASE ON EARTH

目 次

01広田 弘毅氏 02いがぐり頭 03太平洋戦争開始の日
04温習と五省 05私も見たキノコ雲―新型爆弾が原子爆弾へ― 06終戦への道のり〜私の体験〜
07軍人らしさの印象 08知られたくない事実―戦時下― 09『井上成美』
10 原子爆弾雑話 11大久野島と毒ガス製造 12『チャーチル物語』
13京都哲学グループと海軍側との結びつき 1471年前の12月 15一人ひとりの大久野島
――毒ガス工場からの証言
16工藤 俊作海軍中佐 17治憲王(はるのりおう) 18戦艦武蔵
19幻の軍刀 20九大生体解剖事件 21統率力で難局を乗り切れ
見事だった先任将校の早期決断
22大平洋戦争戦史 23海軍兵学校の対番制度と
クラレのアドバイザー制度


01

広田 弘毅氏



城山三郎『落日燃ゆ』による。

はじめに

 昭和二十三年十二月二十四日(金)の昼下がり、横浜市西区のはずれに在る久保山火葬場では、数人の男たちが人目をはばかるようにしながら、その一隅の共同骨捨場を掘り起し、上にたまっている新しい骨灰を拾い集めていた。

 当時、占領下であり、男たちがおそれていたのは、アメリカ軍の目であったが、この日はクリスマス・イヴ。それをねらい、火葬場長と組んでの遺骨集めであった。

 やがて一升ほどの白っぽい骨灰を集めると、壺につめて、男たちは姿を消した。

 骨壺は男たちによって熱海まで運ばれ、伊豆山山腹に在る興亜観音に隠された。

 その観音は、中支派遣軍最高司令官であった松井白根大将が、帰国後、日中両国戦没将兵の霊を慰めるために建立したもので、終戦後の当時は、ほとんど訪れる人もなかった。骨壺を隠して安置しておくには、絶好の場所でもあった。

 骨壺の中には、七人の遺骨が混じっていた。

 土肥原賢二(陸軍大将、在満特務機関長、第七方面軍司令官、教育総監)
 板垣従四朗(陸軍大将、支那派遣軍総参謀長、朝鮮軍司令官)
 木村兵太郎(陸軍大将、関東軍参謀長、陸軍次官、ビルマ派遣軍司令官)
 松井石根(陸軍大将、中支派遣軍最高司令官)
 武藤章(陸軍中将、陸軍省軍務局長、比島方面軍参謀長)
 東条英機(陸軍大将、陸相、首相)
 そして、ただ一人の文官、
 広田弘毅(外相、首相)

 七つの遺骸は、その前日、十二月二十三日の午前二時五分、二台のホロつき大型軍用トラックに積まれて巣鴨を出、二台のジープに前後を護衛され、久保山火葬場へ着いたもので、二十三日朝八時から、アメリカ軍将校監視の下に、荼毘に付された。

 遺族はだれも立ち合いを許されなかった。それどころか、遺骨引き取りも許可されなかった。

 アメリカ軍渉外局は、

 「死体は荼毘に付され、灰はこれまで処刑された日本人戦犯同様に撒き散らされた」

 と発表した。アメリカ軍が持ち去った遺骨は、飛行機の上から太平洋にばらまかれたといううわさであった。狂信的な国粋主義者が遺骨を利用することのないようにとの配慮からだとされた。

 ただし、アメリカ軍は七人分の骨灰のすべてを持ち去ったわけでなく、残りは火葬場の隅の共同骨捨場へすてられた。男たちは、それをひそかに掘り返し、興亜観音へ隠したのであった。

 それから七年、昭和三十年四月になって、厚生省引揚援護局は、この骨灰を七等分し、それぞれ白木の箱に納めて、各遺族に引き渡した。

 だが、広田の遺族だけが、「灰は要りません」と、引き取りをことわった。

 すでに遺髪や爪を墓に納めてあり、だれの骨ともわからぬものを頂きたくないという理由からであったが、それは、表向きの理由でしかなかった。

 昭和三十四年四月、興亜観音の境内に、吉田茂の筆になる「七士の碑」が建てられ、友人代表としての吉田茂や荒木元大将はじめ遺族やゆかりの人約百人が集まり、建立式が行われた。

 だが、このときも、広田の遺族は、一人も姿を見せなかった。

 広田の遺族たちは、そうした姿勢をとることが故人の本意であると考えていた。広田には、ひっそりした、そして、ひとりだけの別の人生があるべきであった。せめて彼岸に旅立ったあとぐらい、ひとりだけの時間を過させてやりたい。

 たとえ、事を荒立てるように見えようと、心にもなく参加すべきではないと、考えていた。

 「日本は英雄を要しない。われわれは天皇の手足となってお手伝いすればよいのだ」

 と、外相時代、よく部下にいっていた広田。

 そうした広田にとって、死後まで英雄や国士の仲間入りさせられるのは、不本意なはずであった。

 広田は、背広のよく似合う男であった。

 「意外なことに、広田さんは洋服にやかましく、寸法とりや仮縫いにも、細かく注文をつけた。若いとき、ロンドンに居られたせいでもあろうが」

 と、部下の一人はいう。

 おしゃれというより、外交官としての役目上、そすべきだと、広田は考えたのであろう。

 ただ、広田をよく知る人にまで、「意外なことに」とことわらせたのは、広田がおよそ服装などに無頓着な茫洋とした人柄であり、片田舎の小学校長とでもいった朴訥な風貌の持ち主であったからである。

 広田は、平凡な背広が身についた男であった。軍服も、モーニングも、大礼服も、タキシードも似合わなかった。広田もまた、着るのをきらった。

 「おれに公使など、できるかなあ。宴会などしょっ中だし、困るねえ」

 はじめて公使としとてオランダへ赴任することになったとき、広田は外交官らしくもない弱音を漏らした、昭和二年(一九二七)五月、数え五十歳のときである。

 似た者夫婦というのか、七つちがいの広田の妻静子もまた、公使夫人として表に出ることがにが手であった。広田がタキシードぎらいなら、静子はそれに輪をかけた夜会服ぎらいであった。華やかに装ってパーティの女主人になることなど、考えるだけで頭痛がした。このため、静子は子供たちとともに日本にとどまり、広田は単身で赴任することにした。

 広田は、それまでにも、北京の駐支公使館での外交官補生活をふり出しに、三等書記官としての駐英大使館勤務、一等書記官としての駐米大使缶詰など、かなり長い在外公使館生活の経験がある。

 一国を代表する公使として赴任する以上、それに伴う社交生活ははじめから予想されたことである。

 外交官を志す者、華やかさに憧れてとはいわないが、華やかな社交生活の魅力をどこかに感ぜぬはずはない。モーニングやタキシードぎらいでは、外交官がつとまらぬ。広田のような弱音を吐くのは、例外であり、論外というべきかも知れない。

 こうした男が外交官になり、しかも、吉田茂はじめ同期のだれにも先んじて外相から首相にまで階段を上りつめ、そして、最後は、軍部指導者たちといっしょに米軍捕虜服を着せられ、死の十三階段の上に立たされた。

 広田の人生の軌跡は、同時代に生きた数千万の国民の運命にかかわってくる。国民は運命に巻きこまれた。

 だが、当の広田もまた、巻きこまれまいとして、不本意に巻き添えにされた背広の男の一人に他ならなかった。

 その意味で、せめて死後は、と同調を拒み通す広田の遺族の心境は、決して特異なもではなかったはずである。


 極東裁判における広田の対処 沈黙を守る

 満州事変〜日中戦争の一連の事変(戦争)について法廷は共同謀議(conspiracy)の観点で判断している。七人:土肥原賢二(陸軍大将)・板垣征四郎(陸軍大将)・木村兵太郎(陸軍大将)・松井石根(陸軍大将)・武藤章(陸軍中将)・東条英機(陸軍大将、陸相、首相)・そして、ただ一人の文官広田弘毅(外相、首相)の絞首刑(十三段階を上りつめてのdeath by hanging):昭和二十三年十二月二十三日(木)午前零時二十分・・・約四十五年前。風化されている。


▼福岡市の石屋の息子として生まれた。「丈太郎」と親から命名されたが、中学卒業と同時に、広田は名を「弘毅」とあらためた。好きな論語の一節、「士は弘毅ならざるべからず」からの命名であったが、それは、外交官 として生きようとする自分自身にその姿勢をいいきかせるための改名であった。
 親のつけてくれた丈太郎という名をすてるのは、孝行息子の広田としては辛いことであったが、それ以上に、広田は思いつめていた。
 改名できるのは僧籍に入る場合だけに許されたので、広田は参禅していたお寺の住職にたのみ、一時、僧籍に入ることまでした。おとなしいが、思いこんだら、そこまで徹底してやる性格であった。(獄中にあるとき、親がつけてくれた名前を変えたのを少し悪かったような心境を述べている)

▼広田弘毅(外交官・外務大臣・首相・重臣)の人格、信条:「自ら計らず」「物来順応」。外交官も国士である。外交官は外交官としての役割を果たせば、それで十分。むしろ、栄誉や恩賞と無縁でありたい。そういうものがついて回れば、わずらわしくもある――。オランダ公使にでたとき、これから三年オランダに出ることは、そのまま外交官の終着駅に滑りこんで行くことになりそうであった。だが、広田の心境はさらりとしたものであった。広田は、一句詠んだ。

風車、風の吹くまで昼寝かな

▼この本を読み、広田の心境から次々と『論語』の文言やその他の言葉が思い出された。

 「曾子曰く、士は弘毅ならざる可からず。任重くして道遠し。仁以て己の任と為す。亦重からずや。死して後に已む。亦遠からずや。」

 「子曰く、学びて思はざれば則ち罔(くら)し。思ひて学ばざれば則ち殆(あやうし) 。

 私には「明日は明日の風が吹く」「不将不逆(ふしょうふぎゃく)」などの生き方が広田氏の心情に秘められていたと感じました。

平成十六年四月二日


★補足1:元駐米大使で外交評論家の加瀬俊一氏が故広田弘毅氏のもとで、外国との会議の通訳をされたときのことです。広田氏は、相手の長口上を聞き流しておいて、
 「風、疎竹に来る。風過ぎて竹に声を留めず―――それだけ訳してください」と言われたので加瀬氏は驚きました。
 外交交渉冒頭の発言としては、異例であったからです。
 このときも、何かを信ずるところがあって『菜根譚』の句を引いたのでしょうが、氏の従容とした最期を思うとき、この句はとくに印象に残ります。

松原泰道『禅語百選』P.34

「風、疎竹に来る。風過ぎて竹に声を留めず」の言葉の後に「雁、寒潭(かんたん)を度(わた)る。雁去りて潭の影を留めず。故に君子事来たりて心始めて現る。事去りて心随って空(むなし)し」と続く。

平成十八年四月二十九日


★補足2:A級戦犯、広田元首相の遺族 「靖国合祀合意してない」
 「東京裁判でA級戦犯として起訴、処刑された広田弘毅元首相が靖国神社に合祀(ごうし)されていることについて、孫の元会社役員、弘太郎氏(67)が朝日新聞の取材に応じ、「広田家として合祀に合意した覚えはないと考えている」と、元首相の靖国合祀に反対の立場であることを明らかにした。靖国神社は、遺族の合意を得ずに合祀をしている。処刑された東条英機元首相らA級戦犯の遺族の中で、異議を唱えた遺族は極めて異例だ。」と朝日新聞は報道している。

平成十八年七月二十七日


★補足3: 著者の城山三郎氏が平成十九年三月に逝去された。
 平成十九年三月二十七日付の朝日新聞に、五木寛之(作家)が「ある時代の終わり」の題目で書かれていた。
 城山さんの訃報をきいて、最初に感じたのは、一つの時代が終わったな、ということだった。
 その「時代」とはどういうものか、とたずねられても、簡単明瞭にに答えようがない。漠然とした表現をすれば、経済活動に志がともなっていた時代、とでも言えようか。
 経済だけではない、政治も、教育も、そしてジャーナリズムも、すべての分野でいま何かが失われつつあるような気配がある。城山さんの死は、まさにそのような喪失を告げる合図のように、私には感じられたのだ。(中略)
 城山さんが国からの褒章を辞退したときの話を、旅先のバスの中でしたことがあった。
 「いやあ、なんとなくね。そんな大した理由もなかったけど」
 と、そのとき城山さんがバスの窓から外の景色を眺めながらつぶやいたことを、ふと思い出す。(後略)。
 同世代の私にも、同じような気持ちが底流にあるのを感じながら、短い文章だが読むことができた。

平成十九年三月二十七日


★補足4:A級戦犯として裁きの庭に立たされた時、広田は心中ひそかに決意した。
<人間、喋れば、必ず、自己弁護が入る。結果として、他の誰かの非を挙げることになる。検察側が、それを待ち受けている以上、一切喋るまい

 そして、それを実行した。

 そんな広田に検察側は、とことん手こずらされた。

 ネイサン次長の如きは「日米ギャングの知能テストでは、日本の国際的ギャングたちが二人の例外を除いて、アメリカのギャングたちに劣る。二人以外は、すべて検事の誘導訊問にひっかかった」とキーナン主席検事に報告している。  「その手ごわい例外とは誰か」と問われたのに対して、ネイサンは次のように答えている。

 「東条英機と広田弘毅です。二人とも日記をつけていません。日記は継続を以て前提とします。したがって、死を覚悟した人間は日記をつけないものです。また、二人とも質問しない限り、決して答えません。これは、こちらが彼のかくしたい事実を知っていなければ絶対にひき出せないことを意味します

 さらに戦犯容疑者たちは、それぞれの手づるを探して弁護人の依頼にやっきとなったが、広田は「弁護士はいらない」といった。

 「それでは裁判が成り立たず、他に迷惑をかけますよ」といさめられて、ようやくに承知した。

 もう一つの事実は、十三階段に登るその日のことであった。

 仏教学者の花山信勝が広田に面接して、

 「歌か、あるいは詩か、感想か、何かありませんか」ときくと、「公人として仕事をして以来、自分のやったことが残っているから、いまさら、申し添えることもありません」と答えている。

 あまりのそっけなさに花山が「でも、何か、御感想がありはしませんか」と重ねてきくと、「何もありません。ただ自然に死んで・・・」とそこで言葉を消した。

   花山が<ここぞ!>とばかりに「ほかに何か・・・」とくいさがると、広田は独白(ひとりごと)のようにつぶやいた。

 「すべて無に帰す。それでいいじゃありませんか。いうべきことは言い、やるべきことはやって、そして、つとめを果たす。そういう人生を貫いてきた自分ですから、いまさら、何もいうことはありません」

 花山は浄土真宗の僧侶だった。広田のこの境地は「禅によるものですか」ときくと、広田は「禅に近い」と答えただけだった。

伊藤 肇『現代の帝王学』(講談社文庫)

平成十九年四月二十六日


★補足5:靖国合祀 氏名削除認めず

 戦没者の遺族らが、親族の氏名を合祀にかかわる名簿から削ることなどを靖国神社と国に求めた訴訟で、大阪地裁は原告敗訴の判決を言い渡した。「敬愛追慕の情」に基づく人格権が侵害されたと訴えたが、認められなかった。

朝日新聞


★補足6:

 現在、城山三郎『落日燃ゆ』を読み返しています。

 日中衝突事件が昭和12年であった。私は小学校生だった。

 この本でそれ以前の日本国内の歴史を改めて知ることができました。私ども国民はその流れの中に巻き込まれてきて、昭和二十年の終戦を迎えたのだと再確認された。ときに、こんな本を読み、自分に近い時代がどんな動きであったのかを知り、いまを考えることの大事さを自覚させられた。

平成二十六年四月十九日


★補足6:

 城山三郎 シロヤマ・サブロウ

(1927-2007)名古屋生れ。海軍特別幹部練習生として終戦を迎える。一橋大学を卒業後、愛知学芸大に奉職し、景気論等を担当。1957(昭和32)年、『輸出』で文学界新人賞を、翌年『総会屋錦城』で直木賞を受賞し、経済小説の開拓者となる。吉川英治文学賞、毎日出版文化賞を受賞した『落日燃ゆ』の他、『男子の本懐』『官僚たちの夏』『秀吉と武吉』『もう、きみには頼まない』『指揮官たちの特攻』等、多彩な作品群は幅広い読者を持つ。2002(平成14)年、経済小説の分野を確立した業績で朝日賞を受賞。 

 東京裁判で絞首刑を宣告された七人のA級戦犯のうち、ただ一人の文官であった元総理、外相広田弘毅。戦争防止に努めながら、その努力に水をさし続けた軍人たちと共に処刑されるという運命に直面させられた広田。そしてそれを従容として受け入れ一切の弁解をしなかった広田の生涯を、激動の昭和史と重ねながら抑制した筆致で克明にたどる。毎日出版文化賞・吉川英治文学賞受賞

平成二十八年十一月二十日


02

いがぐり頭


 「いがぐり頭は何に?」と、返事ができないか、或はスポーツ選手の中にいるよと、こたえる子供もいるのではなかろうか。

 今は、小学生でもほとんどか非常に少ない。昭和の初めの子供はもちろん、中学生、戦時中では大人でもそうだった。私が中学時代の旧制高校生には、長髪のざんばら髪の学生も見られた。

▼小学生の頃は、陽当たりの好い昼下がり日を選んで、母が縁側でエプロンで体をつつみバリカンでいがぐり頭にしてくれた。嫌でいやでたまらなかった。そのわけは、遊びにでられないことと、虎刈りにされることが多くて、時にはバリカンに毛が挟まれて痛い目にあわされていたからだと思う。どちらかといえば遊びの時間帯の三十分位がじっとしているのがたまらなかったのかもしれない。

▼中学に入ると、校則で丸坊主。近所のきまった理髪店でお世話になった。そのおじさんは人がよく、親切だったので社会人になっても時折、顔をのぞかせていたほどである。

▼海軍の学校に入っても同じ。しかし、散髪にかかる時間は五分くらいであった。理髪所が少し暇なときには私の頭に3人がかりのバリカンでサッと刈り上げてしまう。顔剃りはなかった。料金は五銭。料金箱は入り口に置かれていて、受け取りの人はいなくて、出て行くときに自分で支払うのである。あいにく五銭を持っていなければ、例えば一円を入れて、その差額のお釣を取ることは許されなかった。英国式の紳士(ゼントルマン)の養成の意図があったのだろう。

▼当時、この学校の教官は軍人と文官であったが、ほとんどの方は同じく坊主頭であった。しかし、今でも記憶に残っている中佐(現在の海上自衛隊の二佐にあたる)だけは長髪であった。食事は教官と生徒が同じ食堂で、教官は生徒の食卓より一段と高いところにあり生徒全員から見られた。その教官は山本中佐。お名前も記憶に残っているほど当時の私には奇異に感じるとともに、なんと、こんな戦時一色で、町の大人もカーキ色の国防服を着ている世情の中で、海軍にはまだ自由がのこっているのかと、正直なところ複雑なきもちであった。

▼終戦後は皆さん長髪へと徐々にとかわった。私も復員して学校にはいって皆さんと同じ道をたどった。
会社に勤務しても同様、今ほど長髪ではなくて整髪といえる。毎月一度くらいの割合であった。時代が移り、髪の長さも段々と長くなり、月に一回が二〜三カ月に一度の者が多くなり、理髪店の財布は苦しくなっているようだ。

▼定年退職して何年かすると、若い頃のふさふさした髪の毛も少なくなり理髪店であたってもらっているとき、

 冗談に「髪もすくなくなったので手間もかからないでしょう」といったところ、
 ご主人のいわく。「少ない髪をいかにふっくらと仕上げようと、かえって難しい。」と反論された。

▼今は家内が月に一度、ジグザグ鋏(正式な名前は知らない)で、刈り取ってくれている。髪形が総体的にさまざまなのが幸いしてそれほど気になるようなこともないのが救いである。

平成十七年四月二十九日


03

太平洋戦争開始の日


 平成17年12月8日の新聞を見る。朝日新聞の社説には「真珠湾だけではない」と取り上げられ、コラム「天声人語」にも真珠湾攻撃について触れていた。

▼昭和16年(64年の昔)12月8日(月:ハワイ時間12月7日:日)、太平洋戦争が開始された日は、私は中学校2年生であった。当日は非常に寒かった、国防色(カーキ色)の制服(夏・冬同じもの)、帽子を着用して、両足には巻脚絆(ゲートルといわれていた)を巻きつけて学校へ登校していた。戦争開始の記憶は時刻・場所が頭のカンバスに描かれている。7時半ころであった。町の人たちがアメリカと戦争が始まったと興奮気味に話していたので開戦を知った。

 ついに戦争になったのかと緊張が身を引き締める思いをしながら学校へと。今後どう進行するのかは知るすべもなく、真珠湾攻撃が成功したのは確かである。

▼最近、槇 幸『潜水艦気質 よもやま物語 』副題は「知られざるドン亀生活」(光人社NF文庫)を読んだ。中学から海軍兵学校に入った私は潜水艦乗りになりたい願いを持っていたことがあったので、参考になることが多い本である。
 著者は大正8年生まれで、昭和11年:日支事変(当時の呼称)の1年前、横須賀海兵団に入団、昭和16年、伊25潜に乗り組みハワイ、東南作戦、米本土砲撃作戦に参加。呉にて終戦を迎える。海軍兵曹長。

▼著者たちの潜水艦:伊25潜は、昭和16年12月4日から毎日、日の出前に潜行し、おそい船足ながらも真珠湾口の配備点に急ぐ。(中略)オアフ島の背後の海底に潜航した。12月7日のことである。役目は、明日、航空部隊の奇襲攻撃によって真珠湾から脱出する敵艦を待ち伏せて攻撃するのである。

 そのためには、あらゆる機能を完全に活用しなければならない。聴音機も探信機も、そしてもっとも重要な魚雷の攻撃を成功させなければいけない。(中略)12月8日、夜明け前に潜航して、満を持して配備点につく。なにがなんでも奇襲攻撃が成功してほしいと祈るばかりであった。

 人間の運命は紙一重、どちらに神がくみするか? あと数分後にはこの裁定が下される。艦内にまつられた神棚には、新しい榊tこ灯明がそなえられてローソクの灯がゆらめき、乗員は順次に祈りを」ささげた。

 世紀の大決戦の幕は未明に切って落とされた。艦内は総員配置につき、戦闘態勢につく。われわれ聴音科も全員が聴音機につき、レシーバーに全神経を傾注して、水中の音源はなにひとつのがすものかと気負いたつ。

 艦は無音潜航をおこなう。つまり、艦内から発する一切の音響をさけ、歩くにも忍び足、かわす話も、ひそひそと気をつかう。

 一般の乗員は配置についたまま、決行の時をいまか今かとかたずをのんで待っている。先任将校も、掌水雷長も、みんな聴音室に入ってきて、静かに、

 「様子はどうか」と肩をたたく、気がもめるのだろう。

 そうするうちに、かすかに爆発音が聞こえてきた。

 「司令塔、爆発音が入ります。戦闘が開始されました」

 「どれどれ聞かしてくれ」

 時に午前八時十五分。やがて、聴音室以外にまで爆発音の轟きが聞こえるようになった。(後略)。

 真珠湾に殺到する航空部隊の爆発音が聞こえてくると、

 「やったぞ」

 「大成功だ。敵艦全滅か?」

 万歳の声が期せずして艦内にわき起った。奇襲の時刻まで、敵に発見されなかったのだから、当然敵は不意打ちをくったことになる。まさしく成功したことである。

 「さあ、いよいよわれわれの出番だ」

 騒音にもいっそう真剣味がくわわる。空襲をのがれて遁走する艦艇が出てくれば、一発必中、とどめを刺そうと、手ぐすねを引いて待ちかまえる。

 空と水中から攻撃し、追い出された獲物を出口で待ち伏せして、しとめる戦法、これは、じつに素晴らしい完璧な撃滅法であると驚いたものだ。

 それも、一部の艦隊の行動ではない。日本の主力艦隊の大作戦である。

 よくもこの計画が敵にもれずに進められたものである。まったく神の加護としか考えられなかった。
▼戦果は皆さんご承知のとおりである。

 真珠湾攻撃では航空部隊、特殊潜航艇の九軍神の報道ばかりだったが、湾口に非常に多くの潜水艦まで配備しての緻密な総合計画が練られていたかを知り乾坤一擲の海軍の作戦には率直に驚かさせられた。

 資料によると昭和16年12月8日、開戦時にはハワイ方面に第1、2、3潜水戦隊の30隻が配置されていた。

▼次にこれまで私の知らなかったことは米本土西岸のオレゴン州付近の潜水艦による森林爆撃である。潜水艦の搭載機は、偵察専門のもので、爆弾を搭載する設備はなかった。その後、爆弾搭載設備をつけることになった。そして米国本土への爆撃が成功しているのである。

▼「一蓮托生の信条が自然と身につき、家族的な雰囲気なのが潜水艦乗りだった。つまり、撃沈されれば艦長も兵も一人残らず一緒に死んでいくのをおのずから悟っているから、乗員はじつに屈託がない、他の軍人たちから見ると、それは驚きのようだった。

 また潜水艦の行動は単独行動であり、敵中の海底だから、その最後は永遠に知られずに暗黒の奥深く埋もれてしまう定めであった。家族の者にも何という艦に乗っているのかさえ知らされなかった。(後略)。」あとがきの文章から。

 私はこの文章につよく引かれるものがあります。

 大部分はこの本の記載を使わせていただいたことに対してお許しを願います。

 戦争の意義などを述べたものではありませんが、当時の記録として残したいとの思いで取り上げました。


 安倍晋三首相が12月5日、平成28年末に米ハワイを訪れ、真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊すると表明した。
 今年5月に米大統領として初めて被爆地・広島を訪れたオバマ大統領と、最後となる首脳会談も現地で行う。トランプ次期政権への交代前に、先の大戦の和解を両首脳で訴え、日米協調を国際社会にアピールする考えだ。         

 首相、真珠湾訪問へ 26・27日、オバマ大統領と慰霊

 安倍首相 「真珠湾を訪問したい」

 オバマ大統領 「あなたにとって、強いられるものであってはならない」

 日本政府関係者によると、11月20日に両首脳は訪問先のペルー・リマで約5分間言葉を交わした際、こんなやり取りを経て真珠湾訪問で合意したという。

 首相周辺は、今回の訪問について「オバマ政権とのけじめだ」と説明する。核なき世界を訴えてきたオバマ氏とともに、日米にとって先の大戦の象徴となる地で平和を訴えることに意義があるとの指摘だ。発表は日米が同時に、真珠湾攻撃があった12月8日の直前とすることにした。

 安倍首相による真珠湾訪問は2012年末の第2次安倍政権の発足以来、何度も取りざたされてきた。

 戦後70年の節目だった昨年4月、訪米した首相はワシントンの米議会上下両院合同会議で演説し、先の大戦への「痛切な反省」に言及。日本軍の攻撃で多数の米兵が犠牲となった真珠湾などの戦場に触れ、「先の戦争に斃(たお)れた米国の人々の魂に深い一礼を捧げます」と訴えた。

 今年5月、オバマ氏が広島訪問を表明した際も、一部メディアが「首相が真珠湾訪問を検討」と報じた。ただ首相は当時、広島訪問前にオバマ氏と臨んだ共同記者会見で、日米同盟の重要性を指摘しつつ「現在、ハワイを訪問する計画はない」と否定した。一方、首相夫人の昭恵さんが8月下旬、ハワイの真珠湾攻撃の追悼施設「アリゾナ記念館」を訪れたことから、「首相も続いて訪問するのでは」との臆測を呼んだ。

 これまで真珠湾訪問が実現しなかった背景には、両首脳がともに日米戦争の象徴的な地を訪れることで、かえって両国内のナショナリズムを刺激し、日米関係にマイナスの影響を与えかねないとの判断があったとみられる。

 実際、13年末に靖国神社を参拝した安倍首相に対して、米国内では戦後の歴史を塗り替えようとする「歴史修正主義者」との批判が生じた。一方の安倍首相には「民間人もまとめて標的になった広島と、軍事施設を対象にした真珠湾は同列に扱えない」との思いもあった。

 トランプ次期米大統領の登場も、首相の真珠湾訪問を後押ししたようだ。日本政府内では「トランプ氏に平和色は薄いので、トランプ政権になれば真珠湾訪問は絶対に実現しない。駆け込みでもいま行かないと、首相が在任中に達成できない」(首相周辺)との見立てがあった。

 オバマ政権が慎重な対応を求めたにもかかわらず、首相が11月、大統領就任前のトランプ氏と異例の会談を行ったことも影響したとみられる。トランプ氏との会談後、直後に訪れたリマではオバマ氏と正式な会談が設定できなかった。日本政府としては、オバマ氏との関係を崩したまま、トランプ政権に移行するのは避けたいとの判断も働いた。

 首相は5日、真珠湾訪問を発表した後、周辺に語った。「これで『戦後』が完全に終わったと示したい。次の首相から、『真珠湾』は歴史の中の一コマにした方がいい」

     ◇

■オバマ氏、最後のレガシー

 「2人の指導者のハワイ訪問は、過去の敵国を、共通の利益と価値の共有により、最も親密な同盟関係に転換させた和解の力を示すことになる」

 ホワイトハウスは5日早朝に声明を出し、安倍首相の真珠湾訪問を歓迎した。さらに「過去4年間、日米同盟を強化してきた相互努力を再評価する機会になる」と述べた。

 ニューヨーク・タイムズ紙も「安倍首相が真珠湾を訪問。これまで攻撃された施設を訪れた日本の指導者はいない」と速報した。

 「核なき世界」を目指したオバマ大統領は5月、国内の根強い批判がある中、現職大統領として初めて広島訪問を実現させた。謝罪と見られないよう振る舞ったが、トランプ氏から当時、「オバマ大統領は、真珠湾への奇襲攻撃を議論しないのか。何千もの米国人が命を落としているんだ」などと批判を受けた。

 米国側には、直後から安倍首相の真珠湾訪問を望むべきだとの声があった。

 オバマ氏が広島を訪問する際、ホワイトハウスのローズ大統領副補佐官は、安倍首相の真珠湾訪問について「大統領の広島訪問の決定とはリンクしない」としながらも、「歴史を認識し、正面から直視し、歴史に関する対話の重要性を信じている。すべての指導者がそれをどのように行うか、自身で判断しなければならない」と強調、期待感を示していた。

 特に今年は、真珠湾攻撃から75年という節目の年にあたる。ハワイはオバマ氏の生まれ故郷でもある。

 来年1月に任期が終わるオバマ氏は自らの広島訪問で「核なき世界」と「日米和解」の一つの節目にし、アジア重視政策の集大成にしたいとの思いがある。

 トランプ氏が、オバマ政権で取り組んだイランとの核合意など「オバマ外交」を否定する発言を繰り返す中、オバマ氏としては、安倍首相の真珠湾訪問を「レガシー(遺産)」の一つに加えたい格好だ。

 オバマ氏も日米和解の環境整備を進めていた。昨年2月にはハワイのホノウリウリ日系人収容所跡地を国定史跡に指定すると発表。ここは第2次世界大戦中、4千人を超える日系アメリカ人や戦争捕虜が強制抑留された。オバマ氏は演説で「過去の失敗を繰り返さないよう、我々の歴史の苦痛を伴う部分を史跡にしたい」と訴えた。

 国務省幹部はこう語っていた。「オバマ大統領が広島訪問し、安倍首相が真珠湾を訪れる。これによって、本当の『日米和解』が実現する」

     ◇

■安倍首相の発言全文

 今月26、27日、米国ハワイを訪問し、オバマ大統領と首脳会談を行う。この4年間、大統領とはあらゆる面で日米関係を発展させ、アジア太平洋地域、世界の平和と繁栄のためにともに汗を流してきた。

 先のオバマ大統領の広島訪問に際しての、「核なき世界」に向けた大統領のメッセージは今も多くの日本人の胸に刻まれている。ハワイでの会談は、この4年間を総括し、未来に向けてさらなる同盟強化の意義を世界に発信する機会にしたい。

 これまでの集大成となる最後の首脳会談となる。そして、この際、オバマ大統領とともに真珠湾を訪問する。犠牲者の慰霊のための訪問だ。二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない、その、未来に向けた決意を示したい。同時に、日米の和解の価値を発信する機会にもしたいと考えている。

 今や、日米同盟は、世界の中の日米同盟として、日米ともに力を合わせて世界の様々な課題に取り組む希望の同盟となった。その価値、意義は、過去も現在も未来も変わらない。このことを確認する意義ある会談となると思う。

 昨年、戦後70年を迎え、米国議会で演説を行い、私の、70年を迎えての思い、考えについて発信した。その中で、真珠湾を訪問することの意義、象徴性、和解の重要性について発信したいとずっと考えてきた。同時に、オバマ大統領との4年間を振り返る首脳会談も行えればと考えてきた。11月20日のリマで会談した際、12月に会談を行おう、そしてその際に2人で真珠湾を訪問しよう、と確認し、合意した。

     ◇

■この4年間の日米関係

2012年12月 第2次安倍政権が発足
2013年01月 オバマ米大統領が2期目に就任
2013年02月 安倍晋三首相が訪米、ワシントンでオバマ大統領と初の首脳会談
2013年12月 安倍首相が靖国神社参拝。在日米国大使館が「失望している」と声明発表
2014年03月 オランダでオバマ大統領の仲介により日米韓首脳会談を開催
2014年04月 オバマ大統領が来日、安倍首相と首脳会談
2015年04月 安倍首相が訪米、ワシントンで首脳会談。首相は米議会上下両院合同会議で日本の首相として初めて演説
2015年08月 安倍内閣が戦後70年の首相談話を閣議決定。「痛切な反省」「心からのおわび」などの文言盛りこむ
2016年05月 主要7カ国(G7)首脳会議(伊勢志摩サミット)。終了後、オバマ大統領が広島訪問
2016年11月 米大統領選でトランプ氏勝利
2016年11月 安倍首相が米ニューヨークを訪問し、主要国首脳として初めて勝利後のトランプ次期米大統領と会談

初書き:平成十七年十二月十三日。平成二十二年十二月七日に読み返す。六十九年前の記憶が甦る。平成二十八年十二月八日:75年前大平洋戦争開始の日を祈念して

参考1:大平洋戦争の開始は、周到な計画での真珠湾攻撃は大成功であった。この成功の裏には九軍神(海兵68期)がいるが、捕虜になった酒巻少尉がいた。この攻撃をアメリカの謀略だという説もある。また真珠湾の最高責任者は降格され、その不名誉は戦後になっても回復されていないとのことである。

 このようにして、大平洋戦争でみられる展開をして、決定的な広島・長崎への原子爆弾投下が一気に敗戦を1945年:昭和20年8月15日となた。

 時は流れ流れて、2016年12月、71年経過して、安倍首相が真珠湾を退任を翌年に控えたオバマ大統領ともども真珠湾を訪問することになった。

 【ワシントン=川合智之】オバマ米大統領は1941年12月7日(現地時間)の旧日本軍による真珠湾攻撃から75年にあたる7日、声明を出した。「最も激しい敵でさえも最も緊密な同盟国になれることの証しとして、今月下旬に安倍晋三首相とアリゾナ記念館を訪れるのを楽しみにしている」と述べ、「この歴史的な訪問は和解の力の証拠だ」と強調した。

 オバマ氏は声明で「75年前の今日、突然のいわれのない攻撃により、平穏な港は火の海になった」と指摘。「75年前からは想像できない同盟で結ばれた日米が手を取り合い、世界の平和と安全のために取り組み続けることの証明」と称賛した。

 首相は26、27日にハワイを訪問し、オバマ氏とともに真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊する。オバマ氏の5月の広島訪問と合わせ、両首脳が相互に第2次大戦の象徴的な戦地を訪問することで、両国の和解と同盟の強固さを改めて確認する。両首脳が訪れるアリゾナ記念館はオアフ島にある慰霊施設で、真珠湾攻撃で海底に沈む戦艦「アリゾナ」の上に建設された。

参考2:真珠湾攻撃


 真珠湾の和解、日米同盟深化 歴史に区切り 2016/12/29 0:53「日本経済新聞 電子版

【ホノルル=地曳航也】安倍晋三首相は27日(日本時間28日)、オバマ米大統領とともに旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊するアリゾナ記念館を訪れた。両首脳はその後にそろって演説し、日米が戦争を乗り越えて強固な同盟を築いた「和解の力」を強調。首相は不戦の誓いも新たにした。過去の歴史に区切りをつけ、トランプ次期米大統領に深化した日米同盟を引き継ぐ狙いがある。

 「ここパールハーバーでオバマ大統領とともに世界の人々に訴えたいもの。それは和解の力だ」。首相は約17分間の演説を「和解の力・The Power of Reconciliation」と銘打った。

 真珠湾で始まった太平洋戦争。激しく敵対した過去を乗り越え「歴史にまれな深く強く結ばれた同盟」になったのは「和解の力」と指摘した。演説で選んだ言葉には、中国や韓国、ロシアなど過去の問題を引きずる国々と関係を改善したいとの首相の気持ちも透けて見える。

 「戦後の総決算をしたい」。首相は5日、真珠湾訪問を表明する直前の自民党役員会で語っていた。戦争を巡る各国との歴史認識のズレはしばしば戦後の日本外交の足かせとなってきた。過去の清算に人的資源と時間を割かれ、未来志向の外交を展開できないとの思いがあったようだ。

 米国が「奇襲」とする真珠湾攻撃と、米国の広島と長崎への原爆投下は、日米にとって長くわだかまりだった。5月にオバマ氏が現職米大統領として初めて広島を訪れたことで、首相の真珠湾訪問の機が熟した。首相周辺は「開戦の地で和解の力を示した。これでthe very end(最後の最後)だ」と語った。

 広島、真珠湾を首脳がそろって訪問した日米関係。日本が同様に中韓との歴史問題に区切りをつけ、安定的な2国間関係を築けるようになれば、米国の安全保障戦略にも恩恵が出てくる。オバマ氏は演説で「この地への訪問は、日米の和解と結束の力を示す歴史的な行動」とたたえた。「和解の力」の重要性で足並みをそろえた。

 首相は「戦争の惨禍を二度と繰り返してはならない」と述べ、不戦の誓いを「不動の方針」と強調した。一方、今回の演説では「謝罪」には言及せず、2015年の米上下両院合同会議演説や戦後70年談話で用いた「反省」「悔悟」などの単語も盛り込まなかった。

 昨年に示した戦後70年談話では首相は「戦争には何らかかわりのない子や孫、その先の世代の子どもたちに謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」と、過去との区切りを訴えていた。首相周辺は「今回は米議会演説と70年談話とのシリーズだ。過去に国の進路を誤った反省は既に示した。未来に焦点を当てた」と語る。

 首相が演説で強調したのは米国の「寛容な心」への感謝だ。「日本が戦後再び国際社会に復帰する道を開いてくれた。米国のリーダーシップのもと、自由世界の一員として私たちは平和と繁栄を享受できた」と語った。

 演説に先立つオバマ氏との最後の首脳会談では、日米同盟をさらなる高みに引き上げると一致した。同盟国との関係見直しに言及するトランプ次期米大統領の就任は来年1月20日。未来志向で深化した日米同盟を引き継げるかが焦点だ。

2016.12.29 89歳


 内閣支持率64%に上昇 真珠湾慰霊「評価」84% 本社世論調査
2016.12/29 23:03 日本経済新聞 電子版

 日本経済新聞社とテレビ東京は28、29両日、安倍晋三首相とオバマ米大統領が米ハワイの真珠湾を訪問し慰霊したことを受け、緊急世論調査をした。安倍内閣の支持率は64%と11月下旬の前回調査から6ポイント上昇した。2013年10月以来、3年2カ月ぶりの高い水準となる。真珠湾訪問を「評価する」と答えた人は84%で、内閣支持率を押し上げる要因になった。

 内閣不支持率は26%で4ポイント低下した。年代別でみると、内閣支持率は30代で約8割、40代で約7割、60代や70歳以上は約6割だった。男女別では、内閣支持率は男性が4ポイント上昇の65%、女性が9ポイント上昇の63%。男性と比べて低かった女性の支持が伸びた。

 安倍首相の真珠湾訪問と慰霊を「評価する」は84%で「評価しない」の9%と比べて圧倒的に多かった。評価すると答えた人は、内閣支持層で92%、内閣不支持層でも69%に達した。

 政党支持率は自民党が44%で最も多く、特定の支持政党を持たない無党派層が31%で続く。いずれも前回を1ポイント下回った。民進党は2ポイント低下の7%で低迷している。

 調査は日経リサーチが28、29日に全国の18歳以上の男女を対象に、携帯電話も含めて乱数番号(RDD)方式による電話で実施。937件の回答を得た。回答率は44%。

2017.01.01


04

温習と五省


 海軍兵学校の先輩(1930年=昭和5年に入校)の書かれた本を読んでいると、生徒館(生徒が起居・自習する建物)の自習室(私は1944年入校)を「温習室」と記録されていた。

自習と温習の意味の違いはあるのだろうか。
ある漢字典で「温」の字を調べると、「凡そ事の巳に過ぎて重ねて之を理するを温という。中庸、「温故而知新。」

参考:宮崎市定『論語の新研究』には論語の冒頭の章 「子曰く、学んで時に之を習う。亦た悦ばしからずや。朋あり、遠方より来る。亦楽しからずや。人知らずして慍(いきど)おらず。亦君子ならずや。」
 その説明:「子曰く、(禮を)學んで、時をきめて(弟子たちが集まり)温習(おさらい)会をひらくのは、こんなたのしいことはない。朋が(珍しくも)遠方からたずねて来てくれるのは、こんなうれしいことはない。人が(自分を)知らないでもうっぷんを抱かない。そういう人に私はなりたい。」と。
▼温習はすでに古語廃語になっているのかと思い調べると「温習会」という言葉は、インターネットで検索するといまだに多く使われていることをしる。

▼「五省」については、この先輩の時代は、兵学校生徒が朝夕斉唱する「五省」は猪口大尉の作であり、実践躬行の結果とみなされていた。私の時代には夜の自習時間が終わると、最上級生徒の当番が一節唱えて全員がその項目を反省して、しばらくすると次の節を唱えるのを繰り返し、全部が終わると、自習の終わりとなり寝室へと急いだものだ。時代の流れによってその要領は変化しているが「五省」そのものは現在まで連綿として引き継がれている。

参考:五省に詳しく五省について説明されています。

 五(ご) 省(せい)

 一、 至誠(しせい)に悖(もと)るなかりしか(真心に反する点は、なかったか)

 一、 言行(げんこう)に恥(は)ずるなかりしか(言行不一致な点は、なかったか)

 一、 気力(きりょく)に缺(か)くるなかりしか(精神力は十分であったか)

 一、 努力(どりょく)に憾(うら)みなかりしか(十分に努力をしたか)

 一、 不精(ぶしょう)に亘(わた)るなかりしか(最後まで十分に取り組んだか)

 「これが採用されたのは昭和7年で、当時の海軍兵学校長松下元少将の発案によるものである。」と記述されているが、作者については触れていない。
 海上自衛隊幹部候補生学校でも海軍時代の伝統を受け継ぎ、学生たちは兵学校時代と変わらぬスタイルで毎晩自習終了後、五省により自分を顧みて、日々の修養に励んでいるという。

*第76期教官書である。

平成十七年十二月十六日

※五省の英語をしりました。

 INPERIAL NAVAL ACDEMY 
   FIVE REFLCTIOS

1 Hast thou not gone against sincerity?

2 Hast thou not felt ashamed of the words and deeds!

3 Hast thou not lacked vigor?

4 Hast thou not exerted all posible efforts?

5 Hast thou not become slothful?

平成二十六年七月六日


05

私も見たキノコ雲―新型爆弾が原子爆弾へ―


 ピカッ、ドン、ガタガタ、振動する窓ガラス。一瞬、火薬庫の爆発だ、安全地帯に逃げなくては。海軍兵学校西生徒館の湯飲み場から、カッターをつり上げているダビットの海岸線に向って飛び出す。江田島の古鷹山の裏側にある火薬庫の大爆発か。北の空を見る、それらしい形跡はない。西の方に目を向ける、広島市の中空あたりに浮かぶキノコ状の雲が私の目に焼きついた。私のみたものは、米軍機が撮影の写真より時間が遅いからこれよりかなり上部に、まったくキノコの形をしていた。

▼20年8月6日(月)。朝から好天気。平面測量実習で海岸線を実測中(写真丸印の地点で実習)。夏の日差しにあてられたので、お茶を湯飲み場で飲んでいた。まさにそのとき。

 当日の課業が終り、夕方、指導の教官が私たち分隊全員を集め訓示があった。

▼「廣島に投下された爆弾は新型である。あの程度のものは、日本でもすでに作られている。硫黄島で実験済みである(3月17日守備隊全滅)。心配することはない、訓練にはげむこと・・・・。」

▼それからは、空襲警報が発令されると、防毒マスクのほかに風呂敷大の白布を持って防空壕に避難することになった。

 新型爆弾の当時の朝日新聞の記事を拾う。
 8月8日(水)
 大本営発表(8月7日15時30分)
 「一、昨8月6日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり」
 「二、敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり」
 8月10日(金)
 「屋外防空壕に入れ」「新型爆弾に勝つ途」
 8月14日(火)
 「新型爆弾は原子爆弾と発表」(『近代総合日本総合年表』)
 8月15日(水)
 「戦争終結の大詔渙発される。」
 「科学史上未曾有の惨虐なる効力を有する原子爆弾」  
 詔書には、「敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ・・・・。」とある。

▼新型爆弾は原子爆弾といわれるようになり、8月6日を原点としてはじまる。

▼ハイテクノロジー時代に入り、機能性高分子、バイオテクノロジーなどの技術開発が進んでいる。この中でバイオテクノロジーについて考えてみたい。植物の品質改良、醗酵技術分野において活用されるのは人間生活を豊かにするためにも歓迎されることでしょう。医学分野で病気治療に応用されるのも意味がある。しかし遺伝子による生命操作とか、現在では測り知ることが出来ないことに利用されると、どんなことになるか。

▼新型爆弾が原子爆弾になり、使用された時には予測されなかったような悲劇を人類に与えている。バイオテクノロジーの技術の開発応用がこんな展開にならないように原子爆弾のキノコ雲の異形の思い出と結びついてくる。
*以上の文章は1984年に書いたものである。その後21年は、バイオテクノロジーにおいては臓器移植などの発展、IT技術の広がりは生活を変えるまでに進歩をつづけている。社会の発展に善用して欲しいものだ。

平成十七年八月三日

追加1:

終戦後の九月に私は広島に行った時、駅での様相は忘れることができません。原爆を投下されて約一か月少々経過していました。

 原民喜詩集に述べられているのものを掲載します。

 コレガ人間ナノデス   原 民喜

 コレガ人間ナノデス

 原子爆弾ニ依ル変化ヲゴラン下サイ

 肉体ガ恐ロシク膨脹シ

 男モ女モスベテ一ツノ型ニカヘル

 オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ

 爛レタ顔ノムクンダ唇カラ漏レテ来ル声ハ

 「助ケテ下サイ」

 ト カ細イ 静カナ言葉

 コレガ コレガ人間ナノデス

 人間ノ顔ナノデス

*写真は、私も見た広島市上空の原爆のキノコ雲。

平成二十年三月十四日

追加2:

▼車いすに座った小幡悦子さん(80)の足は「くの字」に曲がり、えぐれた太ももは引きつっている。64年前ののきょう、爆心から1キロで被爆した。辛うじて生き延びたが、原爆は容赦のない爪跡を体に残した。
 昨年、朝日新聞長崎総局の取材を受けた。ためらいながら「足の写真を撮らせてほしい」と頼む記者に、小幡さんはうなづいた。「この足が原爆だから……。私が伝えられるのは足だけだからね」。つらく重い言葉である。(以下略)2009年8月9日の「天声人語」から。

追加3:

▼戦後の昭和二十二年、私は広島工専に入学しました。同級生の一人に中西巌君がいました。学生時代、彼と原爆について話したことはありませんでした。

▼彼は被爆体験を語る会に招かれて講演をしています。代表的なものを一つだけ掲載します。彼の生(なま)の説明を聞いて下さい。 中西巌(ナカニシ イワオ)ー平和データベース

追加4:

 今年(平成26年)広島原爆式典には、米国駐日大使:ケネディ大使が参列される。
 原爆投下した飛行機:エノラ・ゲイの最後の搭乗員が死亡している。
平成二十一年八月九日、平成二十三年八月六日:原爆投下の日、再読、平成二十六年八月六日(六十九年経過)追加。

▼今年は原爆投下されて70年になる。多くの記憶がある。その一つに、昭和二十九月中旬に広島市に所用で出かけた。広島駅に到着すると広島駅の駅舎には墨を塗ったように真黒な人々が、ある人は立ち、ある人は横たわっている惨状であった。言葉では言い尽くせないものでした。どうしようもない無力感でした。
▼私は駅から市電の比治山線に乗ろうとしましたが、電車のポールは斜めに傾いている有様で運転されていませんでした。徒歩で皆実町まで往復しました。当時は、今後70年は広島には草木も生えないといわれていた。植物の生命力は恐ろしく強いことが証明されました。
平成二十六年八月五日


 広島市の原爆ドームから道1本隔てた寺に「被爆地蔵尊」がひっそりたたずんでいる。真上から4000度もの熱線を浴びたため、石の台座のうち地蔵の濃い影が残る部分は滑らかなままなのだが、周囲は高温で焼けザラザラだ。核兵器の威力の一端が肌で感じ取れる。

▼米国の世論調査では「戦争終結を早めた」などの理由で、原爆投下を「正しかった」とする人がまだ過半数を占めるという。軍略の視点に重きを置けば、そんな結論にもなるのか。しかし、決して忘れてはならないことがある。あの日、熱と爆風で壊滅した朝の街では、直前まで市民がつつましやかに生を営んでいたのだ。

▼地蔵尊が鎮座する場所は、かつて細工町といい、病院、食品問屋、理髪店などがあった。平和記念公園の一帯も中島本町、材木町などと呼ばれ、映画館や銀行、民家が軒を連ねていた。それが一瞬で酸鼻のちまたと化したのである。原民喜は小説「夏の花」で、「パット剥ギトッテシマッタ アトノセカイ」と書いている。

▼あす、G7外相が平和記念公園や資料館を訪れる。核を持つ米英仏外相の公園訪問は初という。どうか、資料館では焼けた衣服などと向き合い、銀行の石段に残る影に瞳を凝らしてもらいたい。生を暗転させる無慈悲さを改めて胸に刻み、「核なき世界」へ少しでも近づいてほしい。戦後71年、歩みの遅さに気が遠くなる。

参考:春秋 2016/4/10付より。

平成二十八年四月十日



 オバマ大統領は2016年5月27日夕、現職の米大統領として初めて被爆地、広島を訪問した。平和記念資料館を訪れた後、平和記念公園にある慰霊碑に献花した。

 オバマ氏はその場で被爆者らを前に、米軍の原爆投下について「恐ろしい力がそれほど遠くない過去に解き放たれたことを考え、死者を悼むために広島に来た」などと声明を読み上げた。
 写真は安倍首相と握手するオバマ大統領

平成二十八年五月二十七日



 きのこ雲写真は火災の煙か 広島原爆、米研究所が指摘 2016/8/6 19:41

 米軍機が撮影した、広島に投下された原爆のきのこ雲とされる画像。1973年に日本に提供された「返還資料」に含まれていた 【ワシントン共同】きのこ雲写真は火災の煙か広島原爆、米研究所が指摘 2016/8/6 19:41

 広島への原爆投下時に撮影された有名な写真に写るきのこ雲が、爆発直後にできたものではなく、しばらく時間がたって地上の激しい火災によって発生した煙や雲とみられることが分かった。原爆を開発した米ロスアラモス国立研究所が、このほど明らかにした。

 ニューヨーク・タイムズ紙は、オバマ大統領の広島訪問に先立つ5月、写真について「実は“きのこ雲”でなかった」と驚きを交え報じた。

 一方で、きのこ雲という言葉に厳密な定義はない。写真を解析研究した広島市立大の馬場雅志講師は「原爆の雲であることは事実で、きのこ雲と呼んで差し支えない」と話している。

平成二十八年八月六日

 八月のカッとした暑さになると昭和二十年がよみがえる。

 八月六日。江田島は、朝から好天気。測量実習で海岸線を実測中、夏の陽射しにあてられたので、海軍兵学校西生徒館内の湯飲み場でお茶を飲んでいた。まさにそのとき。ピカッと閃光。ドーン。ガタガタと窓ガラス震動。火薬庫の爆発だ! 安全地帯に逃げなくては、海岸線に向かって飛び出した。学校の裏、古鷹山の方を見たが、それらしい形跡はなかった。北西に視線を転ずると広島市の上空あたりに、きのこ雲。私の目に焼きついた。

▼エノラ・ゲイは旋回をつづけた。原爆担当ビーゼル中尉は「眼下に見えたのは火の海と荒廃の地だけで、ヒロシマの街はほとんど見ることができなかった」。ヒロシマの人たちのことを、エノラ・ゲイのクルーは一顧だにしなかった。「主目標を目測爆撃。結果は良好。雲量十分の一。戦闘機および高射砲による攻撃なし」。つづいて大勝利を伝える報告を暗号で送った。広島中央放送局(NHK)は空襲の警戒警報発令を発信できないまでに瞬間に爆破されたのである。

『幻の声』(岩波新書)

▼きのこ雲は黒い雨を降らせていた。井伏鱒二『黒い雨』を読むと息をのむばかり。

補足:黒い雨と同じものです。


 東京帝大助教授だった政治学者の丸山真男は1945年4月、2度目の兵役で広島の陸軍船舶司令部に配属された。31歳。国際情報の収集が仕事である。8月6日、朝礼中に突然、目もくらむ閃光(せんこう)が空を走り、きのこ雲が立ち上るのを見た。爆心地から約4キロの場所だ。

▼司令部に逃れて来た被災者の姿に肝を潰し、3日後の9日には爆心地付近を巡って被害の実態に接している。しかし「自分は傍観者」として、終生、被爆者手帳の申請はしなかった。戦後、その透徹した観察眼と分析手法で戦前の軍部による支配を「無責任の体系」と呼んだ。目の当たりにしたその末路への怒りもこもる。

▼小池百合子都知事が豊洲の盛り土問題で歴代の中央卸売市場長の仕事ぶりを「無責任体制」と断じ2週間余。依然、いつ、誰の、どんな判断で地下空間ができたのかが不明で「空気の中で進んでいった」としかわからぬ状態が続く。知事は「歴代の市場長は退職者も含め責任を明確にする」と、ケジメをつけるのに躍起だ。

▼丸山は東京裁判の被告らが自己の権限をわい小化し、責任をなすり合う姿に無責任の実態を見た。さて「監察の観点からヒアリングする」と息巻く小池知事による「東京裁判」はどうなるだろう。ことは6000億円近い予算を要した巨大事業だ。「築地直送!」に代わり「豊洲直送!」を消費者が受け入れる日はいつか。

春秋 2016/10/9による。


私は、72年昔の当日、江田島にいた。今でも原爆が投下されたその時から非常に近い時間のあの瞬間を明確に記憶している。しかしながら、地獄の状態は想像することは出来なかった。追悼申し上げます。

 2017年8月6日、広島に原爆が投下されてから6日で72年となります。核兵器を法的に禁止する歴史上、初の条約が国連で採択されてから初めてとなる「原爆の日」で、被爆地・広島は、犠牲者を追悼するとともに核兵器のない世界に向けた訴えを国内外に発信します。

 原爆投下から72年となる6日、広島市の平和公園には夜明け前から被爆者や原爆で亡くなった人の遺族などが訪れ、追悼の祈りをささげています。

 広島市内に住む被爆者の82歳の女性は、70代で亡くなった同じ被爆者の夫の遺影を手に娘と一緒に慰霊碑を訪れ、祈りをささげました。女性は原爆の日に慰霊碑を訪れるのは初めてだということで、「自分にとって最後になるかもしれないのでこの日にこの場所に来て『平和になるように』という思いで祈りました。核兵器禁止条約はできましたが、日本が参加していないのは理解できません。核兵器はないほうがいいです」と話していました。

 また、広島県呉市の高校で英語を教えているアメリカ人の36歳の男性は、毎年8月6日に平和公園を訪れているということです。男性は「最も悲しいことは犠牲者の中に罪のない多くの子どもたちがいたことです。アメリカ人の中にはいまだに偏った見方で当時のことをとらえている人もいます。この悲劇を繰り返さないためにもこの場所を訪れ、歴史と向き合うべきです」と話していました。

 6日の平和記念式典は安倍総理大臣や世界80か国の代表が参列し、午前8時から始まります。式典ではこの1年間に亡くなった人や新たに死亡が確認された人5530人の名前が書き加えられた、30万8725人の原爆死没者名簿が原爆慰霊碑に納められます。そして原爆が投下された午前8時15分に参列者全員で黙とうをささげます。

 世界の核軍縮をめぐっては、先月、国連で歴史上、初めて核兵器を法的に禁止する「核兵器禁止条約」が、非核保有国が中心となって採択されましたが、核保有国や核の傘のもとにある日本などは条約に反対の立場を示し、核兵器の廃絶にどうつなげていくかが課題となっています。

 広島市の松井一実市長は「平和宣言」の中で、「各国政府は、核兵器のない世界に向けた取り組みをさらに前進させなければならない」としたうえで、日本政府に対して「核保有国と非保有国の橋渡しに本気で取り組んでほしい」と求めることにしています。

 また、被爆者団体やNGOが街頭での署名活動などを行うことにしていて、原爆投下から72年となる6日、広島は、原爆の犠牲者を追悼するとともに被爆者の悲願である核兵器のない世界に向けた訴えを国内外に発信します。

*NHKの記事より。


*戦後原爆禁止運動では下記の記事のようなものが行われていた。

 頻(しきり)に無辜(ム コ)を殺傷し(「終戦ノ詔書」より)

 八月六日の原爆を、私は見た。広島で見たのではない。写真で見た。写真は当時の『科学朝日』が広島にかけつけて写したものである。

 アメリカ人は原爆の被害をかくそうと、草の根わけて写真を没収した。カメラマンは七年間ネガをかくして、没収をまぬかれた。

 ようやくわが国が独立した昭和二十七年夏、『アサヒグラフ』は全紙面をあげてその写真の特集をした。当時の編集長は飯沢匡である。

 私が見たのはその特集号である。それはまざまざと実物を写した。酸鼻をきわめるという、筆舌を絶するという。それは写真でなければ到底伝えられないものである。私は妻子に見られるのを恐れて、押入れ深くかくして、あたりをうかがった。いま三十半ばの友のひとりは小学生のとき偶然これを見て、覚えず嘔吐したという。

 原爆許すまじという。何という空虚な題目だろう。「原水禁」原水協」以下は、アメリカの原爆はいけないが中国のならいい、いやソ連のならいいと争って二十年になる。

 原爆記念日を期して私はこの写真を千万枚億万枚複写して、世界中にばらまきたい。無数の航空機に満載して、いっせいに飛びたって同日同時刻、アメリカでヨーロッパでソ連で中国で、高く低く空からばらまきたい。

 アメリカ人は争って拾うだろう、顔色をかえるだろう、子供たちは吐くだろう。ソ連と中国では 拾ったものを罰しようとするだろう。罰しきれないほど、雨あられとばらまいてやる。

 今わが国は黒字国だとアメリカ人に非難されている。これに要する 費用は黒字べらしの一部にすると言えば、アメリカ人に否やはないだろう。このことを私は書くこと三度目だが、ほんとんど反響がない。これでも彼らがなお原爆の製造競争をやめないなら、それは承知でやめないのだから、それはそれで仕方がない。

*写真は、『アサヒグラフ』昭和二十七年八月六日号より


春秋 2018/8/6付 原爆広島投下の日

 日本中の都市が次々に焼け落ちていくのに、なぜか広島には空襲がなかった。1945年夏。市民は首をひねりつつも、まずは平穏を喜んでいた。浄土真宗本願寺派の「安芸門徒」が多い土地柄だから、米軍が攻撃を手控えている……。そんな噂まで流れていたという。

▼思えば、なんと悲しい楽観だったことか。そのころ米軍は日本本土への原爆投下計画を着々と進め、目標検討委員会を設けて犠牲とする都市を絞り込んでいた。さまざまな候補地が浮かんでは消え、実際に投下されたのが広島と長崎だった。核を使うため、2つの都市は「温存」されて焼夷(しょうい)弾の猛威を免れていたのである。

▼「直径3マイル(約5キロメートル)以上の大規模市街地を有すること」「爆風によって効果的な損害を与えうること」。目標検討委の議事録に、投下都市の条件を挙げた記述が残る。広島はそれにぴったり合っていた。「隣接する丘陵地は爆風の集束効果を生じさせ、その被害を増幅させるだろう」。淡々たる、そして残酷な筆致だ。

▼計画は無慈悲に遂行され、安芸門徒の国はおびただしい数の命を失った。73年前の、きょうのその朝まで無事を保っていた都市を一瞬にして滅ぼした非道である。ひたすら原爆投下へ突き進んでいった米国。情勢を見極められず、いたずらに惨禍を拡大させた大日本帝国。歴史に学ぶべきことが、まだまだ山のようにある。


06

終戦へのみちのり〜私の体験〜


 昭和20年7月28日(土)、朝から夏空の快晴。9時か10時頃、空襲警報が発令された。米軍の飛行機が江田島湾に停泊中の巡洋艦利根・大淀を来襲攻撃したのである。この軍艦は5月頃から江田島湾に回航して、甲板には松の木などで偽装されていた。私たち生徒には何故停泊したままであるのかは知らされるはずはなかった。

▼私たち分隊の指定の防空壕は西生徒館裏の御殿山に掘られた横穴であつた。当日、その時刻、西生徒館にいたのでアメリカの飛行機の攻撃がどの程度か見たいと思い、生徒館前の練兵場の南に構築されていた20人余り収容できる地下壕に向かって100メートルばかり走っていった。到着寸前に、低空飛来した攻撃機(多分、グラマン戦闘機?)から機銃掃射された。走っていた方向にそのまま顔を下にして伏せた。1.5メートル間隔に打ち込まれた機銃弾が地面で砂埃を上げた。巡洋艦に向かって飛び去ると直ぐに立ち上がり、まさに命からがら防空壕に飛び込んだ。壕内にいたのは3年生が大部分であり、その人たちは攻撃機に関心を持っていたので入り口近くに出ては観察していた。次から次へと猛攻撃。

*2017.06.14 読むと、なんと無謀なことをしたものだ。そのとき、銃弾で斃れてもおかしくなかった。宿命を感じさせられた。

参考1:昭和45年暦

参考2:死覚悟 でも「生きたい」/制御不能の潜水艦、海底に刺さる

 45年8月、九州・五島列島付近で、海面に浮上していた、長澤さんが乗る伊号第363は、米戦闘機・グラマンの攻撃を受け、艦上にいた乗組員2人が撃たれた。長澤さんと私はほぼ同じ年ごろである。私もグラマンの攻撃を受けた。青森県の出身であるので、青森県八戸中学校(旧制)出身:福田幸雄君が3号生徒のとき、507分隊で同分隊であった期友を思い出した。

参考:長澤連三郎さん写真集

▼この時の攻撃で2艦は完全に擱座(かくざ)してしまった。敵機の襲撃が終わり、午後には両艦の負傷者が兵学校に収容された。

▼戦時下、中学校では軍事教練を受け、学徒動員として勤労奉仕・海軍工敝での生産活動を通して私たちは戦争に参加していた。また、従兄弟が3人も戦死していた。

▼兵学校では将来の海軍将校の教育を受けていたので、戦争の意識はないとはいえなかったが実戦を目の前にしたのは、呉市の空襲(昭和20年5月と6月の海軍工廠への2度の空襲と引き続く7月1日〜2日に呉市街地夜間無差別大空襲)とであった。八月六日広島原爆投下、八月十五日終戦へと急展開した。


終 戦

 八月十五日(水曜日)の前日か前前日だった。

 授業中の国語の教官が

 「君たちは眠っているが近いうちに大変なことになる」と、言われた。何のことか分からないままに聞いていた。

 終戦の日、午前中は通常の日課の授業を受けた。

 正午に天皇の放送があるから分隊の自習室に集合するように伝達された。自習机に座り、姿勢を正して「玉音放送」を聞いた。分隊自習室のラーウド・スピーカからの放送は雑音で聞き取りにくかったので内容は理解できなかった。全員無言で、冷静そのもであった。海軍兵学校全体も静粛であった。

 しかし目に見える変化が現れた。午後からは課業はなくなつた。一号生徒も囁きあっていた。翌日から教官の姿も目に入らなくなった。午前中は空襲に備えて解体していた木造生徒館の材木整理。夏の暑さが本当に身にしみ込むのを感じたものである。それまでは蝉の鳴き声にも勢いを感じていたが何となく寂しさを奏でているように思えた。午後は課業もなく、風呂に入ったりするようになった。一号生徒も下級生の指導は一切しなくなり、完全な虚脱状態としか言えない環境になった。

 数日経ってから岩国海軍航空隊の戦闘機?が飛来し、練兵場にビラを投下した。

 「我々は終戦を認めない、決起して闘う」といつた内容の檄文であった。そこで校長か副校長であつたか全校生徒を集めて訓示をされた。

 「天皇陛下の命令にしたがって生徒諸君はあくまで冷静に行動して軽挙妄動してはいけない」といつた内容であった。

 生徒同志、戦後処理の噂を囁きあった。私の記憶に残っている代表例は「イタリアの海軍兵学校生徒(存在していたのか現在でも知らない)は軍艦に乗せられて地中海の沖で轟沈させられた」といつたものであつた。それでは山の中に逃げて隠れよう、しかし長野(松本中学出身者がいた)の山中に隠れても見付け出されるだろうとも話し合ったものである。

 何時のころからか生徒を帰す話が出始めた。早く家に帰りたいなどは考えもしなかった。どんな編成で帰すとか、交通手段に何を使うのか、例えば汽車で帰るとすれば何処から乗るのか、四国・九州にはカッターで帆走にするとか。呉市から僅かしか離れていない江田島であるが校外の状況は全く知らされていなかった。

   海軍兵学校長訓示

 百戦効空シク四年ニ亘ル大東亜戦争茲ニ終結ヲ告ゲ停戦ノ約成リテ帝国ハ軍備ヲ全廃スルノ止ム無キニ至リ海軍兵学校亦近ク閉校サレ全校生徒ハ来ル十月一日ヲ以テ差免ノコトニ決定セラレタリ

 諸子ハ時恰大東亜戦争中志ヲ立テ身ヲ挺シテ皇国護持ノ御楯タランコトヲ期シ選バレテ本校ニ入ルヤ厳格ナル校規ノ下加フルニ日夜ヲ分タザル敵ノ空襲下ニ在リテ克ク将校生徒タルノ本分ヲ自覚シ拮据精励一日モ早ク実戦場裡ニ特攻ノ華トシテ活躍センコトヲ希ヒタリ又本年三月ヨリ防空緊急諸作業開始セラルルヤ鐵槌ヲ振ルッテ堅巌ニ挑ミ或ハ物品ノ疎開ニ建造物ノ解毀作業ニ或ハ又簡易教室ノ建造ニ自活諸作業ニ酷暑ト闘ヒ労ヲ厭ハズ尽瘁之努メタリ然ルニ天運我ニ利非ズ今ヤ諸子ハ積年ノ宿望ヲ捨テ諸子ガ揺籃ノ地タリシ海軍兵学校ト永久ニ離別セザルベカラザルニ至レリ惜別ノ情何ゾ言フニ忍ビン又諸子ガ人生ノ第一歩ニ於テ目的変更ヲ余儀ナクセラレタルコト誠ニ気ノ毒ニ堪ヘズ

 然リト雖モ諸子ハ年歯尚若ク頑健ナル身体ト優秀ナル才能トヲ兼備シ加フルニ海軍兵学校ニ於テ体得シ得タル軍人精神ヲ有スルヲ以テ必ズヤ将来帝国ノ中堅トシテ有為ノ臣民ト為リ得ルコトヲ信ジテ疑ハザルナリ生徒差免ニ際シ海軍大臣ハ特ニ諸子ノ為ニ訓示セラルル処アリ又政府ハ諸子ノ為ニ門戸ヲ開放シテ進学ノ道ヲ拓キ就職ニ関シテモ一般軍人ト同様ニ其ノ特典ヲ与ヘラル兵学校亦監事タル教官ヲ各地ニ派遣シテ漏レナク諸子ニ対シ海軍ノ好意ヲ伝達セシムル次第ナリ 惟フニ諸子ノ先途ニハ幾多ノ苦難ト障碍ト充満シアルベシ諸子克ク考ヘ克ク図リ将来ノ方針ヲ誤ルコトナク一旦決心セバ目的ノ完遂ニ勇往邁進セヨ忍苦ニ堪ヘズ中道ニシテ挫折スルガ如キハ男子ノ最モ恥辱トスル処ナリ大凡モノハ成ル時ニ成ルニ非ズシテ其ノ因タルヤ遠ク且微ナリ諸子ノ苦難ニ対スル敢闘ハヤガテ帝国興隆ノ光明トナラン終戦ニ際シ下シ賜ヘル詔勅ノ御主旨ヲ体シ海軍大臣ノ訓示ヲ守リ海軍兵学校生徒タリシ誇ヲ忘レズ忠良ナル臣民トシテ有終ノ美ヲ濟サンコトヲ希望シテ止マズ

 茲ニ相別ルルニ際シ言ハント欲スルコト多キモ又言フヲ得ズ唯々諸子ノ健康ト奮闘トヲ祈ル

   昭和二十年九月二十三日

                         海軍兵学校長  栗田健男

 海軍兵学校練兵場の千代田艦橋前に生徒全体が集合しての訓示であった。

 「日本が敗れたのは科学の力の違いである」とも言われた。この一言はその後いつまでも私の心の中に残っていた。戦後、技術者の道を進む動機になった。

 九月二十三日以後、期友はそれぞれの故郷に散っていった。

 私たち一〇一分隊には賀陽宮治憲王が配属されていた。彼は少し早めに東京に帰られた。分隊監事・多久大佐(佐賀県出身)の先導で最後の挨拶に分隊自習室に来られた。軍務を離れての行事では身分が優先することを知った。彼は外交官として活躍されてた(平成二年現在)。

▼最終的には9月23日の校長訓示の後、外人部隊が進駐する前に、食糧として牛肉の缶詰少しばかりと事業服などを持って第一種軍装、短剣の正装で呉線の吉浦駅から満員列車で郷里に帰った。

参考:きのこ雲を見た原爆開発計画の指導者オッペンハイマー博士は「私は今、死になった。世界の破壊者になったのだ」とつぶやいたという。米ニューメキシコ州アラモゴード砂漠で初の原爆実験が行われたのは60年前の7月16日だった。           

▼その翌日から米英ソ三首脳のポツダム会談が始まった。会談場になったツェツィリエンホーフ宮殿を訪ねたことがある。ベルリンの都心から電車で30分ほどのポツダムは、プロイセン王家の離宮があった地。ロココ様式のサンスーシ宮殿が有名だが、そこから数キロ離れた木立の中の閑静な一角にその宮殿はあった。

▼宮殿というより田舎の別荘風で、会談場の部屋などは当時のまま保存されていたが、建物の一部がホテルとして使用されている。実験成功の報は「赤ん坊が生まれた」という暗号電報で、すぐにトルーマン米大統領に届いた。新型爆弾の存在は数日後に、大統領の口からソ連のスターリン首相にも知らされたという。

▼湖畔の緑したたるたたずまいで、そんな会話が交わされていた。日本に無条件降伏を迫るポツダム宣言が出たのは原爆実験から10日を経た7月26日。その11日後に広島に、14日後に長崎にきのこ雲があがり、20日後に「玉音放送」が流れた。原爆開発がほんの少し遅れ、終戦がほんの少し早かったなら。

2005年07月16日(土曜日)『日経新聞』春秋

*写真はグラマン戦闘機。

平成十七年八月十五日


 終戦の日の前後、陸軍・海軍の幹部の方々が、私たちの知ることのできない行動をされていることをあらためて知ることができました。

 その二つの事件を記録しまします。

 終戦の日、玉音放送を聞いたのち、宇垣中将は出撃している。

▼宇垣中将は、明治23年2月15日に現在の岡山県岡山市でご生誕されました。

 明治42年に海軍兵学校に入校し非常に成績優秀として成績優等章授与をされています。

 明治45年、海軍兵学校40期生として卒業後、太平洋戦争開戦時は連合艦隊参謀長でした、戦時中の日記『戦藻録』は今日でも太平洋戦争第一級の資料として内外からも高く評価されている。

 余談ですが、「黄金仮面」とあだ名が付けられていたそうです、その由来はいつも自信家でプライドの高い人物で海軍での評判はあまり良くなかったようです。

 また、日独伊三国同盟締結問題についても一貫して反対の立場を表しましたがその後、海軍上層部の強い意思にしぶしぶ従いました。山本五十六元帥とは不仲であったと言う話があります、その理由の1つに皆さんもご存知の戦艦大和建造に関して宇垣中将は大艦主義者で大和の建造を推進したとの理由から山本元帥の主張する航空論いわいる戦艦大和一隻の資材、資金で航空機が1000機作れると、建造に強く反対していたんですね。

  山本元帥亡き後は、形見として短刀を貰っています。

 1945年の昭和20年8月15日正午にラジオ放送され昭和天皇による詔書である「終戦詔書」の音読放送を一般には指します。太平洋戦争の敗北宣言を国民に伝える放送です。

▼宇垣中将はこの玉音放送を聴いた後に特攻に出ています、終戦後、日本の陸海軍の上層部の幾人かは自害をしています。

 出撃前、大分基地にて彗星前で撮った写真に宇垣中将は笑顔で写っています。そして軍服は中将の階級を示す襟章が外されていました。

 当時、高官が死地に赴くときには、階級を示すものを外す習慣があったのです。

▼なお宇垣中将は、ポツダム宣言受諾後に正式な命令もなく特攻を行ったため、戦死とは見做されず大将昇級は行われていません、現在も靖国神社には合祀されていないのです。

 岡山市護国神社へのいりぐちの丘陵地帯の一部に記念碑が建立されていて、故郷での永遠の眠りについています。

▼陸軍でも終戦の8月14日から15日にかけて下記の事件が起こっていた。

 宮城事件

平成二十六年八月十五日


07

軍人らしさの印象


 八十歳近くなって、私が海軍兵学校に在学していたことを知っているある知人から

 「黒 崎さんは軍人らしさが感じられる。何を軍人の時にえられましたか?」と問われた。

 自分史に海軍兵学校時代について記録しているが、このホームページには断片的にしか書いていない。この質問を機会にまとめた。

 現在の高校2年生の年齢(17歳:当時は中学校五年生)で、76期生徒として入校した。そして10カ月程度で終戦。非常に短期間の教育で約60年後のいまだに軍人らしさの印象を人に与えるのはなぜだろうか? 私にも不思議だ。

 私が会社勤めをしているとき、同じバス停での顔見知りの人から

 「貴方は学校の先生ですか?」また、ある人は「県庁に勤められているのですか?」と言われたことがあった。

 会社に勤めていたとき、工場生産現場から研究所に転勤した。その研究所で仲間に

 「私は工場生産者か、研究開発者のどちらにむいているか?」とたずねた。

 「開発研究者にむいている」との返事がかえった。
 当時の私は工場での生産が好きでしたので、当然「工場生産にむいている」と期待していた。

 これらのことから、「自分が思っている自己の姿」と違い、他の人々にはいろいろな見方をされるものだと。

 その理由は外観(姿勢をふくめて)や口のききかた、人前での行動・ふるまいが他人の判断に影響を与えているものではないかと。自分も他の人を見るとき同じことをしているだろう。

 知人が「軍人らしさが感じられる」のは、私には分からない。

 私が生徒の時に教育理念はどんなものであったかを整理すると

 1、「紳 士 教 育」:紳士は、今は廃語に近い言葉だとおもえる。「あの人は紳士だ」という言葉を聞くことはない。ジェントルマン・シップの精神についてイギリスに住んだことがないので約60年またそれ以前ならびに現在の実情とでは、比較はもちろん想像さえできない。

 海軍兵学校はイギリスの学校を模範にして多くの制度を取り入れられたといわれている。

   兵学校校長の教育の根本理念を『井上成美』(井上成美伝記刊行会)に次のようなことが述べられている。

   昭和二十七年十月、横須賀・長井に隠棲中の井上を訪ねた槙智雄防衛大学長(初代)からの質問に対し、彼は生徒教育の根本理念について次のような話をしたという。

 

 私は、「ジェントルマンをつくるつもりで教育しました。つまり、兵隊をつくるんじゃないということです。丁稚教育じゃないということです。それではそのジェントルマン教育とは何かということになれば、いろいろ言えるでしょうが、一例を言ってみればイギリスのパブリック・スクールや、オックスフォード、ケンブリッジ大学における紳士教育のやり方ですね。
 これは、それとは別の話ですが、第一次世界大戦の折、イギリスの上流階級の人達が本当に勇敢に戦いましたね。日ごろ国から、優遇され、特権を受けているのだから、今こそ働かねばというわけで、これは軍人だけじゃないですね。エリート教育を受けた大半の人達がそうでしたね。

 私は、第一次大戦の後、欧州で数年生活してみて、そのことを実感として感じました。「ジェントルマンなら、戦場に行っても兵隊の上に立って戦える・・・・・」という事です。ジェントルマンが持っているデュティとかレスポンシィビィリィティ、つまり義務感や責任感・・・・戦いにおいて大切なのはこれですね。

 その上、仕官としてもう一つ大切なのは教養です。艦の操縦や大砲の射撃が上手だということも大切ですが、せんじつめれば、そういう仕事は下士官のする役割です。そいう下士官を指導するためには、教養が大切で、広い教養が大切で、広い教養があるかないか、それが専門的な技術を持つ下士官と違ったところだと私は思っておりました。ですから、海軍兵学校は軍人の学校でありますが、私は高等普通学を重視しました。そして文官の先生を務めて優遇し、大事にしたつもりです。

 江田島での具体的な例を挙げますと、たしかに海軍の技術教育、例えば運用術、砲術、通信技術,航海術などなどに比較して基礎学科:数学・物理・化学・国語・英語(英英辞典を使用)など。また、服装・身だしなみに非常にきびしいものがありました。

 1、マナーの例えでは、私のホームページにも書いていますが、校内の散髪店での料金は確か5銭でしたが、そのお金を持たない場合は例えば1円しか持たない場合はそれを入り口の料金に(受取人はいない)そのお金を入れておつりは取らないことになっていた。

 2、「いいわけをするな!」:軍人の学校ですから、卒業すればいつどんな戦闘に出会うか分かりません。そのとき、自分のその場その場での行動の言い訳をしても自己責任の回避に過ぎないことは明白である。結果がすべてであることは間違いないだからだったのでしょう、生徒の時に先輩から注意されたとき、なにかその理由を口に出そうとすれば、直ちに問答無用の「言い訳をするな」と厳しく叱責されたものでした。

 3、「明日は明日の風が吹く」:人間は、明日のことはわかりません、特に軍人は戦場に赴けば、軍人でないものに比べてそこには戦闘による生死しかないのは当然ですから、生徒の時によく先輩から聞かされました、歳を古るごとにその意味の理解が変わってきています。

 僅かな事実しか述べませんでしたが、私たちが入校した昭和十九年十月の僅か2カ月前に井上校長は海軍省に転出されましたが、校長の理念は私が教育を受けたときも具体的に実行されていたと今でも思っている。

 十七歳ぐらいの年齢で刻みこむまれた教育が私の精神のどこかに残っていて、それが私のかもす印象として他の人にあたえているのでしょう。 参考:海軍兵学校

*写真は私が入校してしばらくして撮影したもの。


参考文献:岩波新書 池田 潔『自由と規律』―イギリスの学校生活―には、池田 潔さんが、イギリスのパブリック・スクールの一つリース・スクールに留学されており、詳しく述べられています。一読してください。

 最近の情報ではイギリス議会は形の上では日米と同じ二院制ですが,上院(貴族院 = House of Lords)は中世の制度を引き継ぐ世襲・任命による 議員からなり,政治上の機能はほとんどありません.上院改革はブレア首相の公約の1つで,今回下院が上院議員を選挙制とする案に賛成したのは,ブレア政権にとっても大きな前進です.ただし今回の投票結果に強制力はなく,上院に対して検討を勧告するといった意味合いです.上院にはこの全員選挙案を含む複数の案が送られます。

 このようにイギリスでも徐々に社会的制度・風土が変化していると私は思いますので、あくまで参考として読んでください。

平成十九年三月十日


 『獅子文六全集』を読んでいるとき、次のような文章にであった。

海軍の姿勢

 「いくら背広を着ていらっしても、海軍サンだけはわかりますよ」

と、老練なる女性がいっていたが、それは潮焼けのした顔色や、海の号令で鍛えた声をもってのみ、はんだんするのではないらしい。海軍軍人には独特の姿勢があって、遠く街上を歩いていても、一見それと知れるというのである。

 そういわれてみれば、市電の監督と海軍士官とは、ちょいと外見が似ているが、印象がまるでちがうことを、考えずにいられない。水兵や兵曹の姿勢にも独特なのものを感じるが、士官のそれには、格別の味わいがあるのである。

 それを一口にいえば、「威あって猛からず」という姿勢だが、猫背でもなければ、反り返りもしない姿勢である。肩も振らなければ、脚を突っ張るでもない歩き方である。端正ではあるが、窮屈ではない。粋ではないが、野暮でもない。なにか、スーッとして、キュッとしてーーとでもいう外はない姿勢なのである。

 帽子のかぶり方にしたってそうである。海軍軍人が、横にちょっと阿弥陀にかぶっているのを、見たことがない。水平線のように、真ッ直ぐにかぶっている。外国の海軍軍人は、どういうものか、決して 軍帽を正しくかぶらない。Uボートの勇将プリーン大尉の如きでさえ、マドロス風に、ちょっと横っちょにかぶつている。

 僕は、帝国海軍将校のあの正しい姿勢が、どこから生まれたのかと、疑問を持っていたが、たまたま、海軍兵学校を見学した時に、些か氷解するところがあった。廊下に、大きな鏡があった。

 意外にも、兵学校ほど態度容儀を尚ぶところはなかった。軍艦旗掲揚の下に行われる軍装点検が、いかに念入りでいかに厳格であるか、想像を絶するものがあった。微塵ほどの乱れも曲りも、許されなかった。個人的な偏した癖は、悉く撓(た)められ正された。それほど海軍は外見を尚ぶのかと、僕は驚いたくらいである。

 しかし、それが外見でも、形式でもないことは、更(あらた)めて訊く必要のないことだ。人間の姿勢というものが、どういうところで生まれ、またどういうものを養うか、いうまでもないことだ。『獅子文六全集』(朝日新聞社)P.500

参考:ギュンター・プリーン(独、1908年1月16日 ? 1941年5月7日)はドイツ海軍(Kriegsmarine)の軍人。第二次世界大戦初期における著名なUボートエースの一人で、最初に騎士鉄十字章を授与されたUボート艦長である。プリーンの指揮の下、潜水艦U-47は30隻以上の連合国艦船、合計約20万トンを撃沈した。しかし、彼の飛び抜けて、かつもっとも有名な戦績といえばイギリス海軍本国艦隊(The Home Fleet)の本拠地スカパ・フローに係留されていた戦艦ロイヤル・オークを撃沈したことである。

★思い出せば、私も、外出(校内から江田島の町にでる)前には、西生徒館の分隊自習室前の廊下にあった靴磨き台で革靴の踵まで泥を落として靴墨を塗り、ぴかぴかにした。そして東側に移り、等身大の鏡の前で姿勢を正して、第一種軍装(写真の通り)・軍帽・短剣などを自己点検して、生徒館前での服装点検を受けていたものでした。

平成29(2017)年5月23日


08

知られたくない事実―戦時下―


 『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』林 えいだい〔著〕東方出版・2940円
 朝日新聞(2007年4月29日)書評を読んだ。

   一度出撃しながら、基地に引き返した陸軍特攻隊員の秘密の収容施設が、福岡に置かれた振武寮であった。

 出撃時には「生きている神」と讃えられた特攻隊員は、帰還後はあってはならない卑怯者として隔離・虐待されることになる。負い目を感じて生き残った彼らが重たい口を開いたのは、その晩年になってからである。
 引き返した理由は、さまざまであった。搭乗する機体が古く整備不良で、目的地に着く前にトラブルを起こしたとか、中継基地が米国の空襲を受けて搭乗機が破壊されたなどの原因も多かった。戻ってきた特攻隊員の数は、沖縄戦の中でどんどん増加していく。陸軍特攻を担当した第六航空軍は、この予想もしない事態にうろたえて、それを隊員個人の責任にしたのである。

 本書からすると、第六航空軍の幹部は徳之島の前線基地まで視察に赴き、特攻機がまともに飛べず、特攻作戦が破綻している事実を知っていたと思われる。しかし今さら、特攻実施の決定を覆せないと考えていたようだ。今日にもある官僚的思考の無責任さを暴く、ドキュメンタリーともいえよう。

赤沢 史郎(立命館大教授)

▼上の書評を読み、戦時下の当時同じような事例がないかとおもった。たまたま、吉村 昭『戦艦武蔵』(新潮社)(昭和四十一年十月十五日)をあらためて読むと、今まではよみすごしていた次のような記述に目が留まった。

 「全乗組員二千三百九十九中千三百七十六の生存者は、駆逐艦清霜、浜風でマニラへ向かったが、途中で急にコレヒドールへ回航になった。かれらは大部分が、下腹部まで露出した裸身で一人残らず素足であった。かれらがマニラへ上陸することは、武蔵の沈没を知らせるようなもので、それをおそれた海軍中枢部は、かれらをコレヒドールへ向けたのである。

 かれらはコレヒドールに上陸すると、素足で石だらけの道をのぼらされ、山腹の仮兵舎に収容された。海軍にとってかれらは、すでに人の眼から隔離しておきたい存在だった。武蔵乗組員という名は、かき消したかったのだ。かれらの所属は、どこにもなかった。かれらは副長の姓をとって加藤部隊という名を与えられ、さらにいくつかの集団にわけられた。(以下略)」

*戦艦武蔵の最終の状況は以下のとおりである。私が海軍兵学校に入校した約1カ月後のころの戦闘である。
 以下の記事は『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による。
 1944年 - 10月24日
 9時30分 大和の見張員がアメリカ陸軍偵察機を発見
 10時頃 能代のレーダーが100キロの彼方に敵機の大編隊を発見。
 10時25分 敵機約40機 を見張員が発見。しかし乱積雲の中に見失う。
 10時27分 第一次空襲(44機)。外周の駆逐艦、巡洋艦の砲火をくぐりぬけ武蔵に殺到。爆弾1発が命中したが、厚い装甲が跳ね返し、空中で爆発。(被害なし) 3本の魚雷が襲うが2本は船底の下を通り抜けた。しかし1本命中。この影響で主砲が発砲不可能(ただし、被弾ではなく主砲斉射の衝撃で方位盤が故障した、と証言する乗員も居る)。艦は5°傾斜したが、注水し復元。
 11時54分 レーダーが敵機の編隊を察知
 12時07分 敵機来襲。主砲は故障のために個別発射のみ。主砲三式弾9発発射。事前ブザーがなかったために多くの甲板員が爆風を受ける。魚雷3発と爆弾2発が命中。最大速力22ノット。
 13時25分 第三次空襲。集中攻撃を受け爆弾7発と魚雷5本命中。速力16ノット。輪陣隊から離脱。
 14時20分 第四次空襲。輪陣隊から離脱していたため攻撃を受けず。大和、長門に攻撃集中
 15時15分 第五次空襲。集中攻撃を受け、爆弾10発、魚雷11発、その他多数を受け大火災を起こす。
 17時30分 栗田艦隊と遭遇。摩耶の乗組員約600人が駆逐艦島風に移乗。「全力をあげ、島沿岸に座礁し陸上砲台となれ」との命令が下る。6ノットにて微速航行。左舷への傾斜が10°を超えたため、機銃の残骸や負傷者や遺体が右舷に。

▼陸海軍を問わず軍部の中枢にいたものは似た行動をとったことが知られる。
 歴史には「もしもは許されない」ことは知っていますが、「もしこんな事情が当時の私たちにしらせてくれる人が或は報道機関があったならば・・・、日本の戦後の歴史はどうなっていただろうか」と。
 さらに思う、現在でも「知られたくない事実」が明るみになり様々な社会的な反応が起こっている。

平成十九年五月九日、平成二十八年十一月二十三日


09

『井上成美』


 遠藤周作『生き上手 死に上手』(文春文庫)P.101のなかに「面従腹背の生き方」の章に「組織のなかの二つの生き方」の節がある。それには

 友人の阿川弘之の小説『井上茂美』(1986年 9月 25日 発 行)がよくよく読まれている。お読みになった方はもうご存知だろうが、戦争中の海軍という組織にあって、ともすれば目先の情勢に眼がくらみ、大局の見通しをあやまった軍人が多かった時、良識と信念とを失わなかった一軍人の生涯を書いた作品である。

 友人の気やすさで、私などはこういう海軍の小説は限られた人にしか読まれまい、とても若い連中の心をひきつけないぜ、と作者に言っていたのだが、その予想を裏切るめでたい結果になり、このところ阿川弘之氏は嬉しそうである。

 私はこの作品を読んで、こういう自説をまげぬ男がよく当時の海軍でその地位を保てたものだとふしぎに思い、作者にたずねると、海軍には井上成美(海軍兵学校第37期)をひそかに支持する立派な上司(たとえば米内光政大将)がいたからだということだった。

 おそらく、この作品が多くの読者をえたのは組織のなかで信念を守りつづけた強い男のイメージが現代のサラリーマンたちの切実な願望になっているからだろう。
 しかし、実際、我々が大きな組織に属していて自分の信念を守るということは大変にむつかしいことだろう。

 この記事が引き金になり、参考に書いているものを読み直してみました

 私は井上校長が海軍次官に転出した(昭和19年8月)のちの10月に海軍兵学校に入校したので直接謦咳に接することはなかった。

 生徒であったときのわずかな体験のなかで、自分でも知らなかった学校の方針などを取り上げてみた。

▼一 当時、生徒に対する精神教育のため、教育局から平泉澄(きよし)東大教授がたびたび派遣されていた。平泉博士の皇国史観は、国内、特に軍部を風靡していて、兵学校の歴史教官の中にもその学統の人がいた。博士は、草鹿任一校長時代までは、直接生徒に対して講和することもあった。しかし井上は生徒に対する講和を断り、専ら、教官研究会だけに講和をしてもらうことにした。井上は自らも聴講して、具合の悪い箇所に気づくと、講和が済んでから教官たちに注意するのが通例であった。例えば、昔の武士が余りにも自尊心が強すぎて、他国、他藩を理由もなく見下げるような話があったときは、「こういうのは、うっかりすると、若い士官の自惚れを助長させる危険がある」といった具合である。

参考:平泉皇国史観:扇谷正造『現代ビジネス金言集』P.125

 私は東大の三年間(昭和七年〜十年)、ほとんど教室にはでたことはなかった。ある日、珍しく中世史の講義に顔を出した。終ると助教授の平泉澄博士によびとめられた。

「君はヤル気があるんですか」

「ハイ、あります」

「それなら、教室に顔を出したまえ」

 さすがに、その後二、三回は出席したが、“平泉皇国史観”にはどうにもついて行けず、結局、成績は丁(落第点)だった。卒業単位は十八課目だが、乙と丙が大部分である。

体験と感想:しかし以上の教育方針は引き継がれていた。皇国史観について講演を聴いたことはなかった。

▼二 英語教育について、満州事変以後、日本精神昂揚運動が盛んになるにつれて英米排斥の風潮が次第に強くなっていた。英語は敵性外国語として嫌われ、野球用語まで、ストライクを「よし」に、ボールを「だめ」に言い換えるような有様であった。その傾向は年を追って激しくなり、特に太平洋戦争開戦後は、中学校でも英語の授業を減らしたり、廃止するころが多くなった。

 こうした世相を反映して陸軍士官学校では、生徒の採用試験科目から英語を除くことになった。海軍省教育局も、兵学校に対し、非公式ながら学校側の意見を聞いてきた。

 井上は、明快な口調で断を下した。

 「兵学校は将校を養成する学校だ。およそ自国語しか話せない海軍士官などは、世界中どこへ行ったって通用せぬ。英語の嫌いな秀才は陸軍に行ってもかまわぬ。外国語一つもできないような者は海軍士官には要らない。陸軍士官学校が採用試験に英語を廃止したからといって、兵学校が真似することはない」

 井上の決裁によって、採用試験に英語が残されたことははむろん、入校後の生徒教育でも、英語が廃止されることはなかった。多数意見を却下された教官たちの間には「校長横暴」の声もあったが、「こいう問題は、多数決で決めることではない」とする井上の考えは不動であった。

 戦後になって、井上のこの措置は卓見であった、と一般に言われている。アメリカの海軍では、対日戦争開始と同時に日本語の講座を開設していたのである。

 英語教育について、井上は、少ない英語の授業時間の中で「センス」を養成する方策として「極メテ大胆ナル表現ナルモ」としながらも、次のような一案を英語教官たちに提案した。

 (一) 兵学校ノ英語教育ハ、文法ヲ基礎トシ根幹トスベシ
 (ニ) 英語はハ頭ヨリ読ミ意味ノ分カルコトヲ目標トスベシ。英文ヲ和訳セシムルハ英語ノ「センス」ヲ養フルニ害アリ、〔中略〕和訳ハ英語ヲ読ミ乍ラ英語ニテ考フルコトヲ妨ゲ、反対ニ英語ヲ読ミ乍ラ日本語ニテ考フルコトヲ強フルヲ以テナリ
 (三) 常用語は徹底的ニ反復活用練習セシムベシ
 (四) 常用語ニ接シテハ、ソノWord Familyヲ集メシメ、語変化ニ対スル「センス」ヲ養フベシ
 (五) 英文和訳ノ害アルガ如ク英語ノ単語ヲ無理ニ日本語ニ置キ換ヘ訳スルハ、百害アリテ一利ナシ。英語ノ「サービス」ノ如キ語ヲ日本語ニ正確ニ訳シ得ザルハ、日本ノ「わび」トカ「さび」トカ云フ幽玄ナル語ヲ英語ニ訳シ得ザルト同ジ

 生徒に、長年親しんできた英和辞典の代わりに、英英辞典を使用させるよう要望したのも、こうした井上の考えによるものであった。 

▼体験と感想:私は海軍軍人は軍人であると同時に船乗りであると思う。このことを忘れたものは兵学校で教育を受ける資格はないのではないかと。私たちも終戦になるまで英語の授業はあった。しかも上述の英英辞典を生徒一人一人に配布されていた。


東大卒業生のメリット

 私が思い出すのは、元東大総長小野塚喜平博士の、学生時代に聞いた演述である。

 小野塚博士は一年中、内外の新聞雑誌に広く目を通しているといわれていた。それは毎年の卒業式において何をしゃべるか、ということのためといわれていた。それはいわば博士の時代との対決であったろう。ある年、こういうあいさつをされた。

 「東大卒業生が、もし誇りうるものがあるとすれば、それは何か? 諸君は日本語以外にの他の外国語を一つ修得していることである」

 正直、このあいさつを聞いた時は、ガッカリした。あまりにも平凡なのである。しかし、後年になって、この意味の深さを知るようになってきた。

 時は、昭和七、八年ころである。満州事変はすでにはじまり、日本国内は急速に国家主義的色彩にぬりこめられ、偏狭な愛国主義が横行しはじめていた。博士のいう真意は、たぶん修得した外国語をもって、諸君は相手国の歴史人情を知り、そして戦うにせよ、手を結ぶにせよ、他日に備えよということでもあったろう。今にして私は博士の識見に思いをいたすのである。ここで博士のいわれたことは「知彼」ということで、それは国としても個人としても同じことである。そして個人の場合、「知彼」のためには“聞き上手”が最良の武器となる。では具体的には聞き上手とはどういうことか。

扇谷正造『聞き上手・話し上手』(講談社現代新書)P.60より


 三 井上の死生観の指導について、自らの考え方を教官たちにこう語った。

 「武道や禅の修業で、生死について悟りを開くなどという人もいるが、普通の人間がそんな境地に簡単に達せられるはずがない。海軍機関学校では、『事に臨んで従容として死につく』ことを強調しているようだが、これは死を美化するようで、どうも無理がある。『葉隠』の『武士道とは死ぬことを見つけたり』では、ちょっと死というものを大騒ぎする感じだ。死にさえすれば人から賞められる、というような誤解を起こしたら、訓育上大変なことになる」

 井上は、死に方が大事だという思想は本末転倒だと考えていた。むしろ、たとえどんなに格好が悪くても生き延びて、与えられた職務を遂行することが根本である、その結果としてぶざまな死に方をすることがあっても、そんなことは問題にしない、というのが彼の信念であった。

 この「職務第一、生死超越」という考え方そのものは兵学校の伝統であった。しかし「死を美化したい」願望は当時の軍人の誰しもが持ち易いものであった。井上はそれを真正面からとりあげて批判した。

 井上が離任したあと、小松輝久校長の時代に、生死の問題に迷って自殺した生徒が出た。しかし、結局は、井上が強調していた「職務第一、生死超越」という考え方で生徒を指導することに落ち着いた。

▼体験と感想:私は直接に生死のあり方について教育された記憶がない。ただ、卒業前の上級生徒たちは真剣にお互いが話し合っていたように感じる場面はみることがあった。現在の学校制度では私は高校を卒業したばかりの年齢であった。兵学校在学中、 『戦陣訓』は読まされたことはなかった。

 海軍兵学校に短期間在籍したわたしが現在の問題と少しは関連する井上成美海軍兵学校校長の指導の一部のみを取り上げました。私自身がこの文章は不十分だとの感じています。
 冒頭に「私などはこういう海軍の小説は限られた人にしか読まれまい、とても若い連中の心をひきつけないぜ、と作者に言っていたのだが、と遠藤周作氏が言っていますが、機会がありましたら、『井上成美』(井上成美伝記刊行会)、阿川弘之『井上成美』などをお読みください。

参考:海軍兵学校歴代海軍兵学校長をご覧ください。

  平成二十年三月六日、平成二十三年一月三日読み直す。


 井 上 成 美 提 督 を し の ぶ

昭和五一年一月三一日東郷記念館での井上成美元海軍大将追悼会における阿川弘之氏の講演

 私は同じ海軍仲間と申しても、戦争末期の三年間を予備学生出身の士官として海軍に御奉公しただけのものであります。江田島において井上校長の薫陶を受けたこともありませんし、まして艦船部隊や海軍省部下として井上提督のお仕えしたこともありません。ただ、戦後横須賀市に隠せいされた井上さんを二度程この海に見える丘の上の長井のお宅に訪ねて親しく長時間にわたってお話を受けたわる機会を得ました。その意味では私は井上成美大将に接することを得た数少ない文筆家の一人であります。

 時間の範囲内で追悼のおもいをこめて私の見た井上成美大将を語りたいと存じます。

 本日多くの方々からさまざまのお話が出ましたけれども、井上さんが海軍軍人として果たされたお仕事のうち、もっともおおきかったのは、やはりひとつは米内さんのもとで海軍次官として早期終戦のイニシアチブをおとりになったこと、今ひとつは江田島の海軍兵学校において校長としてあげられたご業績であろうと私は思っています。

 戦後あるジャーナリストが井上さんのことを伝えきいて井上さんにあって、「井上提督、結局あなたは生涯をリベラリストとしてつらぬかれたということになりますか。」と質問したところ、井上さんはすまして、「いいえ、その上にラジカルという字がつきます。」と答えられたという逸話がございますが、海外駐在のご経験も長かったし、そういうふうで世界の中での日本の地位、その日本海軍の使命というものについては壮年の頃から一貫して極めて真摯に見つめとおしてこられたように承知いたしております。時の風潮に流されて、新興のドイツ、イタリーと結んでもアメリカとの戦争の危険を増すだけで、日本にとって何のいいことも考えられない。ワシントン会議、ロンドン軍縮会議以来のアメリカの怨念がつもりつもって米国とのいくさをはじめたところで、日本の国力でとうてい勝てるわけがない、との冷静な判断から軍務局長時代には米内光政海相、山本五十六次官と一致して日独伊三国軍事同盟の締結に命がけで反対され、開戦の年には航空本部長としてあの有名な「新軍備計画論」を骨子とする建白書を書いて日米開戦に反対して、戦争末期には本土決戦に反対して、強行に早期終戦を主張されました。その果たされた役割は、ある意味で消極的なもの、マイナス方向のもの、陛下の御努力と似ておるところでありまし、幕末維新に際して阿波守勝海舟の果たした役割とも似かようところがあるように私は存じます。

 井上さんの胸中には、敗戦と亡国とは違う、いくさにまけても国は亡びない、この無謀な戦争になんとか早くきりをつけてあとの日本を再建することを考えねばならんという強いおもいがあったと存じます。

 軍艦大和の特攻出撃に際して乗艦中の候補生退艦を命じるように手をうたれたのも井上さんであったときいていますが、「海軍の海軍」というようなおもいは、とっくに越えておられて、これもこの若者たちに生き残ってもらって国の再建をしてもらわねばならぬというお考えからであったでしょう。それは日清、日露の役で伊藤祐幸、山本権兵衛、東郷平八郎といった諸先輩の果たしたような前向き、積極的な明るい努力ではありませんでした。暗い、つらい孤独の戦いであったとおもいます。しかし井上さんは米内さんらと共にマイナス方向への努力を積みかさね、積みかさねてよくこれをプラスに転じ、今日の豊かな日本への道を開いてくださいました。これらのことはしかしよく知られている事実でもあり、すでに皆様のお話にもでましたので、私は今からちょうど満八年前の一月、長井のお宅におじゃまして、じかにうかががった井上提督の兵学校時代のおもいで話をご紹介しておきたいと存じます。

 七十何期かのご出身の方々には失礼にあたるかも知れませんけど、こういうふうに言われました。

 昭和一七年の秋、自分が江田島に着任して様子を見ていると、生徒たちの目がつり上がっている。ものすごいつらがまえをしておる。何かこわそうな、ものを警戒するような、いやな顔をしている。ここは全寮制のいわゆるレジデンシャル・カレッジで生徒たちは全員学校で生活しているんじゃないか。生活があればそこにはホームがなくてはならない。あれはホームがある人間のつらがまえではない。家畜のような、前科三犯のような実にいやな顔つきだ。さっするにあまりにも規律が多すぎる。セレモニーが多すぎる。自分で、ものを考えて処理する余地がない。いったいあんなつらがまえで兵隊の前に出られるのか。あれは士官の顔じゃない。

 士官の顔とはそれでは何かといえば、自分の意見では、部下をひきつける何らかの徳を備えた余裕のある人相でなくれはならん。生徒をもっと遊ばせろ、と私は主張しました。

 校長横暴の声が高かったようですが、これでは教わったことがこなれない。デシプリンも必要だけれども、生活にはおのずからなるリズムがなくてはならない。人間四六時中、張切りぱなしにはりきっていられるものではない。もっと自由な時間を与えて、のびのびと生徒を遊ばせてやれ。その間に習ったことが意識の深いところに降りていって本当に自分のものになるんだ。ことに船乗りや飛行機のりとしての、手足を動かす技術などというものは、よけいなことそうだ。杓子定規なやり方はやめる、と申したのです」。また武官教官ばかりがいばっているのはいかん。普通学を大切にするという意味から文官教授をもっと大事にせねばならぬと思っていた私は「教授長」という職をつくって別の部屋を与えたりもしました。一人数学の文官教官で授業中道草をくわせるのが大変上手な人があって、私は授業を参観して感心し、「あれは道草のように見えるけれど、けっして時間の浪費になっていない。道草は馬がおいしいとおもって食べる青々とした草のことで、これは大事なことなんだ。むろんそれだけではいけないけれども、馬をやしなう道草をくう馬を不真面目な馬と思って叱ってはいかん。教授長、あの数学教授を君からほめてやってくれ。」と頼んだこともある。といわれました。そのほか、母校の江田島参観に来て一言生徒に訓示をしたそうな某大将に、井上さんが絶対に訓示をさせなかった話とか、参考館にかざってあった歴代海軍大将の肖像を、「あの中に半数国賊がおる。」といって全部おろさせてしまった話とか、兵学校における英語教育の廃止をガンとして認めなかった話とか、これらはよく知られているとおりでございます。敵性語の廃止は、当時国をあげての風潮でありまして、「天の声」、「民の声」とさえいわれたものです。井上さんのこのようなやり方に対しましては、一部に、今度の校長はなんだ。まさか福沢諭吉ではあるまいし、今は一種のかたわ教育をほどこして、一刻も早く生徒を第一線に立てるべきだという声がありました。そういう声を排して、目の前のことにすぐ役立つような教育は丁稚教育であって、そういう教育を受けた者は状況に変化が生じた時には、まったく役に立たなくなる。吾人は丁稚の要請をもって本校教育の眼目とするわけにはゆかない。我々の目標は、二十年後、三十年後に、しんに、大木に成長すべきポテンシャルをもたしむるにあって、どこの国に他国語のひとつやふたつ話せない海軍兵科将校があるか。そのような者は海軍士官として広く世界に適用すべからず。といって英語の廃止を絶対に許さなかったんです。

 私はこれらのことを、その前おじゃました時にもうかがっておりましたし、書き残されたもんでも読んで承知しておりましたが、この時私は「井上さん、兵学校での一連のああいう校長としておとりになった教育措置は、日本が負けたときのことをお考えになってのものですか。」と尋ねました。「いや大戦争の最中で、私もそこまで考えていたわけではありません。」と答えられるかと思ったら、井上提督は老いの顔をひきしめ、非常にきついお顔におなりになって、「むろんそうだ。」と言われました。「軍人はたてまえとして勅命によって戦っておる。それは私共軍職にあるもののつらいところで、生徒たちに、表向き、そんなことは一言も言うわけにいかないけども、あと一年か一年半すれば、日本がこのいくさにまけるのは決まりきったことだ。その時数千人の若者たちが、海軍といううしろだてを失っても、世の荒波に耐えて生きぬいていける。日本再建の基幹になってくれる。それだけの素養を与えておいてやるのは、せめてもの我々の務めだとおもったからだ。反対も非難もおしきってあんなことをやったのです。」とおっしゃいました。

 「そらから、当時の兵学校のことをもっと知りたければ君、小田切君がよく知っているから。」と言われ、横須賀からかえってある日、私は防衛庁戦史室に、そこに座っていらっしゃる小田切正徳大佐をお訪ねしました。小田切さんは井上校長時代に海軍兵学校に企画課長として御在任になった方であります。いろいろ貴重な話を防衛庁の一室で私にきかせてくださいましたが、その中で私がもっとも感銘を受けたのは、井上さんと鈴木貫太郎大将にまつわる一つのエピソードでございました。井上校長時代の兵学校に、その頃閑職にあった鈴木さんが、平服でブラリと訪ねてこられたことがあるそうです。校内参観が終わって貴賓室で井上校長と鈴木さんとが、さし向きに座られたそばに、いったいどんな話が出ることかと小田切さんはきき耳を立ててかしこまっていると、鈴木貫太郎大将が、「井上君、兵学校教育の本当の成果が現れるのは二十年後だぞ。いいか。二十年後だぞ。」といわれるのがきこえ、それに対し、井上中将が、我が意を得たようにうなずいておられるのがみえたと申します。鈴木さんは申すまでもなく、米内さんと並んであの戦争を終息させるにもっとも功のあった方であります。鈴木さんも米内さんも二十年後はおろか、敗戦後五年をまたずして亡くなられましたが、井上さんだけはあの時から鈴木さんの言った二十年がたち、三十年がたとうとして、教え子たちが日本の各界の中堅となって活躍する姿を見たうえで、さみしい隠棲生活ながらも天寿を全とうして亡くなられました。その意味では井上さんは幸せであったと私は思います。

 私は井上さんを深く尊敬しているものでありますが、江田島時代には今度あの校長は論理学の教科書のような男だという声がして、一部では逆に国賊とも呼ばれておりましたし、今日なお、軍制、軍略、教育の各面にあたって井上さんに対し強い批判のあることも耳にしております。井上さんはいかに偉功をたてた軍人といえども、これを神格化するなどもってのほかのこと、とのご意見で、人間を神様あつかいするのがきらいでした。今日、私などを含めて、多くの方々の声が、もしその井上さんの業績をオーバー エスティメイトし、井上さんをかりにも神格化してしまうようなことがあったら、それは井上さんのおよろこびになるところではないでしょう。

 今日の集まりでは井上批判の声は場所柄あまり聞かれませんでしたけれども、井上成美提督の編纂もおいおい進められていると承っています。その時にはどうか、堂々たる井上批判論もこれにおさめて私どもに読ませていただきたくおもいます。審判は歴史がつけます。井上さんはよろこんでその審判に服されると私は信じます。

 ともあれ井上成美大将のような方にめぐり会えたことを私は生涯の一つの幸せであったとおもっています。

 意を尽くさぬつたない話は、以上で終わります。

    この時阿川さんは威儀を正し、祭壇正面に向きなおられ、とつとつと、以下のことばをつづけられた。

 井上さん・・・・、本職の海軍軍人でなかった、・・。大学で文学なんぞ・・・学んだ者の中にも・・・。こうして、井上提督を敬慕している者が一人いることを・・・おこころのすみにおとめいただいて、どうか・・・安らかにおねむり下さい。

    昭和五一年一月三一日

       阿 川 弘 之

           (拍手)

参考1:「軍艦大和の特攻出撃に際して乗艦中の候補生退艦を命じるように手をうたれたのも井上さんであったときいていますが」については後生に道を託すをお読みください。

参考2:鈴木貫太郎大将が、「井上君、兵学校教育の本当の成果が現れるのは二十年後だぞ。いいか。二十年後だぞ。」での鈴木貫太郎大将の終戦に動かれた記事は山本玄峰老師をお読みください。

平成二十九年二月十五日:追加



          阿川弘之著                井上成美刊行会              「歴史街道」

「歴史街道」January 2002 PHP による   

海軍大将・井上成美 信念を貫いた男の覚悟の見出しで以下の記事が掲載されていました。  

対談 今こそ求められる「先見」と「実行」の人…………阿川弘之 深田秀明

命懸けで阻止せんとした戦争へのへの傾斜……………………八尋舜右
史上初の空母決戦が残したもの……………………………………池上 司
「コペルニックス的展開」をした兵学校教育………………………生出 寿
井上・高木は、いかに終戦ををもたらしたか………………………池田 清
貧しさに屈せず、姿勢を崩さず………………………………………江坂 彰
「大将の英語塾」跡を訪ねて…………………………………
特別インタビュー
「紅葉」の部屋がご贔屓でした……………………………………元 料亭「小松」女将 山本直江
 祖父との意外な共通点………………………………………………丸田研一

以上から、対談 今こそ求められる「先見」と「実行」の人…………阿川弘之 深田秀明を紹介します。

阿川弘之 大正9年(1920)生まれ 昭和17年(1942)、東大国文科を繰り上げ卒業し、海軍予備学生として海軍に入る。昭和28年(1953)、「春の城」で読売文学賞を受賞。主著に『山本五十六』『井上成美』他がある。

深田秀明 大正14年生まれ。海軍兵学校卒業(第73期)海軍中尉。横須賀航空隊テストパイロット。昭和57年(1982)、井上成美刊行会を代表して『井上成美』を発刊。1983年度の毎日出版b文化賞を受賞した。

なぜ、混乱の中で先を見通せたのか

阿川 深田さんを中心とする井上成美伝記刊行会が『井上成美』を出版して、もうすぐ二〇年になりますね。「伝記」の最近の売れ行きはいかがですか。

深田 おかげさまで現在、一四版まで版を重ねています。幅広い層に読まれていまして、企業の経営者や公務員、近頃は学校の先生など、教育関係の方がよく読んで下さっています。

阿川 それは刊行会にとってはもちろん、日本のためにもいい現象ですね。

深田 私たちがこの「伝記」を刊行した目的は三つありました。第一は、先ず井上成美を広く世間に知ってもらうこと、第二は、井上さんを世間が高く評価するような空気になってほしいということ、第三は、井上さんのような政治家が一人でも出てくれたら……ということです。一と二はほぼ目的を達しましたが、三番目はまだ駄目ですね。しかし、井上成美を広く浸透させたのは一にかかって阿川さんの作品『井上成美』です。

阿川 いや、九九パーセントの資料の出典は「伝記」に求めてるわけで、僕はこれを、いわば文学作品として再構成したようなものです。ところで、僕は昭和三九年(一九六四)に初めて個人的に井上さんにお目にかかつたんですが、深田さんは海軍兵学校生徒の時、井上さんが校長を務めていて、その頃からご存知だったわけでしょう。

深田 生徒の頃は、「またも負けたか四艦隊」などと、井上さんが長官だった頃の第四艦隊の噂を聞いていましたから、「戦に弱い軍人など何の価値もない」と単純に思っていました。私が井上さんの功績を知って、強い関心を抱くようになったのは戦後のことです。

阿川 僕は横須賀の長井のご自宅で、初めてお会いした時のことを、今でもよく覚えています。「戦争中、兵学校の英語廃止を認めなかったそうですが、それは敗戦後の日本を考えてのことでしたか。と尋ねましてね。「いや、当時そこまで考えていない」という答えを想像していたら、強い口調で、「もちろん、そうです」と言うのです。戦争中、口に出せることではないが、あと一年半もしたら日本は必ず敗ける。その時、海軍といううしろ楯を失って、敗戦後の世の荒波に若者たちが放りだされた時、どうやって。日本を再建する力になってくれる。それを考えたら、そうせざるを得なかった、と。井上さんの先見性と冷静な視点が、強く印象に残りました。

深田 先見性は井上さんの魅力の一つです。それが大きく発揮されたのが昭和七年(一九三二)の軍令部条例の改訂問題でした。陸軍同様、容易に戦争できる体制にしようしよとしたのに対し、海軍省軍務局第一課長だった井上さんは、頑として判を捺さなかった。軍令部長の伏見宮を通じて、大臣に呼ばれて判を捺すよう促されても、「これは海軍のためにも、お国のなりません」と、一課長の分際で突っぱね通します。結局、井上さんがポストを外されて、条例は通りました。海軍が戦争に踏み込む第一歩でした。

阿川 井上さんはその時、「自分は海軍を辞める。正しい道理の通らぬ海軍にはいたくない」と言い張ってますね。

深田 「意見を言う時には職を賭し、命を投げ出す位の気持ちで臨む」というのが、井上さんの意見具申の姿勢でした。この姿勢は、昭和十二年(一九三七)の海軍省軍務局長時代の三国同盟反対、また昭和十五年(一九四〇)の航空本部長時代の「新軍備計画論」提出の際も同じです。特に後者の場合は、軍令部が作成した安易な計画に対し「これは何だ。明治の頭で昭和の軍備を作っている」と喝破し、代案として自ら作ったのが「新軍備計画論」でした。その内容は、翌年から始まる太平洋戦争の推移を見事に予見したもので、戦後、アメリカの軍人が評価するほど先見性に富んだものです。

阿川 それから米内光政大臣の下で次官として働いていた昭和二十年(一九四五)、自らの大将進級に対して「この負け戦の最中に何のために大将を作る必要があるのか」と、昇進を三度にわたって拒否しています。しかも文書で拒否した軍人なんて、世界中探してもいないのではないですか。この辺、徹底した合理主義者とも言えるでしょうね。

深田 井上さんの先見性を裏づけたのは、合理的な判断ができる素養、教養だと思います。先見性と合理性は一体のものなのでしょう。

職も命も賭して信じることをやり抜く

阿川 あるギリシャの哲学者が、ローマに挑発されて暴発し滅んだカルタゴの例をひいて、こう言いました。「物事がどっちつかずの状態が、人間の精神を最も腐らせる。どちらかに割り切れた時、人間は非常な爽快さを感じる」。僕は大学でおよそ戦に関係のない勉強をしていましたが、真珠湾の大成果を聞いた時、涙が流れ、爽やかな気分になりました。泥沼の支那事変の憂欝からふっ切れたのです。その爽快さは実感できますが、これが為政者に伝染したら国は滅ぶ。英国では政治家も軍人もそのことをわきまえ、自戒し、「どっちつかず」に耐えようとしますが、日本にはその伝統がないと、京都大学の中西輝政さんが指摘しています。安易にすっきりする方へ割り切ることを、終始一貫「駄目です」と日本軍人で言い続けたのが井上さんでした。当時、それはまさに命がけで、控え目に言っても職を賭す行為です。

深田 ですから、私が井上さんを尊敬する点を一つ挙げろと言われたら、周囲の状況がどうあろうと「この流れは間違っている。変えなければ……」と一旦決めたら、職も命も賭してやる、その行動力です。井上さんは」沈黙の提督」ではありません。大いに喋り、書き、そして行動してます。

阿川 三国同盟に反対していた当時、井上さん以外にも冷静な目で見ていたいた人は、言論界やマスコミにもいたでしょう。しかし、下手なことを言えば命が危うい。当時は五・一五事件や血盟団事件など、テロが横行していた時代です。海軍次官だった山本五十六さんの首に、一〇万円の懸賞金がかけられていた位ですから。竹山道雄の「昭和の精神史」の言葉を引用すれば、「良心は疾しき沈黙を守っていた」。知性・良心のある人の多くは黙っていたのです。海軍軍人らも大声を上げない。彼らはいい意味でも悪い意味でも、ジェントルマンでした。ところが井上さんは、黙っていなかった。戦後、中山定義さん(元海軍中佐)が、愚かな選択をしたあの時代の日本の中で、僅かな誇りとして挙げることができるのが、井上さんなどの数人ではないかと語っています。

深田 ところで今、つくづく感じるのが、兵学校の教育こそ、戦後の私を支えてくれた大きな柱であったということです。合理的な判断をするためには、広い意味での教養が不可欠ですが、兵学校の教育がそれでした。これこそは、普通学を重視した井上校長のおかげなのです。当時、生徒の私たちは、下らん普通学などよりも、軍事学、特に航空術を早く学んだ方が、直接お国に尽くせると思っていました。親の心子知らずというところです。

阿川 井上さんは、この若者たちが敗戦後の日本を建て直すのだと思っていたわけですね。

深田 開戦後、アメリカ海軍ではすぐに日本語の特修を始めたのに、日本では敵性晤の英語教育を廃止しようという風潮になりました。兵学校でも、入学試験での英語廃止に対して大多数の教官が賛成する中で、井上さんは断固として「マザー・ランゲージ以外話せないような将校は、日本海軍には必要ない」とビシッとやった。そうして「こいうものは多数決で決めるべきではない」とも言っています。

阿川 井上さんは、海軍の良き伝統を頑固に守り抜いた一人でしょう。僕も深田さんも海軍出身だから、海軍贔屓と思われるかもしれませんが,日本全体から見て、真の知性と良識のある人が海軍上層部に多かった。鈴木貫太郎、岡田啓介、米内光政、高木惣吉といった人々です。外国なら救国の英雄として、街角に銅像が建っても不思議ではない位の人々ですが、残念なことに彼らの功績は、いかに本土決戦をせずに終戦に持ち込むかという、命がけではあっても、軍人としてマイナスの仕事でした。

戦後、ずっと感じ続けていた責任

深田 昭和十九年(一九四四)、井上さんは米内大臣の下で海軍次官に就任します。各資料にに目を通した井上さんは「現在の状況はまことにひどい。日本は負けるに決まっている。一日も早く戦をやめる工夫が必要です」と米内さんに意見具申し、承認を得ました。そして高木惣吉教育局長に、戦争終結ンお研究するよう命じます。この時のことを戦後、高木さんは「私は井上さんのお使い小僧に過ぎなかった」と言い、井上さんは「高木が電流の入ったモーターの如く自動した」と、お互いに功を譲りあっています。井上さんが次官として登場する背景には、岡田啓介さんの、米内・井上コンビでなければ、終戦までの難局を乗り切れないという判断があったといいます   。

阿川 当時、一億玉砕を唱える陸軍の暴走を止められるのは、海軍しかありませんでした。しかし、国を救うためには陸軍を潰すとともに、海軍を潰す決心もしなくてはなりません。これは大企業の社長が、社員全員を放り出して会社を潰す決心を」するより、遥かに大変なことです。それを彼らはやり遂げたわけです。

深田 それをやらなければ、国が滅びてしまう。本土決戦などやろうものなら、国民性からみても徹底抗戦し、和平交渉の母体そのものがなくなり、日本民族は滅亡しています。

阿川 今の若い人たちは「僕たち、関係ないもん」なんて言いますが、関係は大ありです。本土決戦を」やっていたら、皆この世に生まれていない可能性の方が高いわけですから。

深田 それらを踏まえて、井上さんはとにかく一日でも一刻でも早く、戦を終わらせようとしました。ところが米内・井上コンビですが、米内さんは真っ先に十字架を背負う人。これに対して井上さんは、泥水をかぶるのを嫌う人です。「政治は妥協だ」と言いますが、井上さんはバランスをとって、陸軍や政治家の間をうまく泳ぐタイプではないのです。むしろ味もそっけもなく、本当のことをズバッと言う人です。

阿川 そういう意味で、大臣の器じゃない、海軍次官こそ適任だったと言う人もいます。米内さんに仕えて、はじめて光る人だと。だからtこいって、井上さんの人材としての価値が下がるものではない。

  深田 戦後、井上さんは横須賀の長井で、まったく世に出ず、ひっそり暮らしていました。

阿川 家庭的には恵まれませんでした。井上さんが第一課長になった時に、奥様が肺病で亡くなられ、一人娘のしずこさんを再婚もせず男手一つで育てて、海軍軍医の方に嫁がせました。ところがご主人は比島沖海戦で戦死し、病身のしずこさんも戦後亡くなって、幼い孫の研一さんがのこっただけでした。

深田 生まれ故郷の仙台にも、井上さんにまつわるものは何もありません。米内さんは盛岡に「盛岡市先人記念館」、山本さんは長岡に「山本元帥景仰会」、「山本五十六記念館」がありますが、井上さんは何もありません。井上さんは郷里とのつながりが薄く、戦後暮し、生涯を終えた横須賀も同様です。土地や家族との結びつきが希薄でした。

阿川 戦後、長井のお住まいを訪ねた時、同行した新聞記者の取材の謝礼を、井上さんは固辞されました。裕福に暮らしているかといえばそうではなく、赤貧に近い生活なのにです。「どうしても頂くわけにはいかないん」と、受け取らなかった。徹底したすごい人だなと思いました。あれほど語学力があり、終戦時、五六歳という年齢であれば、多くの会社で重く用いられると思いますが、それを一切断っています。たぶん、自分が戦争を防ぐことができなかった責任を感じておられたのでしょう。

深田 それが井上さんの責任感です。海軍次官という政治の中枢で力を発揮できる立場ににいながら、戦争終結を早めることができなかった。その責任を、ずっと感じておられたのです。米内さんとの意見のくい違いもそこにありました。どこかで米軍に打撃を与え、少しでも有利な立場になってから講話に持ち込もうと考える米内さんに対して、「一刻も早く戦いをやめないと、何千何万の人命が失われる」と主張したのが井上さんでした。井上さんは終生、自分の力の足りなさを口にしていました。それと対照的なのが開戦時の海軍大臣嶋田繁太郎で、戦後、海上自衛隊の遠洋航海の歓送会で、海軍の先輩として送辞を述べたことがあります。そのことを私が申し上げると、井上さんは「恥を知れ」と激怒しました。一切表に出ず、赤貧の生活を送ることが、井上さんなりの責任の取り方だったのでしょう。

阿川 近所の子供たちに教えた英語塾も、ほとんど生活費の足しにはなっていません。むしろ最初の頃は、持ち出しの方が多かったのではないでしょうか。でも、習った当時の子供たちは、皆感謝しているようですね。そして、井上さんを無理やり説得して、金銭的に援助したのが、深田さんたちです。

深田 会社に入っていないと保険が効きませんから、医者にかかると大変な金額になります。そこで私の会社の顧問になって頂いて、健康保険証をお渡ししましたら、大変喜んでくれました。これは今でも良かったなと思っています。井上さんが会社の顧問だということは、生前はもちろん、亡くなられてからも、私たちは誰にも話しませんでした。

阿川 戦後何十年にもわたって公の場に出ず、責任を取った海軍提督は、井上さん以外にはいないでしょう。しかもそれを生涯貫き通したわけです。あまり自慢できないことの多い二〇世紀前半の日本の歴史の中で、井上さんは輝く点のような、大切な存在だと思います。現在のような、どこか戦前にも似た「どっちつかずの時代」にこそ、日本人が再認識すべき人物tこいえるのではないでしょうか。

参考1:井上成美の名前は、父親からつけられた。それは、論語からのものであります。

巻第六 顔淵第十二 十六 

子の曰く、君子は人の美を成す。人の悪を成さず。小人は是れに反す。

先生がいわれた、「君子は他人の美点を[あらわしすすめて]成しとげさせ、他人の悪い点は成り立たぬようにするが、小人はその反対だ。」(岩波文庫)P.165

参考2:歴史街道のバックナンバーをご覧ください。

平成二十九年三月五日:追加


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原子爆弾雑話

 私の見たキノコ雲―新型爆弾が原子爆弾へ―に、キノコ雲を見たひとりとしての体験、そして当日の教官の話も記載いたしました。

 戦後、中谷宇吉郎氏の下記記事を読み、日英との科学の差の大きさに驚かされたものでした。

下記の参考に書かれているように、太平洋戦争終戦後、わずか一ヵ月あまりに発行された「文藝春秋」の記事であることを念頭におかれまして、お読みください。

 寄稿者:中谷宇吉郎

 昭和十二年の七月北支の蘆溝橋に起こった事件は、その後政府の不拡大方針にもかかはらず、目に見えない大きい歴史の力にひきずられて漸次中支に波及して行った。そして十月に上海が没ち、日本軍が首都南京に迫るに到って、漸く世界動乱の萌しが見えて来た。
 丁度その頃、私は『弓と鉄砲』という短文を書いたことがある。切抜帳を開いてみると、それは十二年十一月の東京朝日にかいたものである。

 弓と鉄砲との戦争では鉄砲が勝つであろう。ところが現代の火器を丁度鉄砲に対する弓くらい価値に貶してしまふやうな次の時代の時代の兵器が想像できるであろうか。

▼火薬は化合し易い数種の薬品の混合で、その勢力(エネルギー)は分子の結合の際出て来るものである。その進歩が行き詰まって爆薬の出現となったものであるが、爆弾の方は不安定な化合物の爆発的分解によるもので、勢力の源を分子内に求めている。勿論爆薬の方が火薬よりずつと猛威」を逞しうする。この順序で行けば、次に之等と比較にならぬくらゐの恐ろしい勢力の源は原子内に求めることになるであろう。

▼原子の蔵する勢力は殆ど全部原子核の中にあって、最近の物理学は原子核崩壊の研究にその主流が向いてゐる。原子核内の勢力兵器に利用される日が来ない方が人類の為に望ましいのであるが、もし或る一国でそれを実現されたら、それこそ弓と鉄砲どころの騒ぎでなくなるであろう。

 さういふ意味で、現代物理学の最尖端を行く原子論方面の研究は、国防に関聯ある研究でも一応の関心を持ってゐて良いであろう。しかし此の研究には捨て金が大分要ることは知って置く必要がある。劔橋(ケンブリジ?)キャベンディシュ研究所だけでも六十人ばかりの一流の物理学者が、過去十年間精神力と経済力とを捨石として注ぎ込んで、漸く曙光を得たのであるということくらゐは覚悟しておく必要がある。

▼この短文を書いた頃は、今回の原子爆弾の原理であるウラニュムの核分裂などは勿論知られてゐなかったし、キャベンディシュの連中を主流としした永年に亘る研究も漸く原子核のの人工破壊の可能性を実験的に確かめたといふ程度であった。しかし現代の方向に発展して来た科学の歴史をふり返つてみると、順序として次の時代の勢力の源は原始の内部、即ち原子核の中に求めることになると想像するのが一番自然な考え方のやうに私に思はれた。

 分子と分子の破壊による爆弾、分子の構成要素である原子の崩壊による「原子爆弾」とならべてみて、その順序をつけるのは勿論人間の頭の中でのことである。ところが本当にその順序の通りが実現するところに自然科学の恐ろしさあるのである。

▼この短文を書いた頃より一寸以前に、私は国防関係の要路の人に会った時に、二・三度こういふ意味のことを話したことがある。勿論我国でも此の時代に既に理研の仁科博士の下や、阪大の菊池教授の所で、原子物理学関係の実験が開始されてゐたので、さういふ方面からも箴言があったことであろう。しかし何十年か先のことで、しかも果して兵器として実用化されるかどうかまるで見当のつかない話を本気で取り上げる人は無かつた。やれば出来るに決まってゐることをやるのを研究と称することになってゐた我国の習慣では、それも致し方ないことであった。

▼ところが、当時海軍の某研究所長であった或る将官が、真面目に此の問題に興味を持たれて、一つ自分の研究所でそれに着手してみたいがとといふ相談があった。理研や阪大の方に立派なその方面の専門家が沢山居られるのに、何も私などが出る必要はないのであるが、話をした責任上とにかく相談にはあづかることになった。
 今から考へてみれば、あの時それだけの研究費を既に原子物理学方面の実験を開始してゐる専門家たちの方へ廻して貰つた方が、進歩が速かつたことであろう。しかし何萬円という研究費を毎年出すとなると、やはりその研究所の中で仕事をしなければならないとといふのが当時の事情であつた。何萬円というのはその研究所としても可成り多額とかんがへられててゐた時代のことである。

▼当時私の研究所では原子物理学の研究によく使はれる或る装置を使つて、電気火花の研究をしてゐた。それで実験技術としては満更縁の無い話でもないので、私の所の講師のT君が私の方を辞めてその研究所へはひつて、専心その方面の仕事を始めることになつた。

 もつともこれは随分無理な話で、英米の世界一流の学者が集まて、金に飽かして鎬を削つて研究してゐる方面へT君が一人ではひつて行つて、その向ふが張れる筈はない。それでかういふ条件をつけることにした。それは、もともと無理な話であるから、始めから英米の学者と太刀打をさせるつもりではなく、先方の研究の発表を待つて、その中の本筋の実験を拾って、こちらでそつくりその真似をさせて貰いたいといふのである。随分卑屈な話のやうであるが、それが巧く行って、英米の研究にいつでも一歩遅れた状態で追随して行けたら、大成功である。さうなつて居れば、先方で原子核勢力の利用が実用化した時には、こちらでも比較的楽にその実用化にとりかかれるはずである。原子兵器の出現の遭つてから、慌ててその方面に関係した器械を注文するといふのでは仕様がない。しかしそれに類した事が、実際に屡々起こっているのである。器械に馴れてゐるといふことの強味は、実際に実験をした事のある人でないと一寸分からないくらゐ有力なことである。もつとも新しい下駄でさへ履きづらいものであるから、新しい物理器機がさう簡単に働いてくれる筈はない。

▼その将官の人は大変理解のあるひとであつて、この話にすぐ賛成してくれた。そしてT君が入所したらすぐ一通りの器機の注文をすまさせて、欧米の関係研究室を見学させるといふ話になつた。とりあへず十萬円くらゐは出してもいいといふことである。今度のアメリカの原子爆弾完成に要した費用二十億弗と較べては恥ずかしい話であるが、当時の我が国としては破天荒なことであつた。

▼此処までは話は大変面白いのであるが、愈々T君ががその研究所の人となつて、一通りの器機をととのへるべくその調査にかかつたら、間もなくその所長が転出されることになつた。支那事変が漸く本格的な貌を現して来て、今更研究どころでないといふ風潮がそろそろ国内に漲り出した時機である。それで真先に取止めになつたのは、此の原子関係の研究であつた。折角勢ひ込んでゐたT君は、「もう戦時体制にはひたのだから、さういふ研究は止めて、砲金の熱伝道度の測定を始めてくれ」といふことで、急に金属物理学の助手に早変りすることになつた。これで私の「原子爆弾」の話はおしまひである。誠に飽気ない話である。

▼ところが人類科学史上未曾有の大事件たる原子爆弾の研究に、かういふ企てを試みることすら、いささかドンキホーテ的であつたことが、今度のアメリカの発表でよく分かった。T君はいはばいい時にドンキホーテの役を免ぜられたものである。と言ふのは、もしあの時の将官がその儘続いて在任され、どんどん研究費を出し、学者の数を増やし、大いに頑張つてみても、我が国ではとても原子爆弾が出来る見込みは無かつたと私には思はれるからである。それは日本には原料たるウラニウムが無いとか、ラジユム源の貯蔵が少ないとかいふ問題ではない。それは国民一般特に要路の人たちの科学の水準の問題と、今一つは国力の問題とである。

▼私たちが「弓と鉄砲」の話をかつぎ廻つてゐた翌年の昭和十三年には独欧州墺合邦といふ爆弾宣言が欧州を一挙に驚愕の淵に陥れた。そして次の年には独ソ不可侵条約が締結され、秋にはポーランド問題をめぐつて英国が独逸に対して宣戦を布告したのである。翌十五年は欧州平野にに於ける大機動戦、巴里の開場、倫敦の大爆撃に暮れ、十六には今次の戦争は遂に独ソの開戦、米国の参戦といふクライマツクスに達している。此の間勿論我が国でも支那事変が遂に世界戦争の面貌を現して来て、「研究どころの騒ぎでは無く」なつてゐたのであるが、英米側にとつてみれば、此の四年間はそれこそ日本の立場どころでは無かつたのである。

▼その間にあつて英米両国の原子方面の科学者達は、まるで戦争など何処にも無いかのように、今迄通り宇宙線の強さを測ったり、原子の崩壊に伴ふ放射線の勢力の測定をしたりしてゐたのである。此の方面の実験には膨大な設備と莫大な費用とをようするのであるが、米国では殆ど此の方面の研究を一手に受けた形で、どんどん施設をして行つたのである。そして米国の参戦と同時に先ず行つたのが米英の科学研究の協定であつた。目星しい英国の学者たちはアメリカに渡つて、それに協力をすることになつた。独逸から追はわれたユダヤ系の科学者たち、それは独逸の科学を建設した人たちであるが、それ等の人々も殆ど全部アメリカに渡つて、甚大な貢献をしたのである。ヒツトラーは自分で自分の腕を切り落としたたやうよなものである。昭和十五年、ヒツトラーが欧州を平定して巴里に入り、ドーバー海峡越しに英本土を指呼の間に睨んでゐたあの最得意の時期に於て、既に伯林の悲運の萌しが見えてゐたのである。此の間の消息は昭和十五年の十月、東京朝日に書いた『独逸の科学誌』を転載させて頂くのが早道である。

▼同僚の物理学者で、新しい論文を読んでゐる男が、この一二年来独逸の雑誌に出る論文が著しく質が低下したやうに思ふといふ話をした。私もうすうすさういふ気がしてゐたので、直ぐ賛成して、この調子で行くと、結局米国が物理学界で覇をとなへるやうになるかもしれないなどと話合つたことがる。

 独逸科学の心酔者に言はせれば、外に発表するのはつまらぬことだけで、本当に大切な研究は隠してゐるから、一見独逸の学問の水準が下がつたやうに見えるのだといふかもしれない。しかし、それだと論文を読んで見れば何となくさういふ気配が感ぜられるはずである。

 さうすると、独逸が今度の戦争で使つてゐる科学兵器の優秀さには異論がないから、基礎科学などは、どうでもよいもののやうに見えることになる。しかし私たちは、現在の独逸は、ナチスに追放された偉い学者たちが、まだ独逸にゐた頃の学問的遺産を、いま力一杯に使ひ切つてゐるのではないかと思つてゐる。

 事実独逸が遺産を食ひ潰してゐる間に、米国ではどんどん貯蓄して行つてゐたのである。あらゆる種類の元素について、その原子を人工的に崩壊させてみて、その時に出る勢力と放射線の性質とを調べるといふ風な同じやう論文がいつまでも根気よく米国最大の科学誌『物理学評論』に毎月いくつと出てゐる。見る方で根気負けがするくらゐ沢山の論文が出ても、何時になつたらこれが次の時代の勢力源として実用化されるか、まるで見当がつかない状態で過ぎて行つた。

▼ところが昭和十六年になつて、遂にウラニウムの核分裂といふ新しい現象にぶつかつたのである。その論文が日本に届いたのは、確か大東亜戦勃発の半年くらゐ前であつた。ラサフオードがキャベンディシュ研究所の俊秀を総動員して、世界の物理学の主流を原子構造論から一歩進め原子の内部に足を踏み込ませ、原子核構造論の樹立に眼を開かせてから約十年、それを受けたアメリカが、莫大な物と金と人とを困難な実験に注ぎ続けて更に約十年、やつと此のウラニウムの核分裂の発見によつて、原子内に秘められた恐るべき力が科学者の前に初めてその姿の片鱗を現したのである。

 しかし此の現象の発見によつて原子爆弾が半ば出来たのではない。原子の性質として知られた此の核分裂現象の発見は、いはゞ富士山を作つて居る土の粒子の性質が知られたやうなものである。その土の粒子を一粒一粒集めて富士山を作る仕事が、本当に原子爆弾を作る仕事なのである。

▼ウラニウムの核分裂の発見から原子爆弾に到達するまでに、平時だつたら三十年とか五十年とかの年月を要するだろうと考えへるのが普通である。実際のところ私なども、原子爆弾が今度の戦争に間に合はうとは思つてゐなかつた。大東亜戦争勃発後ルーズベルトが此のウラニウムの核分裂の研究に着目し、これを新兵器として使ふべく、チヤーチルと協力して、両国の物理学者を総動員したといふ噂をきいても、聊か多寡をくくつてゐた。いくらアメリカが金を使ひ人を集めたところで、二年や三年で出来るべき性質の仕事ではないと考へられたからである。 

▼ところが実際にそれが使用され、やがてその全貌が明らかにされて来て、初めて今度の戦争の規模が本当によく理解されたのである。アメリカのことであるから何百人の科学者を動員し、何千萬円といふ研究費を使つてゐるのかもしれないが、それにしても今度の戦争にすぐ間に合ふといふやうな生易しい仕事ではない筈である。かういふ風に考へてゐたのは私たちばかりではないらしい。ところがそれがまるで桁ちがひの数字であつたのである。「発見までには二十億ドルを費」し、「六萬五千を超える」技術作業員を擁した大工場が、極秘裡に進められてゐようとは夢にも考へてゐなかつたのである。

 此の金額や人員の数は、航空機の生産の場合などには、我が国でも何も珍しいことではない。しかし驚異的の超速度で進められとはいふものの、此の原子爆弾の完成には四ヶ年近い年月を要してゐる。そして今年の七月十四日に「全計画の成否を決定すべき一弾」がニューメキシコ州僻地の荒蕪地に建てられた鉄塔の上に吊るされるまでは、それが本当に全世界を震駭させる爆弾として完成されたか否はか分ららなかつたのである。科学者たちは多分出来るであらうと言ふが、果たして必ず出来るか否かは分らない仕事に、これだけの費用と人とをかけるといふことは、われわれには夢想だに出来なつたのである。

 少し笑話になるが、我が国でも今度の大戦中、或る方面で原子核崩壊の研究委員会が出来てゐた。そこの委員である一人の優秀な物理学者が、関係官庁の要路の人の所までわざわざ出かけて来て、その研究に必要な資材の入手方の斡旋を乞はれた。その要求が真鍮棒一本であつたといふ話である。冗談と思はれる人もあるかもしれないが、私は自分の体験から考へて、多分それは本当の話であろうと思つてゐる。
 いくら日本が資材に乏しいといつても、かういふ重要な問題の研究に、真鍮棒一本渡せない筈はない。無いものは真鍮棒ではなくて、一般の科学に対する理解なのである。そしてそれほどまでに科学者以外の人々が科学に無理解であるといふことは、煎じつめたところ国力の不足に起因するであろう。

▼新しい日本の建設は、まず何よりも国力の充実に始まらなければならない。そして本当に充実した国力からのみ新しい時代の科学が産れるのである。もつともかういふ風に言ふと、そのやうにして産れた次の時代の日本の科学といふものが、今回のものよりも更に強力な新しい原子爆弾の発明を目指してゐるやうに誤解されるかもしれない。しかし私は負け惜しみでなく、原子爆弾が我が国で発明されなかつたことを、我が民族の将来の為には有難いことではなかろうかと思つてゐる。「原子核内の勢力が兵器に利用される日が来ない方が人類の為には望ましい」といふ考へは、八年前も今も変らない。今回の原子爆弾の残虐性を知つてからは、科学も到頭来るべき所まで来たといふ気持ちになつた。

 遠い宇宙の果ての新星の中では起こつてゐることかもしれないが、われわれの地球上ではその創生以来堅く物質の究極の中に秘められてゐた恐るべき力を到頭人間が解放したのである。開けてはならない函の蓋を開けてしまつたのである。これは人類滅亡の第一歩を踏み出したことになる虞れが十分ある。今回の原子爆弾は原子火薬を使ふものとしては火縄銃程度と考へるのが至当であろう。この火縄銃が大砲にまで進歩した日のことをありあり想像し得る人は少ないであろう。

▼新しい発明の困難さはそれが果たして本当に出来るか否かが分からない点にある。一度何処かでその可能性が立証されてしまへば、もう半分は出来たやうなものである。米英両国以外でも間もなく色々な型の原子爆弾が出来る日はさう遠くはあるまい。そしてそれが長距離ロケット砲と組合はされて、地球上を縦横にとび廻る日の人類最後の姿を想像することは止めよう。

▼「科学は人類に幸福をもたらすものではない」といふ西欧の哲人の言葉は益々はつきりと浮かび上がつて来さうな気配である。しかし科学といふものは本来はさういふものでない筈である。自然がその奥深く秘めた神秘への人間の憧憬の心が科学の心である。現代の科学は余りにもその最も悪い一面のみが抽出されてゐる。われわれの次の時代の科学者はもつとその本来の姿のものであつて欲しい。さういふ願ひを持つ人は、我国ばかりでなく、米国にも英国にも沢山居ることであろう。


参考:この資料は文藝春秋の戦後の創刊号である。昭和二十年九月二十日印刷 昭和二十年十月一日発行 特価:六十銭
◆愛読者諸子へ
 ○本社発行雑誌の直接販売は一切中止しましたので洵にお気の毒ながら、今後直接御注文は受けられませでぬ故、最寄書店へ予約御購読をお願ひします。
 ○昨今品不足のため、手に入らぬ方が多いと思はれますので、一冊を是非一人でも多くの方で御回覧願ひ度いものです。

平成二十年八月六日 廣島原爆投下の日、平成二十三年八月再読。平成二十四八月補正。


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大久野島と毒ガス製造


 「NHKTV 午後8:00〜8:45 ふるさと発 スペシャル カルテに刻まれた叫び大久野島毒ガス患者の記録▽生涯かけた一人の医師」が放映された。

 内容:広島県竹原市(忠海町)の沖合いの大久能島について。

 行武正力医師(2009年3月になくなられた)

 4,000名のカルテを書き続けられて残されている。呉共済病院忠海病院(現在は呉共済病院忠海分院)に勤務されていた。

 周囲4Kmの島で、「イペリットルイサイト」と「くしゃみガス」(赤筒と呼ばれていたものに詰め込まれていた)

 行武正力先生は証言集を作られている。「化学兵器は核兵器と変わらぬ」といわれている。

 昭和14年、毒ガス兵器を中国で使用。また捕虜を使って赤筒の人体実験を行う。

▼戦後、連合軍が処理した。海に投下廃棄処分した。その際にも事故が起こっていた。

 行武正力のお嬢さんが証言集の完成に現在努められていることが報道されていました。

 廣島県立忠海中学の高学年の生徒たちも動員されて、空のドラム缶の運搬作業などをさせられていた。私も短期間この作業に従事したので、この番組をTVにかじりついて見させていただいた。

 今まで概略はもれ知っていましたが詳しくは知りませんでした。

 以下にインターネットで検索したものの一部を取り上げました。ご参考にしてください。


参考

 1、「行武正刀」でインタネットで検索して「化学兵器の傷害作用」を読んでください。

 2、「行武正刀氏死去 / 元忠海病院院長」

   高知新聞:2009年03月27日19時02分

 行武 正刀氏(ゆくたけ・まさと=元忠海病院〈現呉共済病院忠海分院〉院長)26日午後3時23分、肺がんのため広島市中区の病院で死去、74歳。広島県出身。自宅は広島県三原市円一町5の9の14。葬儀・告別式は28日正午から三原市古浜2の2の15、三原典礼会館で。喪主は長男正伸(まさのぶ)氏。

 広島県・大久野島(忠海は現在は竹原市に含まれる)で旧日本陸軍の毒ガス製造に携わり後遺症に苦しむ元工員約4、000人を40年以上診察。治療方法の研究に尽くした。

 3、『近代日本総合年表』第二版によると

 1943年(昭和18年):6.25 閣議、学徒戦時動員体制確立要綱を決定(本土防衛のため軍事訓練と勤労動員を徹底).
 1944年(昭和19年):1.18 閣議、緊急学徒動員方策を決定、学徒勤労動員は年間4ヵ月を継続して行うこととする.
               :3.07 閣議、学徒勤労動員を通年実施と決定.

参考1:毒ガス島歴史研究所の活動 2000

平成二十一年六月二十七日

▼平成二十八年二月五日、故郷に住んでいる弟からの電話では、外人客が多くて、島にある宿泊所は満員であると。何が外人を呼ぶのだろう?


<終戦記念日>ヒロシマの加害語る 学徒動員され毒ガス製造

毎日新聞 8月14日(日)22時45分配信

大久野島(写真奥)での体験を振り返り「戦争は一般市民も加害者にしてしまう」と話す岡田さん=広島県三原市で、高田房二郎撮影

 原爆被害の重い苦しみを負いながら、学徒動員で毒ガス製造に関わった体験から自らの加害責任を語り伝える女性がいる。「戦争で受けた苦しみを知るからこそ、加害者としての責任も語り継がなければならない」。8月15日は終戦記念日。【高田房二郎】

【毒ガス原材料の積出し(岡田さんの画集から)】

 広島県三原市の元美術教諭、岡田黎子(れいこ)さん(86)は、高等女学校に通っていた1944年秋、瀬戸内海の大久野島(同県竹原市)へ動員学徒として派遣された。旧陸軍は29年からこの島で、国際法で禁じられた毒ガスを極秘裏に製造。日中戦争で生産量は急増し、最盛期には5000人以上が島で働いたとされる。

 「ここで見聞きしたことは、家族にも言ってはいけない」。軍人からそう厳命され、何を作っているかは一切知らされなかった。

 ある時、空襲時に使うようにと配られたガスマスクを試着した生徒が「顔がひりひりする」と騒ぎに。周辺の松は枯れ、工場の排煙を吸うと頭痛がした。そんな話から「毒ガスを作っているらしい」とうわさになった。不安を感じつつ、薬品が入ったドラム缶運びやガスを詰める筒作りに追われた。

 45年8月15日、日本の敗戦で戦争は終わり動員は解除に。しかし数日後、原子爆弾で壊滅的被害を受けた広島へ救護に行くよう校長命令が下り、同県廿日市市の救護所で、食事作りにあたった。被爆者たちが次々に息を引き取り、配った食事が枕元に手つかずのまま残された。

 約2週間で任務を終えると、原因不明の発熱や下痢、出血が続いた。原爆症だった。体調の波は長く岡田さんを苦しめた。

 戦後、京都の大学を出て教壇に立った岡田さんは、積極的に戦争体験を語った。

 昭和が終わる頃、島での体験をまとめた画集を発行。制作の過程で、毒ガス兵器が中国で被害を与えたことを知り、中国の大学や戦争資料館などに製造に携わった者として謝罪の手紙を添えて送った。

 これまでに3冊の画集に体験をつづり、平和集会などで講演を重ねてきた。島での体験を描いた絵は島内にある毒ガス資料館で公開されている。

 「広島は原爆の被害が強調されがちだが、私たちには戦争に加担した事実もある。戦争は被害、加害の両面を一般市民にもたらすということを知ってもらい、平和が続くよう話し続けたい」

平成二十八年九月十三日


参考:有吉佐和子『複合汚染』(新潮社)は、朝日新聞の小説欄に昭和四十九年十月十四日から連載されたものです。昭和五十年四月十五日印刷 昭和五十年四月二十日 発行。

 広島県下の大久野島は、戦後三十年たつた今も草木が生えず死んだままである。戦争中に毒ガス工場で働いていた作業員の肺ガンによる死亡率は、広島県一般の四十倍という高率を示している。しかも生き残った人たちの六割が、呼吸器系疾患で現在も苦しんでいる。

私見:「戦後三十年たつた今も草木が生えず死んだままである。」との記述は、昭和五十年のどこの場所についてのものか。明示されていてほしかった。

 1945年、ドイツも敗けた、日本も敗けた。戦争は終わった。

 ドイツの毒ガス研究は、アメリカとソ連軍によって押収された。 やがて戦後の日本には、新しい殺虫剤として、ポリドール(別名パラチオン)が導入された。

 平和を迎えた日本の農村に、第一次世界大戦後は火薬の「平和利用」と、第二次世界大戦後は毒ガスの「平和利用」が大々的に行われことになった。農林省はこれを農業の近代化と称した。P.183                                                          

 2種類以上の汚染物質が環境中や生体内で,相乗的・相互干渉的に影響し合い,被害を大きくする汚染。1974年―1975年,《朝日新聞》に連載された有吉佐和子の《複合汚染》が問題を提起。

 ここで、日本で発生した主な公害について整理しておく。

▼水俣病(みなまたびょう)は、メチル水銀化合物(有機水銀)よる中毒性中枢神経系疾患のうち、産業活動が発生源となり、同物質が環境に排出され、食物連鎖によってヒトが経口摂取して集団発生した場合に言う。

 1956年(昭和31年)5月1日に熊本県水俣市にて公式発見され、1957年(昭和32年)に発生地の名称から命名された。その後、類似の公害病にも命名されている。なお、1997年(平成9年)に水俣湾の安全宣言がなされ、漁が再開されている。                             *

▼イタイイタイ病とカドミウム

 昭和30年代に、富山県神通川流域で多発性の骨折のため激痛で苦しむ高齢女性が多いことが報告されました。

 原因は三井金属鉱業神岡工業所から排出されたカドミウムで、それにより汚染された神通川水系の用水を介して、水田の土壌や井戸水が汚染されました。

 カドミウムは腎臓機能を障害するため、体内のカルシウムが尿中に排出されてしまい、特に戦前戦中の低栄養と妊娠授乳などでカルシウムが不足しがちだった女性に患者が多発したものと思われます。

▼森永乳業粉ミルク事件

 1953年(昭和28年)頃から全国の工場で酸化の進んだ乳製品の凝固を防ぎ溶解度を高めるための安定剤として、第二燐酸ソーダ Na2HPO4 を粉ミルクに添加していた。試験段階では純度の高い試薬1級のものを使用していたが、本格導入時には安価であるという理由から純度の低い工業用に切り替えられていた。

 1955年(昭和30年)に徳島工場(徳島県名西郡石井町)が製造した缶入り粉ミルク(代用乳)「森永ドライミルク」の製造過程で用いられた第二燐酸ソーダに、多量のヒ素が含まれていたため、これを飲んだ1万3千名もの乳児がヒ素中毒になり、130名以上の中毒による死亡者も出た。

 この時使用された第二燐酸ソーダと称する物質は、元々は日本軽金属がボーキサイトからアルミナを製造する過程で輸送管に付着した産出物で、低純度の燐酸ソーダに多量のヒ素が混入していた。この産出物が複数の企業を経て松野製薬に渡り脱色精製され、第二燐酸ソーダとして販売、森永乳業へ納入された。

 事件発覚

 当初は奇病扱いされたが、岡山大学医学部第一病理学講座 妹尾佐知丸教授が森永乳業製の粉ミルクが原因であることを突き止めた。1955年(昭和30年)8月24日、岡山県を通じて当時の厚生省(現厚生労働省)に報告され、事件として発覚することとなる

▼日本での公害防止対策として、多くの形で現れた。その一つに私も受験したものを記録にとどめておく。

 公害防止主任管理者は一定規模以上の特定工場(ばい煙発生量が1時間当たり4万m3 以上で、かつ排出水量が1日当たり平均1万m3以上)に選任が義務付けられています。

 公害防止統括者を補佐し、公害防止管理者を指揮する役割を担い、部長又は課長の職責にある方が想定され、資格を必要とします。

 つまり、汚水およびばい煙の双方を大量に排出する工場には公害防止主任管理者が必要であるということです。

2017.09.01追加。 平成二十八年九月十三日


 春秋 2018/2/11付                            

 亡くなった石牟礼道子さんに最後に会ったのは、一昨年の残暑厳しい折。熊本市の高齢者用の施設を汗だくで訪ねると「雨が降っているの?」と目を丸くした。その表情が印象に残る。発売直後の「苦海浄土 全三部」を指し「ここの所長さんにもあげたの」と笑った。

▼編集者として長年ともに歩んだ評論家の渡辺京二さんによると、著名な作家らも面会にきたという。玄関に入るや「石牟礼さんと一つ屋根の下にいるだけで興奮します」と話す人もいたようだ。同業からも神格化される作風だが、本人は「三部作は我が民族の受難史と受け止められるかもしれないが」とやんわり否定する。

▼自分が描きたかったのは「海浜の民の生き方の純度と馥郁(ふくいく)たる魂の香りである」。すでに水俣病の公式発見から50年近くがたっていた2004年、そう書き残している。患者らの中には「もう何もかも、チッソも、許すという気持ちになった」「チッソの人の心も救われん限り、我々も救われん」と語った人もいたという。

▼「人を憎めば我が身はさらに地獄ぞ」。石牟礼さんは患者のこんな言葉も書き留めている。近代文明の「業(ごう)」の犠牲となった漁民らは苦しみ、戦い、そして最後はゆるすまでに至った。その過程に人間の気高さがあらわれている。憎悪や分断に常にさらされる世界で「生き方の純度」や「魂の香り」の意味を問い続けたい。


12

『チャーチル物語』


▼チャーチル物語 著者 比佐友香(ひさ ともか)角川書店(昭和35年3月5日初版発行)

 序

 ーー私はチャーチルをこう見る

 サー・ウインストン・チャーチルは生きている歴史であり、生きている伝説である。

 このくらい偉大な業績をのこした政治家は、すくなくとも二十世紀に入ってからは二人といない。おそらく何十年かに一人しかあらわれないといった類の政治家ではないかと思う。(後略)
 著者は以上のように述べている。チャーチルは(1847〜1965年)の人であるから知らない人もいるかも知れない。

 私はこの本の中で特に興味深く読んだのは「ポッダム宣言」の項目である。現在の日露に関連する点が多いと感じたことと、当時、海軍兵学校の生徒であった。全く知ることも出来なかった日本の上層部の状況の一端、無条件降伏にいたる経緯などを知ることができたから、少し長いが原文のまま引用する。

 ポッダム宣言 P.329〜

 ポッダム宮における米英ソ三国会議は昭和二十年七月十七日に開かれた。
 その日の午後スチムソン米陸軍長官がチャーチルの宿舎を訪れて、一枚の紙片を手渡した。それには「赤ん坊は満足に生まれた」と書かれてあった。スチムソンはニュー・メキシコの砂漠で原子爆弾の実験が行われたという意味だと説明した。翌日にはやや詳細に実験の報告がもたらされた。

 これは対日戦略に一大転換をもたらした。それまでの沖縄攻略戦のように、大空軍による爆撃とそれにつづく波状的敵前上陸と、寸土を争う白兵戦だ。しかし本土を死守する日本軍の死者狂いの抵抗を考えれば百万の米人と五十万の英人の生命を犠牲にしなければならないと考えられたが、原子爆弾の出現によって、チャーチルのもっていたこうした「悪夢のような情景」は消えうせた。そして一、二の原爆攻撃によって全戦争は終結すると考えた。それは「私がその勇気をつねづね感嘆している日本人が、いかにして、この超自然的ともいえる兵器の出現を機に、かれらの名誉を救う口実を見出し、最後の一人となるまで戦って死ぬ義務から免れるか」について日本に機会を与えることになると見ていた。

 さらに原子爆弾の出現によって、対日戦争にロシア軍の参加を必要としなくなった。もうアメリカは、ルーズヴェルトがヤルタでしたように、スターリンに対日参戦を懇請しなくてもいい見通しをもったのだ。しかもそればかりでなく、原子爆弾というものをもつことによって、スターリンとヨーロッパ問題を協定することも不可能ではない――とチャーチルには考えられた。スターリンにも秘密にしておくわけにいかないので、トルーマンは会談の最終日の二十四日に打ち明けたが、スターリンには原子爆弾の意義を十分的確に理解することが出来なかったらしく、格別の質問もしなかった。

 その頃、ソ連軍は極東へ向けて兵員を急送中であった。そして同時にスターリンは、日本が降伏の前夜にあることをすでに知っていた。六月に広田・マリク会談が行われ、これにたいするソ連の回答が来ないうちに、七月十二日東京からモスクワの佐藤大使にたいして、無条件降伏は受諾できないが、ソ連の調停により平和克服の方途を発見したいから近衛公をモスクワに特派するという天皇の御意向が伝えられた。佐藤大使はさっそくモロトフ外相に会見を申し入れたが、ポッダム会談へ出発するので時間がないと断られたのでロゾフスキー次官に、東京からの申し入れを伝えた。スターリンはポッダムでチャーチルにはこの事実を話したが、トルーマンには話さなかった。トルーマンにはチャーチルから話した。スターリンはソ連軍が参戦しないうちに対日戦争が終了することを欲しなかった。そうなればヤルタで取ることにきまっている千島、樺太その他の「分け前」をとることができなくなるからであった。しかしチャ−チルは、もしある程度の条件で日本を降伏せしむることが可能ならば、必ずしも「無条件」を必要としないと考えた。無条件をかたくなに固執することによって、さらに多くの命を失うことになるよりも、ある程度のところで目をつぶることも出来ないことではないかと考えた。しかしトルーマン大統領は「真珠湾後、日本軍が軍事的名誉をもっているとは全く考えられない」と素気なく答えた。

 モスクワの佐藤大使には十八日夜ロゾフスキー次官から、日本の申し入れは何ら具体的内容がないから回答の限りでないと返事があった。それから数日にして二十四日に、東京から戦争を終結せしむるためソ連政府の斡旋を求めたいから近衛公を特派する重ねて訓令があったので、大使はすぐにロゾフスキー次官に伝えた。その頃ポッダムでは、日本の無条件降伏を要求するいわゆるポッダム宣言が起草されつつあり、これが二十六日に公表された。日本はこれを拒否した。

 八月五日夜スターリン一行がモスクワに帰ったというので佐藤大使は早速モロトフ外相に会見を申入れた。モロトフから八日午後八時に会見すると返事があった。定められた時刻にクレムリンのモロトフの部屋を訪ねると、モロトフは佐藤大使の発言を封じておいて、ソ連の対日宣戦を読み上げた。八月十四日、日本が降伏するわずかに数日前のことである。チャーチルは「それにもかかわらずロシアは交戦国として完全な権利を主張し」て、千島、樺太、その他の権益を手に入れたといっている。

★関連:読書の夏


参考:「近代日総合年表 第二版」
1、昭和16年4月13 日:ソ中立条約、モスクワで調印。
2、昭和20年2月4日: 米英ソのヤルタ会談ひらく(ルーズヴェルト・チャーチル・スタリン、〜2.)
3、昭和20年4月12日: 米ルーズヴェルト没(1882生、63歳)副大統領トルーマン昇格。
4、昭和20年7月17日: ポッダム会議ひらく(トルーマン・チャーチル・スターリン、〜8月2日)7月26日対日ポッダム宣言発表。8月2日 ドイツに関するポッダム議定書発表。
5、昭和20年8月8日: ソ連、対日宣戦布告。北満・朝鮮・樺太に進攻開始

平成二十一年十一月十一日、平成二十六年十二月八日(昭和十六年十二月八日を思い出しながら)再読。


余録:「長時間にわたって粉骨砕身の仕事を…毎日新聞2018年8月28日 東京朝刊

「長時間にわたって粉骨砕身(ふんこつさいしん)の仕事をしなければならぬ立場におかれた人には、これを勧める」。第二次世界大戦で英国を勝利に導いたチャーチルの言葉だが、彼が推奨する「これ」とは何だろうか

▲それは午後早くの昼寝だった。対独開戦で第一次大戦以来久々に海相に復帰した彼は、前の海相当時の昼寝の習慣も復活させた。おかげで「日々の仕事の能率を非常に高め」「1日半の仕事を1日に縮めることができた」というのだ

▲この習慣は戦争中ずっと続く。さすがに戦時下の宰(さい)相(しょう)が毎日子どものように昼寝をさせてもらうのは心苦しかったという。だが「わずか20分でも、すべての精力を一新するのに十分」なこの日課は何ものにも代えがたかったのである

▲そんなチャーチルならば仮眠を「パワーナップ」と呼ぶ今日の風潮も別に驚きはしないだろう。今や勤務時間内の昼寝はグーグルなどの米企業で推奨されている。日本でもIT業界を中心に昼寝を取り入れる企業が増えているという

▲しばしば仕事が未明に及んだチャーチルの昼寝タイムは1時間だったが、厚生労働省が以前策定した睡眠指針では作業効率改善のための昼寝は30分以内がいいとされていた。「働き方改革」も職場の昼寝推奨の追い風になったようだ

▲チャーチルに昼寝を勧められた某提督は閣議でも居眠りするようになる。だが話が海軍に及ぶと、寝ていたはずがたちまちてきぱきと応答した。昼寝ご法度(はっと)の日本の職場でもこの手の居眠りの達人ならばよく見かける。

平成三十年八月二十八日追加。


13

京都哲学グループと海軍側との結びつき


▼上田高昭著『西田幾太郎の姿勢 戦争と知識人』(中央大学出版部)

京都哲学グループと海軍側との結びつき

▼上田高昭著『西田幾太郎の姿勢 戦争と知識人』(中央大学出版部)

 京大哲学グループと一部海軍側との結びつき(いわゆる京大ネーヴィ・グーループ)に関する大島康正(1917〜1989)の「大東亜戦争と京都学派」という一文(『中央公論』昭和四十年八月号)についてその概要に触れておきたい。

▼当時海軍の調査課長であった高木惣吉大佐と天川勇嘱託が、目立たぬように背広姿でこっそり来洛されたのは昭和十六年五月であったと記憶する。〔後に、その時期はもっと早い時期だったと思い違いを訂正している〕……高木大佐は米内光政大将や山本五十六大将と意を通ずる人であって、日米もし戦えば一年余りはどうにかもたせてみせるが、三年目には日本軍は敗れるという見識をもっていた。そのために何とか陸軍の戦争拡大勢力を抑制しようして、それへの協力を京都哲学で西田・田辺両先生の息のかかっている者たちに依頼に来られたのである。

▼その結果、田辺先生をを中心に京都に一つの秘密組織が生まれた。表面は高山岩男ひとりだけが海軍省の嘱託になることになり、文学部教授会で承認された。しかし同時、高坂正顕、西谷啓治、木村素衛、鈴木成高が内々で協力することになった。そして大学を出てまだ二年目であった私〔大島〕が加えられたのは、事務連絡のためであった。すなわち月に一、二回ひそかな会合がもたれたときの日時や場所の設営(主として夜、郊外の料亭を使った)、会議での皆の意見を整理して海軍の調査課へ発送することであった。それに対して海軍は私に月々三千円の手当を送ってくれた。

▼私の師、田辺元はその頃健康状態がよくなかったが、三回に一回ぐらいは会合に人力車でやって来られた。またときにはゲストとして、その会合にグループ以外の人を招くこともあった。湯川秀樹、柳田謙十郎などがそうであったし、谷川徹三、大熊信行などが東京からきて加わったこともあった。
 など、大島の一文には、彼ら京大ネーヴィ・グーループによってその後行われた『中央公論』に掲載するための三回の座談会はその後単行本『世界史的立場と日本』〔中央公論社、昭和十八年三月〕になったが)の間のいきさつ、および彼らの歴史哲学的理念や主張、そしてそれにもとづく(戦争がさらに大きくなりつつあった際にも)戦争の早期終結など、彼らの主張にいかに陸軍の戦争拡大勢力を誘導しようとしていたかなどに紙面の大部分を使っている。これらについては、またのちに触れることにした。

  十月十五日 原田熊雄宛

▼尊兄何処か御体によくない所があるのではないかと存じられます。何卒十分御静養をいのります。野村氏就任早々大きな嵐に逢われ誠にお気の毒に存じ深く同情いたし居ります。何とかして同氏により多少とも対米交渉など調整せられる様切望の至りに堪えませぬ。御逢いの節よろしく。先日〔七日〕久しぶりにて会合難有御座いました。(書簡一六二一)

▼原田はこの年二月、アメリカ行きを考えていた。前年十二月に長女がニューヨークで出産したので、初孫に合いがてら、ワシントンで日米交渉中の野村大使を激励しようということだったが……三月七日夜、大磯の別邸で激しい息切れ、動悸を訴え容易ならざる容態であった。名古屋から勝沼博士が来診し、「高血圧兼脂肪心にして心衰弱を起せしの」と診断……訪米計画中止、肉食喫煙も禁じられ、好物の菓子、甘いものも厳禁とされた。以後、大磯で専ら療養につとめた(勝田、下、二四八頁)という際だった。

 十月十五日 山本良吉宛

▼御手紙難有御座いました。今月はじめ頃より俄に足や手の甲むくみ種々の関節いたみ困りましたので岩波の尊敬し居る武見という医師に見てもらいました処体内に於て塩分過剰のためというのです。俗にリューマチというものではないかと思い居ります。それから糖尿の兆ありというのですが極少量の由。私等の如き年輩のものには何かあることならんと存じます。

編成されたブレーン・トラスト

 そもそも高木が本格的にブレーン・トラストの編成に取り組んだのは、「時局の容易ならぬことを直観」した昭和十五(一九四〇)十一月であった。その前年、高木が海大教官を兼ねたまま再び海軍省官房調査課長に戻ったのを機に、初めは海大研究部にごく小規模のグループで発足した(昭和十四年十一月)。一年後の昭和十五年十一月に本格的に編成したブレーン・トラストは、当時、次官になって間もない豊田貞次郎中将に提出する「上申書」(機密費承認を得るための)に掲げられたものであったが、この一文でその編成が初めて次のように明らかにされた。(後から追加、変更したものがある。)

 一、思想懇談会==安部能成(一高校長)(その他筆者により省略)
 二、外交懇談会==伊藤正徳(時事新報)(その他筆者により省略)
 三、政治懇談会==岸本政二郎 (その他筆者により省略)
 四、総合研究会==板垣与一(東京商大教授) (その他筆者により省略)
 五、直接連絡の嘱託(海大講師を含む)==天川勇 (その他筆者により省略)
 六、海軍省顧問(司政長官を含む)==井上庚二郎 (その他筆者により省略)
 そのほかに、非公式の懇談会「太平洋研究会」があった。その初回は昭和十六二月で、

▼下村『日本評論』、松下『中央公論』、大森『改造』の各総合雑誌編集長、調査課から私と扇中佐、天川嘱託、ほかに慶応の加田、永田、武村の三氏に、高岡から大熊氏、東大から大河内氏が加わり、日中、日米関係からわが政治経済の諸問題につき懇談した。この「太平洋研究会は、海軍の意向を国民に紹介してもらうのが根本の趣旨……ということであった。
 ところで、上に掲げたブレーン・トラスト編成の理由について、高木はこう記している。

▼海軍として学者知識人と広い接触を持ちたいと考えた理由はいりりあったが、まず国民、とくに有識者の率直な声を聞くとともに、海軍の意志や内情を理解してもらいたいことであった。……次には、とくに京都学派などに期待したのは、アジア十五億の有色人種の先頭に立ったと自負する日本は、この複雑な各種民族に対して思想、政治の理念に何を提示し、何をかかげ得るか。八紘一宇とか、東亜共栄圏などという中身はからっぽの標語で、昔わが國に文化を提供し、宗教を伝えてくれた民族が、心から協力できると考えられようか。西欧の科学文化も、東洋の宗教哲学も抱擁できる何ものかが欲しかったのである。
 さらに欲をいえば、これらのブレーン・トラストの助太刀で、劣勢な海軍の政治的影響力を補強してもらいたい希望もあった。 
 そして上のブレーン・トラスト編成は、すべて高木の意思で決めた訳ではなかった。

▼懇談会のメンバーは幹事役のほかは全く自由の立場で、全員を嘱託に願ったのではなかった。人選は谷川、三枝、矢部の三氏〔幹事〕にそれぞれの懇談会の顔ぶれの選択を任せたが、慶応関係、総合雑誌編集長、あるいはその他の執筆者に関しては天川嘱託の示唆に負うところが多い。
 と、編成の要点を述べ、他方、非公式の懇談会である総合雑誌編集長らととの太平洋研究会の集まりについては、

▼各方面の有力な〔かなり多数の〕執筆候補者を加えての懇談会なれば、雑誌社側としても手応えが思った次第で、編集方針とか、取材についてようぼうしたことはなく、戦況の推移とか、日米関係を披露して海軍の実状を理解してもらいたかったのである。
 と、陸軍がとった雑誌関係への脅しや強圧的な態度とは全く対照的な姿勢を保っていた。

 だが、今でも遺憾にたえないのは海軍の政治力不足で、用紙の配給割当ても、出版物の検閲、動員召集などのカナメを全部陸軍と陸軍に好意をもつ官僚に握られてしまったため、すべては「賽の河原」か、「ゴマメの歯ぎしり」という結果に終わったことである。

▼高木はここまでも、慙愧に堪えない真情を率直に吐露している。

 昭和十七年六月、高木は突然舞鶴鎮守府参謀長に転任した。その背景には、豊田貞次郎次官が商工大臣に転任して「沢本次官の時代となり、調査課長の椅子はいよいよ坐り心地悪いものとなった」という。それは調査課が手を広げすぎ、機密費を濫費するという反感が海軍部内で強まったことから、首脳部との関係がまずくなったことだった。
 そこで高木は戦地勤務の転任を希望したが、「健康診断に落第して、舞鶴落ち」となったという事情が介在」した。
 それから一年半後の「十八年九月戦局が悪化して東京にもどるまで、折角」つくったブレーン・トラストがどう運営されていったか、風の頼りに聞くほか、後任者から何も相談もなければ、通報もなかったのである。」という。

▼私も海軍の生徒であったが、いかに戦争回避に努力して、政治力充足による戦争に突入したかの一つの具体例を知ることができました。

▼親しくしている方から資料を頂戴いたしましたことに厚くお礼申上げます。

平成二十二年八月二十三日


14

71年前の12月8日


 朝、そうだ、太平洋戦争がはじまった日だと思う。そこでパソコンで新聞社の主要記事をサット目を通す。関連記事は私の目には触れなかった。

 そこで、二つの新聞のコラムを読む

 天声人語:2012年12月8日(土)

 『思えば、標語の技には進歩がない。「新体制で国を強く明るく」。どこかで見たような幟(のぼり)が大阪に現れたのは1941(昭和16)年初めだ。夏には優秀児を選び出して遺伝調査が始まる

▼「云(い)うな不平。漏らすな秘密」。行楽先で軍港や駅をうっかり撮影し、捕まる人が続出した。「国が第一、私は第二」「聖戦へ、民(たみ)一億の体当(たいあた)り」と標語は熱くなり、71年前のきょう、日本軍は真珠湾を奇襲する。この痛恨の日を、各党のスローガンが飛び交う中で迎えた」で始まり、(中略)〈この子らに戦(いくさ)はさせじ七五三〉水野李村(りそん)。国を守る決意もいいけれど、戦没者の悔しさを思い、孫子の顔を浮かべての一票も悪くない。」で結ばれていた。』

 日本経済新聞:春秋 2012/12/8付 記事保存

『山岳遭難で多いのは「道迷い」だ。読んで字のごとく、行くべき道を間違える基本的なミスなのだが、警察庁のまとめでは昨年の全国の山の事故のうち4割を占める。天候は良い。リーダーも経験豊富。みんな装備もしっかりしている。それでも道迷いは起きるという。

▼おしゃべりや景色に夢中で分岐点を見逃す。迷いはじめたときに引き返さず、ついもうちょっと、と進んでしまう。おかしいな、と思ってもリーダーに任せ、かれもまたプライドがあるから弱いところは見せられない(中略)多くの登山家が指摘する道迷いの心理は組織や集団にも当てはまろう。もちろん、国家の過ちにも。

▼71年前のきょう、日本は対米開戦に踏み切った。道迷いのはじまりは米国を怒らせて石油禁輸を招いた南部仏印進駐か、前年秋の日独伊三国同盟締結か、いやいやずっと以前の満州事変のころから道を外れていったのか。見方はさまざまだが、引き返す勇気はなく、冷静な声も熱狂にかき消されていった昭和の軌跡である。(後略)』

 新聞も取り上げられていたのだ。

★当日の夜、NHKの「巨人戦艦 大和」放映あり。メモしながら食い入るように視聴。メモの要点

1、乗組員:3332人 生き残り:276人
2、第一章 死に方用意 沖縄の浅瀬に乗り上がるよう命令された 桜満開の時期に出航:昭和20年4月6日:動向はアメリカにつかまれていた。
3、第二章 国の誉 家の誉 大日本国防婦人会
4、第三章 洋上の生と死 アメリカの魚雷攻撃 大和爆発
5、第四章 失った生命
6、終章  それぞれの大和 乗組員の一人は「大和は私の青春」と言う。また他の人は「戦争は嫌だが、大和は好きだ。」といっていた。
*登場者はは84歳〜90歳の乗組員であった。メモには間違いがあるかもしれませんので、おことわりしておきます。


 私の開戦当日の記録は太平洋戦争開始の日について記録しています。その後、海軍の学校で終戦を迎えましたので関心がありまして、24年12月8日私の記録としました。

★長男と同年輩の人に「12月8日といえば、何を思い出しますか?」と聞いたところ、考えこまれた。
 もし私に日清戦争のことを聞かれたとしたら、一言も返事できない。
 世は時の流れにしたがって去りゆき歴史を忘れさせるものだと、つくづく思う。

平成二十四年十二月八日


15

一人ひとりの大久野島――毒ガス工場からの証言


 この章の14号に大久野島と毒ガス製造を掲載しました。先ず、お読みになられますと、「行武正力のお嬢さんが証言集の完成に現在努められていることが報道されていました。」と記録しました。

 最近、表題の本が行武 正刀先生のお名前で(ドメス出版)から発行されています。その一部分を紹介いたします。

 はじめに

 大久野島(おおくのしま)。もしもこの島に旧日本陸軍が化学兵器の研究所を置くということがなかったら、瀬戸内海の大小数千の島々の一つとしてほとんど誰の目を引くこともなく時は流れたであろう。どのような定めからか、この島に陸軍唯一の毒ガス工場が置かれ、島の対岸の竹原市忠海(ただのうみ)町を中心とした数千人の人びとがこの島と運命を共にすることになったのだ。戦時中の苛酷な労働に加え、戦いが終わっても後遺症が次第に体を蝕んでいく。敗戦後の混乱、復興、そして繁栄とはべつのところで、島の歴史は今も続いている。日本の現代史の重い一頁がこの島にはある。

▼不思議な縁で、ここ忠海町の忠海病院(国家公務員共済組合連合会)に内科医として勤務することとなり、一九六二(昭和三七)年から四〇年近く座り続けてしまった。毎朝毎朝、潮が押し寄せるように小病院を毒ガス障碍者が受診する。猛烈な咳と共に膿性の痰をペット吐き出す慢性気管支炎、また苦しそうにヒーヒーと肩で息をし、肋骨の浮き出た胸を叩いてみると、まるで空箱を叩くような肺気腫。教科書でも読み、教室でも講義を受けて赴任してきたが、こんな重傷者が来る日も来る日もやって来るとは思ってもみなかった。机の上に積み上げられたカルテの山を横目に、兎に角診察に追われる毎日であった。ゆっくり病歴を聞く時間など全くなかったし、話を聴こうという余裕もなかったが、二〇年たったある日、「毎朝泣きながら自転車を漕いで毒ガス工場に通いましたという古い工員さんの話を聞いた途端、「ああこの人が一番言いたかったのはこの言葉ではなかったか」と、胸を打たれた。もっと患者さんの話を聴かなければ、一番いいたいことを聴いてあげなければと思った。

▼病歴とは何であろうか。病人が医師を訪れたとき、医師は病人」にいろいろ質問する。その病気はいつから起こったのか、どんなに悪くなったのか、その病気を理解するために必要な医療情報が病歴である。その病気に関係があると思えば、過去に遡って職歴や健康状態も尋ねるであろう。

▼毒ガス障碍者の場合、咳、痰、息切れの呼吸器症状が主なものである。これらの症状はいつから始まったというはっきりした時期はないし、極めて長時間にわたって慢性的に進行するものであったから、その病歴の期間は当然長くなる。毒ガス工場時代の勤務状況とも関係がある。場合によっては、工場勤務以前の健康状況も病歴を完成するための重要な要素となるだろう。

▼世に「三分診療」なる言葉がある。私の場合も全くその通りだった。外来診療室でのあわただしい時間の中でどれだけのことが質問できたか、はなはだ疑問だ。しかし患者さんは毎月やって来る。たとえば三分診療でも10回会えば30分、100回会えば300分の時間が用意されることになる。勿論長時間にわたる細切れの時間なのだが、病院に長く勤めれば患者さんともしたしくなる。病歴とは直接関係ない無駄話も少しは聞けるようになり、信頼関係が深まってくると、水を向ければ患者さんの方からいくらでも話してもらえるようになる。その中で病歴とは関係のない、一番話したい言葉が漏れて来る。その度にそれをカルテの片隅に書き溜めておいたが、その言葉を集めたものが、この証言集になった

      目 次

 はじめに  行武 正刀

 序章  島のはじまり
[証言者] 新川美代子

 1章 初期の忠海製造所
[証言者] 友田竹一 二木覚一 (略)

2章 大量生産・事故・火災

   大量生産
   [証言者] 大木初三 伴谷常吉 (略)

   事故・火災
   [証言者] 福浜ハツ子 吉村正明 (略)

 (中略)

 友人の一人の文章があった。紹介します。

 西川 昭三さん(男・昭和三年三月、忠海町生まれ)註:私と小学校、中学校同級生

 忠海中学より幾度か忠海分廠に勤労奉仕作業に行き、倉庫の整理、運搬作業をおこないました。大久野島にも渡り、山の上で高射機関砲の取り付けのための基礎工事を手伝いました。
▼昭和一九年に呉市広町の海軍工廠に動員されて、昭和二〇年三月に広島工専を受験、合格しましたが海軍工廠に残されました。七月に理系の者は学校に行ってもよいことになり、広島工専に入学しました。空襲が激しくなり疎開して授業を続けることとなり、八月一日より三菱化成の大竹工場内で授業を再開しました。註:私も同じく動員され、工廠の安永寮に入り、工廠で2交代勤務だった。記憶では広島女学院の女子生徒・久留米工専の学生も動員されていた。そこから海軍兵学校を受験して、昭和十九年十月に兵学校に入校した。
▼昭和20年八月六日、原爆が投下され、広島市内の者はその日のうちに広島市内に戻りました。私は他の学友と共に列車で己斐(こい)駅まで行き、そこから市内を歩いて工専まで行きました。ボロボロになった橋を渡りましたが、橋のたもとは救護所になっており、川のそばでは死体を積み上げて焼いていました。日赤(広島赤十字病院)の広場では被災者に並んで死体が並べてあり、顔に死んだ日を書いた紙が置いてありました。
 工専は校舎が倒壊していましたが、火災にはあっていませんでした。その日の晩、再び歩いて己斐駅まで行き、列車で大竹に帰りました。
 原爆投下直後大竹から広島市内へ戻った友人たちの中には、髪の毛が抜け、早く亡くなった人もいます。

説明:私も忠海中学の同級生として、幾度か忠海分廠に勤労奉仕作業に行き、倉庫の整理、運搬作業をおこないました。大久野島にも渡り、軽作業をしました。

 (以下略)

 おわりに 行武 則子

 二〇〇八年一一月に父・行武正刀から「病室にパソコンを持ってきてほしい」という電話がかかってきました。父はその年の春に肺がんと診断されて以来何度か入退院を繰り返しており、そのときは肺炎を併発して自宅のある広島県三原市の医師会病院に入院していました。

▼私は広島市で働いていましたが、休みの日にイーとパソコンを持って三原に帰りました。病室に入ると、容態は安定しているようで私はひとまず安心しましたが、父は「もう自分はダ駄目かもしれない」と言い、口述で私に「無用の延命治療は避ける、病理解剖を申し出る」など、死後の細かい段取りについての遺書を打たせました。

▼「これで安心した」と一言言い、次に新しく『一人ひとりの大久野島』という題で、文章の記述を始めました。こうして私は休みごとに三原に帰り、父の話す文章をパソコンで打つことになりました。

▼このときは一応容態を持ち直して退院し、正月には外出できるほどに回復しました。しかし二月に入って再び容態が悪くなり、広島市の吉島病院に入院しました。同じ広島市だったので、私は仕事が終わるとパソコンを持って病室に顔を出し、夕食を一緒に取り、夜の一時間ほど父を手伝って、約二〇〇〇名分の証言をしました。仕事が休みの日には母に替わって病室に付き添い、父の体調を見ながら証言の整理を手伝っていました。

▼父は、この証言集について「毒ガスの治療や研究については、優秀な人材は沢山いるし、自分以外でも出来る。だが患者さんの証言を残す仕事は、自分にしか出来ない仕事だ」とはなしていました。後を託すというような話は直接しませんでしたが、自分の死後も子どもたちが受け継いで完成させてくれると、疑いもなく信じているようでした。

▼しかし私は父と一緒に仕事をしながらも、これらの証言を発表するのは難しいだろうと思っていました。父が長年にわたり忠海病院(現・呉共済病院忠海分院)で毒ガス患者の方がたの治療を続け、いつ頃より証言集の作成を思い立ったのかは分かりませんが、その頃はおそらく「個人情報」という言葉すらかっただろうと思います。

▼この問題については父も全く考えていなかった訳ではなく、すべての証言をイニシャル表記で、個人が特定できないようにする予定でした。しかし証言そのものが個人のデリケートな部分に関わるものであり、また個人情報に対する世間の考え方も年々厳しくなっていることを思うと、いくら匿名でも発表するのはためらわれました。本当はこの問題について父としっかり話し合うべきでしたが、死の床で作業を続ける父に対して、あまり現実的な問題を持ち出すと意志を挫いてしまうのではと思い、言い出せませんでした。

▼三月に海外で暮らしている妹が帰国し、証言を整理する作業に加わりました。しかしこの頃から父の容態が悪くなり、起き上がれなくなりました。そこで実際の作業は妹と二人で進めながら、必要に応じて父の助言や指示を仰ぐことのしました。この作業は父の枕元で、亡くなる二日前まで続けました。父が亡くなった後は妹も海外へ戻ってしまい、私は一人で証言の整理を続けました。

▼父が聴取した証言は、元々は治療や公的救済の書類を作成するためのもので、はじめから毒ガス障害の実相や苦しみを伝えることを目的にしたものではありませんでした。今までも大久野島で働かれた方がたによって多くの手記が発表されてきましたが、直接体験された方がたの文章からはその辛さや苦しみが滲み出ており、それに比べると私たちが整理した証言は内容が簡潔で、「こんな文章で証言者の気持ちを伝えることができるのだろうか」とゝ震笋忙廚辰討い泙靴拭ただ、いろいろな立場の方がたの話を繋げていくことで、全容のわからない大久野島での出来事がモザイクのように浮かび上がってくるような気がしました。それに私が諦めればこの証言は誰にも知られることなく消えてしまうのだと思うと、簡単に投げ出すことも出来ませんでした。問題は山積みでしたが、諦める前にとりあえずやれるところまでは進めよう、そう考えていました。

▼幸いにも、父のことを放送したNHK教育TVの特集番組を見たドメス出版の方よりご連絡をいただき『地図から消された島 大久野島ガス工場』(武田英子著、一九八七年刊)につづいて同社より出版の目途がつきました。しかし個人情報の件に関してはかなりの時間と労力がかかり、各方面の皆様方のご協力がなければとても解決しなかっただろうと思います。

▼この件で毒ガス患者の皆様やご家族様約五〇〇名の方がたに連絡を取らせていただきましたが、突然のお願にもかかわらず二七七名余りもの方がたより掲載のご許可をいただきました。また、幾人かの方がたからの貴重なご教示をいただきました。

▼呉共済病院忠海分院の皆様、広島県健康福祉局総務管理部被爆者対策課の皆様、竹原市および大久野島毒ガス資料館、村上初一様、岡田黎子様、毒ガス島歴史研究所山内静代様、山内正之様、広島女学院名誉教授横山昭正先生には、各方面で多大なご尽力、ご教示をいただきました。ドメス出版の編集長鹿島光代様、編集担当生方孝子様にも、お世話になりました。

 その他にも、大勢の方がたのご協力をいただきました。

 皆様方のおかげで『一人ひとりの大久野島』を世に出すととができました。深く感謝しています。本当にありがとうございました。

   二〇一二年七月

参考資料
1、戦後65周年記念事業
  大久野島毒ガス障害 その実相と継承 2011年3月31日初版 発行/広島県健康福祉課 被爆者対策課
2、インターネットで「大久野島」を検索下さい。

平成二十四年十二月二十日


16

工藤 俊作(くどう しゅんさく)海軍中佐


 1901年(明治34年)1月7日 ? 1979年(昭和54年)1月12日)は、日本の海軍軍人、最終階級は海軍中佐。

 1942年3月、駆逐艦「雷」艦長時、スラバヤ沖海戦で撃沈された英国艦船の漂流乗組員422名の救助を命じ実行させた人物として有名である。

 スラバヤ沖海戦での敵兵救助作業

 「雷」は第六駆逐隊に属し、日米開戦時には香港の海上封鎖任務に就いていた。その後、南方の諸作戦に参加した。

 1942年、スラバヤ沖海戦の掃討戦において撃沈された英海軍重巡「エクセター」の乗組員376名を3月1日に僚艦「電」が救助した。

 「雷」は翌3月2日、英駆逐艦「エンカウンター」等の乗組員422名を救助し、翌日、パンジェルマシンに停泊中のオランダ病院船「オプテンノート」に捕虜を引き渡した。

 その後、「雷」はフィリピン部隊に編入され、さらに第一艦隊に編入し内地帰還を命ぜられた。5月には第五艦隊の指揮下に入り、アッツ・キスカ攻略作戦に参加した。

 工藤は1942年8月に駆逐艦「響」艦長に就任、11月に海軍中佐に昇進した。「響」は改装空母「大鷹」を護衛し、横須賀とトラック島間を三往復し、12月に工藤は海軍施設本部部員、横須賀鎮守府総務部第一課勤務、翌年には海軍予備学生採用試験臨時委員を命じられた。1944年11月から体調を崩し、翌年3月15日に待命となった。

   戦後、工藤は故郷で過ごしていたが、妻の姪が開業した医院で事務の仕事に就くため埼玉県川口市に移った。1979年に胃癌のため死去。生前は上記の事実を家族にも話さなかった。これは「雷」が1944年に沈没して多くの乗組員が犠牲になっており、その自戒の念から軍務について家族にも黙して語らなかったものと思われる。遺族がこの話を聞いたのは助けられた元イギリス海軍士官、サム・フォール(en:Sam Falle)からである。

 臨終前にクラスの大井篤が駆けつけたが、大井に「貴様はよろしくやっているみたいだな。俺は独活の大木だったよ」と答え、その後息を引き取ったという。

人物

 身長185僉体重95圓箸い辰親押垢箸靴紳龍蹐能斉擦陵段者であったが、性格はおおらかで温和であった。そのため「工藤大仏」という渾名がついたという。

 海軍兵学校時代の校長であった鈴木貫太郎の影響を受け、艦内では鉄拳制裁を厳禁し、部下には分け隔て無く接していた事から、工藤が艦長を務めていた際の艦内は、いつもアットホームな雰囲気に満ちていたという。決断力もあり、細かいことには拘泥しなかったので、部下の信頼は厚かった。戦後は海兵のクラス会には出席せず、毎朝、戦死した同期や部下達の冥福を仏前で祈ることを日課にしていたという。

エピソード

 高松宮宣仁親王が長門乗務の時、階段で転んで足に怪我を負い、艦内で草履を履くことになってしまった。

 ある時宮は大正天皇のお見舞いに行くことになったが、さすがに草履というわけにはいかない。どうしようと周囲に相談したところ、宮の心中を察した某少尉が「私のクラスに大足の大男がいます。奴の靴を借りましょう」と靴を借りてきた。それを宮が履いてみたところ包帯で巻かれていた右足はピッタシだったが左足はダブダブだった。「仕方ないので左は自分の靴を履いていくことにする」と左右全く大きさの違う靴を履いて天皇をお見舞いした。

 「上手く行った。御殿の人間にも侍従にも全くバレなかった」と宮は大喜びしたという。某少尉は「それでは奴に酒をおごらないといけませんな。奴は酒好きですから」と言ったので3人で宴会となり、後に同期全員で大宴会となった。最後は「殿下のツケでお願いします」となり、宮が酒代すべてを支払うことになったというエピソードがある。この某少尉の言う「大足の大男」で「酒好き」の「奴」こそ、少尉時代の工藤である。

 「雷」沈没当日の夜、「雷」に乗艦していた時の部下たちが「艦長!」「艦長!」と駆け寄り、工藤を中心に輪を作るように集まって来て静かに消えていった、という夢を見た。工藤ははっと飛び起き、「雷」に異変が起きたことを察知したという。

   「雷」に救助された「エンカウンター」砲術士官であった元海軍中尉サム・フォール(Samuel Falle又はSam Falle)は、戦後は外交官として活躍したが、恩人の工藤の消息を探し続けていた。彼が工藤の消息を探し当てた時には既に他界していたが、せめて工藤の墓参と遺族へ感謝を伝えようと2003年に来日した。しかしそれらを実現できなかったため、惠隆之介に依頼した結果、2004年12月に墓所等の所在が判明した。そのことはフォールへ報告され、翌年1月に恵は墓参等を代理して行った。その後、2008年12月7日、フォールは66年の時間を経て、駐日イギリス大使館附海軍武官付き添いのもと、埼玉県川口市内の工藤の墓前に念願の墓参りを遂げ、感謝の思いを伝えた。このエピソードは 2007年4月19日、フジテレビの番組「奇跡体験!アンビリバボー」にて、「誰も知らない65年前の奇跡」として、再現ドラマを交えて紹介された。

英海軍将兵の浮游救助のあらまし

▼昭和十七年三月一日午後二時過ぎ、英重巡洋艦「エクゼター」(一万三〇〇〇トン)、「エンカウンター(一三五〇トン)は、ジャワ海脱出を試みて帝国海軍艦隊と交戦し、相次いで撃沈された。その後両艦艦長を含む約四五〇人の英海軍将兵は漂流を開始した。

 翌三月二日午前十時ごろ、この一団は生存と忍耐の限界に達していた。結果一部の将兵は自決のための劇薬を服用しようとしていたのである。まさにその時「雷(いかずち)」に発見されたのだ。

 一方駆逐艦「雷」は直属の第三艦隊司令部より哨戒を命じられ単艦でこの海面を行動中であった。

 「雷」乗員は全部で二二〇名、ところが敵将兵は四五〇人以上が浮游していたのである。さらにこの海面は敵潜水艦の跳梁も甚だしく艦を停止させること自体、自殺行為に等しかった。

 救助を決断した「雷」艦長工藤俊作少佐(当時)は四十一歳、山形県出身、当初は敵将兵の蜂起に備え、軽機関銃を準備し警戒要員を艦内主要箇所に配置していた。

 ところが艦長は間もなく彼らの体力が限界に達している事に気づく。そこで警戒要員も救助活動に投入した。

 一部英海軍将兵は、艦から降ろした縄はしごを自力で登れないばかりか、竹ざおをおろして一たんこれにしがみ付かせ、艦載ボートで救助しようとしたが、力尽きて海底に次々と沈んで行ったのだ。

 ここで下士官数名が艦長の意を呈し、救助のためついに海に飛び込んだ。そしてこの気絶寸前の英海軍将兵をロープで固縛し艦上に引き上げたのである。

▼一方サー・フォールは、当時の状況をこう回顧している。

 「雷」が眼前で停止した時、「日本人は残虐」と言う潜入感があったため「機銃掃射を受けていよいよ最期を迎える」と頭上をかばうかのように両手を置いてうつむこうとした。その瞬間、「雷」メインマストに「救助活動中」の国際信号旗が掲揚されボートが下ろされたのだ。

 サー・フォールはこの瞬間から夢ではないかと思い、何度も自分の腕をつねったと言う。

 一方「雷」艦上ではサー・フォールを一層感動させる光景があった。

 日本海軍水兵達が汚物と重油にまみれた英海軍将兵を嫌悪しようともせず、服を脱がせてその身体を丁寧に洗浄し、また艦載の食料被服全てを提供し労る光景であった。

 当時「石油の一滴は血の一滴」と言われていたが、艦長は艦載のガソリンと真水をおしげもなく使用させた。

 戦闘海域における救助活動は下手をすれば敵の攻撃を受け、自艦乗員もろとも遭難するケースが多々ある。この観点から温情ある艦長でさえごく僅かの間 だけ艦を停止し、自力で艦上に上がれる者だけを救助するのが戦場の常識であった。ところが工藤艦長は違った、しかも相手は敵将兵である。

 さらに工藤艦長は潮流で四散した敵兵を探し求めて終日行動し、例え一人の漂流者を発見しても必ず艦を止め救助したのである。救命活動が一段落したとき艦長は前甲板に英海軍士官全員を集め、英語でこう訓辞した。「貴官らはよく戦った。貴官は本日、日本帝国海軍のゲストである」と、そして艦載の食料の殆どを供出して歓待したのである。(工藤俊作 武士道精神の人「英国兵四二二名を救助した駆逐艦「雷」艦長」恵隆之介より)

 「戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』に乗務していたグレム・アレン元大尉が『偉大なる帝国海軍』と前置きして私にこう発言した。『旗艦および随伴戦艦レパルスが戦闘 能力を失ったと見ると、日本海軍航空隊は一斉に攻撃を止めた。そして護衛駆逐艦が両艦乗員の救助活動を開始したが一切妨害しなかった。さらに我々を救助した駆逐艦が母港のシンガポールに帰港する際も日本海軍は一切攻撃を行わなかった。我々は帝国海軍のこれらの行為に瞠目し、敬意を払うようになった』  

▼アレン大尉は、その後重巡洋艦エクゼターに転属、ジャワ沖開戦で撃沈され、帝国海軍に救助された。なおジャワ沖海戦時、沈没直後の英海軍艦艇から乗員が帝 国海軍艦艇に向かって懸命に泳ぐ姿が見られた。尋問の結果、『日頃から上官が、万一の時は日本海軍艦艇に向かって泳げ、きっと救助してくれる』と発言して いたという」 (恵隆之介『正論』平成20年10月号)

略歴

 工藤俊作艦長は、明治34年1月7日、山形県の生まれです。
 明治41年4月に屋代尋常小学校に入学。
 明治43年4月15日に第六潜水艇の事故があり、当時屋代尋常小学校では、校長が全校生徒に第六潜水艇佐久間艇長の話を伝えたそうです。
 校長は、責任感の重要性を話し、全校生徒は呉軍港に向かって最敬礼した。
 工藤俊作氏はこの朝礼のあと、担任の先生に聞いたそうです。
 「平民でも海軍仕官になれますか」
 担任の先生は、米沢興譲館中学(現:山形県立米沢中学校)への進学を勧めたそうです。
 そして工藤氏は5年間、現在の上新田にあった親類の家に下宿して、約3キロの道のりを毎日徒歩で通学し、念願の海軍兵学校に入学します。
 当時、一流中学校の成績抜群で体力のすぐれた者が志すのは、きまって海軍兵学校への受験だった。次が陸軍仕官学校、それから旧制高等学校、ついで大学予科、専門学校の順であった。
 この時代、欧米の兵学校は、貴族の子弟しか入校できなかった。
 ところが日本は、学力と体力さえあれば、誰でも兵学校に入校できた。
 英国のダートマス、米国のアナポリス、日本の江田島、これらは戦前世界三大海軍兵学校の代名詞とされていたといいます。

▼工藤俊作氏は、大正9年に海軍兵学校に入学します。

 その前年の大正8年、鈴木貫太郎中将(後の総理大臣)が校長として赴任していた。

 海軍兵学校校長に着任した鈴木貫太郎氏は、大正8年12月、兵学校の従来の教育方針を大改新した。

 ・鉄拳制裁の禁止
 ・歴史および哲学教育強化
 ・試験成績公表禁止(出世競争意識の防止)

 工藤ら51期生は、この教えを忠実に守り、鉄拳制裁を一切行わなかったばかりか、下級生を決してどなりつけず、自分の行動で無言のうちに指導する姿勢を身につけた。

 鈴木中将は 明治天皇が、水師営の会見の際「敵将ステッセルに武士の名誉を保たせよ」と御諚され、ステッセル以下列席した敵軍将校の帯剣が許されたことを生徒に語ったといいます。

 海軍兵学校を卒業した工藤俊作氏は、駆逐艦「雷」の艦長として、昭和15年11月着任します。工藤は駆逐艦艦長としてはまったくの型破りで、乗組員たちはたちまち魅了されたといいます。

▼工藤艦長の着任の訓示。

 「本日より、本官は私的制裁を禁止する。とくに鉄拳制裁は厳禁する」

 乗組員たちは、当初工藤をいわゆる「軟弱」ではないかと疑ったが、工藤は決断力があり、当時官僚化していた海軍でも上に媚びへつらうことを一切しなかった。

 また、工藤氏は酒豪で、何かにつけて宴会を催し、仕官兵の区別なく酒を酌み交わした。好物は魚の光り物(サンマ、イワシ等)で、仕官室の食堂にはめったにでないので、兵員食堂で光り物が出る時、伝令のと自分のエビや肉と交換したり、自ら兵員食堂まで仕官室の皿を持って行って「誰か交換せんか」と言ったりもした。

 工藤氏は日頃士官や先任下士官に、

 「兵の失敗はやる気があってのことであれば、決して叱るな」と口癖のように言っていたといいます。

 見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望鏡と間違えて報告しても、見張りを呼んで「その注意力は立派だ」と誉めた。このため、見張りはどんな微細な異変についても先を争って艦長に報告していたといいます。

 2ヶ月もすると、「雷」の乗組員たちは、工藤を慈父のように慕い、

 「オラが艦長は」と自慢するようになり、「この艦長のためなら、いつ死んでも悔いはない」とまで公言するようになっていった。

 艦内の士気は日に日に高まり、それとともに乗組員の技量・練度も向上していった。

▼惻隠の情

 工藤氏は、海軍兵学校で校長の鈴木貫太郎中将から「惻隠の情」の話を聞いたとのことです。この言葉が、彼の人生の指針となったと思われます。

参考:<惻隠の心は仁の端なり>

 他人のことをいたましく思って同情する心は、やがては人の最高の徳である仁に通ずるものです。

 人間の心のなかには、もともと人に同情するような気持ちが自然に備わっているものですから、自然に従うことによって徳に近づくことができるのです。 の諺は、「孟子、公孫丑・上」から採ってみました。少々難解ですが、孟子の有名な「性善説」に繋がっていますので、説明してみましょう。

 彼の分析によると、心の作用には「四端」といって、4つの要因があるとしています。丁度人間には手足が合計4本備わっていると同じように、自然にだれにでも備わっている心の作用です。それを列挙してみると次のようになります。

『識の心……………「仁」 「人に対する同情の心が仁につながる」
∽薫の心……………「義」 「自分で恥ずかしいと思うことが、義につながる」
辞譲の心……………「禮」 「遠慮する心の作用は礼につながる」
だ非の心……………「智」 「良否の判断をする作用は智につながる」
 このように自然の心の延長線上に徳のすべてがあり、決して無理に押しつけられたり、後から教育されたものではないと主張しているのです。

 さて、「惻隠の心は仁の端なり」ということを実社会の面で応用してみるとどういうことになるのでしょうか。

 「惻隠の心」とか「惻隠の情」という熟語は、難しい言葉のようですが、孟子の「性善説」とは別に「あわれみの心」という意味で広く常用されているようです。
 「惻隠の心」は、いたましく同情する心ですが、相手の立場に立って、ものごとを感じとるという感覚上の自然の性格の発露でもあります。夏目漱石の言葉ではありませんが、「可哀相とは、惚れたということよ」というように、愛という心情に結びつき「他人を愛する」という博愛の精神と同類型の心の動きと思われるからです。
社会生活を送る際にも、家庭生活を過ごすのにも、「愛の精神」が根幹にあって、大きくすべてを包んでいるようです。

平成二十六年七月八日


17

治憲王(はるのりおう)


 治憲王(はるのりおう、1926年7月3日 - 2011年6月5日)は、日本の旧皇族、外交官。賀陽宮恒憲王の第2王子。海軍兵学校75期。

▼1926年7月3日誕生。旧制学習院初等科・学習院中等科を経て、1943年12月1日、江田島海軍兵学校に入学。井上成美中将のもとで学んだ。入校式においては皇族の生徒として紹介を受け、同期生の敬礼を受けている(広島中央放送局ニュース再録に記録あり)。

▼王が入学した75期は生徒数が多かったため生徒は分校に振り分けられ、王は岩国分校で教育を受けた。分校においては柔道を選択、練成した。最高裁判所長官・三好達、高瀬国雄、海上幕僚長・吉田學らは75期の同期生である。

*黒崎註:当時の海軍兵学校は江田島本校・江田島大原分校・岩国分校に分かれていた。私は昭和19年10月に入校、20年4月に江田島本校の101分隊(分隊監事:多久丈雄大佐:佐賀県出身、殿下分隊と呼ばれていた)に配属されたとき、伍長は永田1号生徒、治憲王は伍長補であつた。

参考:101分隊編成について

 賀陽宮が入校したとき、同期の分隊員生徒たちの出身地、出身学校が全国的にバラエティがあるようにされた。つまり、台湾出身者もいれば、北海道出身者もいるというぐあいである。
生出 寿『海軍兵学校 よもやま物語』(徳間文庫)P.257 による

▼敗戦後の1945年10月1日、兵学校を卒業。このため最終階級は少尉候補生ということになる。1946年7月、貴族院皇族議員となる。

▼1947年10月14日、11宮家の皇籍離脱が行われた際、王も皇籍を離脱、賀陽 治憲(かや はるのり)となる(『官報』 第六二二六号 昭和二十二年十月十四日 告示 宮内府告示第十六号)。

▼その後1950年東京大学法学部を卒業、外務省に入省。

▼ジュネーブ国際機関日本政府代表部公使、外務省経済局次長、領事移住部長を経て、1979年から1981年まで国連局長。

▼1981年在イスラエル特命全権大使、1983年在デンマーク特命全権大使、1987年外務省研修所長、1989年ブラジル特命全権大使。財団法人交流協会顧問と要職を歴任した。

 1970年代後半の国会議事において複数回政府委員として答弁を行った記録が国会会議録に残されている。

▼昭和天皇はその存在を気にかけていたようであり、天皇が「賀陽はどうしているか」と安倍晋太郎外相に動向を尋ねたといった逸話も残っている。

▼侍従長入江相政は日記の中で「皇族、舊(旧)皇族のうちのまさにピカ一。こんな方がもう少しゐて下されば。」と書いている。

▼1996年勲二等旭日重光章。1996年からは憩の園在日協力会会長を務め、学習院の同窓会桜友会の会長(第5代)も務めた。

 2011年6月5日、老衰のため東京都稲城市の病院で死去。84歳没。叙・従三位。

*インタネットでの記事で死去されていたことを知りました。ありし日を偲びご冥福を捧げます。


入江侍従長

後引き気配

参考:入江相政日記(いりえすけまさにっき)は、昭和天皇の侍従長を務めた入江相政(1905年生まれ)が1935年から、1985年9月に死去する前日までほぼ毎日記した日記。朝日新聞社で公刊された。

 入江は1969年から1985年まで侍従長を務め、80歳を迎えたのを機に、10月1日付けで退任を公表していたが、その前々日の9月29日の日曜日に自宅で歿した。

 戦前から太平洋戦争前後の混乱、戦後の復興とそれに伴う象徴天皇制の確立・定着に至る昭和天皇、香淳皇后をはじめとする皇室・旧皇族の動静、歴代侍従長はじめ宮内庁関係者の横顔、旧堂上華族家だったが敗戦・占領改革による生活難を、皇室を題材としたエッセイの数々を執筆し文筆家となることで、克服していく入江一家の生活史などが、随筆家らしい平易な文体で綴られている。

平成二十六年七月二十六日


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戦艦武蔵


 今月4日、米国のマイクロソフト社の共同創業者・ポール・アレン氏が公開した、旧日本海軍の戦艦武蔵とみられる沈没船の動画は、日本中に衝撃を与えた。艦首や主砲の台座などの様子から専門家の間では「武蔵に間違いない」という声があがっている。長らく正確な沈没地点も不明だった武蔵…その姿が明らかになる可能性が高まっている。

▼武蔵はどんな戦艦だったのか。おそらく日本で一番有名な戦艦大和の同型艦である。両艦が搭載していた、世界最大を誇った46センチ砲は、40キロ先の艦船を攻撃できた。完成当時、これほど遠くの敵艦を攻撃できる戦艦は大和と武蔵しかなかった。艦隊同士で海戦の勝敗を決する「大艦巨砲主義」の申し子というべき存在なのだ。

▼朝日新聞27年4月24日記事よると

 武蔵と眠る友、語り合いたい 元乗組員、26日にフィリピン沖へ

現場海域に向かうのを前に早川孝二さんは武蔵に関する資料を読み返している=千葉県南房総市、71年前のフィリピン・レイテ沖海戦で米軍機の攻撃により沈んだ戦艦武蔵。3月、シブヤン海での潜水調査で船体が発見された。元乗組員やその家族らが今月26日、慰霊のために、船で現場近くを訪れる。

 ■70年余、秘めた記憶を胸に

「すぐそばで仲間を慰められる日が来るとは」。千葉県南房総市に住む早川孝二さん(87)が話す。

 15歳で海軍に志願し、1944(昭和19)年の夏に武蔵に乗り込んだ。

 レイテ沖に向け出撃した2日目の44年10月24日早朝、「敵機来襲」のラッパが鳴り響いた。早川さんは仲間とともに気象室の内側からハッチを押さえ、身構えていた。米軍機による雷撃と爆撃が、断続的に5時間以上続いた。

 艦首側からだんだんと沈んでいく。「総員退艦」の命令を受け、右舷を滑るようにして海に飛び込んだ。船から20メートルほど離れたところで爆発が起きた。洋上を6時間漂い、駆逐艦に引き上げられた。

 助かった、という安堵(あんど)とともに、悔しさがこみ上げてきた。いたるところが浸水していたのに、攻撃がやんでから退避命令まで3時間はかかっていた。「もっと早く避難の指示があれば、たくさんの人間が死なずに済んだのではないか」。二千数百人の乗組員のうち約千人が犠牲になった。

 戦後70年経って船体が見つかったことに早川さんは不思議な思いがする。「『武蔵』とは何だったのか」と考えさせられた。

「『沈まない』という言葉を疑わず、冷静に状況をみることもできず、多くの犠牲を生んだ。戦争の象徴ではないですかね」。フィリピンの海の底で眠る仲間に花を手向けつつ、家族にも打ち明けずにきた記憶を語らいたいと思っている。

 ■高齢化進み不参加も

 今回、慰霊に行くのは、武蔵の元乗組員やその家族らでつくる「戦艦武蔵会」のメンバーら約40人。過去にも4回、沈没地点で慰霊してきたが、3月に米マイクロソフト共同創業者の調査チームが沈没した「武蔵」の船体を発見したのを受け、36年ぶりに現場に向かう。ただ、そのうち元乗組員の参加者は早川さんを含め3人のみ。「高齢化が原因」(事務局)だ。

 武蔵のスクリュー操作を担当していた杉山三次(さんじ)さん(96)は静岡県沼津市の自宅で戦友への思いをめぐらせる。一つ年が下で、自宅にも連れてくる仲だった今西広逸さん(当時25)が武蔵とともに深海に眠る。

 今回は参加できないが、船が沈んだ10月24日に欠かさず訪れる靖国神社には今年も行くつもりだ。「おい今西、またおらの家に来いよ」。そう語りかけたいと思っている。

▼私は武蔵が撃沈された丁度同じころ(武蔵は,昭和17年8月に竣工し、19年10月24日に撃沈。乗員約2,400人のうち1,000人が戦死したとされます)、海軍兵学校に入校していた。当時、情報は生徒たちにはまったく知らされていなかった。複雑な思いとしてこの記事を讀み、掲載した。

参考:戦艦:武蔵

平成二十七年四月二十四日


19

幻の海軍刀


 「海軍兵学校第74期会」のホームページを見ていると、昭和20年3月第74期卒業 決戦の海へ

  淡い生活4年も過ぎて
  ロングサインで別れてみれば
  許せ殴った下級生
  さらば海軍兵学校
  俺も今日から候補生
  われら兵学校の三勇士

 上に掲げたのは兵学校で長く歌い継がれてきた戯れ歌 ”兵学校三勇士” の最終節である。兵学校の修学年限が4年であった平和の時代に作られたものである。ロングサインというのは、スコットランド民謡 「Auld Lang Syne」(楽しかった昔) のなまったものである。日本では 「蛍の光」 として明治以来、小学校の卒業式に歌われてきた。この曲は生徒が機動艇で表桟橋を出るときに、軍艦マーチに続いて演奏されることになっている。

 第74期の卒業式は昭和20年3月30日(金)、千代田艦橋前の練兵場で行われた。本来、大講堂で行うのであるが、在校生、卒業生を合わせると膨大な数にのぼる生徒を、大講堂といえども収容しきれないのであった。父兄の参列は昭和17年以来中止されていた。前年12月から霞ヶ浦航空隊に派遣されていた航空班の一部、約300名は所在の航空隊で行われた卒業式に臨んだ。

 卒業式後、食堂で最後の食事として、豪華な昼餐をご馳走になった。その後、大講堂から生徒館前に堵列して見送る下級生に、挙手の会釈を返しながら、表桟橋に待つ機動艇に向かう。上の写真はその状況を示す。卒業生は左手に日本刀を持っている。すでに硫黄島は玉砕した。米軍はついに沖縄に上陸した。本土決戦も間近に迫っている。海軍といえども日本刀は必携の武器であった。機動艇上、見送りの教官、生徒に帽を振りつつ、果たして今年一杯命があるかと思ったものであった。

 第74期生が海軍少尉候補生として、江田島から配属先に出向いた、私どもは2号生徒(普通の学校では2年生)になりました。

▼当時を思い起こすと、家からの便りによれば、昭和20年、伯父さんが軍刀を購入してくださり、その刀の軍装(海軍では黒革でした?)をする業者に送っているとのことであった。

 手元に届かないうちに、8月15日を迎えて、日本は敗戦となり、混乱状態とたりました。

 平成の現在の私には軍刀の必要は感じていませんが、購入してくださった伯父も今は亡く、「幻の軍刀に」になりました。伯父のご好意に感謝をささげます。

 せめてと思いを「江田島健児の歌」に託しました。

参考1:江田島健児の歌
参考2:樋口清之『梅干と日本刀』(祥伝社)に「ゾリンゲンのナイフに応用された日本刀の技術」「日本刀の切れ味は、焼き入れの水加減に秘密がある」「独・無敵タイガー戦車の鋼は日本刀を模倣」の記事があります。
平成二十八年三月七日

 


20

九大生体解剖事件


 90歳医師の償い 最後の生き証人 田中久稔 

「人の命を救うべき医者が過ちを犯した。事件の総括はまだ終わっていません」と語る東野利夫さん=福岡市中央区草香江2丁目

 九州帝国大(現・九州大)で終戦間際、捕虜の米兵8人を実験手術で死亡させる「九大生体解剖事件」が起きた。事件を目の当たりにした福岡の医師は、その記憶にさいなまれながらも、向き合い、戦争と医の倫理を問い続けている。

 平成28年7月、事件を伝える展示会が福岡市中央区のイベントホールであった。企画したのは、事件のただ一人の生き証人となった産婦人科医の東野(とうの)利夫さん(90)=福岡市中央区。手記などの資料や書籍、背景や経緯を記したパネルの前で、来場者の質問に答えた。

 戦後70年を迎えた昨夏、自身の医院で初めて展示会を開いた。その後も事件について知りたいと医院を訪れる人が相次ぎ、再び展示することにした。「(事件は)決して消えないトラウマ。焼き付いています」。不安を落ち着かせる薬や睡眠薬を使うようになって半世紀近い。

 事件との関わりは偶然だった。1945年5月、当時19歳。医学生になってまだ1カ月余りで、解剖学講座の雑用係だった。校舎に横付けされたトラックから、目隠しをされた捕虜2人が降りる所に居合わせ、解剖実習室の場所を尋ねる将校を案内した。部屋には、捕虜のほか医師や軍服の将校ら十数人が入り、東野さんも続いた。

 薬で眠った捕虜の「手術」が始まった。肋骨(ろっこつ)を切除し、右肺を摘出。「人間は片肺を取っても生きられる」と執刀医が言ったと記憶している。血管から大量の血液が抜かれ、代わりに海水が輸液されたが、捕虜は二度と目を覚まさなかった。同じ日にもう1人が解剖台に寝かされ、今度は東野さんが輸液用の海水のガラス瓶を持たされた。

 絶命した捕虜の体から、標本が採取された。後片付けを命じられた東野さんは、血の広がったタイル張りの床をバケツの水で流した。「あの気持ちは何とも言いようがない。異様な空気だった」

 戦後、東野さんは連合国軍総司令部(GHQ)の厳しい尋問を受けた。訴追はされなかったが、軍事法廷で証言をさせられた。執刀した教授は判決を待たずに自殺。重労働25年の判決で9年余りを獄中で送った別の教授は60年代、臨終の床で「ビー、ニジューキュ」とうわごとを繰り返した。

 その頃、東野さんは医院を開業していた。医師としての責任を感じ、真相究明を思い立った。関係者を訪ね歩き、米国立公文書館などで資料を収集。「汚名 『九大生体解剖事件』の真相」(文芸春秋、79年)にまとめた。

 それでも「心の区切り」はつかない。昨年5月、捕虜たちの搭乗機B29の撃墜現場に近い大分県竹田市の山中で毎年営まれる慰霊祭に、約10年ぶりに参列。資料の展示も決めた。

 敵国への憎悪を募らせ、戦争の勝利を信じたあの頃。「命を救うはずの大学医学部の人間が過ちを犯した」。語っても、今の若い人は理解できないのでは、との不安が拭えない。それでも資料を残し、伝えることが「償い」と考える。訪れる人には、語ろうと。

 「大事なのは残された人間の態度。過ちをタブーにすること。それが本当の過ちです」

■九大歴史館、新入生が見学

 継承の取り組みは九大医学部でも続く。

 医学部や九大病院のある病院キャンパス(福岡市東区)の正門そばに昨年4月に建った九州大学医学歴史館。事件を伝える1枚のパネルと、「九州大学五十年史」(1967年)の関連ページが展示されている。今年4月、新入学生が見学する時間が設けられた。

 九大では、軍事法廷の判決が出た直後の48年、医学部などが「反省と決意の会」を開催。五十年史によると「たとえ国家の権力または軍部等の圧力が加わっても、絶対にこれに屈従しない」ことを決意した。

 戦後70年の昨年3月の医学部教授会では、事件で死亡した米兵への「哀悼の意」を表明。「医師としてのモラルと医学者としての研究倫理を再確認し、今後もこの(国家権力や圧力に屈従しないとする48年の)決意を引き継ぐことを固く誓う」と決議した。

 「長い歴史の中では深く反省するべき事も起こりました」。今年3月の医学部卒業式で、学部長の住本英樹教授(58)は祝辞で事件に触れ、学生たちに語りかけた。「負の部分も含めて過去を冷静に見つめ直すことが、私たちを正しい道へと導いてくれるものと信じています」(田中久稔)

     ◇

 〈九大生体解剖事件〉 1945年5月、大刀洗(たちあらい)飛行場(福岡県)を爆撃した米軍のB29が日本軍機の体当たり攻撃で撃墜された。捕らわれた米兵8人が九州帝国大に運ばれ、臓器摘出などの実験手術の末に全員死亡した。戦後、軍将校や同大教授ら30人が戦犯として起訴され、23人が有罪となった。うち5人は絞首刑を宣告され、後に減刑された。事件は遠藤周作の小説「海と毒薬」の題材になった。

平成二十八年十月十一日


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統率力で難局を乗り切れ
見事だった先任将校の早期決断

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松永市郎氏(海軍兵学校88期)の記録

 人は、生命、財産、名誉を傷つけられそうになると、危機感を持つ。この危機感が長期にわたるときには極限状態に陷るが、これを乗り切らなければならない。難局に臨んで何が大切なのか、どんなリーダーシップが求められるのか━━以下は私の体験による教訓である。

◎速やかな決断が声明を救う

 昭和十九年八月、私が乗り組んでいた軍艦「名取」は、マニラから西太平洋パラオ諸島に向う途中、潜水艦の雷撃を受けて撃沈された。場所は、フィりピンのサマ―ル島東方六〇〇キロの洋上だった。

 洋上をカッター(大型ボート)で漂っていた私たちを、幸い味方の偵察機が発見し、「駆逐艦二隻、救助に向かいつつあり安心されたし」との通信筒を落としてくれた。誰もが、この救助艦を待つものと思っていたところ、当時二七歳の先任将校小林英一大尉の判断は違っていた。

 「当隊は、昼間の発煙筒も夜間の発光信号も持たないので、洋上で発見される確率は小さいから、フィリピンまで漕いでいく」

 しかし、磁石も時計もないので、昼間は方向がわからない。夜空の星座を頼りに毎晩一〇時間漕いで、順調に経過しても一五日間はかかる。食糧も水もないので、全員が反対したが、大尉は決心を変えなかった。そして一三日目の朝、ミンダナオ島北東の端スリガオにたどりついた。先任将校の速やかな決断があったればこそである。

 団体行動を決めるのには、決断、決裁、多数決と三つの方法がある。決断はリーダーが単独で決めることで、決裁は幕僚の複数案の中からリーダーが選び出すことである。戦略は決断によるものが望ましく、戦術は決裁でも構わない。旅行の行き先など、どちらでもよい場合なら、多数決でも差し支えない。

 戦後は民主主義の名の下に、多数決が最善の方法のようにいわれているが、そうではない。もし短艇隊が多数決を採用していたら、私たちの生命はなかった。「多数決は、ときに大局を誤ることがある」ということを、リーダーは銘記すべきである。

指揮権確立のむずかしさ

 「名取」沈没の際、艦長久保田智大佐は艦と運命を共にされた。カッターに乗り込んだ航海長小林英一大尉は、副長官宮本績少佐の在否を確かめた上で、私に手旗信号を送らせた。「航海長小林大尉、第二カッターにあり。先任将校としての指揮をとる」━━こうして新たな指揮権は確立された。

 危急に直面した際、当然の指揮権確立が行われないため、事故発生の原因となることもある。

 『八甲山死の彷徨』(新田次郎著)を読むと、遭難した青森隊は、中隊長が中隊を指揮して出発し、大隊長は大隊本部を率いて随行した。そして岩木山麓で方向を見失った。

 中隊長が、大隊長の発言を、命令と勧告いずれに受け取るか迷っている間に、指揮権の所在がはっきりしなくなった。このため、二一〇名中一九七名が死亡する、大事故をひき起こした。

 数年前、レーガン大統領が狙撃され、直ちに病院に担ぎこまれたが、生命に別状はないとわかったが、副報道官は、この際大統領代行は置かないと記者団に発俵した。このときモンデール副大統領はテキサス州を旅行中であり、急報に接して直ちにホワイトハウスに向っていた。

 一方、ヘイグ国務長官がホワイトハウスに来てみると、大統領権限を代行する者がいない状態であった。ヘイグはもともと陸軍大将で、指揮権は瞬時もおろそかにしてはならない、と訓練されている。

 副報道官の発表を知らなかったヘイグ長官は、記者団を集めて「副大統領がホワイトハウス入りするまで、ヘイグが大統領権限を代行する」tこ語った。この発言が、後に憲法違反に問われ、ヘイグは辞任に追い込まれた。

 しかし、レーガンが人事不省になっていた四時間半、世界最大の権限を有するアメリカ大統領権限が、宙に浮いていたのは紛れもない事実である。その間、大した事件も起こらなかったから、いいじゃないかと、簡単に見逃すことができない汚点を残してしまった。

 この」ように指揮権の継承、指揮権の確立という問題は、とっさの場合に急にできるものではないのだ。平生からの心構えと準備が必要である。

参加意識を呼び起こす

 先任将校が、フィリピンに向けて漕いで行くと決断したとき、全員が反対した。軍隊だから命令だと一喝することもできたが、先任将校は大声で次のように説得した。

 「名取沈没の現場に、カッター三隻と多数の生存者がいることは、味方の偵察機」が確認していった。カッターは沈まないというのは、船乗りの常識である。俺たちが陸地にたどり着かなければ、名取乗員六〇〇名は、全員戦死ということにならずに行方不明と認定される。それでは、名取と運命を共にした艦長以下四〇〇名の戦友に申し訳ない。

 また俺たちの家族は、無事な凱旋か名誉の戦死を神仏に祈っている。行方不明になっては、俺たちの家族にも申し訳ない。俺たちは、なんとしても陸地にたどり着かなければならない」

 これを聞いて、反対の急先鋒だった渡辺先任下士官はいった。「行方不明では、死んでも死に切れません。漕ぎます、行先がわからないから連れて行ってくだし」━━カッターの全員が、一斉に「よーし、漕ぐぞ!!」と力強く叫んだ。

 風波の強い太平洋の洋上で、動転している乗員を前に、蚊の泣くような声しか出せないのでは皆を説得できな。このため兵学校では、毎晩号令演習をしていた。政治家、軍人ばかりでなく、リーダーになる人は誰でも大きな声が出るのが望ましい。

キヤツチフ?ーズの善し悪し

 「行方不明になるな!!」━━これが短艇隊のキヤツチフ?ーズだった。具体的で語呂もよく、いまでもよい表現だったと確信している。

 第二次大戦中、日本はわかりにくい「八紘一宇」を合言葉にしていた。アメリカの合言葉は「リメンバー・パールハーバー」(真珠湾を忘れるな)という、誰にでもよくわかるもので、これで大いに成功していた。

 人間誰でも、何か改まって仕事をしようとする場合、緊張状態になる。日本人は、「転ばぬ先の杖」「後悔先に立たず」「念には念を入れよ」などと抽象的なことばをいって、より深い緊張状態に引きずりこもうとする。これでは金縛りになって、思い切った仕事はできない。

 アメリカ映画では、敵陣に突撃する際、上官が部下に向って「帰ってきたら、ビフテキで一杯やろう」などというような」場面を、よくみかける。日本人としては、大事な仕事に取りかかるときに、本能に属することを口にするのは不謹慎と思われるが、コチオコチになった部下は、気楽な呼びかけでリラックスさせることができる。

 オリンピックの本番では、日本選手がふだんの力量を十分発揮できない場合が多い。ところが、標準記録をやっと上回った欧米選手が、いきなり本番で大記録を出す場面をしばしば見受ける。その点、日本人は、キヤツチフ?ーズの使い方、コンディションのつくり方が下手なのではないかと思う。

 伝統校でも有名校でも、甲子園の高校野球で一回戦を勝ち抜くことは、なかなかむずかしい。昨年、初出場で見事に初戦を飾ったある高校の監督は、学校関係者でなく、街のスポーツ店の社長だった。第一戦を前にして、コチコチになっちぇいる選手たちに、この監督は次のようにいった。君たちが次々に勝ち進むなら、私もお付き合いでここに泊まることになる。しかし、試合には勝ったが、帰ってみたら店はつぶれていたでは困る。だから、早いこと適当に負けてくれんか」

 選手にとっては思いがけない言葉だったし、突っ飛でおかしかったので、吹きだしたものもいた。監督は」すかさずいった。「だけど、めったに出られない試合だから、一つぐらい勝つか」━━この監督の選手操縦法にはまなぶべき点がある。

極限状態を救うユーモア

 極限状態では、人は理屈も駄ジャレも聞かない。そんな場合でも、ちょっとしたユモーアが思わぬ効果をもやらすことがある。短艇隊の近くで雷鳴がとどろいたとき、小野という一七歳の少年兵が、恐怖のため震えていた。そこで私は、祖母から聞いた話をしてやった。

 「辰巳の雷は音ばかり、とう言葉がある。辰巳とは東南である。天気は西から東に移るから、あの雷がこっちにやってくることはない」

 これを聞いて、小野少年兵はいかにもほっとした」様子だった。

 先ごろ来日された、イギリスのチャールズ皇太子は、行く先々でユモーアをふりまかれ、日本国民の大歓迎を受けられた。これからの日本人は、チャルーズ皇太子を見習って、国際的なユモーアを身につけたいものである。

 木村哲郎海将は、練習艦隊司令官の当時、各寄港地で国際的なユーモアを残しておられるので、その実例を紹介する。

 ニュージランド入港直前、アメリカが月着陸を成功させたので、木村司令官は」これが話題になると心積もりをした。案の定、ニュジーランド司令官は、しきりに月着陸を賞めたたえた。木村司令官は、月着陸は大した作業でないとの前置きで、次のように語った。

 「月は女性ですから、着陸は簡単ですよ。だけど、離陸はとてもむずかしいと思います」━━ニュージランド司令官は、木村司令官の巧みなユーモアに大変感心した。

 シドニーの歓迎?セプションでは、木村司令官は、次のように挨拶した。「ここにいる若い士官たちは、一〇年二〇年先といわず、数年後には必ずこの国を訪ねるでしょう、あたかも”ブーメラン”のように」━━ブーメランは、オーストラリア原住民の狩猟道具だから、来会者たちは大喜びした。

 コロンボ(スリランカ)の記者会見では、一人の記者が質問に立った。「日本は二七年前、ここコロンボを空襲しました。その子孫に当たる貴官が、国際親善のため入港したとおっしゃるのは、非常識じゃないですか」

 司令官は答えた。「仰るせのとおり、日本は確かに空襲しました。しかしう、それはコロンボでなく、ここに駐在していたイギリス海軍を空襲しました」━━この当為即妙の言葉に、周囲から惜しみない拍手が起こった。

 シンガポールでは、イギリス司令官官邸で練習艦隊首脳部一〇名ほどを迎えて、歓迎パーティが開かれた。

 ボーイがカレー液を注ぎ分けていたところ、木村司令官の肩章に容器をぶっつけ、カレー液を真っ白い制服にひっかけてしまった。主賓にそそうをしたので、主催者側は大変恐縮した。

 木村司令官が平然として、「当地はシャワ―(スコール)のひどいところと聞いたいました。ただいまは、色のついた珍しいシャワーが降ってきました」といったので、その場の雰囲気が、一気に和らいだという。

遊びとリーダーシップ

 一時も早く接岸したいというのが、先任将校の本心だっただろう。しかし、先任将校は、隊員が泳ぎたいと申し出たとき、自分んおはやる気持ちを抑えてこれを許した。

 結果は、体内にたまっていたうつ熱がなくなり、気分転換ともなり、とてもよかった。緊張の中に遊びを取り入れたリーダーの決断は、成功の一因となった。

 兵学校は、リーダーを育てるところである。まず知力、体力、人格にわたる全人教育を施した。しかし、わずか三ヵ年間の能力アップだけでは指揮官は育たない。そこで次には、指揮官としてのマイナス要素を除去することに重点が置かれた。能力アップは教官(先生)の授業で、マイナス要素の除去は、上級生の躾教育によって行われた。

 躾教育は、ちり箱のちりを捨てるとか、雑巾を乾かして取り込むとかの簡単な作業が中心で、頭を使うとか熟練を要するものではなかった。

 しかし、目まぐるしい日課・週課の中で、kのれらの作業を完遂することは、生易しことではなかった。完遂できなければなぐられ、ちょっとでも言い訳すると、さらに何倍もなぐられた。そこで誰でも言い訳、泣き言、不平をいわない後天的性格となった。リーダーシップは、能力アップだけでは生まれないのではかと思う。

 短艇隊では、先任将校は優れたリーダーシップを持っていたし、部下は根性を持った集団だったし、先任将校と部下との間に相互信頼感が醸成されていた。この三つの条件が揃っていたからこそ、極限状態を乗り切る統率ができた。

日常の勤務こそ大切

 先任将校は、いわば教科書のような人だったが、一方では軍規違反をしていた。定員四五名のカッターに、六五名も乗せたのは明らかに軍規違反である。

 軍規違反で思い出されるは、明治四〇年、練習艦「松島」の爆沈事件である。松島が僚艦「厳島」「橋立」と共に、三隻で遠洋航海に出かけ、澎湖島の馬公に寄港した夜中に事件が起こった。

 橋立の副直将校は、松島の異変をみて、直ちにその旨」を当直将校tこ副長に届けた。副長は、「総員起し、救助艇派遣方、総短艇用意」の号令をかけるよう」指示した。橋立の短艇が現場に到着したとき、厳島の短艇は死傷者の収容を終わり本艦に引き揚げるとこころだった。

 厳島の副直将校は、松島の異変を知るや、副長のかける号令を独断で自らかけ、号令をかけた旨を当直将校ぉよび副長に届けた。

 夜中に総員を起こすのは副長の権限だから、厳島の副直将校は明らかに軍規違反である。しかし、この軍規違反があったればこそ、厳島は橋立に比べて数倍の働きができた。平常の場合、軍規氣違反は絶対してはならない。しかし、時と場合によっては、軍規違反をしなければ、後世に残るような仕事はできないこともある。

(注)副直将校とは当番の係長、当直将校とは当番の課長、副長は専務に相当する。

 先任将校の定員オーバー問題にしても、厳島の副直将校の総員起しにしても、とっさの思いつきであるが、偶然にできたわけではない。日常の勤務を掘り下げて、研究的にやっていたからこそ、いざというときに軍規違反を恐れずに、勇敢に実行することができたのだ。

 スポーツ放送でよく聞く「練習は試合のつもりで、試合は練習のtくもりで……」とう言葉も、味わってみると、哲学的な意味合いが感じられる。平生の練習で決まる者である。実業社会でも日常の勤務こそ大切である。

若い人の意見は貴重

 兵学校の期友茂木明治は、若くして海軍砲術学校教官に選ばれた。もともと優秀な彼は、対空射撃の新しい理論を開発したが、海軍はこれを全面的に採用しなかった。茂木は現在生きているから、彼には救いがある。

 悲惨だったのは、飛行機乗りである。戦闘機乗りの野口義一とは、特に仲のよい期友だった。激しい航空消耗戦に巻き込まれ、わずか数キロ離れた東と西のラボールの飛行場のいながら二人は半年間も会えなかった。二人がやりとりした手紙が、いまに残っている。彼ら若いパイロットたちは、毎日の死闘を繰り返しながら、次のことに気づいた。

 「自分たちは現在、目に見えるパイロット相手ではなく、数という目に見えない相手と戦っている」

 当時の日本の航空機生産能力は、アメリカに比べ格段に低かった。そこで若いパイロットたちは、海軍当局に次の意見を提出した。

 「飛行機は、使う場所によって、艦上機、水上機、陸上機に分かれる。それぞれが使う目的によって、さらに戦闘機、偵察機、爆撃機、攻撃機に分類される。このような多機種を、平均的につくっていては数が上がらない。艦上戦闘機だけを、集中的につくってもらいたい。戦闘機で偵察もするし、爆撃もする」

 命をかけた、この意見も採用されず。それから三年後、フィリピン戦線が危機となり、戦闘機に爆弾を抱かせて出撃させたが、すでに彼我に戦力の差が大きすぎて、特攻攻撃の成果も上がらなかった。

 あのころと現在とでは、戦時と平時との違いもあり、時代の移り変わりもある。しかし、若い人は感受性が強いし、将来を察知しやすいポジションにいることは、戦中も現在も変わりはない。若い人の意見は貴重であることを、銘記しておいていだたきた。若い時代の意見を等閑視するような会社は、早晩立ち行かなくなるのではなかろうか。

土壇場での身の処し方

 昔、街道を行く武芸者に対して、道端につながれていた荒馬が後ろ脚でけろうとした。武芸者はさっと身をかわして事なきを得tふぁが、この場面をみていた人たちは、さすがは武芸者と感心した。

 しばらくすると、武芸者の師範が歩いてきた。弟子さえもうまくかわせたのだから、師範はどんな見事な動作をするだろうかをみていると、師範は馬の脚がとどかないあたりを通り過ぎた。この師範のように、危機とか極限状態はできれば避けたいものである。

 しかし現実には、避けよとしても避けられない場合がある。兵学校では、このような土壇場に陥ったときの対策として三つの方法を教えた。

 <第一>身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ

 <第二>皮を切らせて肉を切れ、肉を切らせて、骨を切れ

 <第一>死中に活を求めよ

 戦時中、私の乗っていた軍艦が三回も撃沈された。一回目、二回目は上級士官が大勢生き残ったので、私の出番はなかった。三回目、すなわち短艇隊では次席将校だった。今度は俺の出番だ、たるぞと心に誓った。しかしそのためには、六〇〇キロも漕がなければならなかった。私の遠距離橈漕(とうそう)の経験は、江田島から厳島までの」二五キロだった。兵員は、せいぜい五キロの経験しかない。

 私はカーッとなりぃ、目はつり上がり声はうわずっていただろう。そのとき先任将校が、「通信長、慌ててもしようがないぞ。のんびり行こう」といった。先任将校は、私を叱りつけることも、堂々と注意することもできる。しかし、先任将校がそうすると、私の部下統率がしにくくなる。そこで先任将校は、私に落ち着けと、それとなく注意を与えたのだろうと思った。私は、落ち着くために、ダンチョネ節を心の中で歌った。

 そうしたら、胸のつかえがとれたというか、胸がスーッとして、その後はふだんと変わらない判断、行動ができるようになった。

       ◇  ◇

 極限状態を乗り切るための特効薬というものはない。あえていうならば、リーダーシップは知力、体力、人格を磨いて、まずリーダーシップを身につけておくことである。また部下は、根性を持った集団に育てておかなければならない。

 そして、リーダーと部下との間に相互信頼感が醸成されているときはじめて極限状態わお乗り切ることができる。そのような態勢がが整っていても、危機や極限状態hあ、できるだけ避けるのが望ましい。

 いざ危機や極限状態にぶっかったならば、私のよに、いきなり飛びつかずに、一歩下がってというか、言葉を換えると、一段高いところから危機や極限状態を見下ろすことが大切である。

※昭和61年8月5日(日)松永さんから直接いただいたプリントから。

※松永市郎(まつなが いちろう、1919年(大正8年)2月18日 - 2005年(平成17年)3月31日)は、日本の軍人。元海軍大尉。作家。父は海軍中将松永貞市、子にiモード開発者の松永真理がいる。

参考: 松永市郎

平成28年12月5日、89歳


22

大平洋戦争戦史

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 大平洋戦争が始まった1941年、私は中学2年生だった。1943年4月、海軍大将山本五十六戦死。同年6月、国葬。そして、戦争末期に近い1944年10月、海軍兵学校に76期生として入校した。翌1945年、江田島で終戦を迎えた。

   以下に大平洋戦争戦史をインターネットを借りて整理した、

 大日本帝国(旧名の日本)が、大東亜戦争(太平洋戦争)に踏み切った理由は東南アジア諸国の、資源確保の為だったとされています。

 しかし、すでにその頃の欧米諸国は相当な圧力を日本にかけており

 そのまま受身に構える姿勢では、ジリジリと劣勢に追い込まれるとの見解から

 先制攻撃をしかけた、いわば正当防衛だったいう説もあります。

 戦後の教育では、日本の侵略戦争だったとされていますが真相は不明です。

 しかし、なにが理由だとしても、日本史上類をみないほどの死者を出したもっとも悲惨な戦争、− 戦争の始まり −

1941.12.08 真珠湾攻撃  

連合艦隊司令長官 山本五十六は早期決戦なくして日本の勝利はないと奇襲作戦を提案。

軍令部が作戦の失敗を危惧するなか強硬に遂行し、6500Kmにも及ぶ隠密航行の末、ハワイ近海への進攻を成功させた。

この作戦の狙いは、米艦隊の太平洋進攻を封じ、南方戦線の確保を容易にする為のものであった。

12月8日早朝、183機もの攻撃航空機を動員し、真珠湾奇襲攻撃を開始。

綿密に準備された日本軍の攻撃の前に、混乱を極めた太平洋艦隊は組織的抵抗もできないまま壊滅した。

作戦成功を伝えた電文、「トラトラトラ(ワレ急襲に成功セリ)」はあまりに有名である。


 太平洋戦争開戦の暗号「ニイタカヤマノボレ一二〇八」を送信した電波塔として針尾送信所が広報されることが多いが、この暗号を真珠湾攻撃部隊に向けて送信したのは千葉県船橋市の船橋送信所(艦船向けの短波と中波)と愛知県碧海郡依佐美村の依佐美送信所(潜水艦向けの超長波)である。針尾送信所は、瀬戸内海に停泊中の連合艦隊旗艦「長門」が打電し、広島県の呉通信隊が送信したものを受信し再発信したもので、中国大陸や南太平洋の部隊に伝えたものであるとされるが、その詳細は不明とされている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 針尾送信所(はりおそうしんじょ)は、長崎県佐世保市の針尾島にある海上保安庁の無線送信所である。敷地内にある巨大な3本のコンクリート製の電波塔、針尾無線塔は大正時代より建つ自立式電波塔としては高さ・古さともに日本一である。「旧佐世保無線電信所(針尾送信所)施設」の名称で国の重要文化財に指定されている。

 歴 史

 日本海軍佐世保鎮守府隷下の無線送信所として、1918年(大正7年)11月に着工、1922年(大正11年)に完成した。総工費は当時で155万円という。竣工日は1号電波塔から順に4月30日、5月30日、7月31日。

 終戦後しばらく米軍管理地となり、1948年(昭和23年)から第七管区海上保安本部佐世保海上保安部が所管し、海上自衛隊と共同で使用している。ただし、針尾送信所の象徴であった巨大電波塔は、1997年(平成9年)に後継の無線施設が完成したことにより、現在では電波塔としての役割を終えている。

 針尾島内では他に、浦頭引き揚げ記念公園や現在のハウステンボス・南風崎駅(本土)近辺の慰霊碑などに、第二次世界大戦の傷跡がのこっている。

 現 状

 周囲は、田畑、果樹園で囲まれ、現在は電波塔としては使用されておらず、地元の有志が塔を文化財として存続するため、日々活動している。最近、心ない人によってラッカースプレー等で落書きされることがたびたび起きていて問題になっている。

 築約90年経ち、あと30-40年が寿命の限界と見られていたが、現在でも十分な耐震性を持つことを、佐世保市教育委員会が確認した。そのため佐世保市は、針尾無線塔一帯を公園化を目指し、海上保安庁と協議を始めた。海上保安庁側も「国の重要文化財指定に向けた動きが出れば協力する」としていた。

 2009年には、DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選定。

 2013年に、3基の無線塔のほか電信室、油庫(ゆこ)の2棟と附属の土地が国の重要文化財に指定された。将来的には一帯に見学用通路や案内施設を整え、塔内も見学できるようにする予定である。2013年3月より、ボランティアによる無線塔の見学案内が行われている。見学時間は、平日、土日ともに9時00分〜16時00分。また、電信室を改装し2017年頃に資料館として公開する予定である。また、当時の写真は、佐世保市にある海上自衛隊佐世保史料館でみることができる。

最後の予科生徒78期:岡山市出身の安井昭夫さんはこのクラスだった。
平成29年8月17日追加。


 この戦闘で、米海軍は主力戦艦など8隻を失い、2000人以上の死者を出し奇襲は成功したかに思われた。

しかし、目標であった米主力空母は港から逃れて無事であり、また艦船への攻撃を集中させた為ドッグなど施設の被害は少なく、結果、真珠湾の復旧は早く進むこととなったのである。

この戦いは海軍の主力は、戦艦から航空機への時代に移ったことを決定づける戦いだったのだが深く受けとめたのは、勝利した側の日本海軍ではなく、大敗を喫して身をもって知った米国海軍自身だった。

*山本五十六…国際的な視野の持ち主で信念を貫く強い意思を持った連合艦隊長官。

「最初の1年は存分に暴れられるが、その後の見通しは、まったくつかない」と語るなど先見の才があった。

1941.12.10 マレー進攻作戦  

真珠湾攻撃と時を同じくして、山下奉文中将率いる日本陸軍はマレー半島に進攻した。

50日あまりの激しい戦闘の末、日本陸軍は英軍をシンガポールへと追いやることに成功。

その後、シンガポールに篭る英国などの連合軍を降伏させ、マレー諸島は日本軍により制圧された。

マレー島近海には、当時最新鋭戦艦プリンスオブウェールズを擁する英国東洋艦隊が配備されていたが海軍中将小沢治三郎の航空隊により撃沈され、これにより真珠湾と合わせ航空戦力の優位が決定された。

*山下奉文…マレー進攻成功の立役者。シンガポールでの強気な降伏交渉の話しは有名。

   戦後、フィリピンでの残虐行為等の責任を負い戦犯として処刑された。

1942.04 東京空襲  

 アメリカ大統領ルーズベルトは、真珠湾の大敗や、各戦線の敗退が相次ぎすっかり落ち込んでしまった米国側の戦意を高揚させる為に、無謀とも思える東京強襲作戦を遂行した。

 12機の米爆撃機の爆撃は奇跡的に成功し、日本側の被害は微量だったが米国の戦意は大いに上がり日本側は、突然の首都爆撃にショック受け、米海軍との早期決戦を決意させる結果となる。

*ルーズベルト…アメリカ大統領。「真珠湾を忘れるな」のスローガンと共に東京空襲を成功させ国民の士気を高揚させる。しかし真珠湾攻撃は自ら仕掛けた罠との説もあり。

1942.04 印度洋作戦  

 南雲忠一中将率いる日本海軍機動部隊(空母部隊)は、インド洋に展開する英東洋艦隊を撃滅するべく出撃。その強力な航空戦力で東洋艦隊を駆逐し、インド洋の制海権を完全に掌握した。

*南雲忠一…水雷戦のエキスパートで真珠湾攻撃の立役者。しかしミッドウェーでは敗戦の一因を作る。その後サイパンにて将兵40000と共に玉砕した。

1942.05 珊瑚海海戦  

 南太平洋の防備強化を目的に、高木武雄中将の機動部隊はニューギニア・ソロモン攻略に向かっていた。

 しかし、米軍はこれを事前に察知し珊瑚海へ機動部隊を派遣した。戦闘は双方1隻の空母を失う混戦となりこの戦いで正規空母 瑞鶴・翔鶴は修理、再編成の為ミッドウェー海戦に間に合うことができなかった。

1942.06 ミッドウェー海戦  

山本五十六長官は、ハワイ攻略を早くから企図していたが軍司令部の中で賛成するものは少なかった。

 しかし、突然の東京空襲で衝撃を受けた軍司令部は、米空母の撃滅のためハワイ攻略の足がかりとしてミッドウェー攻略を容認したのであった。日本海軍の正規空母4隻を擁する南雲忠一中将の機動部隊はミッドウェー近海に達すると、ミッドウェー基地への空襲のを行うため攻撃航空部隊を出動、しかし思ったほどの効果が上がらず、また、米艦隊を索敵にて発見したことから航空隊への武装転換を繰り返しており、さらに、相次ぐ航空機の発着陸で空母艦上は騒然としていた。

 その時、突如、米航空隊が雲の切れ間より飛来し、瞬く間に正規空母 赤城、加賀、蒼龍を、爆雷撃。

 直撃弾を受け、艦上に多くの航空機とベテランパイロットを乗せたまま、3空母は爆発炎上した。

 わずかに空襲を逃れた山口多聞少将の指揮する正規空母 飛龍は、積極果敢に攻撃隊を出撃させ米空母ヨークタウンを航行不能にする反撃を行うが、やがて飛龍も激しい航空爆撃を受け、撃沈された。

 この戦いで、日本海軍は無敵を誇った機動部隊の大半を失い、優秀な人材を数多く失った。

 この最初にして最大の敗戦で、日本海軍は太平洋での勢力保持が不可能になり後退を余儀なくされた。

*山口多聞…秀才であり強靭な肉体をもった優れた海軍将校。将来の連合艦隊長官として有望視されていた。

 しかしミッドウェー海戦にて勇猛果敢に戦うが敗れ、沈みゆく艦と運命を共にした。

1942.08 ソロモン海戦  

 ミッドウェーの敗戦から、南太平洋の制空権の確保を迫られた日本軍はガダルカナル島(以後ガ島)に、飛行場を新設した。しかし出来たばかりの飛行場は 米軍に奪われることになり、これを奪回すべく三上軍一中将の艦隊を派遣した。

 この戦いは、米艦船を多数撃沈し、日本軍の大勝利に終わったのた。

 だが、作戦の目的であった米軍のガ島への揚陸を阻止できず、結果、周辺の制空権を失うこととなる。

 戦いには勝利したが、戦略的にはあまり価値のないものであった。

1943.2 ガダルカナル島撤退  

当初、軍司令部はガ島の米軍兵力は、2000程度と過小に評価していた。

 第一攻撃部隊に、一木支隊わずか900名を派遣したが、実際は10000の海兵隊の前に全滅した。

 それに驚いた軍令部は評価を改め、次々と戦力を投入、最終的には30000人に至ったが制空権を完全に米軍に奪われていたため輸送がままならず、航空機による攻撃で 日本軍の輸送船は、ことごとくガ島到着前に沈められた。補給物資の届かないガ島上陸軍は 飢えに苦しみ、さらにマラリアが発生し、まともな作戦も遂行できないままに、撤退することになった。

 この作戦は悲惨さを極め、日に100人が飢えとマラリアで死亡したという。ガ島はまさに餓島と化した。

   30000人を投入したガ島奪回作戦は、その3分の2に及ぶ戦死者を出し、完全に失敗に終わったのである。

 この無謀とも言える強硬な作戦で、日本陸軍は優秀な人材や軍需物資の多くを失い、敗戦への道をさらに加速させた。

1943.04 フロリダ沖海戦  

 ガ島撤退から劣勢に立たされた日本軍であったが、山本五十六長官は同方面の敵航空戦力を壊滅することが劣勢挽回の策であるとし、自ら指揮を取り、残存航空機による大規模な空襲を繰り返した。

 しかし、この戦いはほとんど効果を上げる事ができず、事実上失敗に終わった。

   また、この戦闘で前線視察に向かう途中の、山本長官を乗せた航空機が撃墜され信念の指揮官山本五十六は戦死した。彼の死は日本にとって大きな痛手であった。

1943.05 アッツ島守備部隊玉砕  

   アッツ島は、日本の北東に位置し断崖の孤島で、戦略的価値などいくらもなかったが陸軍の面子のために、2500名の守備部隊が置かれていた。

 米軍部も当初、戦略価値なしと無視していたのだがミッドウェー海戦に勝利した米海軍は、アッツ島の制圧に乗り出した。

 それに対し日本軍令部は、制空権・制海権の損失のため撤退は不可能とし、玉砕命令を下した。

 11000の米上陸部隊と、守備部隊は激しい戦闘となり、やがて守備部隊は全滅した。

この時、日本側で生き残ったのは、傷つき意識を失っていた、わずか29名だったと言う…

  この戦いで始めての玉砕が行われたが、日本軍令部はこれを軍人の誉れと美化しその後も無益な血を流す玉砕作戦は繰り返されるのである。

1944.03 インパール作戦  

この作戦は、英米の中国支援の遮断と、東インドの制圧を目的に陸軍令部により押し進められた。

しかし、この頃すでに日本軍に制空権はなく、物資の確保など容易ではない状態での強引な進軍であった。

4ヶ月に及ぶ作戦で、日本陸軍は無理な山脈越えや食料不足のために、多くの餓死、戦病者を出した。

この無理を重ねた作戦も中止となり、約10万の兵士達は物資もないまま、悲惨な撤退を余儀なくされた。

撤退路には、栄養失調と疫病で死んだ日本兵が折り重なり、「白骨街道」と呼ばれるほど悲惨なものだった。

この戦いで3万人にのぼる戦死者を出したが、そのほとんどが餓死や病死だったと言われる。

★写真は磯部卓男さんの著作。

プロフィール:
大正12年 横浜市に生まれる
昭和17年 陸軍士官学校卒業(第56期生)
昭和18年4月〜昭和20年8月 この間、ビルマ派遣第33師団歩兵第215連隊将校として、インパール作戦、イラワジ会戦等に参加する
昭和21年 復員
昭和25年 東京大学経済学部卒業、(株)クラレ入社
昭和55、58、59年 慰霊のため訪緬

1944.06 マリアナ沖海戦  

米軍部は、日本への直接空襲を可能にするため マリアナ諸島のグアム・サイパンの制圧に乗り出した。

それを阻止すべく、日本軍令部は小沢治三郎中将率いる最大の機動部隊で、これにあたった。

しかし、緒戦の敗退でベテランパイロットを欠いた機動部隊は、かつての戦力とは程遠いものであった。

それに対し米海軍は艦船100隻の大部隊であった。日本攻撃機はアウトレンジ戦法でこの戦いに望んだが錬度の低いパイロットでは成果をあげることができず、また敵の新兵器により航空戦力の7割を喪失。

空母3隻を失い、日本海軍機動部隊は壊滅的被害を受け、マリアナ諸島から撤退することとなった。

*小沢治三郎…早くから航空戦術の重要性に気付き機動部隊の構想を考案していた。レイテ海戦では囮部隊を指揮。

その後、最後の連合艦隊長官に任命されるが、その航空戦術を振るうにはあまりに遅すぎる着任だった。

1944.07 サイパン島玉砕  

マリアナ沖海戦で敗退した日本海軍は、マリアナ諸島の放棄を決定し撤退した。

残されたサイパン守備隊40000人には、支援も救出の望みもなく、玉砕の道しか残されていなかった。

爆撃・艦砲射撃の末、米海軍は上陸を開始、兵力・火力ともに3倍以上の米海軍の前に勝敗は明らかで激しい戦闘の末、指揮官南雲忠一中将以下40000の日本陸軍は、ほぼ全滅した。

また、現地の在留邦人も数多く巻き込まれ、8000人の犠牲者を出した。

日本軍令部の、「降伏は恥、潔く死を選ぶべし」と教育を受けていた日本人の多くは自害を選び家族が殺し合ったり、母親が子供を抱いて崖から飛び降りるというような悲劇をうんだ。

現在でも集団飛び降り自決のあった場所は、バンザイクリフと呼ばれる観光地になっている。

1944.10 レイテ沖海戦  

南太平洋を手中に収めた米陸軍元帥マッカーサーは、フィリンピン島を奪回作戦を開始した。

これに対し日本海軍は、レイテ湾に進入・上陸した米海兵部隊を栗田健男中将率いる大和・武蔵を中心とした遊撃部隊に突入させ敵戦力の撃滅を計った。

米海軍戦力の分散のため囮作戦を実行した小沢治三郎中将の機動部隊は見事に誘い出すことに成功するが、その引き換えに瑞鶴・瑞鳳などすべての空母を失い、機動部隊は事実上壊滅した。

小沢艦隊の陽動で、突撃を果たした栗田艦隊であったが、航空戦力の前には戦艦もまったく無力で250機もの敵航空機や、潜水艦からの集中砲火浴び、20本の魚雷を受けた超弩級戦艦武蔵は撃沈。

その他多数の艦船も沈没、大破するという大きな被害を出し、栗田艦隊は撤退した。

連合艦隊すべての力を使った最後の決戦も敗退に終わり、敗戦はもはや時間の問題となった。

この戦闘で初の神風特攻が行われたと言われる。航空機による直接体当たり自殺攻撃「神風特攻」はその後も多用され、終戦までに2400機を出撃、多くの若い命を散らした。

*マッカーサー…グアム島制圧後、連合軍の日本本土への進攻作戦に猛烈に反対、フィリピン攻略に向けさせる。

戦後、彼の指導の元、憲法を改正し、急速な日本の民主化を推し進め、今日の発展に至る。

1945.02 硫黄島玉砕  

サイパン・グアムを陥落し日本本土にまで迫った連合軍に、日本軍は硫黄島を死守すべく陸海21000名で島を要塞化し防備を固めた。それに対し連合軍は、1700機もの航空機による爆撃及び艦砲射撃を加え、戦車177両、61000もの兵力を投入した。しかし上陸に対し周到に準備していた日本軍は水際でそれを迎い撃ち、また島を地下要塞化した神出鬼没の反撃で、連合軍は屍の山を築いていった。

だが、連合軍の物量の前に徐々に消耗後退し、1ヶ月にも及ぶ抵抗のすえ、玉砕するに至った。

この戦いは熾烈を極め、日本軍は20000人が戦死、連合軍も3人にひとりが戦死する大きな被害を出した。

1945.03 東京大空襲  

マリアナ諸島を完全制圧した連合軍は、B29爆撃機300機を発進させ東京に向かわせた。

東京上空に達したB29群は、2時間半のあまり低空からの猛烈な波状爆撃をおこなった。

この攻撃で、地上は猛火に包まれ、阿鼻叫喚の地獄絵図さながらの光景だったという。

死者10万人、被災者100万人以上という壊滅的被害を出し、東京は焼け野原と化した。

1945.04 菊水作戦  

連合軍の沖縄上陸で、日本軍部はもはや本土決戦は避けられないとして「一億玉砕」を掲げ超弩級戦艦大和による特攻を決定した。この特攻艦隊は、その頃繰り返されていた空の特攻と並んで水上特攻隊と呼ばれた。行きの燃料しか積まない、まさに生きて帰ることのない決死の特攻だった。

沖縄戦の支援に向かう大和だが、制空権も制海権も完全に掌握されていたため簡単に発見されてしまう。

連合軍の凄まじい航空爆撃や、10本以上の魚雷を片側に集中的に受け、連合艦隊最後の戦艦大和は大爆発とともに沈没し、連合艦隊はわずかに生き残った駆逐艦だけとなり事実上、壊滅した。

1945.04 沖縄上陸戦  

圧倒的な戦力で沖縄を包囲した連合軍は、猛烈な空爆と艦砲射撃を繰り返し18万もの軍を上陸させた。

日本陸軍10万の守備隊のうち、3分の1は現地の防衛隊や学徒兵など、臨時での補助兵だった。

米軍の圧倒的戦力の前に50日の戦闘の末、日本陸軍は4分の3を失い沖縄本島は南北に分断された。

分断後の戦闘は連合軍による残兵掃討戦に過ぎず、そんな中でひめゆり部隊など悲劇が繰り返された。

もはや日本軍に組織的抵抗は不可能であったが陸軍部は降伏を許さず無意味な犠牲を増やしていった。

陸軍司令部の壊滅により沖縄は降伏し、太平洋戦争最初で最後の地上戦は幕を閉じたが本土決戦の時間稼ぎという非情な作戦のために沖縄住民に多大な被害を出した。

沖縄戦の戦死者は20万人以上、そのうち民間人の死者は10万人を超える悲惨な戦いだった。

1945.8.06   広島原爆投下  

連合軍は、日本上陸を前に降伏を拒み続ける日本政府に対し戦力差を決定づけるため新型の原子爆弾を投下することを決定した。8月6日午前8時、人類史上初の原子力爆弾は広島に落とされその一瞬の熱波とその後の放射能による被害で最終的には20万人もの死者を出した。

1945.8.09   長崎原爆投下  

広島に原爆を落とされてもなお降伏を認めない軍部のために、さらに悲劇の地は拡大した。

8月9日午前11時、長崎にも原爆が落とされ一瞬にして街は壊滅、結果14万人以上の被害を出した。

1945.8.15   ポツダム宣言受理 終戦  

日本政府はポツダム宣言を受け入れ、3年半にも及ぶ悲惨な太平洋戦争は集結した。

平成28年12月10日、89歳


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海軍兵学校の対番制度とクラレのアドバイザー制度


海兵507分隊入校:1994年             海兵507合同分隊会2007年(入校以来41年後)

 海軍兵学校では、分隊組織による自治組織になっていた。私が入校した第五〇七分隊(エ)は七十四期の一号生徒(三学年)が七人、二号生徒(二学年)が十五人、われわれ三号生徒(一学年)が十五人、合計三十七人で構成されていた。

 対番は、分隊内の一号、二号、三号で学年席次が同じ者同士を対番といった。たとえば、分隊内の各号の五席は、たがいに対番だった。そして、対番の上級生は、対番の下級生をとくに面倒をみるというしきたりになっていた。「三号の心得」を書いてくれていた。その書き出しは以下のようなものであった。「俺が貴様の対番だ。対番とは貴様の世話を見る者だ。わからない事があったら、どんどん質問に来い。兄弟だと思って楽しい事、苦しい事、共に分けあって行こう。仲良く張り切ってやって行こう」というものであった。

 私が三号生徒の時の対番として二号生徒は林生徒、一号生徒は荻原生徒だった。

 マンツマン教育だった。特に二号生徒から、入校した日から食堂での食事作法、起床就寝の仕方、敬礼の仕方といった日常生活の要領から心構えにいたる徹底した指導だった。林生徒のお陰で私は生活に速くなれて挫けそうなときに励まされました。

★クラレ研修所のアドバイザー制度 海軍での対番制度を参考に導入した。

 クラレ研修所の指導方針は第一線のリーダーとしての管理技術習得でした。研修方法は通信制度、期間中はスクーリングが含まれていた。研修生はスクーリング以外は工場であるいは事務所でで仕事をしながら一日に相当な時間家庭で独りで勉強しなければならい。そこで挫折させないための工夫としてアドバイザー制度を作った。

 職場の直接の上司を一人一人会社から指名して、専門知識、品質管理から英語の勉強などに至るまで全てのことに相談させることにした。

 計画当初は研修生の励ましを狙っていたが意外な効果が出てきた。それはアドバイザーの指導力を高めることが出来た。また、会社がこの制度を認めたから、工場ではモラールが高まった。

平成28年12月15日


 このような制度がどこかで行われていないかと思っていた。インターネットで下記の記事をみて、思つていたこととかなり近いのでホームページにアップした。

 灘高、やんちゃ集団が生まれ変わる「秘密の廊下」とは? NIKKEI STYLE 12/18(日) 7:47配信

 灘中学・高校の和田孫博校長  日本最強の進学校はどこか――。「ビッグスリー」と呼ばれるのは東京大学合格者数トップの私立開成高校(東京・荒川)、筑波大学付属駒場高校(東京・世田谷)、そして私立灘高校(神戸市)。特に灘は国内最難関の東大理科三類や京都大学医学部医学科の合格者でトップを走る。灘の強さの秘密に迫るため、神戸市の同校を訪ねた。

■「灘の同級生はとにかく個性的で、バラバラなんだけどなんか仲がいい。刺激的だからじゃない。やはり関西なのか奇人変人でも、おもろいやつなら大歓迎という雰囲気がある」。同校OBの大西賢・日本航空会長はそう話す。いまも2カ月に1度は灘の仲間と食事会を開く。同級生にはフジテレビの元ニュースキャスターから神奈川県知事に転身した黒岩祐治氏や、副業を認めるなど独自の経営で知られるロート製薬会長の山田邦雄氏など個性的なリーダーが多い。

 「自由奔放な学校です。高3のころ、授業を抜け出して喫茶店でたむろしていても、そばの席にいた教師は見て見ぬふりをしてくれた」。うどんすきの有名チェーン、美々卯(大阪市)の薩摩和男社長はこう話す。同氏は灘から東大文科一類に進学、その後、修業期間を経て家業を継いだ。この10月、灘の同窓会長に就任した。

 灘のいずれのOBに話を聞いても、自由で個性的な「やんちゃな集団」という話ばかりが聞こえてくる。有名進学校のイメージとはかけ離れているが、実は彼らが猛烈な受験生に変身するある空間があるのだ。

■職員室前に異常に広い廊下

 「ほら、職員室の前の廊下が異常に広いでしょ。テーブルや椅子もたくさん置いているし、ちょっと他の高校と違うと思いませんか」。和田校長は灘の職員室の前に案内してくれたが、確かに廊下とは思えぬ広い空間がある。

 「ここが午後3時以降、ワイガヤ空間に変わります」。高2の夏以降、部活など終了し、灘高生は受験態勢に入る。すると、授業の終了後、この職員室前の広い廊下に三々五々集まり、同級生たち同士の「勉強の教え合い」が始まるのだ。自分たちで分からなければ、担当教師に聞く。「とにかくうるさい」(和田校長)。関西弁がこだまするワイガヤ状態が退校時間の午後6時まで続く。

 「彼らはある意味ライバルですが、口に出して、教えることで自身の頭も整理され、様々な難問も解けるようになる。教えることが結局、自分にも相手にもプラスになることを知っている」と和田校長は説明する。実際、「僕なんて東大は全然無理な成績でしたが、仲間に助けてもらってなんとか現役で受かった」(東大工学部3年生)と話す卒業生は確かにいる。

 灘の校是は、講道館柔道の創始者で、同校創立時の顧問、嘉納治五郎が唱えた「精力善用」「自他共栄」だ。全力を尽くし、自分だけではなく他人との共栄をはかれ、という意味だ。神童と呼ばれる灘校生は、時にはわがままで、独善的な言動をとることもあるという。自由な校風だが、和田校長はこの校是だけは口酸っぱく生徒に伝える。

■入試科目に社会科がない  最後になったが、この灘中学・高校に入学するには独特の入試がある。中高入試ともに社会科が入試科目が課せられていないのだ。灘中の場合、国語と算数は2日間にわたって入試があり、1日目は基礎力、2日は応用力をはかる。両科目ともそれぞれ200点満点+理科があり、500点満点で合否を決める。灘高だと、そこに英語は加わるが、やはり社会科はない。灘が問うのはあくまで論理的に物事を考える力で、暗記力ではないからだ。社会科があれば、詰め込み型の受験になる可能性がある。

 和田校長は「社会軽視ではない。むしろ社会嫌いになってほしくないから」と話す。日航会長の大西氏は「社会科がなく暗記重視でなかったので、受験勉強にそんなに時間をとられなかった」と振り返る。

参考:灘中学校・高等学校 募集人員:中学校180名。高等学校40名

平成28年12月19日、89歳