★和歌・俳句・うた




目 次

万葉集(759) 大伴家持の歌(718〜785) 古今和歌集(905頃) 西行法師(1118〜1190) 梁塵秘抄(1719) 新古今和歌集(1210) 閑吟集(1518) 芭 蕉(1644〜1694) 蕪 村(1717〜1783) 一 茶(1763〜1819)
頼 山陽の五言(1780〜1832) 土井晩翠(1871〜1952) 与謝野鉄幹(1873〜1935) 高浜虚子(1874〜1956) 島木赤彦(1876〜1925) 山頭火(1882〜1940) 斉藤茂吉(1882〜1953) 高村光太郎(1883〜1956) 石川啄木(1885〜1912) 尾崎放哉(1885〜1926)
若山牧水(1885〜1928) 土岐善麿(1885〜1980) 吉井 勇(1886〜1960) 柳宗悦(1889〜1961) 八木 重吉(1892〜1927) 大石順教(1889〜1968) 北山河(1893〜1958) 宮沢賢治(1896〜1933) 中村久子(1897〜1968) 室生犀星(1889〜1962)
三木露風(1889〜1964) 中川一政(1893〜1991) 西脇順三郎(1894〜1982) 清水かつら(1898〜1951) 安積得也(1900〜1994) 木村無想(1904〜1984) 河野 進(1904〜1990) 三好達治(1906〜1964) 坂村 真民(1909〜2006) 柴田トヨ(1911〜2013)
相田みつお(1924〜1991) 長崎源之助(1924〜) 茨木のり子(1926〜2006) 田辺聖子(1928〜) 谷川俊太郎(1931〜) 大島みち子(1942〜1963) 星野富広(1946〜) 福原武彦 『折々のうた』 『早春賦』


☆万葉集(成立は759年)
万葉集
万葉集

 
▼万葉の人びと 犬養孝(PHP)

現代に生きる万葉のこころ

 皆さん、これから三十七回ににわたって゛万葉の人びと゛ということでお話したいと思います。歌のよみ方の異同だとか、言葉の解釈など、細かい点まで触れることはできませんが、皆さんと共に万葉の世界を楽しく探ってみたいと思います。

 皆さんは、学校で『万葉集』を習われますでしょう。何しろ『万葉集』は、およそ千三百年前の歌、一番古い歌集ですぁら、学校で、日本人の教養としても知っておかなければならないから習う、とお思いになるかも知れない。その通りだとだと思います。しかし『万葉集』は、ただ古いから勉強するというだけではありません。万葉の歌は今日も生きているんですよ。千三百年前の一番古い歌が一番新しく、現代人の心に生きてくるんです。

 一つだけそ証拠を挙げましょう。

 私が大阪大学におりましたときに、学生を連れて、『万葉集』にうたわれた故地を歩きました。その回数、百二十回。参加した学生役二万名。正確に言いますと一万八千五百十四名です。その人たちが、現地に行って、

 「先生、すばらしいですねぇ。人麻呂の心ってすごいですねぇ。万葉びとって詩人ですね」

 と言って感激するんです。その感激がもう、忘れられない。出席などなにも取らないのに、そんなに大勢来るんです。私はそれだけで万葉の心が今日も生きているいる一つのいい証拠になると思うんです。

 では『万葉集』を生きた形で理解しようとするにはどうしたらいいでしょうか。

 一つは万葉の時代は、たいへん古い時代ですね。一番新しい歌でも、天平宝宇三年、西暦七五九年に詠まれたものです。そうすると、今から千二百余年前でしょ。そうした古い時代ですから、その歴史の中に置いてみないと万葉の歌は理解できません。歌が生きてこないんです。

 たとえば、『万葉集』四千五百余首の中には恋の歌がとても多いんです。どうしてそんなに多いのでしょうか。それは、今とは結婚生活が全然違うからです。今日は、たいがいつきあって、結婚式をあげて新婚旅行に行き、そしてアパートなどにいるでしょ。すると年中一緒にいるから、恋いしいのなんのって言っていられないでしょう。もう脇で赤ちゃんが泣いたりすると。ところが万葉時代は、夫婦は相当長い間別居なんです。ゆくゆく一緒になりますけれど。そいう別居だということを知れば、なるほど両方でもって恋し合うことの多いのもよくわかることでしょう。

 『万葉集』にはとても恋の歌が多い。女の人の恋の歌は待つ歌がいちばん多い。夫の来るのを待つ歌、夫が帰って行ってしまったあとの気持の歌、そいう歌が非常に多い。ということは、やはり今とは違うんです。我々は、現代に生きているものですから、現代をきじゅんにして物を考えがちです。たとえば、今日、みんな新婚旅行するでしょう。だから万葉時代も新婚旅行するのかと思って、学生さんがまじめな顔で、「先生、万葉時代の貴族はどこへ新婚旅行に行ったんでしょか」なんて聞く。それからまた、人麻呂が「大君は神にしませば……」と言いますね。すると「天皇は神じゃないですよ。人間宣言をなさったもの」なんて言う。とんjんでもないことです。古い時代の事を今の感覚で考えていては、万葉の歌はりかいできません。「大君は 神にしませば……」というのも、壬申の乱という、あの大乱後の天武天皇。持統天皇、そういう方々を考えた時に、初めてわかるので、だから歴史の中、時代の中に歌を戻さなければんじゃらないのです。

 もう一つ、万葉の歌は日本全国の風土と密着しているんです。ただ『万葉集』には北海道・青森県・秋田県・山形県・岩手県・沖縄県は出てこない。その他の日本全国各県は出てくるのです。それらの土地は風土がみな違うでしょう。たとえば雪ひとつにしても札幌の人は、雪を何とも思っていないでしょう。雪が嫌だったら暮らせないし、雪なんか少しも珍しくない。だから、雪は生活の一部になっている。ところが、飛鳥あたりになりますと、雪はめったに降りません。だから古代でも雪が降ったら、もう大喜びするんです。

 たとえば天武天皇は、 

 わが里に 大雪降れり 大原の

 古(ふ)りにし里に 落(ふ)らまくは後(のち)    (巻二ー一〇三)

゛わが里には大雪が降ったよ゛と言われてはいますが、実は大雪ではないんですね。飛鳥あたりですから、ほんのちょっぴり降ったんです。それでも嬉しいから゛わが里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 落らまくは後゛と、こううたっているんでしょう。すなわち、雪ひとつにしても土地が違えば感じが違うんです。だから、やはりそれぞれの風土に、たとえば、瀬戸内海で生まれた歌は、瀬戸内海の風土にかえしてみないとわかりません。これから万葉の人びとの話をはじめますが、常に歴史の中に、時代の中に置いてみようと思う、その関連でみていきたいと思います。

『万葉集』というのは、いわば歌の博物館のようなものです。作者のだれ一人として、その中に自分の歌を入れてもらおうなど思って作ったわけでありません。それぞれの歌は、それぞれの時代に、それぞれの場所で生まれたものですから、歌を本当に理解するためには、その歌の生まれた時代や生まれた風土にできる限り戻してみんまければなりません。そうして、初めて博物館の標本のような歌が生き生きと躍り出して来るんです。(中略)
 だから万葉の歌は、あたう限り歴史と共に、時代と共に理解していかねばならない。そしてまた、風土と共に理解していかなくてはなりません。このようにして、万葉の歌を理解し、万葉の人びとの心の世界を探っていって見たいと思います。

2010.07.31



(巻一 一)     籠(こ)もよ み籠(こ)持ち ふくしもよ みぶくし持ち この丘(おか)に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家聞かな 告(の)らさね そらみつ やまとの國は おしなべて 吾(われ)こそをれしきなべて 吾(われ)こそませ 我こそは 告(の)らめ 家をも名をも  (岩波文庫)

*参考:「ふくし」は竹や木の先をへら状にとがらせた、土をほる道具。

2008.10.27


◆(巻一 二七)    淑(よ)き人のよしとよく見てよしと言(い)し芳野よく見よよき人よく見つ (岩波文庫)

*朝日新聞2008.10.23 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
よき人の よしとよくみて よしと言ひし 吉野(よしの)よくみよ よき人よく見つ

 りっぱな人がいい所だとよーく見た。そして「よい」と言った吉野よ。よく見よう。りっぱな人がよく見たのだから

2009


◆(巻一 五一)    采女(うねめ)の袖吹きかへす明日香(あすか)風京(みやこ)を遠みいたづらに吹く〔明日香宮より藤原宮にうつりませし後、志貴皇子(しきのみこ)の作りませる御歌〕(岩波文庫)

*朝日新聞2009.11.28 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
采女うねめの そで吹きかへす 明日香風あすかかぜ都を遠み 無用いたずらに吹く

私見:岩波文庫では「いたずら」にとかかれていますが中西先生は無用いたずらと書かれています。

参考:うねめ【采女】:「うねべ」とも。古代、天皇のそばで日常の雑役に奉仕した後宮の女官。

2009.11.28


◆(巻一 五三)    藤原の大宮づかへあれつくや處女をとめがともはともしろきろかも〔作者はいまだ詳かならず〕(岩波文庫)

*朝日新聞200.8.23 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
藤原ふじはら仕つかへ れつぐや 処女おとめがともは ともしきろかも

 藤原の宮に奉仕するために生まれつづくのか。少女たちは。うらやましいことだ

私見:岩波文庫でよむと「あれ」の意味が分かりません。古語辞典ではあれ【生まれ】うまれ、うじ素性。ともし【羨し】うらやましい。ナカニシ先生の歌のほうが私ども古語になれないものには親切である。つぎに先生が解説されている説明は当時の歴史をしらなければ想像もつかないものだと。いのち与えるは おとめの役割で纏められている。

2009.08.22


◆(巻一 五四)    巨勢こせ山のつらつら椿つらつらに見つつしのはな巨勢の春野を〔坂門人足さかとのひとたり〕(岩波文庫)

*朝日新聞2010.04.18 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
 巨勢山<こせやまの つらつら椿 つらつらに 見つつしのはな 巨勢の春野を   

 そこで『万葉集』ではツバキがりっぱな男性の比喩に使われました。

2010.04.18


◆(巻一 六四)    葦辺あしへ行くかも羽交はがひに霜降りて 寒きゆうべは大和し思ほゆ 〔志貴しき皇子の作りませる御歌 〕(岩波文庫)

*朝日新聞2009年11月6日 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
 葦辺あしへ行く かもがひに 霜降りて 寒きゆうへは 大和やまとし思ほゆ

 「ところでカモは雌雄仲のいい鳥で、『万葉集』でもかならずいっしょにいる姿が歌われています。皇子はアシ辺のカモの姿から妻を思いやったにちがいありません。」と説明されています。

私見:「ゆうべ」と「ゆうへ」のよみが異なるのはなぜでしょうか。

2009年11月6日


◆(巻一 八二) うらさぶるこころさまぬしひさかたのあめの時雨しぐれの流らふ見れば 〔長田王ながたのおほきみ伊勢斎宮いせのいつきのみやに遣しし時、山邊の御井みゐにして作れる歌 〕(岩波文庫)    

*朝日新聞2009年11月14日 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
 うらさぶる こころさまぬし ひさかたの  あめ<しぐれの 流らふ見れば

私見:「長田王」の読みが「ながたのおほきみ」と「おさだのおおきみ」と異なっているのは?
 うらさびの説明に何の飾りもごまかしもない、ほんとうに心のうつろな状態が「さぶ」という状態です。わびしさで胸がいっぱいになる。無限の空をこめて、時雨(しぐれ)が降りつづくのを見ると(後略)。参考になりました。

2009年11月14日


◆(巻二 一三三) ささの葉はみ山もさやにさやげども吾は妹おもふ別れ来ぬれば (岩波文庫)

*朝日新聞2010.01.23 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
 小竹ささの葉は み山もさやに さやげども われはいも思ふ 別れぬれば

 柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の歌

 たしかな愛の信念です。

2010年05月30日


◆(巻二 一五八) やまぶきの立ちよそひたる山清水しみずみに行かめど道の知らなく (岩波文庫)

*朝日新聞2010.01.23 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より

   山振やまぶきの 立ちよそひたる 山清水やましみず みに行かめど 道の知らなく 高市たけちの皇子みこの歌

 当時ヤマブキは永遠を象徴する花だと考えられていました。

 皇女の死は陰暦四月七日。ちょうどヤマブキがまっ盛りのころでした。作者は身のまわりに咲くヤマブキを見つめながら、生命の泉を幻に描くばかりで、絶望にうちひしがれていたことでしょう。

2010年05月24日


◆(巻三 二五〇)    藻刈る敏馬みねめを過ぎて夏草の野島が崎に船近づきぬ (岩波文庫)

*朝日新聞200.9.05 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より

 たまも刈る 敏馬みねめを過ぎて 夏草の 野島のしまの崎に 船近づきぬ 〔柿人麻呂の歌〕

 先生の説明では「現在、東京に首都圏ということばがありますね。奈良県に都があったころの首都圏は、だいたい明石海峡まででした。

 都の領域を出て、いよいよ「真旅またび」、本格的な旅が始まったのです。(中略) 見知らぬ地へ 不安と緊張のたび 

私見:万葉集を読むといつも当時の歴史・風土・人心などを知らなければ、歌の心を読み取ることが出来ないものだと。

2009.09.05


◆(巻三 三一八)    田児たごの浦ゆうちでて見れば眞白ましろにぞ不盡ふじの高嶺に雪はふりける (岩波文庫)

*朝日新聞2010.01.23 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より

 田児たごの浦ゆ うちでて見れば 真白ましろにそ 不尽ふじ高嶺に 雪はふりける  〔山部赤人の歌〕

*百人一首では

 田子たごの浦に うちでてれば 白妙しろたへの 富士ふじ高嶺たかねに ゆきりつつ

私見:岩波文庫、ナカニシ先生、百人一首で読み方が違っています。

2010.01.24


◆(巻三 二六六)    淡海あふみ夕波千鳥が鳴けばもしのにいにしへ思ほゆ (岩波文庫)

*朝日新聞200.9.05 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より

 淡海あふみうみ 夕波千鳥ゆなみちどり が鳴けば こころもしのにいに いにしえ思ほゆ 〔柿本人麻呂の歌〕

 先生の説明では、むかしは、死者の魂が鳥にになると信じられていましたから、死者の魂が湖上にみちみちてきたのですね。 

私見:が読み方が違っています。

2009.10.31


◆(巻四 四八八) 君待つとわが戀ひをればわが屋戸やどのすだれ動かし秋の風吹く 〔額田王ぬかたのおおきみの歌 〕 (岩波文庫)

*朝日新聞2010年9月25日 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
 君待つと わがひをれば わが屋戸やどの すだれ動かし 秋の風吹く

2010.09.30


◆(巻四 五九六) 八百日やほか行く濱のまなごも吾が戀にあにまさらじか沖つ島守しまもり〔笠女朗かさいらつめの歌〕(岩波文庫)

*朝日新聞2010.04.25 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
 八百日やほか行く 浜のまなごも わが恋に あにまさらじか沖つ島守しまもり   

2010.4.25


◆(巻四 六〇八) 相思あひおもはぬ人を思ふは大寺の餓鬼がきの後にぬかづくごとし 〔笠女朗かさいらつめの歌〕(岩波文庫)

*朝日新聞2009.07.19 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
 相思あいおもうはぬ 人を思ふは 大寺おおでらの 餓鬼がきしりえぬかづくがごと
 思ってくれないひとを思うとは、大寺の餓鬼を後ろから拝むみたいだ
 作者・笠女朗は同じく万葉歌人の大伴家持が大好きでした。そこで二十四首もの歌を家持の送りつづけます。

2009.7.25


◆(巻四 七一〇) み空行く月の光にただ一目あひ見し人のゆめにし見ゆる 〔安都扉娘子あとのとびらのおとめの歌〕(岩波文庫) 

*朝日新聞2010年8月21日 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
 み空行く 月の光に ただruby>一目ひとめ あひ見し人の いめにし見ゆる

 音楽などの芸を売って、各地をさすらった女性たちでした。夢の中でのはかなき出会い

2010.8.30


◆(巻五 七九三) 世の中はむなしきものと知る時しいよいよますます悲しかりけり (岩波文庫)

2008.10.23


◆(巻五 七九八)  妹が見しあふちの花はちりぬべしわが泣く涙いまだなくに 〔筑前國守山上憶良上〕(岩波文庫)

*朝日新聞2010年8月21日 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
 妹(いも)が見し 楝(おうち)の花は 散りぬべし  わが泣く涙(なみだ) いまだ干(ひ)なくに

 九州・太宰府(だざいふ)で作者は長官・大伴旅人(おおとものたびと)の妻の死に遭遇(そうぐう)します。
 悲しみのあまり、口のきけない旅人に代わって、作者は「亡き妻を悼(いた)む歌」を作りました。当時、文学者の中に、妻を失った悲しみを歌う伝統があったからです。
 作者は訴えます。まだ悲しみにくれているのに、妻が愛したオウチ(センダンのこと)の花が散ってしまったら、もう妻をしのぶ手段すらなくなるではないか、と。
 「ぬべし」ということばづかいが抜群です。この表現から、花がいまにも散ってしまいそうなけはいが、ありありと見えてきます。
 突然消えた死者ばかりか、名残を惜しむ手段まで、消えてしまう――そう思うときの、凍りつくような心の冷たさ。
 何ものからも心が拒絶される孤立感は、死者の悲しい置き土産ですね。
 心が拒絶される孤立感

2010年10月23日14時44分


◆(巻五 八〇三) しろがねも くがねも玉も 何せむに まされる宝 子にかめやも 〔山上憶良の歌〕 (岩波文庫) 

2008.11.28


◆(巻五 八九三) 

 世間よのなかしとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば 〔山上憶良の歌〕 (岩波文庫) 

 以下は朝日新聞2010年6月19日 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より

 作者の山上憶良には独特の人生観がありました。

 それでは人間はどうしたらよいか。憶良は苦しみの中ですばらしい物をつかむことが大切だと考えました。苦しみが大きいほど、すばらしさは大きくなります。
 逃(のが)れようもない人間の苦しみをまっすぐに見つめ、大切なものを求めて歌や文章を書いた憶良――。
 きわめてユニークですが、そうした作品をおさめたことで、「万葉集」はより大きな幅をもつ古典となりました。

私見:ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)の説明で、人生観に触れられているのは珍しいものでした。

2010.06.30


◆(巻五 八九四) 

  神代より 言ひらく そらみつ 倭の國は 皇神すめがみの いつくしき國 言霊ことだまの さちはふ國と 語り繼ぎ 言ひがひけり (以下略)〔山上憶良の歌〕 (岩波文庫)  

参考1:ことだま【言霊】:言語に宿っている不思議な霊力。
参考2:ことだまの幸はふ國 「言霊」の力で幸福がもたらせる國。

2009.08.05


◆(巻六 九一九)   若の浦潮満ち来ればかたを無み葦邊あしべをさしてたづ鳴き渡る  〔山部赤人やまべのあかひとの歌 (岩波文庫)

*朝日新聞2009.1.22 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
 日本の冬は、たくさんな空の旅人でにぎわいます。海をこえてシベリアなどからやって来るとりたちです。
 とくに日本は世界でも指折りの、ナベヅルやマナヅルの飛来地です。わたしたちが、寒い寒いといっている冬も彼らにとっては、暖かい天国なのですね。
*私感:私の故郷も海辺です。たぶん同じように鶴が飛来してきていたのだろう。姉妹の名前は千鶴子・田鶴子でした。


◆(巻六 九七八)

 をのこやもむなしかるべき萬代に語りぐべき名は立てずして 〔山上憶良の歌〕(岩波文庫) 

*朝日新聞2010年6月26日  ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より

激励か、生涯の悔恨か

おのこやも むなしくあるべき 万代よろずよに 語りつぐべき 名は立てずして

男子は、むざむざと一生をすごしてはいけない後のちに語りつがれるような名声めいせいも立てずに

 家柄にも出世コースにも恵まれなかった憶良は、四十歳で命をかけた中国派遣の使節団の一員となり、やっと出世のいと口をつかみました。
 士――りっぱな男子を志した生涯をここで閉じました。数え年七十四歳でした。

参考:巻五 八九三 にも〔山上憶良の歌〕が歌われています。併せて読んでください。

2010.07.12


◆(巻七 一〇七五)

 海原うなばらの道遠みか月讀つくよみあかりすくなき夜はくたちつつ 〔作者不明〕(岩波文庫)

*朝日新聞2010年6月26日  ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より

 月夜にやさしい出会いを2010年8月28日

 海原うなはらの 道遠みかも 月読つくよみの 光すくなき 夜はけにつつ

 天が水の世界だというのは、「旧約聖書」も同じですね。
 この大きな海原を、月が舟となって渡ってくると、作者は考えます。「万葉集」には「月の舟」ということばもあります。
 月夜、友人との出会いを望んだ中国の詩人に、むかし王子猷(おうしゆう)がいました。フランス近代の詩人、フランシス・ジャムも、夜のやさしい出会いを、すぐれた詩によみました。

2010.09.07


◆(巻七 一二〇七)  粟島こぎ渡らんと思へども明石の)波さわけり (岩波文庫)      


◆(巻七 一二四一)  ぬばたまの黒髪山を朝越えて山下露にぬれにけるかも 〔古集の歌〕(岩波文庫)

*朝日新聞2009.09.19 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
*ぬばたまの 黒髪山を 朝越えて 山下露に れにけるかもける  (朝日新聞の記事から)

 朝、真っ黒な黒髪の山を越えて、山の下露にすっかり濡れたことだ、と説明されています。「恋人のぬくむくもり 後ろ髪引かれ」と一言もあります。


◆(巻七 一四三一)  百濟野の萩の古枝に春待つとをりし鶯鳴きにけむかも 〔山部宿禰赤人の歌〕(岩波文庫)

*朝日新聞2010.04.11 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
百濟野くだらのの 萩の古枝に 春待つと りし鶯 鳴きにけむかも  (朝日新聞の記事から)

 百濟野のハギの古枝に身をひそませて春を待っているウグイスは、もう鳴き始めたか

 このころ百濟野の地には、荒廃した離宮がありました。そこに身をひそめていたのはどの皇子だったでしょう。奈良時代は皇位継承をめぐって、皇子たちの受難がつづきました。歴史の謎を思わせる一首です。  

参考:百濟野は(奈良県北葛城郡広陵町百濟ノ野)               

2010.04.11


◆(巻七 一五〇〇)  夏の野の繁みに咲ける姫百合ゆりの知らえぬ戀は苦しきものぞ 〔大伴坂上朗女おおともさかのうえいらつめの歌〕 (岩波文庫) 

*夏の野のしげみに咲ける 姫百合ひめゆりの 知らえぬ恋は 苦しきものそ (朝日新聞の記事から)

*朝日新聞2009.08.29 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より

 「生い茂る夏草の底に咲く姫ユリ。そのように人知れず恋をすることは、つらい」 ひそやかな恋 野の花のようと説明されています。


◆(巻八 一四一八)  いはばしる 垂水たるみの上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも (岩波文庫)

*朝日新聞 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より


犬養孝『万葉の人びと』(PHP)P.17

 まず、歌は心の音楽だということをお話したいと思います。みなさんは、学校で和歌が出てくると、どういうふうに習われたでしょうか。私が学生の頃は、歌が出てくると先生は読んで訳されるだけでした。たとえばこの「石ばしる……」の歌についていえば、作者は、天智天皇の皇子の志貴皇子(しきのみこ)です。さて「石ばしる」は垂水の枕詞だ、石の上を水が走って流れる。垂水っていうのは滝だ、滝のほとりのさわらびの「さ」は接頭語。“滝のほとりのワラビが萌え出す春となったなぁ”。先生はこう訳されて、それで終わり、「では次」、そうでなければ、「いい歌ですねぇ。ではその次」といった調子でした。私は学生の時少し生意気だったのでしょうね。国語の時間がつまらなかったのです。

 歌というのは、口語に訳したら本当につまらないものです。もし歌がその訳だけを生命とするならば、歌ほどくだらないものはないでしょう。だって“滝のほとりのワラビが萌え出す春となったなぁ”。これが千古の値打ちのある歌かということになるでしょう。歌というものは、何といっても人間の心の音楽です。作った人はとうの昔に死んでしまっている。万葉でいえば、千三百年前に死んでしまっている。しかし、その歌の心の音楽は今に生きているいるのです。

 石ばしる 垂水の上の さ蕨の
 萌え出づる春に なりにけるかも

 こうやってうたっていくと、ほんとうに何だか春になった、今まで雪や氷に閉ざされていたところの春が来てホッとしたような、春の喜びが感じられるでしょう。それは、歌というものを普通はみんな意味で読みますね。だから意味がよくなければいけません。この歌にしても滝のほとりのワラビが萌え出す春となったというのは、本当に気持ちのいいことです。ところが意味だけではない。歌というのはやはり、五・七・五・七の型というものがあるでしょう。型というのは別の言葉で言えば、表現ですね。この歌にしても、さわらびに焦点を置いて、そのさわらびをちゃんと滝のほとりのさわらびだと限定して、そして、その滝の上には“石ばしる”という言葉があるから、イメージとして石の上を水が走って流れる感じがあるでしょう。さわらびに焦点を置いた上で、詠嘆しているのです。“萌え出づる春に なりにけるかも”と。表現が実によくできています。

 それから、この歌の大事な点は律動です。歌のリズムです。見てごらんなさい。この歌で“の”“の”“の”の律動はいかにも流動的に満ちているでしょう。いかにも流動的です。「石ばしる 垂水の上の さ蕨の」というのは、実に淀みなく、流動感に満ちているでしょう。いかにも、こんこんと流れてやまない感じ。その上、“萌え出づる春に なりにけるかも”と言葉を引き伸ばして言っているのも、ゆったりとして、春風駘蕩の感じがします。このように歌は、律動というものを抜きにしては考えられません。

*この歌を絵にされた知人から贈られ、我が家の壁を飾っています。2008.6.11

*犬養先生の文章は2008.10.29 に写しました。 


◆(巻八 一五五〇) 秋萩の散りのまがひに呼び立てて鳴くなる鹿の聲のはるけさ 〔湯原王の鳴鹿の歌一首〕(岩波文庫)  

秋萩あきはぎの りのまがひに 呼び立てて 鳴くなる鹿の 声のはるけさ (朝日新聞の記事から)  

 ナカニシ先生は説明されています。日本人はむかしから「飛花落葉ひからくよう」といって、花や葉が風に散る情景を美しいとかんがえました。……人びとは、その姿にいのちの神秘を感じたようです。

2010.10.03


◆(巻九 一四三三) うちのぼ佐保の河原の青柳は今は春べとなりにけるかも (岩波文庫)  

*うちのぼる 佐保のの川原の 青柳あおやぎは 今は春べと なりにけるかも 〔大伴坂上郎女いらつめの歌〕(朝日新聞の記事から)  

 ナカニシ先生は説明されています。さかのぼっていく佐保川」の河原に、青柳は今こそ春の姿になった

 佐保川は春日山から流れ出し、奈良の都をななめに貫いて南下する川です。都人には、もっとも親しい川だったでしょう。(中略)
 そのもっとも美しい迎えの一つが春先のヤナギでした。ヤナギは春のういうしい若葉がよろこばれ、しなやかに細い葉は、美女の眉のたとえにつかわれます。反対に広がってしまったのは嫌だと、平安時代の清少納言もいい、ます。(後略)

2010.03.20


◆(巻九 一六六四) 夕さればをぐらの山に臥す鹿の今夜こよひは鳴かずねにけらし (岩波文庫)  

されば の山に 臥す鹿の ruby>今夜こよひは鳴かずねにけらしも 〔雄略天皇の歌〕(朝日新聞の記事から)  

 ナカニシ先生は説明されています。まずシカはなぜ鳴くのか。そう大好きなジカを求めて鳴くのですね。だから鳴かないとは、もう女ジカといっしょになって、安心して寝ていることを意味します。

 また小倉山とは、神様のいらっしゃる山のことですが、とくにおまんじゅう形の山を、したしみをこめてよぶ言い方です。

2009.10.24


◆(巻九 一六八二) とこしへに夏冬行けやかはごろも扇はなたぬ山に住む人 (岩波文庫)  

*とこしへに 夏冬行けやかはごろもおうぎはなたぬ 山に住む人 〔柿本人麻呂の歌集の歌〕(朝日新聞の記事から)

*「永久に夏と冬がつづいているのだろうか、皮の衣を着、扇をてばなさいやまの仙人よ」と、ナカニシ先生は読まれている。

 ある日の宮廷です。一枚の絵を中に、数人の人たちががやがやと騒いでいます。どうも中国の絵らしい。
 「これが仙人という者か」
 「ほう、不老不死の人間だ。扇で空」も飛ぶと聞くが」
 「長年山に住んでいるから着物も動物の皮だ。丈夫だしな」

私見:中国で不老不死を求めていた話は読んだりしていましたが、万葉集に取り上げられているのも面白いものだと感じました。
参考:「始皇帝 不老不死」でインターネットで検索すると多くの記事があります。

2009.08.08


◆(巻九 一七〇〇) 秋風の山吹の瀬のとよむなへ天雲あまぐもかける雁をるかも (岩波文庫) 

*朝日新聞のインターネットの記事から

 秋風に 山吹やまぶきの瀬の るなへに 天雲あまくもける かりへるかも

 柿本人麻呂の歌集の歌

 日本は四季のうつりかわりによって山も川も、空も海も、さまざまに変化してやみません。
 とくに日本人は春と秋の到着に敏感でした。それにともなって、すぐれた和歌が、たくさんよまれました。
 この歌もそのひとつ。『万葉集』の中でも指おりの秀歌です。

*私見:一字読み方が違っている。

2009.9.26


◆(巻九 一七九一) 旅人の宿りせむ野に霜降らばわが子羽ぐくめあめの鶴群(たずむら) 〔作者不明〕 (岩波文庫) 

*天平5(733)年、日本政府が中国へ派遣した使節団に加わった一人の男性に対して、母親はこんな歌をおくりました。こどもは一人っ子だったようです。
 当時は航海や舟づくりの技術がまだまだ未熟で、全部で18回派遣(数え方は学者によって一致していません)したうち、往復とも無事が知られているのは1回きりです。(朝日新聞の記事より)
*当時のあめ鶴群たずむらが飛翔している様子を想像しますと、思ひをかける人たちが多くいたことでしょう。

2008.12.04


◆(巻十 一八二一) 春がすみ流るるなへに青柳あおやなぎの枝くひ持ちて鶯鳴くも (岩波文庫) 

*春かすみ 流るるなへに 青柳あおやなぎの えだくひ 持ちて うぐいす鳴くも 〔作者不明〕(朝日新聞22.04.04の記事から) 

 ナカニシ先生は、つぎのように説明されている。

   春になりました。春特有のの霞もぼっとまわりに立ちこめて、流れるようにただよっています。それにつられたのでしょうか、ウグイスも飛んできて鳴き声をひびかせます。ウグイスは「春告げ鳥」といわれて、春が来た証拠のようにみなされていました。
 さてそこで、ふしぎではありませんか。ウグイスは枝をくわえています。その一方で鳴くというのです。鳴けるはずがありませんね。
 じつは当時の人たちは枝や花をくわえる鳥の姿を美しい図柄として好んで画にかきました。「花食い鳥」という言葉もあります。

*「なへに」は…とともに。…につれて。(古語辞典)

2010.04.05


◆(巻十 一八四〇) 梅がに鳴きて移ろふうぐひすのはねしろたへにあわ雪ぞ降る (岩波文庫) 

うめに 鳴きて移ろふ うぐひすの はね白妙しろたえに 沫雪あわゆきそ降る 〔作者不明〕(朝日新聞の記事から) 

*岩波文庫と朝日新聞では言葉が異なっている。

2010.01.30


◆(巻十 一八四〇) 梅がに鳴きて移ろふうぐひすのはねしろたへにあわ雪ぞ降る (岩波文庫) 

うめに 鳴きて移ろふ うぐひすの はね白妙しろたえに 沫雪あわゆきそ降る 〔作者不明〕(朝日新聞の記事から) 


◆(巻十 一八四〇) 梅がに鳴きて移ろふうぐひすのはねしろたへにあわ雪ぞ降る (岩波文庫) 

うめに 鳴きて移ろふ うぐひすの はね白妙しろたえに 沫雪あわゆきそ降る 〔作者不明〕(朝日新聞の記事から) 

*岩波文庫と朝日新聞では言葉が異なっている。

2010.01.30


◆(巻十 二〇一三) 天の川水陰草かげぐさの秋風になびかふ見れば時は来にけり (岩波文庫)

あまかわ 水陰草みずかげぐさの 秋風に なびかふ見れば 時はにけり

ナカニシ先生は次のように説明されている。

 七月七日の夜に、彦星(ひこぼし)と織姫(おりひめ)が天の川をはさんで近づく伝説は「万葉集」でも、たくさん歌われています。

七夕の夜には秋を感じて2010年7月10日

*私見:岩波文庫の歌はすべて区切りのない書き方をしていますのでなかにし先生の書き方は参考になります。 2010.07.20


◆(巻十 二一七七) 春はもえ夏は緑にくれなゐの綵色しみいろに見ゆる秋も山かも (岩波文庫)  

*春はえ 夏はみどりに くれないの まだらに見ゆる 秋の山かも 〔作者不明〕(朝日新聞の記事から)

*岩波文庫と朝日新聞では言葉が異なっている。この読みの違いはどちらかが正しいのだろうか?

2009.01.30


◆(巻十 二二七六) 雁がねの初聲聞きて咲きたる屋前にはの秋萩>見にわが背子 (岩波文庫)  

がねの 初声はつこえ聞きて 咲き出たる 屋前やどの秋はぎ 見に来わが背子せこ 〔作者不明〕(朝日新聞の記事から)

*岩波文庫と朝日新聞では言葉の読みが異なっている。
 ナカニシ先生は「とにかく万葉人は、天上秋の鳥の声がしはじめると、地上には秋の花が咲き出すと考えました。すべての生き物は大きな全宇宙」の一つながりの生命の中で、強く結ばれていると信じていたのです。わたしはこれを「宇宙生命体」とよんでいます。」

生き物は みな結ばれている

2009.10.10


◆(巻十 二三三四) 沫雪あわは千重に降りけ恋しくの長き我は見つつしのはむ (岩波文庫)

沫雪あわゆきは 千重ちえに降り敷(し)け こいしくの  長きわれは 見つつしのはむ  柿本人麻呂歌集の歌 (朝日新聞の記事から)

 なかにし先生は「沫雪はどんどん降れ。長い間、会えないわたしは、それを見て恋人をしのぼう」(中略)
 作者は、ひとりの女性を長く長く慕いつづけています。その恋心にも、また女性その人にも、沫雪が似通うのでしょう。清浄なイメージですね。万葉びとは激しい思慕や苦しい恋の情念も歌いますが、この歌はその反対です。もっと大人の恋。優雅に洗練された気持ちの通い合いを楽しんでいるように見えます。
 そしてある時、美しく空中にひるがえりながら降りつづける沫雪が、久しく心にやどした恋をあらためて作者に気づかせました。もっと降れ、もっと降れ――さざ波のような心のときめきが、そうささやきかけてきます。

2010.06.19


◆(巻十一 二三六八) たらちねの母が手はなれかくばかりすべなき事はいまだせなくに (岩波文庫)  

*たらちねの 母が手はなれ かくばかり すべなき事は いまだなくに 〔作者不明〕(朝日新聞(2010.01.16)の記事から)

 愛情いっぱいのお母さんから、離れて、こんなにどうしたらいいか、わからないこと、初めてなの。大人になっても母に恋の相談

2010.01.20


◆(巻十二 二九八一) うつせみの常のことばとおもへどもつぎて聞けば心まどひぬ (岩波文庫)  

*うつせみの つねの言葉と 思へども ぎてし聞けば 心はまとふ 〔作者不明〕 朝日新聞の2010年7月17日の記事から 

 ナカニシ先生は、月並みな言葉の奥の誠実さといわれ、次のように説明されていました。

 平凡なきまり文句だとは思うのに、何度も聞かされると、つい迷ってしまう

 いま作者の女性は、男性からプロポーズされています。

 人間関係は誠実なのが、いちばん大事です。

 それを感じかけている女性は、いい選択をしようとしているともいえます。

 平凡なものを尊重しようとする態度は「万葉集」の基本の精神です。とかくわざとらしいものは、ニセ物のばあいが多いからです。

 ニセ物は、だめですね。

私見:中西先生はご専門ですが、この歌の説明はどこから来るのでしょうか?

2010.07.22


◆(巻十三 三二五四) しき島の日本やまとの国は言霊ことだまのさちはふ国ぞまさしくありてこそ (岩波文庫)                 

*「日本は言霊の国」だと、みなさん言われている。


◆(巻十四の三四〇三) が恋はまさかも悲し草まくら多胡入野のおくもおくもかなしも 

 上の一首は、ある本に曰く とある。(岩波文庫)

*吾(あ)が恋は まさかもかなし 草枕 多胡(たご)の入野(いりの)の 奥(おく)もかなしも
 ナカニシ先生は次のように説明されている。

 私の恋はいまもかなしい。草を枕にする多胡の、入野の奥――未来もかなしい

 「恋心ってどんな気持ち」と聞かれたら、どう答えますか。
 作者の答えは一言「かなしい」です。そればかりか「いつまでもかなしい」と明確です。ずばりとした答えから、恋を見つめる澄んだまなざしを感じます。
 作者はいま、多胡(群馬県の一部)の野原に立って、愛する人のことを思っています。野は果てしなくつづき、山裾(すそ)の間にまで入りこんでいきます。樹木におおわれた谷あいの野の先。
 それがおぼつかない恋の行く末のように思われ、切なさがつのります。

*朝日新聞2010年7月24日の記事から

私見:万葉の人びと 犬養孝の当時の時代の習慣・風土を思いながら読むことができました。

2010.08.01


◆(巻十四の三四五九〉 稲つけばかかるが手を今夜こ よひもか殿の若子わく ごが取りて嘆かむ 作者不明 (岩波文庫) 
 ナカニシ先生は次のように説明されている。

*稲(いね)舂(つ)けば 皹(かか)る吾(あ)が手を 今夜(こよい)もか 殿の若子(わくご)が 取りて嘆かむ
 夢をみるのは、人間の特権です。
 とくに若者は夢にあふれています。いえいえ、夢がなければ若者とはいえませんね

*朝日新聞2010年7月31日の記事から

2010.08.12


◆(巻十六 三八二四) さしなべに湯かせ子ども櫟津いちひつ檜橋ひはしよりきつむさん          

 上の一首は、伝え傅へ云へらく、一時衆集ひて宴飲しき。時に夜漏三更にして、狐の声聞えき。すなはち衆諸、奥麻呂を誘ひて曰く、その饌具の雑器、狐の声、河、橋等の物に關けて、但、歌作れといひき。すなはち、声に應へてこの歌を作りきといへり。(岩波文庫)

*さし鍋に 湯かせ子ども 櫟津いちひつ檜橋ひばしよりきつむさん 〔長意吉麻呂ながのおきまろの歌〕(朝日新聞の記事から)

 ナカニシ先生は、酔って難題 興乗るだじゃれと書かれている。

2009.10.03


◆(巻十六 三八三六) 奈良山の児手柏このてがしは両面ふたおもにもかくにも佞人ねぢけびととも

 上の歌一首は、博士消奈行文 大 夫せなのぎやうものまへつぎみ作れり。(岩波文庫)

*奈良山の 児手柏このてがしわ両面ふたおもに かにもかくにも 佞人ねじけびと)のとも消奈行文せなのぎやうもん作の歌〕(朝日新聞の記事から)

 ナカニシ先生は、つぎのように説明されている。

   奈良山に生えるコノテガシワは面(おもて)が二つ。

 それと同じように、両方にへつらう心まがりの奴(やつ)らよ

 右の人にも左の人にも、いいことを言う人がいますね。そんな人をコノテガシワの木にたとえたのです。この木はまるで手のひらのように葉を伸ばし、葉が両面とも表のように見えるからです。

 こんな人がいたら困りますね。

2009.11.20


◆(巻十七 三八九六) 家にてもゆたふ命波の上に浮きてしをれば奥處おくか知らずも(岩波文庫)

*家にても たゆたふ命 波の上に 思ひしれば 奥処おくか知らずも 〔大伴旅人(おおとものたびと)の従者の歌 〕(朝日新聞の記事から)

 ナカニシ先生は、つぎのように説明されている。

 船の動揺を命のゆらぎと感じたところに、作者の深い物思いがありますね。

 人間の生き方を、改めて考えさせられます。

 命の不安 船揺れてさ

2010.09.12 写之


◆(巻十七 三九六三) 世間は数なきものか春花の散りのまがひに死ぬべきおもへば 

 上の歌一首は、大伴家持作れり。(岩波文庫)

世間よのなかは 数rt>かずなきものか 春花の 散りのまがひに 死ぬべき思へば  〔大伴家持の歌〕(朝日新聞の記事から)

 ナカニシ先生は、つぎのように説明されている。

*この世はとるに足らないものだ。落花にまぎれて死ぬと思うと

 むかしから、すぐれた歌人たちが落花にまぎれて死んだと、言い伝えてきました。柿本人麻呂、小野小町、和泉式部らです。

 この万葉歌人は、花の死をとおして、とかくこだわりがちな俗世間への執念を、反省しています。美しい花びらの死と、みにくい俗世間での争いをくらべながら、作者はきっといつまでも落花を静かに見つめていたにちがいありません。

まがの読み方は手持ちの辞書にはみられませんでした。

2010.05.09


◆(巻十七 四〇二四) 立山の雪しよのなからしも延槻はひつきの川の渡瀬鐙浸わたりせ あぶみ あぶみつかすも 

 上の歌一首は、大伴宿禰家持作れり。(岩波文庫)

立山たちやま 雪しらしも 延槻はいつきの 川の渡瀬わたりぜ 鐙浸あぶみつかすも  〔大伴家持の歌〕(朝日新聞の記事から)

 ナカニシ先生は、つぎのように説明されている。

   立山たてやまの雪は消えているらしい。早月はやつき川を馬で渡ると、鐙まで水にれることだ

 富山県の立山は屏風のように高い峰を東西につらね、いくつかの川を日本海へとはしらせます。 
 春が遅い山国にも、いま春がやってきていることを、鐙までひたすようにふえた水によって作者は知りました。

私感:「雪消水」は、私には美しい言葉です。昔、三月中旬、山形県の小国町の基督独立学園訪問の途中の雪景色をみて「美しいですね」とつぶやきました。ところが新潟県出身の同乗者が雪国の冬をしらないから、そんなことが言えるのですとたしなめられた思い出があります。北国の方々が春を待つ気持が察せられます。 

2010.03.13


◆(巻十七 四〇二九)

 珠洲すすの海に朝びらきしこぎ

れば長濱のうらに月照りにけり 

 上の歌一首は、大伴宿禰家持作れり。(岩波文庫)

珠洲すすの海に 朝びらきして れば  長浜のうらに 月照りにけり

 ナカニシ先生は、つぎのように説明されている。

     珠洲の港を朝漕ぎ出してくると、長浜の浦には月が照っていたことだ

 珠洲すず(石川県)は能登半島北端の港、そこを朝早く出発した船に乗って、作者は長浜まで南下してきました。

 長浜は能登半島の東海岸でしょうが、どこか不明です。

 いま目の前の海上に浮かんだ月が、波にゆられていた一日の船旅の、まるで結論のように見えたのでしょう。

 じつは近代の詩人、萩原朔太郎に「泳ぐ人」が海上の月を見るという詩があります。いま海上の月を見つけた家持は「泳ぐ人」になっていました。一日の船旅で、心が彼を「泳ぐ人」にしたのです。

 いえいえ、彼は大きく大伴家をゆさぶる時代の波にもゆられていましたし、越中へと身を運び、漂泊の旅の中にもいました。泳ぐ魂の持ち主でした。

波にゆらゆら 泳ぐ魂

2010.09.11


◆(巻十八 四〇九七) 天皇すめろぎの御代栄えむとあずまなるみちのく山にくがね花咲く

 上の一首は、十二月、大伴宿禰家持作れり。(岩波文庫)

 ナカニシ先生は、つぎのように説明されている。

天皇すめろきの 御代栄みよさかえむと あずまなる 陸奥山みちのくやまに 黄金くがね花咲く (朝日新聞の5月16日の記事から)

 天皇の御代の繁栄を予言するように、東国、陸奥山から黄金が出た

 七四九年、日本は初めて金の採掘に成功しました。大地の中に、あのキラキラと輝く金が眠っていたとは。

 人びとの驚きと喜びは、大きかったでしょう。

 歌が作られたのは五月(陰暦)でした。空にもまぶしい太陽が輝いていました。

2010.05.17


◆(巻十八 四一三四) 雪の上に照れる月夜つくよに梅の花折りて贈らんしき児もがも

 上の一首は、十二月、大伴宿禰家持作れり。(岩波文庫)

 ナカニシ先生は、つぎのように説明されている。

  *雪の上に 照れる月夜つくよに 梅の花 折りておくらむ しきもがも

 ところで、雪月花のとり合わせは、中国の詩人・白楽天(七七二〜八四六)の詩が日本に入ってきてから日本で喜ばれたといわれてきました。

 ところがじつは、白楽天が生まれるよりずっと前、七四九年十二月のこの一首によって大伴家持が発見した美でした。

 美しい風景を仲良しといっしょに楽しみたいと思ったことも、すばらしいですね。自然の美しさが、愛の心を呼んだのでしょう。

2009年12月4日


◆(巻十八 四一三六) あしひきの山の木末こぬれ寄生ほよ取りて挿頭しつらくは千年 くとぞ  上の一首は、守大伴宿禰家持作れり。(岩波文庫)

 ナカニシ先生は、つぎのように説明されている。

*あしひきの 山の木末こぬれの 寄生木ほ よ取りて 插頭かざしつらくは 千年寿ちとせほ(ほ)くとそ

 家持はさっそく習慣をまねてヤドリギを髪にさし、新年にあたっての祝福を、部下とともに祈りました。土地の人となじんでいく、やさしい人柄がしのばれますね。

 ところでヤドリギを魔よけのおまじないにすることは、千年以上もむかしから、世界中の人たちがしてきました。いまヨーロッパではクリスマスの夜にヤドリギの下ならキスをしてもいいとか。

 『万葉集』の歌が、こんなに世界的で、しかも久しい歴史に参加しているとは、うれしいですね。(朝日新聞の記事より)

2009年12月25日


◆(巻十九 四一五三) 漢人からびともふねを浮かべて遊ぶとふ今日ぞ吾背子はなかづらせよ

*「ふね」は木篇に伐を並べての字であり。漢和辞典にも見つからなかった。

 上の一首は、守大伴宿禰家持作れり。(岩波文庫)

 ナカニシ先生は、つぎのように説明されている。

漢人からびとも いかだうかべて 遊ぶとふ 今日そわが背子 花蘰はなかずらせよ  

 モモが旺盛な生命力をもつ木で、悪い物を払う力があるとされていましたから、この日にモモの花をかざったのです。(以下略)(朝日新聞の記事より)

2010年03月06日


◆(巻二十 四二四六) 父母がかしらかき撫でれていひし言葉けとばぜ忘れかねつる
 右の一首は、丈部稲麿(はせつかべのいなむら)(岩波文庫)

防人さきもり:上代、諸国(多くは東国)から採用して筑紫・壱岐・対馬その他要路の守備に当たった兵士。三年を一期として交替させられた。大和の政府が主として関東地方から兵士を集めて九州に送り、そこの国境をまもらせました。『広辞苑』より。

 父母が頭を撫でて「無事でいなさい」といった言葉が忘れられない。当時の防人の意味をしることができました。(朝日新聞の記事より)

2008.12.11


◆(巻二十 四三四三) 吾等わろ旅は旅とおめほといひにして子持こめすらむわがかなしも (岩波文庫)
下注:いひ「已比」
 右の一首は玉作部廣目(たまつくらべひろめ)

 ナカニシ先生は、つぎのように説明されている。

ろ旅は 旅とおめほど いいにして 子持こめすらむ わがみかなしも

 妻が痩せる原因には、まず、帰ることのむずかしい夫との別れがあります。
 悲劇のすべての原因は、戦争が防人を必要としたことでした。
戦への旅 残る妻を思う (朝日新聞の記事から)

2010年9月18日


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◆(巻二十 四三六一) 桜花今さかりになり難波の海おし照る宮にきこしめすなへ
 上は二月十三日、兵部少輔大伴宿禰家持 (岩波文庫)

 ナカニシ先生は、つぎのように掲載されている。

*桜花 今さかりりなり 難波なにわうみ 押し照る宮に きここしめすなへ

 サクラは満開である。難波の海がかがやく宮殿で天子が世を統治なされるにつれて(朝日新聞の記事より)

 みなさんは次のような話を聞いたことはありませんか。「日本人は奈良時代にウメを愛し、平安時代からサクラを愛した」と。

 しかしごらんなさい。奈良時代の『万葉集』でも、こんなにサクラをほめたたえています。

 とくに「なへ」という表現は、二つの物が連動することを意味します。よい政治が行われるとそれにつれて、サクラもますます美しくなる、と作者は考えるのです。(朝日新聞の記事より)

2010.03.27


◆(巻二十 四二四六) 松のみたる見れば家人いはびとわれを見送るとたりしもころ
 右の一首は、火長物部眞島ましま (岩波文庫)

 朝日新聞 ナカニシ先生の万葉 こども塾(2010年02月27日)によれば

 松のみたる見れば 家人いわびとの われを見送ると 立たりしもころ 

 道沿いの松並木を見ると、家の人が人が見送ろうと立っていたのと同じだ

 じつはこの時代、松を人に見立てる習慣がありました。松が人間だったら太刀をあげようなどと歌うほどです。

 作者はこの時、マツが「待つ」と同じ発音だと気づいて、心の中で大声で叫びました。「帰りを待つていてくれる!」。この歌にはそんな思いもこめました。

私見:万葉の時代の防人と明治以降の兵士の気持ちの底にあるものに同じものを感じます。

2010.02.27


◆(巻二十 四三八二) ふたがみしけ人なりあたゆまひわがする時に防人さきもりりにさす
 右の一首は、大伴部広廣成 (岩波文庫) 

 朝日新聞 ナカニシ先生の万葉 こども塾(2010年1月9日)によれば

 ふたがみ しけ人なり あたゆまい わがする時に 防人さきもりりにさす

*「ふたほがみ」の言葉はは意味不明。きっと悪口の俗語だからでしょう。上にはへつらい、下にはきびしい「お上」というのでしょうか。一方自分は仮病(あだ病)をつかっていたと、ふざけてみせます。(中略)じつは彼らはいま、たいへんな悲劇の中にいます。華族とのわから。ほとんど生きて帰れない。難波(なには)までの旅費は自弁。働き手を失った一家は貧しくなる。
 「ふたほがみ」は悪い人だ。仮病を使っていたのに、おれを防人に指名した。

2010.02.06


◆(巻二十 四四八四) さく花はうつろふ時ありあしひきの山すがの根し長くはありけり
 右の一首は、大伴宿禰家持作れり。 (岩波文庫) 

 朝日新聞 ナカニシ先生の万葉 こども塾(2010年7月3日)によれば

草の根の強さに人生見る

 七五七年六月二十三日(陰暦)に作られた歌です。ところがその五日後に政府転覆の大陰謀が発覚、首謀者が次つぎと拷問(ごうもん)を受けて絶命します。

 家持は先立ってこの陰謀を知っていて、花を求める人間の姿を静かに考えていたのでしょう。陰謀への誘いを必死に拒否しつづけたこともわかります。

 結局彼は拷問死をまぬかれました。

 家持の生命を救ったものは、心に映した山菅の根の生命のあり方でした。

私見:東西古今を通して政権争いは絶えないものがわかります。

2010.07.16


◆(巻二十 四四九三) はつ春の初子はつ ねの今日の玉箒たまばはき手にるからにゆらく玉の緒
 右の一首は右中辨大伴宿禰家持作れり。(岩波文庫)

 朝日新聞 ナカニシ先生の万葉 こども塾(2010年1月9日)によれば

 初春の 初子の今日の 玉箒たまばはき 手にるからに ゆらく玉の

*始春と初春の字の違いがある。箒は蚕の箱を掃く道具だそうです。初子は、その月の最初の子の日。特に、正月の最初の子の日。
 当時の様子を想像してください。

2010.01.09


◆(巻二十 四五一六) 新しき年の初めの初春の今日ふる雪のいや吉事よごと  

 右の一首は守大伴宿禰家持作れり。(岩波文庫)

 万葉集の最後の歌である。よごと【善事・吉事】よいこと。めでたいこと。⇔禍事まがごと

2010.01.10


大伴家持の歌の一首(718〜785年)


 海ゆかば 水漬く屍 山ゆかば 草す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへりみはせじ

*作曲者:芳賀 徹(昭和十二年である。)

『万葉集』巻十八に「陸奥國よりくがねいだせ詔書をことほ歌」と題された歌一首扞に短歌 の中の長歌の中の一節。

大伴家持が天平感宝元年(七四九年)五月に作ったというこの古い長歌の一節は、信時潔による昭和の名曲となって、いまも私たちの心の底にあの人たちのための鎮魂の祈りをよびおこさずにはいない。(1部分抜き書き)


古今和歌集(905年ころ)


 一 夏と秋とゆきかふ空のかよひじは かたへ涼しき風や吹くらん (凡河内躬恒ー古今和歌集巻3)

名義 はじめしょく万葉集と称し、のち改める。万葉集より後の古い歌と今の世の歌とを集める意。

2008.04.13


西行法師(1118〜1190年)


 一 願はくは花のしたにて春死なんその如月の望月のころ (続古今和歌集)

 二 月を見て心うかれしいにしへの秋にもさらにめぐり逢ひぬる (新古今和歌集 1530 題しらず)

 三 夜もすがら月こそ袖にやどりけれむかしの秋をおもひ出ずれば (新古今和歌集 1531 題しらず)

 四 月の色に心をきよくそめましやみやこを出でぬわが身なりせば (新古今和歌集 1532 題しらず)

 五 棄つとならば憂世を厭ふしるしあらむ我には曇れ秋の夜の月 (新古今和歌集 1533 題しらず)

 六 ふけにけるわがみのかげをおもふまにはるかに月の傾きにける (新古今和歌集 1534 題しらず

参考:佐藤義家出家して西行(1140年10月13日)


梁 塵 秘 抄(1719年)


 遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんと生まれけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さへこそ動(ゆる)がれる。 360

(岩波文庫)による。

*私感:近所の小学校・幼稚園の外を歩いているとき、無心に校舎のそとで運動している子供たちの声や動きについ我が身も動かされる。

200.11.071


新古今和歌集(1210年定本の稿ができたらしい)


 二 ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山かすみたなびく  (太上天皇)  

 二 これやこのうき世の外ならむとぼそのあけぼのの空  (新古今和歌集 21939 寂蓮法師)

 七六  薄く濃き野邉のみどりの若草にあとまで見ゆる雪のむらぎえ  (宮内卿)

 一六九 暮れて行く春のみなとは知らねども霞に落つる宇治のしば舟  (寂蓮法師)

 三六一 さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮れ  (寂蓮法師)

 七百六 今日ごとに今日や限と惜しめども又も今年に逢ひにけるかな   (皇太后大夫俊成)

名義 古今集の正統を継承し、かつ和歌の新時代を創造するの意をこめたものか。


閑 吟 集(1518年)


一三 年々に人こそ古(ふ)りてなき世なれ、色も香も変らぬ宿の花盛り花盛り、誰見はやさんとばかり、又廻(めぐ)り来て小車の、我と浮世に有明の、尽きぬや怨みなるらむ、よしそれとても春の夜の、夢の中(うち)なる夢なれや夢なれや。

五五 何せうぞくすんで、一期は夢よ、ただ狂へ。

九六 ただ人は情けあれ、朝顔の花の上なる露の世に

* この歌を読んで千代尼のよく知られた「朝顔に 釣瓶とられて 貰ひ水」の歌を思いました。

二五二 しやつとしたこそ人よけれ。

解題:「毛詩三百余篇になぞらへ、数を同じくして」とあるによって、毛詩と同数の三百十一編なる事を説いた。。

(岩波文庫)による。

2008.03.07


芭 蕉(1644〜1694年)

▼おくのほそ道


   冒頭

 月日(つきひ)は百代(はくだい)の過客くわかくにして、行かふ年も又旅人也。船の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、日ゝ旅をすみかとす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず海濱にさすらへ、去年(こぞ)の秋江上(こうじょう)の破屋(はをく)に蜘(くも)の古巣をはらひて、やゝ年も暮春立る霞の空に白川の關こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神(どうそじん)のまねきにあひて取もの手につかず、もも引きの破をつゞり笠の緒付(をつけ)かえて、三里に灸すゆるより松嶋の月先(まず)心にかゝりて、住(すめ)る方は人に譲り杉風(さんぷう)が別墅(べつしよ)に移るに、
   草の住替(かは)る代(よ)ぞひなの家面八句を庵の柱に懸置(かけおく)。(岩波文庫)


 この道や行く人なしに秋の暮れ 芭蕉の最晩年の句

 秋深き隣は何をする人ぞ:芭蕉絶唱の最高の秀句の一つである。

 旅に病んで夢は枯野を駆けめぐる

*最後の句


☆芭蕉句集

 「俳句の底をぬかなくてはいけない。昨日の我に飽きる人間でなければ」

 名月や池をめぐりて夜もすがら

参考:元禄二年の三月二十七日、奥の細道の旅へ出立した俳諧の巨匠。伊賀上野の武士の出で、一生を旅に過ごした。日本独特の美の一境地を開く。


蕪 村(1717〜1783年)


 燈(ひ)ともせと云ひつつ出るや秋の暮れ

 三椀の雑煮かゆる長者ぶり

 去年より又さびしぞ秋の暮れ

 父母のことのみおもふ秋のくれ

 名月や池をめぐりて夜もすがら

 うづみ火や我(わが)かくれ家(が)も雪のなか

*正岡子規は、「此句は家の外から家を見たのでは無く、家の内に在りて我家が雪深き中に埋れて居る様を思ふたのであろう。」と言っている。

*私見:「与謝蕪村 夜色楼台雪万家の図 個人蔵」の絵を連想する。

 しら梅に明くる夜ぽかりとなりにけり

*蕪村の辞世句


一 茶(1763〜1819年)


 うたたねも叱り手のなき寒さかな

 死に支度いたせいたせと桜かな

 死にべたと山や思わん夕時雨

 いざさらば死にげいこせん花の雨

 またことし死損じけり秋の暮

 美しさや障子の穴の天の川

*一茶臨終の句


頼山陽の五言古詩(1780〜1832年)

葵丑の歳 偶作

十有三春秋  (十有三の春秋 )

逝者已如水  (逝く者は已に水の如し)

天地無始終  (天地始終無く)

人生有生死  (人生生死有り)

安得類古人  (安んぞ古人に類せんを得んや)

千載列青史  (千載青史に列せん)

*読み下しは筆者


土井晩翠(1871〜1952年)

荒城の月

 明治卅一年頃東京音楽学校の需(もとめ)に 応じて作れるもの、
 作曲者は今も惜しまれる秀才滝廉太郎君

 春高楼の花の宴
 めぐる盃影さして
 千代の松が枝わけ出でし
 むかしの光いまいづこ。
 秋陣営の霜の色
 鳴き行く雁の数見せて
 植うるつるぎに照りそひし
 むかしの光今いづこ。
 いま荒城のよはの月
 変らぬ光たがためぞ
 垣に残るはただかづら
 松に歌ふはただあらし。
 天上影は変らねど
 栄枯は移る世の姿
 写さんとてか今もなほ
 あゝ荒城の夜半の月。

2008.5.14


与謝野鉄幹(1873〜1935年)


hosino.jpg

人を恋ふる歌

 妻をめとらば才たけて
 顔(みめ)うるわしく情(なさけ)ある
 友をえらばば書を読みて
 六分(りくぶ)の侠気 四分(しぶ)の熱

 恋の命をたずぬれば
 名を惜しむかな男(おのこ)ゆえ
 友のなさけをたずぬれば
 義のあるところ火をも踏む

2011.03.26


高浜虚子(1874〜1956年)


一 虚子一人銀河と共に西へ行く

*山折哲雄『悪と往生』より

二 去年今年(こぞことし)貫く棒のごとく

*「時空」を貫くものを感じる。「不易流行」「一以てこれを貫く」(『論語』の「巻第二 里仁第四」と「巻第八 衛霊公第十五」に使われている。)を思う。

三 一月や去年の日記なほ机邊

四 年を以て巨人としたり歩み去る


島木赤彦(1876〜1925年)


 藤田正勝 『西田幾多郎』――生きることと哲学(岩波新書)による

 島木冬彦の〈写生〉

 この生命の輝きを言いとめるという詩歌の営みを〈写生〉という言葉で表すことができるかもしれない。

 西田が短歌の雑誌である『アララギ』にエッセーを寄せたのは、かってアララギ派の代表的な歌人であった島木赤彦と西田とのあいだに深い交流があったからである。一九二六に赤彦が亡くなったときに西田は「島木赤彦君」という短文を『アララギ』に寄せている。それによれば、西田が赤彦を知ったのは、岩波茂雄の紹介で赤彦が『万葉集』の古写本をみるために京都大学を訪れたときのことである。

 これをきっかけに交際が始まり、赤彦が彼の歌論『歌道小見(かどうしょうけん)』を出版した際には、その批評を西田に依頼している。そのプランは実現しなかったが、しかし「私の近頃見た書物の中で最も面白く読んだものの一つであった」と西田はエッセーのなかで記している。このような関係が生まれたのは、赤彦の「写生」についての理解と西田の思想との間に、ある近さが存在することを両者が感じとっていたからではないだろうか。

 赤彦の「写生」についての基本的な考えは、『歌道小見』の次の言葉から知ることができる。「私どもの心は、多く、具体的事象とその接触によって感動を起こします。感動の対象になって心に触れ来る事象は、その相触るる状態が、事象の姿であると共に、感動の姿でもあるのであります。左様な接触の状態を、そのままに歌に現すことは、同時に感動の状態をそのままに歌に現すことになるのでありまして、この表現の道を写生と呼んで居ります。」

 文芸理論として最初に「写生」ということを主張したのは、言うまでもな正岡子規であった。赤彦もその影響を受けている。しかしここで言われている「写」は子規の言う「写生」と必ずしも同じではない。子規では、絵画をモデルとして「実際の有りのままを写す」ことが考えられている。赤彦の場合には、写生はある意味で「実際の有りのままを写す」ことであると言うことができる。しかしその「有りのまま」は、表現者から区別されたかぎりの事象を指すのではない。赤彦が歌おうとする「有りのまま」は、事象と感動とが一つになった状態である。その状態を「直接」に言葉に写すことが赤彦の「写生」である。それは単なる対象の記述ではなく、その人の生の表現である。

 この点を捉えて西田はエッセー「島木赤彦君」のなかで次のように述べている。「写生といっても単に物の表面を写すことではない、生を以て生を写すことである。写すといえば既にそこに間隙がある。真の写生は生自身の言表でなければならぬ、否生が生自身の姿を見ることでなければならぬ」。西田が赤彦の「写生」論に共感をしめしたのは、赤彦の短歌についての理解が、まさにこの、芸術は生――赤彦流に言えば事象と感動とが一つになった状態――が生自身の姿を見ることであるという西田の芸術理解に通じるものがあったからであろう。

2008.5.4


赤 彦 歌 集(岩波文庫)

二月十三帰国昼夜痛みて呻吟す。胸瘠せに瘠せ骨たちたつ

 生(い)き乍(なが)ら瘠せはてにける佛を己(おの)れみづからを拝(おろが)みまをす

 火箸もて野菜スープの火加減(ひかげん)を折り折り見居り妻の心あはれ

 隣室に書(ふみ)よむ子らの聲きけば心に沁みて生(い)きたかりけり

2008.5.5


山頭火の生涯

山頭火(1882〜1940年)


種田 山頭火(たねだ さんとうか、1882年(明治15年)12月3日 - 1940年(昭和15年)10月11日)

 戦前日本の俳人。よく山頭火と呼ばれる。自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人。1925年に熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度して耕畝(こうほ)と改名。本名・種田正一。

 十一歳のときに母を失った。母の死は病気ではない。自殺である。

 父は女道楽の人であった。父が妾をつくり、その妾と行楽の旅に出た留守に、母・フサは井戸にに身を投げて死んだ。

 ちょうど山頭火少年は裏庭で近所の子どもたちと遊んでいた。裏井戸のあたりの騒ぎに近づくと、「あっちへ行っとりなさい」と大人たちに追い払われた。しかし山頭火少年はしっかりと、井戸から引きあげられる母親の、水びたしの姿を見たのである。

 のちに僧となって行乞(ぎょうこつ)の旅をつづけることになった山頭火は、白布に母の位牌を巻いて持っていた。「あんな死に方をした母は、成仏をしていない」

 そう思って、母の成仏を願って行乞の旅を続けたのである。してみると、山頭火の旅は一面では母恋いの旅であったとも思えるのだが、終焉の場所となった松山の一草庵でも、昭和十五年三月六日の日記にこう書いてある。

 「けさもずゐぶん早かった。早すぎた。何もかもかたづいてもまだ夜が明けなかった。亡母第四十九回忌(略)。一洶さん立ち寄る。母へお経を読んでくれる。ありがとう。(略)道後で一浴、爪をきり顔を剃る、さっぱりした。仏前にかしこまって、焼香諷(ママ)経、母よ、不幸者を赦して下さい。(略)のんびりと寝た、仏前からおさがりをいたヾいて」

 とても母の五十回忌までは生きられまいと、山頭火は自分の命を測っている。山頭火は母の成仏を願い、母の位牌を懐に歩きつづけたのである。

   「若うして死をいそぎたまへる 母上の霊前に本書を 霊前に供えへまつる 山頭火」

 一代句集『一草塔』の扉に、こう書いてある。山頭火の句の底にはいつも"母恋い"の思いが流れている。


山頭火の生涯

[明治十五年〜三十九年]

母の自殺からはじまる境涯

種田家は海を渡って約二百七十年前に土佐から周防(すおう)に移り住んだ元郷士(ごうし)。山頭火はは「大種田」とよばれた種田家の七代目で、それにふさわしい育ち方もしたようだ。十歳のとき母が自殺、後年には自分が自叙伝を書くならば━━私一家の不幸は母の自殺から━━と書かねばならぬと記している。
参考:明治二十五年(一八八九)十歳
   三月六日、母・フサ自宅の井戸にに投身自殺。引きあげられた死体を見て強い衝撃を受ける。
 明治三十五年(一九〇二)二十歳
     九月、早稲田大学大学部文学科に入学。二年後、神経衰弱のため早稲田大学を退学。

[明治四十年〜大正五年]

大道(だいどう)で種田酒造場を経営

大種田の家産かたむき、再起を期して隣村大道の酒造場を買い受けて酒造りをはじめる。山頭火も結婚し家業に専念した一時期はあるが、文芸方面に熱中し無軌道に酒を飲む。山頭火のペンネームで翻訳を発表したり、自由律俳句をつくりはじめた。

[大正五年〜大正十二年]

破産出郷・熊本と東京

種田家は破産して一家離散、山頭火は妻子を連れて熊本市に赴き、古書店(のちに額縁店)を開く。文学立身があきらめきれず単身上京、やがて離婚におよぶ。一時は一ツ橋図書館などに勤めるが、神経衰弱が再発して無職浪々のうちに関東大震災が起こり罹災。社会主義者と誤解されて巣鴨刑務所に留置された。

[大正十二年〜大正十五年]

出家得度して観音堂守に

帰着した熊本での生活は不本意なもので、あるとき泥酔して走行中の市内電車の前に立ちはだかった。そんな捨て鉢の山頭火を禅寺に連れていく人があって、これを機縁に禅門に入り出家得度(四十三歳)。まもなく山林独住の観音堂守となるが、一年余りでそこを去り一所不住の旅に出た(四十四歳)。

[大正十五年〜昭和四年]

山陽・山陰・四国地方行乞

旅の一つの目的は小豆島に放哉を訪ねて会うことだったが、その死を知って予定を変更した。信頼する俳人として九州では木村緑平、山口には久保白船がおり、母の菩提を弔うため四国霊場八十八か所の巡拝をなし、小豆島に渡って放哉の墓に参った。

[昭和四年〜昭和六年]

九州三十三所観音巡礼

熊本に落ち着くかにみえたが、「やっぱり時代錯誤的生活しか出来ない」とみずからすすんで旅に出た。九州における三十三所観音巡礼を思いたち、昭和四年は一番から十三番まで、翌年は七か寺巡拝して中断。熊本市内に間借りして個人雑誌「三八九(さんぱく)」を発行し自活しようとする。

[昭和六年〜昭和九年]

其中庵(ご ちゅう あん)を営む

暮れも押し迫って一鉢一笠、いわゆる自嘲の旅に出た。約五か月で九州観音巡礼の打ち残しの札所を巡拝。山口県の川棚温泉に足を留め、ここに庵を結ぶことを望む。けれども実現せず、やがて小郡の山麓に其中庵を営む。井泉水をはじめ層雲(そううん)派俳人の来遊しきり。

[昭和九年〜昭和十一年]

逆コースの「奥の細道」

信州伊那に俳人井上井月(せいげつ)の足跡を訪ねようとするが、峠の深雪に行きなずんで飯田で病む。帰庵してからも不調の日々が続き、一度は自殺未遂。いよいよ旅で死ぬことを考え、ふたたび東上の旅に立ち、東京からは芭蕉の『奥の細道』を意識しながら、逆コースで平泉まで至り、帰路は福井の永平寺に参籠(さんろう)。

[昭和十二年〜昭和十四年]

転一歩して市井へ

急転直下で下関の材木商店に就職して失敗。けれど庵住にも倦(う)んで湯田温泉の歓楽街の片隅に移り住む。周囲に文学青年たちが集まってきて安逸な日々を送る。気がかりだった俳人井月の墓参のためふたたび伊那に赴き、ついに念願を果たして帰る。

[昭和十四年〜昭和十五年]

永遠なる旅人

死ぬのは近代俳句のメッカ松山だと決めて四国に渡る。ふたたび四国遍路に旅立って、途上、小豆島では放哉墓参。松山に至って、終焉となる庵を定めて一草庵(いつそうあん)と名づけた。遍路の循環道であるそのほとりに死ぬことを決め、一代句集『草木塔』を出版、母の霊前に供えた。句会が開かれている庵の片隅でコロリ往生。

※早坂 暁『山頭火』(日本放送 出版協会)より抜粋。

 一 ひとりで蚊にくはれてゐる

 二 蚊帳の中まで夕焼けの一人寝てゐる

 三 張りかへた障子のなかの一人

 四 いつ死ぬる 木の実は播いておく

 五 山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く

 六 春夏秋冬

 七 あしたもよろし ゆふべもよろし

参考:まっすぐな道でさびしい

2015.12.03


斉藤茂吉(1882〜1953年)


一 ひとり来て蠶のへやに立ちたれば我が寂しさは極まりにけり

二 つつましく一人居れば狂信のあかき煉瓦に雨のふる見ゆ

三 はるばる山峡(やまかい)に来て白樺に触りて居たり独りなりけれ

四 夕凝(ゆうこ)りし露霜ふみて火を恋ひむ一人のゆゑにこころ安けし

五 くらがりの中におちいる罪ふかき世紀にゐたる吾もひとりぞ 

*山折哲雄『悪と往生』平成十五年十二月三一日


☆高村光太郎(1883〜1956年)

道程」以後


   母をおもふ

 夜中に目をさます
 あのむつとするふところの中のお乳

 「阿父(おとう)さんと阿母(おか)さんがどちらが好き」と
 夕暮れの背中の上でよくきかれたあの路地口 

   鑿(のみ)で怪我をしたおれのうしろから
 切火\(きりび)をうって学校へ出してくれたあの朝。

 酔ひしれて帰って来たアトリエに
 金釘流(かなくぎりう)のあの手紙が待ってゐた巴里の一夜。

 立身出世しないおれをいつまでも信じきり、
 自分の一生の望もすてたあの凹んだ眼。

 やつとおれのうちの上り段をあがり、
 おれの太い腕に抱かれがったあの小さなからだ。

 さうして今死なうといふ時の
 あの思ひがけない権威ある変貌。

 母を思ひ出すとおれは愚にかへり、
 人生の底がぬけて
 怖いものがなくなる。
 どんな事があらうともみんな
 死んだ母が知ってるやうな気がする。

2009.1.30

智恵子抄」より

          人 に

 いやなんです

 あなたのいつてしまふのが ――

 花よりさきに実(み)のなるような

 種子(たね)よりさきに芽の出るような

 夏から春のすぐ来るような

 そんな理屈に合わないふ不自然を

 どうかしないでゐて下さい

      人生遠視

 足もとから鳥がたつ

 自分の妻が狂気する

 自分の着物がぼろぼろになる

 照尺距離三千メートル

 ああこの鉄砲は長すぎる

      風にのる智恵子

 狂った智恵子は口をきかない

 ただ長尾や千鳥と相図する

 防風林の丘つづき

 いちめんの松の花粉は黄いろく流れ

 五月晴(さつきばれ)れの風に九十九里の浜はけむる

 智恵子の浴衣(ゆかた)が松にかくれ又あらはれ

 白い砂には松露(しようろ)がある

 わたしは松露をひろひながら

 ゆっくり智恵子のあとをおふ

 長尾や千鳥が智恵子の友だち

 もう人間であることをやめた智恵子に

 恐ろしくきれいな朝の天空は絶好の遊歩場

 智恵子は飛ぶ

        千鳥と遊ぶ智恵子

 人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の

 砂にすわって智恵子は遊ぶ。

 無数の友だちが智恵子の名をよぶ。ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―

 砂に小さな趾あとをつけて

 千鳥が智恵子に寄って来る。

 口の中でいつでも何か言っている智恵子が

 両手をあげてよびかへす。

 ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―

 人間商売さらりとやめて、

 もう天然の向うへ行ってしまった智恵子の

 うしろ姿がぽっんと見える。

 二丁も離れた防風林の夕日の中で

 松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽くす。

      値(あ)ひがたき智恵子

 智恵子は見えないものを見、
 聞こえないものを聞く。

 智恵子は行けないところへ行き、
 出来ないことを為(す)る。

 智恵子は現身(うつしみ)のわたしを見ず、
 わたしのうしろのわたしに焦(こ)がれる。

 智恵子はくるしみの重さを今はすてて、
 限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。

 わたしをよぶ声をしきりにきくが、
 智恵子はもう人間界の切符を持たない。

*2010.02.10に「値(あ)ひがたき智恵子」を追加した。

      山麓の二人

 二つに裂けて傾く磐梯山の裏山は
 険しく八月の頭上の空に目をみはり
 裾野とほく靡いて波うち
 芒(すすき)ぼうぼうと人をうづめる
 半ば狂へる妻は草を藉(し)いて坐し
 わたしの手に重くもたれて
 泣きやまぬ童女のように慟哭する
 ――わたしもうぢき駄目になる
 意識を襲ふ宿命の鬼にさらはれて
 のがれる途無き魂との別離
 その不可抗の予感
 ――わたしもうぢき駄目になる
 涙にぬれた手に山風が冷たく触れる
 わたしは黙って妻の姿に見入る
 意識の境から最後にふり返つて
 わたしに縋る
 この妻をとりもどすすべが今は世に無い
 わたしの心はこの時二つに裂けて脱落し
 闃(げき)として二人をつつむこの天地と一つになつた

*2010.02.12に「山麓の二人」を追加した。

      レモン哀歌

 そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
 かなしく白くあかるい死の床で
 わたしの手からとつた一つのレモンを
 あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
 トバァズ色の香気が立つ
 その数滴の天のものなるレモンの汁は
 ぱつとあなたの意識を正常にした
 あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
 わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
 あなたの咽喉(のど)に嵐はあるが
 かういふ命の瀬戸ぎはに
 智恵子はもとの智恵子となり
 生涯の愛を一瞬にかたむけた
 それからひと時
 昔山巓(さんてん)でしたような深呼吸を一つして
 あなたの機関はそれなり止まつた
 写真の前に挿した桜の花かげに
 すずしく光るレモンを今日も置こう

*2010.02.13に「レモン哀歌」を追加した。

      荒涼たる帰宅

 あんなに帰りたがってゐた自分の内へ
 智恵子が死んでかへって来た。
 十月の深夜のがらんどうなアトリエの
 小さな隅の埃(ほこり)を払ってきれいに浄め、
 私は智恵子をそつと置く。
 この一個の動かない人体の前に
 私はいつまでも立ちつくす。
 人は屏風をさかさにする。
 人は燭をともし香をたく。
 人は智恵子に化粧する。
 さうして事がひとりでに運ぶ。
 夜が明けたり日がくれたりして
 そこら中がにぎやかになり、
 家の中は花にうづまり、
 何処かの葬式のやうになり、
 いつのまにか智恵子が居なくなる。
 私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。
 外は名月といふ月夜らしい。

*2010.02.15に「荒涼たる帰宅」を追加した。

      亡き人に

 雀はあなたのやうに夜明けにおきて窓を叩く
 枕頭のグロキシニヤはあなたのやうに黙って咲く

 朝風は人のやうに私の五体をめざまし
 あなたの香りは午前五時の寝部屋に涼しい

 私は白いシイツをはねて腕をのばし
 夏の朝日にあなたのほほゑみを迎える

 今日が何であるかをあなたはささやく
 権威あるもののやうにあなたは立つ

 私はあなたの子供となり
 あなたは私のうら若い母となる

 あなたはまだゐる其処にゐる
 あなたは万物となって私に満ちる

 私はあなたの愛に値しないと思ふけれど
 あなたの愛は一切を無視して私をつつむ

*2010.02.16に「亡き人に」を追加した。

      梅 酒

 死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒(うめしゆ)は
 十年の重みにどんより澱(よど)んで光を葆(つつ)み、
 いま琥珀(こはく)の杯に凝つて玉のやうだ。
 ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
 これをあがってくださいと、
 おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
 おのれのあたままの壊れる不安に脅かされ、
 もうぢき駄目になると思ふ悲に
 智恵子は身のまはりの始末をした。
 七年の狂気は死んで終つた。
 厨(くりや)に見つけたこの梅酒の芳(かを)りある甘さを
 わたしはしづかにしづかに味はふ。
 狂瀾怒濤の世界の叫も
 この一瞬を犯しがたい。
 あはれな一個の生命を正視する時、
 世界はただこれを遠巻きにする。
 夜風も絶えた。

*2010.02.17に「梅 酒」を追加した。

参考:智恵子は統合失調症で光太郎に先立つ。

感想:高村光太郎氏の智恵子を愛し、見守り、生前を回想する。孤独がひしひしと伝わって来る。詩の表現の力にひしがれている自分を感じる。

2010.01.18 朝、6:00時


若山牧水(1885〜1928年)


    海の聲

 白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

 けふもまたこころの鉦(かね)をうち鳴らしうち鳴らしつつあくがれて行く

 幾山河(いくやまかは)越えさり行かば寂しさのはてなん國ぞ今日も旅ゆく

    獨り歌へる 上の巻

 いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見むこのさびしさに君は耐ふるや

    路上

 われ歌をうたひくらして死にゆかむ死にゆかむとぞ涙を流す

 終りたる旅を見かへるさびしさにさそさわれてまた旅をしぞおもふ(岩波文庫P.44:家内とアメリカから帰った時の新聞に書かれていた)

    くろ土

 わがこころ澄みゆく時に詠む歌か詠みゆくほどに澄める心か

2008.11.23


土岐善麿(1885〜1980年)


一 石川はえらかったな、と おちつけば、しみじみと思ふなり、今も。

*(折々のうた)朝日新聞十六年十月十七日より


作詞者 土岐善麿  作曲者 橋本国彦

一 さすらいの 旅(たび)に出(い)でても恋(こい)しきは ふるさとの山 思い出の 川のひびきに かんこ鳥 声はまぎれず胸(むね)くるし胸(むね)くるし 胸(むね)くるし 若き愁(うれ )いよ

二 東(ひがし)の島の浜辺(はまべ)に たわむれし かにはいずくぞ 人の世(よ)の 嘆(なげ)尽(つ)きねば あこがれの 明日(あす)を思いぬ 歌かなし 歌かなし 歌かなし永久(とわ)の命(いのち)や


尾崎放哉(1885〜1926年)


一 せきをしてもひとり

二 こんなよい月を一人で見て寝る

三 たった一人になりきって夕空

四 淋しいぞ一人五本のゆびを開いて見る

五 臍に湯をかけて一人夜中の温泉である

六 月夜風ある一人咳して

*山折哲雄『悪と往生』P.138


石川啄木(1885〜1912年)


    歌集:『一握りの砂』

 東海の小島の磯の砂浜にわれ泣きぬれて 蟹とたはむる 

 ふるさとの山に向かひて 言うことなし ふるさとの山はありがたし

 頬につたふ なみだのごはず 握の砂を示しし人を忘れず 

 たはむれに母を背負ひて そのあまりに軽さに泣きて 三歩あゆまず

 新しき明日の来るを信ずといふ 自分の言葉に 嘘はなけれど

 人がみな 同じ方角に向いて行く それを横より見てゐる心

    歌集:『悲しき玩具』

 働けど働けど わが暮らし楽にならざり じっと手を見る

 こころよき疲れなるかな 息もつかず 仕事をしたる後のこの疲れ   

 新しい明日の来るを信ずといふ 自分のことばに 嘘はなけれど――

 百姓の多くは酒をやめしといふ もっと困らば 何をやめらむ

2008.11.25
2010.01.15 すこし改めた。


吉井 勇(1886〜1960年)


 消息は一行にしてことたらむ思いは文字にかきがたきなり 


柳宗悦(やなぎ むねよし)(1889〜1961年)


 見ずや 君 あすはちりなむ花だも 力の限り ひとときを咲く

 何も皆去年ちょう年に負わせやりて あらたなる日に入りなん共に

*『花園』平成八年一月号

 「雪 イトド深シ 花 イヨイヨ近シ」


大石順教(1889〜1968)


 たなごごろあわすべきもなき身にはただ南無仏ととなえのみこそ

 くちに筆をとりて書けよと教えたる鳥こそわれの師にてありけれ


八木 重吉(1892〜1927年)


一 花はなぜ美しいか ひとすじの気持ちで咲いているからだ

二 ひとり来て蠶のへやに立ちたれば我が寂しさは極まりにけり

三 つつましく一人居れば狂信のあかき煉瓦に雨のふる見ゆ

四 はるばる山峡(やまかい)に来て白樺に触りて居たり独りなりけれ

五 夕凝(ゆうこ)りし露霜ふみて火を恋ひむ一人のゆゑにこころ安けし

六 くらがりの中におちいる罪ふかき世紀にゐたる吾もひとりぞ 

*山折哲雄『悪と往生』平成十五年十二月三一日


素朴な琴

    素朴な琴

 この明るさのなかへ

 ひとつの素朴な琴をおけば

 秋の美しさに耐えかね

 琴はしずかに鳴りいだすだろう

平成二十三年十月四日


宮沢賢治(1896〜1933年)
 

<
 
▼宮沢賢治詩集(岩波文庫)

不貪欲戒

 油紙を着てぬれた馬に乗り
 つめたい風景のなか 暗い森のかげや
  ゆるやかな環状削剥(くわんさくは)の丘 赤い萱の穂のあひだを    
 ゆっくりあるくといふこともいゝし
 黒い多面角の洋傘(こうもりがさ)をひろげて
 砂砂(すなさ)糖を買ひに町へ出ることも
 ごく新鮮な企畫である
    (ちらけろちらけろ 四十雀)

 稲とよばれがさっな草の群落が
 タアナアさへもほしがりさうな
 サラドの色になってることは
 慈雲尊者(じ うんそんじゃ)にしたがへば
   不貪欲戒(ふどんよくかい)のすがたです
   (ちらけろちらけろ 四十雀
    のときの高等遊民は
    いましっかりした執政官だ)
 ことことと寂しさを噴く暗い山に
 防火線のひらめく灰いろなども
 慈雲尊者にしたがへば
 不貪欲戒のすがたです

*掲載日不明


 稲作挿話 (作品一〇八二番

 (前略)

 きみのやうにさ
 吹雪やらづかの仕事のひまで
 泣きながら
 からだに刻んで行く勉強が
 まもなくぐんぐん強い芽を噴いて
 どこまでのびるかわからない
 それがこれからのあたらしい學問のはじまりなんだ
 ではさようなら
  ……雲からも風からも
    透明な力が
    そのこどもに
    うつれ……

2010.01.22


 十一月三日(雨ニモマケズ)

 雨ニモマケズ
 風ニモマケズ
 雪ニモ夏ノ暑サニモマケズ
 丈夫ナカラダヲモチ
 欲ハナク
 決シテ瞋ラズ
 イツモシヅカニワラッテヰル
 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
 アラユルコトヲ
 ジブンヲカンジョウニ入レズニ
 ヨクミキキシワカリ
 ソシテワスレズ
 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
 小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
 東ニ病気ノコドモアレバ
 行ツテ看病シテヤリ
 西ニツカレタル母アレバ
 行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
 南ニ死ニサウナ人アレバ
 行ツテコハラガラナクテテモイイトイヒ
 北ニケンクワヤソショウガアレバ
 ツマラナイカラヤメロトイヒ
 ヒデリノトキハナミダヲナガシ
 サムサノナツハオロオロアルキ
 ミンナニデクノボウトヨバレ
 ホメラレモセズ
 クニモサレズ
 サウイフモノニ
 ワタシハナリタイ

2010.01.23


中村久子(1897〜1968年)


一 手はなくも足はなくとも仏のそでにくるまるる身は安きかな

二 手足なき身にsれども生かさるるいまのいのちはたふとかりけり

三 〈無一物〉 久子口書
         六十九才


▼『こころの手足』

一 氷と水のごとくにて氷おほきに水おほし さはりおほきに徳おほし

*親鸞聖人について

二 宿かさぬ人のつらさをなさけにておぼろ月夜の花の下ふし

*蓮月尼について


室生犀星(1889〜1962年)

ふるさと


故 郷

 ふるさとは遠きにありて思ふもの

 そして悲しくうたふもの

 よしや

 うらぶれて異土の乞食となるとても

 帰るところにあるまじや

 ひとり都のゆふぐれに

 ふるさとおもひ涙ぐむ

 そのこころもて

 遠きみやこにかへらばや

 遠きみやこにかへらばや

 [小景異情ーその二] より

*:(叙情小曲集 小景異情)(1918)にある一編

*:〈現代詩文庫 室生犀星〉(思潮社)装丁がよい。

*追加:明日のことがわからないという事は、人の生きる愉しさをつないでゆくものだ。


大岡 信氏は次のように言う。

 『抒情小曲集』(大七)巻頭の詩「小景異情」その二(全部で十行)の冒頭。有名な詩句だが、これは遠方にあって故郷を思う詩ではない。上京した犀星が、志を得ず、郷里金沢との間を往復していた苦闘時代、帰郷した折に作った詩である。故郷は孤立無援の青年には懐かしく忘れがたい。それだけに、そこが冷ややかである時は胸にこたえて悲しい。その愛憎の複雑な思いを、感傷と反抗心をこめて歌っているのである。
平成二十八年六月二十八日:追加


三木露風(1889〜1964) 詩人・童謡作家・随筆家


  ふるさとの

ふるさとの
小野の木立(こだち)に
笛の音(ね)の
うるむ月夜や

少女子(おとめご)は
あつき心に
そをば聞き
涙ながしき(注)

十年(ととせ)経(へ)ぬ

同じ心に
君泣くや
母となりても


  赤とんぼ

 夕焼け小焼けの赤とんぼ
 おわれて見たのは、いつの日か

2011/02/26


中川一政のうた(1893〜1991年)


貧しき母

 人はなべてかなし
 さ夜ふけし夜のみち
 米何升を買ひてかへるもの
 あにわが母のみならんや

 われはけふ
 しほ鮭のひときれを
 買ひてかへるまずしき人をみたり
 顔あをざめて
 この世にいまは為すことなきが如けれど
 背には子を負へり
 何も知らざるおさな児よ
 汝が母の背はあたゝかくして
 汝が母がくるゝものはうまきかな

 ねむれ、いとし児
 みちたりて
 ねむれいとし児
 なが幼児なる日

 母は世にも貧しきくらしをなしつゝ
 なをそだてあぐるなり

 すべて人は苦労す
 すべてのものはみなかなし
 されど子をまもる母はありて
 おのれひときれの塩鮭を
 紙につゝみて買へども
 なほ世のどん底に
 死なせずしてとらふる力あり
 なほ世のためになさしむるなり
 いとほしめ汝が児を
 おのがじし
 わが児を負へる
 ちまたの母は涙ぐましきかな。
*山本健吉 『こころのうた』より引用。

 画家中川一政は、また詩人でもある。どこか武者小路実篤流のヒューマニズムを漂わせながら、武者小路にはない生活味がある。
 米の一升買いということは、貧しい者のこととされている。塩鮭の一きれ買い――という言葉はきかないが、それこそもっとも貧しい階層に属するだろう。それはきわめて薄い一切れであろう。しかも、その母親は、自分の食べ分を節して、子に食べさせようとするらしい。
 貧しさの極致にあって、なお人の子は育て上げられる。そして「子を守る母」はあって、塩鮭を買う。どん底にあって、なお人の子を死なしめぬ力がある。そこに作者は、この世の摂理を感じる。すべての存在はかなしいが、その中でも、「わが児を負へる/ちまたの母」に、人間存在のかなしさは集約されて現されている。

私見:どん底の貧しさは、それを体験した人にしかわからないものがあると思う。「神や仏があるものか」と思うまでにいたる。人間存在のかなしさの言葉では表しきれないものではないだろうか。

2008.3.13


西脇順三郎(1894〜1982年)


   旅人かへらず

 旅人は待てよ
 このかすかな泉に
 舌を濡らす前に
 考へよ人生の旅人
 汝もまた岩間からしみ出た
 水霊にすぎない
 この考へる水も永劫には流れない 
 永劫の或時にひからびる
 ああかけすが鳴いてやかましい
 時々この水の中から
 花をかざした幻影の人が出る
 永遠の生命を求めるは夢
 流れ去る生命のせせらぎに
 思ひを捨て遂に
 永劫の断崖より落ちて
 消え失せんと望むはうつつ
 さう言ふはこの幻影の河童
 村や町へ水から出て遊びに来る
 浮雲の影に水草ののびるころ

*山本健吉 『こころのうた』より引用。

 『旅人かへらず』の序に、作者は言っている。
 「・・・・自分の中に種々の人間がひそんでいる。まず近代人と原始人がゐる。前者は近代の科学哲学宗教文芸によって表現されてゐる。また後者は原始文化研究、原始人の心理研究、民族等に表現されゐる。」(略)

2008.03.15


安積得也(1900〜1994年)

     

「未 見 の 我」

「未見への出発」より抜粋 一 人間飢饉

 春が還り
 麦が伸びても
 人間は成長からおきさられた
 今日も新しい太陽が昇って来たのに
 人間の「未見の我は」
 痩せしほれて眠っている
 喪家の犬だ
 そして全世界が叫んでゐる
 人物が足りないと
 若い時代に
 人の教徒らに多くして
 人間資源の払底だ
 人間の飢饉だ
 それは当然だ
 「未見の我」の混混として居眠る限り
 「未見の我」の未見のままに死にゆく限り
 痛ましい人間飢饉が
 永久に人の世を暗くする
 見よ、見直せ
 太陽が新しく昇って来る
 万物は流転し
 古い価値は古靴と共に止揚(すて)られる
 今、今
 「未見の我」の若い主人公よ
 お前の「未見の我」を  なぜもっといたはらないのだ
 天から授かった秘蔵子を
 なぜいつまでも眠らせて置くのだ
 世界が待っている
 人間飢饉の世界中が待ち焦がれてゐるよ
 お前の「未見の」の成長を
お前の威勢のいい登場を
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・

二 未見の我

 昼なほ暗き大森林
 何千億の樫の葉から
 一番よく似た二枚を採って較べて見る
 不思議だ
 一枚だって同じものは無いのだから
 植物学者の語る事実が
 鋭い暗示を
 人間個性の問題に投げかける
 人皆の声が違ふように
 人皆の可能性が
 おのがじしなる持ち味を蔵してゐる
 愕くべき真理だ
 お互い一人一人が
 夫々に天下一品の特質を
 おほいなるものから授かってゐるとは
 人皆英雄!
 さうだ
 内に隠れて見えないけれども
 現在(いま)こそ内に眠り底に潜んで  自分にも他人にも発見(わか)らないけれど
 五尺の我の中にこそ
 「未見の我」の偉大なる姿が隠れてゐるのだ
 ありがたや
 自分には自分の知らない自分がある
 強くして能あり
 清くして正大なり
 現在(いま)の我とは比較にもならぬ
 未来相の我だ
 私はもう私を見くびらない
 弱小の私
 無能の私
 あやまちの多い私
 あいかし私は「未見の我」の故に
 私の全身全霊を愛惜する
 彼はつまらぬ奴だ
 馬鹿なまねをしやがった
 しかし私は彼を見棄てない
 彼の内なる(未来の彼)を
 私は限りなく尊重する

三 神秘の扉

 筏を繰りながら
 ミシシッピーを南に下がる
 年エブラハム・リンカーン
 彼さへも彼の「未見の我」に
 容易に気づかなかった
 汽車中の新聞売子
 少年トマス・エジソン
 このみすぼらしい少年の中に
 誰か(文明の恩人)を想像したろう
 一校を受けて落第した沢正(さわしょう)
 その落第の彼方に
 未見の沢正が約束された
 眼を無名の青年に転じよう
 菜種の研究に
 野村を生甲斐の天地とした村山勇
 マスカット・ハンブルグの
 露地栽培を大成した石原 泰(ゆたか)
 害虫研究の大石俊雄
 ヘッドライトのの羽田正勝
 讃えよ
 一人一研究の小英雄
 誰も誰も自分の肩に
 天与の宿題を持ってゐる
 一題解けば又一題
 一山越ゆれば更に一山
 より高い「未見の我」へと
 集中と継続の大道を
 どっしどっし登ってゆく
 私は駄目だと辮解しながら
 逃避(にげ)てばかりゐる卑怯者よ
 力量を断じ本性を透視すべく
 科学の認識は余りにも貧しく
 人間の全貌は神秘多し
 俺はこれだけの人間だと
 簡単に片づけてしまふ前に
  友よ
 未見神秘の扉を叩きに叩かうよ

四  全A 全B

 私は生物学と心理学を無視しない
 私は遺伝学と進化論をけなさない
 生まれながらの未見の我が
 萬人平等でないないことを
 私は正直に肯定する
 だから私は
 萬人が大将になることを好まない
 クラス中が一番になることをなることを祈らない
 AはAでよく
 BはBでよし
 ただ願はくは
 Aは全Aであれ全Bであれ
 悲しいかな全Aであり得たAがあるか
 みんな中途半端の分数で死んだのだ
 そして悟り顔にも
 私は之だとあきらめたのだ
 「未見の我」の安っぽい評価よ
 造花に対する冒潰でなくて何だ
 心理学よ来い
 お前の未熟なメンタルテストで
 「未見の我」の不思議が解るか
 進化論よ来い
 お前の単純な結論だけで
 未見の人生を割り切るつもりか
 きょうだいよ
 天に享くる未見の姿の前に
 みんなが更に謙遜であろうよ
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
    

五 可能性を惜しむ

 世界中の若々しい「未見の我」よ
 静かにお互いの天地を見廻はそうよ
 不安にをののく
 しめっぽい生活
 あるは又荒々しくざわめいて
 花の無い生活
 利己主義(エゴイズム)と利己主義とが
 血みどろにいがみ合っている諸々の光景
 さあ眼をさませ「未見の我」
 計り知れぬ成長の自由を
 汲めども尽きぬ働きの自由を
 自ら作った小さい捕縄でいはへつけてしまふのは
 罪深い自縄自縛だ
 去れよ精神的狭心症
 握りつぶせ「未見の我」の不信任案
 授かった可能性の一割も出さずに
 死んで行くのが惜しいのだ
 功名富貴惜しからず
 成敗利鈍惜しからず
 ただ私は
 私の隠れたる可能性を惜しむ
 いざや
 長き旅に上らん
 「未見の我」の姿求めて
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・

六 戦 闘

 私の中にいやな奴が沢山いる
 豚がゐるよ
 貪婪の鼻を鳴らして
 本能のままに動いているよ
 兎がゐるよ
 すぐいい気になってしまふ兎が
 怠慢の眠りをむさぼってゐるよ
 狼がゐるよ
 エゴイズムの狼が
 臭いにほいを出してゐるよ
 羊がゐるよ
 愚かな浅はかな羊が
 ほんとうに認識不足だよ
 猫がゐるよ
 一匹も鼠を取らないで
 ひなたぼっこの安易道を歩いてゐるよ
 犬がゐるよ
 怒りっぽい犬が
 すぐ浅薄にかみつくよ
 孔雀がゐるよ
 虚栄の孔雀が
 名と富と位ばかりほしがってゐるよ
 虚栄の孔雀が
 鹿がゐるよ
 あっちこっちに気を配り
 逃げることばかり考へてゐるよ
 あさましい私の中の動物よ
 私はお前に機関銃を向ける
 勇気で包んだ金剛の意志が
 お前の胸板に弾丸を射ち込む
 勇気で包んだ金剛の意志が
 強いぞ、内心の要求
 意志!意志!意志!
 さあ来い
 お前の誘惑
 お前は眼前の蝋燭
 〈未見の我〉
 悠久の太陽
      ・

七 境遇を活かす

 俺はほやほやの人間だ
 俺は何を頼みにしてゐる
 眼も絢爛(あや)なる着物よりも
 裸で生きられる健康が頼母しいよ
 何時も手にある雨傘よりも
 降ったら駆け出せる脚が頼母しいよ
 俺は貧乏で中学にも行けない
 よし俺は
 自分で自分を教育するのだ
 学問と学校は別物だ
 学校に証書の紙だけ貰ひに行った
 高等失業者もゐれば
 工場に通ひながら
 学問をやり通したマクドーナルドもゐる
 蝶よ花よと育てられ
 いいものづくめで身を包まれて
 何一つ苦労を知らぬお坊ちやんは
 「未見の我」から見離された不幸者だ
 幸福は時に不幸であり
 不幸は概ね幸福の母だ
 みせかけの幸福よ、外側の不幸よ
 すべて閑人の閑葛藤にまかせて置け
 境遇よ
 お前が何であろうと
 お前は私の親友
 俺は微笑を含んでお前を受け取り
 ウムと両足を踏んばって
 境遇の心臓に活を入れる
 俺はほやほやの人間
 身に降りかかる一切の境遇を
 活かして生きた勇者たちと
 肝胆相共に照すのだ
      ・

八 仕事を楽しむ

 内に秘む貴さが
 仕事を通して現はれる
 仕事がうれしい
 私は歯を喰ひしばって努力しない
 笑って努力する
 私にも合唱させてくれ
 あしびきの山の草木を友として
 働きながら遊びけるかな」
 私は喜んでどろにまみれ
 天地を友として肥たごをかつぐ
 肥たごを担ぎほれるよ
 田の草を採りほれるよ
 桑の葉を摘みほれるよ
 試験管を眺めほれるよ
 文章を書きほれるよ
 聖賢の書を読みほれるよ
 もう私は肩書きを拝まない
 紙幣束(さつたば)を拝まない
 洋服を拝まない
 価値観念の革命が来たのだ
 衣服はぼろでも
 私の心はゆたかだよ
 身も魂も打ちこんだ
 仕事を楽しむ心
 専念一慮の妙境
 これはこのままに
 天地の大みこころに通貫する
 仕事に惚れて
 「未見の我」を生み出そうよ
      ・

九 一人一特色

 「未見の我」の可能性は
 万能の代名詞ではなかった
 万能でない人間が
 万事を成就せんとすることは
 万事に失敗することだ
 「未見の我」の創造は
 焦燥を嫌ひ
 中途半端を戒しめる
 一時に六つの窓から出ようとした
 一猿六窓の愚を学ぶより
 青春の企てから一つを択びとり
 能力を一時に集中しようよ
 その択びとった道に於て
 一人一特色を発揮しようよ
 貴いかなや〈未見の我〉に輝く
 持ち味の輝き
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
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      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・
      ・

十 未見巡礼  

 一切相関の人の世に  
 一切完成の彼岸を眼ざして  
 我も人も (未見の我)を礼拝する  
 私の中に  
 「未見の我」を確信する  
 あなたの奥に  
 「未見のあなた」を信頼する  
 あなたの奥に  日本の本然に  
 「未見の日本」を信仰する  
 世界の明日に  
 「未見の人類」を待望する  
 未見の姿は  
 祖先たちが部分的に持つてゐたものを  
 束として持つのみかは  
 それ以上の一切をを持つ  
 今日までの地上に現はれた  
 もろもろの聖人賢偉人達  
 今日までの地上に現はれた  
 けいも亦  
 すべて未見なるものに帽子をとれ  
 限りなき広し未見の地  
 限りなく高し未見の天  
 新らしい太陽の下を  
 朗らかに歩む吾等はらから  
 エゴイズムの荷物だけで  
 此の肩を疲らすのは惜しい  
 どうせかつぐなら  
 どんな小さい荷物でもいいから  
 同類全体の問題を  
 心の肩にかついでゆこう  
 骨を惜しまない  
 行当りばったりの生活をすまい  
 未見なるものの創造は  
 あだおろそかな事業ではないのだから  
 さあみんな一緒だ  
 「未見の我」の開拓へ
 創造日本の建設へ  
 元気に進軍だ  
 すべての人間様と  
 汗を分ち  
 笑を分ち  
 涙を分ちながら  
 生命の水を汲みつゝ  
 前途はてしなき愉悦の旅行  
 我等は未見への開拓者だ          

― 昭和八年春― 平成十九年九月九日〜十日、写す。


   詩集「一人のために」(善本社)

『明日』

 はきだめに

 えんどう豆咲き

 泥沼から

 蓮の花が育つ

 人皆に

 美しき種子あり

 明日

 何が咲くか

『花園』平成12年10月号より


木村無想(1904〜1984年)


   雪がふる

 雪がふる
 雪がふる
 雪がふるふる
 煩悩無尽むじん
 雪がふる

 雪がふる
 雪がふるふる
 大悲無倦(むけん)と
 雪がふる

   ありがたき

 “生は偶然
  死は必然”
  ホンによいこと
  ききました

  偶然の生
  ありがたき
  必然の死
  ありがたき

  生死を容れて
  ナムアミダブツ
  ナムアミダブツ
  ありがたき――  

   

 みんな
 死ぬから
 よいのでしょう

 諸行無常と
 いうことは
 わたしに
 生の尊さを
 しみじみしらして
 くれるのです

 死の上の生
 ああ
 今――

▼木村無想『歎異抄を味わう』(光雲社)より:木村無想氏についてプロバイダーから検索してください。

平成二十一年八月二十三日

 


河野 進(1904〜1990年)


   母という文字

 母という字は

 上から下から

 左から  

 表から裏から見ても

 同じかっこうをしている

 母は太陽のように

 かげひなたがないもんな

   雑 草

 どうぞ庭の草はそのままおいてやって下さい

 どんな草でもきれいな花がさきます

 そう言って雑草をひかせなかった母

 小さい孫たちにもたのんでいた母

 雑草だけで充分たのしかった母

 草花のような素朴なははでした

*母 河 野 進 詩 集(1975.12.25)

*著者略歴*

 明治37年 和歌山県いうまれる。

 昭和 5年 満州教育専門学校を経て神戸中央神学校卒業、岡山県玉島教会名誉牧師、社会福祉法人富田保育園々長、社団法人キリスト教救癩教会理事。


三好達治(1906〜1964年)

      

   昨日はどこにもありません

昨日はどこにもありません
あちらの箪笥の抽出しにも
こちらの机の抽出しにも
昨日はどこにもありません

 それは昨日の写真でせうか
そこにあなたの立ってゐる
そこにあなたの笑つている
それは昨日の写真でせうか

 いいえ昨日はありません
今日を打つのは今日の時計
昨日の時計はありません
今日の打つ時計は今日の時計

 昨日はどこにもありません
昨日の部屋はありません
それは今日の窓掛けです
それは今日のスリッパです

 今日悲しいのは今日のこと
昨日のことではありません
昨日はどこにもありません
今日悲しいのは今日のこと

 いいえ悲しくありません
何で悲しいものでせう
昨日はどこにもありません
何が悲しいものですか

 昨日はどこにもありません
そこにあなたの立つてゐた
そこにあなたの笑ってゐた
昨日はどこにもありません

2008.3.3 節句の日

 
 太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ 

 次郎をを眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ

説明:この歌は、山本憲吉に」よれば、蕪村晩年の水墨画、「夜色楼台、雪下家ニフル」から想いつかれて、換骨奪胎、このような詩が生まれたということだ。(「読書のすすめ 第3集」岩波書店)より。

2009.10.25

 故郷 

 蝶のやうな私の故郷!……。蝶はくつかまがきを越え、午後のまちかど街角に海を見る……。私は壁に海を聴く……。私は本を閉ぢる。私は壁にもたれる。隣りの部屋で二時が打つ。「海、遠い海よ! と私は紙にしたためる。――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ仏蘭西人フランスの言葉では、あなたの中に海がある。

私見:私の母の名は梅野。梅の中に母がいる。

2010.9.5


坂村 真民(1909〜)


1、七字のうた

 よわねを はくな
 くよくよ するな
 なきごと いうな
 いいけ  いうな
 なきごと いうな
 ふへいを いうな

2、かなしみは

 かなしみは
 わたしを強くする根
 かなしみは<
 わたしを支えている幹
 かなしみは
 わたしを美しくする花
 かなしみは
 いつもたたえていなくてはならない
 かなしみは
 いつも噛みしめていなくてはならない

3、ひとりひそかに

 深海の真珠のように
 ひとりひそかに
 じぶんをつくってゆこう
  四十年
お酒を買ってきましょうか
 いや今日は寒い
 明日は暖かくなるだろう
 きょうはどんな日か
 知っていられますか
 三月二十七日
 どんな日かな
 もう四十になります
 そう言われて
 はっと気づいた
 そうか結婚記念日か
 じゃわたしが買いにゆこう
そう言って
 川向こうの酒屋へ行った
 お互い入院するうな
 病気もせずに過ごしてきた
 四十年をふりかえり
 二人で酒をくみかわした
 遠いようでもあり
 短いようでもあり
 また二人のふりだしにもどった
 わたしたちである
 流転四十年
 貧乏四十年
 茫々四十年
 ついてきた妻に
 感謝す
 よわねをはくな
 くよくよするな
 なきごとをいうな
 うしろをふりむくな
 ひとつをねがい
 ひとつをしあげ
 はなをさかせよ
 よいみをむすべく
 すずめはすずめ
 やなぎはやなぎ
 まつにまつかぜ
 ばらにはばらのか


柴田トヨ

柴田トヨさんの初詩集『くじけないで』
      
柴田トヨ
 平成25年9月14日、自分のホームページを読み返していました。柴田トヨさんについて2010.08.17に転写記事に再会しました。あらためて、高齢者の生き方として、感性豊かな人だと感動いたしました。転写前後は看病に追われ、今日にいたっていた。

 さっそく、Googleで調べると、多くの記事が掲載されており参考:1を追加しました。
 できれば彼女の詩集を丁寧に読みたいとの意欲を掻き立てられています。


 「みずみずしい肌」は文字通り水分量が多いらしい。弾力が失(う)せるのは水分が減るからという。専門家によれば赤ちゃんの皮膚の細胞は8割が水だが、高齢の女性だと5割ほどになるのだという。

▼齢(よわい)を重ねれば、外見の老化は仕方あるまい。しかし精神の方はどうだろう。評判になっている99歳、宇都宮市に住む柴田トヨさんの初詩集『くじけないで』(飛鳥新社)を読んでみた。柔らかい言葉から滴(したた)るみずみずしさに、心が軽くなる。

〈私ね 人から/やさしさを貰(もら)ったら/心に貯金をしておくの/さびしくなった時は/それを引き出して/元気になる/あなたも 今から/積んでおきなさい/年金より/いいわよ〉。「貯金」という詩の全文である。

▼90歳を過ぎて詩を作り出し、産経新聞などに投稿してきた。詩はおおらかでユーモアがあり泣かせもする。聞けばお独り住まいという。週末に息子さんが訪ねてくる。訪問医やヘルパーさんにも支えられて、詩心をふくらませる日々だそうだ。

▼白寿の詩人を敬いつつ、世間を見やれば、お年寄りの孤立が進む。今年の高齢社会白書によれば、独り暮らしの3割以上は会話がないのが日常的になっているという。孤独にさいなまれれば心は乾き、ひび割れてしまう。

〈私ね 死にたいって/思ったことが/何度もあったの/でも 詩を作り始めて/多くの人に励まされ/今はもう/泣きごとは言わない〉。柴田さんのみずみずしさの秘密は、たぶん「多くの人に励まされ」にある。絆(きずな)や支え合いの大切さを、それは教えてくれている。

2010年7月16日(金)付の朝日新聞:天声人語より。

柴田トヨさんの初詩集『くじけないで』(99歳)


毎日新聞 2010年7月30日

▼柴田さんは宇都宮市在住で、18年前に夫に先立たれた。近くに住む息子夫婦やヘルパーの手を借り、独り暮らしをしている。読書、映画鑑賞、日本舞踊と多彩な趣味があり、息子のすすめで90歳を過ぎてから詩作をはじめ、新聞投稿をするようになった。昨年10月に初詩集「くじけないで」を自費出版し、今年3月に再出版。「詩集は3000部売れれば上出来」といわれるなか、43万部発行のベストセラーになった。

「私をおばあちゃんと呼ばないで」「九十八歳でも恋はするのよ 夢だってみるの」「九十七の今も おつくりをしている 誰かにほめられたくて」。紡ぎ出す詩は、みずみずしさや若々しさに満ちあふれている。出版社には高齢の女性から「独居でも心豊かな生き方に勇気づけられた」などの感想が寄せられているという。いまも月に1、2作を新聞投稿し、100歳になる来年に向けて次作の出版を目指しているという。「くじけないで」は韓国での出版も検討され、99歳の詩人は世界に羽ばたこうとしている。


  産経新聞 2010.3.28

くじけないで

 眼をさました詩の天使

 すばらしい詩集です。今まで詩に興味のなかったひともこの柴田トヨさんの「くじけないで」はぜひ読んでみてください。人生いつだってこれから、何をはじめるにもおそ過ぎるということはないと元気がでてきます。

▼92歳から詩を書きはじめて、100歳近くなった現在までの詩を読んでいくと、詩の質が進歩していることにも感動します。

 生きてるということは本当にすばらしいとうれしくなる。

「私が詩を書くきっかけは倅のすすめでした。腰を痛めて趣味の日本舞踊が踊れなくなり、気落ちしていた私をなぐさめるためでした」

と、あとがきにありますが、それが天の声で、トヨさんの心の中でねむっていた詩の天使が眼をさまして、人生の晩年に歌いだしたのだと思います。少しも枯れていない少女のような愛らしい声で。

▼詩はおもいついた時にノートに鉛筆で書き朗読しながら何度も書きなおして完成するので、1作品に1週間以上の時間がかかるそうですが、これは正しい詩のつくりかただと思います。

 全部の詩がなめらかで読みやすい。耳にやさしくひびきます。

 読んでいてひとりでにメロディが生まれて思わず歌ってしまった詩もありました。

 ぼくは詩の楽しさはこういうところにもあると思っています。

▼読んでもなんのことやらよく解らず、相当な知識がないと理解できない難解な詩も、それはそれでそんな詩を愛するひとたちにはいいのだと理解していますが、誰でもがわかる詩で、イージーリスニングであるほうが、むしろぼくは好きです。

私見:「詩」には、「論理」を超えたものがありますね。大自然の摂理が花開く時なのかも知れませんね。


                  

参考;1

 1911年(明治44年)栃木県栃木市生まれ。一人息子の勧めで書きためた詩を2009年(平成21年)10月に自費出版した。その後飛鳥新社が魅力を感じ、内容を追加、装丁を変更し再出版。4万部を記録する。詩作は90歳代になってから始めた。

 産経新聞の投稿欄「朝の詩」の常連で、新川和江に高く評価される。シャンソン歌手の久保東亜子が詩に曲を付けたことがきっかけでNHKラジオ第1放送「ラジオ深夜便」に出演。「多くの人たちの愛情に支えられて今の自分がある」と述べている。希望を失っていた柴田が今では読者に希望を与えている。自身の作品を世界の人々にも読んでほしいとのこと。

 『別れの一本杉』で知られる船村徹(作曲家)と高野公男(作詞家)の作品に感銘を受けた。歌人の植村恒子と交流がある。栃木市の幸来橋は思い出の場所だという。

 2010年(平成22年)12月31日(午前8:30〜9:15)、ヒューマンドキュメンタリー「99歳の詩人 心を救う言葉」(NHKテレビ、ナレーション:中谷美紀)が放映され、著者とその詩が多くの人々を励ましている姿を伝えた。

 2011年(平成23年)9月、満100歳を迎えたことを記念して、第2詩集『百歳』が出版された。同年10月10日(午後6:10〜45)、NHK総合で「“不幸の津波に負けないで”〜100歳の詩人 柴田トヨ〜」(ナレーション:若尾文子)が放映。著者の綴った詩を心の支えに、東日本大震災を乗り越え強く生きようとしている被災者たちの姿を中心に描いた。

 2012年(平成24年)8月の時点で、詩集『くじけないで』が160万部を記録。

 2013年(平成25年)1月20日午前0時50分、老衰により宇都宮市内で死去。101歳没。


相田 みつを(1924〜1991年)詩人・書家

      

 父と母で二人 父と母の両親で四人 そのまた両親で八人

 こうしてかぞえてゆくと 

 十代前で千二十四人 二十代前ではなんと百万人を越すんです

 過去無量のいのちのバトンを受けついで

 いまここに自分の番を生きている

 それがあなたのいのちです それがわたしのいのちです

2011.02.04


清水かつら(1898〜1951):作詩  弘田龍太郎

▼叱られて(1920年)

      

叱られて    叱られて
あの子は町までお使いに   
この子は坊やをねんねしな   
夕べさみしい村はずれ   
コンときつねがなきゃせぬか


叱られて    叱られて   
口には出さねど眼になみだ   
二人のお里はあの山を    
越えてあなたの花のむら    
ほんに花見はいつのこと

*子どもの頃の、あの人、この人を思い出させられる懐かしい歌です。

2008.6.12


茨木のり子(1926〜2006年)

自分の感受性くらい(花神社)

      
hosino.jpg
自分の感受性くらい

 ぱさぱさに乾いてゆく心を

 ひとのせにするな

 みずから水やりを怠っておいて


 気難しくなってきたのを

 友人のせいにするな

 しなやかさを失ったのはどちらなのか


 苛立つのを

 近親のせにはするな

 なにもかも下手だったのはわたくし


 初心消えかかるのを

 暮しのせいにするな

 そもそもが ひよわな志にすぎなかった


 駄目なことの一切を

 時代のせいにはするな

 わずかに光る尊厳の放棄


 自分の感受性くらい

 自分で守れ

 ばかものよ 

* 反省させられるうたです。


廃屋

人が

棲まなくなると

家は

たちまち蚕食される

何者かの手のよって

待ってました! とばかりに

つるばらは伸び放題

樹々はふてくされて いやらしく繁茂

ふしぎなことに柱さえ はや投げの表情だ

頑丈そうにみえた木戸 ひきちぎられ

あっというまに草ぼうぼう 温気にむれ

魑魅魍魎をひきつれて

何者かの手荒く占拠する気配

戸だえなく

吹きさらしの

囲炉裏の在りかのみ それと知られる

山中の廃墟

ゆくりなく ゆきあたり 寒気だつ

波の底にかつての関所跡を見てしまったときのように

人が

家に

棲む

それは絶えず何者かと

果敢の闘っていることかもしれぬ


▼わたしが一番きれいだったとき

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達は沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはお洒落のきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈物を捧げてくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残して皆って行った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの國は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるのものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった     


わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった 
だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
                 ね

*彼女は1926年生まれ2006年2月19日に逝去されている。戦時中の勤労動員時代をすごしている。
 私も同じ世代である、海軍工廠に動員されていたとき、広島から廣島女学院(旧制)の生徒も動員されていた。


長崎源之助児童文学作家(1924〜)

      

 これ
 ぼくのかいた絵だよ
 お母さんの顔だよ
 ずいぶん目が大きいなあつて
 うん、この目でいつも
 ぼくのすること
 じっと見ていてくれるんだ
 耳も大きすぎるって
 そうかな
 この耳、ぼくのいうこと
 なんでも聞いてくれるんだよ
 この鼻、ぼくににてるだろう
 それから口も
 ぼく、よく人にいわれるんだよ
 あなたは、おかあさんそっくりねって
 ぼく、心もにるといいんだがなあって
 いつも思ってるだ
 ぼくは、おかあさんがいちばんすきだ
 この絵、いっしょうけんめいにかいたんだよ

(長崎源之助『おかあさんの顔』偕成者社刊)
*松原泰道『父母恩重経を読む』(佼成出版社)より。

2008.06.01


田辺聖子(1928〜)

      

▼『ひねくれ一茶』

 手習いは坂に車を押す如く油断すればあとに戻るぞ


生きる
谷川俊太郎(1931〜)

      

生きているということ

 いま生きているということ
 それはのどがかわくということ
 木漏れ日がまぶしいということ
 ふっと或るメロディを思い出すということ
 くしゃみをすること
 あなたと手をつなぐこと

生きているということ

 いま生きているということ
 それはミニスカート
 それはプラネタリウム
 それはヨハン・シュトラウス
 それはピカソ
 それはアルプス
 すべての美しいものに出会うということ
 そして  かくされた悪を注意深くこばむこと

生きているということ

 いま生きているということ
 泣けるということ
 笑えるということ
 怒れるということ
 自由ということ

生きているということ

 いま生きているということ
 いま遠くで犬が吠えるということ
 いま地球が廻っているということ
 いまどこかで産声があがるということ
 いまどこかで兵士が傷つくということ
 いまぶらんこがゆれているということ
 いまいまがすぎてゆくこと

生きているということ

 いま生きてるということ
 鳥ははばたくということ
 海はとどろくということ
 かたつむりははうということ
 人は愛するということ
 あなたの手のぬくみ
 いのちということ

ジュニアポエム双書14「地球へのピクニック」より、企画・編集 銀の鈴社 発行 教育出版センター

平成二十五年十一月十六日。


『若きいのちの日記』

 東井義雄著『拝まれない者もおがまれているを読まれてから、この詩を静かにお読みください。

大島みち子(1942〜1963年)
兵庫県西脇市生まれ

病院の外に健康な日を三日ください

      

一日目

 わたしはとんで故郷に帰りましょう。

そして、
おじいちゃんの肩をたたいてあげて、
母と台所に立ちましょう。
父に熱カンを一本つけて、
おいしいサラダをつくって、
妹たちとたのしい食卓を囲みましょう。


二日目

 わたしはとんであなたのところへいきたい

いっしょに遊びたいなんていいません
お部屋のお掃除してあげて、
ワイシャツにアイロンかけてあげて、
おいしいお料理をつくりあげたいの
そのかわり、
お別れのとき
やさしくキスしてね


三日目

 わたしは

ひとりぼっちで思い出と遊びましょう。
そして、
静かに一日がすんだら、
「三日間の健康ありがとう」と 
笑って、永遠の眠りにつきましょう。
      


星野富弘(1946〜)

      
hosino.jpg
 むらがって咲いていると
 たのしそうで
 ひとつひとつの花は
 淋しい顔をしている
 おまえも
 人間に似てるな

*中学校体育教師 頚髄損傷


福原武彦

      

 このごろのお父さんは
 とうめい人間
 ぜんぜん見えない
 とうめい人間
 会社で
 とうめい人間目グスリをさす
 そうすると体が消えて見えなくなる
 だいたい十時間ぐらいもつ
 はやく
 目グスリのききめが
 きれてほしい
 お父さんのすがたが見たい

*:日経<春秋>


『折々のうた』


早春賦そうしゅんふ吉村一富作詞、中野章作曲

      

一 春は名のみ風の寒さや。
   谷の鶯 歌は思えど
  時にあたずと 声も立てず。
   時にあらずと 声も立てず。

二 氷け去り葦はつのぐむ。
   さては時ぞと 思うあやにく
  今日もきのうも 雪の空。
   今日もきのうも 雪の空。

三 春と聞かねば知らでありしを。
   聞けばかるる 胸の思を
  いかにせよとの このごろか。
   いかにせよとの この頃か

        ――『新作唱歌(三)』大2.2

『日本唱歌集』(岩波文庫)より

2010.02.04