Domenico Scarlatti
The complete keyboard sonatas
Scott Ross

An Erato/Radio France coproduction
A Radio france recording





Scarlatti全集付録のブックレットより

An interview with Scott Ross (1951-1989)
スコット・ロスへのインタビュー


 スコット・ロスは命ある限り音楽を奏でた。自由と規律を混ぜ合わせて。そして彼だけのもつ特別な"衝動"を恒に伴いながら。

 スコット・ロスはチェンバロにおいて世界に冠たる演奏家のひとりであり、35歳でこのインタビューを受けた時点で、既に伝説的存在となっていた。聴衆はこの好感の持てる、しかしやや落ち着きの無いアメリカ人に魅了されてきた。彼はなんとかして正真正銘のフランス人になろうと努めたが、結局どのように扱えばよいのか決して分からない存在である。スコット・ロスの数多い崇拝者たちは世界の至る所に散らばっており、ホノルル、モントリオール、パリ、ボローニャといった範囲にも及ぶ。演奏会場では、彼は日常生活とまったく同じ服装であった。冬には狩猟服、夏にはビーチウェア、残りの季節にはバイク野郎の格好であった。しかし彼は、公開演奏のために単にちょっと変わったものを着用したというどころではなく、ハープシコードにつきまとう応接間の印象から埃を取り払ってしまったのだ。スコット・ロスは、彼自身の趣向に対する確固たる自信、ほとんど悪魔的な超絶技巧、眩しいばかりの音楽解釈によって、この楽器に新しい命を吹き込んだのである。彼の内面には、炎があり、赤く、そして瞠目すべきものがあった。スコット・ロスは多くの工場の溶鉱炉が燃え盛るピッツバーグに生まれている。彼は火山を訪ね歩くのを好んだ。彼の名前さえもすべてを示している。「スカルラッティ」と同様に、「ロス」は深紅を意味するのだ。情熱の炎、彼の演奏を特徴としてよく知られた「衝撃」の秘密はここにある。この点について、そして他の多くの内容について、彼は決して公衆に語るという危険を冒そうとしなかったが、1986 年のこのインタビューでついにスコット・ロスは口を開いた。


 私の理解する限りでは、スカルラッティの鍵盤楽器曲全集の録音に際してはあなたの人生の一年以上を費やしていますね。

 実際には、すべてはびっくりするくらい短い間に行われたのさ。エラートとラジオ・フランスの働きかけで、僕がこのマラソンへの出場を提案されたとき、555 曲のソナタのほとんどは単純に全然知らなかったよ。僕は気違いのように勉強しなければならなかった。僕は録音を早く済ませられるかどうか心配だった。単にスカルラッティの 300 周年やラジオ・フランスの放送番組に間に合わせなければならなかったというだけではなくて、スカルラッティの魂の中に入るためだよ。全部のソナタがあっという間に書かれたというのはたぶん間違いない。最初の 35 曲を除けば、どれひとつ出版するつもりがなかったんだ。これらの曲は推敲を受けていないだろうから、我々が持っているのは第一稿のスケッチに過ぎないんだ。まったく、スカルラッティという人は、なんというとんでもない才能に恵まれていたんだろうか!もし僕らがクープランやラモーの作品の第一稿をなんとかしなけりゃならなかったとすれば、見るにも耐えないばかりかとんでもないことになるという確信があるね。

 あなたは既にラモーや、クープランの鍵盤楽器作品全集の録音を済ませていましたね。しかしスカルラッティに関しては、誰も以前に成し遂げた人がいないことに対して、何らかの緊張感のようなものがあったのではないでしょうか?

 このソナタの完全な全集は僕より以前にはまったく存在しなかった。一人の解釈家によるものに限らず、だよ。これは馬鹿げてたよ!ここに著名でよく認められた作曲家がいて、ただちょっと参考程度に聴こうと思っても全曲録音が存在しなかったわけだから。一般の意見は、彼のソナタはまったく演奏に値しないというものだった。僕は正反対だと感じた。そして僕は発見また発見へと進んだんだ。

 なぜ複数のチェンバロを使用したのですか?

 僕らはナポリ出身の若者としてのスカルラッティに敬意を表してイタリア製の楽器を一台選んだ。次に、三台のフランス製チェンバロを選んだ。ブランシシェの手によるコピーだけどね。ひとつはアンソニー・シデイのもの、ひとつはウィリアム.ドウドによるもの、三台目はウィラード・マーティンのものだ。全部まったく違う音だったよ。この狙いは、単調さを避けるためさ。

 単調さ、というのは録音に費やした一年間を通じて、ある種の脅威のようなものだったんじゃないでしょうか?

 まったく違うさ。唯一の不快な瞬間てのは、すべてが終わった時だよ。最後のソナタを弾き終わった時は、それはもう身がよじれるような苦痛だったよ。録音の間一貫して、僕はある挑戦から次の挑戦へと挑み続けた。技術的な問題はあっという間に解決していった。それからここで言っておかなければならないのは、僕はたった一人で努力していた訳じゃないということさ。僕はすぐに録音技術者たちと親密になった。特にアラン・ドゥシュミン、は大半の録音を実際に行った人物で、アラン・ド・シャンブレは全体の責任者だった。この音楽の山の前に立ったとき、11 巻もあったわけだけども、それから 555 曲のソナタの最初の曲を録音した時に、ちょうど氷水で満ちた湖へ飛び込んでいくような感覚を覚えたと言わざるを得ない。でもそれから後は、終わりの無いクレッシェンドの中で生きていたようなものさ。技術的側面では、録音音質はどんどん向上していった。僕らは自分たちがやっていることをどんどんと向上させ続けたんだ。

 録音は年代順に行われたのでしょうか?

 そうです、最初の30曲を除いてね。思うに、それがたったひとつのやり方で、他は考えられなかったよ。

 あなたは完全主義者であり、1 デシベル以下の音の変化を聴き分けることができると言っている人たちがいますが。

 そうですね、たしかに僕は自分の専門に関しては細部まで正確だし、とても要求が厳しいんだ。アラン・ド・シャンブレもまた完璧主義者だったけど、僕らはただ単に録音の水準を可能な限り最高にしなければならなかったんだよ。結局、この仕事はある意味お手本のようなものになるんじゃないかな。僕は別に自慢しようと言うのではない。ただ事実です。他のレコード会社が同じものをぶつけてくるまでには随分かかるだろうと思ってるよ。

 この録音から何を得られたらよいなと思いますか?批評家からの賛辞でしょうか?

 たぶん多少はね。少なくとも、僕は「一番」の称号を与えられたらよいなと思っている。しかしそれは結局、この仕事をするに当たっての薄っぺらな満足に過ぎない。かつてラモーやクープランの全集のときよりも、スカルラッティの演奏をなにより楽しむことができたからね。

 僕は今バッハの全集について考えてます。しかしスカルラッティに関する限り、ホロヴィッツの崇拝者は僕の演奏を嫌うだろうね。彼らが K.380 を聴くや否や、まず嫌われることは間違いない。同じことはワンダ・ランドフスカの支持者についても当てはまる。いいですか、ワンダ・ランドフスカの流派は当時としては興味深いものだった。40 年代には、誰も正統性について思い悩んだりしなかった。その後、人々は正統的な音色や演奏スタイルに接近したいと思うようになったが、偉大なチェンバロ奏者、例えばケネス・ギルバートも、また音楽学者になってしまったんだ。今日、私が音楽学的立場や正統性の追求をやめたのは、これは完全に意図的なものさ。レオンハルト自身が言っていることだけれど、「正統的と確信は両立しない」。

 それは素晴らしい警句ですね。しかしレオンハルトがそんなことを言ったというのは少々驚きですよね。

 そうだね。でもレオンハルトはそういったことには優れているよ。彼は決して自分の周りに伝説が築き上げられるのを許さないんだ。批評家達がレオンハルトの莫大な音楽学的知識を賞賛するときにだけ、彼はこういった警句と共に姿を現すのさ。でもあなたの言う通り。これは素晴らしい警句だ。レオンハルトが言ったというところが尚いい。僕にとってもこれはもちろん当てはまる言葉だよ。

 それではあなたは正統性を行動原理としている訳ではないということですね?

 ともかく、正統性というのは、どこで止めたらいいのか分かりゃしないんだから。クープランは言いました、ハープシコードを弾く時は、聴衆の方に向けて頭を少し傾け、体を少し回さなければならない、あまりはっきり見えないのも強引過ぎるのもダメだと。明らかに、僕は自分が演奏会を開く時にそんなことを考えようとはしないね。

 あなたの演奏はあなたの生き方に非常によく似ていると思います。すなわち自由と厳しい原理との狭間のように思えます。

 そうだろうね。疑いも無いが、それは僕の演奏スタイルの、それから僕が自分の演奏に与えようと努めている「衝動 pulsion」の理由でもある。衝動という言葉で僕が表したいのは、偶然の要素であり、一瞬の霊感だね。それから、僕は自分の人生の全てをハープシコードに捧げようと言うつもりは無いし、他の興味を持っているという事実も、衝動とどこか関係があるだろうね。

 あなたはそんなにたくさん他の興味をお持ちなのですか?

 たぶん多すぎるくらいだよ。ただし僕はこの全部とやっていくつもりだし、この中のどれかが他のものよりも大切になるようなことはない。すごく昔から親しんでいるものもあるよ。僕はずっと鉱物が好きだし、火山も、それから猫も好きだ。他のものはもうちょっと新しいね。ユリとコンピューターだ。偶然だけど、僕はこの2つを結びつけることができたんだよ。モンペリエの近くの自分の家で、僕が掛け合わせてきたすべてのユリの雑種をコンピューターに打ち込んだのさ。園芸家が好むような美しい変種を追求している訳じゃない。僕が求めているのは、ちょっと変わったやつだよ。僕はつねに普通でないものに興味があるんだ。

 あなたはピアノを愛していることについて随分沈黙を通してこられたようですが?

 その通り、というのも僕の生活を、いとも簡単にまるっきり違うものにしてしまいかねないのでね。僕はピアノについてももの凄い量の練習を積んだきたから、ドビュッシー、ショパン、ラヴェルを弾ける。こういった作曲家達には親近感を覚えるね、特にスカルラッティの後ではね。スカルラッティからドビュッシーへ移っても、同じ言語の中に居続けることになるんだ。かなりの部分で共通している。驚きがあるし、何かしら彼らの音楽には変わったところがある。

 これまでにチェンバロ奏者がピアニストになった前例はありますか?

 いやよく知らないよ。だけどフォルテピアノはかなりの人数のチェンバロ演奏家を惹き付けてしまったようだよ。僕にしたって、聴衆が望むので、モーツァルトの演奏会をフォルテピアノでやることがある。でも僕はあの楽器に夢中なわけではない。一方で、僕はピアノがすごく大好きなんだけど家にピアノを置くのを躊躇しているんだよ、他のもの一切をやめることになりかねないと思ってね。

 大勢の批評家達が失敗したピアニスト達がチェンバロに向かうのだ、と主張しています。あなたにとっては、これはまるっきり正反対でもあり、むしろ格別に興味がおありなのではないですか?とくにあなたの人並みはずれた技量に注目してみてどう思われますか。

 僕は自分の持つあらゆる能力をニース音楽院の先生だったユゲット・グレミー=ショーリアックのお蔭だと思っています。先生の方法は完璧に合理的だったし、信頼できる技術を僕に授けてくれました。これは彼女が僕にくれた一生ものの贈り物だよ。

 それにしても、あなたは何でもその両手で出来てしまいすね。あなたのご友人が言ってましたよ、「スコットは手で考えてるんだ」って。

 そうだねえ、僕は手を使った仕事に向いた才能を授かったとは言えそうだな。手作業の類は何でも好きなんだよ、編み物、縫い物、車や家具をいじったり、庭仕事、録音編集作業さえ好きだな。でも、チェンバロを演奏する際に一番大切なことはテクニックではない、趣味だよ。実際には技術が無くても弾けるような、本当に簡単なレパートリーが沢山ある。それでここが重要なんだけど、簡単な曲であればある程、演奏するに当たってはより優れた趣味が要求されるのさ。

 でも、スカルラッティのソナタについてはどうでしょう?あの中の曲には、恐ろしく難しい、トップスピードでの4オクターヴの両手の交差が出て来たりして、大変だと思うのですが。

 そうだね。ただ他にもっと初心者向けのスカルラッティのソナタもありますよ。

 あなたが超絶技巧を軽視しているというのはちょっとした矛盾のようですね。

 いやそうではない。チェンバロで音を出すのはあまりにも自動的なので、簡単な小品の場合は趣味だけが問題になるんだよ。同じことをピアノや、とくにヴァイオリンとか声楽について言うことはできない。こういった楽器の場合、よい音色を作り出すための問題が山のようにあるからね。

 あなたはピッツバーグではピアノの神童でしたよね。何がきっかけでチェンバロに向かったのでしょうか。

 神童という言い方は出来ないと思うな。たしかに僕は5歳のときに初めてピアノリサイタルを開いたけれど、とっても規模が小さいものだった。10歳くらいの頃、初めてチェンバロの音を聴いたね。レコードだった。僕はそのレコードが好きで、他の手遊びの大好きな子供と同じように、自分のピアノのハンマーの上に押しピンを引っ付けるという古風な遊びをやったものさ(訳註:チェンバロのような音になる)。でもそれ以外にももっと僕に影響を与えたものもあった。僕が本当に弾くのが好きだった音楽は、バッハであり、クレメンティであり、ハイドンにモーツァルトと、すべてチェンバロにかなり近い音楽だった。

 父が亡くなったとき僕は9歳だった。3年後に、母はフランスに引っ越して、僕がオルガンを弾くように薦めてくれました。14歳の時に、パリのノートルダム大聖堂でコシュルーのためにオルガンを演奏したんだよ。そしたらコシュルーがニースの音楽院に行けばいいと薦めてくれた。ニースでは本当に頑張って練習したなあ。一日10時間、オルガンに向かい、でもほとんどはチェンバロだったかな。グレミー=ショーリアック夫人は、チェンバロへの情熱を僕に伝えてくれたし、僕はめきめきと上達した。当時の僕の生活っていうのは、音楽と海水浴に二分されてたねえ。よく友達と二人で、音楽院に夜中まで閉じこもって、フーガの技法をぶっ通しで勉強して、二人で一台のチェンバロに向かって弾いてましたね、夜明け頃になると警備員が僕らを放り出しに来るんだよ。

 1970年に僕は、ヴェイロン=ラクロワについて習うためにパリ音楽院に行ったんです。この年は本当に最悪な年だった。ありとあらゆる種類のことが起こったね。母が亡くなったのも同じ年でしたね。それから、僕はブリュージュのコンクールに向けて準備を始めた。僕は独ぼっちで、自尊心の塊だったし、焦ってました。もしも一等賞が取れなかったなら、と僕は自分に誓ったものさ、全部やめて庭師にでもなろうと。でも結局、僕は一等賞を取ることができたというわけさ。

 でも私は、あなたはほとんど練習をしないことで有名だと伺いましたが。

 僕の演奏家としてのキャリアの初期の頃には、僕はよく、自分は全然練習しないということを人々に信じ込ませようとしていたんだよ。でもこれは単なる見せかけでね。単に間違っていて、実際はまったくそんなことはなかった。本当のことを言うなら、僕はかつて夜中に、ほとんど秘密のように練習していたんだよ。僕は日中は働いて生活費を稼がなければならなかった。両親が亡くなっていたからね。

 あなたはケベックでとても若くして教授になりましたよね?

 多分、若過ぎたんだろうなあ。ただ僕は14歳で学校を出たので、ケベックの有名なラヴァル大学でれっきとした教授になって、自分の自尊心を守ろうとしてたんだな。ケベックには10年間いましたよ。

 あなたはどんな先生でしたか?指導方針はきわめて伝統的なものだったのでしょうか?

 僕はどんなことも見逃さなかったね。そういう意味では、僕は古くさい学校の先生に属していたのかな。解釈者が学ぶための唯一の方法は模倣だ、と思ってるんだよ。生徒がまるで自由を許されなかった、明らかに自分の個性を抑え込まれたと言って抗議して来る時は本当に腹が立ってね。僕は生徒達に言ったよ、「君の先生のように弾いてみなさい、もし君がなんとか真似できるようになったら、そのとき君はすでに悪くないところまで達しているんだ」てね。それから「さらに言えば、僕は成功している、だから君は僕みたいに弾くべきだ、君も成功するだろう」とも言った。

 それはつまり誇大妄想ですか?それとも厳しい教義のためには感情は捨て置かねばならないということでしょうか?

 どっちも少しずつ正しい。ただ、僕は生徒については大変な苦痛を味わっていたんだ。生徒たちは僕のところで見習いを終えた後で、自分たちの個性を表現し始めることができる。ひとつ僕がこだわっていることがある。いったん僕が生徒をパスさせたら、僕が彼らに与えることができるものを与えた後は、生徒は僕の束縛から完全に逃げなければならない。僕は一生続くような師弟関係を望まない。

 スカルラッティの音楽に対する熱狂のあまり、あなたはスカルラッティ様式でソナタを作曲されたのだそうですね。録音の中にあなたの署名入りの556番目のソナタは含まれているのでしょうか?

 スカルラッティの中に入り込んで、正確に彼がどうやって作曲したのかを理解しようとしたんだ。ラジオ・フランスは一日に2, 3曲のソナタを放送するという気の長い番組の中で、このソナタを実際に41日に放送したよ(訳注: もちろんエイプリルフール)。しかし、この種類の冗談は、録音に含めるにはナンセンスさ。

 もし、555曲の中からどれか1曲だけを選ばなければならないとしたら、一体どれでしょう?

 僕は208番を選ぶね。最も美しい作品だよ。そして最もゆったりとしていて、最も幸福なものだ。陽の光のまばゆいきらめきを内側にはらんだ1曲だ。

Denise Fasquelle,
Translation: John Sidgwick,
Japanese Translation: KN.




この録音が最初に発売されてから2年も経たない1989年6月13日にスコット・ロスは他界しました。 以下の死亡記事は1989年6月17日のタイムズに掲載されました。

Scott Ross: Master interpreter of the harpsichord repertoires
スコット・ロス – ハープシコード作品解釈における大家

 スコット・ロスは、アメリカ生まれのチェンバロ奏者であり、ときにはオルガン奏者、あるいはピアノ奏者でもあったが、エイズ関連疾病によりフランス、モンペリエのアサス村の自宅で、他界した。38歳であった。

 スコット・ロスはピッツバーグに生まれ、14歳でフランスに住むようになり、ニースとパリの音楽院で研鑽を積んだ。1971年にブリュージュの国際コンクールで誰もが望む勝利を収めたときに初めて世間の注目を集めたが、このとき審査員の水準をそのように定めてしまったために、1986年に至るまで、同等の賞を出すことは不可能であると見なされていた。この成功は、1970年代のバロック音楽への情熱の潮流と相まって、ロスは、主にフランス国内に限られていたとはいえ、彼の解釈と技術における卓越した才能に見合うだけの経歴を築き上げることを可能にした。

 彼のその当時の姿は、ぼさぼさに乱れたモップのような髪、ヒッピーのファッション、小さな丸眼鏡といったものだったが、グスタフ・レオンハルト的な見栄っ張りたちの地味が似合うハープシコード奏者の姿などよりも、ジョン・レノンの姿にずっと近いものだった。

 多くの者が、ロスのこのような服装を見て彼の能力を疑ったかもしれないが、実際の彼の演奏は、学術的な裏付け(ケネス・ギルバートと共に編集したスカルラッティとダングルベールの楽譜にもその証拠を認めることができる)、潔癖さ、優雅さ、そして未だに広く嘲りを受ける楽器にとっては特に重要であるが、豊かな音の響きの印象によって常に特徴づけられていた。

 ロスのレパートリーは広く、幸運にも彼は録音として重要な遺産を我々に遺してくれた。彼のラモーとフランソワ・クープランのチェンバロ音楽の録音は、グランプリ・デュ・ディスクを受賞した。1985年には、すでに自身の健康状態に気づいていながら、ロスは、エラート・レーベルとラジオ・フランスとの共同制作による、ドメニコ・スカルラッティの555曲の全ソナタの録音に着手したが、この偉業は永遠に録音音楽の歴史における到達点として屹立することであろう。

 この計画の成就を熱望することは明らかに彼の健康状態によい影響を及ぼし、ロスはこの録音が達成した成功に非常な幸福を覚えた。主にこの成功によって、ロスは、フランス批評家連合によって、1988年の「今年の音楽家」に選出されたが、それでも彼はこの栄誉に安心することを拒んだ。

 演奏の世界の外側では、ケベックの大学(1973年から1985年まで)と、ヴェニスで開催する、自分の定期的な夏の勉強会の両方でロスは教育を楽しんだ。彼はまたこの鍵盤楽器に適用できるものより遥かに拡張したところまで楽器製作技術の知識を洗練させた。彼は社交的だが気取らない人柄の人物であり、数多くの献身的な友人に恵まれていた。アサスの自宅では、彼はとりわけユリの花の収集を愛した。ロスはその花たちに囲まれながらの死を望んだであろう。それはごく自然なことであった。

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