
ケネス・ギルバート氏インタビュー −ロスについて語る−
インタビュアー;ケネス・ギルバートさん、あなたはどのようにしてスコット・ロスと出会ったのでしょうか?
ケネス・ギルバート;パリ高等音楽院の中、ユベール・ベダールの工房でのことでしたね。スコットは 17 歳だったと思いますが、ひょっとすると 16 歳だったかもしれません。彼が当時パリ高等音楽院で学んでいたのか、それともまだニースで、ユゲット・グレミー=ショーリアックの元にいたのかは憶えていません。スコットを訓練したのはまさに彼女だったということはよく憶えていますし、グレミー=ショーリアック女史を称えることこそが唯一正当なんだと思います。スコットはよく私にこう言っていました。「僕が自分のテクニックを身につけることができたのは、彼女のお陰なんだ。つまり、どうやって弾くのかってことを教えてくれたのは彼女なんだ。」
マドリッド通りにある工房に、彼はよくやって来ました。彼はそこで集中を高めて、演奏を続けるのですが、奇妙なことにその場の誰もがすぐに静寂を感じたのです。というのはつまり、工房における作業はすべてそのまま引き続いて行なわれているのですが、誰もが突如として、注意力のみなぎった、ある種の静寂が生まれたのを実感した、ということなんです。興味深いと思いませんか?これに気が付いたのは私が最初なんです。同じように私が気付いたのは、スコットは背があまり高くないのですが、ふつうの手の代わりに、私には獣の肢としか表現できないようなしろものを持っていたことです。1 メートル 68 や 69 しかない人物の割には、彼は巨大な手をしていました。そして、彼がその獣の肢を鍵盤の上に置いてしまえば、それが動くところを見ることはほとんどありません。彼の指先は非常に動きが少ないままなのですが、彼が生み出す音は非常に並外れていました。
それ以降は、私の記憶の中ですべてがやや漠然としています。当時、彼のことはよく知りませんでしたが、1968 年にスコットはブルージュの国際ハープシコード・コンクールに参加しました。これははっきり憶えていますが、彼は 17 歳でした。彼はとても優れた演奏をして、結局、 17 歳にしてセミ・ファイナルを通過したんです!
ブルージュにおいては、挑戦者たちはいろいろな審査員に話しかけて忠告をもらってよいことになっており、それが慣例になっていましたから、終了後に彼は私のところに会いに来ました。そして、彼が…がっかりしているのを見たのです。実際、彼は一等賞を取りたかったのでしょう。それは、あるいはやや…未熟であるようにも思われましたが、同時に、興味をひく態度でもありました。私はすぐさま、そこには何あるなということ、彼は野心にあふれた闘士なんだということ、そして彼は最高位にならない限り決して満足しないであろうということを理解しました。それで彼にこう言いました。「ようく聞きなさい、君は大変優れた演奏をしたよ、しかしそれでも君は…こういうことがあり、ああいうことがあって、そして、いいかい、…つまりこのコンクールはとても難しいんだよ…三年の間は姿を消していなさい、そして君がこのコンクールに舞い戻る時…三年後に君に会ってみたいんだ、君が優勝する決心を固めているところを見たいんだよ。」
それからスコットは姿を消したのですが、三年の間私が再び彼を見ることはありませんでした。彼がどうしていたのかは知りません。パリ高等音楽院にいたのだと思いますが、ともかくその頃彼は大きな関心を集めてはいなかったのです。少なくとも…ある種の関心は引いていたのですけど、それは悪い理由からです。というのは、彼は既にとても反抗的で、実にまったく独特であり、多くの人々を、そう、ある種の人々を困惑させていたからなのです。分かっているのは、その後記憶が跳躍するということだけですが、1971 年に私は再びブルージュの審査員になっていました。再び彼はそこに現われ、今度は崇高な演奏をしたのです。蘇ってくるようですが、彼はジーンズをはいていて肩まで届くような長髪でした。彼は舞台に現われるやいなや、ホールに驚嘆のさざ波を巻き起こしました。これ以外に言いようがありませんね。なぜなら、それはコンクールだったからです。そう、時代は私達の頃とは変わっていました。つまり、何処を見ても何かしら格式ばった空気があって、挑戦者たちはコンクールの為に最善となるような日曜を気取る、そんな時代です。彼はジーンズをはいて、まったくの普段着のまま、特有の歩き方でやって来ました。彼は暗譜で演奏しましたが、これは当時ハープシコードの世界ではかなり異例の行為でした。一般の通説では、暗譜で演奏するように、とは主張されていなかったのです。ですから、彼は登場するとすぐに大変強い印象を与えました。バッハの小品集のひとつ、平均律クラヴィア曲集第 2 巻からの、嬰へ長調の『前奏曲とフーガ』をスコットが演奏し終えたときのこと、私の同僚で審査員の一人が私のほうに身を乗り出して、「彼はあの曲をまるで自分が作曲したみたいに弾きますね。」と言ったのを思い出します。
注目すべきことですが、それから後、一等賞を得た 1971 年から 1976 年までの間、彼はあまりよく知られていませんでした。彼は STIL レーベルで最初の録音を行ないましたが、私はフランスの音楽生活におけるもうひとりの重要人物、アラン・ヴィランのことを称えねばなりません。彼はスコットに最初の録音の機会を与え、その才能を見抜いた最初の人物なのですが、このことは声を大にしてはっきりと述べておくべきでしょう。スコット・ロスと私自身との間に、無意識的なものですが、ある種の距離が生じたのはこの時からのことでした。私は大変よいことだったと思いますが。というのは、彼の経歴の開始点にあって私があまり深く関わり過ぎるのは、きっと正しいことではなかったでしょうから。そういった私の存在は扱いにくかったでしょうし、ある種怖じ気づいてしまうようなことが起こったかもしれません。私はいろいろなことをちょうどなし終えたばかりで、また依然として多くのことを続けている人物であり、また私は…私は何だというのでしょう?年齢差はちょうど 20 歳でした。彼があのように距離を保ったのは良いことでしたし、私は彼にそうするように仕向けはしましたが、もちろん私たちがそのことについて直接話し合ったことはありません。それは極めて自然に引き起こされたものだったのです。ある晴れた日に、彼がラモー全集の録音を行なっていることを耳にしました。私はそれを聞いてひどく仰天したと言わねばなりません。互いに相談していたわけでもないのですが、まったく偶然にも、私自身もラモー全集に取りかかっているところだったんですよ!
それから先のことは、誰もがご存じの通りです…それはもう歴史なんです!スコット・ロスの経歴については、今日の私の話よりももっと上手に語ることもできるだろうと思いますが、彼がまだ…スコット・ロスになる前の時期の、わずかばかりの思い出を皆さんに聞いて頂くというのも良いアイデアだろうと思ったのです。彼はまだ、「彼らしいもの」になってはいなかったのです。
インタビュアー;彼の人格はなにか逆説に満ちており、幾分挑発的なものでした。そういったものは彼の演奏の中に感じることができますか?あるいは、それとはちょうど正反対に、彼の演奏は古典的なものだったのでしょうか?
ケネス・ギルバート;ああ!あなたのおっしゃった質問について、私にはとてもはっきりした考えがあるんです。スコットはいつも異端者であったわけではありませんし、彼の世間的なイメージがそうだと信じこませているとおり、常に逆説的な生物であったのでもありません。信じるかどうかは別として、彼はかつて行儀のよい少年だったのです。その当時の彼のことは知りませんが、そういう話を聞かされたことがあります。つまり、そう、彼の内部である変革が起こったのです。分かりませんが、彼がニースの音楽院で学んでいる数年間の間のことでしょう。ああ、あの頃は、そういった例が珍しくはなかった!それがビート・ジェネレーションの時代であったことを思い出して下さい。そしてその後…少し後にはヒッピーたちが現われましたが、彼はそういったものの中に完全に我が身を投げ入れたのです。あれは多くの人々を打ちのめしたものですが、思うに、ある種の奇妙な魅力を有していたのでしょう。そしてここにある人物、明らかに真剣な音楽家でありながら、個人的な生活においては、いや彼の芸能生活においてさえも、いや、私は何を言っているんでしょう、芸能生活が一番で最も甚だしかったわけですが…ある種の浪費を発達させた人物、そして自分の話の中に逆説を持ち込むことに穏やかならぬ愛情を抱く人物がいたわけです。彼は、もう一人の著名な同時代人、遺憾ながらやはり故人となってしまったグレン・グールドと、その存在のあり方に共通するものを持っていました。インタビューや記事の中でのスコット・ロスの発言の端々に思い巡らす人は、グレン・グールドのことを少し想うのです。
結局、私が言いたいのは…そうそう、あなたの質問のおかげで答えのほうもうまくまとまってくるわけですけれど…スコット・ロスは、逆説を好むとはいえ、彼の音楽の中では決してその方向性をとることは無かったということです。彼はこれまでで最も古典的なハープシコーディストの一人でしたが、このことは、思うに、音楽家のみが充分に指摘し、真価を認めることができるのではないでしょうか。それは人が常に心の中で生み出しているが、ハープシコードに向かっているときにはすっかり忘れ去られてしまうようなものなのです。つまり絶対的に古典的なアプローチがあったわけで、彼自身は音楽の背後に隠れていました。彼は同年代の人間が驚くような作品に対して尊敬の念を抱いていました。もしそのように言ってもよいなら、彼は音楽をすべて畏敬していたのです。彼は自分の演奏する作品を、単に聴衆をあっと言わせたり、あるいは作曲家の前面に自分を押し出したりするためにだけに用いることが決してなかったように思われます。
マルティン・カウフマンによるインタビュー
French Musique 誌、1989 年 6 月 23 日
英訳;ジェレミー・ドレーク
邦訳;K.N.
訳者あとがきここに紹介するのは、1989 年 6 月 23 日の French Musique 誌に掲載されたケネス・ギルバート氏のインタビュー記事です。自身ハープシコード奏者として、最もよくロスをよく知る人物によるオマージュとなっています。
ブルージュ国際コンクールの描写や、若きロスの弾く音楽が楽器工房に「静寂」をもたらしたという話など、興味深いエピソードが多く語られていますが、特に重要なのは、ロスの人格を音楽性の関係について、音楽家としての観点から述べている後半部分でしょう。ここでグレン・グールドの名が出てくることが印象的です。
ギルバート氏はこの二人の在り方には共通する部分がある、と述べています。では、彼らの音楽に関してはどうなのでしょうか。これは私が以前からずっと考えていた疑問です。
ギルバート氏は直接この問題に答えてはいませんが、矛盾に満ちたその言動とは裏腹に、ロスの演奏は最もクラシカルなアプローチによるものだとはっきり述べています。エキセントリックなテンポ設定やアーティキュレーションを駆使して作られるグールドの演奏とは、ここにおいて方向性を異にするものではないでしょうか。
つけ加えれば、グールドが後半性を録音スタジオの中で過ごしたのに対して、死期の近いことを知った晩年のロスはコンサートに駆け回ったらしく、対照的とも言えます。
いずれにせよ、強烈な個性ゆえに奇行が目立ち、最高のバッハ(に限らないけれども)演奏を残して早世したという点で、この両者には重なり合って見えるところがあるようです。
ロスは音楽に対してトータルな尊敬の念を抱いていた、と最後に語られていますが、驚異的なテンポ感と和声感に支えられた彼の演奏、作品は生命力を得て輝いているのですが、演奏者は一体何処にいるのだろう、と思ってしまいます。エゴが浄化され、透明な存在となってしまったかのようなその音世界に、宮沢賢治の詩の世界を連想するのは私だけでしょうか。
…
もしも楽器がなかったなら
いいかおまえはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイププオルガンを弾くがいい
宮沢賢治「告別」より
2002 年 3 月 19 日
「Scott Ross 礼讃」主人、K.N.