
未完の運命
―スコット・ロス伝―
第2部 肖像
第3章 周囲への眼差し
「グレン・グールドはチェンバロをまるで分かってなかった。 ランドフスカはチェンバロをまるで分かってなかった。ホロヴィッツはチェンバロをまるで分かってなかった。自分がまるっきりの異説を唱えているんだってのは分かっているさ、しかし物事は、あるがままに言われてしかるべきだろう。」(註1)
スコット・ロスは、他人に寛大であるということがほとんどなかった。なぜなら自らの高品質への探求心をそのまま他人にも期待したからである。誰もが彼と並ぶようにと期待した訳ではなく、むしろその人物の最高の可能性を示してくれることを望んでいた。だからスコットは、全身全霊を尽くすことのない音楽家よりも、優秀なトラック野郎の方をきっと尊敬することだろう。「なぜ」そのように演奏したか知っているからというより、スコットはチェンバロを演奏できるために(誤訳の怖れあり)、音楽学者どもがいとも簡単にスコットの最も絶対的な侮辱の対象になってしまうことは言うまでもない。(もし読者が許すならば、私は後でこの話題に立ち戻るつもりだ。そして、もし読者が許さないとしても私は同じことをするだろう。)こうしてスコットは、フランスの音楽学者ノルベール・ドゥフール(註2)が、ニコラ・ド・グリニーの作品集に捧げた序文に、酷評を浴びせてしまったのだった。
チェンバロ奏者
スコット・ロスは、他のチェンバロ奏者の話になると、称賛を相当惜しんだものだ。もし、彼がレオンハルト、ギルバート、その他トップレベルのチェンバロ奏者を尊敬していたなら、彼はむしろ彼らについてほとんど語ることがなかっただろう。そして彼らに対する自分の卓越をしつこく主張し続けただろう。私はすでに述べたことだが、スコットが自分を世界最高のチェンバロ奏者であると認めていたということを繰り返す必要がある。これは彼の10代の頃の野心であったが、これを諦めることなど到底できなかった。ついに、自分の死の直前には、グスタフ・レオンハルトを挑発して(いいだろう、ウサギめ!覚悟しろ!お前を粉砕してやる!(註3))対決するところまで至った。これはもちろんチェンバロの対決であるが、しかしキーボードという武器で戦ったのである。(誤訳の怖れあり)
その一方で、スコットは、名声が彼の脅威とはならないならば、他の音楽家について高らかに称賛を歌い上げることができた。たとえ、スコットに対して嫌悪を表したような相手でも同じであった。ミレリー・ラガセは、モントリオール音楽院のチェンバロ教師であったが、その好例となるに違いない。ケベック市で彼女のオルガン演奏会を聴いて以来(註4)というものスコットは、彼女のことを褒め讃えていた。アンリ・プリュニエールもまた、自分が「開始」したゴールドベルク変奏曲の放送を聴いて、解釈者の名前を知ることができなくていかに興味を引き立てられたか述べているが、スコットもそれを聴いて驚くべき演奏だと気づいていた。彼らは番組の最後を聞き逃すまいとして、とうとうミレリー・ラガセの演奏だと分かったのだった。ミレリー自身は、一方で、スコットに苛立っており、冷酷な態度をしょっちゅう示していた。たとえば私は次のように証言することができる。私がスコットの家に電話をしたとき、スコットは、自分がインフルエンザに罹っており聴きに行くことができなかったために、私に彼女のコンサートに行って謝罪を伝えてくれと頼んだのだ。私が彼女に真実を伝えたとき、それを軽蔑の証しだと解釈しようとして、ミレリーは決して私を信じようとしなかった。
ケネス・ギルバートについて、彼はブリュージュのコンクールの後でスコットに自らを完成させるように言った人物であり、Heugelのバロック音楽(註5)について編集作業を共に行った人物でもあるが、ギルバートは自分の心の琴線に触れることはなかった、とスコットは述べている。しかしまた彼の貢献は計り知れないものだとも語っている。スコットはまた、彼自身をそこから解放させるためだとはいえ、ギルバートはグスタフ・レオンハルトの芸術から多くを盗んでおり、レオンハルトは彼に多大な影響を与えた、と述べている。(註6)
スコットが、ロベール・ヴェイロン=ラクロワに対して無条件の称賛の念を抱いていたとは言い難い。とはいえスコットは、自分にはヴェイロン=ラクロワに負っているものがあると認めていた。しかし、ヴェイロン=ラクロワは、ピアノだけで経歴を築いて行くことができなかったために、典型的なピアニストからチェンバロ奏者に転向していた。ヴェイロン=ラクロワの場合は、これは単なる成り行きに過ぎなかったのである。しかしヴェイロン=ラクロワは、そのことを決して隠そうとしない美徳があり、誰かを何とかして拘束しようとするようなことも決してなかった。
スコットは、「他の何よりもまして自分たちの楽器へ害を及ぼした」チェンバロ奏者がいるものだ(註7)、と、より一般的な意味で述べたものだ。自分自身は「チェンバロの一般的な評判を回復しようとしたんだ」と付け加えながら。
スコットがわずかの惜しみも無く手放しで称賛し、スコットが自分と同等だと述べたと言ってもよいような、唯一のチェンバロ奏者は、あまり知られていない男性奏者ドン・アングルだった。彼もスコットと同じく、アメリカ人で、左利きを矯正されており、どもりで、清教徒の教育によって押しつぶされてしまい、純粋な謙虚さゆえに結局一度もバロック音楽を録音しなかった。スコットは、スコット・ジョプリンのラグタイムなどの楽曲を録音してあるドン・アングルのレコードを持っていた。スコットは、ドン・アングルによるすべての録音を、耳で聴いて演奏を真似し、しばしば自分のコンサートの2回目のアンコールで披露して聴かせた。私は一度、ローマのプラゾ・デラ・カンチェリーナ(大使公邸)のオーラ・マグナ(大教室)で耳にしたことがある。ラインハルト・フォン・ネーゲルは、私にこんな逸話を披露してくれた。スコットがドン・アングルに会ったとき、この感情むき出しの典型的なアメリカ人は、「こんちは、会えて嬉しいよ」と言い、ドン・アングルが演奏した旋律について議論を始めた。チェンバロで実演しながら「これは正しく演奏不可能だ!」と言い、この彼が敗北を認めた唯一のチェンバロ奏者に対して、はっきりと「脱帽」してみせたのだった。
グレン・グールド
一方、控えめに見たとしても、スコットはグレン・グールドの支持者だったとは言えない。スコットは決してこのことを声を大にして明確に述べたことはなかった。しかし、ここでは彼の語る言葉を聞いてみることにしてみよう。
「なんていうかね、グールドが天才であると主張する人たちの目を見開かせるために、とうとう僕は決定的な論拠に辿り着いた。彼の弾くバッハはいつでも恥ずかしいほどに音楽性がすっからかんで、 幻想的で意味不明の発明がぎっしりと詰まってんのが僕には分かるんだよ。彼の『フーガの技法』の録音を聴いた時だったな、僕はグールド支持派の友だちと話をしたんだ。その友人は僕の意見に同意してくれたよ、フーガという観点からみたらまったくの無意味な代物だってこと。でもね、そいつはそういう感じの演奏が好きだって言うんだよ。理解できるっていうのさ。僕は降参したよ。もうアーティキュレーションやフレージングについて話なんか出来なかったさ。」(註8)
これは彼が最も耐えられないのがわかった音楽の会話(註6)を極端に個人的に振り返ったものだと思う。まさにスコットのものであった、知的な方法、すべての正確さ、謙虚さの絶対的対極に位置する、ある種の音楽的な民衆煽動を、バッハの意図の過剰な体系化と簡素化によって、精神の上に引き起こす、それはある種道徳上の詐欺の限界に至るものであった。このことは多分、彼の次のことばの理由だろう。
「グレン・グールドについては、彼はバッハについて何も理解していない、と僕は言おう。公衆の前に姿を見せない芸術家というのは問題だよ。彼はあまりにも的外れなところへ行ってしまったから、連れ戻そうとしたらボーイング747が一機必要だろうな。」(註9)
全体として、スコットが古楽の解釈に要求しているのは、そこには耽溺の余地などない、ということであった。音楽家は、ちょうど誰もが期待するように、直線の上で先頭に立つと同時に、最後尾でもあるのだ。ローマのヴィラ・メディチ(註10)で撮影されたドキュメンタリーの中では、スコットが冷たくこのように言い放つのを聴くことができる。
「グレン・グールドはチェンバロをまるで分かってなかった。 ランドフスカはチェンバロをまるで分かってなかった。ホロヴィッツはチェンバロをまるで分かってなかった。自分がまるっきりの異説を唱えているんだってのは分かっているさ、しかし物事は、あるがままに言われてしかるべきだろう。」(註11)
現代音楽
既にスコットの現代音楽一般、より具体的にはその作曲家に対する意見についてはすでに第一部で触れた(註12)。スコットはチェンバロとディーゼルエンジンの区別がつかない奴がいると主張し、そういった作曲家の一人が書いた曲を弾いた時に、すべての効果を愚弄するつもりで誇張して演奏したはずが、作曲家から演奏の素晴らしさを讃えられ、不満を爆発させたのだった!現代音楽専門のチェンバロ奏者に対しては、スコットはもっと酷かった。
「僕は奴らはどこからみても絶望的な気がするな、音楽的というより技術的なのさ。楽譜を持ってステージへ出て、チェンバロとちっとも関係のない効果を出すのはとても簡単だ。救があるとすればね、ずっと昔そうだったように、チェンバロ奏者が作曲をする場合だろうね。でもそんなことを真面目に考えている演奏家がどこにいる?リゲティのコンティヌウムは、原理が無理やり楽器をいじったりしないが、あれを別にしたら、救済の道などはないよ。」(註14)
それでも、スコットは20世紀の音楽作品を喜んで演奏した。カーペントラス出身のミッシェル・ブルンは、スコットが自分でチェンバロによる伴奏をつけながら、シェーンベルグの月に憑かれたピエロを歌うのを聴いたことがあると、私に語った。以下についてはこれ以上に正確な情報は見つけることができなかったのだが、もっと小さな話も紹介すべきかもしれない。1978年より少し前に、モントリオール芸術院において、スコットはチェンバロと磁気テープの演奏会を開いた。このとき、スコットは、楽譜上のすべての音符を、調和させる代わりに、肩越しに力強く放り投げ、そのようなぶっきらぼうなやり方に立腹したモントリオールの聴衆を音の塊の中に置き去りにしたという。でもいったい何をしようとしたのだろう?
要求
「誰かと一緒に音楽を奏でたいときに、よく哀しくなるんだ。僕の哲学ってのはただもう完璧を求めることに尽きるんだが、共演者が自分と同じ欲求を持っているのを認めたことなんかほとんど無いね。それでも僕は、自分がラモーのコンセール用小品集や、バッハのソナタやコンチェルトを演奏する喜びを禁じたくはないんだ。しかし、演奏技術についてあまりにも自由でお気楽な雰囲気のバロック音楽集団ていうのもまだまだあるね。舞台上の一場面を持ちこたえることもできないままに演奏家の経歴を築く人が多いねえ。(誤訳の怖れあり)」(註15)
スコットは、どうやら主にニース音楽院時代からの友人たちのことをほのめかしている。一小節ごとに彼らのおおざっぱなやり方(実はそれこそスコットが嫌悪していたものだが)に不満を覚えたりすることが無かったならば、彼らと演奏することをもっと愛することができたであろうが、スコットはもっと厳しい人間であったのだろう。ケベック市では、教育義務の一環として、サン・フォイの CEGFP6において、 スコットはオーケストラ合奏団の監督責任を担っていた。スコットはそのオーケストラとブランデンブルグ協奏曲の1曲についてリハーサルを行ったのだが、毎回そこから帰って来るたびに見せる、自分の言葉を聞かせることができずに疲れ果てたスコットの苛立ちを、私ははっきりと覚えている。 スコットは自分が長い間貧しさの中で生活したことに触れたが、彼は若い音楽家があまり貧しくないということついて不平を述べることはできなかった。しかし、まだ物足りないと感じている子供たちのために赤絨毯を広げてやることは、正確には彼らに奉仕することにはならないだろう(註17)。これはスコットがどのように1988年1月に、アサスとパリで録音した、彼のオペラ・マグナ、すなわち34枚のコンパクトディスクに及ぶ、巨大なスカルラッティのソナタ全集、の宣伝の際に、自らを表現した言葉である。そして彼が同僚に対して苦言を持って毒舌を吐くのはこれが初めてのことではないのだ。
モニク・バーナットは私にこう述べた。ある種の人は、他の人が前に始めた地点から始めようとするものだ、と述べた。「文化は、すべてが忘れられたときに残るものなのよ Culture, is what remains when all is forgotten.」と付け加えた。この言葉は、無意識のレベルを通じてすべてがやって来ることの必要性について述べている、と理解されるべきだろう。実際、室内楽の範囲内では、彼自身の野獣性のため、そしてあまりにも個人的ではあったが、スコットは他の音楽家に対してあまり寛容ではなかった。スコットと彼らは、同じ霊感を味わっていたわけではなかったのだ(註18)。
それまで音楽家に対して感じていたものなど比べものにならないほど、チェンバロ製作者たちは、スコットの苛立ちの的であった。
チェンバロ製作者
スコットは実際、もし彼の前に用意されたチェンバロが満足できるものではなかったときは、その製作者に赤ッ恥を掻かせる喜びに満足を覚えたものだった。花盛りの1970年代の躍動の中、大勢のアマチュア製作者たちが独学でプロになったが、多くの場合はキットを組み立てるようなことから始めて、スコットが要求するようなプロの技術に充分な注意を払わなかったのは確かであった。スコットはあまりにもしょっちゅう、大急ぎでヘタクソに組み立てられた楽器が演奏会のために準備されていたことがあったため、演奏会用楽器の種類と製作者をきちっと決めてくれる業者をとうとう見つけるまで、彼は自分のチェンバロを持って歩かねばならなかった。スコットはちゃんと機能するなら(すなわち鍵盤を押せば充分に音が聴こえるような楽器のことである(註19))「ニセモノ」楽器は好きだ、と常々言っていた。また、「この古い木の棒はいい音がするがそれだけのことだ(註20)」と語ったように、古楽器をやや軽んじていた。すでに我々は垣間みているが、楽器を運ぶことと同じように、軽く考えていた。
チェンバロを運ぶ、って一体どう言う意味だ?と思われるかもしれない。チェンバロは、しっかりした手、腕、足を持った、二人の屈強な人間を必要とするくらいに重い。もちろん、600ポンドもあるようなピアノとは違う。しかしコントラバスよりはかなり重い。スコットのウィラード・マーティン製楽器は、7フィート×3フィート×10フィートの大きさで、100ポンドより軽い筈はなかった。運び出すには、カバーの中に折り畳んで、たいてい狭い階段を下ろす必要があった。充分な大きさの乗り物、ステーションワゴンか、バンが必要だった。あらゆる危険が漂う、屋根付き???したがって、チェンバロ演奏家に対して、コントラバス奏者と同じように振る舞ってくれ、と頼むのはちょっとばかり酷というものだった。
そんなわけでスコットはチェンバロ演奏家を、1920年代や30年代という時代に欧州と南アメリカを飛行機によって結んだ、航空郵便の先駆者と比較していた。「チェンバロ演奏家は工作が得意でなきゃいけないし、機械技師にだってなる必要がある、なぜなら僕らはしょっちゅう砂漠に墜落するからさ。僕らチェンバロ演奏家は製作者になれるほど要求が多いわけではなかったよ。」
(*註1)音楽のレッスン、ヴィラ・メディチ。
(*註2)専門家、数多くの歴史的オルガンを破壊した最終的な責任のある人物、文化省のオルガン委員会のメンバーとして、彼は修復しようの無いところまで「近代化」した。彼がいつも書いていたのは、「これはとても興味深い楽器である。我々はこの楽器を近代化させる必要がある。」
(*註3)ワーナー・ブラザーズのアニメ、バックス・バニーの中の海賊サム。
(*註4)クロード・レムーへのインタビュー。
(*註5)『ダングルベール』、オイゲル社、パリ、1975年。『スカルラッティ』、同社、同所、1979年。
(*註6)ジャン・デシャンへのインタビュー。
(*註7)音楽の現代、71巻。音楽のレッスン、ヴィラ・メディチ。キャサリン・ペリン。アンリ・プルニエール。オペラ・シタタ。
(*註8)キャサリン・ペリンへのインタビュー。
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