
未完の運命
―スコット・ロス伝―
第1部 伝記
第7章 コンサート
フランスへの帰還
1983 年、同僚のピエール・ブシャール(*註1)がスコットの後を継いでからは、EMUL へは単に一時的なトレーニンングコースを担当するために戻るのみとなり、スコットは制度上は彼に資格が無いにもかかわらず無給休暇を願い出た。しかし学長代理のアンドルー・ブーローは、彼がスコットを賞賛して已まなかった人物であったためか、休暇を与えてよいと主張した(*註2)。こうして彼はアサスへと戻り、古城の中でこそなかったが、モンテー・ド・シャトーとデ・ラ・ドュー通りの曲がり角に、アストリー氏から部屋を借りて住んだ。英国人のテノール歌手ジョン・エルウィスとその友人であるネリー・アレグロードのすぐ近所であった。
スコットはパリ・モンジュ通りの15番スタジオを借りて、フランスの首都における頻繁な活動の拠点とした。こうして彼は自らをコンサート演奏家としての活動へと専念させていったのである。教師生活の間に、彼がコンサート活動を無視していたとは言えないが、それでも脇の方へ追いやられていたも同然であった。スコットはまた、コンサート興行の仕事をあらゆる町で獲得するためにマネージャーも雇った。ちなみに、このマネージャーは地理的な制約に関しては常にそれほど悩まされていたわけでもなかったことを付け加えておこう。
ケベック市における最後の試み
1985 年、スコットは EMUL における教師として最後の学期を過ごした。そして、勢揃いした少人数の生徒達に向かって、彼は自分が退職することを告げた。1986 年 6 月 27 日付の彼の手紙に書かれていることは、ようやく始めたばかりのコンサート演奏家としての活動と、まったくこれに相反する授業との間で、自分にどんな選択が残されていたのかについての醒めた述懐のようにみえる。実際、彼がケベックを離れた後、生徒達の数は減ってしまっていた。ところで、この変化は、学校長選挙に際して、外国人の入学希望者をもっと惹き付けようとしたスコットの計画の要点でもあったのだが、EMULを外部に向けて解放的にさせつつあった。
スコットは手紙の中で、クラスをそう呼ぶのに値するくらいまで再建設しなければならないと見越して、やや自信を喪失したと述べているが、しかし 10 年間に及ぶ教育活動を率直に高く評価してもいる。彼の退職は 8 月 1 日に有効となり、周囲の失意によって迎えられたのだった(*註3)。
切迫
これ以後、彼はコンサートツアーと録音以外には一切何もしなかったと言っていい。レコードやコンサートを通じて、あっという間に最も世間から注目されるハープシコード奏者となっていった。そして彼なくしてハープシコードになど目もくれなかったであろう多彩な聴衆たちを、彼の演奏の力によって、この楽器へと惹き付けたのだ。
スコットは少数の友人にのみ、ハープシコードばかり弾いていることに消耗してしまった感を覚えると語っていた。彼は次第にピアノのレパートリーについて思いを寄せ始め、その思いは募って行った。しかし、スコットはフォルテピアノを化け物と看做していた(鍋や釜を叩くようなものだと語っていた)。彼はフランスにおいても生徒を見つけようとわずかに試みてはみたが、この国における行政上の規程のために、それはうまくいかなかった。
しかし、すでに緊急事態を告げる鐘が鳴り響いていた。カトリーヌ・ペリンが 1984 年に彼に会った時、エイズについての恐ろしい噂が轟音のように世間で膨れ上がっていたが、スコットは自分もエイズの恐れがあることを告白した。彼はその前の冬に気管粘膜炎を患って、悪化させて肺炎に至ってしまったのだが、これはまさにエイズ関連疾病のひとつに数えられていた。スコットは自分は「恐怖で死にそうだ mort de trouille」(もうお終いだ)と語った(*註4)。スコットは自分の懸念を確認することに過ぎないから検査は望まない、と付け加えた。このあたりに彼が最後の数年間激しい活動を見せた理由の一片があるのだろう。
同じ頃、スコットはロゼレに家を買い、一人で建て直した。彼はプジョーの旧式のピックアップトラックを持っていて、石やセメント、ライムの樹を運んだ。こうしてようやくのこと、昔から長年に渡って育んできた夢、田舎で暮らす、という夢を実現したようである。既に述べたようにケベックにおいても田舎の家を買おうとしたが、その計画は諦めざるを得なかったのであった。1985 年に彼はある記者にこう述べている。
「ともかく、僕は 40 になったら、やめるよ。僕はガキみたいに田舎で暮らしたいのさ。百姓にもなりたいんだよ」(*註5)1987 年あるいは 1988 年に、スコットは、父方の叔母であるエラ、そして兄のジェームスにアサスまで来てもらった。そして 1988 年の冬には、彼は一連のコンサートを行うためにカナダへ向かった。その帰途、彼は足を止めて、ユベールとフロレンスのラフォルジュ夫妻をシクティミに訪ねた。当時そこでラフォルジュはケベック・シクティミ大学の学長を務めていた。このとき夫妻には、スコットがお別れを告げるために訪問したのだと、はっきりと分かっていたという。(*註6)
1989 年 4 月、スコットはローマに行き、ヴィラ・メディクスにおいて、フランスのテレビ番組のために音楽のレッスンを行った。このときの映像を見れば、彼が痩せ細り、病の攻撃によって弱っているのが分かる。スコットは社会保険(医療保険制度)に入っていなかったこともあり、体をあまり大事にしていなかった。あるいは彼は、正しく健康に気を配るためにふさわしい理由を見つけられなかったのかもしれない。私は、スコットは何であれ医療として見つかったものは受けただろうと言われたことがあるが、もし彼が優れた医療を享受していたなら(そしてこれこそ「もし」ではどうしようもない問題なのだが)、彼はあるいは生きながらえたのではないかと想像できる。
実際、スコットはフランス政府にとって、出来れば国外追放したい不法滞在の外国人に過ぎなかったのだ。もし、スコットの友人たち(その中には地域文化委員会の有力者も含まれていたが)が仲裁に入り、知事に向かって、もしスコットを国外追放したらあなたはマスコミから大馬鹿者扱いで叩かれるぞと主張しなかったならば、実際追放されていたことだろう。
最期の数ヶ月、スコットは友人達の看病を受けていた。中でもとりわけ、スコットの 2 台目の二段鍵盤楽器を製作した、ハープシコード製作者のデビッド・レイと、1983 年にモンペリエで開かれたラジオ・フランス主催の第一回音楽祭で助監督を務めたモニク・デボの二人が世話をしていた。証言によれば、この二人の間にはスコットの看病について一種の競争があったという。デボ夫人は大量の投薬による治療法の信奉者であった。恐らくこのことが、彼女と、スコットが静寂の内に死を迎えることを願う者たちとの間のホメロス的な戦いの原因となったに違いない。5 月の末に、とうとうアサスへとスコットを連れ戻したのはジェームス・ロス・ジュニアであった。
間もなく 6 月 13 日、スコットは、アサスの小さな家においてこの世を去った。彼の兄のジェームスは、無理をしてまでスコットに会いに来て、まさに最期のときまで彼を支えた。スコットは明らかに、自分の亡き後の状況のために何も準備していなかったから、一切に対応したのはジェームスであった。またスコットの録音から得られる収入が、若いハープシコード奏者のための支援組織の収益として支払われるように手配したのもまた、ジェームスであった。残念なことに、もしこの団体が存在しているにせよ、私はこの団体の痕跡について何の手がかりも得ることができなかったし、霧の中へ消えてしまったかのようなスコットの兄弟についてもその後の足跡をたどることができなかった。
モンペリエのグラモン葬儀場において火葬された後、スコットの遺灰は小さな飛行機からアサスの村の上に撒かれた。故人の遺志に従って。
(*註1)この人物はアントニー・ブシャール神父とは直接の血縁関係はない。
(*註2)ラヴァル大学蔵書および、1994 年 7 月の A. ブードローへのインタビュー。
(*註3)同上。
(*註4)カトリーヌ・ペリンへのインタビュー、前掲書。
(*註5)1985 年 1 月 19 日夕方パリにて。
(*註6)1994 年 7 月のユベール・ラフォルジュへのインタビュー。