善福寺
平塚市広川691       (0463)58−0045フレームを復活させる


阿弥陀如来立像 来迎印を結ぶ
寄木造、玉眼、金泥、像高76.3cm

各々の おかをたのしや 羅漢さま

『新編相模国風土記稿』 巻之四十八 村里部 大住郡巻之八

徳川幕府が11年の歳月を費やして天保12年(1842)に完成させた相模国の大地誌である。 全126巻におよび、村々について歴史・地理・寺院・神社等を詳述しており、江戸時代の 相模国各村を知る貴重な史料である。

○廣川村 比呂加波牟良 往昔は弘河と書せり古文書下に註す、

江戸より十六里、民戸三十三、東西八町半南北七町余、
東、入野・長持入部二村、西、千須谷村、南、公所村、北、飯嶋・片岡二村、

嘉元(1303〜1305)の頃備前入道定證所領にて2年(1304)3月鶴岡八幡神社供僧良印と、供米未進の事に依て訴論あり、執権北条相模守師時、同右京權大夫時村二人、命を奉て下知を加ふ
鶴岡相承院文書曰、鶴岡八幡宮供僧良印、興相模国弘河郷地頭、備前入道定證代定覚、相論供米事右訴陳之趣、子細難多於彼米者、正安2年(1230)以降未進由、良印申之処、自往古直納之間、召進百姓、可遂其節旨定覚所陳申也、為直納地之條、良印不論申之上、如正安元年(1229)12月3日下知状者、供米未進事、下地為地頭進止旨者、為地頭代之沙汰、召出百姓遂結解、於未進者、可弁償者、依鎌倉殿仰、下知如件、嘉元2年(1304)3月12日、相模守平朝臣華押、左京權大夫平朝臣華押、

暦応2年(1339)4月将軍尊氏、此地を鶴岡八幡神領に充行はる
鶴岡文書曰、奉寄鶴岡八幡宮、遠江国宮口郷、相模国弘河郷、備前入道跡地頭職事、右為天下奉平、国土安隠、奉寄之状如件、暦応2年(1339)4月5日、正二位行權大納言源朝臣尊氏華押、

天正(1573〜1591)の頃軍役四人を出せし事、村民所蔵文書に見えたり、
曰、定、於当郷、不撰侍凡下、自然御国御用之砌、可被召仕者撰出、其名を可記事、但四人云々、右自然之時之御用也、8月晦日を限而、諸道具可致支度、郷中之請負、其人交名以下をば、来月20日に觸口可指上、仍如件、丁亥7月晦日、廣川小代官百姓中、虎朱印、按ずるに、丁亥は天正15年(1587)なるべし、

又麦作収納に依て、津久井城より来る、軽率以下の濫妨狼藉を禁止せし事あり
曰、郡次に在所へ罷移、麦作収納之由、自津久井之足軽以下乱暴狼藉、堅令停止者也、仍如件、6月4日、廣川之村名主中、内藤朱印、御検使大長黒印、按ずるに、年代詳ならず、内藤は津久井城主左近将監なり、大長は大藤長門守なるべし、

勝国以前は、布施善三知行す
【役帳】曰、布施善三、九十八貫九百八十五文、中郡廣川、

今地頭 田中鎗次郎・石原鉄五郎
寛文の頃稲葉美濃守正則所領、其後御料となり、元禄12年(1699)田中・石原二人の先世に賜へり、

検地は寛文5年(1665)稲葉美濃守正則糺す、伊勢原道係れり幅六尺、

高札場二 ○小名 △南久保 △矢崎
○金目川 村北を流る幅二十五間余、堤あり高一丈二尺、
○八幡宮 村の鎮守とす、神体二躰一は座像、長三寸、一は立像、長六寸及石三類を置、例祭3月28日、本尊阿弥陀仏恵心作、長、一尺二寸、は鎌倉權五郎景政の守護佛と云、厨子の裏書に、古来本尊八幡宮、本地佛、鎌倉權五郎景政公本尊、天正戊寅年(1573)3月、厨子臺坐等再興とあり、善福寺に安ず、△鐘楼 貞享2年(1685)の鋳造を掛、

○善福寺 法雨山と号す、曹洞宗宮下村大知寺末、

中興開山 華翁宗嫩天正10年(1582)9月28日卒、
開基は鎌倉權五郎景政と云傳ふ、

本尊 三尊阿弥陀中尊安阿彌作、紙ずき如来と称す、長二尺、
△荒神社 ○地蔵堂 善福寺持

○古城跡 村北、字五領臺にあり、今畑となる、鎌倉權五郎景政の城跡と云傳ふ、

羅漢像がいっぱい何方が作られたのかな?途中の道端にあったような?
境内に入って左手に、幅58cm、高さ165cmの大きな板碑型の庚申塔があり、正面の銘文はかなり剥落し全部を判読する事ができませんが、紀年銘は寛文4年(1664)と見ることができ、塔下の蓮華座には三猿像が刻まれています。



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