長善寺浄土宗
平塚市東八幡1−17−32 筺。横押檻横械苅フレームを復活させる



幾たびの 洪水見しか 長善寺

『新編相模国風土記稿』記述より、

○長善寺 稱名山快楽院と号す、浄土宗、芝増上寺末

開山 宝誉、勝蓮社号す、應永二十六年(1410) 七月晦日日卒、
中興開山 欣譽厭蓮社と号す、寛文七年(1667)二月十七日卒、

本尊阿弥陀、定朝作長二尺七寸、又 恵心作の同像を按ず、長一尺一寸、

古くは寺地、相模川の辺りにありしが、洪水の時、河中に歿しければ、今の地に転ずと云

△ 弁天社 △薬師堂、地蔵をも安ず

八幡村歴史豆知識

新編相模国風土記稿  巻之四十三 村里部 大住郡巻之二 より

徳川幕府が11年の歳月を費やして天保12年(1842年)に完成させた相模国の大地誌である。 全126巻におよび、村々について歴史・地理・寺院・神社等を詳述しており、江戸時代の相模国各村を知る貴重な史料である

八幡庄

八幡村 江戸より行程十五里、八幡庄の本村にして、地名は八幡宮、当国第五の宮なり、鎮座あることを似て呼べり、社は平塚新宿に在、按ずるに、此新宿 正保(1644〜) 慶安(1648〜)の頃は、八幡新宿と唱えたれば、古は当村に属したる地なるべし、猶平塚宿條、 併せ見せるべし、
【東鑑】(あずまかがみ) 建久3年(1192)8月條に初て古地名見えたり、
九日條曰(いわく)、御臺所御産気、鶴岡、相模国神社佛寺奉神馬被修誦経云々、五大堂、八幡、按ずるに 五大堂は四ノ宮村にあり、
(飾り神馬を奉納し御台所安産祈願のため僧に読経させた)

永享10年(1438)10月、足利左馬頭持氏、京都の討手を防がん為、木戸左近大夫 将監(近衛府の判官)持季(互いに優劣の定めがたい時)をして、当庄内に陣取らしむ、

【相州兵亂記】曰 海道の討手、大手搦手一(大勢のからめて)に成、箱根の陣を押破て、大将軍上杉中務少輔持房、相州高麗寺に陣を取、さては此敵にむかへとて、木戸左近大夫、将監持季を、大将として、御旗を賜って、相州八幡林に陣取笧を焼きて待明す、 (持房は大勢の討手で箱根の陣を破り相州高麗寺に陣を構え、木戸左近大夫は互いに優劣の定めがたい時八幡林に柵を設け吉報を待(ち)明かす)と記されている。

【鎌倉九代記】曰 10月12日、木戸左近大夫将監、七百余騎にて相州八幡林に陣を取、

永禄(1558〜1569)の頃は、伊勢兵庫頭、庄内を領せり、

【北条役帳】曰、伊勢兵庫頭殿、227貫384文、中郡八幡郷

天正18年(1590)小田原陣の時、豊臣太閤庄内に制札を興ふ、村民家蔵、東郡八幡庄とあり、

永禄4年(1561)3月、上杉輝虎、小田原発向の時、此地に陣す、

【豆相記】曰、永禄3年(1560)、越師伐於相小田原、両陣営、大磯、小磯、藤沢、田村、大上、八幡、厚木等邑(むら)、其間無尺寸卓錐地矣、(隙間無く兵がいる様)に按ずるに、【相州兵亂記】【小田原記】【北越家書】等には、4年の事とす、今是に従ふ、12年8月武田信玄、小田原発向の時も、又陣地となる、
【甲陽軍鑑】曰、8月信玄公、小田原表へ御働あり、田村、大上、八幡、平塚に陣取り給ふ、【小田原記】曰、信玄小田原に寄、兩3月在陣し、食つまりければ夜の間に引退き、大磯、平塚、八幡を打過云々、(うちすぎる、時が過ぎる)

今は御料、山角刑部左衛門、同孫十郎、木部庄八郎、山角鉄蔵等の采地なりしが、刑部左衛門、孫十郎の知行(将軍・大名が家臣に俸給として土地の支配権を与えること。また、その土地)は、早く上がりて御料となり、

庄八郎が采地は、延享2年(1745)故ありて収公せらる、
鉄蔵が知行は文化12年(1815)上地(江戸時代、幕府が大名・旗本・御家人から、また大名が家臣から、それぞれの知行地を没収すること)となれり、及 

山角市左衛門、同鋼三郎、元和3年(1617)5月、先祖文右衛門長定に賜りし知行御朱印に、当村の名を載らる、岡部小左衛門忠安知行す、

家敷117、東西13町半、南北16町、東相模川を隔、高座郡平太夫新田、及萩園村、西、当郡中原上下二宿、南、平塚新宿、馬入村、北、四ノ宮村、

検地は、寛文12年(1672)延宝2年(1674)の両度、坪井治右衛門良充改む、其餘延享2年(1745)、神尾若狭守春英の検せし、流作場及芝地・秣場等あり、八王子道幅二間に係れり、

※その他、神社仏閣、川、橋、塚、等沢山の事柄が記載されております。

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