長楽寺真言宗
平塚市札場町15フレームを復活させる
 
山ばかりを追い求めた半生を恥じてはいぬが、山も要らぬ、谷も要らぬ、こころしてゆこう

石塔の 影から出る 古婆と孫

長楽寺は真言宗の寺院で、昔弘法大師が泊宿されたと伝える古刹です。
関東壇林(学問修行の寺)の一つとして教学を盛んにしたといわれます。
本尊は不動明王で、境内には四国八十八ヶ所を模した弘法大師像30基、江戸時代初期の青面金剛像の庚申塔、三猿像の庚申塔大日如来など、貴重な石仏が祀られております。とくに青面金剛像庚申塔は四臂(四手)、二猿の庚申で、神奈川県に7基しかないという珍しい像容をもっています。

『新編相模国風土記稿』に縁ると

○長楽寺 海詠山聖無動院と号す、古義真言宗、高野山末、

関東檀林の一なり、相傳ふ、此地は弘法止宿ありし霊地にして、遙の後、   僧鎮海草庵を結び、海詠庵と号して居住す、其後建保年中朝秀中興して、山寺号を称せり、故に鎮海卒年詳ならず、七月朔日を忌日とす、蓋文治の頃、在世の人なりと云、を開山とし。朝秀を中興開山とす、

本尊不動、長二尺八寸、脇士共に、弘法作又同作の地蔵を安ず、

弘法の衣一具を、什物とす、是は本山に安ずる弘法の像へ、毎年禁廷より賜る所の衣なり、文化十一年、高野山高室院より譲りし由、添状あり

△鐘楼 元禄八年、鋳造の鐘を掛、

△護摩堂 薬師三島明神の本地佛なり 長一尺五寸弘法作と云、を安ず、又当国新札所、第八番の観音を置、

△天神社 △三峰社 

△銅塔長八尺五寸、五智如来を安ず、塔前に燈明堂あり、

その他に萬光院、長源寺、地蔵院、大寶院、淨閑院、雲晴庵、等の寺名あるが今は廃寺なり、当時須賀村には九っの寺が在り繁栄を窺う事が出来る

須賀村 湊 豆知識

新編相模国風土記稿 巻之四十三 村里部 大住郡巻之二
 
徳川幕府が11年の歳月を費やして天保12年(1842年)に完成させた相模国の大地誌である。 全126巻におよび、村々について歴史・地理・寺院・神社等を詳述しており、江戸時代の相模国各村を知る貴重な史料である

須賀村

江戸より十五里余、民戸四百五十二、広凡二十町、袤十五町許、

小田原北条氏、分国たりし時、村民に命じて、鯛魚或鯵等を漁せしめ、

又当麻の渡、渡船十艘を出し、或は此地より、豆州熱海迄運漕の課役、及材木を預りし事等、所見あり、

又人返の事を、当所清田某に、令せし事見ゆ、御打入り御料所にして、今に然り、

寛文5年(1665)、坪井治右衛門良充検地す、其後新田は、12年同人、享保17年(1732)、日野小左衛門改む、此外延享2年(1745)、堀江荒四郎芳極 流作場(りゅうさくば いつも水をかぶっているような田畑)を糺せり、又見取畑あれど、検地の年代を失ふ、

当村は馬入川渡船場定掛り船役を勤むるを以て、他の船役は都にて免除せらる、村の飛地艮(うしとら)の方相模川の東岸、馬入村を隔てあり、

 南方に在、村内に係る、海岸二十町許、須賀浦と唱ふ、漁船凡三十二艘、押送船五艘あり、獲る所の魚は、鯛、鯵、比目、鯖、鰯等なり、

須賀湊 巽の方、相模川落口に在、湊口二十間余、爰より江戸へ海路三十六里、三崎へ十三里許、浦賀へ凡十八里、豆州下田へ、三十五六里、と云、

元禄4年
(1691)5月、湊争論の時より、両村にて廻船を置、運漕に便す、

※其の他 古文書、寺、神社、などの記載があります。

近辺情報 須賀のお阿弥陀様近くにありますよ 、1951年須賀漁港が完成

次 海宝寺 0.1k

ホームページ