歸命山真福寺真宗 
平塚市馬入本町14−10 筺。横押檻横毅娃フレームを復活させる


 

 「新編相模国風土記稿」より

○眞福寺 歸命山無量院と号す、一向宗、東本願寺末、

開山善秀、永禄二年(1559)八月十日卒、

本尊阿弥陀書像、實如筆、△鐘楼 鐘は正徳三年鋳造す、
 

平成11年(1999)末より、本堂の修復工事にかかり昨年完成しました。

江戸時代
、真福寺には寺小屋が開かれ、明治15年(1882)には馬入小学校が本堂の後ろに設立され、それが現在の松原小学校へと発展していきます。山門には 「馬入小学校創立の地」の碑が建てられています。

馬入小学校開設之地

  

馬入村 豆知識

新編相模国風土記稿』 巻之四十三 村里部 大住郡巻之二
 
徳川幕府が11年の歳月を費やして天保12年(1842)に完成させた相模国の大地誌である。 全126巻におよび、村々について歴史・地理・寺院・神社等を詳述しており、江戸時代の相模国各村を知る貴重な史料である)

馬入村  或は馬乳に作る、

【寛永系譜】曰、秦氏、秦石字は梢詫賤曚棒犬襦⇒直・茲蠕昌海鳳・峠颪鯑鼻font color="#FF0000">寛永8年(1631)父徳隣が病にふすを聞いて、江戸に趣、時に相州馬乳に於て、訃音を聞、

江戸より十五里、民戸129、東西十二町半余、南北十一町四十間余、
東、高座郡、中嶋村、西、当郡平塚新宿、南、須賀村、及高座郡、中嶋村、北、萩園村、平太夫新田、及郡中、八幡村、

東海道往還、村南を東西に貫く、道幅三間余、爰に一里塚、高六尺、上に榎樹あり、東方は高座郡、茅ヶ崎村、西方は淘綾郡、大磯宿への一里塚なり、あり。

又、北方に東海道古往還と 稱する小道あり、幅二間、往古は今の馬入渡より、五町許、川上を渡りて、往来せしと云伝う、其頃の海道なり、按ずるに、此地舊くより、海道にして、相模川の係る所なれば、古書に、相模川を渡りしなど記し、或は相模川合戦とあるは、皆当所の事なるべし、故に今爰に載す、

元歴元年(1184)正月、佐々木四郎高綱 此地を過て、京師に赴く、是木曽義仲 追討の時なり、
【源平盛衰記】曰、佐々木四郎高綱は、十七騎にて稲村・腰越・片瀬川・砥上原・八松原、馳過て、相模川を渡る、

四月、池大納言頼盛、鎌倉下向に依て、頼朝当所に来て、迎へらる、
【平家物語】曰、四月五日、都を立て、大納言鎌倉に入給ふと、聞えしかば、兵衛大勢引具し、相模川の端迄、迎に来り給へり、按ずるに、異本【平家物語】に、五月四日下向、同二十三日下着とあり、

二年五月、平宗盛 此地に係りて、鎌倉に下る、
【源平盛衰記】曰、内大臣下向日数ふれば、大磯・小磯・唐河原・相模川・腰越。稲村・打過て云々、

建久9年(1198)冬、相模川橋供養に依て、頼朝爰に来らる、
【保暦間記】曰、建久九年の冬、右大将殿、相模河の橋供養に出て還らせ賜ふ、

貞応2年(1223)4月、源光行相模川を渡りし事、
【海道記】に見ゆ、曰、十七日、相模川を渡りぬれば、懐嶋に入、

元弘3年(1333)5月、相模太郎邦時 当所にて生捕らる、
【太平記】曰、相模太郎は、道に相待敵の、有とも思寄らず、五月二十八日、憔悴(やつれ)の姿にて相模川を渡らんと、渡守を待て、岸の上に立たりけるを、五大院右衛門、余所に立てあれこそ、件の人よと、教ければ、船田力郎等馬より飛下り透間もなく生捕奉る

建武2年(1335)8月、中前代蜂起の時、平家の大将、名越式部大輔某、
按ずるに、金勝院本【太平記】には此時の大将、名越尾張五郎時基と記し、式部大輔は、八月十四日、小栗掃部助に討れし由載たり、

相模川を隔て、打手の兵を支へんとす、官軍高越後守師泰・赤松筑前守貞範・佐々木佐渡判官入道道誉・長井治部少輔等を始として、川を渡て相戦ふ、今川式部大輔頼国、或は頼基に作る、父子、小笠原七郎・同孫四郎、川中にて討死すと雖、終に平家打負引退く、
【太平記】曰、平家相模河を引越て、水を阻て支へたり、折節 秋の急雨一通して、河水岸を浸しければ、源氏よも渡しては懸らじと、平家少油断して、手負を扶け(たすけ)、馬を休めて、敗軍の士を集んとしける処に、夜に入て、高越後守二千余騎にて、上 ノ瀬を渡し、赤松筑前守貞範は中ノ瀬を渡し、佐々木佐渡判官入道道誉と長井治部少輔は下ノ瀬を渡して、平家の陣の後へ廻り、東西に分かれて同時に閧(かちどき)をどっと作る、平家の兵、前後の敵に囲れて、一戦にも及ばず、皆鎌倉を指て引ける、

※其の他、【東鑑】【豆相記】【灘太平記】【鎌倉大草紙】【鎌倉九代記】【金槐集】等、相模川、馬入村の記載がある

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