龍源寺曹洞宗
平塚市片岡810       (0463)58−1583フレームを復活させる

片岡村 豆知識

『新編相模国風土記稿』 巻之四十九 村里部 大住郡巻之八

徳川幕府が11年の歳月を費やして天保12年(1842)に完成させた相模国の大地誌である。 全126巻におよび、村々について歴史・地理・寺院・神社等を詳述しており、江戸時代の相模国各村を知る貴重な史料である。

○片岡村 加多遠加牟良

片岡郷と唱ふ、江戸より十六里余、民戸四十五、東西七町南北十六町許東、飯嶋・廣川・西海地三村、南、千須谷・廣川二村、北、大畑・西海地・矢崎三村、

北条氏割拠の頃は布施善三郎知行す【役帳】曰、布施善三、百二十五貫九百八十五文、中郡片岡、按ずるに、村内龍源寺奮記に、北条氏の時、地頭布施兵庫と見ゆ、同人なるにや、
今地頭高井但馬守式房古御料所、寛文4年(1664)4月青山因幡守宗俊に賜ふ、延享3年(1746)先世兵部少輔信房拝賜す、
検地は慶長8年(1603)彦坂小刑部元正改む、往来二條一は伊勢原道、幅八尺、一は曽谷道、幅二間、あり、
○高札場 ○小名 △本村 △中庭 △和田 △浅井窪
○坂四 宮坂登二町余、中道坂登三町許、和田坂登二町許、等の名あり一は無名なり登一町許、
○金目川 村の中程を流る幅二十七間許、橋二を架す一は土橋、長十二間、一は板橋、十間、堤あり高一丈二尺、
○雷電社 村の鎮守なり、当社は下加茂の社を祀る所にて、勧請の年代傳へざれど、鎌倉将軍の頃は前記の社と称し、祈祷を命ぜられしと云傳ふ、建暦2年(1212)8月当社を似て、鎌倉将軍の祈祷所と定めし事【東鑑】に見ゆ曰、8月22日、相模国片岡前記等社事、可為将軍家御祈祷之由、今日被定之、図書允奉行之、祭神天彦火瓊瓊杵尊、神躰は座像長八寸、と云傳ふるのみ、開扉する事なし、本地十一面観音、是も開扉せず木にて圓鏡の如く作り、内に彫刻すと云、例祭8月9日、社領二石の御朱印は天正19年(1591)賜ふ、拝殿あり、
△鐘楼 寛永6年(1629)の鋳鐘をかく、
△東照宮 御入国の頃当社神主屋鋪内に御床几を居させられ、御休息あり、後他界の後、其所の御宮を建立せしが、屋鋪内に置奉る事恐ありとて、文化7年(1810)本社の北、山上に石祠を造立し移し奉り、奮地には法華経一部一石に一字を書写す、を埋め、上に供養の碑を建、
△末社 牛頭天王
△神主 宮河丹後 吉田家の配下なり、先祖丹後家嗣齢百六歳、明暦2年(1656)正月8日死、より代々神職を勤むと云、今菱御紋付御茶碗一口を蔵す神祖御休息ありし時の賜物と云傳ふ、
○山王社 村持、下同、○石神社 ○稲荷社
○神明社 村民持、神木の松樹圍一丈二尺、あり、

○龍源寺 明株山と号す、曹洞宗下吉沢松岩寺末、 本尊 華厳釈迦、

開山 壁岑東全本寺二世、天文16年(1547)9月17日卒、
按ずるに、所蔵慶安2年(1649)呈書の案に、
壁岑和尚、開闢以来百八十余年之古跡、法幢之地云々とあり、慶安2年(1649)より百八十年推上れば、文明元年(1469)なり、株に余年とあれば、文明前に起立ありしなり、是に縁れば開山の卒年少く後れたり、

古は北条氏政、寺領を寄附し、頗繁昌の地たりしが、天正(1590)小田原役に兵火に罹りて、寺領寄附状、及什宝等皆鳥有す【呈書安】に曰、中頃心岩和尚之代、地頭布施兵庫取継を以、小田原屋形氏政より寺領の後判給、頗繁昌之所、去天正庚寅年、兵乱之砌、致炎上開山以来之什物以下、株氏政の判形共、焼却仕塁云々、

中興 鐵叟襌里寛永8年(1631)10月7日卒、

慶安2年(1649)2月寺領九石三斗余の御朱印を賜ふ、

△衆寮 △白山社 ○薬師堂 本尊は恵心作長一尺、村持、

○布施氏墓 龍源寺境内に続ける山林中にあり、五輪塔なり、其石に布施氏の三字を彫れり、是は北条氏の時当村の地頭の墳墓なりと云傳ふ、按ずるに、【北條役帳】に載たる布施善三【役帳】の文、村の総説に見えたり、の墓なるべし、傍に古松圍一丈五六尺、あり、布施の松と呼びしが、今枯槁す、

○神事舞太夫 松風傳右衛門と称す、江戸浅草田村八太夫配下、

以上の記載があり、地元の方ならば良く理解できると思います。

次は 寂静寺 約1.4k

ホームページ