芳沢山蓮昭寺日蓮宗
平塚市寺田縄1277     (0463)58−2943フレームを復活させる

『新編相模国風土記稿』

○蓮昭寺 
芳澤山と号す、法華宗 鎌倉比企谷妙本寺末、

古は寺号蓮勝と書せしが、後昭の文字に改む、慶安2年(1649)寺領の御朱印に、蓮昭寺と載せらる、其頃改めしにやと云、所蔵寛文6年(1666)の文書に、猶勝の字を書したるは、奮に因て記せるなるべし、

当寺は延慶元年(1308)、中老僧日辨慶長元年(1596)6月26日卒、の開基にて、其門派たりしが、住僧日言の時、天正2年(1574)、布施佐渡守康純寛永系譜康則に作る、今本寺塔中常住院蔵、天正3年(1575)の文書に従ふ、己が宅地を寺地として再興し当時草創の地詳ならず、按ずるに、鎌倉の辺にありしならん、門派を改めて今の本寺に属す其時の文書写あり、
曰、相州寺田縄吉澤山蓮勝寺、雖為日弁門流、従天正2(1574)甲戌暦、師檀共奉仰両山門流者也、
又曰、寺田縄吉澤山蓮勝寺、当所守護、布施佐渡守中興、建立之末山、為本末契約、両山永代令任結衆者也、天正2(1574)甲戌5月3日、施主布施佐渡守芳澤、当代現立院日言、
されば日言現立院、慶長5年(1600)3月13日卒、を開山、康純事跡卒年等、墳墓條に載す、開基とす、
又康純本寺に功天正3年(1575)本寺塔中常住院領を寄附す、事は板戸村條にみたり、あるを以て、9年正月彼寺中に於て、当寺を首座とせり、曰、蓮勝寺大檀那芳澤、為常住院領、経子谷被令寄進、忠節之間、比企谷末寺首座、免許之所、於後代不可有違乱、彼寺住僧代々、可奉祈施主一族、子孫繁栄者也、天正9(1581)辛巳正月19日、願主調御院芳澤、俗名布施佐渡守授與之、当代常住院日雄、按ずるに、日雄は常住院の初代なり、
又曰、今程本行院呼候而、様子聞候、先師四代以来、比企谷御末寺首座、無粉由具聞候、即刻致支度、御出仕可被越候、委細者常住院可有口上候以上、正月20日、寺田縄蓮勝寺、日樹華押、按ずるに、日樹は本寺及池上本門寺住職なり、
又曰、寺田縄芳澤山蓮勝寺者、日惺聖人以来可為比企谷末寺首座、明白証文在之、御代不可有異議者也、寛文第6(1666)丙午暦、12月19日、両山十九世、大僧都僧那院日豐華押、授與之、福寿院日舜、按ずるに、日惺は本寺及本門寺住持、日舜は当寺七世の僧なり、以上二通は、本紙を蔵せり、
慶長4年(1599)9月、当寺及当住院、堪耐の事に依て日雄文書を投ず曰、
常住院者、可持蓮勝寺、此寺堪耐者、常住院可持立、両所住僧互可在相談、常住院退座、御免許者是故也、緞証文雖為紛失、経子谷之以由跡、可証跡者也、慶長4(1599)己亥9月祥日、寺田縄蓮勝寺、本行院日雄華押、此文書本書を失ふ、

本尊宗法の寶塔諸佛を置、慶安2年(1649)寺領十二石の御朱印を賜ふ、
寺領の地も、布施康純が居蹟の内なりと云、則境内に続けり、

△稲荷社 

△布施佐渡守康純墓本堂の傍にあり、五輪塔なり欠缺損して形全からず、 文字も摩滅す、側に天明4年(1784)二百回忌の時、建たる石碑あり
近き頃迄、苗裔(びょうえい・遠い子孫)の村民ありしが、今落魄(らくはく)せり、

康純は三河守廉貞の子にて、北条氏康に仕へ、軍功あり
寛永布施系譜曰、弾正左衛門康則、永禄7年(1564)、相州鴻ノ臺合戦の時、鎗を合せ疵を蒙る、氏康是を感美し、佐渡守となずけ、且父廉貞が預る所の團扇の役を勤めしむ、相州の内、大住半郡、板戸村、大槻村、及豆州小坂村、武州岩槻領内の内、善能寺、稲毛の庄内、野川村等を領す、

天正13年(1585)12月3日、小田原にて死す、法名調御院芳澤日勝、

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