霊山寺
平塚市下島84  筺。毅機檻苅牽牽フレームを復活させる

青背光 眩い建つは あかい山

青い空を背に赤い屋根がきわだち山の様に見える 。下島の霊山寺には淡島神社が祀られていて、昔は3月13日に淡島待と呼ぶ縁日が開かれました。現在は下島八幡神社と同じ日に祭られています。
◎淡島堂内に、淡島神と大書きされた扁額が掲げられています。この扁額の書は、勝海舟の揮毫(きごう)です。雄大な書風の扁額で、市内にある名額の一つに数えることができます。
◎霊山寺の岩船地蔵は栃木県岩舟町にある高勝寺のご本尊をいい、死者の集まる霊山として関東甲信越にまたがる広い信仰圏を持っていました。それは石造りの地蔵像建立を伴ったものとして信仰され、平塚市内には岩船地蔵と銘がある地蔵は、この他に大島の十輪寺に1基あります。
神奈川県下では26基が確認されています。
『新編相模国風土記稿』によると、
霊山寺 正定山小松院と号す、浄土宗、芝増上寺末、
開山念誉終故、信蓮社と号す、卒年月詳ならず、16日を忌日とす、
開基信誉徳善 卒年月詳ならず、6月10日死す 本尊三尊彌陀、
淡島社、天神社、弁天社、)と記述があります。

淡島神社

下島村 豆知識

新編相模国風土記稿』 巻之四十三 村里部 大住郡巻之二
 
徳川幕府が11年の歳月を費やして天保12年(1842年)に完成させた相模国の大地誌である。 全126巻におよび、村々について歴史・地理・寺院・神社等を詳述しており、江戸時代の相模国各村を知る貴重な史料である)

下島村

江戸より行程十六里、
鎌倉大草紙】に相州島ヶ原合戦の事あり、今当国に其地名なし、思うに当村を下島と呼び、又隣村に小鍋島、或は大島等の名あり、是は古此邊原野にて島ヶ原と唱しを、暫く村落をなすに及て、各島の文字を似て、地名とせしるにや、
若さも有んには、康正元年(1455)正月、上杉修理大夫入道持朝、長尾左衛門入道昌賢、太田備中守入道道眞、等、此地屯せしを、足利成氏、武田右馬助信長、一色宮内少輔直兼をして、これを討しむ、持朝等敗走す、

鎌倉大草紙】曰、享徳3年(1453)12月28日、御所勢山内を追払、去程に、上杉修理大夫入道持朝、長尾左衛門入道昌賢、太田備中守入道、其外上杉一味の兵共一千余人、相州島ヶ原に寄来り、後陣の勢を待居たり、成氏より、武田右馬助、一色宮内大夫を大将として、
享徳4年
(1454)正月6日、三百余騎にて鎌倉を立、同22日、島河原に押寄て、時の声を上る、上杉方には鎌倉勢小勢にて、斯寄来るべしとは、思も寄らず、油断して有ける所を、不意に攻来りければ、周章ふためき、騒動しけるを、鎌倉勢是に利を得て、三方より火急に、責寄ける、程に、上杉方忽に打負、悉敗軍して、上州、川越と、両方へ引返す。

民戸37、東西八町余、南北九町余、東、田村、西、小鍋島村、南、打間木村、及豊田、四ヶ村入合田地、大島村。

慶長8年(1603)検地後、元禄10年(1698)地頭の縄入りあり、長田理助知行なり、慶長年中祖先拝賜す。

※その他、川、宮、寺、等記載あり。

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