祥雲山妙楽寺臨済宗
平塚市田村5405  ℡ 55−0719



「新編相模国風土記稿」 巻之四十三 村里部 大住郡巻之二 
徳川幕府が11年の歳月を費やして天保12年(1842年)に完成させた相模国の大地誌である。 全126巻におよび、村々について歴史・地理・寺院・神社等を詳述しており、江戸時代の相模国各村を知る貴重な史料である

○妙楽寺 祥雲山と号す、中門に三字を扁す、明人周閏禄筆、

臨済宗、鎌倉建長寺末、  本尊千手観音、

開山義堂周信、嘉慶二年(1388)四月四日卒、
開基足利左馬頭基氏貞治六年(1367)四月二十二日卒、泉院玉岩消・臍議衞腓秘襪后/font>なり、

応永十一年(1404)十一月、足利左兵衛督満兼、祈願所となす、
書蔵文書曰、相州田村郷妙楽寺事、可為祈願所之状如件、応永十一年十一月一日、当寺長老、左兵衛督花押、

寺領十石の御朱印は、文禄三年(1594)二月賜れり、往古鐘楼ありしが天文十九年(1550)、洪水に流失し、今に再建せずと云、

【寺寶】△古文書四通、一は観応二年(1351)十二月、足利尊氏より、塔婆料所の事、厳密に沙汰すべき由、兵部少輔某への下知状、一は足利満兼の文書、其文前に註す、一は応永十五年(1408)二月、常香免寄進の状にて、実名華押宛所あれど、詳に読難し、一は天正(1573〜91)小田原陣の時、太閤秀吉、当村に出せし制札なり、此内当寺に預りし證なき物は藝文部に載す、

△天神稲荷合社 △閣魔堂 堂地村内にあり、今仮に爰に移す、
△松樹 庭前にあり、圍九尺六寸許、ゆるぎの松一枝を動かせば、一木悉く動くと云、又珠数懸松と呼ぶ、当寺十一世、惟山が時、七度祝融に羅る、或時異相の人来て火防の珠敷なりとて、此松に懸たり、依て名ずくと云、惟山は寛文中(1661〜72)卒す、
△池 西隅にあり、鐘ヶ池と呼ぶ、方葉の葦生せり、

妙楽寺の総てを載す、

緑の参道を抜けると二階建て山門があり、ゆっくりお参りがしたい、 春には桜の中に山門が綺麗に映える事だろう 「寺の原点、日本人の延々と続いた暮らしの原点」を感じる寺だった。
妙楽寺は祥雲山と号し、由緒ある臨済宗の古刹で、開基は足利尊氏の子で鎌倉公方の基氏、開山は有名な夢窓国師(むそうこくし)の弟子、義堂周信といわれます。文禄3年(1594)には徳川家康より十石の朱印地が与えられました。また、足利直義の御教書など貴重な文書が多数残されています。境内には本堂屋根修復の時の「本堂鬼瓦」が記念として置かれていて、その大きさに脅かされます。往時の壮大な堂宇の姿をうかがうことができます。
◎半増坊は妙楽寺の堂後の丘に、明治時代に建てられ、関東大震災で全壊するまで、3月17日のお祭りには芝居などがあって多くの参詣者でにぎわいました。現在の祠の前には鳥居の根巻一対と狛犬一対があって、根巻には大勢の寄進者の名前が彫られ、「左大磯」という道しるべも刻まれています。こうした遺物からも昔の信仰の盛んであったことが偲ばれます。

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