天台宗光明寺坂東札所第七番
金目観音堂  平塚市南金目896フレームを復活させる

坂東三十三ヶ所観音霊場第七番札所で、縁起では大宝2年(702)に小磯の浜で観音小像を感得したのが始りだと伝えられています。現在も坂東札所巡りの人たちが多く参詣に訪れていますが、市域では金目観音は安産祈願のお堂としても知られています。
ここは堂宇を管理する光明寺のほかに、仁王門、鐘楼、歓喜堂、文殊普賢菩薩堂があり、庚申塔、地蔵、万句碑などの石仏、石塔も多く建立されています。

聖徳太子像    

        

『新編相模国風土記稿』 巻之四十九 村里部 大住郡巻之八

徳川幕府が11年の歳月を費やして天保12年(1842)に完成させた相模国の大地誌である。 全126巻におよび、村々について歴史・地理・寺院・神社等を詳述しており、江戸時代の相模国各村を知る貴重な史料である

○金目観音堂 

本尊聖観音行基作、長五尺九寸、にて金像長七寸、を腹籠とす、前立の像長三尺5寸、運慶作、下皆同作なり、あり、傍に六観音各長二尺、下同、三十三観音等を安置す、又 弁天の像あり古は別に社ありしが破壊せし故、爰に安ず、縁起に村内猪俣氏の建る所と記す、

縁起寛永7年(1630)松平豊後守宗俊の家臣、田福太右衛門秀典の記す所、に據るに、
大宝2年(702)小磯淘綾郡の輩、の浜にして、海人観音の小像を感得して尊敬す曰、相州大住郡金目村、金目山光明寺蔵、一軀観世音金像、考其来歴、文武天皇大宝2年( 702)、鳥蛋戸於相州小磯浜、釣漁暇偶拾得観音像、大喜使闔境父老渇仰、自此威霊漸盛、按ずるに、【坂東観音霊場記】に、此蔵は聖徳太子の作なる由、行脚の僧鑑定せし事を載せ、又大宝2年( 702)より数年の後、僧道儀海人の宅地を道場として、此像を安置すと記す、されど道儀は、佛像出現の年卒したれば、数年の後とするには誤なり、

天平年中(729〜748)僧行基聖観音の像を彫刻し、彼海人の得たる小像を胎中に蔵む曰、天平年中行基菩薩、刻彫観音像因以彼鳥蛋戸拾得之像、蔵其腹中、自此威徳益盛、

永延2年(988)花山法皇勅して、坂東三十三所順禮第七番と定め給ふ曰、永延2年( 988)春、花山法皇、行幸関東、拜之大感此霊験、勅為坂東三十三所、順禮第七番

承安中(1171〜1174)源頼朝堂宇を修造す曰、承安中屡有奇験、源右大将頼朝公、新修伽藍、按ずるに、承安中は、頼朝末流人にて豆州に在、其頃堂宇修造せしと云事疑ふべし、但年号を誤るか、

治承7年(1183)頼朝観音の像を寄附し、且祈願所と定しより、鎌倉将軍世々の祈願所たりしと云曰、治承7年、頼朝公賜一箇尊天下泰平之祈願所、然後将軍相継崇尊専託祈願、

寿永2年(1183)5月、頼朝僧源信を別当職に補任す別当光明寺所蔵文書曰、補任金目観音堂別当職事、大法師源信、右人為令知行寺務、所補任如件、故下、治承7年( 1183)5月20日、前左兵衛佐源朝臣華押、治承7年寿永2年に当たる、

延元元年(1336)12月斯波陸奥守家長境内及寺領中、地頭等の私綺(事件の)を停止す曰、相模国金目光明寺事、治承7年( 1183)5月3日、右大将家御下文、厳重之上者、寺中扞寺領以下、停止地頭等私綺、不可致違糺、若於背此旨者、可為罪科之由、依仰執達如件、建武3年( 1336)12月23日、光明寺住持、修圓御房源華押、按ずるに、文中記せる所、頼朝の下文は、今傳はらず、又建武3年( 1336)は、延元改元の年なり、

文和4年(1355)5月、源尊氏祈祷を命ぜり曰、天下静謐祈祷事、近日殊可被致精誠之状如件、文和4年5月2日、光明寺長老、尊氏の華押あり、

康応元年(1389)3月鎌倉淨光明寺、当寺領を押領他人の領地などを実力をもって奪うこと)するに依て雜掌善勝と云者、訴状を捧ぐ訴状案に曰、
寶戒寺末等、相模国金目郷光明寺雜掌善勝謹言上、欲早当寺別当職者、右幕下御代、治承7年(1183)下給補任御判以来、送数百年星霜、無相違之処、元弘以後、以当郷内二階堂攝津伊勢入道跡、寶戒寺淨光明寺、両寺仁御寄附間令折中、以南方者、寶戒寺知行之、以北方者、淨光明寺就知行之、混干北方、令押妨当時領條、無謂上者、任証文理、被返付下地、全寺領、弥致御祈祷精誠間事、福進両通、右大将家補任御判、扞志和奥州御教書等一通、淨光明寺押領田畠注文、右当寺者、草創文武天皇御願、本尊聖観音者、行基菩薩御作也、仍右大将家御判、明鏡之上、当御代建武3年( 1336)、為志和奥州、関東御代官、令停止地頭寺私綺之由、御教書炳焉之上者、被停止淨光明寺非分押妨、任御壁書の御法、致于年々押領物、悉被糺返之、於下地者、任証文理、被返付当寺、全知行、弥為致御祈祷精誠、恐々謹言如件、嘉慶3年( 1389)3月日、
按ずるに、此年
康応と改元あり、又此訴状に載する、福進の内二通は、概に前に注記する所なるべし、

田畠証文は、今傳はらず、但当寺田畠の数を記したる物あり、彼証文の残闕なるも知るべからず、故爰に証す、曰、
光明寺田畠数事、一町修理田、一町□□□□、一町六斎田、一町三段大、そり、六段大、ゑのきがつぼ、六段□□□、五段大、宮前後、四段大、あらた、三段大、いなはの宮のまへ、三段大、すのこばし、二段づゝ三さき北方、二段お□かつほ北方、二段いかつちがつほ北方、四段しのはら、二段湯免、三段いわやた、四段いしあかだ、七段ふかまち、二段ふなはら、大、きつね□五段大、木影、巳上十町八段、畠坪付、七段野畠、あをやき、六段野畠、ゑくほ、七段野畠、たこみね、二段野畠、ゑくほ、二段野畠、たこみね、二段野畠、湯免、二段まわりくねのはく、二段野畠、たかま、四段木影、二段こゑくほ、以上三町六段、
按ずるに此内の字、今に在するあり、修理田、つゝみさき、いかつちがつほ、あをやき、ゑくほ、たこみね、以上当村内にあり、ゑのきかつほ、あらた、すのこはし、ふかまち、以上北金目村にあり、又傳訛せしと覺しきあり、いなはの宮のまへは、いなほ石、あらたは、石原田、たかまは、高間原、以上南方の唱なり、そりは、段町、六斎田は六段田、おほつほは、大久保なるべし、以上北方にあり、

明徳元年(1390)3月淨光明寺より当寺領を狼藉し、且寺中乱妨の及ぶを以て4月再訴状を呈す
曰、目安、光明寺雜掌善勝申、於当国金目郷光明寺領者難為当郷内、至下地拾町八段者、自往古各別地也、爰混二階堂攝津伊勢入道跡、当寺領内半分、淨光明寺仁押領之畢、仍任文書理及上訴、被経度々御沙汰、成□符御奉書、可糺決理非之由、被仰出之処仁、曾不伺上裁、巧無理嗷訴、結句海道動乱間、被閣御沙汰刻、立還、去月19日、本知行半分地仁致、中間狼藉、打擲耕作人等、加之同23日、相語数輩悪黨等、切破四壁、乱入寺中、摘取多々茶薗之條、無其隠上者、検知彼在所、被致糺明、為預御注進、恐々目安如件、明徳元年( 1393)卯月日、

六月又訴ふ
曰、相州金目光明寺雜掌善勝謹重言上、欲早如先度言上、当寺者、難為金目郷内、自往古寺領者、格別御寄進地也、而似当寺領、混二階堂攝津伊勢入道跡、建武年中(仁、寶戒寺代官広田新左衛門尉秀倫、瑞泉寺代官伊戸入道々紹、私令折中之、半分南方者寶戒寺領、半分北方瑞泉寺領也、剰此時迄于光明寺本尊、観音阿弥陀仏同寺領等、分于二畢、観音者寶戒寺領分、阿弥陀者瑞泉寺領分、寺田拾町八段、内五町五段者、寶戒寺進止、五町参段者、瑞泉寺進止 、如此件、両寺押而知行間、寶戒寺押領分者、普川国師在世之時、付歎申、如元返給畢、瑞泉寺押領分者、寺淨光明寺、相続押領間、蓮々 雖致上訴、未道行、如淨光明寺雜掌陳状者、建武分帳仁、阿弥陀登被書入上者、寺田隋而不可有他妨云々、彼分帳者、寶戒瑞泉両寺代官、秀倫道紹、私折中目六也、非公験上者、争可足証跡哉、早被止淨光明寺押領、任右大将家後家文、斯波奥州御教書等旨、可預御遵行由、言上最中、依海道動乱、被閣御沙汰処、去3月23日、結句押而打入于本知行半分寶戒寺避渡地、切破寺内四壁 、摘取茶薗條、中間狼藉罪科、殊以下軽者也、其子細守護方注進状在之、所詮於中間狼藉等罪科者、宜為御沙汰、至淨光明寺押領下地者、御遵行、如元全寺用相模国金目郷内光明寺田伍町参段間事、副進一巻、右大将家御下分、斯波奥州御教書以下、建武年中分帳両通、守護人三浦介、併代官聖州注進状等、右子細、去年康応元(1389)、八月二十五日御沙汰仁、治承建武御教書者、雖為明鏡於寺田目六者、無証判之間、不足証跡之由、被仰出華、雖然秀論道紹、私折中之目六仁、光明寺田、拾町八段之由、既書入、寶戒寺明光寺、所帯分帳之上者、爭可被残御不審哉、然早預御遵行、如元寺用、云々、明徳元年( 1393)六月日、

応永年中(1394〜1427)境内聖天供、及長日祈祷の巻數を足利満兼に呈す、
曰、於光明寺、聖天供三七ヶ日、併長日祈祷巻敷給候御懇祈之至、殊萬悦候、恐々謹言、2月11日、寶戒寺長老満兼華押、其後兵亂に依て、久しく衰微せしが、元和に至て暫く奮に復す縁起曰、応永中、干戈頻起、寺社頽敗、雖然霊験累現、元和之初、至奉平以来、祠廟隆盛如奮、其後洪水の為、堂宇頽破せしを、
元禄10年(1697)住僧慶賀再建せり
曰、金目川、比年大水、懐山襄陵、殊漂山門伽藍、又過半頽敗、時元禄8年( 1695)冬十月住持慶賀、累有営建之志、獨自執鍬、雖募集土民、力微不能成功、数日空手、只念彼観音力、於是奇哉、挙国百姓、担石運土、捄之度之、陾々薨々、不期而来者如雲、斯時也自地中放光三次、人民見其異現、各莫不盡筋力、以晝謹農事、故毎夜張燈於道路、終夜汲々、不敢憚拮据之労、同10年功成、於是慶賀大喜、記其有功者于簿籍、而蔵之於隠者常心菴中、其菴誤有失火、常心所蔵之木佛什器、皆罹煨燼、雖然所書之姓名、儼然未散、嗚呼慈眼所照也、實奇哉、是以光明寺至今蔵之、

慶安2年(1649)8月堂領三石、及境内九石の御朱印を賜ふ、毎年7月縁日、
18日なり、近村の童子等集て、相撲を興行せしが、近き頃廃せり、南北金目両村の民は、此日祭礼と称し、鎮守に等しく尊敬す、には参詣の者群集せり、又12月15日境内に市を立、歳首の用具を鬻げり、

△大鐘 二王門中に掛、正平7年(1352)の鋳鐘なり
銘曰、相模国金目郷光明寺鐘、正平七年(1352)壬辰二月日、当住持沙門空忍、願主法願智国、併結縁大工河内權守清原国吉、

△潮權現社 観音の像を感得せし、海人を奉り観音縁起曰、追尊鳥蜑戸、稱潮大權現、為之建祠、以為当寺護法善神、其常に潮を汲し桶今僅に底の板のみ存せり、圓径一尺一寸、を神躰とす、当社を鎮守とする村民二十四軒あり、例祭9月9日、神明稲荷を合祀す、

△聖天社 神躰は聖徳太子作と云長七寸、
嘉慶2年(1388)8月足利氏満供所地として、坂間郷の内を寄進す
別当寺所蔵文書曰、寄進光明寺相模国坂間郷供所地事、右四季為聖天供料、所寄附之状如件、嘉慶2年(1388)8月28日、左兵衛督源朝臣華押、

応永年中聖天供の巻敷を、足利満兼に献ず、証上見えたり、

△阿彌陀堂 本尊は運慶作長二尺、傍に聖観音同作、長二尺8寸、を安ず、

△札堂 聖観音を置、△二王門 二王長各九尺、は運慶なり、額に金目山と書せり、

△別当 光明寺 金目山寶樹院と号す、天台宗鎌倉寶戒寺末、

開山 道儀大宝2年(702)10月5日卒、

寿永2年(1183)源頼朝、僧源信を当寺住持とせし事所蔵文書に見ゆ其文前に註す、

中興開山 慶賀正徳2年(1712)12月5日卒、

本尊 彌陀、傍に三尊彌陀長六寸五分、勢至四寸、共に恵心作、

地蔵弘法作、長三尺七寸、愛染慈覚作、長二寸、尊氏の帰依佛と云、

十一面観音頼朝寄附の像、縁起に載る所是なり、等安ず、

古文書十通を蔵す、九通の文は前に註す、一通は至徳4年(1387)西方寺所在詳ならず、今廃せしなるべし、料所渡状なり当寺に預らず、其文根坂間條に引用す、

以上、徳川幕府が編集した『新編相模国風土記稿』より金目観音堂及び光明寺を記述致しました、『新編相模国風土記稿』が編集され約20年後、日本は明治に入り近代国家へと進みました。上記の通り土地は一部の権力者達が握り庶民達の苦労が伝わってきます、この様な土地制度は昭和20年代迄続きます。

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