興淵寺        
平塚市小鍋島1153     (0463)55−2267フレームを復活させる

草に道 稲の香にほい 寺参り

『新編相模国風土記稿』 巻之四十六 村里部 大住郡巻之五

徳川幕府が11年の歳月を費やして天保12年(1842)に完成させた
相模国の大地誌である。 全126巻におよび、村々について歴史・地理・寺院・神社等を詳述しており、江戸時代の相模国各村を知る貴重な史料である、

○興淵寺 龍湫山と号す、曹洞宗津久井縣根小屋村功雲寺末、

文亀元年(1502)2月、堯翁舜在天了と云二人の僧開基せしが、怪事ありて廃頽せしを、
元亀
(1570~2)年中心外洞傳本山住持洞絮が弟子なり、と云僧爰に庵室を結び、禅定を務めしに、怪異自から退きしかば杉山修理寛永16年(1639)8月12日死す、法名白月宗蓮、今に子孫村民にあり、同源左衛門法名聲安道音、等、村民と力を合せ再興して洞傳寛文4年(1664)6月6日卒、を開山とし、且修理・源左衛門等が主人たりし、龍湫院明室圓光尼元亀元年(1570)8月晦日死、事跡詳ならず、境内に墳墓あり、其印の石を神楽石と呼ぶ、を開基とせり、当寺初は開基の法号を取て、圓光院と号せしが後今の寺号に改めしと云、

本尊 釈迦

寺領十石の御朱印は慶安2年(1649)賜れし

△衆寮 △神明・白山・弁天合社 △天満宮

小鍋島村 江戸時代

○小鍋島村古那陪志摩牟良

江戸より十六里、民戸七十、東西十町余、南北十六町余、
東、大嶋・下嶋二村、西、城所・上平間・下平間三村、南、平等寺・小峯・宮下三村、北、下谷、
昔島ヶ原と称せしは此辺の事なるべし【鎌倉大草紙】下嶋村條に弁ず、併せ見るべし、

北条割據(拠)の頃は大通寺領たり【役帳】曰、大通寺五十二貫七百六十文、中郡小鍋嶋五十九貫七百文、同所寅云々、又曰、五十九貫七百文、小鍋寅御見検地増分役、重而総検地之上、改而可被仰付、

今地頭篠山甚右衛門先世甚太郎資友 寛永10年(1633)拝賜す、

鈴木三之助・勝田兵吉・高麗栄竹・船橋宗迪・曽屋長順・中條鉄太郎・加藤源左衛門以上七人、元禄11年(1568)先世拝賜す、石川銅次郎拝賜の年代詳ならず、等なり、

検地は延宝6年(1678)、成瀬五左衛門長俊・八木仁兵衛等田糺せり此時篠山・石川二氏の采地は検地なし、

大山幅一丈一尺、中原幅九尺下同、平塚等の道、三條係れり、

○高札場 ○小名 △長島 △城東幾津登宇、

○澁田川 北界を流る幅二間、堤を設く高一丈許、
○谷川 南辺を流る幅一丈二尺、

○八幡宮 村の鎮守なり、神体青石長六寸許、梵寺を彫れり、例祭8月15日、神楽殿あり、
△鐘楼 享保18年(1733)の鋳鐘を掛、△末社 金毘羅 稲荷・天王・秋葉・天神・疱瘡神合祀
△別当東福寺 鶴林山と号す、古義真言宗平塚新宿等覚院末、本尊不動
○山王社 小名城東の鎮守なり、祭神詳ならず、例祭4月4日、沼目村眞福寺持、○浮島弁天社 村持、下同、○社宮神社、○第六天社、○諏訪社、○神明社
○興淵寺 ※上記に記載
○地蔵院 安養山と号す、興淵寺末、本尊地蔵、寛文5年()起立す、
開山 辨庵博秀本寺二世延宝7年(1679)7月25日卒、
○慶徳寺 端龍山と号す、臨済宗鎌倉建長寺末、
開山 山皈山光一本寺十六世、慶安7年(1654)9月18日卒、 本尊地蔵、

○塚 一は西に在聖塚と呼ぶ、一は東に在共に高五尺、此邊の字塚越と唱ふ、
 

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