宝憧山常勝寺真言宗
平塚市田村5800  筺。毅機檻娃牽娃フレームを復活させる

雲を吐く 名も無き虫の 冬支度

新編相模国風土記稿』より

○常勝寺 法幢山と号す、古義真言宗、高野山無量壽院末、

本尊地蔵、

開山宥雄 寛文3年(1661)6月2日卒は、武州王子、金輪寺なりしが、小田原常勝寺 を引き、寺号として当寺を建、隠栖の所とす、

△鐘楼文政6年(1824)の鐘を掛、△稲荷社

田村歴史豆知識

新編相模国風土記稿』 巻之四十三 村里部 大住郡巻之二 

徳川幕府が11年の歳月を費やして天保12年(1842年)に完成させた相模国の大地誌である。 全126巻におよび、村々について歴史・地理・寺院・神社等を詳述しており、江戸時代の相模国各村を知る貴重な史料である)

田村 (多牟良)江戸より十五里、

将軍頼経(よりつね)鎌倉下向の時、当所に逗留の事、所見あり、
【承久記】曰  (しょうきゅう1219〜)
6月26日都を立て給ひて、御下向あり、路次の間、旅宿の有様珍敷(めづらし)、われ 劣らじとして色めきける、相模国田村に五日御逗留、七月十九日鎌倉に下着あり、


享禄元年(1528)北条氏の命に依て、木材運漕の事あり、
高座郡田名村民所蔵文書曰、
御隠居御作事之材木、三百七十三丁□□より来次第、片時も無遅々、須□□相届之清田に 可渡之旨、被仰出候、戊九月十四日、田名、厚木
田村筏士中
、安藤□北条氏華押、按ずるに 、戊子は、享禄元年にて、御隠居は北条氏綱なるべし、

永禄4年(1561)3月、上杉輝虎、小田原発向、其軍勢当所に陣取る、
【豆相記】其文前村に見えたり、【北越家書】曰、永禄四年三月、公松山城を出馬、あり 山下宿河原に公の本陣を居られ、相続て藤沢、田村の辺、三里が間、田野藪林の巷迄、軍衆 の舍ならずと云所なし、

12年8月、武田信玄小田原発向の時も陣所となる
【甲陽軍鑑】其文前村條に註す、帰陣の時、武田勝頼爰に陣す、曰、小田原表、利運なさ れ、十月四日に引取給ふに、勝頼公殿をなされ候て、田村大上と云所に陣捕云々、

天正18年(1590)豊太閤 当村に出せし制札あり、
村内妙楽寺所蔵、地名に大中郡田村ノ郷とあり

8月太閤奥州帰陣の時、当所を過る、
【大三川誌】秀吉奥州帰陣の條曰、信州八代に到り、上州の堺、碓氷峠より武州川越、相州上部田村を過ぎ、藤沢、小田原、箱根を歴て、駿州沼津に到る、

民戸188、敷外長吏18軒、非人2軒あり、長吏見捨地の内に、御嶽、白山両社を祀る、廣袤(広さ)各18町余、
東、相模川を隔、高座郡一之宮・宮山二村、西、玉川を隔、本郡大島・下島二村、南、四ノ宮・新土二村、北、大上・小稲葉二村、

今御料、及高井但馬守式房、
正徳享保(1711〜1735)の頃は、本多百助知行、後御料となり、宝暦5年(1755)、先世・兵部少輔拝賜す、
竹尾駒太郎、元禄11年(1698)、先世・戸一郎拝賜す、
間部主殿頭宝永元年(1704)先世・主水拝賜す、
按ずるに、村内御霊社に、延宝5年(1677)寄付の石灯篭二基あり、其一に藤原氏榊原忠乗寄付、榊原右京、同源左衛門、同五左衛門、と刻せり、社傳に、忠乗は当時の地頭なりしと云、土人は其傳へを失へり、

大久保新八郎、渥美九郎兵衛、細井宗左衛門、石川六左衛門、鵜殿藤助、以上元禄中先世拝賜す、等知行す、

大山八王子の二道、幅各二間、係る、人馬の継立をなせり、
大山道は、東南、高座郡一ノ宮村へ一里、西北、郡内伊勢原村へ二里、
八王子道は西南、淘陵郡(ゆるぎぐん)、大磯宿へ二里九町、北方、愛甲郡厚木村へ二里を継送れけり、

相模川に傍て、天保4年(1647)、江川太郎左衛門英毅の検せし、新開場あり、御料に属す、相模川及玉川の辺、秣場(まぐさ ば)二所あり、

延享2年(1745)、神尾若狭守春英、天保4年(1647)江川英毅の検せし、流作場二所あり、共に御料に属す。

その他、林、渡船場、橋、神社、寺、太夫、など記載があります。

次は 妙楽寺 0.1k

ホームページ