浄信寺浄土宗
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『新編相模国風土記稿』

○浄信寺 長持山古學院と号す、浄土宗芝増上寺末、

開山 頓蓮社、相誉學源天文6年(1537)6月10日卒、
開基 城田若狭大永2年(1522)8月晦日卒、法名古學院長誉浄信、子孫村民にあり、

古は今の寺地より東南の方、二町程隔てありしが、元禄8年(1695)此地に移る、舊地(もとち)は陸田として当寺の持なり、

△地蔵堂 ○地蔵堂 浄信寺持、

長持村 豆知識 (江戸時代)

○長持村 奈賀毛知牟良

江戸より十六里、金目郷に属す、按ずるに、正木文書に、永用郷文永5年(1268)の文書、其文下に註す、下同、又は長持郷年代詳ならず、但文永より少く後の物なり、と書したるは、当所の事にして古は永用の文字をも通じて書せしと見えたり、

民戸二十六、東西十三町余、南北五町余、
東、鈴川を境、中原下宿、西、公所及長持入部、南、朝氏・久松・南原三村、北、入野村、

古新田下野守頼有、軍功に依て当所を領し、一旦其女子に譲りしが、文永5年(1268)5月、外孫太郎政徑
岩松五郎徑兼の嫡男、母は有の女、則此地を譲りし女子なり、政徑童名を龜王丸と呼び、有が養子となりて、新田下野太郎と称し、又下野守となる、後西谷賢と号す、
【鎌倉大草紙】に遠江守とあり、
を養ひ、嫡子として当郷を譲れり、正木文書曰、譲渡所領の事、亀王丸所、上野国新田庄内、得河の郷、横瀬の郷、下新田の村、但馬の国上三沼庄、東方西方養子事、相模国永用の郷、右、新田庄内の所領は重代相傳の所領也、上三沼庄井永用の郷は、軍功の所なり、然るに先年の頃、女子源氏に譲りたまひて、安堵の御下文を申與へり、こゝに孫亀王丸は、彼源氏の子息たる間、これを養子として嫡子に立、御下文井手続のもんそとを相添てや うたいを書て、亀王丸に譲り渡所なり、但し京都大番は大事の御公事たるによりて、ふけんに従て、亀王丸が母井こけふんにも法令に任せて、所のようとうを配分すべし、仍子々孫々に至迄相違なく、領地すべき状如件、文永5年(1268)5月30日、散位源有華押、又曰、本領所々証文、云々、相模国長持郷文永5年(1268)5月30日に下野殿御蹟惣領しきを譲りまいらせき給、

夫より子孫、岩松右京大夫直国に至て傳領せし事所見あり
曰 岩松右京大夫、本領所々注文、相模国長持郷、云々、按ずるに、有・政徑を養子とせし後、実子三郎春出生せしかば、政徑は実父徑兼の所領、及母の譲りし地を領して隠居す、故に其子孫、又岩松を称号とせり、

永正16年(1519)4月北条早雲、幼息菊壽丸三郎長綱の童名後幻庵と号す、が所領とす、箱根山金剛王院文書曰、筥根領所へ、菊壽丸知行文23貫、中郡長持、云々、永正16年(1519)4月28日、菊壽丸殿、宗瑞華押、

永禄に至ては、幻庵が室知行せり【役帳】曰、御新造知行文78貫文

今 米倉丹後守昌壽領す元禄12年(1699)先世昌尹拝賜す

検地は寛文5年(1665)坪井治右衛門良充糺す、

脇往還道二條あり一は伊勢原道幅九尺、一は曽屋道幅一丈二尺、秣場南原堺に在、
○高札場
○金目川 中程を流る幅二十間、古は北方入野村を流れしが水理不便なるを以、宝永3年(1706)命ありて川筋堀替、村内を経る事となれり此時村内川鋪となりて、高七十六石四斗八升一合を減ず、板橋を架す長十三間、両岸に堤あり一は高一丈二尺、一は一丈一尺、

○鈴川 東を流る、幅八間、板橋を架す長八間、堤あり高九尺、

○熊野社 村の鎮守なり、例祭6月15日、神楽殿建り△鐘楼 宝暦6年(1756)の鑄鐘を掛、△本地堂 三尊阿弥陀を安ず、按ずるに、正保2年(1645)の棟札に、奉再造観音堂一宇とあれば、元の観音のみ置しと見ゆ、
△末社、天神 山王 稲荷 
△別当 安養寺 熊野山淨光寺と号す、天台宗淘綾郡高根村荘厳寺門徒、本尊阿弥陀、○貴船社、村民持 
○十二天社 享保7年(1722)造立せし石の小祠にて右の方に、文和壬辰(1352)より以後と刻せり、壬辰は元年なり、是は勸請の年なるにや、
○神明社 村持

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