高野山芳盛寺真言宗
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静けしや やせ鶯 墓参なり

『新編相模国風土記稿』より

○芳盛寺 土屋山無量壽院と号す、古義真言宗紀州高野山無量壽院末、

相豆武三州の檀林所なり、古は阿弥陀寺と号せしを応永年間中興長覺の時、今の号に改む、

開山 退耕行勇足柄下郡酒匂村の産、仁治2年(1241)7月5日、鎌倉葛西谷、東勝寺に於て卒、歳七十九、普応国師と諡す、其傳人物の部に詳なり、

中興 長覺羽州の人、出羽法師と号す、応永23年(1416)11月15日、高野山無量壽院に於て卒、

重興 志玉後醍醐帝の皇子、宇津峰親王の子、圓総上人と号す、明朝に渡り、帰国して寛正4年(1463)9月15日卒す、
【高僧傳】曰、和州東大寺沙門志玉字総圓、別号渡西、或稱談宗、刹帝利種姓也、僅垂髫年、師戒擅院総融律師、落飾受業、従同寺融存大徳、承三聚淨戒、学三大律疏、兼聴華巌貫達精微、究大小乗、未至壮歳、解壓南北、遂似応永24年(1417)截溟入明、即永楽五十年也、列刹宗匠、推似広学、太宗召宮講華厳經賜普一国師之号、在明5年、經疏什具、満船載帰、住東大寺遮那大殿、講華厳經、圓辨驚衆、稱光帝重賜国師之号、二厳兼備、化儀甚盛、相之極楽寺、稱名寺、阿弥陀寺、加之大華厳寺、洛西高山寺、主皆滌篆、寛正4年(1463)9月示寂於北京栂尾山、

再中興、左學頭師山寛永16年(1639)7月17日卒、鎌倉郡手広村、青蓮寺にて卒、

開基 土屋彌三郎宗遠建保元年(1213)8月5日卒、年九十、法名阿弥陀寺殿空阿、

中興開基、足利氏満応永5年(1398)11月4日逝、法名永安寺殿、

重興 大森式部大輔芳盛小田原城主、康正元年(1455)3月5日卒、硯照院了眼淨正、

本尊 彌陀恵心作、長三尺一寸六分、又同像一軀を置厨子に、大森式部大輔芳盛入道再興と書せり、土屋宗遠が守護佛と云傳ふ、

△稲荷社 △水神社 △千躰堂 今本尊正観音一躰を安ず、余は焼失せり、△堂 観音・地蔵、二躰を置、

△地頭窪田氏墓四墓 寛文5年(1665)、窪田又六郎正次法名大圓道智、元禄3年(1690)又右衛門正俊正次の子、名心解徳翁、等の墳墓其余は妻女の墓なり、
 



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