宝珠院
平塚市根坂間654 (0463)58−1501フレームを復活させる

本殿建設中(平成14年11月現在) 



(平成15年4月14日)棟上式直前の写真、完成は平成16年5月頃予定との事
木造建築であり「鰐口二口」を何処に吊るすかとても楽しみである。

『新編相模国風土記稿』 巻之四十八 村里部 大住郡巻之七

徳川幕府が11年の歳月を費やして天保12年(1842)に完成させた相模国の大地誌である。 全126巻におよび、村々について歴史・地理・寺院・神社等を詳述しており、江戸時代の相模国各村を知る貴重な史料である。

○根坂間村 禰佐加末牟良

江戸より十六里、坂間郷に属す、当村・公所・河内の三村は、元一村なりしを何の頃か分村す正保国図三村に分ち載す、按ずるに、元暦()至徳()等の古文書其文下に註す、に中坂間郷、西坂間郷など載せたれば、往古より一郷を三区とし東西中を以て別称せしなり、後世分村せしも、此区別によりしならん、然らば当村は中坂間にして、河内村は東、公所村は西と唱へしなるべし、此三村の地錯雑して廣袤四隣、毎村に辨じ難ければ爰に合記す、東西凡十四町半南北十六町許
東、徳延・松延・久松三村、西、千須谷・上下吉澤三村、南、淘綾郡出縄・萬田・山下三村、北、本郡廣川・長持入部二村、但村民居住の地は自から分てり、其東西一町南北五町、民戸四十七、

元暦元年(1184)6月頼朝当郷の内、若宮の相撲新三郎家眞が、給田の諸役を免除す
鶴岡社人金子氏蔵文書曰、下相模国中坂間郷、可早免除若宮相撲字新三郎家眞、給田畑在家等事、田壹町、畑壹町、在家一宇、右件給田畑在家免除畢、地頭名主等、不可煩之状如件、寿永3年(1184)6月3日、頼朝袖判、按ずるに此年元暦と改元あり、

至徳4年(1387)8月藤原正弘・清原末房等が沙汰として、郷中の田畠を以て西方寺所在詳ならず、後廃せしならん、料所地に充つ
南金目村光明寺蔵文書曰、御料所、相模国西坂間郷内、田畠員数事、坂間太郎左衛門尉蹟、田一町五段、畠半分、後藤佐渡彦太郎蹟、田三町、畠一町、水本次郎入道蹟、田五段大、畠二段半、坂間次郎兵衛尉蹟、田参段半、畠一段半、遠山加藤孫八蹟、田一町五段、畠半分、以上半分、右任御書下併御目録之旨、莅彼所相共沙汰、付下地於西方寺雑掌候畢、仍渡之状如件、至徳4年(1387)8月17日、藤原正弘在判、清原末房在判、按ずるに、西坂間郷とあれば、此一通は公所村に係りし物なるべし、されど其証なければ、此村の條に載す、

嘉慶2年(1388)8月足利左兵衛督氏満、南金目村観音堂境内聖天供料所に寄す
同寺文書曰、寄進光明寺、相模国坂間郷内料所地事、右四季為聖天供料所、寄附之状如件嘉慶2年(1388)8月28日、左兵衛督源朝臣華押、按ずるに、光明寺に寄進するとあれど、聖天社今観音堂境内にあり、即光明寺別当せり、

天正七年(1579)5月小田原城内、備曲輪座鋪塀等修理の時、煤ヶ谷村愛甲郡の属、山造の口養銭を当村年貢中より出せし事所見あり
煤ヶ谷村民蔵文書略曰、御備曲輪御座鋪併塀材木云々、山造口養四貫七百文坂間郷寅歳年貢、秩父前より可出云々、天正七年(1579)己卯、5月26日山奉行板倉代、井上代、安藤豊前奉、虎朱印、全文は同村條に見えたり、

【北條後帳】に代官所曰、五十貫文、中郡坂間内、大藤源七郎、於御代官所内被下間、知行役除之及成瀬某が知行曰、二十貫六十五文、中郡坂間、大文字分成瀬、按ずるに、大文字は大門寺にて、村内寶珠院の寺号なるべし、小名にも大門寺あり、

高麗寺領曰、高麗寺領、五十貫七百七十七文、中郡坂間に在、高麗寺は淘綾郡高麗寺村にあり、等なりし由見ゆ、

今米倉丹後守昌壽領分元禄11年(1698)拝賜、なり、

検地は寛文5年(1665)坪井治右衛門良充糺す、伊勢原道係る幅九尺、

○高札場 ○小名 △大門寺 △叶屋 △根岸 △北 
○坂 西方に在登一町半、○清水 小名叶屋に涌出す幅三尺、
○八劍明神社 村の鎮守なり古は胡宮明神と唱ふ寛永8年()11月の棟札にもしか記せり、寛永4年(1627)今の神号に改むと云、例祭正月9月共に7日なり、拝殿あり、△鐘楼 鐘は文政元年再鋳なり、
○山王社 村持、下同、○子神社 ○牛頭天王社 村民持、○飯綱者 寶珠院持、下同、○神明社

○寶珠院 朝光山大門寺此寺号元別寺の号なり、其寺永仁(1293〜98)の頃廃せし後、当院の寺号とせりと云、按ずるに、境内大日堂に寛永16年(1639)の鰐口二口、共に朝光山大門寺と彫る、当時は寺号を通称とせしか、と号す、天台宗淘綾郡高根村荘厳寺末、古は門徒たりしが寛文2年(1662)末寺となれり、当時本寺よりの許状に、累代の奮蹟たるに因て、寛文2年(1662)3月15日、改て末村に改鋪する由を記す、

本尊 三尊彌陀中尊長二尺五寸八分、脇士長二尺五寸、共に聖徳太子作村内石憾中より出現すと云、今其所を字して、虚通堂、又彌陀畑など呼ぶ、

開山 慶順建久元年(1190)12月18日卒、
中興 行海享保16年(1731)2月10日卒、

寺領十二石の御朱印は慶安2年(1649)8月賜はれり、

△鐘楼 鐘は寛永中(1624〜43)初て鋳造し、享保15年(1730)再鋳す、

△大日堂 本尊銅佛長五寸、弘法作、寛永7年(1630)、大門寺廃蹟より出現せしにより、則境内に堂を営み、安置すると云、出現の地は、字大門寺森と呼、
又不動智證作の像を腹籠とす、秘佛、毘沙門開山より廿六代迄、当院の本尊なりしと云を相殿とす、
寛永16年(1639)寄納の鰐口、二口を掛く一は奉寄進、諸願成就所、相模国大住郡、根坂間村朝光山大門寺、寛永十六己卯二月吉日、施主長持村、田中喜八郎妻、大工千津嶋、石塚五郎右衛門重次、一は同年十一月の寄附、其文上に同じくして、施主小田原新宿、大工田嶋長左衛門と刻す、

○青柳院 青柳院ページに記す

○阿彌陀堂 寶珠院持、

○大門寺廃蹟 東方小名、大門寺の内に在、此寺永仁(1293〜98)の頃地震按ずるに、永仁元年(1293)4月鎌倉大に地震せし事あり、此時なるべし、にて破壊し佛像等も悉く地中に埋り、遂に廃せりと云傳ふ、寶珠院境内大日堂の本尊は、此廃蹟より堀得しものなり、今も此所を掘れば、銅鉄の佛具等の朽損せし物出ると云、

以上根坂間村総てを記載、

根坂間の丘陵麓にある真言宗の古刹です。近年日向岡トンネルの建設により周辺の景観は大きく変りました。本堂の西側に大日堂があり、南側には根坂間横穴墓群の供養塔や近くの阿弥陀畑の堂庵跡から発掘された数多くの五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)などが並んで建っています。

宝珠院の大日堂は本堂裏の石段を上がった所にあります。堂には字大文寺森から出土したといわれる長さ5寸(15cm)の弘法作のど銅仏が安置され、不動明王、毘沙門天なども祀られています。また、江戸時代はじめの寛永時代に寄進された鰐口二口もかけられたいます。大祭は12年に一度開催されます。戦前は露天が出るほど賑わったといわれます。

宝珠院の五輪塔は昭和57年に、字阿弥陀畑の畑から堂庵跡が発見され、五輪等39基、宝篋印塔1基、板碑7基が平塚市遺跡調査会により発掘されました。この供養塔が住職によって建てられ、碑文に詳しい経緯が刻まれています。

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