福田寺
平塚市入野12  (0463)32−8584フレームを復活させる


『新編相模国風土記稿』 巻之四十七 村里部 大住郡巻之六

徳川幕府が11年の歳月を費やして天保12年(1842年)に完成させた相模国の大地誌である。 全126巻におよび、村々について歴史・地理・寺院・神社等を詳述しており、江戸時代の相模国各村を知る貴重な史料である

○福田寺 長久山と号す、曹洞宗寺田縄村吉祥院末、

開山 融山長祝本寺二世、卒年詳ならず、17日を忌日とす、
二世靈源蘭明本寺九世、延享元年(1744)5月8日卒、の時 法地となれり、

本尊 華厳釈迦

△白山社 △地蔵堂 本尊は慈覚作長一尺六寸、○阿弥陀堂 福田寺持

入野村 豆知識 (江戸時代)

○入野村以能牟良 

江戸より十六里、東西十七町余、南北七町、
東、鈴川を境、中原下宿、及平等寺村、西、廣川村、長持入部、南、長持村、北、寺田縄村、 
民戸五十六、

伊勢原道、幅八尺、曽屋道 幅二間、の二條係れり、

北条氏割拠の頃は北条左衛門刺佐氏尭知行す、【役帳】曰、北条左衛門刺佐殿知行、二百一貫八百七十文、中郡入野郷、棟別段銭懸銭共に

今 地頭 佐野鉄之進元禄11年(1698)先世彦九郎勝由拝賜す、
堀三五郎 同時拝賜、

検地は寛文5年(1665)、坪井治右衛門良充糺す、古川の両岸に流作場あり、
延享2年(1745)堀江荒四郎芳極検し、御料所にて両給の持添とす、

○高札場二 ○小名 △東町 △西町 △向町 △田中町 △四J 
△入野飯島

○金目川 村西を流る幅二十五間、昔は村の中程を、斜めに疏通し、巽方にて鈴川に合せしが、屢水溢せしを以て寛永3年(1626)命ありて今の如く堀替れり、元の川筋は古川と唱へて、小流今に存す金目川に続ける所、幅三尺許、此所に堰あり、夫より中程に到れば幅二間許に及ぶ、此川堀替の時、川補となりて村高五十七石余減ず、
金目川左右に堤あり高一丈二尺、丸木橋一を架す長十間、竹橋と唱ふ、堰四ヶ所本堰・中堰・砂原堰・飯島堰等の名あり、設け、水田の用水に洒ぎ、末は各鈴川に落、又廣川・長持両村よりも、用水を引けり、

○鈴川 村の東境を流る幅八間、堤あり高一丈二尺、橋二を架す共に長八間、一は、いろうし橋、一は平等寺橋と唱ふ、

○牛頭天王社 村の鎮守なり、本地佛・釈迦・多寶・寶性・薬師・彌陀の五軀を安ずと傳ふれど、今銅像二軀及佛像を鋳出せし銅鏡各古物なり、一面を安ず、  祭礼6月14日神輿を金目川の辺りに渡す、村民持
△鐘楼 宝永3年(1706)新造の鐘を掛、△末社 天神 山王 蔵王
○神明社 成願寺持、○山王社 村民持、

○常福寺 宗派前寺に同(少林寺)荘厳寺門徒、密厳山不動院と号す、
中興開山慶栄元禄10年(1697)3月25日卒、 本尊不動※廃寺となる

○塚 村の乾方にあり高四尺余、上に五輪塔高二尺五寸許、一基建り、何人の墳墓なるや傳を失ふ、

次は 大経寺 約0.3k

ホームページ