不動院
平塚市北金目1406     (0463)58−0301フレームを復活させる


 

院にきて 鳴くか南無妙 鶯よ

先祖が鶯に変り寺にお参りに来たのか!鶯の声までがお経に聞こえる、静かな趣の在るお寺で 境内に入った瞬間、 「どこか空気が違う」思いになる。
弘法大師が相模国を巡錫された頃、しばらくの間草庵を結ばれたという霊跡に建てられたお寺です。山号を弘法山薬師寺といい、真言宗の古刹です。本尊は不動明王で近くの村民の井戸から出現したものといわれ、昔から尊崇されています。近年本堂が再建され、境内も整備され、境内のあちこちに色々な石像仏があって落ち着いた雰囲気を一層引立てています。
不動院の万治2年の地蔵は参道右側にあり 幅40cm、高さ88cmの舟形塔に立像を浮き彫りにしたもので、万治2年(1695)の紀年銘があります。像の背丈よりも長い錫杖、顔とくらべて大きな手、純朴な表情などが特に目を引き付けます。

『新編相模国風土記稿』 巻之四十九 村里部 大住郡巻之八

徳川幕府が11年の歳月を費やして天保12年(1842)に完成させた相模国の大地誌である。 全126巻におよび、村々について歴史・地理・寺院・神社等を詳述しており、江戸時代の相模国各村を知る貴重な史料である

○北金目村 紀多可奈比牟良

金目郷に属す、江戸より十六里余、民戸六十三、東西二十五町南北十町
東、大畑・片岡二村、西、南金目・南矢名二村、南、南金目村、北、眞田村、

往昔源頼朝村内を割て光明寺南金目村観音堂なり、領に寄附し、其後二階堂攝津伊勢入道が領せし事、前村に同、

暦応元年(1338)12月足利直義、当村を鎌倉淨光明寺に寄進せし事所見あり
寺院奮文曰、寄進淨光明寺、相模国金目郷半分地頭職事、右華嚴天台三論法相等四宗者、大乗之中極、大乗實理之上眞實理也、是以為増国家福祐之大本、為殖法会平等之善根、眞排講論之会場、将勤讃仰之学侶、肄以当村充其料所、縡雖微軽、志其深切、仰願三寶哀納寸丹、仍録旨寄進如件、暦応元年(1338)12月13日、左兵衛督源朝臣華押、

貞治5年(1366)9月守護代当所の土民を悩すの聞え有に因て、足利左馬頭其氏、三浦介高通をして、其實否を糺明せしむ
鎌倉淨光明寺文書曰、雜掌賢秀申、相模国金目郷北方事、守護代背先例、放入使者於当所、宛仰種々課役、就至譴責土民等及牢蔵、云々、所役之企、其難遁其咎、所詮為断向後違乱、厳密所有其沙汰也、不日可尋注全實否状如件、貞治5年(1366)9月16日、三浦介殿、基氏華押、

鎌倉淨光明寺と、南金目光明寺と当所寺領押領の事に因て、康応元年(1389)3月、明徳元年(1390)4月、六月都て三度、光明寺より訴状を捧げし事あり前村條に詳載す、
応永27年(1420)12月足利左兵衛督持氏、当所淨光明寺領諸公事等官符宣及京都の成敗、己に免除有に依て、又厳密に其旨を沙汰す
鎌倉淨光明寺雜掌申、寺領相模国北金目郷云々、諸公事等、早任官符宣併京都後成敗、同以前後免状之旨、所被免除也、所詮於向後者為断守護代併検断方綺、厳密所有其沙汰也、可被存知其旨之状如件、応永27年(1420)12月21日、当寺長老、持氏華押、

28年(1421)12月吉岡平三盛胤、三宮刑部丞有国等、寺領流失の地を検す
曰、淨光明寺雜掌申、寺領相模国金目郷北方流失事、任去六日御奉書旨、三宮刑部丞、相供莅彼所、為先定使検知之処、本公田参十漆町五段半、内所見及、貳十町流失勿論也、相残田數十漆町五段半候、若此條偽申候者、八幡大菩薩御罸於可罷蒙候、以此旨可有御披露候、恐惶謹言、応永28年(1421)12月11日、進上御奉行所、平盛胤在判、同日三宮刑部丞有国の出せるも同文なり、又曰、淨光明寺領、相州金目北方、公田流失之事、連々殊歎申候、今時分申御沙汰候者、可畏存之由候、就其公断之間事、凡雖可有式候、殊当年者所々寺領等、及大損亡之間、計会之由被□候、同御□為寺家可然様□□意候間可限候、恐々謹言、12月3日、駿河入道殿、定在判、按ずるに、此一通年号を記さずと雖、寺領流失の事を載すれば、前と同時の物なるべし、定駿河入道、供に其人を詳にせず、但定は大森寄栖庵なり、

享徳2年(1453)12月、足利左兵衛督持氏、淨光明寺領、諸役免除の事を沙汰す
又曰、淨光明寺領、相模国金目郷北方等云々、役夫工米、国衛般若会以下、諸公事課役、併守護使郡使、催促入部事縦雖有官符宣地勘落之儀、任以前度々之御教書、厳重之旨、所令免除之也、可被存其旨之状如件、享徳2年(1453)12月15日、当寺長老成氏の華押、

長享3年(1489)9月、是より先淨光明寺領、三久留部兵康助拘となり、枯却せしを文明4年(1472)太田備中守、返し付るに依て、寺家の者其旨趣を記して後証とす
曰、補任淵□□□圓楞淨光明寺領、相州金目郷北方、華蔵院分、三久留部名一間在家田畠事、右彼田地者、為三久留部兵庫助相拘、兄七郎次郎為地代官、成敗之時節、田地多分枯却畢、然間依院納無自然被召上、置寺家之処、去文明4年(1472)壬辰、太田備州所付圓楞院實也、其刻自 圓楞院、彼兄弟両人沽券状数通取出、于今所被調置也、中頃文明10年(1478)一乱之刻、一旦雖有相違之儀、任以前之首尾、重而被返付之証状在之、且者備州之証状、且者両人沽券取出、旁以不可有違乱也、於寺家衆中令落居之上者、永代被付置者也、至有限之院納諸事等者、任先例可有其沙汰之状如件、長享3年(1489)己酉9月5日、華蔵院旵譽華押、玉泉院秀慶華押、慈恩院中林華押、座主總芳華押、維即東喜華押、侍者徳林華押、

今 三枝貞五郎先世日向守守清拝賜、鵜殿藤助先世藤助拝賜、
本間熊太郎先世忠左衛門勝定拝賜、細井宗左衛門先世六郎兵衛勝長拝賜、
渥美九郎兵衛先世九郎兵衛友成拝賜、揖斐金之助先世半右衛門拝賜、
曽谷長順先世長順拝賜、寛文(1661)の頃は青山因幡守領分なり、後御料となり、禄11年(1699)  9月以上七給に裂賜へり、
飯田岩次郎曽谷長順知行の内、寛政4年(1792)上りて、享和3年(1803)先世に賜ふ、等の知行なり、

検地は寛文4年(1664)山因幡守宗俊糺す、

大山道係る幅八尺五寸、隣村南金目の内、金目川の北岸に堤大堤と唱あり、当村の持とす、
○高札場 ○小名 △北 △竹焉@△地徳 △大久保
○坂 北方眞田村境にあり登三十間、
○熊野神社 村の鎮守とす、神躰木像、例祭6月18日、
天正19年(1591)11月社領二石の御朱印を賜ふ、幣殿・拝殿・神楽殿等あり、不動院持、下同 
△末社 山神子守明神諏訪天王住吉稲荷天神合祀 梵天 
○若宮八幡宮 ○五靈社 村民持、○三島社 村持、△末社 五穀神

○不動院 弘法山藥師寺と號す、古義真言宗岡崎金剛頂寺末、

弘法を開祖とす、本尊不動村民宅地の井中より出現の像と云、

天正19年(1591)11月寺領二石の御朱印を賜ふ、

△疱瘡神稲荷弁天合社 △大日堂

○覺正院 寶珠山と号す、本寺前に同、開山覺善応徳7年(1090)卒、本尊 大日
○永徳寺 日吉山松壽院と号す、土屋村大乗院門徒、中興開山豪歓今名主久右衛門は、永徳が裔なり、柳川を氏とす、其先は俵藤太秀郷より出たりと云へり、金目村分郷以前は金目観音境地に在て、鍵を預かりしと云、村内實相廃寺も永徳の開基なりしと云本尊地蔵、
○地蔵堂 不動院持、
○寺跡三 一は西方に在、實相寺と号し、法華宗、本門本妙両寺の支配なりしが、寛文の頃廃すと云、一は字矢名尻と云処のあり、同宗にてりつ宗寺と云傳ふるのみ、寺号の文字も詳ならず、一は正法院と号し、古義真言宗にて、岡崎金剛頂寺末なりしが、寛永(1624〜43)後廃すと云、但所在の地詳ならず、
○古塚四 二は北方に相並びて在、共に大塚と唱ふ、高一は八尺、一は七尺、一は灰塚と呼び、是も北方に在高七尺、一は艮の方に在高五尺、
塚上に天社と彫たる石を建、共に由来傳はらず,

『新編相模国風土記稿』より北金目村の全文を記した、金目光明寺と併せ読んでみると鎌倉淨光明寺と金目光明寺との寺領争いが延々と64年間に及び、当時の金目光明寺が苦悩した事が良く分ります。

 

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