天台宗延命寺相模 新西国第二十五番霊場
平塚市 上吉沢<フレームを復活させる/p>

風一っ ほほに刺さりて 石になる

『新編相模国風土記稿』 巻之四十九 村里部 大住郡巻之八

徳川幕府が11年の歳月を費やして天保12年(1842)に完成させた相模国の大地誌である。 全126巻におよび、村々について歴史・地理・寺院・神社等を詳述しており、江戸時代の相模国各村を知る貴重な史料である

○上吉澤村加美幾津佐波牟良

古は橘澤の文字をも用ゐる、上下の唱は、永正の頃既にありし事、箱根金剛王院文書に見えたり基文下に出す、

江戸より十七里、家数百二、東西南北、共に廿町許東、公所村、西、土屋村、南、淘綾郡生澤・黒岩・当郡下吉澤三村、北、千須谷・南金目二村、

元弘(1331〜33)の頃、城所籐五郎正揚の所領なり城所系譜曰、籐五郎藤原正揚、相模国城所に住し、城所橘澤の二郷を領す、足利尊氏上洛の時、招に隋ひ幕下に属す、

永正16年(1519)北條早雲、幼息菊壽丸幻庵の幼名なり、此頃箱根金剛王院にあり、が所領に宛つ箱根金剛王院文書曰、箱根領所へ、菊壽丸知行分五十五貫、上きつさわ云々、永正16年(1519)己卯、4月28日、菊壽丸殿、宗瑞華押、

永禄(1558〜69)の頃は同人の室【役帳】曰、御新造知行分、廿六貫二百文、中郡吉澤之内箱根分、及井上加賀守曰、六十五貫七百五十文、煤ヶ谷、井上加賀守地所方、吉澤共、

布施三河守廉貞下村松岩寺傳に証あり、同寺境内康貞が墓碑銘には、諱を万年とす、今寛永系譜に従ふ、等の知行なり、

今地頭田中鎗次郎・石原鐵五郎・石原七右衛門寛文(1661〜72)の頃は稲葉美濃守正則所領、元禄11年(1698)田中左太夫・石原勘左衛門拝賜し、延享3(1746)石原氏同氏七右衛門に分地せしより、三給となれり、なり、

検地は寛文5年(1665)稲葉美濃守正則糺す、

巽より乾に通じて、波多野道係れり幅九尺下同、此道より分るゝ一路は金目道と唱ふ

○高札場 ○小名 △中分谷津 △臺谷津 △山田屋敷谷津 △山ノ神谷津 △山入前谷津 △山入向谷津 △飛ヶ谷津
○山 南方に在登八町許、秣場林等なり、
○谷津川 村内山間より涌出して東流す幅一丈許、
○宮下川 是も山間より流出す幅一間、

○八劒明神社 村の鎮守なり、本地薬師長四尺、僧持長作、妙覚寺開山なり、
例祭9月7日、神明春日を相殿とす、
天正19年(1591)11月社領一石五斗の御朱印を賜ふ、松樹十株各圍六尺余、を神木とせり、寛永20年(1643)8月の棟札曰、奉造立、八劒三社大明神宮、併拝殿一宇、成就所、寛永20年()8月吉祥日、御代官坪井次右衛門、裏に熱田再垂跡、八劒本地佛飛薬師、持長作、万治3年(1660)12月25日とあり、按ずるに、裏書は後人の筆する所なるべし、を蔵す、妙覚寺持、下同、
△鐘楼 鐘は安永6年(1777)の鋳造なり、○第六天社 ○牛頭天王社二 一は延命寺、一は妙覺寺持、

○延命寺 吉澤山地蔵院と号す、天台宗土屋村大乗院末、

中興開山 要傳享和2年()8月19日卒、

本尊 彌陀、 御朱印寺領二十五石余、慶安2年(1649)8月賜ふ、

古寺等覺院と号せし、塔頭ありしが、今は廃す、

△鐘楼 鐘は万治元年(1658)の鋳造なり、 △天王社 
△地蔵堂 寺開闢の本尊なりしと云、  △薬師堂

○妙覺寺 ※妙覺寺ページに記す

○千手院 吉祥山慈恩寺と号す、前と同寺の門徒なり、本尊千手観音長9寸3分、聖徳太子作、寺領七石の御朱印は慶安2年(1649)8月に賜ふ、※廃寺
○宗海寺 羽黒行人派修験江戸霊巌嶋、普門院配下、本尊大日、※廃寺
○地蔵堂二 共に村持、下同、○観音堂

○布施三河守康貞居蹟 北方小名臺谷津に在四段許、今村民の宅地となる、康貞は文亀2年(1502)山城国寛永系譜には、大和国とす、より移住し、北條氏に属して団扇の役を勤む、永禄7年(1564)寛永系譜、元亀2年(1571)とす、に卒す下村松岩寺の開基にて則基境内に墳墓あり、基條に詳細す併見るべし、

○奮家善右衛門布施氏にて三河守康貞の子孫なり、家系を傳へず、下村松岩寺に康貞が墓碑を建てし種年は則先世代数詳ならず、なりと云、今康貞が居蹟に住せり、

※『新編相模国風土記稿』より上吉澤村総てを記しました、

広い敷地をもつ 六地蔵庚申塔を見る べし

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