浄土宗大松寺相模 新西国第十九番霊場
平塚市中原2−20−18(0463)32−5169フレームを復活させる

大松寺 此処に座れば 見抜かれる

『新編相模国風土記稿』より、

大松寺 上宿にあり、樹傳山稱名院と号す浄土宗芝増上寺末、

開山 松風靈巖
檀蓮社雄誉と号す、駿河国沼津の人にて江戸深川靈巖寺の開山なり、寛永8年(1631)9月朔日卒、
開基 曽根玄蕃
慶長18年(1612)10月14日卒、法名三宝院穏誉淨安、子孫旗下の士たり、按ずるに、寛永(1624)曽根系譜に、孫兵衛長次の法名を淨安と載たれば、玄蕃 は孫兵衛の初名なるべし、長次は駿州御入国の時召出され、関東御打入りの後、伊豆国代官を奉り後駿州山西の代官となる、65歳にして病死せり、

本尊 阿弥陀 △鎮守社 天満宮稲荷及毘沙門を置

  
表に『□□札所 十九番 海中出現救世大士』側面に『元文』の元号があり
船に乗った「地蔵菩薩座像」 珍しい型である、
「六臂如意輪観音」(六手)とても珍しい如意輪観音なり、

大松寺の徳本名号塔

糟屋庄  中原上宿・下宿 豆知識

 『新編相模国風土記稿』 巻之四十八 村里部 大住郡巻之七
徳川幕府が11年の歳月を費やして天保12年(1842年)に完成させた相模国の大地誌である。 全126巻におよび、村々について歴史・地理・寺院・神社等を詳述しており、江戸時代の相模国各村を知る貴重な史料である

糟屋庄 ○中原上宿 ○中原下宿 此二宿は古中原村或は中原町と唱へ一村なり、

明暦2年(1656)上下二宿に分ち、
元禄8年(1695)又合して中原村と称し
其頃も村の割付の書は、二冊とし、中原村上、中原村下と記し、又は中原村某組など記せり、

宝暦4年(1754)再び二宿に分ち、今に至ると云、
一説に、上宿は慶長年中当所御殿御造営の後、豊田本郷村の民、開墾して移住す、故に豊田新宿とも唱へしといへり 
(※中原御殿造営)
北金目村土人の傳へに、慶長13年(1608)の頃迄は、東照宮此辺御鷹野の時、豊田村清雲寺に入御ありて、休ませらる、然に此年洪水にて彼寺に入御なり難かりし故、明る14年、中原御殿を建させらる、是に依て豊田村の農民、中原上宿を開き移住す、故に当時は中原上宿を、豊田新宿とも唱へしと云、
此二宿の境界犬牙して、分別すべからず、故今爰に合載す、

江戸より十五里余、東西十八町、南北十二町、
東、八幡・四ノ宮二村、西、南原村、及鈴川を界、入野・長持二村、南、平塚宿、北、新土村、及玉川に限、平等寺・宮下村、
民戸百二十、上宿七十五、下宿四十五、
多くは往還 幅四間、中原道と称する是なり、に連往せり、

北条氏の頃は畔田半四郎知行す、
【役帳】曰、67貫367文、中原、畔田半四郎、此内50貫350文、癸卯(ミズノト)検地増分、

今 上宿は御料にして御入国の時より御料なりと云、下宿は御料、及若林六郎左衛門、寛文(1661)以前拝賜す、丸毛五郎兵衛文政11年(1828)11月拝賜、等の知行たり、

天正18年(1590)御打入の時、当所を過らせらる、
故老諸談曰、関東御入国の時、東照宮は常の御手廻りの御供計にて、中原より御放鷹の御遊にて、道中の様子御巡見なさる、

文禄元年(1592)、肥前国名護屋陣の時、東国及奥羽二州の諸軍を将て、2月4日当所の諸御あり
家忠日記追加曰、2月2日、秀吉朝鮮国を征討せんと欲す、大神君是を援給はんが為、江戸を御首途あり云々、4日中原に諸御、5日小田原諸御、【大三川志】曰、2月2日、秀吉肥前名護屋へ張陣によって、神祖東国及奥羽二州の諸士、上杉景勝、伊達政宗、南部信直、佐竹義宣等を卒ひ江府を発し、4日中原に到り給ふ、

元和元年(1615)12月東照宮当所にて放鷹せらる
【駿府記】曰、12月7日中原御放鷹、
(※御鷹場事件)
又何の頃にや、伊達政宗攝州大阪に赴く途中、此辺にて放鷹せしを、旗下士大岡忠左衛門某禁止せし事あり、
【明良洪範】曰、大岡忠左衛門殿、極めて忠実の人なりしが、伊達政宗攝州大阪へ登るとて、途中相州中原にて、放鷹せられし所に、此所は神君の御鷹場なれば、大岡忠左衛門を差置れける、此事と聞と鎗を提て欠来り、
貴客は徳川家鷹場を御存ありて、此狼藉に及ぶ事、甚以奇怪也、我等事此所の守りを承る身なれば、此通にては一分立申さず候間、早々我首取て家康に見せられるべしと、大にの々しりければ、正宗甚以て迷惑し、色々陳謝し、徳川家へは我等よりよく々申訳、致すべしとて、漸(ヨウヤク)大岡を申なだめ、大阪へ至る云々、

※その他 多くの記述があります。

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