見光山大念寺浄土宗
平塚市四之宮5−3−36   筺。毅機檻横械毅フレームを復活させる



『新編相模国風土記稿』では、

○大念寺 見光山眼性院と号す、浄土宗、芝増上寺末、

開山源誉哲道、明暦3年(1657)11月4日卒、
開基玉法院深誉西入、俗稱 佐藤文左衛門、寛永4年(1627)11月4日死す子孫村民にあり、

本尊彌陀、定朝作、長二尺五寸、

当寺地は古地頭伊丹播磨守康勝、大久保興一郎忠辰、服部兵吉等の寄付する所なり、
所蔵文書曰(いわく)、相州四之宮村大念寺屋鋪之義、大久保興一郎殿、服部兵吉殿、寄進候間、我等知行分之内も、畑二段令寄進候、恐々謹言、七月廿一日、大念寺、伊丹播磨守康勝華押、按ずるに、此文書、寛永中の物なるべし、康勝の叙爵(爵位を授けられること)せしは、寛永の初めなればなり

△神明天神稲荷合社 △彌陀堂

2002.11月道路拡張工事中

四ノ宮村 豆知識

新編相模国風土記稿』 巻之四十三 村里部 大住郡巻之二
 
徳川幕府が11年の歳月を費やして天保12年(1842年)に完成させた相模国の大地誌である。 全126巻におよび、村々について歴史・地理・寺院・神社等を詳述しており、江戸時代の相模国各村を知る貴重な史料である)

四ノ宮村

江戸より行程十五里、前取郷に属す、村名は当国第四宮村内に在を似て呼べり、按ずるに、鎌倉浄光明寺蔵、応永27年(1420)、享徳2年(1453)等の文書に、四宮庄内、長沼今里云云とあれば、当時は四ノ宮を似て庄名にも唱へしならん、又
【東鑑】四宮を稱号とせし人あり、建保元年(1213)5月、和田義盛謀反の條に、四宮三郎、四宮太郎承久3年(1221)6月、宇治橋の戦に、鎌倉方四宮但馬丞等あり、是当所の住人なるべし、

北条氏の頃は、関新次郎領す、
【役帳】曰、関新次郎三十一貫九百四十文、中郡四宮長沼共、玉縄御城御用、従前々諸篇走廻付而、知行役御免、

今御料
延享元年(1744)、酒井雅楽頭忠知領分となり、
後松平大和守朝矩領し、文化8年(1811)御料に複せり、
按ずるに、大念寺所蔵文書に、古伊丹播磨守康勝、大久保興一郎忠辰等も村内を知行せし事見えたり、其文寺の條に註す、又

四宮別当鏡智院寛文2年(1662)の棟札に伊丹五左衛門、貞享4年(1687)の棟札には、伊丹大隅守の名あり、家譜に據るに(拠る)、五左衛門は、大隅守の初名にて、勝政と稱し、康勝の孫なり、然れば、勝政の時迄、傳領せし事知るべし、但、勝政の子左京勝守、元禄11年(1698)、断家となりたれば此時収公せられしにや、

及杉浦健次郎、宝暦11年(1761)先世 出雲守正勝拝賜す、
竹尾駒太郎、享保7年(1722)先世 四郎兵衛拝賜、
服部擣次郎、服部太郎、二氏は古く拝賜すると云、大念寺文書にも、服部兵吉の名見えたり、太郎の家は、後に分知せしなるべし、等が知行なり。

検地は延宝2年(1674)、成瀬五左衛門重治、糺す、
飛地相模川を隔、高座郡一ノ宮・田端二村の境にあり、五町七段一畝八歩、是洪水の時水流変遷せしなり、
元禄12年(1699)、平岡三郎兵衛検す、
流作場二ヶ所、(りゅうさくば いつも水をかぶっているような田畑)一は相模川の対岸に在、あり、一は延享2年(1745)、堀江荒四郎芳極、一は文化13年(1816)、江川太郎左衛門英毅検して、村の持添とし御料に属す、又相模川を隔て、秣場あり、

民戸百四十六、内六軒は、飛地に住す、東西、二十八町、南北、二十四町、東、相模川に限高座郡一{ 田端・萩園三村、及南、八幡村、西、中原、上下二宿、及新土村、北、田村八王子道に係る、幅二間、此道の左右に一里塚、各高四尺五寸、上は中原上宿に塚あり、下は戸田村邊にありしならん、今廃して詳ならず、あり、

その他、神社仏閣、社宝寺宝、東鑑の記載あり。

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これより田村に入ります 田村の単立道祖神を探し尋ねて!!



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