▼▼▼新選組用語解説▲▲▲

●山川大蔵(おおくら)
会津藩若年寄、後に家老。維新後は浩と名乗った。山川家は初代藩主・保科正之が高遠藩主だった頃からの家臣で、祖父・兵衛重英(ひょうえしげひで)は藩の財政を担当し、秀でた才覚から家禄300石の勘定方から1000石の家老職にまで出世した人物であり、大蔵は祖父譲りの才覚の持ち主だったといわれる。ちなみに白虎隊生き残り隊士の飯沼貞吉は大蔵の甥に当る。

文久2年(1862)、大蔵は容保が京都守護職に任命された際、容保に従って京都に上洛し、慶応2年(1866)にはロシアとの樺太国境を調停するため幕府が派遣した箱館奉行・小出秀実を始めとするロシア使節団に参加してロシアへ渡航し、欧州諸国を見聞した。

慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いで会津藩を始め旧幕府軍が敗走すると、後方支援の責任者として大坂城に残り、その後会津に帰国するとフランス軍士官から新式西洋戦術の伝習を受け、会津の北の入り口である日光口の守備司令官となる。


山川大蔵

宇都宮戦線から離脱して会津に来援した大鳥圭介率いる旧幕府軍が合流すると、副総督として総督の大鳥を補佐し、日光口から進攻して来た板垣退助・谷干城率いる新政府軍を散々苦戦させ、新政府軍は日光口突破を断念したという。

母成峠が新政府軍に突破されると大蔵は若松城に退却し、新政府軍が城を完全に包囲する中、地元民に獅子舞を踊らせてその行列に混じって包囲網を見事に掻い潜り、無事に若松城に入るという離れ技をやってのけた話は後世、“彼岸獅子入城”と呼ばれている。この奇抜な突破作戦には流石の新政府軍も舌を巻いたという。

篭城戦では家老に昇格し、防衛総督となるもこれ以上の篭城は不可能と判断し、会津藩は降伏した。

大蔵は面倒見が良い性格から若い頃より人望も厚く、頭脳明晰にして軍事面では知略の才腕を振るい、共に戦った大鳥は大蔵を非常に高く評価していた。敵の谷干城も日光口で新政府軍を苦戦させた会津藩守備隊の指揮官が大蔵だと知って、明治4年(1871)には大蔵を陸軍に召喚し、その人柄に惚れ込んで生涯親交を結んだという。西南戦争で大蔵は熊本城を守備する谷を助けて西郷軍を撃破し、戊辰戦争で新政府軍と戦った会津藩士出身の軍人としては異例の陸軍少将にまで昇進した。
ちなみに会津出身で初の陸軍大将になっている人物としては柴 五郎の名が地元では知られているが、柴は会津戦争当時まだ8歳であり会津戦争に参加してはいないので、山川の陸軍少将昇進の重みとは比較にならない。

その後は東京高等師範学校長を経て貴族院議員になり、明治31年(1898)に没した。享年54。
なお、山川は斎藤一と時尾の結婚に際し佐川官兵衛と共に仲人を務めている。

余談だが、写真を見ても解る通り大蔵は精悍で現代人風の顔立ちのせいか、現代の若い女性にもファンが多いという。

●佐川官兵衛(かんべえ)
会津藩若年寄、後に家老。本名は直清。
容保が京都守護職に任命されると容保に従って京都に上洛し、学校奉行、諸生組隊長などを歴任した。
慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いでは別選組隊長として斬り込み隊を組織し、“鬼官兵衛”と呼ばれた。佐川に代表される会津武士は銃を使うより刀で戦うことを専らとし、抜刀して捨て身の斬り込み戦法を常道としたといわれる。佐川の剣は会津藩士に多い溝口派一刀流と伝えられている。

会津に帰藩すると越後方面で奮戦。その後若年寄、家老と立て続けに昇進し、会津戦争では武闘派として最前線で会津藩諸隊を指揮した。
若松城篭城戦の際には若松城に入らず、外周部隊として新政府軍に対しゲリラ戦を展開し、会津藩首脳部が降伏を決しても佐川は反対し断固として抗戦を主張したが、容保からの要請で涙を呑みようやく降伏に応じたという。山川大蔵が智将なら佐川は猛将といえるが、新政府軍の若松城下侵攻の際の十六橋破壊に失敗して敵の侵攻を許し、城下に侵攻した新政府軍を掃討する作戦の当日に前夜の深酒が祟って寝坊するなど、失態を演じた一面もある。


佐川官兵衛

明治7年(1874)警視庁が創設されると300名の旧藩士を率いて東京警視庁に入り大警部となる。
明治10年(1877)に西南戦争が勃発すると、戊辰戦争での恨みを晴らすべく警視隊一番小隊隊長として参加し西郷軍と戦ったが、同年3月18日阿蘇外輪の二重峠付近(熊本県阿蘇郡阿蘇町)の戦いで戦死した。享年47。
西南戦争では示現流で鳴らした西郷軍からも「鬼の官兵衛」と恐れられたという。

佐川は直情的な性格だが人情には厚く、多くの会津藩士から信頼されていたという。斎藤一が時尾と結婚した際には山川大蔵と共に仲人を務めた。