関東軍司令部(新京)

『関東軍特殊軍属服務規程』 軍医(78歳)

「従軍慰安婦110番」へ電話をしようか、ずいぶん考えました。元上官だった人たちに電話をしてみましたが 、八〇歳を越えてみんな戦争のことは忘れてしまったとのこと。事実を知っている者が発言しなければ闇から闇に葬られると思い、電話をしたわけです。

昭和一四年(一九三九)、軍医だった私は、ハルピン陸軍病院で、衛生兵の教育の担当をしました。グアム島の生き残りだった横井庄一さんも、私が教育した一人です。

昭和一五年(一九四〇年には、関東軍に引っ張られ、関東軍司令部朝鮮後方部隊で、司令部の家族、補給監部の診察をやらされました。

「 関東軍女子特殊軍属服務規定」は分厚い規定書で、詳細な規定が網羅されていました。関東軍後方部隊 三一〇〇部隊の衛生部の所轄でした。いわゆる、慰安婦の取扱い規定で、女子特殊軍属というのは、「朝鮮 ピー」のことです。この中には給与規定もありました。女性たちの月給は、八〇〇円とありました。日給が およそ七〇円だったということです。その他、被服、寝具、化粧品なども貸与すると書かれていました。こ の書類は、敗戦で逃げるときにみんな燃やしてしまいました。

関東軍補給監部というのがあり、慰安婦の「補給」の仕事もしていました。鉄道で女たちを連れてくるのですが、一両に二〇〇人を乗せ、外から見えないようにしました。一〇両の貨車で二〇〇〇人が一度に運ばれました。補給監部衛生下士官が総指揮官となり、日本人やくざが武器を持って、女たちが逃げないように見張りをしました。

満鉄の列車は広いので、列車そのものが「パンパン列車」になりました。第三、第四、第五国境軍は何月何日までというように、「パンパン列車」を置く日の命令書が出されました。 私は将校の立場でしたから、あらゆる書類を見ることができましたが、下士官の伍長に全部任せました。

宰領してくると、民家を接収して、「パンパン宿」を作りました。国境の宿はみな、関東軍の慰安所になりました。

海城にあった慰安所は、日本から来たサーカスなどの慰問団が帰れなくなって、そのまま「パンパン」になりました。牡丹江の奥には、九州のパー、カフェの女給がいました。場所によって違いましたが、やくざがとり仕切り、日本人、朝鮮人、中国人の順に値段が安くなりました。 牡丹江の奥、エッカ、マカキュウには、民家を接収した慰安所がぼつんぼつんとありました。朝鮮人、中国人、それにカフェや飲み屋の日本人が慰安婦でした。

エッカでは朝鮮服の女性を見ました。慰安婦だったために国に帰れず、現地の掘っ立て小屋に残っていました。ひどいインフレで貯めたお金は使えませんでした。

当時の全中国、海南島までの慰安婦の人数は八万人とされていました。その時の関東軍の人数は、一〇〇万人でした。
性病になると困りますから、日曜日の外出時には、「突撃一番」(コンドーム)が渡され、はめ方まで、長や下士官が指導しました。

一週間に一度、慰安婦たちの検微(けんばい=梅毒の有無を検査すること)がありました。これは、服務規定に書かれていることです。性病になっている慰安婦は、それがばれないように、膿を綿花でとってヨーチンを塗り、ごまかすこともありました。経験の浅い中国人の嘱託医はそれが見抜けず、淋病がはやり、連隊司令官に叱られたこともありました。

兵隊たちは、「パンパン屋」にずーっと並んで、ズボンを下ろして「早くしろ」と待っています。その間に射精してしまうので、実際にするものは少なかったと思います。

見渡す限り荒涼とした風景に、兵隊たちは飢えていました。遠くに、満州の荒野に晒されている死体の入った棺桶が見えました。人間て、怖いものです。動物と同じです。猥談と食べるることの話ばかりでした。

ハルピンの特務機関が、日本人の料理屋の女将や中国人女将を表向きにして、白系ロシア人女の裸踊り や、ロシア人同士にセックスをやらせて見ていました。日本人が白人よりも上だということを、誇示してやらせていました。

戦争は、人を精神的に破壊します。感覚が麻痺していました・・・・・・。(P23~25)

出典:従軍慰安婦110番/明石書店(1992)

琿春(琿春駐屯隊、第九国境守備隊)

琿春(琿春駐屯隊)

島本重三(第七三三部隊工兵一等兵)

兵隊専用のピー屋(慰安所)は琿春の町に五軒散在していた。一軒の店に十人ほどの女がいた。『兵隊サン、男ニナリナサイ』。朝鮮の女たちは道ばたに出て兵隊を呼びこんでいた。まだ幼い顔の女もまじっていた。

兵隊の慰問のために働くのは立派なことで、その上に金をもうけられると誘われ、遠い所までつれてこられた。気がついたときは帰るにも帰れず、彼女らは飢えた兵隊の餌食として躯(からだ)を投げださねばならなかった。

日曜日にはけだものとなった兵隊を相手に少しも休むまもなかった。まだ終らないうちから次の兵隊が戸を叩いてせかした。ベニヤ板張りの小さな部屋には、貧弱な鏡台とトランクがあった。それが彼女の全財産であった。

せんべい布団を被ううす汚れた敷布には、解剖台のような気味の悪い血がしみついていた。生理のときも休むことを許されず、働かねばならない女たちであった。(P32)

出典:私たちと戦争〈2〉戦争体験文  島本重三 軍「慰安所」/タイムス,(1977)
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畑谷好治(憲兵伍長)

私が赴任して一年程の間に三軒の慰安所が新規開業した。琿春は国境の特殊地帯であるために住民は居住証明書を所持せねばならず、初めて入琿する慰安婦たちは憲兵隊に出頭し、慎重な身上調査を受けた後、身分証明書の交付を受けていた。

私も何度か彼女たちの面接を受持ったが、必要書類に本籍、住所、氏名、年齢、学歴、家族構成等が書きこまれ、写真が貼付されてあった。

憲兵は防謀的見地からの注意義務を教え、思想、軍事知識の有無等の身上調査を主眼として審査をしていた。

私は少し横道に逸れた質問であったが、「どんな仕事をするのか知っているのか」
と聞いてみたところ、ほとんどが、「兵隊さんを慰問するため」

「私は歌が上手だから兵隊さんに喜んでもらえる云々」と答え、兵隊に抱かれるのだということをはっきりと認識している女は少なかった。

あるいはわざと返事をぼかしていたのかも知れないし、自分のロから公娼になるのだとは言えなかったのかも知れなかった。

女 たちは、慰安所の主入となる者か、あるいは女衒から貰った前借金を親に渡し、または親が直接受取り、家族承知の上で渡満してきたもので、正当な契約書があったか、否かは定かではなかったが、誰もが例外なく、「早く前借金を返し、お金を貯めて親兄弟に送金するのだ」と語ってくれた。(P107~108)

出典: 遥かなる山河茫々と/畑谷好治 旭図書刊行センター(2002)

五家子(第九国境守備隊)

第三軍(牡丹江)

牡丹江(第三軍司令部、第九師団、第四独立守備隊)

上野力氏(元関東軍軍下士官)の古森義久氏への書簡より

「私は大正7年生まれ、昭和14年兵、乙幹の下士官、5年兵、東京外大卒行、関東軍軍人でした」

「日本軍人が無知な○○女性をだまして、慰安婦にしたのではない。帝国軍人が工場、学校へ行き、○○人女性を強制拉致したら、必ず大暴動になっただろう。(そんな強制徴用をしたら)聖戦完遂不可能になった」

「慰安所は牡丹江にありました。経営者○○人、客は下士官兵、ときに開拓団少年。私服憲兵の巡視あり。旧市街の満洲人××屋は下士官兵の立ち入り禁止」

「私の経験したこと。昭和18年某月某日に登楼。慰安婦ではない自称16歳女性、軍曹の私に対して、まじめな顔をして『兵隊さん、司令部へ行って、慰安婦の許可をもらってきて下さい。そうしたら、あなたはわたしの最初の処女客、タダでサービスするわよ』と言うので、私は『キミは女中であって、慰安婦でない。慰安所の女中だが、処女のまま結婚すべきだ』と言うと、『わたしはおカネがほしい、慰安婦になりたいです。16歳だから18歳だと言って、許可をもらってください』と言いました」

「私は『ぼくは軍曹だから司令部へ行き、頼んでもダメだ。処女のまま結婚するべきだ』といさめると、『処女であるより、慰安婦になって、おカネがほしい。お父さんに農地を買ってあげるための孝行です』と言う。『ダメだ。その考えはまちがっている。18になっても慰安婦になってはならない』と訓戒しました。そしたら『兵隊さん、わたしの気持ち知らない、もういいです』と言って、去ってしまった」

「昭和19年、満洲某地で登楼したとき、敵娼(あいかた)の慰安婦はこう言った。『兵隊さん、わたし○○人にだまされた。軍隊の工場で被服を作る仕事をすると言われて来たら、慰安所だった。客を取れと言うので、断ると、<お前には莫大な前渡金をお前の父に渡してある、それを返せばすぐ帰宅させる>と言う』 これが実情だ」

「韓国人、日本人、北朝鮮人、みんな悲しいことだった」

(注:以下は古森氏による)

引用は以上です。

慰安婦や慰安所を実際に体験したことを率直に述べられたうえでの述懐のお手紙なので、私にとっては重みがありました。
いまの案件を考える一つの材料という意味です。

出典:http://ykdckomori.blog.jp/archives/1000670292.html

原則として、今後、証言にコメントはつけないが、あまりにも同じパターンが多いので一言付け加えておくと、戦前でも内地朝鮮問わず、本人の同意なしで女性を「娼妓」にすることは、不可能である(参考:鈴木武雄氏の語る海城の公娼施設の例)。上記の例で言うと、業者は誘拐、監禁、強制売春、強姦の罪に問われる事例であり、憲兵が輸送に関与していたら、誘拐の共犯である。

実際に、日本の内地から「慰安婦」として戦地に渡るには、本人の同意はもちろん、現役の娼妓でなければ、警察から渡航証明書が発行されなかった。内地警察が「素人」を同意なしに「娼妓」にする犯罪性を認識していたからである。日本の植民地であった関東州、傀儡国家であった満州国は「戦地」ではないが、大連港で、誘拐されたり、騙されたりして渡航してきた日本人女性をチェックしていた記録がある。

ところが、上野氏も古森氏も、「銃剣を突き付けての軍による強制連行のみが問題」とする、とても奇妙な国際的に通用するわけもない視点しかない人達なので、こういう面白い証言をワザワザ残してくれるわけである。上野氏の証言から「慰安婦になる」ためには、軍の司令部の許可が必要だった、つまり、慰安所の運営のほとんどすべてに、軍(この場合は第三軍か第九師団司令部)の意思が及んでいたことが、裏付けられるのだが、そんなアタマは一切ないらしい。

軍と業者の間では、軍の強力な統制に従うよう求める契約が交わされているが、元々の依頼主が軍である以上、軍が責任を逃れられるわけもない。旧満州各地の「実際に体験したことを率直に述べられたうえでの述懐」は、この後イヤになるくらい紹介する。別に上野氏の体験が特別なわけではないのである。

 

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関東軍重砲兵連隊兵士

http://blog.bridgeforpeace.jp/?eid=1489433

 転載の許可を頂いていないため、当面、参考としてリンク。 

石門子(野戦重砲兵第7連隊、山砲第九連隊ほか)

http://www.d3.dion.ne.jp/~okakinen/siryousitu/siryou1.html

http://saro109.jp/page-5.html

 転載の許可を頂いていないため、当面、参考としてリンク。

穆棱(ムーリン)

『見送ってくれた慰安婦』 砲兵隊(71歳)

私の所属していた砲兵隊は、満州のムーリンに行きました。何回か、国境の東寧の陣地構築に行きましたが、ムーリンには、約三年間ほどいました。

部隊は、四五〇人ほどの大隊でした。兵舎はレンガ造りで、なかにはペチカがあり、兵隊の寝床は二段式になっていました。第六大隊というのは、ノモンハンの生き残り部隊で、日本軍で最高の機械化部隊でし た。日本軍の虎の子部隊で、特別に日の丸の徴章をつけていました。駐屯地はムーリンの市外にあり、ムーリン川から三キロほど離れた山の中にあり、街に行く橋まで近道を 歩いても二〇分ぐらいかかりました。外出は、毎週日曜日に許可されました。兵隊の給料は一〇日ごとに支給され、一回につき日本円で五円五〇銭ぐらいもらったと思います。しかし、班長や古参兵に、よく巻き上げられました。お金をよこさず、

「酒保に行って酒を買ってこい」 と言いつけるのです。石職や軍足などは支給されていましたが、それだけでは間に合わず、酒保で買ってい ましたから、なんやかやで、結局兵隊はお金がないわけです。

慰安所の料金は、一回一円五〇銭ぐらいでした。ムーリンの市内には、軍の慰安所と将校専門の「将校倶楽部」がありました。将校倶楽部には、一二、三人の日本人慰安婦がいました。みんな年をとった人ばかりで、一番若くても四〇歳ぐらいで、なかには六二歳の慰安婦もいました。日本で食いつめた女郎さんたちではなかったかと思います。

将校が行くのは夜が多かったので、兵隊の中には、昼間隠れてそこに行く者もいました。ここの料金は兵隊が行く慰安所よりも高く、三円か四円だったと思います。遊郭の仕組みは、着物、布団、食事などみんな自分もちで、借金は雪だるま式に増えていきますから、最後は戦地の慰安所に売られてきたのでしょう。

将校倶楽部とは別の所に、兵隊たちが行く軍の慰安所がありました。ここは二階建ての建物で、入り日は一カ所でした。入り口には、ジャグイ(親方)の帳場があり、そこを通って好きな慰安婦の部屋に入ります。その部屋は、慰安婦が寝起きする部屋でもありました。料金の一円五〇銭は、直接慰安婦に渡します。すると慰安婦はそれを帳場にもっていって受付をし、サックをもらってくるのです。兵隊は、外出のときには必ず部隊からサックは渡されるので、一つは自分で持っていました。彼女たちには、毎日の売り上げが精算され、とった人数だけのお金が渡されました。慰安婦の取り分が四割、ジャグイが六割でした。ここには、一〇人ほどの慰安婦がいました。ジャグイも朝鮮人夫婦でした。慰安婦 は若く一八蔵くらいの娘もおり、一番年をとっている女性でも、三〇歳前後でした。なかには、慰安所で子どもを産み、乳飲み子をかかえた慰安婦や一歳くらいの子どものいる慰安婦もいました。それはかわいそうでした。

彼女たちは、みんなだまされて連れてこられたのだと言っていました。「マサコ」「キョウコ」「ハナコ」などと日本名で呼ばれていました。兵隊たちの間では、慰安婦のことを「共同便所」といっ ていました。

休みの日ともなると、砲兵隊、工兵隊、歩兵隊などから兵隊が殺到し、慰安所の前には長い列ができました。休日は部隊によって異なっていたので、慰安所は毎日やっていたわけです。

彼女たちの休みは、月に一回ありました。性病検診の日です。軍医がでかけていきました。ほとんどの女性が子宮内膜炎、膣炎などを起こしていました。こういう所に長くいると、月経はなくなり、子供ができない体になってしまうということでした。
部屋には過マンガン酸カリの消毒液の入った甁が置いてあり、それで洗っていたようです。性病の感染は、兵隊からよりも将校からの方が危険でした。将校は、いろんな所に出入りしていましたから。

私がいた三年間は、慰安婦の移動はほとんどありませんでした。多分、借金の多い女性だったと思います が、二、三人は、手取りの多い前線の慰安所に連れていかれました。 彼女たちは、多い日には、三五人ほどの兵隊の相手をさせられました。兵隊は、部屋の外に並んでいて

「おおい、まだか。早くせい」 と、ドアをドンドン叩きます。一人、一〇分か一五分ぐらいです。慰安婦は、食事をとることもできず、仰向けになっておにぎりを食べながら股を広げていました。 私の部隊に、慰安所に行かない兵隊が一人いました。外出をしない男でした。ある日、他の兵隊が皆してその男を担いで慰安所に連れていき、部屋に投げ込みました。節穴から皆で中をのぞいてみますと、その男は慰安婦に背を向け、這って逃げ回っていました。

彼女たちは、裸に少し長めのカーディガンみたいなものを羽織っているだけでした。寝床はシングルで、それは、彼女たちが日常睡眠のために使っているものでした。部屋には、彼女たちの着物やたんすなどもありました。

建物には、鍵はかかっていませんでしたが、借金の多い女性は、自由に外出はできませんでした。 憲兵が見回りに来ては、軍の情報が漏れてはいないかどうか調べていました兵隊たちが帰った後に将校たちが泊まっていましたから、けっこう軍事情報を知っていました。たとえば、部隊が移動することなどは、私よりも彼女たちの方が早くから知っていたのです。こんな思い出があります。慰安婦が私に言いました。

「私はもう国には帰れない。あんたがここで所帯をもつなら、お妾さんでいいから一緒になってちょうだい」
私は以前国鉄にいたときに、満鉄は待遇がいいと聞いていたので、現地に残ろうかなと思っていました。
それで、「俺も家内をどっちみちもらわなければならないから、あんたがその気なら一緒になってもいいよ」
と答えました。 彼女は、慰安所に連れてこられた経緯を話してくれました。

ある日、警察と村長さんが家に来て、兵隊さんの衣類を洗ったり、ごはんに炊いたりするだけでいいから、行ってくれないかというのです。二、三年で帰れるという契約でした。それなのにこんなことになってしまって・・・・・・。」

私が会ったとき、彼女はまだ連れてこられて一年たっていなかったのではないでしょうか。まだ、メンスがありましたから。
朝鮮は、男尊女卑の国で、子どもの産めない女は結婚できないのです。それで彼女は、妾でもいい、こう いう世界から抜けたいのだと言っていました。 私の部隊が満州から引き揚げるとき、彼女は汽車が出る時刻を知っていました。

「汽車の窓から、丘の上を見てください。私は黄色い朝鮮服を着て、赤い頭市をもっています。それが見えたら私だと思って・・・・・・。
移動の日、汽車の窓から、黄色い朝鮮服と赤い頭市が見えました・・・・・・。

もう一つ、忘れられないことがあります。ムーリンから街に行く途中に民家がありました。その民家に立ち寄ったことがあります。そこにおばあさんが一人いました。おばあさんは私を見るなり、

「あいゃー」

と言い、私の前で股を開いたのです。強姦されるよりはましだと思ったのでしょうか。他の兵隊だったら犯すのかなと思い、その姿をかわいそうに思いました。私がそうではないんだと手を振ると、おばあさんはホッとした顔になりました。

従軍慰安婦の補償が問題になっていますが、日韓条約を結ぶときに、謝罪・補償をきちんと行なうべきでした。日本の最高責任者だった人が、何が何だか、茫洋とした言葉で濁してこの世を去りました。この ことは、非常に残念でなりません。(P46~50)

出典:従軍慰安婦110番/明石書店(1992)

綏陽(第八師団司令部)

柳田昌男(陸軍歩兵第44連隊) 1945年

日曜日と八の日(大詔奉戴日)が外出日である。この日になると私らは喜び勇んで外出する。この日になると私らは喜び勇んで外出する。この日は山藤班長と坪井兵長が留守番してくれるので、私らは東伍長引率のもと四人一緒になって外出する。

この街は駅前を中心にして東側と南側には人家が少なく、西側と北側に街の形がのびている。ここには日本の映画を見せる映画館も一つある。その映画館の横町を入ると、いわゆるピー屋という女郎屋が十数軒ばかり並んでいる。

日曜日には、近くは綏西の歩兵部隊、遠くは綏南、綏芬河あるいは観月台、鹿鳴台にある守備隊の古兵たちが、それぞれのピー家の前に、列をつくって並んでいる。それこそ門前市をなす賑いである」(P250~251)

出典:雲ながれる国境、関東軍一等兵物語/柳田昌男 ミネルヴァ書房(1980)

注)綏陽については、ブログに当時の地図を掲載しているサイトがある。現時点では、許可をもらっていないため、地図に直接に地図画像に直接リンクを張らせて頂いた。アヘン吸引所というのが目を引くが、.映画館の近くに慰安所があることが分かる。

本書には、旧満州東部地域の手書きの地図が載っているが、軍関係の都市に絞って記載されているために見やすいものとなっている。使用させて頂いた。

綏西

上斗米正雄(1941年から1944年まで関東軍歩兵連隊273部隊) 1942年

「我々は2年兵になり余裕が出てきた」「日曜日には外出もした」「兵隊達は主として、軍属の経営する食堂で酒を飲むか、一つだけある映画館で日本映画を観るか、またはピー遊びをすることであった。ピー家とは、軍隊用語であるが、慰安所(遊廓)のことである。ピーとは朝鮮語で『いかがわしい』言葉らしい」「民間人(朝鮮人も日本人もいた)が、ピー家を商売として経営しているのである。問題は、慰安婦が強制的に連行されて来ているかどうかであるが、的確なところは不明である」「ピー(慰安婦)は殆ど朝鮮人であった。身元は絶対に喋らない。彼女達はある程度、自由のようであった。経営者が行動を監視している訳でもなさそうであった。ピー家には、普通7~8人位のピーがいた。平屋に4畳半位の粗末な部屋が並んでいる。部屋にはせんべい布団が敷いてあるだけである。廊下は土間で兵隊が往来できるようになっている」「上等兵になったある日」「歯科医院を出たのが、午前11時頃であった。街は平日なので、閑散としていた」「いいチャンスだと思った。ピー家付近は人もまばらで、兵隊も見えなかった。私は吸い込まれるようにピー家に入り、誰もいない廊下の中ごろの部屋をノックした。『ハーイ』。ピーがドアを開けてうさんくさそうに私を見た。『ハイッテ』と私をうながした。部屋は冷えきっていた。『アカルノ』。ピーは私に聞いた。『いいの』。私が云うと『1円50銭ヨ』と手を出した」「私は努めて慣れているように見せ『貴方歳幾つ』。ピーは無表情に『18サイ』」「『兵隊サン、ハシメテ』『うんそうだ。あんたが初めてだ』」「私は無我夢中だった」(P90~92)

出典:1932日間の軍隊/上斗米正雄 東京図書出版会(2005)

注)綏西は上斗米が配属された部隊の所在地であるが、映画館があったことから、上記の綏陽(8km西方)に出かけた際の体験かとも考えられる。原文に当たることができないので、確認できないが、今後の課題としたい。ただし、綏西も大きな部隊が存在する街である。

東寧(第十二師団司令部、第一国境守備隊)

長尾和郎(関東軍兵士)1942年 

この影響か、東満の東寧の町にも、朝鮮女性の施設が町はずれにあった。その数は知る由もなかったが、朝鮮女性ばかりではなく日本女性も、将校用の飲食店で『営業』していたことはたしかだ。わたしは一等兵に進級したある日、戦友の一人と酔うままに施設を覗き歩いたことが、ただ一度あった。施設の全部は藁筵でかこまれた粗末な小屋で、三畳ぐらいの板の間にせんべい布団を敷き、その上に仰向けになった女性の姿を見たとき、私の心には小さなヒューマニズムが燃えた。一日に何人の兵隊と《営業》するのか。外に列を作っている兵隊たちを一人一人殴りつけてやりたい義憤めいた衝動を覚え、その場を立ち去った。

これらの朝鮮女性は「従軍看護婦募集」の体裁のいい広告につられてかき集められたため、施設で営業するとは思ってもいなかったという。それが満州各地に送りこまれて、いわば兵士達の排泄処理の道具に身を落とす運命になった。わたしは甘い感傷家であったかもしれないが、戦争に挑む人間という動物の排泄処理には、心底から幻滅を覚えた。(P71)

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おれは東京の吉原、洲崎の悪所は体験済みだが、東寧の慰安婦はご免だ。あれじゃ人体でなく排泄装置の部分品みたいなものだが、伊藤上等兵も同感する。(P94)

出典:関東軍軍隊日記―一兵士の生と死と/長尾和郎 経済往来社 (1968)

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関東軍将校(砲兵連隊) 聞き手は劇作家のつかこうへい

「私がいたのは東寧っていうところでしたが、軍都ですからね、街には軍人しかいないんです。町民がいたって、ニ、三百人いたかな。その他は軍人が休みの時に繰り出して、町の昼間人口が膨れ上がるというような町でしたからね。国境の、うら寂しい、物悲しい町でしたよ。その東寧の街はずれに、われわれの用語でいうとピー屋、ピーは何の略かと言われても分からないんですが、そういう店が百軒近くありました。それで一つの店で女の子十人ぐらい雇ってましたから、千人くらいいたんじゃないですか、いわゆる慰安婦と称せられるものが」

「千人ですか?」

「はい。兵隊はあそこは砲兵だけで千人で、あと歩兵がいるし、戦車隊がいるしというんで、全部合わせたら、数万人ぐらいいましたよ。ですから、千人慰安婦がいても多いってことはないんです。休みを交代交代でとるから、今日の休みはわれわれの部隊、それから次の日曜日の休みは歩兵部隊だとか、ちゃんと決まってるんです。休みになると一斉に街に繰り出すわけです。その街を取り囲むようにして、ピー屋があるんですが、経営者は日本人だったかどうか分かりませんが、日本人の女の子ばかりを雇った店が百軒のうち十軒くらいありましたね」

「日本人の慰安婦もいたんですか」

「はい。それから、私の知っている範囲では、やっぱり朝鮮半島出身が圧倒的に多いですよ。中国人がいたという話も聞いてるけど、私は会ったことはないです。日本人の慰安婦っていうのは、金儲けで来てるんですよ。日本で食い詰めちゃって、もうどうにもこうにもならなくて、新天地に来て自分の肉体を切り売りしてるという感じで、もう商売人に徹してましたね。ただ、朝鮮人の場合には、後からの脚色もあるでしょうけど、強制的に連れてこられてこうなったというふうなことで、賠償の責任があるんだと言われてる。それがその通りなら、むべなるかなと思いますけどね。少なくとも私の接していた皮膚感覚では、朝鮮人の中にもやっぱり日本人の食い詰めた女と同じような感覚を持った連中もいたことは事実です」(P45-47)

出典:娘に語る祖国―『満州駅伝』‐従軍慰安婦編/つかこうへい 光文社 (1997

大城子(歩兵第二十四連隊)

富田晃弘(関東軍兵士)

「国境の町三ブン口(東寧)は昭和13年ごろ大勢の苦力によって開発された」「町にピイ屋が15軒ほどあった。日本人の婦(おんな)がいた。ピイが足りずに下士官の喧嘩が絶えなかった……その三ぶん口から城子溝へ8キロ寄った荒野のまんなかに24連隊が駐屯する大城子の兵舎があった」(P33)

12師団の司令部は城子溝にあった。傘下の満州第894部隊は大城子に駐屯していた。大城子の町中に慰安所があった。芸者(日本婦人)をあげるのは将校と上級下士官、俗にいうピイ屋で娼婦を抱くのは年期のあさい下士官と兵隊である。源氏名は「椿」とか「千鳥」とか「深雪」などと古風であったが朝鮮人がほとんどであった。

初年兵用のピイ屋には満人の婦がいた。ピイ屋もピイも極端な上下があった。アンペラ一枚の上で春をひさぐ崩れ果てた婦がかたことの日本語で初年兵に煙草を無心するのはあわれであった。

ハタチにもならぬ満人のピイは日曜日ごとに通ってくる下士官のためにリリアンを編んでいた。野暮ったい襟布をはずしてリリアンで作ったカラーをつけるようにと彼女はわたした。それは愛の証なのか、婦の習慣なのか、それとも客のみんなに彼女はリリアンのカラーをわたしていたのか、わからなかった。(P37)

出典:兵隊画集/富田晃弘 番町書房(1972)

「葵から菊へ」というサイトに、富田の書いた慰安所の一室の画が載っている。リンクを貼らせて頂いた。

綏芬河(第ニ国境守備隊)

黒竜江省の档案館(記録保管所)が公開した満州国の慰安婦関連文書の記事(国境警察隊文書) 1941年(関特演)

1940年代、日本軍が韓国人女性約2000人を一度に慰安婦として連れて行ったことが中国政府が保管する文書で確認された。当時、日本軍は料理店の仕事だと嘘をつき、韓国女性たちをだましたことも分かった。
17日、半官営の中国新聞網によると、黒竜江省の档案館(記録保管所)は最近、日本の傀儡国である満州国の慰安婦関連文書を公開し、「1941年10月、日本軍が牡丹江綏陽県の寒葱河地域に軍慰安所を設置し、韓国人女性数十人を連れてきて慰安婦を強要した」と明らかにした。

档案館が公開した第890号、第1064号文書には、1941年10月20日、日本軍綏陽国境警察隊寒葱河隊の高橋隊長が同部隊の綏芬河隊長に部隊の事情を説明し、「この女性たちは韓国から強制徴用した約2000人の一部」と明らかにしたという内容が記録されている。特に、これらの文書は、日本軍が徴用された韓国女性に「寒葱河地域に『日本軍専用の料理店』を開く」とだまして連れて行き、慰安婦を強要したと暴露した。文書には、料理店を装った軍慰安所の設立過程と設立日、階級別の相手と許された「娯楽時間」まで書かれている。

黒竜江省档案館が今回公開した「慰安婦」関連内容は、生体実験で逮捕された人々の輸送に関する「特殊輸送」と「強制移民」を含む96件の資料の一部で、慰安婦関連は計7件だ。

黒竜江省档案館の斉秀娟館長は、「今回公開した慰安婦文書は日帝が傀儡国である満州国に伝えた文書の中から発掘したもので、世界戦争史でも唯一のこの性奴隷制度は、女性の人権を侵害し肉体・精神的に略奪した点で最も残忍で悪らつな戦争犯罪だ」と指摘した。

出典:東亜日報 WEB版 2015/8/18

元記事URL:http://japanese.donga.com/srv/service.php3?biid=2015081845448

原文写真:http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2015-08/13/content_36296710_2.htm

 

注)記事中では、「寒葱河地域に軍慰安所を設置」となっているが、「当綏芬河に於いても」と言う記述が原文に見られるため、綏芬河の慰安所例とした。また、記事中、「日本軍綏陽国境警察隊」とあるが、国境警察隊は「満州国」の組織であり、日本軍の組織ではない。関東軍の軍人か憲兵から聞いた事実を、上司に報告する文書であり、記事が間違っているのか、日本語訳の際のミスなのか、大本の黒竜江省档案館の発表がそうなっているのか、中国語ができない私には判断できないが、いずれにしろ、「関特演」時の朝鮮人「慰安婦」大量調達の、決定的な証拠であることに疑いがなく、文書発見の価値が下がるわけでは全然ない。

 

(参考のための追記)以下のような記事もある。

japanese.china.org.cn/jp/txt/2015-08/12/content_36285697.htm

鹿鳴台(第十国境守備隊)

観月台(第十一国境守備隊)

延吉

いまいげんじ(満州4019部隊)

「親のためとはいいながら 売られ来ました満洲の知らない間島の興亜館」

これは慰安婦の館「ピー屋の歌」である。

ネリカンブルースの節でこの歌を合唱する兵隊たちの声には、性欲への湯望と自嘲のひびきがこもる。 兵隊にとって一番楽しい外出日、予め許可をもらった者は営庭に集合し、三人または四人を一組とする外出許可証と鉄帽(コンドーム)を渡される。

週番士官の外出心得を長々と聞かされている間にも、営門の外を隣部隊の兵隊たちが街へ向う 姿を見るともういても立ってもいられない。みんなの心は営門の外へ走っている。

やがて、羨ましげな歩哨の前を意気揚々と営門を出て、街に通じる一本道を兵隊たちは寒風もものかは茶外套をひるがえし、徒歩競争よろしく先を争って急ぎに急ぐ。

興亜館とはよくぞ名づけたもので、 女を抱いて亜細亜を興すというその興亜館には第一、第二とあって、いわゆる「ピー」と呼ばれる女性たちはほとんどが、朝鮮娘であった。

兵隊は一円五十銭、下士官は二円五十銭で将校は五円と聞いたが、将校たちは大抵「銀水」と かいう料亭で遊んだようだ。

慰安所は民間業者の経営となっていたようだが、同じ女を買って兵隊が一円五十銭、下士官が 二円五十銭というシステムから察するに、軍の庇護下にあったのだろう。ただし、日曜以外の日 は一般地方人の客をとっていたらしく、そのかわり毎土確日にはきちんと検診、洗浄を実施していた。 

出典:赤紙兵隊記/いまいげんじ 径書房(1987)

東安(第五軍司令部、第二十四師団指令部、第六独立守備隊)

密山

森分義臣憲兵の証言 1941年(関特演)

同じ時期に密山で、関東軍から配分された朝鮮人慰安婦を迎えた森分義臣憲兵は、県長や市の有志と合議して 空き家を改造、二十数人を収容したという。森分は大要次のように書いている。

一週間に一度、県公医と部隊の軍医が検診するのに 立ち会った。病気とわかると娼婦の部屋の入口に休業 の赤札を掲示させ、守っているかどうかを臨検するの は憲兵の仕事:娼婦になった動機を尋ねたら「家計を助けるために前借してきた」というのが殆どで、残りは「お金が儲かると友達に誘われたから」というものであった。 借金返済の終った者もいて、豪華な毛皮のコートを持っていた者、せっせと親許へと送金している者もいた。(P100)

出典:慰安婦と戦場の性/秦郁彦 新潮社(1999)

平陽鎮

真鍋元之(関東軍兵士) 1943年

「(前任地の)鶏寧には設置されていない慰安所が、どうした理由でか鶏寧より小さい町の平陽鎮には開設されている。慰安所の女たちは、すべて半島の出身者だが、飢えたる兵士どもが、群れをなして押し掛け、外出日の慰安所は、ごった返しである。そして、その浅ましい混雑のなかに、やがてわたしは、わたし自身を見出していた」「わたしが馴染んだ慰安婦は、職業用の日本名をミサオとよんでいた。生家は江原道のもっとも貧しい農家だったが、ある日とつぜん村長がやってきて、『軍の命令だ。お国の御奉公に、娘を差し出せ』という。御奉公の意味がすぐにわかったので、父母は手を合わせ声の限りに哀号をくり返したが、村長は耳を借さない。この面(村)へ8名の割り当てが来たが、面には娘が5人しかいないから、ひとりも容赦はならぬ、とニベもなく言い放つ。村長の背後では、佩刀を吊った日本人の巡査が、肩をそびやかせている。5名の娘が、石コロのようにトラックへ乗せられ、村境の土橋を渡ったのが、故郷との別れであった。以来、3年。文字が書けないので、家族の安否を、手紙で問い合わせることもできない。幸いにして、いまの生き地獄から解放される日があれば、しばらく温泉にでもつかって、疲れを休めたいと思うが、そんな幸福の日は、ぜったい来ないであろう。かりにその日が来るにしても、そのとき、わたしのからだは、すでにボロ切れのごとくズタズタになっているにちがいない。『まいにち兵隊サン15人、客にとるてすよ。カラタ持つない。生きてるのフシキのこころ(ふしぎな気がする)』。片言の日本語で、そんな悲惨なことを、彼女がうち明けるのを聞けば、わたしの意馬心猿は、たちまちどこかへケシ飛んでしまいそうなものを、じっさいには、そうならない。わたしはやはり、アンペラに毛布をいちまい敷いたきりの粗末な板床のうえで、彼女のやせた胸に身体を重ねたのち、およそ30分ほどの仮眠をむさぼる」(P173~175)

出典:ある日、赤紙が来てー応召兵の見た帝国陸軍の最後/真鍋元之 光人社、(1981)

林口(第二十五師団指令部)

半截河(はんさいが)(第三国境守備隊)

本和田武司(関東軍兵士)

私が昭和十七年十月から十八年十月までを過ごした旧満州、半載河の駐屯地には、富士屋、花屋、蘭、他に屋号を忘れたがもう一軒を加えて全部で四軒の、現在言うところの「慰安所」があった。(中略) 「内地にいる家族の生活を守るためにお金で買われてここまで来た」と身の上を話す女性も多くいた。昭和初期の農村の不況はひどいものであった。その結果、長男以外は軍人を志願して食い扶持を減らしたり、娘を売って食いつないだ家も多かった。日本・朝鮮半島にも貧乏のどん底の時期があったのだ。  

出典:我が青春の迎春花/本和田武司 私家版(2000年)

廟嶺(みょうれい)(第十二国境守備隊)

安藝基雄(関東軍軍医中尉 関東軍第二国境守備隊、のち第十二国境守備隊に勤務) 1945年 

「廟嶺の部隊に転任してからは、軍医は私一人になった。新しい部隊長からもらった最初の命令は、慰安所の検梅の仕事であった」「たとえば営内の酒保にも日本の女性がいた。流れ流れてこの僻地まで来る人は、やはりすれっからしの荒れた感情を露骨に漏らす人たちが多かった。それに比べれば、『朝鮮ぴー』の名でかたづけられていたこの人たちは、ほとんどが農家の出身であり、みな若く素直で純真であった。ちょっとしたわずかな親切に対しても、この人たちの感謝の情は厚く、真実のこもったものであった。たまたま熱を出した一人のために、その部屋まで何回か往診に通ったこともあったが、その際には私の官舎にたどたどしい仮名で書かれた短い手紙に添えて、一皿の漬物が届けられていた」「日ソ開戦の日、私はこの本来無垢の人たちの運命が一番気がかりであった。『きっと大丈夫でしょう。私たちより早く、皆トラックで下がってゆきましたよ。軍医殿』というのが、彼女らについての最後の情報であった」(P61~P62)

出典:平和を作る人たち/安藝基雄 みすず書房(1984)

虎林(第十一師団司令部)

海原治関東軍主計少尉の証言 1941年(関特演)

虎頭から遠くない虎林には第十一師団司令部があり、 関特演で四万の兵力が一挙に十万へ膨張したが、秋に入 った頃、師団の経理部に着任したばかりの海原治主計少尉が「虎林に四か所の慰安所を開設」と知らせる会報を見て、部下に「慰安所とは何だ」と聞きピー屋のこと であります」「現に民間のピー屋が四、五軒あるじゃな いか」と問答した。

そのうち巡察する番がまわり、行ってみると、アンペ ラ一枚で仕切った粗末な部屋が十余あり、兵が並んでい た。民間のピー屋が日本人主体なのに、こちらは朝鮮人が主だったという。軍医の話では「初検診でバージンや 小学校の先生もいたので聞くと、女街から軍の酒保でサ ービスするとだまされてきたよし。帰ったらとすすめた 前借金があるので還してからでないと帰れないと語った」とのことだった。

出典:慰安婦と戦場の性/秦郁彦(新潮社:1999)

虎頭(第四国境守備隊)

本原政雄憲兵(虎頭憲兵分遣隊)の証言 1941年(関特演)

さて、これら慰安婦たちを国境地帯の駅で目撃した出先の憲兵たちのなかに、関特演を機に満洲も軍専用の慰安所が誕生したと記憶する人が少なくない。その一人である本原政雄憲兵(虎頭憲兵分遣隊)は、十月頃だったか「軍特殊慰安所開設ニ関スル件通達」と題した関東軍司令部の公文書が来て、隊の話題になったと記憶する。主旨は、近く慰安所を開設するので、駐屯地司令部は 建設資材等の便宜供与をされたいというもので、それから間もなく、業者が書類をもって出頭、虎頭陣地の近くに五、六人を置く、「軍特殊慰安所」が開業した。(P100)

出典:慰安婦と戦場の性/秦郁彦(新潮社:1999)

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『長襦袢の慰安婦たち』 砲兵隊(74歳) 1943年

一九四三年、大東亜戦争の最中、私は満州の虎頭の近くに駐屯する砲兵隊の少年兵でした。

前線に行く前の日のことです。連隊長から、

「今から慰安所に行ってこい」
と命令がありました。何百人もの兵隊が、二十人の慰安婦の元に行列を作りました。私は童貞でしたから、 慰安婦が初体験でした。シュトクには、慰安所は一カ所しかありませんでしたから、ここに殺到したわけです。一人、せいぜい二、三分で終わりでした。コンドームは、配布されませんでしたね。料金は、軍票で支払いました。 ここにいた慰安婦は、全員が朝鮮人女性です。彼女たちは、長襦袢を身につけていました。前線に行くのは、たいてい朝鮮人慰安婦でした。当時は悪いとは思っていませんでした。青春に与えられた慰安だと思っていました。しかし、今は、慰安婦たちがひどいめにあったことを知り、申し訳なかったと思います(P55)。

出典:従軍慰安婦110番/明石書店(1992)

宝清(騎兵第二旅団)

http://syuyoujo.roudoku.me/wsg2.html

 転載の許可を頂いていないため、当面、参考としてリンク。 

佳木斯(チャムス)(第十師団司令部、第七独立守備隊)

柴岡浩元憲兵軍曹(北満州チャムス憲兵隊)の証言 1945年

一九四五年七月、チャムスの軍特殊慰安所で、接客を拒否して業者になぐられていた美貌の朝鮮人女性(金城梅子)から次のような身の上話を聞き、業者に接客を禁じると申し渡した。

「私の父は北朝鮮・清津の資産家で町の有力者でした。ある時、大の親日家の父から関東軍が軍属のような立場で、歌や踊り等の慰問を募集している、男の子がいたら軍隊に志願させるところだが、その代わりに関東軍に応募してくれないか、と言った。私は女学校で音楽が得意だったので私にぴったりと思って応募したら、実は慰安所だった」

出典:慰安婦と戦場の性/秦郁彦(新潮社:1999)

富錦(富錦陣地守備隊) 

『二〇〇〇人が集められ・・・・・・』 通信教育隊(73歳) 1944年

私は、昭和一九年(一九四四)、満州の黒龍江省富錦にいました。そこでは、二〇人の慰安婦が数百人の兵隊の相手をさせられていました。一八歳から二〇歳ぐらいの朝鮮人慰安婦でした。憲兵が点呼するのを聞 いたことがありますが、「ハルコ」「ハナコ」「モモコ」「ナツコ」などという源氏名で呼ばれていました。

慰安所は、レンガ造りの民家の内部を改造したものでした。入り口を入ると、六尺幅の廊下があり、その左右に部屋が並んでいました。部屋の入り日には、その部屋の女の名前が掛けてあり、黒いカーテンが下がっていました。部屋は、四畳ぐらいの広さで、兵士用の鉄製ベッドが置いてありました。ここに来るのは、下士官と兵隊で、将校は別のところに行っていました。
週に一回、慰安婦たちの性病検査がありました。慰安婦たちの名簿は各部隊に配布され、性病にかかっている慰安婦は、県立病院に強制入院させられました。入院にかかる費用は、慰安婦たちの借金になりました。莫大な金額で、一生返せないような額でした。

料金は、軍票ではなく、満州国のお金で支払っていました。

私は、一人の朝鮮人慰安婦を逃がしたことがあります。彼女は、京城高専女学校を卒業した一八歳ぐらいの娘でした。和文タイプ、そろばんを習得していると話していました。父親は朝鮮総督府の高官で、学校からは、関東軍司令部勤務を約束されていたのです。

「関東軍戦時特別女子挺身隊」ということでしたが、実際に来てみたら慰安婦だったと言って泣いていま した。

話を聞くうちにかわいそうになり、ちょうどそのとき、高熱で苦しそうでしたので、「結核だ」と護衛の憲兵に伝え、解放させました。その後、どうなったのか・・・・・・。

朝鮮人女性は、京城駅に二〇〇〇人が集められ、列車に乗せられて、満州の新京に下ろされました。そこで、二〇人から三〇人に分けられ、また列車に乗せられ、各地に送られていきました。チャムスでは、数十人規模で何回も下ろされ、国境地域に配備されました。富錦バスセンターで、慰安婦の引き渡しに立ちあったことがあります。護送の憲兵から引き取りの憲兵に渡していました。民間の日本人売春業者がついていました。私は、バスで送られてきた二〇人の朝鮮人女性を、慰安所に連れていきました。憲兵も一緒でした。さきほど慰安婦を逃がしてやった話をしましたが、それは、このときのことです。
敗戦になり、松花江の断崖から二〇歳ぐらいの娘が身を投げたと聞きました。たぶん、朝鮮人慰安婦だったと思います。(P43~45)

出典:従軍慰安婦110番/明石書店(1992)

小城子

友清高志(関東軍兵士) 1942年

以来、毎週日曜日ごとに、外出が許可となり、そのたびに私は彼女のもとに通った。

東海州で生まれ、育ったという彼女とは、私が沙里院から三泉温泉を知っていたことから共通の話題が生まれ、親密になっていった。話は自然、彼女の身の上話にまで進んだ。

彼女の育った家は、別に貧しくもなかったが、町の世話人のすすめで、満州女子奉仕隊に応じたという。その時彼女は19才(満18)であった。仕事は日本兵の衣類の繕い物から洗濯などで、月給は住居つきで100円、支度金の欲しいものには30円の前渡しという触れ込みであった。彼女には恋人がいた。1年働けば金も溜まる。その時帰って結婚しようと、恋人に心を引かれながら国を発ったという。来てみて、事の意外さに動転したが、何事も後のまつり。泣いて訴える彼女に楼主はせせら笑って言ったそうだ。

「ほら、これがお前の支度金30円也の借用書だ。今これに利子がついて60円になった。故郷に帰りたきゃ、迷惑料を入れて120円出してもらおう」

日本の講談を聞く思いで、私は又春の話を聞いていた。(P66~P67)

出典:ルソン死闘記/友清高志 講談社(1973)

第四軍(北安)

北安(第四軍指令部、第八独立守備隊)

孫呉(第一師団司令部)

金井英一郎(関東軍主計将校) 1944年

「国境の町、孫呉」「町の南側にソンピラ河が流れ」「河畔に周囲を赤い煉瓦塀に囲まれた、なんとなく妖しいムードの建物が2つ並んで建っている。孫呉第一慰安所、第二慰安所である」「市街地には」「慰安所常盤とか、慰安所いろはとかいう民営の店も開いている」「例によって神田主計中尉は、新米のぼくのために、巡察コースの順序から、コツやらを細々と教えてくれた。『野戦貨物廠の次がいよいよ最後の軍慰安所だ。第一、第二とも25人ずつ、50名の慰安婦が、それぞれの個室を持って、兵の慰安業務を行っている。慰安婦はすべて若い朝鮮女性である』。中尉はここで声を落して、『彼女たちは、女子挺身隊とか、女子愛国奉仕隊とかの美名で、朝鮮の村々から集められたらしい。18歳から23歳までの独身女性で、仕事は軍衣の修繕、洗濯等の奉仕であると説明されての強制徴用であるようだ。連れてこられて、仕事の内容を知り動転するが、もはやどうするという自由はない。ここではっきり断っておくが、以上の内容について、われわれ主計将校が容喙する何らの権限を持たない。つまり慰安所の営業について口はつけられない。週番士官としての巡察項目は次の3点だけに限られる。1、兵は部隊別に利用曜日が定められている。このことの確認。2、公用外出者は利用してはならない。3、鉄兜突撃一番(軍用コンドーム)使用の確認 』」
「はじめてお目にかかる慰安所なる場所だ。馬から下りて、軽く深呼吸して、靴音を高く鳴らして中に入る」「2つの部屋の前だけに、15、6人の兵隊が列を作っている」「ほかの部屋も満員のようだが、列を作るほどではない」「なぜ、この2つの部屋だけ、人気があるのか。覗いてみて、すぐ納得した。襦袢(シャツ)1枚の兵隊に、組伏せられ両膝を開いている裸の女の若い肢体。悲しげにこちらを向いたその顔は、まだ初々しい少女のようで、ハッとするほどの美貌であった。ぼくはもうひとつの人気のある部屋のなかを覗いた。愛くるしい、ぽちゃぽちゃとしたもっと若い肢体だ。円い幼顔をしている。痛ましい思いに胸を衝かれた。廊下の突き当たりに机と椅子を置いて管理人が控えている。聞いてみる。この2人は、一昨日、朝鮮から送られてきて、昨日から仕事に着いたのだ、という。『それなのにこんなに集中しては、体をこわしはしないか』『昨夜、硼酸で湿布させたらひと晩で治りました。今日は大事をとって、30人で打ち止めにします』と、事もなげに答える。何たること、何たること」「数日後の夕暮れどき、意を決してぼくはプライベートに慰安所を訪れた」「2時間2人分の料金を支払い、1室で(前述の)その2人に会った。日本語が少し話せる。源氏名は玉蘭と香蘭。19歳と18歳。朝鮮全羅南道の農村の出身。2人は同じ村、玉蘭は朝鮮の村では数少ない高等小学校卒業だ。運命の嵐に巻きこまれたいきさつは、神田主計中尉に説明された通りだった」

出典:Gパン主計ルソン戦記/金井英一郎 文芸春秋(1986)

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第一師団(孫呉)軍医の証言(千田夏光による聞き取り)

王兵団(第一師団)に軍医として従軍し、現在は川崎市の某公立病院の院長をつとめておられる某氏(匿名を希望)はその管理状況を次のように説明されている。

 「軍の戦略単位は師団、その師団の中枢は師団司令部で、参謀部、経理部、軍医部、獣医部、兵器部、管理部に分かれていました。参謀部は作戦計画や作戦のための補給計画や情報収集などを担当します。経理部は一般会社の経理部と同じで物品購入から給与を担当します。軍医部は衛生隊と後方関係に分かれていました。衛生隊軍医は主に野戦における医務を担当し、後方関係軍医は部隊の衛生管理から防疫を担当していました。獣医部、兵器部は文字で想像されるとおりです。管理部は師団司令部を管理する庶務係みたいなものです。

さて、私たちは戦争初期には北満州の孫呉に駐屯していましたが、この孫呉というのは名もない農村だっ たのを、昭和十四年ノモンハン事件のあと、対ソ戦用の兵団基地として日本人が作った町でした。日本人の芸者も営業していました。もっとも芸者といっても、女郎と芸者を兼用した商売で、酒を飲ませ歌を聞かせて寝るといった具合のものでした。ただし、これは軍人、軍関係者でなく、一般日本人を相手にしていたようです。軍は町から五キロほど離れた原野に兵舎を置いていました。
軍隊用の慰安所はこの兵舎の近くにありました。兵隊はもっばらここを使っていたのです。四囲を煉瓦塀でかこみ、日本人、朝鮮人の慰安婦を置いていました。数は師団の兵員数二万人以上に対し五十人ぐらいだったと思います。ここに民間人の管理人がいました。営業については軍は介入していませんでした。

ただし、彼女らに対する管理は衛生面では軍医部後方関係軍医が当たっていました。定期的に検診を行な い、花柳病患者を発見すると各連隊の週番司令を通じ各隊へ通知し、その慰安婦には営業停止を命じていました。つまり管理権は軍が持っていました。間接管理でしたが。軍隊としてはともかく性病の発生を一番怖 れていたのではないでしょうか。軍医部としては慰安所の各室に過マンガン酸カリの水溶液を置いて、終っ た後、必ず兵隊に自分の性器を消毒するように命じていました。

この水溶液はカメレオン水と呼ばれていました。過マンガン酸カリというのはキラキラ光った雲母状で、 魚のウロコのような結晶をしている薬品です。紫色をしていました。このカメレオン水の洗滌装置の設置は 主軍を通して共通していたはずです。全軍的な命令だったと思います。このほか外出には必ず”突撃一番”と書かれた袋に入ったコンドームを持たせていました。これも全軍共通のはずです。突撃一番は軍需品で生ゴムの配給を優先的にうけ製造されていました。

まずこれで性病は一応は防止できるはずなのですが、もっとも血液検査の設備はありませんでした。ですから検診は医学的に完全ではありませんでした。慰安婦の中に淋病にかかったのもいました。調べるとこれは外部からうつされて来たものでした。それも検診の直前に局部の膿を洗ったり、ズルファ剤を町の薬局か ら買って来て膿をおさえたりするので、内科外科専門の多い軍医には見ぬけなかったようです。

いっぽう、連れてこられた慰安婦については、軍医部に全品の顔写真を添付した名簿、というより慰安婦の”戸籍簿” がありました。憲兵隊にも写しがあったと思います。私は衛生隊に所属していましたが後方担当軍医など 、彼女らの何から何までこの写真を見ていると思い出して来るなど申していました。後方担当軍医は産科婦人科医などがいるとそれが担当していました。もっとも産科婦人科医は召集軍医の中にたまにいるだけなので、大体は内科医外科医が受持たされました。だから検診寸前に洗滌したり、ズルファ剤、これは売薬名テラポールと言いましたが、それを飲まれると見抜くことができなかったのでもありました」

まず性病防止という事に眼目をおいていた事実がこれからわかる。同時に民間の委託経営にしていたからといっても、軍直轄同様の統制管理を行なっていたこともわかる。この玉兵団第一師団は、北満州にあった とはいえ戦時体制に昭和十九年そのままレイテ攻防作戦へ転用された典型的な戦闘師団だったから、 他の部隊もこれと同じ運用方法をとっていたのだろう。

(P82~84)

 

ここに慰安婦を管理する各兵団軍医部(管理部でやったこともあったし、通過部隊の基地では兵站部がやった)では、彼女らの"士気"を鼓舞する計画を考えたようだ。第一師団では、その一つとして運動会を定期的にやっていたという。もちろん慰安婦だけである。兵隊を参加させると不測の事故がおこると考えたからだというが、前出の川崎某公立病院長をされている元軍医はその運動会の様子をこう語っていた。

「彼女らの学校歴は小学校卒が大半以上、中に高等小学校卒が二人いましたが、これはインテリに属しました。だから運動会といえば大半以上は小学校の時に経験しただけです。それ以後は社会の底辺ばかりを這って楽しいことは何もなかった。だから後方担当軍医が初めて"運動会をやろう"と言ったらすごく興奮していました。とくに朝鮮人慰安婦は目をキラキラ光らせ、涙を浮かべているのもいたそうです。楽しかった少女時代の事をふと思い出したのでしょう。

当日は女学校の運動会のようでした。キャアキャア黄色い声をあげ、草っ原をころがりまわっていました。彼女らが一番目の色をかえたのは百メートルの徒競走でした、朝鮮人慰安婦の方が若くて体力がありましたから、一等賞はすべて彼女らでした。それが胸を張って商品を受け取りに来るのです。ジンと来ました。

それに面白いと思ったのは運動会の前日と翌日に慰安所へ立ち寄った兵隊が、"まるで別人と接したみたいでした。彼女らはびっくりするほど体を弾ませていました"ともらしたことです、しかも運動会から一ヵ月くらいその余波というか影響は残っていたようです。演芸会もやってみましたが、これは運動会ほどのプラス効果はなかったと聞きました。ともかく運動会から一週間は兵隊に抱かれながら、自分が如何に頑張って走ったか、パン食い競争のパンが如何においしかったかを話していたそうです」 (P99~100)

 

この朝鮮人慰安婦は麻生軍医報告書にあるごとく、若く処女と見られる者が多かったため、事故を起こすことも多かったようだ。事故といっても慰安婦の事故である。前出の孫呉に勤務した軍医はこんな報告をしている。

「孫呉でのことです。ある時、朝鮮人慰安婦から、"来てくれ"と言ってきた。はじめいぶかり何か企みがあるのかと思ったが、様子を見ていると、それらしい気配はない。後方担当軍医の方に顔見知りがいたのだろうが、応援でたまに検診に狩りだされた私を見て話しやすいと思ったらしかった。ともかく私は行ってみた。部屋の入口まで行くと、"あがってくれ"と言う、午前中だったので慰安所の連中は眠りこけていたのだろう。誰にも顔を合わさずにすんだ。靴を脱ごうとすると、"そのままでいい"と言っていた」

そこまでは良かったが、部屋に上がると彼女は、

「これ見て下さい」

さらりと押入れの襖を開けたという。そのとたん、

「あっ」

彼は叫んだという。押入れの中に生後七日ぐらいの赤ン坊がスヤスヤ寝ていたのを見たのだったという。

「兵隊の子か?」

「・・・・・・・・・・・・・」

「検診の時に妊娠とわからなかったのか?」

「・・・・・・・・・・・・・」

「一人で生んだのか?」

「・・・・・・・・・・・・・」

何を尋ねてもそれ以上は答えなかったが、軍医の目をごまかしたというより、彼女自身が妊娠の知識を持たず、気がついた時は出産となっていたらしかった。悪阻、陣痛もなかったらしい。若く健康体であったからと思われた。それにしてもその性知識のなさに彼はあきれたが、朝鮮農村からいきなり連れて来られた彼女らの中にこうした女性は多かったらしい。(P109~110)

出典:従軍慰安婦・正編/千田夏光(1973)

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森利(関東軍野砲兵第一連隊)

「当時、現役兵の大体3分の1は経験者で、何らかの形で女を知っていた。3分の2は欲情はあっても性病が怖いのと、そのような行為に対して軽蔑感が強いのか、理性で性欲を制御するとか、いくつかの理由で経験者とは対異性観を異にしていた。ところが、未経験者の半分は軍隊生活で女を知ることになる。残った半分は、服務6年間に及んでも断固として女を拒否し、禁欲に徹したようだ」「北満孫呉は軍都である」「表通りは兵隊相手の商店が軒をつらね、横町に慰安所が4つほど軒を並べている」「(慰安所の)彼女達は軍属という身分で狩り出された朝鮮の特殊慰安婦である」「彼女等は日に60人も兵隊を遊ばせる者もいたそうで、日本女性の4倍も能率を上げた。幹部の慰安所は別の地区にあって、ここは日本女性が殆どだったそうだ」(P225~226)

出典:モリトシの兵隊物語/森利著 青村出版社(1988)

霍爾莫津(ほるもじん)(第五国境守備隊)

璦琿(あいぐん)(第六国境守備隊)

米沢音松(第六国境守備隊砲兵隊)

辺境の国境守備隊にあつて、本部は陣地内にあり、陣地に近づく者は射殺される環境では、一般人は近づかない。外出か公用で、陣地の外に出ないと女性の顔は見たことがなかった。

東京出身の小松三年兵と一緒に外出して、慰安所を見物に行く。兵舎から歩いて二時間はかかる。愛琿駅から北へ二十分、野原の中に四軒が建っている。ずいぶんとお粗末な設備で、古い壊れかかった中国人の農家を改良したもの。部屋は三畳、広くても四畳ぐらいで、部屋の仕切は薄いベニヤ板。照明は暗い裸電球が一個ぶら下がって、部屋にあるのは寝具だけ。入日の扉もベニヤ板で、何とも殺風景な施設である。慰安婦は一軒に五?八名程で、合計でも二十五、六名。慰安婦一人で約三十名から四十名の兵を引き受けることになる。朝鮮人が主で、皆若く、十八歳から二十五歳くらいまでである。

出典:音松自伝 我が兵隊物語・抑留物語/米沢音松 私家版(1999)

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中井久二(満州国の日本人官僚) 1939年

黒河省次長在任中ノー九三九年五月、璦琿(アイグン)縣璦琿ニ駐屯スル、日本軍部隊ノ要求ニ基キ、兵士慰安ノ妓楼ニ、供用スル為、金三万円ヲ以テ、建物一棟(約二百平方米)ヲ建設シテ、之ヲ貸与シ、日本帝国主義軍隊ヲ援助シマシタ。比ノ、私ノ、行為ハ、反民主、反人民的罪悪デアリマシテ、私ハ、其ノ責任ヲ自覚シ、認罪致スモノデアリマス。

出典:中井久二の供述書による(一九五四年八月一四日記)撫順

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伊藤桂一が語る菱田大佐(第六国境守備隊隊長)の慰安所開設例 1941年(関特演)

伊藤:(略)軍は慰安所に無関係だった、あれは民間が勝手にやったことだという意見も耳にするけど、そんなことはない。僕は「慰安婦募集の一記録」という一文を書いたことがあります。満州にいた関東軍の第六国境守備隊隊長だった菱田という大佐が、北満州の西崗子という町に、軍の管理する慰安所を作ったという話です。

この人は、大佐には珍しく下情に通じた人だった。士官学校や陸軍大学校など日本の軍人育成学校の欠陥は、軍事は教えても人間のことは教えなかったことじゃないかと思うんですが、そのなかで珍しく兵隊の気持ちの分かる人だった。例えば、駐屯地にいる軍人、軍属の家族に「婦人の下着類を望楼から見えるところに干さないでくれ」という通達を出したことがある。望楼から双眼鏡で監視している兵隊を刺激しないように、という配慮なんですね。

彼の慰安所計画は、憲兵隊長の強い反対にあいます。“民間人がやるならともかく、軍みずから慰安所を作るなんてとんでもない”と。しかし、菱田部隊長は“君たちは料亭の女を専有してるからよい。兵隊たちは性の処理をどうするんだ”と反論して、これを認めさせた。民間人に任せると性病がこわいし、情報も漏れる。それならいっそ軍がしっかり管理して、慰安婦たちにも安心して働いてもらおうというのが菱田大佐の発想なんですね。

--その話は直接聞かれたんですか?

伊藤:菱田大佐の部隊にいた人に詳しく聞きました。その慰安所は「満州第十八部隊」と名付けられました。
慰安婦は、朝鮮の慶尚北道で募集し、志願してきた女性は軍属として、判任官待遇とする。玉代は四十分一円五十銭。衣食住は軍持ち。前借も無期限、無利子で自分の稼ぎによって返済する。つまり、稼げば稼ぐだけ、前借している金を返すことができるわけです。民間の慰安所の場合、楼主夫婦をお母さん、お父さんと呼んで擬似一家の構成にしているから、稼いでも途中でピンはねされてしまうという弊害があった。しかし、軍の慰安所にはそういう心配は、もちろんありませんでした。
そのほか、軍は管理するけど生活には干渉しないとか、そういった条件をきちんとうたって募集したんです。

--女性たちは集まったんですか?

伊藤:たちまち二百人集まったそうです。募集地を慶尚道にしたのは、あの辺りの女性は気質もいいし団結も強い、という理由だったそうです。慰安所の建物は、松、竹、梅と三つあって、一人に一部屋があてがわれた。壁に掛かっている慰安婦の外套の襟には、軍属のマークが縫い付けられている。判任官のものですから、上等兵より階級は上なんですね(笑)。

出典:「従軍慰安婦」朝日新聞VS.文藝春秋 (文春新書)所収「気高き慰安婦たち」(2007) 聞き手:野田明美

注)実際には、「慰安婦募集の一記録」の元になった小説には、この文章と異なる事情が書かれている。伊藤桂一の項を参照

黒河(こっか)(第七国境守備隊)

「関東憲兵隊通信検閲月報」所収の手紙の一節(1941)

「日本人・武田某(黒河)→村上某(秋田)41・10・16(押収)」「北満黒河市街を去る北方4里にある山神府兵舎(中略)果てもなき広野に村もなく只一面に国威を示す各兵科の兵舎のみ。唯僅かに見えるのは陸軍官舎の一隅を利用して開設せられたる東西に慰安所あるのみ。慰安所と申せば一寸劇場か、見せ物小屋の様にも想像せられますが、さにあらず。此の兵舎に起居する兵どもの貴重なる精力の排出ヶ所なのです。慰安所の兵力は僅かに20名そこそこの鮮人にして、然も国家総動員法に縛られ、芳子や花子など桃色配給券が分けられ、軍隊でなければ見られぬ光景です。おまけに公定価格という解にて安サラリーには向きません。配給券も職権乱用にて専ら将校連中専用の状態です」(P155~156)

出典:検閲された手紙が語る満州国の実態/小林英夫・張志強編 小学館(2006)

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元日本軍軍医が死の間際に明かした“慰安婦問題”の核心(「アサヒ芸能」記事より)

 数年前、日本維新の会・中山成彬衆議院議員に一本の電話がかかってきたという。中山氏が語る。

「当時、私は『日本の前途と歴史教育を考える議員の会』の会長でした。私が慰安婦問題に取り組んでいるということをどこかで調べた、92歳になる元日本軍軍医の方から直接、電話がかかってきたのです」

元軍医は、高齢であることから外に出歩くこともできないので、ぜひ、千葉県船橋市にある自宅に来て、自分の話を聞いてほしいと、中山氏に申し出た。そこで元軍医は、みずからの経験をこう語り始めたのだという。

「自分は、戦争中にソ連と満州の国境である『ソ満国境』の満州側にある『黒河』という場所で軍医をしていました。そこには、約5万人の日本軍が集結していたのです。そこに従軍慰安婦たちが各地からゾロゾロと集まってきました。だいたい100人くらいいましてね。ほとんどが日本人だったけど、20人くらい朝鮮出身の女性もいました」

彼が経験した出来事は、朴大統領の父親・朴正煕氏が米軍相手に管理していた、拉致や性病の蔓延などがある“地獄の慰安所”とは、まったく違うものだったという。

元軍医は、慰安婦たちに対する日本軍の扱いをこう語った。

「自分は軍医なので、兵隊たちの健康管理や、衛生状態をチェックするのが仕事でした。同時に、慰安婦たちが性病にかかっていないかなどの衛生管理もしていました」

韓国人たちは、慰安所の運営に日本軍が関わっていたことを問題にしている。しかし、それは慰安婦たちにとって決して“性奴隷”的な形で行われていたものではなかった。慰安婦と兵士たちは個人的にも交流をしていたという。

「慰安婦はその時に兵隊さんたちとも仲よくなって、休みの日には連れ立ってピクニックに行ったり、演芸会までも一緒にやっていたんです」(前出・元軍医)

 

 (関係ない積慶里慰安所の話が挟まるので中略)

 

中山氏が面会した元軍医は、朝鮮人の慰安婦の一人が涙ながらに告げた言葉を、声を振りしぼりながらこう語ったという。
「朝鮮から来た女性が私に言った言葉が忘れられないのです。彼女は『私たちにこんなによくしていただいて、優しくしていただいて本当にありがとうございます。おかげさまでたくさんのお金が稼げて朝鮮にいる両親のもとにたくさん仕送りもしています。本当にありがたいことです』と話をしてくれていたのです」

韓国側は、これでも日本軍が慰安婦たちを「性奴隷」として扱っていたと言い張るのだろうか──死の間際にあって、元軍医は中山氏に慟哭しながらこう依頼したのだという。「日本軍が慰安婦に対して残虐な行為をしたというのは絶対に違います。非常にていねいに扱う状況だったということをどうか皆さんに伝えてほしい」

程なく、この元軍医は亡くなった。現在、中山氏は、河野談話の見直しの署名活動を続けている。

出典:アサ芸プラス(2014年4月9日)

http://www.asagei.com/excerpt/21864

http://www.asagei.com/excerpt/21865

http://www.asagei.com/excerpt/21866

法別拉(ほうべら)(第十三国境守備隊)

信陽

『面長は自分の娘を差し出して・・・・・・ 』 電信部隊(72歳)

私は、中国東北部の孫呉、遼陽、信陽などで、通信電信関係の仕事をする部隊にいました。信陽は、南方進出を前に多くの部隊が集結し、慰安所の規模も大きく、慰安婦の数も多かったと思います。将校は日本人慰安婦、下士官以下は、朝鮮人慰安婦のいた慰安所に行きました。信陽にあった慰安所は、アンペラで作った即席の掘っ立て小屋です。孫呉には、二〇人ぐらいの慰安婦がいました。

日曜日には利用者が殺到しますので、日曜日から月曜日まで、部隊の中で人数が振り分けられていました。慰安所の受付は、軍属がやっており、慰安婦たちへの給料の支払いも、軍属がやっていました。日本人軍属だけでなく、朝鮮人軍属もいました。給料といっても、満州国紙幣でしたから、敗戦と同時に紙切れ同然にになってしまったのです。料金は、一回八円から一〇円です。現金で払っていました。時間は、四〇分から五〇分ぐらいでした。慰安婦たちは、一日に三〇人から五〇人の相手をしていたと思います。

月に一度、慰安婦たちの検診があり、これに当たる軍医は、当番制になっていました。

朝鮮人慰安婦の「募集」は、軍が警察に依頼して、朝鮮総督府から各面(面・・・行政区域の一つ。郡の下、里洞の上)に下ろされ、連行したようです。

一九四五年頃のことです。慰安婦が足りなくなり、警察から五人何とかしろと言われた面長は、自分の娘を差し出したということもありました。

敗戦は孫呉で迎え、ハルピンに行きましたが、そこで、軍人と民間人は別々に収容されました。慰安婦は、民間人と一緒だったと思います。

こんな話を聞いたことがあります。ソ連軍の兵士たちの質が悪く、敗戦と同時に「女を出せ」と言ってきました。それで、民間の女性が、慰安婦だった朝鮮人女性を差し出し、お金をもらって相手をさせていたということです。そのうちに、あまりにソ連軍の兵士の数が多いので断ったところ、女性たちはひどい暴行を受けました。乱暴され、性器が裂け、血だらけになったという一六、七歳の日本人の少女もいました。

その後、慰安婦だった女性たちがどうなったかは、私にはわかりません。管理していた人たちが、一番よく知っているのではないでしょうか。(P35~36) 

出典:従軍慰安婦110番/明石書店(1992)

第六軍(海拉爾)

海拉爾(ハイラル)(第六軍司令部、第二十三師団、第八国境守備隊)

勝又正彦(ハイラル第八国境守備隊司令部付曹長)の証言 1941年

私がハイラル第八国境守備隊司令部慰安所係を命ぜられた時の実際記です。

上官に慰安所係とは何をするのかと聞きましたら「兵隊に悪い病気が出てはいかんので性病予防と、病人が出るときは客をとらせないようにするのが仕事だ」と申されました。 この韓国女性たちは軍が集めたのかと聞きましたら「内地で言う女郎だよ。金を目的に朝鮮の親分が集めてくるので、各地の女性が金を目当てに集まって来ているのだ」とのことでした。
ハイラルでは、半島出身の女性は一時間一円十銭、現地(満州)の女性は一回五十銭、ロシア人女性は一円十銭、日本人女性は一円五十銭と聞いております。

休日は各隊から市内巡察隊が出て、日本の軍人が列をなして順番を待っている間に、種々トラブルが生ずるのを防止したり、金を支払わぬ者が生じますと、その兵を部隊へ連絡したりして居ました。私も巡察に出て取締まりました。
当時の軍曹の月給が二十五円のとき、半島出身の女性は、土・日の二日間で、二十五円から三十円の収入を得ていることが判りました。お金を目的とする仕事では何より多くの収入になったことでしょう。

このハイラルでは昭和十五年頃は満人、ロシア人、日本人の女性によるピーヤ(女郎屋)が若干あっただけでしたが、昭和十六年関東軍特別演習で満州に相当多くの日本軍が集結した頃、いつの間にか半島出身女性の十五人ぐらいのピーヤが七ヶ所も出来たのには驚きました。

日本の兵隊は、なけなしの金を先払いしないと半島女性は相手にしてくれなかったのです。
さて日本軍はこの満州方面では、現地の満州女性やまた慰安所の半島出身女性に対し、不当な行為は一切して居ません。
これは私が司令部付慰安係だったから判るのです。 

出典:『慰安婦問題 日本の証言』 正論 2014年12月

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『私をここから連れ出して』 在日朝鮮人(71歳) 1945年

私は満州で、日日新聞社販売部ハイラル支部で働いていました。一九三五年三月頃、私は召集され、南満州(ハイラル)八九一部隊に入隊しました。当時同胞は、二〇〇人以上いました。

ハイラル市内には、慰安所が十数カ所ありました。私は、本を販売しながら歩き回ったので、そのときに 慰安所を見たのです。一カ所に一四、五人の朝鮮人慰安婦がいました。民間の慰安所もあり、そこには、白系ロシア人、中国人の娼婦がいました。しかし、軍の慰安所ではないので、入ることはできませんでした。 当時私は一九歳でしたが、私よりも若い朝鮮娘が、だまされて連れてこられたと聞いて、こんなことがあるのかと憎しみを感じました。「こんな所に連れてこられたことは、私の親は知らない。どうすればいいのか・・・・・・。助けてほしい。私をここから連れ出して!」

そう懇願されましたが、そんなことをしたら大変なことになると思い、私にはできませんでした。

八九一部隊では、慰安所に行くときには部隊で、何月何日に行くと計画し、行くのは命令でした。料金は二円支払いました。

朝鮮人慰安婦たちは、一日に七、八人の兵隊の相手をさせられていました。 敗戦になり、中隊長は先に逃げてしまい、残された兵隊は捕虜になりました。私も二カ月間捕虜になりました。その後、給料ももらえぬまま祖国に帰りましたが、その途中、ハイラルからの引き揚げ列車二両に、 慰安婦が大勢乗っているのを見ました。この問題は、私も調べています。(P33~34)

出典:従軍慰安婦110番/明石書店(1992)

注)当時のハイラルの市街図が「ハイラル沈黙の大地―日中戦争の傷跡を訪ねて (風媒社ブックレット)」2000年に掲載されていたので使用させて頂いた。

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宗前鉄男(関東軍兵士)

あさ子は、江原道の日本海に面した小さな漁村の娘だった。八人の子供をかかえて、彼女の父親は小釣りで細々と生計をたてていた。あさ子が二十歳になった春、彼女の父は日本軍慰安婦の求人であることをうすうす知りながら、軍需工場の女工という名日で、あさ子を応募させたのだった。父の言葉を信じ切っていた彼女は、ハイラル市にあるこの慰安所の前に連れてこられても、まだそれとは気付かなかった。あさ子はそこを、女子工員寮とばかり思っていたのだ。

出典:凍土の上に 私のシベリア物語 私家版(2000)

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益子徳三(満州電々海拉爾電報電話局勤務の軍属) (1942年5月20日)

「(同僚)に誘われて、海拉爾神社裏の丘上原っぱで、催されている全軍慰安所の運動会を見にゆく。見物人はまばらで、街の人や子供たち、それに兵隊が2、3人。競技をしているのは慰安婦たちで、折々朝鮮語が飛び出して、賑やかなことであった」(P130)

 

出典:『満蒙軍属日誌』/益子徳三 叢文社(1981)

錦州

『慰安所就業申請書類』 砲兵司令部·書記官(73歳)

昭和十六年(1941年)、私は満州の奉天に三カ月ほどいました。初めて慰安所を見たのはそのときです。内地の遊郭とはそんなに変わらず、客引きなどもしていて、そんなに暗いという印象は受けませんでした。

慰安所に行く兵隊には、免税票という割引券のようなものが、軍から発行されていました。軍の関与がとりざたされていますが、当時の満州は日本の属国ですから、すべての面で関与していたといえますよ。 その後、錦州に行きましたが、ここも至るところに慰安所はありました。奉天と同様、朝鮮人慰安婦はチマチョゴリを着ていたので、一日で朝鮮人女性だとわかりました。まれに、日本の着物や浴衣のようなものを着ていることもありました。まるで、日本の女子学生のような感じでした。

当時の満州は、内地よりも物質的に豊かで、人の心も穏やかでしたし、兵隊は恵まれていましたね。ですから、外出先でトラブルもありませんでしたし、ひんしゅくをかうような兵隊はいなかったんじゃないでしょうか。三年あまりいる間に、強姦や略奪といったことは、少なくとも私が知る範囲では聞きませんでし た。とにかく、あそこではそんなに兵隊たちは荒んではいませんでしたよ。戦闘はないし、平時の内務班の編成になっていましたから。慰安婦たちと、そんなに立ち入った話をしたわけではありませんが、兵隊の中には、「朝鮮、朝鮮」 と言ってからかう者がいて、そういうときは、彼女たちは、「朝鮮、朝鮮といってばかにするな。天皇陸下は一つじゃないか」 なんてことを言っていました。八面通の駐屯司令部にいたとき、恤兵(じゅっべいー出征兵士の苦労をねぎらって金品を贈ること)慰問部で執務として働き、慰安所に関する書類を扱ったことがあります。慰安所を開設するにあたっては、「慰安所就業申請書類」を司令部に届けなければならないし、慰安婦を就業させるときにも、司令官の許可がいるわけです。先輩であった曹長が、用件で内地にいっている間、書記官であった私が、それらの慰安婦関係の書類を預かりました。 私がよく目にしたのは、慰安婦として就業するための許可願の書類です。今でいう履歴書みたいなもので、本人の写真が貼ってあり、氏名や経歴、朝鮮の本籍も書いてありました。

まれに年配の女性もいたようですが、年齢は、ほとんどが一七一八歳でした。チマチョゴリが、ちょうど日本の女子学生を思わせるようでしたから、そんな年齢ではなかったかと思います。扱ったのは書類だけで、面接はありませんでした。私が任されていたときに受けた申請の二件は、朝鮮人経営者からでした。

毎月、月報というのがあり、そこには、慰安婦の一カ月ごとの成績、つまり、何人客をとったかというようなことや、給料の明細等が書かれ、下には、桜主と慰安婦の認め印が押してありました。毎月それを部隊に提出し、部隊はそれを年に一回、司令部に提出していたのです。当時は、女性たちが搾取されな いようにやっているものだと思っていました。報酬などどのくらい慰安婦に渡っていたかはわかりません。

現地人の慰安所もありましたが、兵隊たちは立ち入り禁止でした。行ってもいいのは、軍が指定した朝鮮人、日本人の経営する慰安所だけだったわけです。 朝鮮人の慰安所で馴染みになり、キムチなんかを出してもらった兵隊もいましたよ。兵隊が転属となるときに慰安婦から選別をもらった兵隊もいましたから、悲壮感というよりも、和やかだったという印象の方がありますね。(P51~52)

出典:従軍慰安婦110番/明石書店(1992)

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最後の満州 錦州終戦前後 1945年

ソ連兵は囚人部隊で、敵地占領の際は掠奪暴行勝手次第の許可があったとかで、かねて予想はしておったものの、遙かにそれを上回る無茶苦茶な洗礼を受けた。

金品・時計・万年筆を初めめぼしい物を片っ端から掠奪する外に、最も困ったことは婦女子に対する野獣の如き暴行であった。それら被害の情報はあちらからも此方からも伝えられ、事件は毎日のように続いて戦慄の極に陥り、対策を追られ鳩首協議の末、民会が大急ぎでソ連兵に対する女子挺身隊を設けてこれを防ぐ以外に妙案はないことになり、私がその世話主任を仰せつかった。

先ず国兵会館の橋本厨房長に頼んで三業組合(料理屋・待合茶屋・芸者屋=風俗サービス業)の名簿を入手し、組合婦人達の避難先を調べ、ご当人に面会し説いて同意してもらわねばならない。

満洲電業倉庫の避難者中に数人いることが判り、本人達に面会させてもらった。
 「戦時中男子は特攻隊になってお国のために働いた。敗戦後日本人婦女子が危険に曝されているとき、お気の毒で、申訳なく、まことに我がままな申し分であるが、
ソ連軍に対する女子挺身隊になって、一般婦女子を護って下さらぬか」と懇請した。
彼女達には女傑的な侠気があったのだろう。承諾して協力を約してもらった。
…あちこちから出張サービスの要請が舞いこむ有様で、出張のときは男子が護衛につき、終るまで待って又、連れ戻さねばならない。
挺身隊の婦人たちも気の毒な程に忙しく、一日に何回も、何人ものソ連兵を相手にせねばならなかった。詳しいことは到底これを書くに忍びない。
…やがて一般婦女子の被害も激減した。民会の女子挺身隊や、その他にもあった女子達の犠牲的行動によって救われたことが最大の原因であるが、ソ連軍の当初の悪質な部隊が交替したこともあり、ゲ・ぺ・ウの取締りも逐次徹底して来たからであった。
…あの終戦とソ連軍の暴虐を憶い、一般日本人婦女子のために防波堤になってくれたこれら婦人の身の上に到るとき、あの時あれだけみんなから感謝されながら、時の流れと共に忘却され、自他ともに故意に無視埋没させて語らぬ悲哀の運命に、長嘆憐憫を禁じ得ない。 

出典:最後の満州 錦州終戦前後/錦州会編(1979)

ハローアルシャン(アルシャン)

第一〇七師団経理部の見習士官

ところで、日曜日になると、見習士官連中は、どうにも体を持て余した。どこへも行くところがないのである。慰安所、というところがあって、甲寮と乙寮とに分かれており、前者は将校・下士官用、後者は兵隊用であった。この慰安所の管轄は、わが経理部であったが、見習士官は利用することを許されなかったのである。

出典:白雲悠々/満州第八一五部隊第八期生緑園会編同会(1985)

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『慰安婦「サダヒメ」』 印刷係(66歳)

私は、昭和一九年(一九四四)から二〇年(一九四五)にかけて、中国の興安省のハローアルシャンに司令部所属の印刷係として任官していました。

部隊から一キロメートルほど離れた所に、バラック建ての慰安所がありました。五〇メートル四方ぐらいの建物が二棟あり、なかに入ると、廊下の左右に四畳ぐらいの部屋が一〇部屋以上並んでいました。は、朝鮮人慰安婦が三〇人ほどいて、南寮には、日本人慰安婦が三〇人ほどいました。

慰安婦たちは陸軍病院で、月に二、三回の検診を受けていたようです。慰安所の料金は、一時間三円でした。私はある程度、物資が自由に手に入ったので、時々それを慰安婦のところに持っていきました。ある日、「サダヒメと呼ばれていた慰安婦がお礼にと、キャラコの生地から糸を抜いて作ったテーブルクロスをくれました。刺細が上手な慰安婦でした。彼女の源氏名は、「カナモリ」だったと思います。二二歳でした。

終戦後、ソ連軍が進入してきたので、慰安婦も一般の日本人と一緒に、白城子方面へ引き揚げました。

出典:従軍慰安婦110番/明石書店(1992)

斉斉哈爾(チチハル)(第十四師団)

菅原幸助(満蒙開拓団) 1944年

「若い女性が、スカートにセーターを着て部屋の隅に座っていた。昭和19年9月、午後2時。チチハルの街は、初秋の太陽がまぶしかった。高橋幸雄(19)が、チチハル街のどまん中にある従軍慰安婦の宿に、“昼中登楼”したのは理由があった。午後5時以降になると、この宿はチチハル市ほか郊外に駐屯している日本軍(関東軍)の下士官、将校たちでいっぱいになる、と聞いたからだ」「(相手の慰安婦が語る)『私が、どうしてこんな仕事しているのか知らないの。私はね、釜山近くの村の生れです。日本人の子どもといっしょに、日本の学校で勉強しました。成績もよかったのよ。小学校を卒業すると軍需工場の工員として、強制的に吉林市の工場で働かされたの。3年ほど働いた昨年春、チチハルに転勤だというので仲間50人ほどでチチハル市に来たの』『そしたらどうです。朝鮮の娘たちは全員、軍人を慰める仕事だ、と言うんです。大騒ぎになったのよ。皆泣いて抗議したけど、天皇陛下の命令だ、といって強制的にこんなことをやらされているんです』『いやだ、と言って従わない娘もいた。すると食事も与えない。暗い部屋に閉じ込めて、何日も、水ばかり。死にそうになった娘もいるよ』『結局、日本の軍隊に体で協力せよ、ということね。とうとう50人余りの朝鮮から勤労動員された娘たちが強制的に売春婦にされてしまった。病気もあったけど、1日何人もの兵隊を相手にさせられ、自殺した娘もいます』」(P11~15)

 

「(慰安婦は語る)『あなたたち兵隊さんは、私たちをどんな女だと思っているの』(高橋)『いや、別に、あの……兵隊を慰めてくれる女性と思っています』『冗談じゃないです。私たちは日本のお役所から軍需工場で働いてくれ、と言われ、女学校を卒業するとすぐ夜汽車で満州に送られてきたのよ。初めの半年間はハルビンの兵器工場で働いたわよ。それがどうですか。有無を言わさず強制的にこんな仕事をやらされることになったのです』『まだ、故郷の父母には知らせていません。しかし、いずれはバレるでしょう。もう私の一生は終わりです。初年兵の兵隊さんにこんなことを言っても……』『将校、下士官相手はまだいい方。兵隊さん相手は満員でしょう。1日に30人もの兵隊を相手にさせられ、病死した女の子もいるのよ。だから、私も不安で……』。彼女は両目からボロボロと大きな涙を流し、むせるような声で泣いた。幸雄は身のちぢむ思いだった。『朝鮮の娘さんたちが、従軍慰安婦としてソ満国境に大勢連行されている』ということを、実は幸雄は知っていた。チチハルでは体験もした」(P195)

 

昭和20年8月、満州。
「旧満州国の関東軍(日本軍)は8月9日のソ連参戦後、直ちに、軍の機密書類を全て焼却するよう全部隊に秘密指令を出した。その焼却資料は①諜報(スパイ)に関する事項②731部隊など国際法に違反する非人道的な軍事活動資料③毒ガスなど化学戦兵器で国際法に違反すると思われる事項④従軍慰安婦強制連行及び慰安所所在地、管理に関する事項等々であった」(P239)

出典:初年兵と従軍慰安婦/菅原幸助 三一書房(1997)

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松本正嘉(歩兵第59連隊第3大隊所属)

三月末、六カ月間の国境警備の任務が終わって、チチハルの屯営へ帰隊した。兵器、被服、陣営具、馬匹の輸送、整備、検査と大変な仕事も終わり、四月三日の神武天皇祭の休日に、単独外出の許可が出た。私は一等兵で星ふたつになり、一人前の兵士なのだから堂々と一人で行動した。街を歩くと、満人より軍人の方が多い。軍都だから当然だ。上官が多くて敬礼の連続だ。ソ満国境で戦闘開始すれば、すぐに出動する部隊の北満の大集結地で、 十数万とも数十万とも言われるほどの軍人が溢れている。街がパンクするので、月曜日は 何部隊、火曜日は何部隊と毎日交代で外出しているので、一年中お祭りのような人出だ。 しかも、この日は祭日だから、相当数の軍人で街は混雑している。

私の行き先はピー屋以外にない。いつまでも初年兵でもあるまい。竜沙公園で飴をなめてもいられない。第一、第二、第三と慰安所を回ったが、どこも超満員で、仕方なく第三慰安所に入った。満員の兵隊で歩く事もままならない。どの部屋の前も行列だ。狭い所に並んでいるので、皆必死に前の奴の肩につかまっている。時々、大声が聞こえた。「こら、横から入るな。後へ並べ」「貴公、何年徴集だ。生意気な奴だ。こっちへ来い」「何年兵だ。 態度がでかいぞ」私も並んでいるが、何時間待たされるのだろう。帰営時間に間に合うだろうかと不安になったが、順調に消化されている。一人三〜五分くらいで処理してゆく。 そして、私の番だ。部屋に入り、巻脚絆を外し始めるとビーがもう片方を外す。その隣りで今終わった兵隊が忙しそうに脚絆を巻いている。ピーは皆やせているが、このピーは小肥りで裸の上に浴衣をひっかけていた。無言のまま料金を払い、素早く処理した。ピーは洗浄にも行かず、ほうきで掃き始める。早く帰れという合図だ。まごまごしていると次の奴が上がってしまうから、大急ぎで部屋を出なければならない。共同便所だ。

出典:わが太平洋戦記/松本正嘉 私家版(札幌市)(2001)

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森島守人(外交官-ハルビン総領事等歴任)1931年頃

関東軍は戦線を拡大し、北満のチチハルに入城した。
この時、日頃、軍と気脈を通じていた大橋忠一・ハルビン総領事が、軍のチチハル常駐を見越して、ハルピンから娘子軍を送り込もうとした。

ところが、チチハルの清水領事は謹厳実直な人だったらしく、風紀を紊すと断り、送りかえした。それをまた大橋が送り出すという具合で、娘子軍が、ハルピンとチチハルのあいだを、行きつ戻りつしたという

出典:陰謀・暗殺・軍刀-一外交官の回想/森島守人 岩波新書 (1950/1991)

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土屋芳雄(憲兵少尉)

「チチハルには、軍専属の慰安所が三カ所あった。ただし、慰安所の門には、慰安所では露骨すぎるので『軍娯楽所』という看板をぶらさげていた」「月1回『検梅』があり、軍医が花柳病の有無を検査した。これには憲兵が立ち会うことになっていて、私は2回ばかり立ち会った。慰安婦たちの多くは、『茎管カタル』(?)であった。茎管がすり切れ爛れているのである。しかし、軍医は『茎管カタル』を花柳病に含めなかった。従って彼女らは、ほとんど休めなかった」「女たちは、たいがい家が貧しいため、100円ぐらいで売られてきていた」(P71~P73)

出典:長岡純夫著『われ地獄へ堕ちん-土屋芳雄憲兵少尉の自分史』日中出版(1985)  

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元日本陸軍航空兵の証言

http://blog.bridgeforpeace.jp/?eid=1489420

 転載の許可を頂いていないため、当面、参考としてリンク

 

白城子

市川一郎白城子憲兵分隊隊員の証言 1944~1945年 

一九四四年三月、市川は黒龍江省チチハル憲兵隊の白城子憲兵分隊に配属された。分隊長以下憲兵・補助憲兵・運転手など総勢四〇人あまりの分隊だった。関東軍旅団司令部がある白城子は、対ソ連戦を意識した重要拠点だった。飛行場あり、陸軍病院あり、兵器補給廠ありの軍隊の町白城子にはもちろん、軍隊慰安所も設置されていた。新京にあった関東憲兵隊教習隊を卒業したての市川は庶務係に着任した。そこで彼は慰安所担当の仕事を命じられたのである。

市川の担当となった慰安所はれんが造りの平屋で、廊下をはさんでその両側に二畳 ほどの部屋がかいこ棚のように並んでいた。そこに二五、六人ほどの朝鮮人「慰安婦」が入れられていた。二十歳代がほとんどだったが、なかには十七、八歳の女性もいたという。

毎朝、軍服を脱ぎ私服に着がえると、市川はその慰安所に行った。チケット(慰安所利用許可証)を回収するのが目的だった。部隊では慰安所に行く軍人のためにチケットを発給し、軍人はそれを持って慰安所に出かけた。軍人は料金の支払い時にそれを差し出した。市川が回収したのは、そのチケットだった。チケットは、兵隊は黒、下士官は緑、将校は赤と色分けがしてあり、部隊長の名前と本人の名前が記されていた。

回収しおわったチケットを部隊に持ちかえると、市川はさっそく、慰安所利用の記録を表に書き入れた。市川の手もとには、「慰安婦」の一覧表があった。そこには名前・年齢・出身地などが書かれていたが、情報は慰安所の管理人に提出させたものだった。新しい「慰安婦」が連れてこられると、管理人はすぐさまそれを憲兵に報告せねばならなかったのである。一覧表の「慰安婦」の名前の横に、その前日に「相手」をした軍人の名前を書きこみ、詳細に記録した。

憲兵が慰安所利用者をそこまでこまかく把握していた理由のひとつには、防諜の目的があった。あまり頻繁に同じ「慰安婦」のところに行くようになると、いつ部隊が出発するかなどといった情報がもれるおそれがある。それを防ぐため、軍人が「慰安婦」に「なじみ」をつくることに憲兵は厳しく目を光らせていた。私服で慰安所に「潜入」し、中のようすを探りもした。市川は記録した慰安所利用者状況を、毎日上官に報告したのだ。 憲兵は「慰安婦」に関するさまざまな仕事を請けおっていた。性病検診にも、憲兵は立ちあった。軍医が診断する性病の有無を表に書きこむのも憲兵の仕事だった。「慰安婦」には婦人科系の病気や性病にかかる者が少なくなかった。

軍隊が「慰安婦」の性病に注意を払ったのは、軍人に感染させないためだった。け っして「慰安婦」のためにやったわけではない。それは軍人に性病が広がることを恐 れての検診であり、「慰安婦の休養」は軍人が性病にかからないようにするための 「処置」だった。性病の放置は、戦力にかかわる事態を引きおこしかねない。それを 防ぐためにも軍は軍人に衛生サック(コンドーム)を配布しその使用を厳しく命じた。その一方で性病感染者のチェックに神経をつかったのだ。憲兵が性病の「慰安婦」に命じた「休養」とは「使用禁止」を意味していた。

中国東北地方の冬の寒さは、あたりを凍土と化す。吐いた息がまつげを凍らせる。それは「慰安婦」にとってもつらく厳しい季節だった。「慰安婦」たちは慰安所の外に出ることはできたが、監視の目は厳しく、逃亡などできなかった。多数 「相手」をすることに抵抗してもそれが成功することはなく、「慰安婦 た ち は日に一五人から二〇人の軍人の相手をせねばならなかった。

「慰安婦」が亡くなったという報告は受けたが、その遺体がどうなったかは彼の管轄外であり、記憶に定かではないという。ただ、亡くなる「慰安婦」が多かったことは確かだった。日報を作成していたときに、「慰安婦」の名前を書きかえることがしばしばあったからだ。

慰安所の管理人は朝鮮人の夫婦だった。朝鮮人「慰安婦」に指示や注意をするうえで、ことばがわかる朝鮮人の方が日本人よりもスムーズに意思伝達ができるという便宜上の理由だったと思われる。しかし管理人とは名ばかりで管理・監督の実権は軍がにぎっていた。

一九四五年八月九日早朝、白城子憲兵分隊にソ連参戦の情報が伝えられた。すでにソ連軍は国境を越えて進攻しており、ハルビンなど主要都市での攻撃は始まっているという。しかし、憲兵隊司令部からは何の指示も届かなかった。白城子の駅にはソ連 国境近くにいた居留民が続々と集まり、緊迫した空気が駅をおおいはじめていた。翌日も、駅は列車を待つ人の波であふれていた。満州里、チチハル、ソロン、興安などから乗り込んだ人々をすしづめで乗せた列車は、無情にも白城子の駅を通過していく。南下列車を待つ人びとの不安は高まっていた。

白城子憲兵分隊に初めて第八七旅団白城子警備隊司令部から連絡が入ったときには、すでに四日を経過していた。憲兵隊はただちに新京方面に集結し、戦闘態勢を整えるというのだ。このとき、憲兵隊にあった重要書類など証拠となる書類はすべて焼きはらわれた。市川が作成していた「慰安婦」に関する一切の書類も、このとき灰になった。しかし、ここにきてもなお居留民の避難に対する指示はなく、居留民の代表数名が「軍隊はここを撤退するというが、私たちを残したまま撤退するというのか。われわれ日本人を見殺しにするのか!」と抗議に訪れた。数日前まで権力をふりかざしていた憲兵隊は、それにどう答えることもできなかった。

一方、こったがえす駅に立った市川は、「慰安婦」のことが気になってしかたがな かった。

「慰安婦はどうしますか?」

市川のことばに上官は「ほっておけ!」と乱暴に言いはなった。およそ一年半もの 間、慰安所を担当していた市川にとって「慰安婦」の「切り捨て」はさすがにがまん ならなかった。

駅では日本人や朝鮮人が引き揚げ列車に乗ろうと殺気だっていた。「『慰安婦』にも彼女たちを待っている家族がいる」
そう思った市川は、あわてて慰安所に駆けつけた。

「みんな、帰るんだー」 市川は上官の命令にそむいた。駅に急いだものの、停車している貨車は、予定よりも車両が少なかった。そこにひしめく全員を乗せるのはとうてい無理なことだった。「あとでまた貨車が来ますから、日本人を先に乗せます」乗車の指揮をとっていた男のことばを聞くや、市川はピストルをうち威嚇してどなった。

「車両の減った割合に合わせて朝鮮人も乗せろ!」

市川は、先を争って人々が乗り込む無蓋車(屋根のない事)の中に、無理やり朝鮮人「慰安婦」や朝鮮人居留民を押し込んだ。引き揚げにあたっての取りしまりを命じられた市川にとって、それは職務の遂行だった。貨車に乗せた「慰安婦」のなかに市川の「なじみ」になった女性がいた。彼はいまもその名をはっきり覚えている。

「もしも彼女が生きていて裁判を起こすなら、力になりたい。証人になりたい」という。(P190~196) 

出典:なぜ「従軍慰安婦」を記憶にきざむのか/西野瑠美子(1997) 明石書店

阿城

「関東軍重砲兵として」 

「阿城重砲兵連隊第七中隊に入隊」「満人の慰安婦もいましたが」「朝鮮の慰安婦に比べて不潔でしたから、朝鮮の慰安婦の方しか行きませんでした。15名ぐらいいましたが、皆美人が多いので、慰安婦と仲良くなって、(2年ぐらい、月1回いっていた)本人達の素性を聞いて、小生達も同情していました。それは、自分たちは日本でいう芸妓の見習で、妓さん学校に行っていたのを、皇軍慰問のためにと言って、連れてこられた。2年になるといって、泣いて語ってくれました。小生が22歳だったから、19歳18歳ぐらいだと思いました」(P218~219)

出典:従軍慰安婦110番/明石書店(1992)

哈爾浜(ハルビン)(第二十八師団、第五独立守備隊)

遼陽(第二十九師団)

奉天(現在の瀋陽/第一独立守備隊)

新京(現在の長春/第ニ独立守備隊)

第二二対空無線隊

http://hisakobaab.exblog.jp/7397598/

転載の許可を頂いていないため、当面、参考としてリンク

昴昴渓(第三独立守備隊)

承徳(第九独立守備隊)

中山忠直(著作家) 1933年

満州へ来て、ことに承徳に来て、しみじみと娘子軍は実は文字の遊戯ではなく、実際に軍隊の一部であり、事実上の「軍」である事が分った。錦州の司令官から「女は必需品だから飛行機にのせるが」と云われた言葉を真に知ったのである。日本軍が進軍すると、幹部の第一に心配する事は、娘子軍の輸出である。ーー日本軍が支那婦人を冒さぬのは、娘子軍あればこそで、彼らは決して単なる淫売ではない!

出典:満蒙の旅(3)/中山忠直

周水子(現在の大連周水子国際空港の所在地)

松本正嘉(歩兵第59連隊第3大隊) 1942年

チチハルの慰安所のように忙しそうではなく落ちついている。室内は大体同 じだが、部屋の隅に朝鮮独特の大きなタイコ花、札もやし、なんばんなどが雑然と置いて ある。裸になった彼女は寝ながら聞きもしないのに話を始めた。朝鮮人は同じ天皇の赤子なのに、志願兵はあるが徴兵制度がない。この非常時に朝鮮の同胞がお国にためにつくせないのが残念だ。祖国防衛のために苦労している将兵に、何か慰問できたらと思っていた時、日本人の悪質な業者に「皇軍慰問に行かないか」と誘われて、いくらかの現金を受領して契約書に捺印したら、人身売買が成立し合法的に奴隷になってしまった。現地に来て慰問の手段に驚いたが、すでに遅かった。生ける屍になったのだ。私の想像通り、朝鮮の田舎で小学校の教師をしていたから、日本語が上手なのだ。

昭和十四年、第一線における性犯罪防止のためにできた慰安所を設置する法律で、軍が奨励するので悪い業者がどれほど儲けた事だろう。ビー十人を抱えて軍と行動を共にすれば、配給は軍並みにある。チチハル辺りでは、一回二、三分の料金が二円十銭。資本はゼロに近いから、ひと財産作るのは簡単だ。

彼女はインテリらしく尉安所の仕組を説明する。昼間は兵隊相手で、夜は営外居住の将校、準士官相手の二十四時間勤務で、一年中休日はないから、どのビーもやせて青白い顔(P141) 

出典:わが太平洋戦記/松本正嘉 私家版(札幌市)(2001)

注)チチハルの慰安所の証言のところでも紹介した松本だが、一時期、衛生兵として周水子の野戦病院に勤務していた時の体験である

公主嶺、渤利、四平街

『免税票をもって』 戦車連隊上等兵(70歳)

満州の東北部にいました。公主嶺、渤利、四平街にいましたが、慰安所はこのどこにもありました。慰安所の建物は、平屋のもの、二階建てのものと様々で、比較的きれいでした。「万水楼」と呼ばれる慰安所も ありました。 慰安所は、「朝鮮ピー」「日本ピー」「満ピー」とそれぞれ別の建物にいました。しかし、「満ピー」のとこ ろは衛生が悪いというので、行ってはいけないことになっていました。 慰安所に行く兵隊は、ガリ版刷りの免税票というのがあり、これをもっていくと、二〇銭ぐらいになりま した。下士官の方が割高になっていたと思います。免税票と一緒にコンドームも渡されました。

兵隊にとって、夜の外出の楽しみは、ぎょうざを食べることと慰安所に行くことです。しかし、私は性病がうつるのがこわくて、行きませんでした。

慰安婦たちは、兵隊のいうことをきかなかったときや、サービスが悪いときには乱暴されたようです。

若い朝鮮の娘がこのような境遇にあったことは、あまりに許せないことです。(P34~35)

出典:従軍慰安婦110番/明石書店(1992)

四平街

劇作家のつかこうへいが、偶然に酒場で会ったという池田元二等兵による回想 1944年

「私がスンジャと会ったのは昭和十九年の六月のことでした」

「慰安所でですか」

「はい、イ・スンジャは、昭和三年十月四日、朝鮮・慶洞の生まれで、十五歳の時、友達と遊んでいたら、日本人とその手下らしき朝鮮人が近づいて来て、朝鮮人の方が「君のお父さんから娘を連れてくるように言われた」と話しかけてきたのでついていったら、下宿屋」と書かれたところに連れていかれ、その部屋に鍵をかけて入れられ初めて騙されたと分かったと言います。

その時、部屋には三人の朝鮮人の女の子がいたそうです。

それからあちこち連れ回され、満州に連れてこられたそうです」

そして池田さんは目を伏せながら、

「私は慰安婦を抱くなんてとんでもない、いや、そんなのは人間がやることじゃない、と思っていました。娼婦を金で買うならまだしも、閉じ込められて慰みものになるためだけの女性を存在させていることがとても許せなかったのです。

けれど、私のいた部隊では月に一回順番がまわってきて慰安婦を抱けるということになっていました。

『抱ける』というのは一般的な兵隊の感覚です。 私には『抱かなければならない』日でした。私はこんなことをしなければならないのも戦争という歪んだもののせいだと思っていました。軍隊に染まりたくありませんでしたし、決して慰安婦など抱くものか、と思っていました。(P65~66) 

出典:娘に語る祖国―『満州駅伝』‐従軍慰安婦編/つかこうへい 光文社 (1997

寧安(戦車第一師団)

村山茂直(戦車第一師団) 1943年

「(村山茂直は)昭和18年5月の中頃、満州第510部隊即ち戦車第一師団に教育学生として派遣を命ぜられ」「寧安に行く事になった。寧安では満州第116部隊(戦車第一師団整備隊)に配属」「(寧安の)町に出ても何も無く、兵隊の行くのは慰安所と軍酒保位」「或る日週番士官を命ぜられて街の視察にサイドカーで行った」「いくつかの慰安所を巡って見たが、どの慰安所にも各部屋毎に十数人が列び、順番を待つという状態」「当時は師団管下の人員は1万余人で、休日は各隊月曜日から日曜日まで7日間に分けられ、1日の外出人員は各隊合わせて1500名位で、実際に外出する者は約半数7、800名程度であった。慰安所は4か所あり、外出の点呼時下士官から『突撃』と云う必需品を渡されると、兵隊達は一目散に街に向かって駈足し、先陣争いをするのだった。見渡す限りの平原の中で、粗末な兵舎に寝起きし、娯楽らしいものも何一つない状況では無理も無いと思う」「部隊に残る者は年配者が多く、家族に手紙でも書くのか、静かに落着いて休養する者が多かった」(P124~125)

出典:村山の人々/村山茂直 私家版(1988)

以下は、陸軍慰安所ではなく公娼施設の例である、場所が特定できない等の理由で、参考資料とした

参考:旅順(公娼施設の例)

長尾和郎(関東軍兵士) 1943年

旅順の町にも遊廓があった。旅順銀座から6、7百メートル入った一角で、その家々の背後には広い野原があって、樹木が茂っていた。道路をなかにして、両側には暖簾やネオンで色どられた店が、ずらり軒を列ねている光景は、東京の場末の花柳街を彷彿させるものがあった」「旅順の遊廓は、軍隊のために特別に設けられた施設ではなく、在留邦人の慰安施設も兼ねていたので、家の造りや女性たちの姿体は東寧とは雲泥の違いがあった。単なる兵隊たちの排泄装置ではなく、情緒的なものがただよっていて、『地方色』豊かな花柳街といった感じが強く、それが兵隊たちには余計楽しかった。だが、旅順にも日本、朝鮮、満州といった女性の格付が行なわれ、なかには白系露人の女性もいたが、日本女性は自他ともに『芸者』で通っていた」(P110~111)

出典:関東軍軍隊日記―一兵士の生と死と/長尾和郎 経済往来社 (1968)

注)ここで長尾が言及しているのは、陸軍の慰安所ではなく旅順の公娼施設の例である。

参考:海城(慰安所ではなく公娼施設の話である)

鈴木武夫(元満州国奉天省海城県警察経済保安股長) 聞き手は中村粂(昭和史研究所代表)

中村粲「検黴を医者に任せるのではなく警察が立会うというのは随分厳重ですね」

鈴木武夫「当時は売春は公認だった。だから病気の者に営業をやらせる訳には行かなかったのです。日本人と朝鮮人の売春婦の原簿があって、それを私の部下が病院に持って行き、名前を呼んで検査するんです。」

中村粲「一人一人確認する訳ですね」

鈴木武夫「そうです。警察に酌婦の許可申請を持ってくるんです。 それがなければ営業は出来ない。殆ど朝鮮の人だったが、戸籍謄本と医者の健康診断書、それと親の承諾書、本人の写真、そして許可申請を一括して私の所へ持って来る訳です。ですから、強制連行とか、さらって来たなんて云うものではない。何でさらわれて来た者に親の承諾書や戸籍謄本がついてくるのか。私が保安主任だから、私がそれを見て、またその上に本人を呼んで顔写真と見比べて、「あんたは強制されてきたんではないか、さらわれたんじゃないか」と聞いて確認する。意に反して酌婦にされたんじゃないかどうかを確認する。本人がそうではないと云うと、私が「許可して然るべし」と書いて判子を押し、それを署長に出すと一週間位で許可になる。そこで電話で許可になったことを伝えると業者が許可証を取りに来るという訳である。」

(中略)

鈴木武夫「新聞などでは随分悲惨だったように云われてるが、朗らかなもんだったよ。歌は歌うし、愉快にやっていた。私も若かったので正義感もあった。そこで「なんでこういう商売をするようになったんだ」って聞いたら、「それはこれ(カネ)だ」って云ってた。彼女達の中の一番の売れっ子をオショクと云ったが、彼女など月の稼ぎが三百円(今の九〇万円位)と云っていた。帝大を出た男の給料が七〇円の時代にだよ。そんなに稼いでいたのである朝鮮人の女は「故郷へは送金したし、家も建ったし、畠も買った。あとは貯金を持って故郷へ帰ろうと思う」と云っていた。美味しい物を食べて、いい着物を着て幸福でしたよ。」(P107-P109)

(中略)

中村「すると満州の慰安婦は軍ではなく警察の所轄だったのですね」

鈴木「そうそう、軍ではない。(ばかばかしいので中略)軍は全然慰安婦にはタッチしない」(P109)

出典:『慰安婦問題 日本の証言』 正論 2014年12月

注)鈴木氏も中村氏も、軍慰安所の例と完全に思い込んでいるのだが、これは明白に旧満州の公娼施設の例である。旅順の公娼施設(長尾和郎)の例も合わせて参照されたい。

また、帝大を出た男の給料が70円と書いているが、旧満州の慰安所の場合、朝鮮人慰安婦は一回の料金がほぼ兵士一人あたり一円五十銭に統一されている。女性の取り分が(よくて)半分として、75円を稼ぐのに、100人の相手をしなければばらない。しかも、「「帝大出の男」の例は内地の話で、慶応大学を出て、満州中央銀行に入った人(武田英克氏)によると、初任給が手当を含めて171円であったと言うことである(満州脱出/武田英克 中公新書(1985)P169)。月200人の相手をしても150円。これでも、武田氏の初任給にも及ばないことになる。シツコク、この例を説明すると、年間1200人の相手をすると、内地で「帝大」を出た人間より、少しマシな程度の稼ぎ、年間2400人を相手にしても、武田氏に及ばない。もちろん、ボーナスはなしである。

参考:遼陽(ソ連兵による強姦)

辻薦(関東軍技術将校)1945年

「(遼陽)造兵廠は、軍人軍属の家族のほかに、南満の各都市から派遣されてきた学徒勤労奉仕隊の女子生徒や、日本からはるばる徴募されてきた女子挺身隊の独身の娘たちも抱えていた」「都市で(ソ連軍の)兵隊たちがほしいままにその野望を遂げているのを聞き知ると、造兵廠の(ソ連軍の)兵隊たちも女を求めて動き始めた」「私たちは、やむなく“特攻隊戦法”をとらざるをえなかった。それは特定の婦人を犠牲として敵にささげる戦法であった」「真田中尉が、遼陽市から芸妓の経歴のある日本婦人を一人探し出してきて、ソ連の守備隊長と一軒の宿舎に同棲させた。思わぬ贈物によろこんでいる隊長に、交換条件を出した。兵隊たちのためにも特設の慰安所をつくるから、一般の婦女子を凌辱することは絶対に取締ってほしいと申し入れた。隊長は確約した。隊長の専属となった婦人はよい人で、隊長をうまく内部で操縦して、私たちのために蔭でよく尽くしてくれた。しかしこれも長くは続かなかった。2週間もたたないうちに、局部の裂傷のため入院して治療を受けなければならなくなった。日本婦人の接待の味を覚えた隊長は、さっそく代りの婦人を要求してきた」(P74~76)

辻薦著『月は光を放たず―満洲敗戦記』北洋社(1978)

参考:安東(ソ連兵による強姦)

岡田和裕(旧満州出身の作家) 1945年

三業組合の幹部の一人が壇上から、悲壮な声で叫んだ。

「ロスケは女とみれば見境なく犯すッ。北満でも新京でも奉天でも、そうだったッ。善良な主婦、汚れを知らない娘たちが、ソ連兵の欲望の犠牲になったッ」

会場は不気味なほどしずまりかえっていた。

「この安東で、そのような悲劇を二度と起こしてはならないッ。あなたたちの貴い犠牲によって、この安東が、いや日本人が救われるのだッ。どうか志のある人は志願してほしいッ」

女たちの反応は鈍かった。日本人会と三業組合の間では、賤業についていた女たちを、人身御供としてソ連兵に差し出すという合意ができていた。およねやお町だけではなく、ここにいる女たちも、あらましそのことは知っていた。

女の一人が立ち上がった。
「この間まではわたしは芸者だったけど、いまは自由の身です、普通の女です。そんなに安東が大切なら、まず幹部さんたちの奥さんに頼んだらどうですか」
 あたりをはばかるようにパラパラと拍手が起きた。その拍手にうながされるように別の女が立った。
 「世の中は変わったんだよ。もう、あんたたちの言いなりにはならないよ。だいたい、わたしたちが、なんで犠牲にならなければならないのよッ」

怒りをあらわにした女の言葉が、女たちに火をつけた。拍手と怒声で会場は騒然となり、収拾がつかないまま散会になった。

(P79~80)

 

女たちも追い込まれていた。女たちは、自分が働いていた元の廓の一角に、あるいは置き屋の一隅に、かつての雇い主の厚意にすがる形で住んでいた。首を縦にふらない女たちに、、元の雇い主たちが、しだいに苛立ちはじめたのだ。そんな雇い主たちにも、外からのプレッシャーがかかっていた。
 「文句を言うやつは昔のように、ひっぱたけばいいんだ」 「甘い顔をするからいけないんだ。どうせ使い古しのアバズレだろう」

満州くんだりまで流れて来て春をひさぐ女たちに、幸せな女がいるはずない。 体を売って稼いだ金の大半は内地に送金しており、蓄えなどあろうはずがなく、また廃業時に雇い主から一円の金も出たわけではなかった。安東の遊郭は、二、三番通りの安奉線がまだトロッコだったころの始発駅の鉄一浦駅前(現在は江岸線の貨物駅)、日露戦争当時、軍需物資の陸揚げで賑わった辺りを囲むようにしてあった、収容力のある元の遊郭の建物には、大勢の疎開民が住んでいたが、その疎開民からも冷たい目が、女たちに向けられるようになった。

とうとう彼女たちは、雇い主から、「言うことが聞けないのなら出て行け」という最後通告を突きつけられた。 女たちは日本人社会から村八分にされるのを、何よりも恐れていた。そして恐れていたことが、一歩現実に近くなった。 この混乱の時期に日本人社会から孤立しては生きて行けない。 もともと廓の女たちは、一般社会から疎外された存在ではあったが、それでも廓の中では、疎外された者同士の連帯があった。 しかし廓から追い出されて、それさえもなくなったら、何を頼りにどうやれば生きて行けるのかが、女たちにはわからなかった(P86~88)

出典:満州 安寧飯店/岡田和裕 光人社NF文庫 (1995/2002)

参考:承徳(映画の中の慰安所)

http://www.ne.jp/asahi/gensou/kan/eigahyou72/heitaiyakuzanagurikomi.html

1967年の映画、「兵隊やくざ殴り込み」の紹介サイト。ウンザリする話ばかり載せているので、たまには、こんなのもいいだろう気持ちもあるのだが、千田の「従軍慰安婦」(1973)が出版される前の映画で、旧満州の慰安所に対する当時の一般の認識が分かる例としてリンクを貼ってみた。日本国内でも、慰安婦がなぜ戦地にいたのか、慰安所がなぜ存在したか、全く分かっていなかった頃の映画であるので、例によって、ネット上ではテキトーな情報が飛び交っている。

兵隊やくざ全シリーズについては以下に詳しい。

http://www.asahi-net.or.jp/~hi2h-ikd/film/heitaiyakuza.htm

参考:満州某所

富村順一の証言

「昭和23年ごろ、第一回目の沖縄知念刑務所を出所したころのことです」「私は5千円をもってパンパン町というところへ遊びにいったが、女たちは『ニンニクくさい、ニンニクくさい』といって私に寄りつこうとしない。母のつくってくれたスキヤキにニンニクがたくさん入っていたので、くさかったのだった。ただ一人の女が逃げずにいて、『ニンニク食べたの』ときいていた」「その日は町をブラブラ歩いて帰ったが、翌日もそのパンパン町にいくと、昨日ニンニクの話をした女が私のところへきて、ニンニクを売っている店を知っているかときいた。沖縄でニンニクの漬物を売る店はないので、母が自家用として漬けていることを話すと、女はお金とタバコをあげるから、あなたのお母さんからニンニクを分けてもらってくれとたのんできた」「その女は本土の女で花子といっていた。人の話では、戦後本土から流れてきたとのことだった。私はすぐ家にいって母からニンニクを受け取って花子のところへいくと、また金を千円出し、酒と肉を買ってきてくれとたのまれた。私が酒と肉を買って帰ると、花子は、今夜は仕事をやめるから2人で一杯飲もう、といいだした」「花子は一軒の家を借りていたので、2人で花子の家にいった」「(スキヤキの)全部準備が終わると花子は手を洗い、ふところから二枚の写真をとりだして、タンスの上に並べ、その写真の前に酒とニンニクに味噌をまぜたものを置き、私のわからない言葉で泣きながら写真に話しかけていた。私は花子がなぜこんなに泣き、酒をガブ飲みするのか意味もわからず、酒を飲む気にもならないでいた。酒がまわった花子は泣きながら、私は日本人でない、朝鮮ピイだといいだした。花子から朝鮮人であるときかされるまで、本土の女とばかり思っていたので、朝鮮ピイときいて、私はびっくりした。花子は泣きながら、日本人は鬼より悪いヤツ、とののしっていた。よくきくと、花子には親類もなく、一人の姉さんも日本軍のために身投げをしたとのことだった。

 姉さんには婚約者がいたが、戦争がはげしくなったので朝鮮人も軍人として出征することになり、相手の婚約者も軍隊にとられたという。そのため、姉さんも野戦看護婦として志願することになったので、花子一人では淋しいもんだから、お姉さんとともに志願したとのことだった。1か月ほど看護婦の学校で学んでから『満州』へ野戦看護婦としていった。そこで10日間ほど仕事をしていると、軍医から5、6日軍人の慰問にいくようにと命令があった。そこへいってみると、慰問というのは軍人相手の売春であって、その夜にむりやりに日本軍人の相手をさせられた。花子たち姉妹2人だけでなく、ほかにも何人かの朝鮮人女性がその夜から売春婦にさせられた。花子も姉と同じように、その夜生まれてはじめて男を知ったという。花子はその話をしながらタンスの上から写真を取ってきてわたしにみせてくれた。写真には花子と姉が白い看護婦の服装で写っていた。姉はそれから3日目に投身自殺した。姉は婚約者にすまないといい、日本人を心から憎しみののしって死んでいったという。花子は自分は意気地がないから日本軍にオモチャにされても自殺することができなかったと、くやし涙で話していた。

戦争がはげしくなり、花子たちの部隊は南方方面へいくことになり、13人の女たちといっしょに船で南方へ出発したが、花子たちには港の名前さえ教えてくれなかった。南方方面へいく船は5、6隻で船団を組んでいったが、途中何隻かがアメリカの潜水艦に沈められたため、花子たちはやむなく沖縄におろされたという。沖縄では、はげしい戦争のさなかでも、毎日何十人となく日本軍人の相手をさせられ生きた心地はしなかったという。

花子は少し足を引きずっていたが、戦争中米軍に撃たれたといっていた。花子は一人で酒を飲みながら、ときどき朝鮮語で写真に話しかけたり、泣きながら写真にほほずりをしていた。私も花子の話をきき、男泣きに泣きながらひと晩じゅう花子と飲み明かした。朝になると、花子も酔いが醒めたらしく、自分が朝鮮人であることを人にいってくれるなとたのんでいた」(P138~142)

十字架と天皇/富村順一(たいまつ新書)(1977)

参考:満州某所

『オオカミに食べられた慰安婦』 築城部隊(76歳)

私は、関東軍の築城部隊に所属、昭和一二年(一九三七)から一九年(一九四四)まで、ソ連との国境地帯を転々としました。 築城部隊というのは、トーチカを造る仕事ですが、私は、慰安所も建てました。一部屋は三畳ほどの広さで、板ばりでした。料金は、一円五〇銭ぐらいでした。一人が一日に五〇人ぐらいの兵隊の相手をしていま した。大勢並んでいますから、一人せいぜい二、三分です。日曜日にあまり殺到するので、他の曜日は、各部隊で相談して割りふりました。

一度、一三歳ぐらいの慰安婦を陸軍病院へ運んだことがあります。大勢の兵隊の相手をしたため、性器が腫れ上がっていました。おさげ髪の女の子でした。 朝鮮人慰安婦たちは、兵隊の洗濯女という募集を見て来たということでした。だまされたと話していたのを覚えています。関東軍の御用商人が、慰安婦を幹旋していたようです。 慰安婦婦たちは、一カ所に囲われていて、おそらく自由はなかったものと思います。逃げ出したとしても、 国境地帯は、オオカミや熊がいたため、襲われたでしょう。 国境地帯は、大変寒さの厳しいところです。私はそこに一〇年間いましたから、いろいろなことを見まし た。忘れられないことがあります。それは、死亡した慰安婦がオオカミに食べられたことです。そこでは、 死体は、裏山の墓地に捨てました。冬は土が凍って掘れないので、そのまま放置して帰ります。 ある日のことでした。夜中に歩哨に立っていると、後ろで音がしました。見ると、オオカミが人間の臀部 を食べていました。歩哨に立った次の日は、休みがもらえました。慰安所に遊びに行ったら、一人の慰安婦 が死んだと聞かされました。あれが、その「朝鮮ビー」だったのかと思いました。

出典:従軍慰安婦110番/明石書店(1992)

参考:朝鮮総督府

杉本幹夫(自由主義研究会理事)

「かねて将来の徴兵制施行を考えていた南総督は、この請願を受ける形で、『朝鮮人特別志願兵制度』の創設を本国政府に提案した。この結果、日本軍の兵力不足を補う目的で、同年12月24日『朝鮮人特別志願兵制度』を閣議で決定した。翌1938年に400名を採用し」「その後5年に亘って志願兵を募集したが、応募者は次表の如く驚くほど多かった。これに対し制度創設当時の朝鮮軍司令官小磯国昭は『葛山鴻爪』に次のように書いている。『総督府は各道に亘り志願兵を募集したが、かねてから筆者が心配していた通り、真に父兄及び本人の熱烈なる自発意思で志願する者は、事実において寥々たる有様であったらしく、各道とも志願勧誘に大童となっていた様子である。殊に警察官の干渉・説得が強く、父兄及び一般青年はかなり困惑した模様であった。勧誘説得がかく強烈になった裏面の実状は、自己担任地域からの志願者数の多いことを以て、行政成績の向上となし、上司からの信頼を厚くしようとする、利己的考慮から発露した点もあったことは争われぬ事実であった。総督府の学務当局また、時々各道別に出願者数の増加していく状況を新聞に発表し、各道をして競争させるような手を打ったことは筆者としては甚だ苦々しい事だと思っていた』。兵役終了後は巡査とか、面(村)事務所に就職を約束するといった甘言に乗せられた人たちや、脅しによりやむなく応募した人もかなりいたようである。しかし少年航空兵・予科練等に応募する朝鮮人の中には、血書で嘆願する人も多数いたことも事実である」(P94~P95)

出典:「植民地朝鮮」の研究/杉本幹夫 展転社(2002)

参考:朝鮮(仁川)から満州へ

吉原勇(当時7歳) 1945年7月

『お姉さんたち、ど こへ行くの』

『親方から満州だって聞かされているわ。関東軍から早く来いと催促されているみたい』

『どうして満州なんかに行くの』

『知ってる? 内地は空襲が激しくなっているのよ。南方はもっと危険でしょ。満州だけは日ソ不可侵(中立)条約があるから安全だと親方が言っているの。みんなも納得したわ。だからよ』

(中略)

『このトラックで行くの』

『多分そうね。明日か明後日には鴨緑江を越えるわね』

『じゃーね、聞くけどお姉さんたちどこから来たの』

『私は四国の愛媛県だけど、みんなバラバラよ。この中で日本人は4人だけ。あとはみんなこちらの人』

『お姉さんたちは慰安婦だってみんな言っているけど、本当にそうなの』

子供に慰安婦と呼ばれても女は怒る様子はなかった。

『そう呼ばれても仕方ないわね』

『ねえ、慰安婦って、人さらいのようにして連れていかれるってよく聞くけど、お姉さんもそのようにして連れてこられたの』

『話には聞くわね。でも私は家庭の事情で仕方がないの。この中の人も、朝鮮の人がほとんどだけど、無理矢理連れてこられたという人は1人もいないわよ。みんなそれぞれ事情があるの。好きでやっている人もいるしね。人さらいという話は女の子に行動を慎むよう、警告の意味で言われていることではないのかしら』

ざっとこういう会話を交わしていると助手席から親方と思われる人が降りてきて、荷台に上るよう女を促した。女が乗り込むと親方は簡易階段を荷台に積み込んで助手席へ戻り、まもなくトラックは出発して行った。(P29~31)

出典:降ろされた日の丸ー国民学校一年生の朝鮮日記/吉原勇著 新潮新書(2010)

注)7歳の子供にこれだけのことが聞き出せるとは思えない。証言としては、終戦間際になっても満州に移動した「慰安婦」を見たと言うこと以外、全く使えない。典型的な例として敢えて(私のメモも兼ねて)記載した。

参考:満州中央銀行電話記録

吉林省の档案館(記録保管所)が公開した満州国の慰安婦関連文書の記事(満州中央銀行電話記録)

1945年3月27日から4月19日までの「経済部、満洲中央銀行、奉天、牡丹江、鞍山支店及び日本大使館等の領事館経費、旅費、慰安婦調達資金等についての書簡・電報」には、満州中央銀行鞍山支店が関東軍第四課の承認を経て、軍用公費として日本軍の慰安婦調達専用資金の振替を行った記録がある。同様の形式の慰安婦経費振替は他の電話記録にも多くある。

出典:人民網日本語版(2014/1/10)

元記事URL:http://j.people.com.cn/94474/204188/8508723.html

原文画像(リンク切れのため保存した写真にリンク) 画像1 画像2 画像3

2014年に吉林省の档案館(記録保管所)が公開した資料(2014年)に関しては、日本のメディアはほとんど報じなかったが、中国、韓国のメディアは多く報じている。その中で、最も研究内容を正確に把握している記事から引用した。関東軍第四課は、満州国全般に政治工作を行う部署。満州中央銀行もその管轄に入る。当時(終戦間際)の課長は、関特演時の慰安婦「調達」を主導した原善四郎中佐である。内容は、満州中央銀行の鞍山支店支店長代理が、銀行の本店に振替を処理していいかどうか、お伺いを立てたもので、本店で電話を処理したのは、資金部外資課(他の一部報道による)。

送金人は「准海省 連絡部(7990部隊)」、受領人は「鞍山経理司令部」、金額は252,000円と言う案件である。電話記録の本文については、読み取れない部分が多いため、詳細を理解するのは難しいが、文面から確かなのは、受取人の「鞍山経理司令部」と言うのは、実は、「在鞍山の民間人」である米井つる(これも詳細は不明)で、今までも多額のカネが、米井つる宛に送られており、今回も252,000円が送金されると言うこと。もちろん、「准海省 連絡部(7990部隊)」も、単なるダミーの可能性があって、送金者が本当は誰か判然としない。文面に「慰問婦」と言う文字があるので、中国側の解釈は不当だと言う意見があるが、決済の許可を申し出ている部分には、「部隊名義の慰安婦仕込資金二十数万円」という記述があるので、これは確実に慰安婦「調達」資金である。「経済部」と言うのは、満州国経済部の可能性があり、銀行単独では処理できないので、どうしたらよろしいでしょうかと中央官庁に聞いているのかもしれない。

現在の時点で、素人の私に言えることは、これくらいなのだが、満州中央銀行(満州国の日銀にあたる)も、はっきりとカネが慰安婦調達資金だと、認識していたわけだ。興味深いのは、「同様の形式の慰安婦経費振替は他の電話記録にも多くある。」という部分。全部、公開されたら関東軍四課が、この問題にどう関わっているか判明するだろう。

これは「常識」に属することだが、関東軍はアヘン売買(売買自体は民間が行う形をとったが)により、他地域の陸軍とはケタの違う多量の裏金を所有していた。もちろん、中国の研究者もこの認識は確実にもっている。

(追記)中国でのアヘン取引を取り仕切っていたのは、民間人の里見甫であり、満州国の高官であった古海忠之は、「経済部」在任中に、関東軍の依頼を受けて、上海でアヘン取引に従事していた里見に、熱河産の阿片の売りさばきを依頼したとされる。ちなみに、里見は関東軍四課の嘱託をしていたことがあるし、准海省は汪兆銘政権下の省である。と、ここまで書いてきて、面白すぎて、「できすぎ」と言う感じが、自分でもしてきた。この問題は別記事として独立させる予定でいます。

いまのところ、どうこの資料が扱われているかと、ネットで検索してみると、某幸福の科学関係さんのサイトでは、「つまり、これは中国の軍閥と民間業者との間でのお金の流れを記したもので、「強制連行」や「性奴隷」を示すものではありません。」とある。なぜ、「中国の軍閥」が鞍山経理司令部こと米井つる宛に、「慰問(安)婦の仕入資金」を、送金しなければならないのか、なぜ、「米井つる」がカネを受け取るのに、関東軍四課の発行した証明書が必要かということは、理解に苦しむが、まあいいとしよう。

だが、「外国(准海省連絡部(7990部隊)」からの送金を受けた満州中央銀行の鞍山支店の支店長代理が、本店の「外資部」のお伺いをたて、その処理の可否について、「外資部」が満州国の「経済部」にお伺いを立てようとしていることは、認識できているわけで、ある意味、「単なるダミー」と書いた私よりも、いい所を突いていたのかも、とホメてあげたい気持ちになってきた。「軍閥」でなければ、送金者は誰かということだ。関東軍四課の関わりは、満州中央銀行の銀行業務に関してのことだけではないかもしれない。

上記の「経済部」と言うのは、満州国経済部であるのはほぼ確実で、満州中央銀行に「経済部」は存在しないし、平素から関東軍四課と経済部と深い関わりがあったことは、銀行で貨幣発行業務に関わった武田英克氏の「満州脱出 中公新書(1985)」の中にも書かれている。

参考:関東軍司令部 終戦時の阿片の処理と参謀四課

満州国官僚古海忠之の証言

昭和十五年(一九四〇年)六月、私が経済部次長に就任し、折柄、支那事変の長期化と第二次世界大戦の勃発に伴い日本経済が準戦時体制に移行し、統制経済化する余波を受け、満洲国経済も統制化に進まざるを得なくなった。その構想に苦慮しつつある頃のことであった。

関東軍第四課が対北支阿片謀略を案出し、その実行を図ろうとした。当時、満洲国対華北の貿易関係は日本への緊要物資の増送と見合い満洲産業開発五カ年計画の遂行上、華北よりの輸入物資と くに製鉄用粘結炭および鉄鋼石等の輸入は莫大な量に上った。これに反し、北の要求する食糧および木材等はあまり輸出できなかったため、満洲国は年々、為替上は巨額の支払い超過に悩まされ た。満洲国に対する支払い強要の風当りは、そのまま北支方面軍の関東軍に対する強圧となり、関東軍としても何とかしようと考えているときに思いついたのが、熱河の阿片であった。 熱河は満洲国における阿片の主産地であるばかりでなく、中国の主要産地の一つである。満洲国は阿片断禁政策をとり、従って熱河の阿片はすべて国の機関である専売総局で、後には禁煙総局で収買し管理する建前になっていた。(P120~121)

翌二十年七月、関東軍第四課は民生部に対し、新京周辺に貯蔵する阿片を全部軍に引渡すよう要請した。関屋民生部次長は私に如何に処置すべきかを聞いてきたので、私は軍の意図を糺したところ、通化に備蓄するためという。そこで私は関屋次長に全部渡すよう指示した。こうして関東軍に 引渡した阿片は莫大なものであった。関東軍はこの阿片を広く大きい正面玄関に積み上げた。まさに異観であった。ところが、関東軍がこの阿片をなかなか通化に運べないでいるうちに、八月九日早朝、突如ソ連軍は東部および西部国境を越えて一斉に満洲に侵攻を開始した。驚いた司令部は同日トラックに阿片を満載して通化に向わせたが、新京城内を通過中、不意に暴民の襲撃を受け運転手は射殺され、阿片は全部奪い去られる事件があり、阿片の通化輸送は中絶してしまった。

十一日、関東軍司令部および満洲国皇帝、政府高官は通化省に移駐し(関東軍司令官の命令による)た。私は通化への移駐を非なりと信じ日系次長とともに新京に踏み止まった。その関係もあって関東軍第四課長代理原参謀は新京に残り、何や彼やと私に要求することをやめなかった。

八月十五日、日本は全面降服し、これを受けて満洲国は皇帝の退位と同時に解散を決定した。こうなると、やがてソ連軍が新京に進軍してくるに違いない。そのとき関東軍司令部に阿片の山があったことが明るみに出たら、それこそ日本軍は弁明の余地なく非常な恥辱となるであろう。早く処置すればよいのにと陰ながら考えてもみたが、関東軍にはそんな様子もなかった。

八月十九日昼、遂にソ連軍の先遣部隊が三百人ほど飛行機で新京に進んできて関東軍の門前に姿を現わした。このとき関東軍はやっと阿片の処置に気がつき急に狼狙しはじめた。そして困りはてた末、原参謀は私のところに電話をしてきて阿片の始末を懇願し哀願した。私は「阿片を隠す方法は、適当な所に穴を掘り埋める以外にない。軍には兵士も相当いるわけだから、これを使って直ぐ始めなさい」といって電話を切った。それから何度、電話をしてきたことか。そして泣かんばかりにして頼むのである。私としても関東軍が多量の阿片を所有していたという醜状を示したくないと 思っていたので、とうとう根負けして阿片を関東軍から引出して隠すことを引受けてしまった。そこで原参謀に対し、今日、日が暮れたら関東軍の通勤用大型バスを玄関前に用意すること。それに 阿片全部を積込み密かに営門を出て、こちらが指定する場所までバスを運転するよう命じておくこ と。なお私は司令部に、この仕事に当る者数人を派遣することを申し伝え、その準備をさせた。(P128~129)

出典:忘れえぬ満州国/古海忠之 経済往来社(1978)

追記)原善四郎氏の経歴について

 

古海の回想に出てくる、この原参謀と言うのが、マチガイなく原善四郎氏であるのかという質問を受けたので追記すると、マチガイなく、関特演時の朝鮮人慰安婦大量「調達」を主導したとされる、原善四郎氏である。

加藤正夫氏が、防衛研究所図書館で調べた、原氏の経歴は以下である。

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1939(昭和14)年8月1日~1941(昭和16)年10月5日:関東軍司令部第一課参謀

1941(昭和16)年10月5日~1942年(昭和17)年1月11日:参謀本部兵站総監部参謀

1943(昭和18)年8月2日~終戦まで:関東軍司令部第四課(対満政策・内面指導)参謀

 

千田夏光「従軍慰安婦」の重大な誤り/加藤正夫 現代コリア(1993年2・3月号)(P55)より

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加藤氏は、「主要部隊長参謀・在職期間等調査表」及び「陸軍職員表其の一の二=方面軍以上の軍」を参照したとしている。1942年の経歴が抜けているが、加藤氏の元々の文章に記載がないものである。千田のインタビューの中で、原氏は実際の関特演(1941年)時の「慰安婦」動員の実態についてはよく分からない(「関わらないようにしていた」)と語っていたが、なるほど、兵士や憲兵の証言では、この時に「動員」された女性達は、10月から11月に現地に到着しているので、その頃は原氏は既に参謀本部勤務であったわけだ。

原氏が終戦時に、第四課の参謀であったことは、当時、関東軍の作戦主任参謀であった草地作戦主任参謀の証言からも分かるが、面白いのは、原氏が終戦間際に四課の課長から、課長代理に「降格」していることだ。こういうことくらいにしか役に立たない、ウィキペディアによると、原氏が昭和19年10月14日~昭和20年8月7日に、第四課の課長であり、8月7日からは宮本悦雄大佐が課長職を引き継いでいることが分かる。

草地参謀の話からは、原氏が日本人引き上げに奔走していたかのように思われるが、実は「新京」に残って、関東軍の不祥事の後始末のための便宜的な「降格」であることが、古海の証言から伺い知れる。

原氏も原氏だが、正直、徹底的にイヤな役回りを押し付けられていると言う印象だ。古海氏にしろ、草地氏にしろ、まあ、この手の人たちは、自分に都合のいいことしか書かんわなと、改めて思う。

 

参考:関東憲兵隊司令部 終戦時の文書焼却

吉林省の档案館(記録保管所)所蔵文書の発見経緯(2014)人民網

趙素娟さんは1953年11月に、人民解放軍某部駐長春部隊が地下の電線を修理し、配管敷設場所を探していた際に、偽満州国日本関東憲兵隊司令部跡地の地下に大量の公文書が埋められているのを偶然発見した出来事を振り返った。

 「当時、これらの公文書はトラック一杯に積まれていた。長く土の中に埋もれていたため、出土した公文書の大部分は付着し、一部は腐乱して固まりのようになっていた」と趙素娟さん。旧日本軍の戦犯、弘田利光の1954年の供述によると、1954年8月中旬に憲兵隊長・平林茂樹の命を受け、新京憲兵隊本部および憲兵隊司令部の公文書を本部の焼却炉で焼却処分し、処分が間に合わなかった文書を本部裏の地下に埋めたという。趙素娟さんは、発掘された公文書はこれらの焼却処分が間に合わなかった公文書であり、旧日本軍の中国侵略の動かぬ証拠であると説明した。公文書は発見された後、公安部に引き渡され保管・整理されたが、1982年に吉林省公文書館に移され、体系的な整理事業が開始された。

記事出典はこちら:http://j.people.com.cn/94474/8613387.html

内容については、こちらが詳しい:http://datyz.blog.so-net.ne.jp/2014-05-11

注)「偽満州国日本関東憲兵隊司令部」は、現在、吉林省人民政府になっている。関東軍本体の文書類は首尾よく隠せたらしいが、こちらは要するに「県庁」の敷地内に埋まってたということで、指示した人物も埋めた人物も特定できている。お得意の「捏造」と言う言葉など、入りこむ余地のない、見つかるべくして見つかった文書と言えよう。

ネット上では、依然としてこれらの文書の公開について、「大山鳴動して鼠一匹」といった揶揄が飛び交っているが、まだ、「氷山の一角」という文書類からは、既に十分に衝撃的な事実が明らかになっている。おしえてゲンさん - 防疫給水部 【特移扱証拠文書】には、731部隊に「特移送」されて生体実験のマルタになった被害者の名前と、実際に「特移送」に当たった、憲兵隊長、分遣隊長らの名前が紹介されている。

全憲兵隊に指示が出されていたのだから当然だろうが、ほとんどすべての旧満州の憲兵隊幹部が、「特移送」に関わったことが分かる。つまり、ここまで、旧満州の慰安所の証言者として、紹介してきた憲兵たちは、「特移送」について、すべてを知っていて、沈黙していたということ。同じく沈黙している、「慰安婦」移送への憲兵隊の関与について、文書が出てくるのも、時間の問題だろう。