余話12

  

地獄坂余話

 第十二部 地獄坂の人々・3                          

             映画プロデューサー・
藤井浩明君
     

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 地獄坂の人々・3
  映画プロデューサー・藤井浩明君
     「三島由紀夫と増村保造と私」
  3   市川雷蔵と三島由紀夫        
  4    二百本目の作品・「虹の岬」    



1.映画プロデューサー・藤井浩明君


    私たちが卒業した昭和二十二年、まだ日本の社会はこれからどうなるのやら見当

  
のつかない時代だった。

  幸いに、小樽高商卒ということで先行きのことは判らないままであっても、差し

  当たっての就職先には私たちは事欠かなかった。多くの同期生たちは、戦後の波風

  に押し流されながらも、社会のどこかに居場所を見つけて生きてきた。

   しかしながら、それとは違って、卒業時に既にはっきりとした目的を持ち、将来

  を見据えて自らが選んだ道へ進んだ者が居たことも確かだった。

   清水浩明君は同期生の間で格別に目立つ人柄ではなかったが、誰もが彼の名前だ

  けは良く知っていた。それは主に、彼が同期の中では、小樽から最も遠い南の岡山

  県それも笠岡という所から来たという理由で皆が憶えた名前であって、後日、彼が

  皆とは違った分野で名をなす人になるだろうと思って憶えたわけではなかった。
 


   「小樽地獄坂」を編集の頃、清水君と親密な交遊を続けている者が編集委員の中に

  は居なかった。早稲田の英文学部から、映画の大映に入社し企画部員として多忙で

  あることは聞いてはいたが、大映が昭和四十六年に倒産した後の彼のことは誰も知

  らなかった。たまたま小笠原基生君に尋ねたところ、記録映画の製作者である彼は、

  簡単に連絡をつけてくれ、小樽地獄坂への投稿も依頼してくれた。


  
 小笠原君によると、大映倒産後、清水浩明君は独立プロ「行動社」を起こし映画製

  作を続けているとのことだった。

   その清水浩明君からは、昭和63年発行の私たちの「小樽地獄坂」へ次の様な原

  稿を送っていただいた。苗字は清水ではなく藤井に変わっていた。



                *     *     *     *

    そして今、私にとって緑丘は・・・

    
親しくしている高峰三枝子さんから、帝国ホテルでのディナー・ショーのお招き

  をうけた。満員の客席を縫って高峰さんが「湖畔の宿」を歌いながら現われた時、

  私は名状し難い感動に襲われた。七十歳に近い彼女が未だに大スターの地位を保ち、

  老いてなお美しい彼女の「美」に衝たれたからである。と同時に彼女は私に十六歳

  の「青春」を、瞬時に甦えらせてくれたのである。昭和十九年春、私は小樽高商へ

  入学した。当時、高峰さんは、戦地に赴く学徒兵の多くが彼女のブロマイドを懐に

  飛び立っていったという伝説的アイドルであった。



    積雪というものを見たことのない私は、小樽の土を踏んだ途端萎縮してしまった。

  三寮の同室は長崎哲昭君。寒さで勉強など手につかない。伊藤整氏の「雪明りの路」

  の初々しいリリシズムなど、私にはまるで無縁だった。(後年、伊藤氏の「氾濫」を

  若尾文子で映画化して以来、伊藤氏には色々と教えて頂いた)



   篠路村への援農は長崎君と一緒。着いた日から発熱し、寮へ帰って寝ていた。こ

  んな学校とはおさらばして、どこかの高等学校の文科に入り直そうと思っていたら

  幌加内村への動員命令。暖かくなり友達も出来てくると、小樽に居座ってもいいと

  思い始めた。ある夜、誰かの寝煙草で蒲団が燃え、三、四人で近くの小川に捨てに

  行ったのがバレるという珍事があった。次は一已村。新川昭一君と同宿。二人で文

  学や音楽や映画の話ばかりしていた。休日に深川の映画館で、大映の「無法松の一

  生」を観て感激した。(後年、私自身が映画界に入るなど夢にも思わなかった。い

  ずれ戦地に行き、二十五歳までしか生きられないと信じていた)



   中島飛行機では、動員ずれしていて、白昼堂々と工場を脱出したり、食堂を荒らし

  たり、配給の煙草を未成年の分際で吸っていた。

    しかし、社会に出てからの最高の師であり、最大の友であった三島由紀夫氏が、東

  大法学部学生として、私達と相前後して小泉工場にいたのも不思議な因縁である。

  (ほぼ同世代の作家三島氏に私は深い関心を寄せていたこともあって、後に私は氏

  の原作を次々と映画化した。「炎上」「永すぎた春」「獣の戯れ」「憂国」等。そし

  て、氏とは死の直前まで親交を結んだ)



    次の援農は陸別。大石隆之君と熊の出現におびえながら畑仕事をしていた。


    戦後の混乱の中、新しい文学、新しい音楽、外国映画が洪水のように輸入された。

  バーグマンの美しさは私たちを魅了し、「カサブランカ」の中で歌われた「ラ・マ

  ルセイエーズ」を、塙昭吉君がよくフランス語で歌ってくれた。五寮には、太田、伊

  藤陽吉、池田、市川、伊藤武、山本・・・多士済々が割拠し、よく勉強していた。

  やがて、私は生駒君と熊谷和秀君と三人で、寮の近くの家に下宿した。遊んでばか

  りいた私が卒業出来たのは、秀才で努力家の生駒君と関雅美君のお蔭である。関君

  には連絡船欠航の度毎に母堂のお世話になり、生駒君には試験の前夜、ヤマをかけて

  貰っては、せっせとカンニングの材料を作っていた。


  「アラスカ物語」という映画のロケで、三十年振りに北海道へ行った時、松尾教授を

  訪ねた。戦後の食糧難の時代、先生は寮生のために買出しに行かれ、農業会の男に

  突き飛ばされたことを初めて話された。私は絶句した。その後、仕事先のローマか

  ら先生に長い手紙を書いた。先生はすぐに返事を下さった。「・・・瀬戸内海の温

  暖の地から十六歳の少年が北海道に渡り、あの索漠荒涼した学生寮の生活によくも

  耐え忍んだものと、今にして思えば、感慨無量です・・・」私はその手紙を今でも

  宝物のように大事にしている。


                                   藤井 浩明(旧姓清水)』


            *     *     *     *

    私はこの原稿の書き出しを読んで一瞬戸惑った。これが私達の同期生なのか・・、

  と。しかし、それは私の早合点であった。

     各地の援農に駆り出され、中島飛行機で空襲に逃げまどいながら共に苦労をし、

  戦後の混乱の中では、ささやかな青春の日々を求めたあの仲間たちの一人に違いな

  かった。


     (この文章の中で、藤井君は「無法松の一生」に感激とある。記録映画の製
     作者である小笠原基生君も、中島飛行機へ動員中に、東武電車で浅草に出
     て「無法松の一生」を観て感動したことを書いている。

        椅子もなき劇場なりき二時間を
               立ちつくして見たる「無法松の一生」

      藤井君も小笠原君も、将来映画の製作に関ることになろうとは思ってもい
     なかった筈だった。だが、二人は同じ「無法松の一生」を観て感動している。
     それは偶然ではない、二人の資質が現われとたと言うことであろうか)


   藤井君から送って戴いた資料の中にある小樽高商卒業後の彼の経歴を掲載します。

    昭和二十六年、早稲田大学英文科卒業、大映株式会社に入社。

           東京撮影所企画部に配属。

    昭和四十三年 企画部長

    昭和四十六年 取締役企画本部長

           同年大映を退社。

           独立プロダクション「行動社」を増村保造、白坂依志夫と共に
           設立。


             映画プロデューサーとして現在に至る。

   大映に入社して以来、今までに、藤井浩明君は二百本を越す作品を手がけた名プ

   ロデユーサーとして知られております。


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2.「三島由紀夫と増村保造と私」


   小樽地獄坂発行の後、藤井君と同期の仲間たちとの交遊も改めて進み、私達が定

  期的に発行している地獄坂通信にも喜んで便りを寄せてくれた。


    平成8年、藤井君の協力のもと、NHK教育TVが製作した番組、「スピードと

  エロス、増村保造監督の世界」が放映された時、彼からの連絡で幾人もの仲間たち

  がこの番組を観ており、地獄坂通信へは次のような寄稿を頂いた。



            *     *     *     *


  三島由紀夫と増村保造と私』          藤井 浩明
 
  
     私が協力しNHK教育TVで製作放映したTV番組「スピードとエロス・増村保

  造監督の世界」は予想外の反響を呼び、多方面の方々からのお手紙や電話を頂きま

  した。


    映画監督増村保造は、私の大映時代、そして二人で作った独立プロ「行動社」を

  通じ、共に映画界という職場で戦って来た戦友であり、戦後の日本映画の代表的監

  督です。彼は昭和三十ニ年「くちづけ」で鮮烈なデビューを飾って以来、昭和六十

  一年に急逝する迄に五十七本の映画を監督した。私は今まで約二百本の映画を企画

  製作して来ましたが、その中に増村と組んだ映画は三十本を越えます。


   主な作品は、『巨人と玩具』(開高健原作、川口浩主演)、『偽大学生』(大江

  健三郎:若尾文子)、『好色一代男』(西鶴:市川雷蔵)、『氾濫』(伊藤整:若

  尾文子)、『ある殺し屋』(藤原審爾:雷蔵、脚本増村)、『千羽鶴』(川端康成:

  京マチ子)、『やくざ絶唱』(黒岩重吾:勝新太郎)、『音楽』(三島由紀夫:細

  川俊之)、『大地の子守唄』(素九鬼子:原田三枝子、田中絹代)『曽根崎心中』

  (近松:宇崎竜童)、『
IL GIARDINO DELIEDEN(イタリア合作)等です。


    今春(平成8年)、増村の代表作十本が国際文化交流協会の斡旋で、ローマ、ミ

  ラノ他で上映されるや、黒澤、溝口、小津などの後を継ぐ、日本映画の優れた監督

  として絶賛を浴び、ヨローッパ、アメリカで今後、上映される運びになりました。



   三島由紀夫氏とは、昭和三十二年、私が氏の「永すぎた春」を映画化して以来、

  あの衝撃的な死を迎える迄、日本の作家の中で最も親交のあった作家です。

 
    私は三島原作で九本の映画を作って来ました。

   『炎上』(「金閣寺」改題、市川崑監督、市川雷蔵、仲代達也主演)『剣』(三隅

  研次:市川雷蔵)『獣の戯れ』(富本壮吉:若尾文子)『音楽』(増村保造:細川

  俊之)『鹿鳴館』(市川崑:浅丘ルリ子、中井貴一)等です。


    中でも『憂国』は、三島由紀夫主演監督で製作し、ツール国際映画祭で次点となり、

  短編映画としては異例の興行的大ヒットを記録しました。



    三島由紀夫は、私が小樽を卒業し、早大文学部経由で映画界に入ってからの最高の

  師であり友でした。芸術分野だけでなく、人生全般の諸々の事を私は氏から教わっ

  て来ました。その没後も三島家と親しくさせて頂いています。


    1960年、映画合作の仕事で市川崑監督とパリへ飛んだ時、三島さんが羽田まで

  送りに来てくださった。その時、居合わせた大映社長の永田雅一が私を別室へ呼ん

  で「天下の三島がお前のような駆け出しのプロデューサーを送りに来る筈がない。

  それは君が大映の社員だからだ。俺に感謝しろ」と、有名人好きの社長から随分ユ

  ニークなお説教をされたことを今、ゆくりなくも思い出しています。

  
      三島、増村のお二人と私は映画等で知り合う以前、不思議なご縁があったのです。

  三島氏は学習院高等部、増村監督は旧制一高から東大法学部での同級生でした。そ

  して彼等は、勤労動員で群馬の中島飛行機小泉工場で、私たち小樽高商の学生達と

  戦時下の学生の運命を共有していたのです。当時、二十五歳までに戦死するだろう

  と信じていた私には、生き長らえて後年、日本を代表する大作家大監督と親交を結

  ぼうとは知る由もありませんでした。 



    山中湖畔に三島記念館が建てられることになった時、私は三島氏のご長男と原稿

  や遺品類の整理をしておりました。小学生の時の作文、成績表等々、ご両親や未亡

  人の手で実に丹念に保存されている膨大な遺品の中から、変色した数葉の葉書が出

  てきました。それは、中島飛行機小泉工場から、ご両親に宛てた東大生平岡公威の

  手紙でした。文面には戦争の行く末、ご家庭の方々の身を案じる息子の愛情が溢れ

  ていました。名状し難い感動と興奮が私の身体を貫くのを覚えました。

    戦争中のほんの僅かの期間でしたが、そこには、紛れもない私たちの青春が確実に

  存在していたのです・・・。」


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3.市川雷蔵と三島由紀夫
 

    市川雷蔵は歌舞伎の世界から大映に入社し、昭和29年の「花の白虎隊」が映画デ

  ビュー作である。
昭和44年、癌のため僅か37歳で急逝するまでの15年間に実に

  158本の映画に出演している。

   平成の時代になって雷蔵再評価の流れが高まり、規模の大きな映画祭や、写真集な

  ども出版されるようになった。
没後30年を迎えた平成11年に、恵比寿ガーデンシ

  ネマを皮切りに全国25箇所で行われた「
Raizo 1999」という雷蔵映画祭の企画

  は、雷蔵ブームの大きな話題となった。

    藤井君は手紙と共に、雷蔵映画祭の記念写真集「Raizo 1999」に入場券を添え

  て私に送って下さった。

 

    「さて、今般市川雷蔵映画祭が恵比寿のガーデンシネマ他で催されることになりました。

   雷蔵は私が最も親しくしていた俳優で、没後三十年、今だに彼の映画は大勢のファンを集め

   最近は若い人にも人気があります。
  
    今回の映画祭のレパトリーの中で私が関係したのは、「炎上」、「ある殺し屋」と、企画協力

   したのが、「ぼんち」と、「好色一代男」です。三十数年前の映画ですが、今の日本映画をは

   るかに凌ぐ力を持っています。お暇がございましたらぜひご高覧下さい。もっと早くご案内し

   ようと気になりながら、仕事で、インドネシア、フランスと転戦しており、遅くなりました。

                                                 藤井 浩明 」

    一ヶ月以上に渉る映画祭で上映される作品の中から、私は増村保造監督の「好色一

  代男」を選んで観に行った。開演待ちをしている観客には年配の女性が多かった。昭

  
和36年の作品であるので、今の人たちには聞いたこもない映画なのかも知れない。

  しかし、昭和三十年代は日本映画の全盛期であった。若さに満ちた雷蔵や若尾文子が

  生き生きとした演技で観客を魅了し、同様に私も若かったあの頃が懐かしく思い出さ

  れた。



   写真集の冒頭に、藤井君のエッセイが掲載されていた。

     「二人の師友、三島由紀夫と市川雷蔵」

                                      プロデューサー  藤井浩明

    『(前文省略)

      雷蔵逝って三十年が経つ。その翌年世を去った三島由紀夫氏の文学館が、富士

   の見える山中湖畔に今年七月三日オープンした。そこで上映されるドキュメンタ

   リー「世界の文豪・三島由紀夫」を私はプロデュースした。

    三島由紀夫の文学とその生涯を映像で紹介するフィルム「金閣寺」と「剣」に、

   映画のスチールを使用した。両作品に見る市川雷蔵は、時代を超えて燦然たる光

   芒を放って、観る者を圧倒する。改めて哀惜と敬愛の念が湧き上がる。



      私が初めて雷蔵と話したのは、「金閣寺」(映画題名「炎上」)映画化のことで、

   市川崑監督と一緒だった。旧帝国ホテルのテラスで会った雷蔵は、白い麻のスーツ

   姿が素晴らしく、凛々しさと清々しさをたたえた二枚目役者であった。その美しい

   姿が今でも瞼に裡に焼きついている。

   
 「金閣寺」は、私を三島由紀夫と市川雷蔵に結びつけてくれた。三島氏とはその

   後「獣の戯れ」「剣」「憂国」などの映画化で親交を結び、今、山中湖三島文学館

   へと繋がっている。



      雷蔵さんとは、この映画を契機として親しくなった。私が仕事で京都へ行くと、

   彼は必ず時間を作って夜遅くまで語り合った。私たちは世界の新しい映画、文学、

   演劇の話で時の経つのを忘れ、逆に雷蔵が上京して来た時は、必ず人なつっこい明

   るい声で電話が来た。私たちは飲み歩き、語り明かしたこともある。



      雷蔵が病床にある頃、勝新太郎から三島氏に映画『人斬り』出演の依頼が来た。

   私は三島氏と大映京都撮影所へ出掛けた。勝の部屋で三島氏の出演シーンの入念な

   読み合わせを終え、三島氏と私は廊下へ出た。目の前に雷蔵の部屋があった。そっ

   と開けると、閉じられたカーテンの隙間から西日がうっすらと射し込んでいた。化

   粧鏡と「雷」の文字が染められた座布団が、ひっそりと主人の帰りを待ちわびるか

   のように在った。三島氏と私は、ただ声もなく部屋のただずまいを眺めていた。も

   しかして、雷蔵さんはもうこの部屋に戻って来ないのではないかという不吉な予感

   が募って来た。二人は足音を忍ばせるように外へ出た。短い沈黙の後で、三島氏が

   言った。「帰京したら雷蔵さんを見舞いに行こうと約束したけれど、あれは止めよ

   う。雷蔵君に会えば『人斬り』出演の話が出るだろう。それは病床に居る雷蔵君を

   悲しませることになるから・・・」。三島氏のやさしさに私は感動した。


     雷蔵の没後、追悼本「侍」が出版された。そして、三島氏に最後にお会いしたの

   は、池袋の東武デパートでの「三島由紀夫展」が催されていた夜である。帰途、小

   日向台の雷蔵邸の灯が遠望される処へ差し掛かった時、話題は雷蔵の事になった。

   三島氏は雷蔵の死を残念がり次に雷蔵の本を出す機会があったら、自分が編集して

   上げようと言ってくださった。私は、十数日後に運命の十一月二十五日が訪れよう

   としているのを知らず、三島氏の心の奥底も計れず、「三島由紀夫編集・映画スタ

   ー・市川雷蔵」と言う豪華本の誕生を夢見た。三島氏の雷蔵への、そして私への別

   れの言葉とも知らず・・・。』


                                [TOPへ] 


4.二百本目の作品・「虹の岬」

 
      平成11年の春、小樽高商同期の者十名ばかりが、藤井浩明君のご招待で、有楽

   町マリオンの朝日ホールでの映画「虹の岬」の完成披露試写会に出席致しました。

     「虹の岬」は藤井浩明君にとって大映入社以来数えて二百本目のプロデュース作

   品となる記念すべき作品ということで、私たちは、藤井君がリザーブして下さった

   二階正面の席で、二時間に及ぶ大作を十分に堪能致して参りました。



      原作、辻井喬著「虹の岬」は発表された当時、谷崎潤一郎賞を受賞し、早くから

   その映画化をめぐり、映画製作会社各社で争奪戦が展開された作品である。


      戴いたパンフレットの製作データには、「1997年11月中旬クランクインし

   98年1月初旬から約一ヶ月間かけて京都ロケを行った。逗子でのオープンセット

   や日活撮影所でのセットを使い、戦後の昭和という時代、情景を見事にスクリーン

   に描き出している」と述べている。


      「虹の岬」の企画製作は東北新社、配給は東宝であった。藤井君は勿論この映画

   のプロデユーサーであり、監督の奥村正彦は、増村保造のもとで助監督として経験

   を積んできた経歴があり、藤井君とは熟知の仕事仲間であると思われる。



     上映前にスタッフ・出演者たちによる舞台挨拶があった。三国連太郎は、彼の役、

   川田順の複雑に揺れ動く老いらくの恋心を、ユーモラスな表現で話し、観客たちは

   笑いながら聞いていたが、次第に映画への期待が高まってきたことは、挨拶が終っ

   た時の拍手の大きさで明らかだった。



      映画は、川田順が紋付羽織の正装で、新村出、吉井勇、谷崎潤一郎に宛てた別れ

   の手紙を投函したあと、木枯らし吹く京都鹿ヶ谷法然院の川田家の墓地に向かう

   ところから始まる。袂には紙に巻いた剃刀が入っている。昭和二十三年十一月の

   ことである。


      川田順は歌人であると同時に、住友本社の常務理事という実業人であった。昭和

   十年、陸軍から慫慂のあった重工業の国策会社に参加するかどうかで、住友首脳の

   間で評定が行われ、川田は反対であった。住友の哲学は独立独歩、事業に政府権力

   を利用してはならないという主張である。川田は陸軍大臣に会ってその要求を断る

   ことになった。

   「すでに三井、三菱、古河から参加の回答がきているが」という大臣に川田は住友

   参加できない旨の説明をした。

   「君の方は国策に添えないというのか。いつ、誰が決めたのか!」

   「昨日、私が決めました。国策は大事と思っておりますが、住友は従来の方針があ

   って参加できません」

    川田には、一時の不利益があっても住友の伝統を貫く方が大切という考えがあっ

   た。翌年には二・ニ六事件が起こったことからも、日本の運命が何時かは変わるで

   あろうと川田はひそかに思案していた。


      そして、将来は総理事と言われていた川田は、誰にも相談する事なく突然住友を

   辞めた。健在であった彼の妻に川田は「もっと自由に歌を作りたい」とだけ言った。

    実業家として有能な五十四歳の働き盛りではあったが、彼には歌人としての血が

   流れていた。


      戦後になっても彼は辞めた本当の理由を述べていない。言えば住友に迷惑がかかると

     しか言わない。戦争中、彼の短歌は芸術院賞や朝日文化賞を受け愛国詩人と言われたり

     するが、それは彼の本意ではなかった。本当に彼の短歌を理解してくれたのは、吉井勇や

     谷崎潤一郎など少数の友人だけだった。


      昭和十九年に、川田は自らの講義する短歌の会で祥子と知り合い、親しさが進み、

   戻れぬ間柄になるのだった。大学教授の夫と三人の子を持つ祥子の恋もひたむきだ

   った。川田は苦しむ祥子を見て、自分が死ぬことがこれ以上彼女を苦しめない道だ、

   死によってこの恋は完成させることが出来ると考えたのだった。

    祥子宛の遺書に、彼は次のように書き残した。

   「私の亡きのちを何卒立派に清らかに生きて下さい。これ一つが衆生輪廻の悲願で

   す。
        
        世の人ら耳そばだててゐるものを
      
            いつよりや君を妻と呼ぶべしや

        この恋は友を裏切り二重にも

            三重にも罪と重き我かも

                             」 

      しかし彼の意図は失敗に終わり一命は取りとめたが新聞の社会面を飾るスキャン

   ダルとなって「老いらくの恋」が流行語となる。

     そんな非難やら激励やらで身辺が騒がしい中、谷崎潤一郎が見舞いにやって来て、

   二人に「もう天下衆知の事実なんだからお考えの通りに進まれるがよろしい」と励

   まし、「恋愛については私の方が経験者ですからね」と、豪快に笑った。



      祥子は、川田への一途な気持を改めて確かめ「ずっとお傍に置いてください」と

   言う。「大丈夫か後悔しないね」と川田。祥子は強く頷いた。


    
翌年三月、二人は京都平野神社で式を挙げた。川田順六十八歳であった。翌日、

   ニ人は世間に知らせずに京都を離れ、神奈川県国府津の知人の別荘に居を移す。

   不便な暮らしであったが、心の休まる満ち足りた歌人の栖だった。

             何ひとつ成しとげざりしわれながら

              君をおもふは遂に貫く

    映画は回想場面の多い原作の構成を生かしながら、美しい京都の風景の中で、

   川田が祥子に説明する古典の話が雰囲気を盛り上げ、随所に散りばめられる華麗

   な短歌の数々が心うつ格調高い文芸作品でした。

      三国連太郎、原田三枝子他のキャストもよく、世間の冷ややかで好奇の視線の

   もとで、複雑に揺れ動く老いらくの恋心を奥行き深く演じ、見終わったあとに、

   心地よい人間味豊かな余韻を残してくれました。



    藤井君のご厚意へのお礼を申し上げると共に、プロデュースした映画が二百本

   に達するという素晴らしい業績に心からの敬意を表します。



               (地獄坂余話十ニ部了)


          (余話十ニ部の続きを、次の十三部に掲載の予定です)

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