第十一巻

小樽地獄坂

第 11 巻

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17. 卒業前後

  早くも決まる・卒業の日程

  ゼミナール・先生たちとの交流

  南亮三郎教授・小樽を去る

   求人順調、進学希望も

  誰も居なけりゃ、俺が東大志望

  決断の時・就職の選択
  ほっと安心、面接試験は英語で会話
18. そして今、私にとって緑丘は・・

   映画人、藤井浩明君のわが緑丘

   就職三ヶ月で会社解散!
   戦争、敗戦、戦後、懐かしきわが青春
   そして今、私にとって緑丘は・・

 

17.卒業前後


くも決まる・卒業の日程

『石炭不足に悩む本校の現状――又も四十日間の長期休暇。

 教官会議の結果、冬季休暇は十二月二十一日から一月末日

決定、学生間における休暇短縮説の風評もどこへやら、石炭不足

には如何ともなし難く、我々は再び長期休暇に入らねばならない。

授業日数の多少は必ずしも学力の低下を意味せ
ず、又長期休暇が

客観情勢により、止むをえないことである
としても、本年の休暇

日数からみても今度の長期休暇は余り
にも残念なことである。し

かしながらこれが敗戦日本の現状
とあれば致し方あるまい。十二

月十九、二十日の両日にわたって語学試験が行われ、卒業試験は二

月中旬の予定、卒業式は例年通り三月五日と内定』

          (緑丘新聞 昭和二十一年十二月二十五日号)

早くも卒業のスケジュールが決まっている。休暇が長期化すること

を残念がっている気持は嘘ではない。多くの者はこんなことで本当に

小樽高商を卒業したといえるのかという不安を持っていた。


この記事によると、一日の石炭の消費量は平均約四トンにもなり、

寮の分まで含めると四百トン以上の石炭がないと一冬の満足な暖房が

できないようだ。先輩たちの配慮によってようやく最低限の石炭を確

保するのがやっとだという。あの時代ではやはり大変に難しいことで

あったろうと想像がつく。

『学校にはスチーム暖房の設備はあったが石炭不足で滅多に通ること

はなかった。私たちは外套を着てノートを取った。とくに寒い日には、

遠くからコトン、コトンと音がして、しばらくの間スチームが通るこ

とがあった。

   スチームの通りはじむる音すなり

講義眠たき大教室に  』    (小笠原基生)

 十二月にはこの年も雪の多い冬が早くも始まっていた。

      ―物の怪―

    雪の坂行けば何かが従いて来る

    雪女出そうな夜のしずけさよ

    白樺の陰から何かが呼びかける

     ―よく火事のあった小樽の街―

    師走風今日も街ゆく緋の車

   (掲載の林友一君の川柳は全部で九十八句に及んだ)


ゼミナール・先生たちとの交流

 この冬休みは、卒業論文が気になって遊んではいられなかった頃で

もあった。各ゼミでの先生との交流も最終段階だったろう。

『ゼミナールに入ったのは三年生になってからでした。岡本教授のゼ

ミでしたが、アクセントのある教授の話し方に印象が残っている。自

宅にも何回か訪問しました』           (長崎哲昭)


『ゼミは南教授で、小川弥八郎君や伊藤陽吉君も一緒で、シュンペー

ターの研究をして卒論を出したのを覚えています。だが、緑丘生活三

年間の半分は、援農、動員の連続で殆ど勉強もせず、後の半分は英語

で泣かされたのが強烈に記憶に残っています』    (杉野昭雄)


 木村ゼミの黒坂昭君は卒論のテーマを憶えていた。

『卒業論文(会計学 木村教授)

 共産圏における「暖簾」の評価について。

 どのような内容であったか定かではない。立地条件のよしあしによ

って収益に格差ができる、それをどのようにならすのか、短い論文で

あったが、先生から特に何も言われなかったから、今もって不思議な

謎である』                    (黒坂 昭)


 この冬、ドイツ語のデンケル先生から強い印象を受けた伊藤博君の

思い出が届いている。

『「おい、二十分過ぎたぞ、デンケルさんは来ないよ」

「そうだ、休講だ」

ドイツ語クラスの私たちはぞろぞろと教室を出て行った。先生が十五

分を過ぎても講義に来られぬ時、休講と勝手に決めて教室を去るとい

う学生間の不文律があった。

 私は何となく出そびれた。堅い椅子に座りぼんやりと窓の外に目を

やっていた。雪が小止みなく真っ直ぐに降り続いていた。室内は寒か

った。と、静かに入口のドアが開いて、そこに、黒衣、長身のデンケ

ル先生の姿があった。

「イットさん、みなさん、どうしましたか」と先生の声。

私を呼ぶ時、先生は「ITO SAN」ではなく「ITTO SAN」

と発音されていた。

「お出でになるのが遅かったので、休講だと思ったのです」

「そうですか」先生は教壇を降り私の横の席に座った。

「では、今日はあなたと話しましょう」

 そして、先生の神学修行、来日事情、母国ドイツや家族のことをい

ろいろ私は伺った。柔和、淡々たる口調、澄み切った眸、遠くを見つ

めるような表情を今も思い出す。その時一つだけ質問した。

「先生は故郷に帰りたいと思いますか」

「はい、帰りたいです。しかし、今はむずかしい。でも手紙書きます」

と、静かに答えられた。

 その頃、小さな殻に閉じこもり、自分の行き方を模索していた私は、

周りの人々や世の中は風馬牛であった。そんな時に、外国人であるデ

ンケル先生とお話できたこと、しかも、人間として向き合えたことに

よって、その後の人生の考え方に大きな影響を受けたあの冬の朝のひ

とときを忘れることはない。

 私たちは川村三千雄先生にもドイツ語を習った。デンケル先生は詩

や歌曲を、川村先生は文法、訳読を担当された。私は両先生から語学

のほか多くのことを学んだ』             (伊藤博)


南亮三郎教授・小樽を去る

 冬休みも終りの一月三十一日北海道新聞に次のような記事が載った。

『学校教職員適格審査委員会ではこの程、小樽経専教授南亮三郎氏を

教職員不適格と判定したが、これに対し氏は三十日朝小樽市最上町の

自宅で次のように語り、中央審査委員会にたいし正式控訴の手続きを

とる意志を明らかにした。


「今回問題になった『皇国経済論』という学校雑誌上の一文は当時文

部省の指令により学校長の命を受けて、ごく短期間担当した特殊講義

の草稿に過ぎない。それをたてにとった今度の判定は戦争という事実

と思想的自由の完全に封鎖されていた当時の実情などを抜きにしたも

ので、観念の上においても動きのとれぬ保守陣営の一方的思想弾圧と

解するよりほかはない。教職の方は校内が軍隊化してしまった時から

辞意を抱いてきたので今更未練はないが、後ろ髪を引かれる思いをす

るのは出身者と在校生の存在である。未だ私の手許には判定書が届い

ていないが、届き次第中央の審査会に対し再審査を要求するつもり

だ」』       (北海道新聞 昭和二十二年一月三十一日付)


『南先生が亡くなられたとき、私は迷惑をお掛けしただけの教え子と

して葬儀に出た。

 不本意に小樽を去られてから、中央大学、駒沢大学と一貫して学究

の道を歩まれた先生の実に晴れやかな温顔を十字架の下の祭壇に見、

学問と信仰を全うされた人の持つ大きな平安に打たれた。

 同級の中山伊知郎と並ぶ俊秀でありながら、一橋の研究室に残らず

敢えて母校、小樽の教壇を選ばれたという追悼の辞を聞きながら、戦

中と戦後の緑丘でどのような思いで過ごされたのか、私は胸の痛むの

を覚えた。

 皇国経済論に責任ありとすれば、先生はそれを小樽を去るという形

で示されたわけであり、そこから先生の戦後は始まったのだ。

「ところで君はどうしているのかね」と先生の微笑は問い掛けるよう

だった』                   (小笠原基生)

求人順調、進学希望も

皆の関心はすでに卒業後に向いていた。「緑丘新聞」には『大もて

の高商生−FULL
EMPLOYMENT OK』と景気の良い記事

が出ている。

『生糸の原合名をトップに就職戦線は俄に活況を呈し始めた。戦後の

北海道産業の飛躍によりすでに多くの商事会社が進出しており、これ

らの一流会社がいずれも本校卒業生を要望している。しかし、内地方

面からの求人は見込みが薄いから、内地出身者は望郷心を捨てて、縁

に繋がる北海道に活路を求める方が得策であろう。やがて北海道が日

本中で一番良い場所になることを思えば、敢えて焦土のバラックに感

傷の月を眺めるにもあたらないであろう』

 まだ民間貿易は始まっていなかったが、近い将来には「Made in

Occupied Japan
」の刻印付きではあったが輸出も再開されるだろうと

いう期待があっての貿易商社等の積極的な求人だった。


そして十二月二十日現在として、三井物産、三井鉱山、東芝を始めと

して三十数社の求人広告が出ている。早い者は年内にも就職の内定を

した者もいた。

一方、次のような記事もある。

『日増しに賑わう進学希望者名簿。

 戦時中の学力低下を嘆いてか、狂わしき現実社会に打って出ること

を嫌ってか、進学熱が普通でないことは確かだ。


 大きい時代の変転、暗い現実面の状態から一歩も進めず、日々に経

済失調に陥っており、バラックと代用食の東京の生活を嫌って東京行

きは少ないだろうとの予想を裏切って、卒業者総数の約三割近くもが

進学を希望している』

 個人的事情が許せば、さらに多くの者が進学を希望したのではなか

ろうか。引用している「緑丘新聞」には、コピーしてくれた近藤君が、

あの時代にこんなにも勉強していたのかと驚くほど、先生方や学生の

研究論文が多く載っている。川口正巳君、小川弥八郎君、伊藤陽吉君

らの編集委員をはじめ、岡林豊樹君、関雅美君等の論文も毎号を賑わ

していた。

誰も居なけりゃ、俺が東大志望

『学生課には進学希望の者が書き込む名簿が置いてあった。それをぱ

らぱらとめくってみたら、東京商大とか東北大学とかいろいろ書いて

あった。某君が、東大はないなあ、というので、それじゃ二人で書こ

うかと言って、東大志望と書いてしまった。

 その頃、北大に法文学部が出来ることになっていて、北大ならとも

かく、東大は経済的にも無理なことは分かっていたが、書いてしまっ

たので、受けないわけにはいかなくなった。親父は大分怒っているし、

どうせ落ちるのはは分かっていたが、乗りかかった船だ、と本当に二

人で受けに行った。

 ―この某君とは恐らく私のことでしょう。こんな風にすぐ乗ってし

まうのが私でした。―(小笠原基生)


 帰って来てから、就職も考えなければならないので松尾先生にお願

いに行ったら、「君は東大を受けたんだろう」と言うので「そんなの

分かっているでしょう」と言うと「いいえ、発表になるまでは分かり

ません」と言われた。

  やっと発表があって、落ちたことが分かったので、大威張りで松尾

先生のところへ行ったらまたひどいことを言われた。「今ごろ来たっ

てもう一流のところはありませんよ。残っているのは二流三流のとこ

ろばかりです」

それでも内地の商事会社の札幌支店に何とか就職したが、早速算盤

で計算をさせられ、何度やっても合わず、支店長が見ていて呆れて、

次の日は集金に行かせられた。行った先で、感じの良い奥さんが出て

きて、今日は都合が悪いので、と言うのでああそうですかと言って帰

って来たら、その仕事もだめ。それからダイレクトメールのような手

紙を書かされた。

そのうちに北大の入学試験があったので、今度は真剣に答案を書い

て入学できた。小樽では殆ど勉強しなかったので、その分少しはやろ

うと思っていたようだ』              (出雲順治)


『卒業後の進路を決める時、教授に「大学へ行きます。就職は考えま

せん」と言い切ってしまいました。今考えると無鉄砲も甚だしいこと

と冷汗が出ます。

 進学の理由は、亡父がたたき上げの会社幹部だったこと。母一人位

はオレが稼いで養ってやるぞと思ったこと。それに戦時中勉強不十分

の飢え。決め手は官立大学文系の定員にいわゆる傍系を入れる余裕が

あるという事だった。

 受験は東北大学と決めてもさっぱり勉強はしませんでしたが、受け

たら入りました。父はあの世へ行ってしまったので、夜は米軍の通訳、

昼は大学で時々居眠り。結局大学はビリでしたが、英語の実務経験か

ら東北電力に拾われたのではないかと思います』   (似内明治)

『私自身、銀行でも商社でも使いものになる人間とは思っていなかっ

たし、もう少し自分の可能性を見極めたかったし、そのためには私に

はとりあえず文学という手掛かりしかなかったので、進学しようと思

った。松尾先生の影響でフランス文学を選んで慶応の仏文科に入った。

勿論これは殆ど怠け者の口実である。科は違ったが、富吉君や砂田巌

先輩も一緒だったのは心強かった。

 ちなみに、この富吉、砂田両選手を迎えた慶応のスキー部が、久し

い低迷を脱して翌年のインターカレッジで優勝したことは、緑丘の


キー部のレベルが全国的に如何に高かったかを証明するものとして

憶されてもいいだろう』            (小笠原基生)

決断の時・就職の選択

 自分の将来を決める時期として、客観情勢は違うとしても不安定な

気持に揺れながら決断をしなければならないことは、伊藤整の時代で

も同じ事であったようだ。

『卒業の半年前になると、学生課長の村瀬玄教授が合併教室で私たち

を訓戒し、実力以上の会社を志望するのは愚かだと説明した。……こ

の学校は就職率の高い学校であったが、一二年前から欧州大戦時代の

好況の反動として、不況が深刻なって来ていた。私はどんなところに

勤めたいのか分からなかった。上の学校である東京の商科大学に入る

ことは、経済的な点で父が許さないことを知っていた。私はできれば

外国勤務の希望の持てる横浜正金銀行か、三井物産か、三菱商事に勤

めたかった。しかし、それらの会社は、飛びぬけた二三の秀才でなけ

れば入ることができなかった。私は、自分の成績があまりいいものと

は推定できなかったので、特にどこを志望するということを学生課に

申し出なかった。私の順番はなかなか廻ってこないだろうと、不安な

気持の中に諦めを抱いて日を送っていた』

               (伊藤整 「若い詩人の肖像」より)

『成績の良い者は、商社、銀行へ行くので、それ以外でこれから発展

する産業は何かと考え、鉄、セメント、電力、松下の中から電力を選

択した。また道内では小樽卒が羽振りがきくと思った。北海道電力に

入ったら先輩が多くいて安心した』        (長崎哲昭)


『卒業式も近くなり就職の問題が出て参りました。ロクに語学も出来

なかったけれども、繊維関係の貿易商社を希望しました。日綿実業、

安宅産業の二社は大阪へ試験を受けに行かねばならないとの事、たま

たま船場八社の一つ「又一
KK」よりの求人もあり、小樽出張所の所

長は先輩で、学校で面接し、その場で内定しました。


 さていよいよ大阪へ出かけようとした矢先、秋から時々出ていた血

痰が激しくなり、岡崎の実家へ帰ってレントゲン検査をしたところ、

肺浸潤にて休養の必要ありとされました。早速大阪の又一に出向いて

事情を話し、七ヶ月休養し十一月から出社した次第でした。

 昭和三十三年、同社二度目の整理で辞めなければならぬようになる

とは神ならぬ身の知る由もなく、その後は大変な苦労を経験しました

が、「人間万事塞翁が馬」とてその後はささやかな織物の産地問屋を

経営して参りました』           (太田福蔵)


ほっと安心、面接試験は英語で会話

『卒業も迫り、私は家庭の経済的理由もあって、就職を望んでいまし

た。何はともあれ、これからは外国勤務の可能性のある貿易商社に勤

めたかったのです。そんなある日、学生課に顔を出したところ浜林教

授がおられ、私を見て「君、就職を考えているのなら三井物産を受け

たらいいよ」と例の軟らかい声で言ってくれました。今まで、それ程

身近にいてくれたとも思えない浜林教授にそう言われたことで、内心

驚きもし、大変に嬉しく感じました。しかし、いくら敗戦直後とは言

え、三井物産は昔から成績優秀な者しか入社は出来ないところですか

ら、いささか不安になりました。

 試験の当日、あの頃の堂々たる三井物産小樽支店ビルに十人くらい

は集まったでしょう。面接の質問は、やはりゼミの研究テーマだの、

経済、金融論のようでした。私はその手の勉強は全然やっていないの

で、どうなることかといたたまれない心地でした。

 面接室に入ると試験官が何か言っているようでした。一呼吸して耳

を澄ませると、何と英語ではありませんか。一寸安心しました。面談

は英会話で進み、しかも一方的に私に喋らせようという質問ばかりで

した。一人の試験官から英弁大会でどんなスピーチをしたか聞かれま

した。残念ながらハナの短いセンテンスくらいしか覚えていませんで

したが、それで、推薦の謎も解けたようでした。

 三井物産の辞令は、札幌支店経理課勤務を命ず、でした。「海外勤

務の一番の近道は経理課ですよ」と同室の先輩に励まされました』

                        (近藤尚夫)

 この年の私たちの就職状況を北海道新聞は次のように報じている。

『小樽経専の場合:百七十二名の卒業生のうち、学校を通しての就職

希望者は九十五名、戦後一年半、好景気に浮かび上がった本道経済界

に進出を企画する関東関西方面の会社関係の求人百二十件をトップに、

人員にして三百六十九名、就職希望者の約四倍という就職インフレで

ある。

 一方、社会情勢の一般的条件が悲観的である結果、学校を当てにし

ないと方が有利と考え、縁故関係などによって就職するものも多い。

他に進学希望者は、東京商大、東北大学、今春新設の北大法文学部な

どへ30名を越す者が目指していると思われる。

 また、特異な点は従来の学生が競って官庁入りをしたのに対し、申

し合わせたように事業会社を目指していることで、このあたり「立身

出世より先ず食うこと」と言った切実感がはっきり現われている』

                北海道新聞昭和二十二年三月六日付)


18. そして今、私にとって緑丘は・・  


映画人、藤井浩明君のわが緑丘

 著名な映画プロデューサーとして知られている藤井浩明君にとって

も、私たちの地獄坂はやはり忘れらない青春の故郷であった。藤井君

からも「私にとっての緑丘」が寄せられている。

『親しくしていた高峰三枝子さんから、帝国ホテルでのディナー・シ

ョーのお招きを受けたことがあった。満員の客席を縫って高峰さんが

「湖畔の宿」を歌いながら現われた時、私は名状し難い感動に襲われ

た。七十歳に近い彼女が未だに大スターの地位を保ち、老いてなお変

わらぬ彼女の「美」に打たれたからである。と同時に、彼女は、私に

十六歳の「青春」を瞬時に甦らせてくれたからである。


 昭和十九年春、私は小樽高商へ入学した。当時、高峰さんは、戦地

に赴く学徒兵の多くが彼女のプロマイドを懐に飛び立って行ったとい

う伝説的アイドルであった。(「暖流」で彼女は、小樽高商出身の青

年を恋する令嬢を演じて評判であった)

 岡山
県から来て、積雪というものを見たことのない私は、小樽の土

を踏んだ途端萎縮してしまった。三寮の同室は長崎哲昭君。寒さで勉

強など手につかない。伊藤整氏の「雪明りの路」の初々しいリリシズ

ムなど、私にはまるで無縁だった。(後年、伊藤氏の「氾濫」を若尾

文子で映画化して以来、伊藤氏にはいろいろと教えて頂いた)

 篠路村への援農は長崎君と一緒。着いた日から発熱し、寮へ帰

って寝ていた。こんな学校とはおさらばして、どこかの高等学校

の文科に入り直そうと思っていたら幌加内村への動員命令。

 暖かくなり友達も出来てくると、小樽に居座ってもいいと思い始め 

た。ある夜、誰かの寝煙草で蒲団が燃え、三、四人で近くの川へ捨て

に行ったのがバレるという椿事があった。次は一已村。新川昭一君と

同宿。二人で文学や音楽や映画の話ばかりしていた。休日は深川の映

画館で、大映の「無法松の一生」を観て感激した。(後年、私自身映

画界に入るなど夢にも思わなかった。いずれ戦地に行き、二十五才ま

でしか生きられないと信じていた。

 
中島飛行機では、動員ずれしていて、白昼堂々と工場を脱出したり、

食堂を荒らしたり、配給の煙草を未成年の分際で喫っていた。しかし、

私が社会に出てからの最高の師であり、最大の友であった三島由紀夫

氏が、東大法学部学生として、私たちと相前後して小泉工場にいたの

も不思議な因縁である。(ほぼ同世代の作家三島氏に私は深い関心を

寄せていたこともあって、後に私は氏の原作を次々と映画化した。

「炎上」「永すぎた春」「獣の戯れ」「憂国」等。そして、氏とは死

の直前まで親交を結んだ)。


 次の援農先は陸別。大石隆之君と熊の出現におびえながら畑仕事を

していた。

 戦後の混乱の中、新しい文学、新しい音楽、外国映画が洪水のよう

に輸入された。バーグマンの美しさは私たちを魅了し「カサブランカ」

の中で歌われた「ラ・マルセイエーズ」を、塙昭吉君がよくフランス

語で歌ってくれた。五寮には、太田福蔵、伊藤陽吉、池田、市川、伊

藤武、山本・・・多士済々が割拠し、よく勉強していた。やがて私は

生駒憲君と熊谷和秀君と三人で、寮の近くに下宿した。遊んでばかり

いた私が卒業できたのは、秀才で努力家の生駒君と関雅美君のお蔭で

ある。関君には連絡船欠航の度にご母堂のお世話になり、生駒君には

試験の前夜、ヤマをかけて貰っては、せっせとカンニングの材料を作

っていた。

「アラスカ物語」という映画のロケで、三十年振りに北海道へ行った

時、松尾教授を訪ねた。戦後の食糧難の時代、先生は寮生のために買

出しに行かれ、農業会の男に突き飛ばされたことを初めて話された。

私は絶句した。その後、仕事先のローマから先生に長い手紙を書いた。

先生はすぐに返事を下さった。「・・瀬戸内海の温暖の地から十六歳

の少年が北海道に渡り、あの索漠荒涼とした学生寮の生活によくも耐

え忍んだものと、今にして思えば、感慨無量です・・」 私はその手

紙を今でも宝物のように大事にしている』(藤井浩明(旧姓 清水))

(藤井浩明君は小樽高商卒業後、早稲田大学文学部に進み大映に企画

部員として入社。企画部長、製作本部長を経て、退社後は独立プロ

「行動社」代表として多くの映画の企画製作を行った。大映時代は増

村保造監督の五十七本の映画のうち、三十本を越える作品をプロデュ

ースし、また、三島由紀夫原作で九本の映画を作っており、現在まで

に二百本を超える映画を製作してきた名プロデューサーである。)

就職三ヶ月で会社解散!

『今、私の手許に一冊の古びた住所録がある。それは、触れるとぼろ

ぼろになりそうな程粗雑な紙に小さな六号活字でビッシリと印刷され

表紙には「昭和二十二年七月三日現在、従業員住所録、三井物産(株)

人事部」と書かれている。

 

 連合軍総司令部覚書によって三井物産が解体を命ぜられたその日の

日付のもので、旧三井物産最後の住所録である。その住所録の中に、

その春三月に緑丘を巣立って希望に燃えて社会に飛び立った同期の七

人の名前を見つけることが出来る。


 小樽支店  楠  喜文  小樽市富岡町一−二十
 札幌支店  井野  隆  空知郡美唄町三井美唄
       村澤 一弥  東京都中野区千光町一四
       岡本 政敏  札幌郡手稲村星置
       村岸 建吾  札幌郡厚別
       近藤 尚夫  札幌郡手稲
       今村 五郎  旭川市大町五丁目
        

 就職してから僅か三ヶ月で会社が解散するという波乱のスタートで

あった。当時のことを解説する記事があった。


「財閥解体は、GHQが進めた経済の民主化・非軍事化政策の中で最

も重要なものの一つだった。三月三十一日には国会でも独占禁止法が

可決され、七月三日には三井物産と三菱商事所有の株券が持株会社整

理委員会によって押収された。三井、三菱の二社は二百社あまりに分

割された」

 私たちは分割された各社に分かれて散ったが、七、八年後には、各

社が再編成され、半数ほどは再び新しい三井物産に戻ることとなった。

 人生さまざま、卒業してからも、私たちが戦中戦後の緑丘で経験し

てきた混乱に対処する術を、何時の間にかその後の人生でも身につい

たものとして生かしていたのではなかろうか』  (今村五郎)


戦争、敗戦、戦後、懐かしきわが青春               


『終戦を境として、一年半ずつの緑丘生活でした。

 有名な涼州詩

      葡萄美酒夜光杯   欲飲琵琶馬上催

      酔臥沙場君莫笑   古来征戦幾人回

 をよく口ずさみましたがその征戦にさらわれて、半数以上の諸氏が

入営していた次第だったのですね。一人、二人と入営されて行かれて、

あんなに沢山、軍隊に行っておられたとは驚きでした。

 まことに懐かしき二十の頃のこと、思い出は尽きません。幸いにし

て死なずに済んで、ほんとうに良かったとしみじみ思うこの頃です』

                          (林友一)

『大東亜戦争、終戦、そして戦後と日本国最大の激変期を小樽経専時

代に経験しえたことは奇遇としか言いようがない。学生の本分たる勉

強はあまりしなかったが、かけがえのない青春時代にあのような貴重

な体験をしたことはその後の人生に計り知れない影響を与えてくれた

と思う。

 それは終戦まではどちらかというと没個性的で歴史は国家のみに存

在していたが、戦後は一人一人が生きた歴史を作れるようになったの

ではないか。残り少ない余生を今後とも大切に生きたいと思う』

                         (熊谷和秀)

『昭和十九年四月頃、私は自分の人生の一番不幸な時期を過ごしてい

たように思われる。二度と思い出したくない、永久に忘れてしまいた

い年であった。私は医者になりたいと思って北大予科を受験したが失

敗。挫折感と劣等感で自暴自棄のまま小樽に来た。暗い人生を予期し

たが、そのうち兵隊にとられて死ねばいいのだとすっかり厭世的にも

なっていた。講義にも身が入らず、友人も出来ず、寮と学校をただ夢

遊病者の如く往き来していた。何のためにこの学校へ来たのだろう、

少しは英語の勉強をしようとでも思っていたのだろうか。戦時中のこ

ととて、家で浪人生活など望むべくなかったので、自家から通学でき

る文系のこの学校へ来たのだろう。

 後日、伊藤整の「若い詩人の肖像」の中で、彼が小樽高商に入学し

た時の事情を述べている箇所を読んだ。

「私が中学校を出るとき、父は私を官費の師範学校へ入れるつもりで

あった。私は官立の高等学校か札幌の官立大学予科へ行くつもりであ

った。私は文学に心を占められていながら医者になりたいと思ってい

た。それは実現しそうもなかったので、私は妥協して、自家から通え

る小樽の高等商業学校を選んだ。私は医者になれなかったことを、長

い間心残りにした」


 あの伊藤整にして、なお、「医者になれなかったことを心残りにし

た」と言っていることに、私は、感慨を覚えた。

 そして、ともあれ戦後となり、三年生になってからは、気心の許せ

る汽車通仲間が出来、毎日の通学が楽しくなった。世の中の仕組みが

すっかり変わったように、私の心の殻も破れ、人との接し方分かって

きた。ようやくささやかな青春を見つけることが出来たのだった』


                                     (近藤尚夫)

『若気の至り・三題

終戦間近かの頃、同じ寮の伊藤武君が招集されたので、送別会

  を
やろうと花園町から左に曲がった通りの店へ入る寸前「この戦

  争は負けるよ」と大声で話し合ったことが偶然憲兵の耳に入り捕

  まった。その時、伊藤武君が、これから出征する身だと涙ながら

  に謝り、ようやく釈放。間もなく敗戦となった。

塩釜出身の熊谷和秀君が下宿屋の娘に惚れてしまった。小生は松

   前の女に惚れた。和秀君は故郷に帰らずに小樽に留まると言い出

  し、小生はわが身を省みず帰郷を説得した。

  和秀君はその後、海外協力資金に入り、私が韓国旅行をした時、

  ソウルで再会して大歓迎を受けた。嬉しかった。


3. 学徒動員で留萌の援農、大樹の陣地構築、小泉製作所等々で殆ど学
 
   究生活が出来なかったので、五寮の同室の本間寿一君と相談し、もう
 
   一年勉強しようと、共に一年休学した。そのため同期入学の諸君とは

   一年遅れて昭和二十三年の卒業となっている。私たちの他にも、こん

   な状態では高商を出ましたとはいえないと、更に一年を緑丘で過ごした

   仲間が何人も居た。                    (山本金平)


『北海道の中で小樽は降雪の比較的多いところである。

四月というのに、街全体が残雪にすっぽり覆われていた。初めて寮

に入った頃ストーブの消えた寒い夜は、布団の中にもぐってやっと本

の頁をめくる始末で、翌朝、目を覚ますと掛布団の襟が吐く息で真っ

白に凍っていることもあった。その正気寮(三寮)で以来三年間を過

ごすことになった。

この街に桜の花が咲くのは五月の半ばで、長い冬から解放され、せ

きを切ったように一斉に花の季節がやってくる。春休みに東京で最初

の花見をすませ、小樽への途中函館、そして小樽でも・・・、少なく

とも一年に三回花見が出来たのも小樽の生活の楽しみだった。

終戦後の食糧難の頃は寮生も随分苦労をした。そのような時でも部

屋に集まって故郷の方言丸出しでの「デスカッション」には熱をあげ

たものである。

  戦争のため学生の徴兵猶予が撤廃された翌年の昭和十九年春入学し、

勤労動員、軍入隊、終戦、復学と続いた緑丘時代であったが、この街

と四季と寮生活を最も大事にした青春であり、それを今でも大切にし

ている』                    (規矩英一)



そして今、私にとって緑丘は・・

『そして今、私にとって緑丘は― 戦中と戦後の「疾風怒涛」の中に

あった私の不安定な青春の寄港地だった。

 私は卒業式にも出ず上京してしまったから、何となく領収書をもら

いそびれて、うまく精算できなかったような気がしている。額面と中

身の一致しなかった三年間。

     雪解水われより早く駆け下る

               卒業近き地獄坂かな

     門出でて振りかえらざりきこの丘に

        
 心残りのなしといわなくに
 

 雪の地獄坂はゴム長靴でなければ歩けない。冬の間、私たちは長靴

を放せなかった。


     長靴も今は脱ぐべし雪消えて

              地獄坂道乾くとき来ぬ
  

 同期生たちは、軽くなった足取りで坂を下り、それぞれの道へ散っ

て行った。


 それから数十年後、私は母の納骨のために札幌へ帰った機会に、妻を

伴って小樽へ行き、緑ヶ丘へ登った。塔のあったアンチックな木造校

舎はもう消えていた。友の多くも消息がわからない。

    年ふれど消えざりにけり思い出は

  かの丘に立つ塔のまぼろし  

 そして丘を下り、運河のほとりを歩いた。

 かってポンポン蒸気がハシケを曳いて勢いよく行き交っていた運河

は、今は観光の地に変わっていた。あの頃の現役だった運河よ。そし

て現役の高商生だった私たち。

    また還る夏あらめやも小樽運河

              妻には告げん若き日の夢  

    ほろびゆく運河の岸に立ち思う

              運命はかくの如くひそけき  

    鈴懸のさやぐを聞けばひたさびし

              友ら巷に老いつつあらむ
        

                                    (小笠原基生)