営興頌徳碑

山門の横に十五代住職 樫原恵澄の徳を称える石碑あり。ここにも願興寺歴史の一部が記載あります。

また古くから度々火災に会い、古記録・什宝等が失われていることは、大変残念です。

 記録から確認できるだけでも、宝蔵院古歴記また下記文書でも

■平康2年(1059年)3月焼失し、翌年再興とあり、

■文禄年間に(1592〜1595年)の直前に兵火

■文久元年(1861年)に火災、近くは

■昭和37年(1962年)2月22日深夜

そのなかで昭和四十二年と、まだ新しい記録ではありますが、願興寺歴史の一端を垣間見ることができます。

 

 

想うに夫れ当山は聖武天皇の御宇天平年間に而して今より千二百年前の建立也。その後幾度か兵火等の難に係り頽廃の極みに際し,文禄年間に(1592〜1595年)に秀譽法印山麓を画張して境内とし,ここに移転をなす。その旧寺跡を開拓し田畑とす。

その後,寺禄九十石を有し,二棟の倉庫有りと古老の口碑に残れり。其の後復た文久元年(1861)又火災の難に係り財産及び記録什器一切消失せしと云う。この寺跡より出土せる屋根瓦の破片紋様確かに奈良時代の建物と考古学者の鑑定する所也。

尚又,寺跡の田畑より昔山門でありし柱下の大なる自然石が地底より発見す。今其の侭に地底へ埋め有り。

昔光明皇后様が人民の病苦を哀れまれ医薬の乏しきを忍びず各所に施薬院また悲田院等を設け,薬湯蒸風呂などを造り薬を施すなどして国民の為に療養せしめたり。

当山またその悲願に漏れず療養所とならん。今に当山の寺号を施薬山悲田院願興寺と称するは是れこの故にならんや。

                                昭和四十年二月五日願興寺不動産処分に付き集会 出席者一同より中村善平氏に一任す

               出席者 中村善平、中村松太郎、八木正幸、多田辰次、林与平次、寒川緑、白井正幸、寒川寅吉、樫原謙澄

 

        漢字は原文に則し、カタカナは読みやすいようにひらかなに変更、文章の区切りは句頭点を加えた。年号も追記した。

                                   平成20年7月吉日  17代住職 樫原典澄記。