アーシュラ・K・ル=グウィン

アーシュラ・K・ル=グウィンさん(アーシュラ・クローバー・ル・グィン、アーシュラ・K・ル=グイン等と表記されることもあり)は、1929年カリフォルニア州バークレーに生まれました。文化人類学者の父、作家の母を持ち、数多くのSF、ファンタジー作品を発表されています。「SF界の女王」とも呼ばれ、ヒューゴー賞、ネビュラ賞等を受賞されています。

アーシュラ・K・ル=グウィンさんの代表作のひとつ、「ゲド戦記」は、重厚なテーマ、明確な世界観、大魔法使いゲドの青年期から晩年にいたるまでの 武勲 ( いさおし ) が魅力の、全6巻からなる長編ファンタジーです。1巻から3巻までは、続けて発表されました。しかし、4巻が出るまでに18年、5巻、外伝が発刊されるまでに11年と、ずいぶん年月がたっています。4巻には「ゲド戦記最後の書」という副題までついていますが、5巻と外伝が出たのは、ファンとしては喜ばしいことでした。「ゲド戦記」シリーズは、管理人MORIが最も好きな児童書の1つです。

「山椒のこつぶっこ」トップ読書ノート*外国児童文学>アーシュラ・K・ル=グウィンUrsula K Le Guin


     

影との戦い ゲド戦記1

あらすじにそって書いています。ネタばれをかくしていませんので、ご注意ください。

絵:ルース・ロビンス 訳:清水真砂子 1976年 高学年から

A Wizard of Earthsea 1968

「影との戦い」は、ゲドの少年期から青年期にかけての物語です。

ゲドは、生まれながら、すぐれた魔法使いとしての素質を持っていました。12歳にして、ゴント島をカルガド帝国の侵攻から守る活躍をしました。まじない師のおばや風の司から教わった、わずかばかりのまじないで、カルガドの兵士を撃退したのです。

しかし、ゲドは、魔法について、正式の教育を受けたわけではなく、高度な魔法や、真の魔法使いとしての心得を知りませんでした。

ゴントの魔法使いオジオンは、ゲドを見こみ、弟子にしました。若いゲドは、「より多くの、より高度な魔法を習得したい」という思いを抱いていました。しかし、オジオンは寡黙(かもく) な人でした。めったに魔法を使おうとせず、ゲドにも、「生きるということは、じっと辛抱することだ」(p32)と言って、なかなか教えてくれません。

オジオンはゲドの中に、ゲドの偉大な力と、高慢な心、(よこしま) なものに挑発されやすい危うさを見て取ったのでしょう。

オジオンの危惧(きぐ) は、現実のものとなります。ゲドは、魔女の娘にそそのかされ、「知恵の書」の死霊を呼び出す呪文を読み、影をまねいてしまいました。ゲドの実力以上の危険な魔法を使ったのです。

オジオンは、影をはらい、「力には危険がつきものだ…わしらが言うこと為すこと、それは必ずや、正か邪か、いずれの結果を生まずにおかん」(p41)と言います。オジオンは、ゲドの押さえがたい向上心と、危うさを知った上で、適切な教育をほどこそうとします。彼は、自分の弟子としてゴントで修行を積むか、魔法学校があるローク島に行くか、ゲドに選択を迫ったのでした。

ゲドは、オジオンを唯一の師としながらも、オジオンの元をはなれ、魔法の学校があるローク島におもむきます。

ロークの大賢人、九賢人たちは、ゲドに、魔法だけでなく、魔法使いとしての心得をも教えました。手わざの長は、ゲドをいましめました。「…魔法使いのしわざは、その宇宙の 均衡(きんこう) をゆるがすことにもなるんじゃ。危険なことじゃ。恐ろしいことじゃ。わしらはまず何事もよく知らねばならん。…(略)…あかりをともすことは、闇を生みだすことにもなるんでな」(p72)と言って。

名付けの長は、「(まこと)の名」の重要性について、ゲドに語ります。人や生きもの、物などに魔法をかける場合、真の名を知っていなければならないのです。逆に言うと、自分の真の名を魔法使いに知られることは、自分の命をにぎられたことと同じなのです。ゲドという真の名も、信頼できる数人にのみ明かし、ふだんはハイタカと名のっていました。

ゲドは、魔法の勉強に打ちこみます。彼は、かなりの自信家で、それにともなう実力も持っています。しかし、なぜかヒスイをライバル視し、憎んでいます。ゲドをあざけるようなヒスイの慇懃無礼(いんぎんぶれい)な態度、ゲドにはない洗練された物腰、すぐれた魔法の力などが、ゲドの対抗意識をあおったのです。

ゲドは、憎しみと高慢な気持ちから、死者を呼び出すという、危険で強力な魔法を使いました。この魔法は、オジオンや、ローク島の賢人たちが、魔法を使う上で大切にしてきた「宇宙の均衡」をくずすものでした。

ゲドは、自分の力を過信するあまり、魔法の危険性には気づいていませんでした。ゲドは、死の世界から、死者とともに影までも呼び出したのです。オジオンや賢人たちが、常々ゲドに忠告していたことが、ゲドの心に、とどいていなかったのです。

その時から、ゲドは、影から、つけねらわれることになります。影は、ゲドをむさぼり食らい、ゲドを思いのままにあやつり、災いをなそうとしています。大賢人ジェンシャーは、ゲドに言います。「そなたはそのものを呼び出す力を持っていた。そのために、そのものも、また、そなたの上に力を及ぼすことが可能になったのだ。そなたとそのものとは、もはや、離れはせぬ。それは、そなたの投げるそなた自身の無知と 傲慢(ごうまん) の影なのだ。影に名前があったかな」と。(p106)

影の真の名がわかれば、影に打ち勝つ方法もさぐれるはずです。しかし、大賢人ジェンシャーは、影には名前がないと言うのです。

自信に満ち、尊大で、優秀な生徒であったゲドですが、自分のおろかさに気づき、自らまねいた影が将来どのような悪事をなすかを知りました。これまでのように、自分と未来とを信じて生きることができなくなったのです。

ゲドのつらさをいやしたのは、小さな生きものオタク(ヘグ)と、親友カラスノエンドウでした。カラスノエンドウは、ゲドに自分の真の名がエスタリオルだと明かしたのです。それは、ゆるぎない信頼のあかしでした。

やがて、ゲドはローク島を出ます。

影は、はじめのうち、はっきりとした形を持っていませんでした。しかし、ゲドが影をおそれ、影から逃げているうちに、次第に明確な形を表していきます。ついに人をのっとり、人の形をしてゲドの前に現れました。影は、ゲドの名前を知っていて、ゲドの魔法を封じこめたのです。

影から逃れることも、たおすこともできないゲドに、ペンダーの竜や、「ものいう石」テレノンの手下になったセレットは、「影の名前を教えよう」と持ちかけます。竜もセレットも、影に名前があるかのように話します。影の名は、ゲドが最も知りたかったことでした。しかし、この誘惑に屈すれば、ゲドは、影の名前を知る代わりに、別の邪悪なものに自分を売りわたすことになります。自分自身を竜やテレノンの石にゆだね、支配されて生きることになるのです。影を制するのは、 (やみ) の力ではなく光だ、ということを、ゲドは知っていました。

ゲドは、テレノン宮殿からハヤブサに姿を変えて逃れ、オジオンのもとへ飛んでいきました。オジオンは、体も心もハヤブサとなったゲドを、人間の姿にもどします。姿を変える魔法を使っているうちに、もとの人間にもどれなくなることもあったのです。魔法は、万能の術ですが、ひとつ間違えると、魔法使いをも破滅(はめつ) させる諸刃(もろは) の剣なのです。

オジオンは、ゲドに、影のことを語ります。「名を持たぬものはなかろうに」(p194)、影と「向きなおるのじゃ」(p195)と。影から逃げていたゲドですが、オジオンの教えを受け、影を狩ることを決めました。

「影との戦い」の物語中、オジオンが登場する場面はわずかです。しかし、オジオンの存在と言葉は、ゲドにとって重みのあるものです。迷うゲドに、オジオンは指針を与えるのです。ゲドが、オジオンこそ師と認める気持ちもよくわかります。

ゲドと影とは、追う者、追われる者の立場が入れかわりました。ゲドは、エスタリオルとともに、影を追って、海のはてまで航海します。影を狩ることは、ゲドが必ず果たさなければならない課題でした。

かつてゲドが、影に背を向けていたころ、影の力は強力なものでした。ゲドが、影に向きなおると、影の力は弱まりました。影をしっかり見すえることによって、ゲドは、影の真の名を知ったのです。

大賢人ジェンシャーが「影に名前があったかな」と言ったのも、オジオンが「名を持たぬものはなかろうに」と言ったのも、どちらも真実だと思います。影を自分の一部だと自覚できないうちは、影は明確な形を持たなかったり、他人の姿をかりてあらわれたりしました。しかし、ゲドが、影と向きなおることを決め、「おれとそいつとは互いに離れられんようになっているんだ」(p239)と気づいたころ、影は、ゲドにとりつくことはできても、他の人にはとりつけなくなっていました。影は、次第にゲド自身に似たものになっていきました。

ゲドが影の名前を知ること、それは、ゲドが自分自身を知ることでした。影は、ゲドの分身でもあったのです。ゲドは、受け入れがたかった己の一面である影を受け入れ、自分の名で呼ぶことによって、全き人格となったのです。  05.4.2

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こわれた腕環 ゲド戦記2

訳:清水真砂子 絵:ゲイル・ギャラティ、ルース・ロビンス 岩波書店 1977年高学年から

THE TOMBS OF ATUAN 1970

本書は、「喰らわれし者」アルハとして生きた少女テナーが、自分と、自分の人生をとりもどし、新たな一歩を踏み出すまでの物語です。

アルハ(テナー)は、アチュアンの墓所の大巫女の生まれ変わりとされていました。6歳になったとき、テナーという名前も、家族や故郷も、自由な生き方をも捨て、「喰らわれし者」という意味のアルハとして、墓所で生きることになったのです。

アルハが信じ、守っていたのは、地下迷宮と、そこに棲む名もなき闇のものたちでした。

光をきらう闇のものたちは、名を持たず、生け贄を求め、仕える者を喰らいつくしました。このものたちは、1巻で、ゲドが向き合った「影」を思い起こさせます。

名なき者たちと、明かりをともすことすら許されない地下の玄室、玄室から続く入り組んだ迷宮は、象徴的です。人の心の闇の部分のようでもあり、しばられて生きることを余儀なくされた女性性のようでもあり、子の自律をはばむ母性のようでもあります。

アルハは、自分の信仰の対象の正体すら知らずに、名なき者たちをおそれ、主と呼んで敬い、隷属していました。アルハの信仰心は、大巫女としてのプライドでもありました。

アルハの信仰心と対をなすのが、ペンセやコシルの考え方です。アルハと同じ年頃のペンセは、巫女でありながら、無信仰者でした。闇をおそれはするものの、神を信じてはいなかったのです。

アチュアンの墓所がある聖地には、大王の神殿もありました。名なき者の神殿と対照的な、世俗の王が権力を誇示し、自ら神を名乗るための神殿でした。コシルは、大王の神殿の巫女でした。権力の後ろ盾を持つ、冷酷なコシルは、アルハが仕える名なき者より、大王に価値を置いていました。アルハを亡き者にし、アチュアンの墓所を封じることさえ、何のいたみも覚えずやってのけるであろう女性でした。

闇にとらわれて生きるアルハが、自己と自由をとりもどし、迷宮につながれる鎖を断ち切るきっかけとなったのは、ゲドの登場でした。

成人となったゲドは、人格が磨かれ、魔法に熟達していました。ゲドは、失われたエレス・アクベの半分の腕環をさがしに、迷宮に入りこんだのでした。

ゲドは、アルハに、「テナー」という名で呼びかけました。大魔法使いであるゲドは、真の名を探り当てることができました。それは、魔法の力によるものだけではなく、ゲドが、ものごとや人格の本質を見抜く洞察力を持っていたからでしょう。

ゲドは、名なき者の正体を解き明かしていきます。ペンセに影響されて、「名なき者がいないのでは」と不安になったアルハに、名なき者は存在するが、信仰の対象に値しない邪なものであることを教えました。それから、コシルが、心を闇に喰われてしまっていることも。

アチュアンの墓所に隠された腕環の半分と、ゲドが持つ半分の腕環がひとつになったとき、テナーは自由に向かって歩み出したのです。ひとつになった腕環は、アースシーの平和を約束するものでもありました。

テナーは、自由に伴う責任、新しい人生に対する不安と、罪の意識に押しつぶされそうになります。自由をもたらしたゲドに対し、いったんは殺意すら覚えます。

闇と決別したテナーに、ゲドは言います。「…(略)…わたしは、あんたをハブナーに連れてって、アースシーの貴族たちに言うんだ。『見よ!わたしは闇で光を見つけたぞ。光の精を見つけたぞ。』ってね…(略)…」(p220より引用)

これは、テナーを信頼し、テナーの人格を尊重するゲドの飾らない言葉だったのでしょう。

テナーがゲドによって、自分自身を取り戻したように、ゲドもまた、テナーと出会うことによって、偉業を成し遂げることができたのです。


(追記)アースシーの世界観の確かさと、伏線をたくみにはりめぐらせ、物語をつむぐ、ル=グウィンさんの構成力の見事さには感嘆します。

本書「こわれた腕環」にも、いくつかの伏線がはられています。それは、らせん階段のように、物語が進むにつれ、意味を持ち、進化していきます。

例1 地下迷宮の囚人に、餓死の刑を下すアルハ→囚人を死に追いやったことの痛みから、夢にうなされるアルハ→地下で飢えるゲド→ゲドに飲み物と食べ物をとどけるアルハ

例2 衣しょう室の古びたドレス→ゲドが見せた目くらましの術によるドレス→ハブナーに、エレス・アクベの腕環を持ち帰った後、テナーが着るであろうドレス

例3 囚人を餓死させた後、玄室に埋めるよう命令したアルハ→ゲドを生きながら玄室に埋めたとコシルに報告するアルハ

「こわれた腕環」の物語を構成するいくつかの要素である名なき者、地下迷宮、腕環、ゲドの果たす役割等は、何かを象徴するものと読むことができます。それが何を象徴するのかは、読む人によって異なることでしょう。本書をフェミニズムの物語と読むか、少女テナーの成長物語として読むか、または、ゲドの立場で読むかによっても、象徴するものが変わってくることでしょう。 06.5.22

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さいはての島へ ゲド戦記3

ネタばれありです。

訳:清水真砂子 絵:ゲイル・ギャラティ、ルース・ロビンス 岩波書店 1976年 高学年から

The Farthest Shore 1972

エンラッドの王子アレンが、ローク島の大賢人ゲドを訪れたところから、物語は始まります。エンラッドでは、魔法の力が弱まり、不吉な出来事が頻発していました。アレンは、ゲドに助力を求めてきたのです。

異変は、エンラッドに限ったものではありませんでした。アーキペラゴにおいて、魔法使いが大切にしてきた均衡が失われ、秩序とモラルが崩壊しはじめていました。

ゲドは、異変の原因をつきとめ、処置をほどこすために、旅に出る決意をします。行き先も、目的も定かではない旅でした。この旅にはアレンが同行することになりました。

人々の心と世界はあれすさんでいました。混乱と争いがたえない港町ホート・タウン、ハジアにおぼれる人々、言葉と力をなくした魔法使い、まがい物に等しいローバネリーの絹織物、よそ者と見れば攻撃をしかける民――竜すらも言葉を失いかけていました。

エレス・アクベの腕環がもどったにもかかわらず、アーキペラゴに平和がもたらされないわけ、邪なる者の正体と居場所をゲドはつかみます。

魔法と均衡が失われ、いっこうに平和が訪れないのは、統治者である王が不在であること、王不在のすきまを突くようにして、邪なるものが動き出したことが原因でした。邪なるものは、己の欲望のままに禁じられた忌むべき魔法を使い、民を惑わしていました。

物語全編を通し、クモと、クモの巣が、比喩表現として書かれています。執拗に繰り返されるこの比喩の不吉さは、見えざる敵を暗示しているかのようです。

邪なるものは、かつてクモと呼ばれ、死者を呼び出す魔法を使っていた、今は亡くなっている魔法使いでした。

ゲドはアレンとともに、クモを追い、さいはての島へと向かいました。この世とあの世との境目である石垣(ゲド戦記1でも出てきました)を越え、死の世界までも旅します。死者の町を通り過ぎ、クモがひそむ死の世界の底へと行き着きました。

クモは自分自身のことを、生と死の世界を行き来することができる扉を開け、生きている者も死者も自由に操る力を持った王だと信じていました。しかし、クモが抱え込んでいたのは虚無でした。クモは、全てを――己の死さえも否定したがために、真の名も、自分の生と死も、自己をも失い、心も身体も、実体をともなわない虚ろな影にすぎませんでした。

ゲドはクモの虚栄をはぎとります。そして、クモの過ちにケリをつけ、均衡と平和をもたらすために、生と死の間を行き来できる闇の扉を閉めたのでした。この旅で、ゲドが果たすべき仕事をなし終えたのです。

ゲドは、この旅の主体者は、アレンであることを知っていました。旅を遂行すべき者は、ゲド自身でなく、アレンだったのです。扉を閉めたのはゲドの魔法ですが、その後のアーキペラゴの平和をになうのはアレンでした。アレンは何としてでも、死の国から生還しなくてはならなかったのです。暗黒の地を生きて通過し、真昼の岸辺に到達すること(p35)は、アレンの試練であり、アーキペラゴの王としての証でもありました。アレンを王座にすえたこと、それは、これまでのゲドの武勲におとらない偉業でした。 06.6.3

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帰還 ゲド戦記最後の書

訳:清水真砂子 絵:ゲイル・ギャラティ、ルース・ロビンス 岩波書店 1993年高学年から

Tehanu, The last book of Earthsea 1990

ゲド戦記最後の書(The last book of Earthsea)という副題がついた4巻は、1巻から3巻までのゲドの武勲とは趣が異なります。ゲドの強力な魔法や、華々しい活躍は見られません。逆に、ゲドやテナーが感じた屈辱は、読んでいて痛々しいほどです。

ゲドは、クモが開いた扉を閉じるために、魔法を使い果たしていました。若いころの傲岸なまでの自信も、竜王となり大賢人となった大魔法使いとしての力も、ゲドは全て失っていました。

ゲドは、故郷ゴント島に帰ってきます。

ゴント島には、テナーがいました。テナーは、ひとりの女ゴハとして、平穏な日々を送っていました。ふたりの子どもを育て上げ、夫を亡くした後は、ひとりで農園をきりまわしていました。

もはや若くないゲドとテナーは、それぞれ自分の果たすべき課題を既になし終え、社会的地位や権威、力を失っていました。彼らは、あるがままの一個の人間として、これまでとは違った人生に向かって、歩み出していました。

テナーは、幾度もフェミニズムの問題に直面します。夫に従い、子を守って生きてきたテナーですが、夫を亡くし、子が独立した後は、自分に、女としての価値はないように感じていました。また、養女テルーの教育についても、男のものである魔法をテルーに授け、男の世界の片隅で、まじない師として生きることではなく、他の道をさがそうとしていました。

テルーを育てることは、テナーの人生の転換点でした。

テルーは、身体的にも性的にも、心理的にも、虐待された少女でした。内気で、恐がりで、とつとつと話す子でした。亡きオジオンは、テルーに優れた素質を見いだし、「教えてやってくれ、テナー。あの子になにもかも教えてやってくれ!ロークではだめだ。」と言い残していました。(p41)

男が魔法使いになるために学ぶ真の言葉やさまざまな術は、テルーには不要でした。テルーは、魔法使いのように何かを「なす者」ではなく、竜のように「在る者」でした。テルーには、ほんのわずかな嘘さえ禁物でした。テルーは、真実を知っていました。真の言葉など、学ぶ必要も、探り出す必要もなかったのです。彼女の存在は、キメイばばの話に出てくる竜人を思わせます。(p23)

テルー(テハヌー)は、魔法という男の領域、つまり、既存の価値によるものではなく、自分の力にみあった新しい生き方をすることで、新たな時代を切りひらくキーパーソンとなるべき人物でした。彼女の存在は、世界の変化のきざしのひとつでもあったのです。

一方、魔法を失ったゲドは、魔法使いでもなく、ローク島の大賢人でもない、ひとりの人間として生きていきます。力や地位イコール人格ではありません。そういった人格に付属したものを全て捨て、素の人間となって初めて、テナーを愛したのでした。

オジオンは、亡くなる際に、「なにもかも変わった!変わったんだよ!テナー!待ってごらん。ここで待ってごらん、あと……」(p43)と、言い残しています。アーキペラゴには新しい王がたち、テハヌーという新しい人が力を発揮しようとしていました。アースシーは変わりつつありました。 06.6.5

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アースーシーの風 ゲド戦記5

訳:清水真砂子 絵:ディビット・ワイヤット 岩波書店 2003年 高学年から

THE OTHER WIND 2001

ゲド戦記4巻「帰還」が「ゲド戦記最後の書」という副題が付けられていたにもかかわらず、11年後、5巻が発刊されました。ゲド戦記5巻では、4巻で暗示されたことがらについて説明がなされ、人々の価値観をくつがえすほどのアースーシーの変化がより明らかになっています。1巻から3巻までの物語に比べ、異質な印象を受けた4巻も、5巻でしめくくられることによってアースシーの物語としてすっきり収まった感じがします。

愛する妻を亡くしたハンノキが、死者と、死後の世界の夢にうなされることが物語の発端となります。死者たちは、ハンノキに救いを求めていました。死者のなかには、この世とあの世をへだてる石垣をくずそうとする者もいました。それは、3巻「さいはての島へ」で、ゲドが見た死者たちとは異なる姿でした。3巻で登場したのは、何の感情ももたず、何ら生みだすものもなく、生前愛した者さえ忘れ、うつろに歩きまわるだけの死者だったのです。

秩序と均衡が守られてきたアーキペラゴは、ゆらぎ始めていました。3巻から続く不安定さは、クモが倒され、生死のさかいの扉が閉められ、王が即位した後も続いていました。依然として大賢人は不在で、竜は人間の領域を侵し、ハンノキは不吉な夢を見ました。これらは、均衡がくずれたことによって、生じた問題でした。

王レバンネンと部下、ローク島の賢人たちは、自分たちとは異なる生死観を持つカルカド帝国の姫セセラク、竜人アイリアンと出会います。

彼女らとの出会いが、均衡がくずれたわけをつきとめ、アーキペラゴの人々が忘れ去っていた、竜と人間との関係を再発見するきっかけとなります。

均衡の崩壊は、禁忌である不死の魔法と関わっていました。

竜と人間とは、もともとはひとつの種族でした。竜は自由を、人間は土地とくびきを選びました。人間と竜は、東に西にすみ分けるようになったのです。しかし、アーキペラゴの人々は、竜のものであったはずの自由を得るために、つまり永遠に生きるために、魔法で「永遠に生きる国=死者の国」をつくったのです。このことが、竜を怒らせ、均衡がくずれる原因となったのです。パルンの知恵の書も、クモやトリオンの過ちも、きっかけにすぎなかったのかもしれません。

死とは、永遠の命とは何なのか、レバンネンやテナー、ハンノキらはさぐっていきます。アーキペラゴの人々は、死後、石垣のむこうで永遠に生き続け、カルカド帝国の人は、生まれ変わることによって永遠に生き続けるという、テナーが感じた生死観の違いのなぞも、竜と人間の関係があかされるにしたがい、解かれていきました。

石垣のむこうの死後の世界は、本当の死ではなく、永遠の命でもない、魔法で切り取られた竜の領域の一部だったのです。死者たちが、ハンノキに求めていたのは、安らかな本当の死でした。それは、石垣をこわすことによって、得られるはずでした。

石垣がなくなったとき、魔法によって生と死をコントロールしていたアースシーの人々は、本当の死をとりもどし、風さえ吹かなかった死後の世界に風が吹きました。

その風にのって、アイリアンとテハヌーは、竜として西へと帰っていきました。テハヌーは、竜と人間をつなぎ、アースシーをあるべき姿へともどす役割を担っていたのかもしれません。

5巻の後半、ゲドはあまり登場しません。しかし、ゲド戦記シリーズが、ゲドの一生(青年期から晩年まで)と時間軸を同じに、アースシーの世界が描かれた物語として読むと、アースシーの生死観が明らかにされた本書は、ゲドにせまった死が、生と同じほど、まったき死となるであろうと思わさせられます。  06.6.25

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