古代の宝箱 松岡古墳群

 二本松山古墳コース(往復約3km)
   
 春日山古墳−乃木山古墳−三峰山城跡−石舟山古墳−鳥越山古墳−二本松山古墳 〉

   松岡公園にある春日山古墳を起点としたコースです。
   お天気の良い日には、最高峰の二本松山古墳(標高273m)から、遥か日本海を望むことができます。

 手繰りヶ城山古墳コース(往復約1km)

   
昭和52年に国指定史蹟になった手繰ヶ城山古墳を見学するコースです。
   比較的おだやかな傾斜で、気軽なハイキングが楽しめます。

注  意

〇熊が出没することがあります。
  グループで会話をしながら、または音の出るもの(携帯ラジオ、鈴など)を準備したほうが安心です。
〇歴史と自然を愛する方々のマナーを信じています。
  ゴミは必ず持ち帰ってください。また、タバコの投げ捨ては絶対にしないで下さい。

 二本松山古墳コース

  松岡町役場から松岡小学校グラウンドと天竜寺の間を通って、松岡公園へと登って行きます。

  坂道が右にカーブした所にあるのが春日山古墳です。

 春日山古墳

   〇 円墳 全長20m
   〇 6世紀後半
   〇 出土品−馬具、玉類、須恵器、土師器、鉄刀、鉄鉾など

   春日山古墳は松岡公園の入り口にあり、南北にのびる
   尾根上の北端に位置します。
   昭和28年、松岡公園の整地中に見つかりました。
   31年に福井県指定史跡に指定された後、平成5年に
   整備されました。


   ドームの脇から下に降りると横穴式石室の
   中に入れます。
   西側の入り口から奥の玄室に続く道は
   「羨道」とよばれます。
   「羨道」と「玄室」とは框石(かまちいし)と
   よばれる石で区別されています。
   玄室は羨道から両方に広がる両袖式の
   石室です。

横穴式石室には笏谷石で作られた横口式
舟形石棺が安置されています。
横口式石棺というのは、石棺の横に窓の
ような入り口が開いているものです。
これは、石棺の蓋を開けなくても中に納め
られるように開けたもので、出雲(島根県)
地方で見られるタイプです。
このことから、春日山古墳に納められた
首長は出雲地方と関わりがあったと考え
られ、当時の日本海沿岸の交流がうかが
えます。

松岡公園に登ると、前方に山へ登る遊歩道
  (階段)が見えます。
  登り口に「松岡古墳群案内」という看板が
  立っています。
  上空から見た松岡の山々がイラストで描かれ
  ていて、古墳見学コースがよくわかります。
  これより上にトイレはありません。
  ご注意ください。  

  この階段を登ったところが乃木山古墳です。

  

 乃木山古墳

   〇 前方後円墳 全長35m
   〇 3世紀中葉
   〇 副葬品−素環頭鉄剣、木製枕
   〇 出土品−高杯、甕、壷など

乃木山古墳は平成3年に発掘調査され、貴重な
古墳であることがわかりました。
ここは、大正4年に大正天皇の御大典をおこない、
乃木大将の銅像を建立した場所です。
そのためこの付近は乃木さん山とよばれていまし
た。

発掘の結果、弥生時代と古墳時代の境目にあたる
時期に造られたことがわかりました。
この頃は全国各地でもっとも古い古墳が出現する
時期です。
3世紀末になると、しっかりした前方後円墳が登場
するのですが、乃木山古墳はその初期的な形態と
考えられます。

発掘調査の結果、乃木山古墳には3ヶ所の埋葬施設が確認されました。
大きい順に第1、第2、第3埋葬施設と名付けました.。
第1埋葬施設は、大きな長方形の穴を掘って木で作った棺を安置しています。
穴の大きさは長軸720cm、短軸450cmと巨大なもので、深さは古墳造成当時で200cmを超えるものでした。
当時の木はほとんど腐ってなくなっていますが、木製の枕だけが残っていました。
これは日本で2例目と大変貴重なものです。
第2埋葬施設からも鉄刀に木の柄が着いたままで出土しました。
これも当時の技術をしるうえで貴重な資料です。

休憩所の脇から遊歩道が奥へ続いています。
  木々の緑や鳥の声を楽しみながら進んでください。
  急な階段が2ヶ所あります。
  登りきった所が三峰山です。

〈 「まつおか越の国伝説 第2章第1巻」(平成14年)より  石棺運び 〉
       天竜寺を出発し、坂道を登って「春日山古墳」へ

 三峰山城

   〇 南北57m 比高差7m
   〇 南北朝時代 14世紀以降

   三峰山付近は自然の急峻な山です。
   これを利用して、今から5〜600年前の戦乱の頃に山城が作られました.。
   今までは三峰山古墳として登録されていましたが、平成8、9年の調査で南北朝時代の山城とわかりました。
   3ヶ所あるいずれの峰からも九頭竜川の両岸を見下ろすことができ、軍事上重要な場所であったことがうかがえます。

山城を過ぎると休憩所があります。
  ここがおよそ中間地点です。
  ここから一旦谷部に下り、また階段を上ります。
  左手は永平寺町で、その向こうに勝山市恐竜博物館の銀色の屋根が見えます。
  階段を上ったところが石舟山古墳です。

 石舟山古墳

   〇 前方後円墳 全長79.5m 後円部直径41.8m
   〇 5世紀後半

   石舟山古墳は、ほぼ南北を向いてつくられており、
   前方部が南、後円部が北側に
   なります。
   説明板を過ぎて上ったところが後円部の中心で、
   その下に石棺が埋まっています。
   石棺は身の部分だけで、蓋はいつの時代かに
   盗掘に遭ってはずされてしまったと思われます。
   
   平成14年に発掘調査をおこないました。
   畿内の前方後円墳と同様、3重の埴輪列がめぐら
   されている事がわかりました。
   特に、すそ部で埴輪列が確認されたのは北陸では
   初めてです

古墳は2段にわたって築かれていました。
一番下のすそ部とテラス部、墳頂部の周りに直径24cmの円筒埴輪や
家形埴輪が整然と並べられていました。
すそに埴輪を並べるのは、政権があった畿内地方の特徴で、埋葬された
大首長が中央との関係が深かったことが裏付けられます。

 鳥越山古墳

   〇 前方後円墳 全長53.7m

   平成13年に発掘調査がおこなわれ、
   舟形石棺と横穴式石室が発見され
   ました。
   くびれ頂部からは、朝顔形円筒埴輪が
   3個体以上集中して出土しました。
   また、後円部の中心では須恵器、土師
   器、石釧、砥石、馬具、鉄製品などが
   出土し、墳丘上での祭祀、儀礼が行わ
   れたことがうかがえます。

舟形石棺

笏谷石製の舟形石棺は、同時に出土した埴輪や須恵器などから、5世紀中頃につくられたと考えられます。
縄掛け突起が、短側辺に1個づつ、長側辺に2個づつ相対的に付いています。
縄掛け突起を含まない大きさは、長さ290cm、幅125cm。
縄掛け突起は直径30〜38cm、長さ40〜50cmの大きさです。
蓋の屋根は寄棟形で、表面全体に鑿痕が残っています。

平成13年12月10日、奈良文化財研究所と松岡町教育委員会が合同で、石棺蓋の破壊孔よりファイバー
スコープを差し入れて石棺内部を調査しました。
その結果、身の内部は朱に塗られており、ほぼ完全な形の人骨や多数の刀、石製品、大陸からの渡来品
らしい銀装の鉄製品などが確認されました。

副葬品や石棺の形態から、被葬者は当時大陸や朝鮮半島と交流を持った北陸地方の大首長の可能性が
高いと見られます。
石棺内部の保存状態が良好なため、衣服の繊維なども残っている可能性もあり、この結果を今後の調査や
保存計画にどう生かしていくかが課題となります。

横穴式石室

横穴式石室は前方後円墳の主軸に沿って作られ、後円部中心より
約5m東南に移動した所に石室の中心があります。
幅約2m、奥行き6m、高さ2mで、福井市の足羽山産の笏谷石の
石板で壁や天井を築き、その周りを付近の山石で囲ってあります。

入り口の天井石がないのが特徴で、これは北部九州に多く見られる
様式です。
石室上から見つかった供献土器から、5世紀末に作られたと推定され
ます。
石室内には木棺が納められていたとみられています。

横穴式石室は、松岡古墳群でも6世紀末の春日山古墳など多くに
見られますが、5世紀代のものは、当時、支配政権と密接な関係に
あった若狭地方には見られるものの嶺北以北では初めての発見です。

 二本松山古墳

   〇 前方後円墳 全長90m
   〇 5世紀後葉


  二本松山古墳は標高273mで、この二本松山丘陵の最高峰になります。
  北東、南西を向く前方後円墳で、北側が後円部です。
  江戸時代から明治時代にかけて中心の石棺が3回掘られています。

  石棺は2つあり、見つかった順に1号石棺、2号石棺とよんでいます。
  1号石棺は今から300年ほど前の江戸時代の享保年間に盗掘されました.
  盗掘した人達は病気や事故で子孫が絶えてしまったというような伝説が残っています。
  この1号棺は明治13年に再び開けられました.が、盗掘のため出土物はなかったようです。
  
  2号石棺は明治39年に見つかりました.
  中からは金銅冠、銀銅冠、鏡、鎧、冑、刀、玉などたくさんの遺物が出土しました。
  これらは東京国立博物館に展示されています。
  特に銀銅冠は韓国の高霊にある池山洞古墳から出土したものと共通し、当時の交流がうかがえる貴重な資料です。

二本松山古墳から西北西方向を望みます。
遠くに日本海を望み、眺望が大変すばらしい
場所です。
足元を流れる九頭竜川は日本海に流れ、
遥か朝鮮半島や大陸との交流に大きな役割を
果たしていたと考えられています。

古墳を築いた当時も同じように吹いていたで
あろう風を感じながら、しばし古代ロマンに浸れ
ます。
大陸から来た人たちが、どんなふうにこの古墳
を眺めたのか、築造当時の姿を海側から見て
みたいものです。

 手繰ヶ城山古墳コース

 
 国道416号線を福井方面から永平寺・勝山方面に向かいます。
  手繰ヶ城山古墳への案内板が立っている場所を右に入ります。
  えちぜん鉄道の高架をくぐって、第1駐車場のトイレの後ろを左に入って
  石ころ道を登ります。
  大型車は第1駐車場に止めてください。
  普通車は上の第2駐車場まで行けます。
  第2駐車場の前から、手繰ヶ城山古墳への遊歩道へと入って行きます。

手繰ヶ城山古墳

   〇 前方後円墳 全長129m
   〇 4世紀中葉

  手繰ヶ城山古墳は北東、南西方向に古墳の中心線が向いています。
  丸岡町の六呂瀬山古墳に次いで北陸で2番目の大きさです。
  埴輪から4世紀中葉に造られたとされ、越の国を治めた最初の大首長の古墳と考えられます。
  昭和46年に福井大学の考古学研究会によって発見され、52年に国指定史跡になりました。
  永平寺町と松岡町の境界にあって、松岡町側は伐採され、前方後円墳が浮き出るように見えて古墳の学習には最適です。

  古墳全体には河原石と山石とを混ぜて葺石が施されてあります。
  すそ、中段、頂上と3重に埴輪が並んでいたと想像されています。
  中段のところには段築とよばれる幅2mくらいの平坦な面が作られ、古墳を大きく見せる工夫をとっています。
  古墳の頂上からは福井平野、坂井平野が一望でき、すばらしい景色を眺める事ができます。

 その他の古墳

 泰遠寺山古墳

  〇 帆立貝形古墳(推定) 全長64m
  〇 5世紀中葉


  泰遠寺山古墳は、古くからその存在が知られていました。
  古墳が造られた当時は100mの高さがあったと思われますが、大正3年に開通した越前電鉄の工事と昭和12年の
  北陸電力松岡変電所開設工事の2度にわたって土が削られ、山は完全になくなってしまいました。
  大正9年の県史跡報告書の中で、石棺が発見された後埋め戻された記述があることから、越前電鉄工事の際には
  石棺が顔を出し数々の副葬品が見つかったと思われます。
  銅鏡2面、玉類、勾玉5個、管玉8個、棗玉2個、蜻蛉玉2個、丸玉9個、小玉448個が現在残っています。


半円方体神獣鏡
  鏡の背面に神獣が描かれ、その周りを半円と方形の文様がつけられています。
  8個の方形内に、この鏡は身分の高い人が持つ物である、という意味の「宣天王公候伯子男」の8文字が刻まれて
  います。
  またその外区には「青盖」という中国の官営工場でつくられたという句で始まり、西晋(265〜317年)が天下を統一
  したという句で終わる文が記されています。
  これは日本で出土した物の中で西晋で作られたとわかる唯一の物です。
  また蜻蛉玉も日本で最古のものです。

 稲荷山古墳

   前方後円墳であったといわれていますが実態は不明です。
   5世紀中葉頃につくられたと考えられています。
   泰遠寺山古墳同様、住宅地になり元の形はなくなっています。

 吉野八幡神社古墳

  〇 円墳 全長約25m
  〇 5世紀前葉


  平成2年、神社の建て替えを機に発掘調査が行われました。
  神社があった小高い丘の頂上と裾を調査した結果、裾からは埴輪の破片がたくさん出土しました。
  東側の階段のある場所からは、粘土に包まれた舞い能施設が見つかり、中には鉄刀8口、鉄鏃9本の武器類と、
  さらに埋葬するために特別に作られたと思われるミニチュアの農工具で鉄鍬3本、鉄鎌3本、刀子2本、ヤリガンナ
  3本、鑿2本が入れられ、棺の上に鉄鉾1本がのせられていました。
  このような舞納施設をもつ古墳は県内で2例目です。

 南春日山墳墓群

  南春日山墳墓群は、平成6年の発掘調査の結果4つの墳墓で構成されることがわかりました。

  墳墓というのは、古墳時代の前の弥生時代につくられた墓です。
  弥生時代の墓は古墳とよばず墳墓とよんで、古墳時代の墓と区別しています。

  南から1号墓、2号墓・・・と並んでいます。
  1号墓は全長40mの大型の墳墓で、四隅突出形墳丘墓という特殊な形をしています。
  この形の墳墓は山陰地方を中心にみられるもので、北陸へ影響されたものと考えられています。
  この南春日山1号墓は弥生時代のものとして、北陸最大の規模です。

  発掘調査後は埋め戻されて元の公園になりました。

 桧ノ木坂古墳群
  〇 第1号〜6号墳
  〇 4〜5世紀


昭和46年に福井大学考古学研究会の分布調査によって発見され、平成10、11年に5号墳が発掘調査され
ました。
桧ノ木坂古墳群は1号〜6号の6基の円・方墳によって構成されています。
5号墳は3基の埋葬施設からなり、西側の埋葬施設を第1埋葬施設、東寄りのものを第2埋葬施設、中央に
あるものを第3埋葬施設とつけられました。
第1埋葬施設からは鉄剣2口、第2埋葬施設からは鉄刀1口、第3埋葬施設からは鉄剣1口が出土し、円墳
墳頂の第2埋葬施設を囲むように、円筒埴輪と家形埴輪の破片が出土しました。
家形埴輪は本来2個供えられていたと考えられます。
円墳から出土したのは県内2例目で、被葬者の威厳がうかがわれます。

 遺 跡

 葵 遺 跡

  昭和62年(1987年)秋に発掘調査されました。
  現在の葵1、2丁目を中心に広がる大規模な集落遺跡です。

  掘立柱建物(高床倉庫)跡10棟が発見されました。
  そのうち4棟には、布堀と呼ばれる柱をつなぐ基礎が作られていました。
  倉庫が群としてまとまって作られ、その倉庫を管理した豪族が近くに家を構えていたことが想像できます。
  出土した土器から、西暦300〜350年頃のものと考えられています。
  ちょうど手繰ヶ城山古墳が造り始められた頃です。

  遺跡は、九頭竜川の河岸段丘上に乗り、標高33〜34mで洪水に遭わない絶好の場所であったと思われます。
  葵遺跡はその1300年後に松岡藩主の館が造られた場所でもあります。

 室 遺 跡

  平成2年に北地区の区画整理事業の工事を機に発掘調査されました。
  遺跡は九頭竜川の低位段丘の先端で標高21mに立地しています。

  弥生時代後期から古墳時代初頭にかけての集落の遺跡です。
  この遺跡の第一の特徴は、環濠を持った集落であるということです。
  佐賀県で発見された吉野ヶ里遺跡も、同じ環濠を持つ集落です。
  この頃の日本列島は中国の書物の「魏志倭人伝」によると、邪馬台国をはじめ30余国に分立し、内乱状態で
  あったとされています。
  いわゆる「倭国大乱」の時期で、全国の主要な所にいっせいに防御的な環濠集落というものがつくられます。

  環濠集落は、敵の侵入を防ぐための断面がV字形の濠が集落を囲むようにめぐるのが特徴です。
  濠の幅は5.25m、深さは2.15mで、容易には渡ることが出来ないように造ってありました。
  環濠のほかには竪穴住居跡が12軒発見され、掘立柱建物とよばれる高床の倉庫が3軒ありました。



さがしてみよう 吉野地区
あるいてみよう 松岡地区
みつけてみよう 御陵地区
散策top

石舟山古墳から見た北方向の展望です。
見晴らしが良く、心地よい風が吹いています。

石舟山古墳から鳥越山古墳へ続く階段です。
遊歩道で3つあるうちの一番最後の階段です。

鳥越山古墳を中心にしたこのあたりが、木々に囲まれて
森林浴を楽しみながらハイキングできる一番の場所だと
思います。

ここを登ったところが鳥越山古墳です。

鳥越山古墳から二本松山古墳へ向かう右手に、
お地蔵様が二体あります。
永平寺町諏訪間から登ってくると、ちょうどこの
お地蔵様の前に出ます。
昔の山越えの道だったのでしょうか。

写真左は後円部、右は前方部です。
撮影したこの日(H16.8.6)は草刈予定日の前で、私の肩くらいまで伸びた草が一面生い茂っていました。

写真、奥が泰遠寺山古墳から出土した石棺の身の部分。
手前が猪谷から出た石棺の蓋の部分だと伝えられています。
春日山古墳に置かれています。

福井県吉田郡松岡町は
平成18年2月13日より
「永平寺町」になりました