戦国時代絵巻
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明智光秀
生没年 1528?〜1582.6.15
名前 十兵衛、惟任
官位 日向守
 明智城城主明智光安の甥で清和源氏の流れの土岐氏の分流、明智氏の一族だといわれてきた。が近年、この説の根拠であった資料の信憑性が著しく低下し、刀鍛冶の次男坊だ、という説まで現れる。この男が資料にくっきりと現れてくるのは、足利義昭を織田信長に引き合わせた、というところから。それ以後、織田家臣と足利義昭側近として2足の草鞋をはきつづけ、朝倉征伐、姉川の戦いに従軍、比叡山焼き討ちにも参加する。その功あって織田家中で最初の城主として坂本城を任される。しかし、織田信長と足利義昭の分裂には苦悩、結局織田方に味方し、丹波攻略を任される。丹波攻略中にも、石山本願寺攻めなどに合力しに行ったりして活躍。丹波攻略後には、民政に手腕を振るい、大和国の検地(差出検地)をしたりもしている。1582年、信長と一緒の甲州遠征のあと、徳川家康接待を任せられるも中国攻略・羽柴秀吉の援軍に行くことになった為途中で外される。6月2日、織田信長宿泊中の本能寺を突如襲い、織田家に対し謀反、織田信長・信忠父子を殺す。その後、頼みとしていた、細川氏・筒井氏などの組下大名の応援はほとんど得られず。信長下の軍団制度では先にも謀反した荒木村重に組下大名の中川清秀・高山右近が同調しなかった例がある。安土城を占領するなど畿内一帯の制圧をはじめるも、急を聞き駆けつけてきた羽柴秀吉に山崎の戦いにて敗れ敗走中に京都小栗栖にて土民の槍に刺され死亡、といわれている。
 謀反の理由は定かでなく、古くは酒の席で信長に暴行されたとか波多野氏降伏の際に人質として差し出した母親を殺された等の恨みから謀叛に及んだという「怨恨説」、最近では黒幕の存在があった、という「黒幕説」が盛んだ。ただ、旧織田軍と交戦中の大名に書状を送ったのは「変」のあと。堺にいる徳川家康へ刺客を放ったもの「変」後である。信長を討つ事しか考えていないとしか思えない行動だが、これは何か逆上でもしていたのだろうか? 別に怨恨があったわけではないだろう。天下への野望がある者としては杜撰すぎはしないだろうか? 何か、突発性のあるもののような気がするのである。それまで信長を好意的に捉えてきたものが、何かをきっかけとして否定し、憎むポイントとなった、という読みである。そのきっかけが信長の怒声か、黒幕かは今のところは「分からない」謎のままである。しかし、信長との人間的相違は確かだったようである。

浅井長政
生没年 1545〜1573
名前 浅井賢政→浅井長政
官位 -
 南近江の六角氏に服従していた・父浅井久政時代、息子である長政はその時、六角義賢の偏諱を受け賢政と名乗っていた。しかし、六角家家臣の娘を嫁に押し付けてきた時にこの若き賢政の怒りが爆発、父・久政を強制隠居させ自立への第一歩を踏み出した。この時、賢政改め長政16歳。野良田の戦いにて六角軍に辛勝すると、その自立は確立される。そんな長政に目をつけたのは信長。妹のお市を嫁がせ、徳川家康と並ぶ織田家の両翼にしようとする。しかし、織田信長が越前朝倉攻めを実行に移した事から長政の命運は変わった。この時信長は、親朝倉派の父・浅井久政を長政が押さえて静観してくれるだろう、と読んだ。しかし、長政は結果、信長を裏切り朝倉軍と挟撃しようとした。されどそこは逃げっぷりなら天下一の織田信長軍、単身京都まで自分が先頭になって逃げた。ここで、朝倉義景自身が出馬していて、なおかつ信長が途中で退却戦を挑んでいたらどうなったか分からない。しかし信長は逃げに逃げた。「負けた」よりも「逃げた」を選んだというべきか。
 怒りで身が震える信長は姉川にて決戦を挑む。「姉川の合戦」では、織田軍の備えを破りに破る奮闘を見せる。しかし、織田の友軍徳川軍の奮戦か、浅井の友軍朝倉軍の気合の無さか、織田・徳川連合軍がこの合戦に勝利する。しかし、浅井にはまだ堅城小谷城がある。そこで、信長は木下藤吉郎を横山城につけて小谷城を三年に渡って監視させた。結果、小谷城は陥落するのだが、陥落までには十分織田方を苦しませた。「信長包囲網」の一員としての義務は果たしたとも言える。
 しかしその義務を果たした事で長政の死後信長は、浅井父子・朝倉義景の頭蓋骨を薄濃にし、これを肴に酒宴を張った。長政の奮闘は信長をここまで怒らしめた、と言えるか。

朝倉孝景
生没年 1493〜1546
名前 朝倉敏景
官位 -
 悩みの種だった加賀一向一揆への積極的応対、若狭への進出、そして、城下町一乗谷を「東の小京都」と言わしめるまで発展させた(ちなみに、「西の小京都」は山口)。将軍・足利義稙からは御供衆に列せられている。つまり、将軍に直臣として認められたのである。朝倉家の全盛時代を築き上げた。

朝倉義景
生没年 ?〜1538.10.7
名前 -
官位 -
 名門朝倉家の五代目当主。和歌に造詣が深く、城下町一乗谷は北の小京都であった。
 しかし、その富強ぶりと名門ぶりでせっかく足利義昭が頼ってきても起とうとはしなかった。確かに、朝倉家単体では三好・松永へ勝てる見込みは少ないとはいえ、結果織田に義昭を逃がす事となる。その次に、将軍をつれて上洛した事により力が一気にアップした織田から上洛を命じられても上洛しなかった事に「将軍への不忠」として信長から討伐を受ける。しかしこの時も「戦に出なければならないのか」と大名出陣を渋りに渋り、結局出陣したものの理由をつけて一乗谷に勝手に帰る。この時は浅井の裏切りで事無きを得たが、その浅井の裏切りに怒れる覇王の浅井攻撃によって起こった姉川の合戦にも自分は出陣せず。結果、朝倉軍が徳川軍よりも兵数では勝っていたにもかかわらず浅井軍の足を引っ張るかたちで敗北。それでも義景には起死回生のチャンスがまた巡ってきた。武田信玄上洛により、武田軍と朝倉軍で信長を挟撃しようという作戦。しかし、江北から信長が退いた時点でなぜか一乗谷に帰ってしまう。その理由には臆病のためとか雪が心配になったとか、信玄への嫉妬だとかの説があるが、臆病がっている段でも雪を心配している段でも嫉妬している段でももうなかった。これには信玄も大激怒。その怒りが自らの寿命を縮めたのであろうか、信玄は上洛の途で死去。その結果、息を吹き返した信長に電光石火の攻撃を受ける事となり、最後は一族の朝倉義鏡に裏切られ自害。
 完全に難攻不落の谷である一乗谷が義景から戦う気力を骨抜きにしたかどうか、だとすれば、小京都とはいえ罪な場所である。

足利義明
生没年 ?〜1538.10.7
名前 -
官位 -
 古河公方足利政氏の次男。もともとはなぜか、陸奥の国を漂泊していたらしい。それを、上総の武将・武田恕鑑がこれを保護。小弓城主・原胤隆を打ち破り、足利義明を城主に据えて、小弓御所としたのである。しかし、義明は権力を手にした途端横暴となり、武田恕鑑を殺害、恕鑑の嫡子・信隆が北条氏綱に支援を求めた。しかし、この武田一族に内乱が発生し、武田信隆の異母弟信応が信隆に反目、親の仇・足利義明と手を結んだ。足利義明は信隆が拠る峰上城を北条方から鞍替えした里見義堯とともに攻めた。北条からの援軍むなしく峰上城は落城。信隆は金沢(現横浜市金沢区)まで逃げる。
 これに対し北条氏綱は、1538(天文七)年10月に、足利・里見連合軍と下総国・国府台にて戦った。里見義堯は勝てる布陣を敷いていた。しかし、足利義明が血気に逸り、前線に出過ぎたため北条の軍に討ち取られ、大将がいなくなった連合軍はあっという間に散ってしまい、里見義堯は安房に敗走を余儀なくされた。この国府台では、後年も北条と里見の間に戦が起こったため、この1538年の戦いを第1次国府台の戦いを称している。

足利義昭
生没年 1537〜1597
名前 覚慶→足利義秋→足利義昭
官位 -
 足利義晴の次男として生まれる。当時の習慣として、寺に入り安穏の生活を送っていた。しかし、その生活がぶっ飛ぶ日が来る。兄である室町幕府第13代将軍足利義輝が松永久秀に唆された三好三人衆に殺害されてしまったのである。幕臣細川藤孝の働きで命辛々難を逃れ、還俗し、室町幕府再興を心に誓う。若狭・越前と転々とするが、期待の朝倉義景はまったく覇気が無かった人間であったので織田信長を明智光秀の仲介で頼る。信長との対面の時、「2,3ヶ月で京に戻れましょう」という言葉に歓喜し、信長はそれを実践。室町幕府再興はなった。しかし、浮遊時代についた文通相手収集癖は治らず、諸国の大名へ将軍としての自覚の下「御内書」と言う名のお手紙を出しまくる。織田信長はこれに驚き、2度に渡る計23条の意見書を出す。これが元か、信長と不仲になり、その影響はお手紙に出る。その為に成功してしまったのが、「反信長同盟」こと信長包囲網。しかし、朝倉義景のやる気の無さに頼りの武田信玄の急死。武田信玄上洛後の発言権を強めようと挙兵してみるものの電光石火の信長には勝てず降伏。一度は朝廷のとりなしで許されるが、懲りない足利義昭は再度挙兵。これには信長も許してはくれず、京を追放され、室町幕府はここに滅びたのである。
 追放後は結局、毛利氏のお世話になるが、そこでもお手紙を多発。そんなある日、かつての腹心明智光秀が信長に謀反、信長が死んだという狂喜な知らせ。羽柴秀吉との対陣中の毛利に義昭は期待したが、毛利と羽柴は講和。羽柴秀吉は明智光秀を討ち取り、それ以降「室町幕府云々」と言う人間は誰一人いなくなる。秀吉を養子にして征夷大将軍にしてくれ、という願いは一蹴したが、結局は秀吉の庇護の下生涯を終える。棺桶を作る職人も集まらなかったこの死、義昭にとっては寺にいた方が良かったのであろうか。

足利義輝
生没年 1536〜1565
名前 義藤→足利義輝
官位 -
 足利義晴の長男として生まれる。幼い頃から京都の政争に巻き込まれ、近江などへの逃避を余儀なくされる。父が死ぬと室町幕府の第13代将軍となるが、その実力はなきに等しかった。権力がないのなら・・・と始めたかどうかは知らないが、剣術の方は凄まじい腕だった。塚原卜伝の教えを請い、上泉信綱に新陰流の剣術披露をさせたりと武将の心得ではないところまで行っていた。政治権力の方も三好長慶の死後は特に力を出し始める。それまでにも、上杉謙信や織田信長を単身上洛させて謁見したりしているが、この時の力の出しようはそれまでの比ではなかった。その手始めとして三好家家老・松永久秀を京より追放しようとするが、何よりも嗅覚がいい松永弾正、その動きを察知して三好三人衆を唆し将軍を京二条城に襲わさせた。この時は逃げれる状況であったにもかかわらず、なぜか義輝は戦う道を選んでいる。将軍としてではなく剣豪としての信念があったのだろうか。とにかく、その日の義輝はこれまた凄まじく、剣を一本一本畳に指し、それを抜いては追っ手を刺し、血のりで切れが悪くなると、その剣を捨てて畳から剣を抜き、その剣でまた追っ手を斬り・・・という事を続けてのけたのだから、寄せ手としては堪らない。最期には畳で数人掛かりで押さえつけて殺すしか術がなかったのだから凄まじすぎる。鎌倉・室町・江戸幕府の全将軍のうち、このように戦って死んだというのは先にも後にも義輝ただ一人であった。思う存分剣技をもって全身全霊の力を込めて力の限り戦い、二条城からは煙が上がった。彼自身が望む死であったかどうか、これもまた今となっては知る由もない。

足利義晴
生没年 1511〜1550
名前 -
官位 -
父の足利義澄が大内義興に京を追われたために近江の国で誕生する。その後、室町幕府第12代将軍となるも、今度は三好長慶に自身が京を追われ、そのまま近江で死去。


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