皇位継承問題にまつわるエトセトラ(5)



このテキストは秋篠宮妃殿下の御懐妊報道の前(2006年1月29日)に公開されました。
2007年1月6日、ネパール及びブータンの情勢に関し補足説明を加えました。





奈津嬉「先生、そういえば……」
醍醐ソウジ「どうした?」
奈津嬉『女系天皇誕生=王朝交代』という説があるのですが、これは取り上げなくても良いのですか?」
醍醐ソウジ【ぽむっ】「おおっ、確かにそうだな。では、今からはその話に入りたい……ところだが、予備知識として世界各国の王位継承ルールを確認する必要があるだろう」
レキリス・キャソル「これに関しましては、有識者会議御提供のデータと、国立国会図書館に所蔵されております山田邦夫様御作成の資料『諸外国の王位継承制度−各国の憲法規定を中心に−』を御覧下さい。これら2つの資料と作者が独自に集めました資料を突き合せましたのが、以下の表でございます」

東アジア・東南アジア・南アジア
国名継承方式現行方式の導入年導入前の継承方式
カンボジア ※男系男子国王のみ可合議2004年-
タイ ※原則男子国王のみ可国王の指名1974年男子のみ、直系末子優先
ネパール ※男系男子国王のみ可国王の指名-
日本男系男子天皇のみ可長子優先1889年女性天皇可・天皇の指名?
ブータン ※ルール作成中不明--
ブルネイ男系男子国王のみ可--
マレーシア ※地方の世襲君主間の互選1963年-
※カンボジアの場合、新しい国王の選任は、首相・上院議長・仏教主要宗派の大管長2名など9名から構成される王国王位継承評議会によって行われる。

※タイの場合、正規の王位継承権者がゼロになった場合に限り、枢密院による提案→内閣による提案→議会の議決を経て、女性国王が即位することが可能になっている。

※2006年1月当時のネパールでは、国王に自らの子孫の王位継承に関する法律を制定・修正・廃止する権限が与えられていた。ただし、2006年5月18日に出された下院宣告によって、王位継承ルールの改定権は議会が握る形で制度が変更されている

※ブータンではジグメ・シンゲ・ワンチュク国王(2006年12月14日に譲位)の指揮の元、憲法制定に向けた作業が進められていた。2005年に公開された憲法草案では、王位は「女性国王可・兄弟内男子優先」というルールによって継承されることになっている。

※マレーシアには9人のスルタン(世襲君主)が存在し、彼らの中から互選によって国王が選ばれる。任期は5年で、実質的にはスルタン9人の輪番制として運用されている。

西アジア・サヘル以北のアフリカ
国名継承方式現行方式の導入年導入前の継承方式
アラブ首長国連邦 ※地方の世襲君主間の互選1971年-
オマーン男系男子国王のみ可--
カタール男系男子首長のみ可直系優先?--
クウェート ※男系男子首長のみ可国民議会の承認1962年-
サウジアラビア ※男系男子国王のみ可合議--
バーレーン男系男子国王のみ可長子優先--
モロッコ ※男系男子国王のみ可原則長子優先--
ヨルダン男系男子国王のみ可長子優先--
※アラブ首長国連邦には7人の首長が存在する。この7人の首長によって構成される連邦最高評議会の中から、互選によって大統領が選ばれる。ただし、現在はアブダビ首長を兼ねるナヒヤーン家が大統領職を事実上世襲(男系男子のみ可?)している。

※クウェートの場合、皇太子は首長による指名→国民議会による忠誠の誓い(=承認)というプロセスを経て選出される。国民議会の承認が得られない場合には首長からの退位を余儀無くされるのである。2006年1月にはジャビル・アハマド・サバハ首長の崩御に伴いサアド・アブドラ・サレム・サバハ皇太子が首長に即位したものの、健康不安説が広がったことから国民とサバハ一族の信頼を失い、即位後1ヶ月足らずで国民議会の議決により退位させられた。

※サウジアラビアの場合、初代国王の子孫に対してのみ王位継承権が与えられる。また、王位の継承に際しては、王室評議会と呼ばれるサウド家の長老らによって構成される合議体による協議が行われ、その議決に基づいて王位が継承される。ただし、現在は初代国王の息子達が兄弟内で長子優先のルールに従って王位を継承している。

※モロッコの場合、国王が長男以外の男子を王位継承権者に指名することができる。

サヘル以南のアフリカ
国名継承方式現行方式の導入年導入前の継承方式
スワジランド男系男子国王のみ可--
レソト男系男子国王のみ可--

ヨーロッパ
国名継承方式現行方式の導入年導入前の継承方式
イギリス女性可・女系国王可(双系)兄弟内男子優先1701年-
オランダ女性可・女系国王可(双系)長子優先1983年男子優先
スウェーデン女性可・女系国王可(双系)長子優先1979年男子のみ
スペイン女性可・女系国王可(双系)兄弟内男子優先1978年-
デンマーク女性可・女系国王可(双系)兄弟内男子優先1953年男子のみ
ノルウェー女性可・女系国王可(双系)長子優先1990年男子のみ
ベルギー女性可・女系国王可(双系)長子優先1991年男子のみ
モナコ ※女性可・女系大公可(双系)兄弟内男子優先2002年男系男子のみ
リヒテンシュタイン男系男子公のみ可長子優先--
ルクセンブルク女性可・女系大公可(双系)男子優先1907年男系男子のみ
※2002年の憲法改正以前においては、モナコは男系男子にモナコ大公位を継承させていた。また、現在大公位が自動的に継承されるのは大公の直系血族に限られており、大公の直系血族によって大公位を継承できなかった場合には、Regency Council(摂政評議会?)の助言に基づいて、Crown Council(君主位評議会?)が傍系血族の中から次の大公を選ぶことになっている。

オセアニア
国名継承方式現行方式の導入年導入前の継承方式
トンガ女系国王可(双系)男子優先1875年?-
サモア男系男子国王のみ可--

レキリス・キャソル「全体としては、以下のような認識でよろしいかと思われます」

仏教圏諸国 …… 男系男子国王のみ可能とする国が多数(例外:ブータン)
イスラム教圏諸国 …… 男系男子国王のみ可能とする国が大多数(?)、有力者による合議を経る場合が多い
キリスト教圏諸国 …… 男系・女系の双方を認める国が過半数、大多数の国が女性国王を容認(例外:リヒテンシュタイン)
その他の宗教圏諸国 …… 国によってまちまち

アークス・アルクスト「確実に分かっている範囲ですと、アジアでは男系男子国王のみを可とする国が多数に上っていますね。ただ、イスラム教圏と仏教圏に偏っているため、注意は必要でしょうが……」
醍醐ソウジ「女系国王を認める国はキリスト教圏に多いな。あと、太平洋に浮かぶ島国では、女性国王を認める国と女性国王を認めない国が入り混じっている。アメリカに吸収合併されたハワイ王国も女性国王が存在したしな」
神凪羽常「こうやって見ますと、女系国王・女性国王を認めない国が数の上では若干多めと認められますね。日本の皇位継承ルールの変更も、他の国々には結構大きな影響を与えるかもしれませんよね」


醍醐ソウジ「では、今から王位継承と王朝交代の話に入っていくのだが、ここで1つ注意をする必要がある」
奈津嬉「何ですか〜?」
醍醐ソウジ「今から説明する話では、いくつか実際に発生した王朝交代の例を挙げていくことになるのだが、どの国で発生した出来事であるのかということを常に念頭に入れてもらいたい。これが無いと、後で混乱の元となるからな」
奈津嬉「はーい」

レキリス・キャソル「では、1例目と致しましてイギリスでの王朝交代を御説明致しましょう。口頭で説明致しますと非常に長くなりますので、こちらの資料に整理致しました」

【ウェセックス王国】【サクソン人王朝】

 ウェセックスのアルフレッド大王がグレートブリテン島南部をほぼ統一、イングランド王国の基盤を築く。

【サクソン人王朝】【ノルマン朝】 …… 女系血縁者が武力で王位を奪取

 1066年、エドワード懺悔王の死後、トスティ・ゴドウィンソン(エドワード懺悔王の血縁者)、ハロルド・ゴドウィンソン(トスティの弟)、ノルマンディー公ギヨーム2世がイングランド王位を主張する。ギヨーム2世はアルフレッド大王の子孫であるフランドル伯ボドワン5世の娘マティルダと結婚しており、イングランド王家と縁戚であったため、王位継承権を主張することができたのである。
 その後、ハロルド・ゴドウィンソンがイングランド国王への即位を宣言しハロルド2世となる。これを不服としたトスティがノルウェー王国の支援を受け挙兵。これを見たギヨーム2世もまた王位継承権を主張してイングランドへの派兵を決行。1066年9月25日、ハロルド2世軍とトスティ軍(+ノルウェー軍)がイングランド東部のスタンフォード・ブリッジで衝突。この戦いでトスティが戦死し、ハロルド2世が大勝利を収める。だが、ハロルド2世がイングランド東部に向かっていた隙を突く形で、ギヨーム2世がイングランドへの上陸作戦を敢行。ハロルド2世は直ちに南へと引き返した。
 そして1066年10月14日、ハロルド2世軍とギヨーム2世軍がイングランド最南部のヘースティングスで激突する。この戦いでハロルド2世が戦死し、サクソン人王によるイングランド統治が終焉を迎えた。
 1066年12月15日、ギヨーム2世がウェストミンスター寺院で戴冠式を挙行、ウィリアム1世としてイングランド国王に即位する。このウィリアム1世によるイングランド征服行は、後世ノルマン・コンクエストと呼ばれている。

【ノルマン朝】【プランタジネット朝】 …… 女系血縁者が別の女系血縁者を養子として迎え入れる

 1135年12月1日、ノルマン朝3代目の王だったヘンリー1世が崩御。この時、ヘンリー1世は王位継承権者として娘のマティルダとその夫だったアンジュー伯ジョフロワ4世を指名する。ところが、ウィリアム1世の娘アデラとブロワ伯エティエンヌの子であるブロワ伯スティーブンが、マティルダに対する王位継承を「サリカ法典に違反し無効である」と非難。家臣と共にロンドンに入り、ロンドン市民と大司教の支持を受けてイングランド国王に即位したのである。こうしてアンジュー伯家とブロワ伯家との間で内戦が勃発。この内戦は約18年間続けられ、イギリス国内は“Anarchy”と呼ばれる混乱状態に陥った。
 この後、1153年にスティーブン王がイングランド国王であることを確認し、アンジュー伯ジョフロワ4世の息子アンリがスティーブンの養子となることで講和が成立。1154年10月25日にスティーブンが死去したことに伴い、養子だったアンリがヘンリー2世としてイングランド国王に即位した。

【プランタジネット朝】【ランカスター朝】 …… 反乱により男系の従兄弟が王位を奪取

 プランタジネット朝最後の王であったリチャード2世の王宮では、父方の実の叔父であったランカスター公ジョン・オブ・ゴードンの発言力が強く、ランカスター公自身もイングランド王位に野心を抱いていたと言われている。そのため、リチャード2世はランカスター公爵家の力を殺ぐ必要性を感じており、1399年にジョン・オブ・ゴードンが死去した直後、その嫡子であるヘンリー・ボリングブログに対しランカスター公爵家の領地没収とパリへの追放を命じた。
 ヘンリーはこの命令を受けて一時パリへと移るが、直ちに軍を組織してイングランドへ反撃を仕掛ける。リチャード2世には失政が多かったため、各地の有力諸侯はヘンリー・ボリングブログの反乱に同調した。そして、ヘンリーは1399年8月にリチャード2世を逮捕、ロンドン塔へ幽閉することに成功する。
 その後、1399年9月30日に開催された議会によってリチャード2世の廃位とヘンリーのイングランド国王への即位が可決され、ヘンリー・ボリングブログはヘンリー4世としてイングランド国王の座に就いた。

【ランカスター朝】【ヨーク朝】 …… 反乱により8親等離れた親戚が王位を奪取
【ヨーク朝】【テューダー朝】 …… 反乱により10親等離れた親戚が王位を奪取

 ランカスター朝最後の国王であったヘンリー6世は若い頃から精神を患っており、また第1次英仏百年戦争に敗北し、父王ヘンリー5世が獲得したフランス内の広大な領土をほぼ全て奪われるという大失態を演じていた。そのため、彼の王としての権威は完全に失墜していた状態にあった。このことによって、プランタジネット家の男系支流であったヨーク家当主リチャードは、「ランカスター朝成立時と同じように、自分もまた王位を奪取できるのではないか」との思いを抱くようになったのである。また、リチャードの父親はヘンリー5世によって処刑されていたため、ヨーク公リチャードがランカスター家に対して憎悪の念を抱いてた可能性もある。
 そして、1455年5月22日セント・オールバーンズでランカスター派とヨーク派の武力衝突が発生。以降イングランド国内では、白薔薇を紋章とするヨーク家と赤薔薇を紋章とするランカスター家による内戦──通称ばら戦争が約30年間に渡って続けられる。
 1461年には、ヨーク公リチャードの長男エドワードがヘンリー6世から王位を奪い、エドワード4世としてイングランド国王に即位、ヨーク朝を開く。だが、その後も国内ではしばらく混乱が続き、エドワード4世による王権が安定するのは、ヘンリー6世とランカスター派に対する大規模な粛清が行われた1471年以降のことであった。
 エドワード4世によって安定期を迎えたはずのヨーク家の王権は、エドワード4世死去後に即位した幼王エドワード5世が、議会とエドワード4世の弟・グロスター公リチャードの手によって廃位されたことにより再び動揺する。グロスター公リチャードはリチャード3世としてイングランド国王に即位するが、国内では反乱が相次いで発生する。そして1485年8月22日、リチャード3世はランカスター家最後の生き残りであったヘンリー・テューダー率いる反乱軍との戦い(ボズワースの戦い)で戦死し、ヨーク家による王朝は終焉を迎えた。

醍醐ソウジ「白獅子と黒獅子……」【ぼそっ】
神凪羽常【ハリセンを構えて】「先生……何か仰いましたか?」
醍醐ソウジ「い、いや……何でもないれす、はいぃ……」

【テューダー朝】【ステュアート朝】 …… 6親等離れた血縁者が平和裏に王位を継承

 テューダー朝最後の国王となったのは、ドーバー海峡でスペインの無敵艦隊を破り、海洋帝国としてのイングランドの基礎を築いたエリザベス1世。彼女は生涯独身であり子供がいなかったため、後継者として当時のスコットランド国王ジェームズ6世を指名していた。ジェームズ6世はヘンリー7世(=ヘンリー・テューダー)の娘の曾孫であり、ヘンリー7世の血縁者といえる人物だったのである。
 1603年7月25日、エリザベス1世の崩御に伴い、ジェームズ6世はイングランド国王ジェームズ1世として即位する。以後しばらくの間、イングランド国王がスコットランド国王を兼任する時代が続く、

【ステュアート朝】【共和制】 …… 清教徒革命により王制が一時中断
【共和制】【ステュアート朝】 …… 共和制指導者の辞任により王制復活
【ステュアート朝】【ハノーヴァー朝】 …… 7親等離れた血縁者が平和裏に王位を継承

 1649年1月30日に国王チャールズ1世が処刑されたことで王制は一時中断となる。この間、イングランドはオリバー・クロムウェルを指導者とした共和制が敷かれていた。1658年9月3日にオリバー・クロムウェルが病死した後、共和制の指導者・護国卿となったのは彼の息子リチャード・クロムウェルであったが、リチャードは1年足らずで護国卿を辞任。これによって国家元首が不在となる事態が生じたため、イングランドの有力将軍らが、当時オランダに滞在していたチャールズ1世の嫡男チャールズに本国への帰還を要請し、チャールズもこれを受け入れる。こうして、1660年5月29日にチャールズはチャールズ2世として即位、王政復古が実現した。
 だが、チャールズ2世の跡を継いで国王となった弟・ジェームズ2世は筋金入りのカトリックであり、公職からプロテスタントを追放しカトリックを入れる政策を推し進めたことから、議会と国王の対立が再燃する。そして、1688年に議会はチャールズ1世の娘の孫であったネーデルランド連邦共和国統領オラニエ公ウィレム3世と、彼の妻でありジェームズ2世の娘でもあったメアリーに対し、ネーデルランド軍を率いてグレートブリテン島に上陸するよう要請を出す事態に至ったのである。
 イングランド議会の要請を受け入れたウィレム3世は20000の軍勢を率いてイングランドに上陸すると、イングランド国内ではジェームズ2世に対する不服従の動きが急速に拡大し、ジェームズ2世が整備した常備軍も戦わずしてネーデルランド軍に降伏する。そして1688年12月11日、亡命を図ったジェームズ2世が逮捕されることで、史上稀に見る(ほぼ)無血クーデター劇──名誉革命はその幕を下ろした。
 革命後、ジェームズ2世はフランスに亡命した。しかし、彼はイングランド国王への復位を諦めておらず、1690年にはフランスの後援を得てアイルランドを一時占拠するなどの策動を続けていた。また、名誉革命後イングランド国王となったウィレム3世ことウィリアム3世には子供がおらず、ウィリアム3世の次の王位継承権者であった王女アン(ジェームズ2世の娘)にも後嗣がいなかった。そのため、アン王女の死亡後、フランスに亡命しているジェームズ2世に王位継承権が移動してしまうという事態が生じたのである。
 「イングランドから追放したはずのカトリックの国王が“合法的に”イングランド国王の座に舞い戻ってしまう」という問題に対処するため、イングランド議会は対策を協議し、1701年6月12日王位継承法を成立させた。この法律により、将来のイングランド王位は──

  (a) ハノーヴァー選帝侯エルンスト・アウグスト夫人ソフィアの血を継承している。
  (b) イギリス国教会信徒である。
  (c) 配偶者も国教会信徒である。


──という3つの条件を満たした人間に限定されることになり、フランスに亡命したカトリック教徒・ジェームズ2世の血筋をイングランド王室から排除することに成功したのである。
 ソフィアはジェームズ1世の孫娘であるため、血縁面から見た正当性に大きな問題は無かった。そして、1714年5月1日に女王アンが死去すると、王位継承法の規定に従い、ソフィアとエルンスト・アウグストの長男であったゲオルグ・ルートヴィヒジョージ1世としてイングランド国王に即位したのである。

【ハノーヴァー朝】【ウィンザー朝】 …… ハノーヴァー朝が名前を変えただけ

 第1次世界大戦中、敵国ドイツの地名ハノーヴァーが王朝名に冠されていることが理由となり、王朝名が変更となった。ハノーヴァー選帝侯エルンスト・アウグストとステュアート朝始祖ジェームズ1世の血は、ウィンザー朝のエリザベス2世まで継承されている。ちなみに、「ウィンザー」という名前は、王室が今も使用する宮殿・ウィンザー城から取られた。

奈津嬉「な、長過ぎます〜」
レキリス・キャソル「それでは、同様にしてフランスの王朝交代の歴史を御覧頂ければと存じます」

【カペー朝】【ヴァロア朝】 …… 4親等離れた男系男子が議決に基づき王位を継承

 1328年2月1日、ユーグ・カペーを始祖とするカペー朝の王族がシャルル4世が男子を残さず死亡したことで断絶。諸侯・高僧による会議の結果、シャルル4世の祖父・フィリップ3世の男系の孫であり、ヴァロア伯として独立した貴族となっていたヴァロア伯フィリップを次のフランス国王とすることが決定された。

【ヴァロア朝】【ブルボン朝】 …… 妹の夫に王位を継承

 16世紀後半、フランス国内ではカトリック教徒とユグノーと呼ばれていたプロテスタントの間でユグノー戦争と呼ばれる内乱が発生していた。この内乱を鎮め新旧双方のキリスト教勢力を和解に導くべく、時のフランス国王だったシャルル9世は、自身の妹であるマルグリットと、新教徒側の中心人物であったブルボン家ナヴァル王アンリとの婚約を結ばせたのである。
 だが、両派の融和を快く思わなかった旧教徒の有力者・ギーズ公アンリは部下の兵に指示を出し、1572年8月24日、パリ市内に集まっていた改革派貴族らを虐殺して回るという事件──いわゆるサン・バルテルミ(聖バーソロミュー)の虐殺を引き起こしたのである。この事件によって実権を失ったシャルル9世は1574年に死去し、その後を旧教徒のアンリ3世が継いだ。
 サン・バルテルミの虐殺以後、フランスでは国王アンリ4世、旧教徒勢力の過激派ギーズ公アンリ、そして新教徒勢力の中心であるブルボン公にしてナヴァル王アンリという『3人のアンリ』が、フランス国内で勢力争いを続ける。
 「三アンリの争い」とも呼ばれた3人による権力抗争は、アンリ3世が1588年12月28日にギーズ公アンリを暗殺し、そのギーズ公を信奉していた修道僧によって1589年8月1日にアンリ3世が暗殺されることで幕を下ろした。この時、アンリ3世にはヴァロア家内に王位継承権者がいなかったため、ヴァロア朝はアンリ3世の死を以って断絶となった。そして、サリカ法典の規定に基づいて、アンリ3世の王位継承権者がブルボン公でありナヴァル王であるアンリと定められていたため、新教徒であるナヴァル王アンリがアンリ4世としてフランス国王に即位した。
 その後、フランス国内で続いていたユグノー戦争は、アンリ4世自らがカトリックに改宗する一方で、1598年4月30日ナントの勅令を公布し、新教徒に対して信仰の自由と旧教徒とほぼ同格の権利を付与したことでようやく終結した。

【ブルボン朝】【第1共和制】 …… 1789年に始まったフランス革命の結果、1792年に王制停止
【第1共和制】【第1帝政】 …… 1804年5月、ナポレオン・ボナパルトがフランス皇帝に即位
【第1帝政】【ブルボン朝】 …… 1814年5月、ナポレオン1世の配流により王制復活

 王朝交代とは関係無いので省略。

【ブルボン朝】【オルレアン朝】 …… フランス7月革命の結果、12親等離れた男系血縁者に王位が移動

 1830年7月22日に始まったフランス7月革命の結果、時のフランス国王・シャルル10世がオーストリアに亡命し、ブルボン朝が断絶する。その後、ブルジョワジーなど中上流階級の推薦を受けて、当時オルレアン公だったルイ・フィリップが国王に即位する。なお、オルレアン家はルイ13世の血筋を引くブルボン家の支流である。
 ルイ・フィリップは立憲君主制の国王としてフランスを統治した。内閣制度を導入し、アヘン戦争で清に対し勝利を収めるなど、彼の政策は一定の成果を挙げたものの、改革の恩恵を受けなかった労働者などの下流階級はルイ・フィリップに対する不満を募らせていった。そして、1848年2月に学生や労働者達による武装蜂起が発生し、ルイ・フィリップはイギリスへの亡命を余儀無くされる。

レキリス・キャソル「以上、大雑把にイギリスとフランスでの王位継承問題と王朝交代の記録を紹介致しました。この資料を御覧になることで、日本での皇位継承問題に関するヒントはいくつか得られるものと思われます」
神凪羽常「例えば?」
レキリス・キャソル「両国の王位継承で1回ずつ問題となったサリカ法典という法律でございます。この法律は元々フランク王国時代に作成された法典でして、今日で言うところの民法典のような法律でございましたそうです。この法律の中に、女性への土地相続を禁止する条項が盛り込まれておりましたため、これが後に爵位などにも拡大して用いられるようになり、後世のヨーロッパ各国において女性国王を阻む為の道具として用いられたのでございます」
奈津嬉「つまり、『女性に土地は相続できないから、当然王権も相続できないはずだ』という話ですか?」
レキリス・キャソル「その通りでございます。ただし、サリカ法典では、男子がいない場合、女子の配偶者や女子の息子を土地の継承権者に指定することが可能でございました。ブロワ伯スティーブン様はこの2つの条文を利用し、以下のような論理でイングランド国王への即位を主張されたのでございます」

「ヘンリー1世は次期国王として娘のマティルダを指名しているが、これはサリカ法典の『女性に対する相続の禁止』に違反しており、マティルダのイングランド国王即位は認められない」
※マティルダの夫であるアンジュー伯ジョフロワ4世が共同統治者に指名されていた事実は完全に無視されています。

「自分はヘンリー1世の妹の息子であるため、サリカ法典の『男子がいない場合、女子の配偶者や息子が相続権を有する』という規則により、王位継承権を保有すると解釈できる」


神凪羽常「うわあ……」
奈津嬉「言い掛かりもいいところですね……」
レキリス・キャソル「このサリカ法典の規則は、フランスやドイツの王位継承では一般的に用いられましたが、イングランドではあまり使われなかったようでございます。この違いが原因で、ヴィクトリア女王陛下の御即位の際に、ちょっとした混乱が生じております」
神凪羽常「何があったのです?」
レキリス・キャソル「ヴィクトリア女王陛下以前のハノーヴァー朝の歴代国王は、1692年にエルンスト・アウグスト陛下によって建国されましたハノーファー王国の王位を兼任致しておりまして、イングランドとハノーファー王国は同君連合の関係にあったのでございます。ところが、ヴィクトリア女王陛下の御即位に伴い、この同君連合が崩れてしまったのでございます。その理由ですが……すぐに御推察頂けると存じます」
神凪羽常「あっ、なるほど……」
アークス・アルクスト「ヴィクトリア1世は女性なので、サリカ法典が適用されるハノーファーの王位継承権を保有していなかったんですね」
レキリス・キャソル「はい、その通りでございます。また、同様の例は1890年まで同君連合を組んでおりましたオランダ王国(ネーデルランド王国)とルクセンブルク大公国でも発生しました。こちらの例ですと、1890年11月23日に当時のオランダ国王・ウィレム3世陛下が崩御されましたが、この方には男子がいらっしゃらなかったため、オランダ王国の次期国王として娘のウィルヘルミナ様が即位なさったのです。ところが、ルクセンブルク大公国は当時男子国王のみを可としていたため、ウィルヘルミナ様がルクセンブルク大公を兼任なさることができず、ウィルヘルミナ様の御即位を以ってオランダとルクセンブルクの同君連合が破綻してしまったのでございます」
醍醐ソウジ「そのルクセンブルク大公国も、1907年には男子がいなくなったことを理由に女性による大公位の継承を認めざるを得なくなったのだから、皮肉としか言いようの無い話だな」
奈津嬉「うーん、ヨーロッパの王室は複雑なんですね……」
レキリス・キャソル「それから、2番目に掲げました『男子がいない場合には女性の配偶者または息子へ土地を継承する』という規則は、アンリ3世からアンリ4世への王位継承をスムーズに行う際にも機能致しました」
アークス・アルクスト「なるほど……」
レキリス・キャソル「さて、このサリカ法典も含めましたヨーロッパの王位継承を考えますと、次の傾向を指摘できるのではないでしょうか」

(a) 男系間での王位継承が行われる場合でも、家の名前が異なっていた場合には王朝変更として扱われる。
  (例:プランタジネット→ランカスター→ヨーク→テューダー、カペー→ヴァロア)

(b) 女系による王位継承が行われる場合でも、王朝変更が発生しない場合がある。
  (例:ヴィクトリア1世→エドワード7世)
  ※異説あり。詳しくは後述。

(c) 女子の配偶者や女子の息子への王位継承が発生しやすい。一因として、サリカ法典の規定が存在すると考えられる。

(d) 女王の登場は「基本的には」近世になってから。フランスでは女王が登場していない。


醍醐ソウジ「サリカ法典の適用地域内だと、『最悪の場合には、王朝交代になっても構わんから、最も近い血縁者の男性に王位を継承させろ』というルールが働いていたと考えるべきなのかな?」
レキリス・キャソル「そうかもしれませぬ。一般論と致しまして、近世以前の国王・皇帝は軍の最高指揮官を兼任することが多かったものでございますから、女性が王位に登り辛かったことも決して不思議ではございませぬ」
奈津嬉「ところで、(b)の『異説』って何ですか〜?」
レキリス・キャソル「これは識者の方によって見解が分かれる箇所でございますが、『ヴィクトリア女王陛下からエドワード7世陛下への王位継承が行われた際に王朝交代が行われた』という異説が存在するのでございます」
アークス・アルクスト「どういうことなんですか?」
レキリス・キャソル「ヴィクトリア女王陛下の旦那様は、サクス・コバーグ・ゴータ家から参りましたザクセン・コーブルク・ゴータ公アルバート様でございました。この御夫妻の子供してお生まれになり、後にヴィクトリア女王陛下の次のイギリス国王となられましたのがエドワード7世陛下でございます。そして、一部の学者からは、このエドワード7世陛下から新王朝がスタートしたとの御意見が出されているわけでございます。ちなみに、この新王朝の名前は『ハノーヴァー=サクス・コバーグ・ゴータ朝』となります。実は、この異説の存在は王朝交代を巡る論議で大きな意味を持つのですが、お分かりでございましょうか?」
神凪羽常「うーん……」
アークス・アルクスト「あ、なるほど……そういうことですか……」
神凪羽常「どういうことなんですか?」
アークス・アルクスト「イギリスの王朝交代では、『家が変わったら王朝名も変わる』という規則の例外が無くなってしまうんですよ」
神凪羽常「あっ……」
醍醐ソウジ「女系天皇反対派にとっては有利な材料だな」
奈津嬉「なるほど〜」
神凪羽常「で、でも、女性国王の子供に王位が移動しても、王朝交代とならなかった例はあるんでしょう?」
レキリス・キャソルオランダがこの例に該当するかと思われます。ナポレオン戦争後に王国となりましたオラニエ=ナッサウ家による王制が成立致しましたオランダですが、第4代国王のウィルヘルミナ女王陛下以降、3代に渡って女王が続いております。現在のオランダ国王はベアトリクス様でして、この方も女性でいらっしゃいます」
醍醐ソウジ「3代続けて女性というのはなかなか珍しいな。何があったのだ?」
レキリス・キャソルオランダは建国当時から、直系優先・男子優先という条件をつけた上で、女子への王位継承を認めていました。その上、第3代国王・ウィレム3世陛下の時代では後嗣となるはずの男子が夭折したため、ウィレム3世陛下の崩御時にはウィルヘルミナ様しか後嗣が残されておらず、ウィルヘルミナ女王陛下と第5代国王・ユリアナ女王陛下には女性のお子様しかお生まれにならないという特殊な条件も重なりました」
奈津嬉「つまり、女性しかいなかったから女王が続いたというわけですね〜」
レキリス・キャソル「その通りでございます」
奈津嬉「だとしたら、途中で男性の方と結婚した時点で王朝交代が発生しているはずじゃないんですか〜?」
レキリス・キャソル「ところが違うのでございます。ベアトリクス女王陛下の呼称を含めたフルネームを御確認頂きたいのですが……」


(Her Majesty,)Beatrix Wilhelmina Armgard van Oranje-Nassau

または

(Her Majesty,) Beatrix Wilhelmina Armgard of Orange-Nassau the House of Orange-Nassau


アークス・アルクストベアトリクス・ウィルヘルミナ・アルムハルト・ファン・オラニエ=ナッサウ(陛下)…………って、あれ? 名前に『オラニエ=ナッサウ』って入ってますね」
奈津嬉「ということは……」
神凪羽常男系から女系への切り替えが発生したのに、王朝名はそのままってことですか?」
レキリス・キャソル「はい」
奈津嬉「うーん……」
神凪羽常「オランダの例は女系天皇容認派にとって有利な材料にはなりそうですが……」
アークス・アルクスト「同じヨーロッパでも、国によって全然違いますね……」

レキリス・キャソル「では、他国における王位継承と王朝交代をもう少し概観して参りましょう。まずはモスクワ大公国の場合でございます」

【リューリク朝】【ゴドゥノフ朝】 …… 聖職者主催の全国会議によって先王の義兄を選出
【ゴドゥノフ朝】【偽ドミトリー】 …… 武力で旧政権を打倒
【偽ドミトリー】【シュイスキー朝】 …… クーデターで偽ドミトリーを殺害後、全国会議によって選出
【シュイスキー朝】【ポーランド王国統治下】
【ポーランド王国統治下】【ロマノフ朝】 …… ポーランドからの解放後、全国会議によって選出

 スウェーデンのバイキング・リューリクの血を引くリューリク朝モスクワ大公国であったが、雷帝イヴァン4世の後を継いだフョードル1世が1598年1月7日に後嗣を残さず没したため、モスクワ大公国はツァーリの後継者となる人物がゼロとなる非常事態を迎えた。この事態に対し、モスクワ総主教が全国会議を開催し、この全国会議によってフョードル1世の義兄であった有力貴族ボリス・ゴドゥノフがツァーリに選出されたのである。
 だが、1603年に隣国ポーランドが、「フョードル1世の弟で1591年に癲癇で病死したはずの王子ドミトリーが存命している」と発表し事態は急変する。偽ドミトリーがポーランド王国の暗黙の了解を得た上でロシア人などから構成される私兵部隊を組織、ボリス・ゴドゥノフ率いるモスクワ大公国軍に戦争を仕掛けたのである。この偽ドミトリーとの戦いの中で、ボリス・ゴドゥノフは1605年4月13日に病死した。ゴドゥノフ朝はボリスの息子・フョードル2世が継承したものの、彼は偽ドミトリーに破れ殺害される。
 こうしてモスクワへの入城を果たし、ツァーリにも任じられ、モスクワ大公国の乗っ取りに一時は成功した偽ドミトリーだったが、急激な親ポーランド政策など内政面での失策を重ね、その結果1606年5月15日に発生した反ポーランド派のクーデターによって暗殺された。偽ドミトリーの死後に開催された全国会議によってツァーリとなったのは、偽ドミトリーを葬った反ポーランド派クーデターの首謀者であったヴァシーリー・シュイスキーであった。彼には人望が無かったため大公国内の各地で宣誓拒否や反乱が続発し、一時は偽ドミトリー2世を名乗る人物も出現する。シュイスキーはこれらの反乱をスウェーデン軍の助力を得ながらも一旦は撃破するが、この大公国内の混乱に付け込む形でポーランド王国軍がモスクワ大公国への侵攻を開始。1610年にはポーランド軍と偽ドミトリー2世軍の連合軍がモスクワを占領してしまったのである。ヴァシーリー・シュイスキーはこの混乱の中でツァーリの座を追われている。
 モスクワ大公国を巡る騒乱は、モスクワ大公国内で組織された国民軍がポーランド軍を1612年に撃退し、ポーランド軍の撤退を実現させたことでようやく収束に向かう。その後に開催された全国会議の結果によって、イヴァン4世の最初の后の血縁者であり、当時まだ14歳という少年であったミハイル・ロマノフを次のツァーリとして選出。1613年7月11日にミハイル・ロマノフは戴冠式を挙行して正式にロシアのツァーリとなったのである。

アークス・アルクスト「王朝交代の記録……というよりも、モスクワ大公国とポーランド王国の戦争の記録と呼んだほうがいいかもしれないですね」
レキリス・キャソル「しかし、正当な王位継承権者がいなくなった場合には、そのことが理由で亡国の淵に立たされるほどの危機を迎えることも十分に有り得ることを示す例としては、なかなか良いものでございましょう?」
醍醐ソウジ「偽ドミトリーを名乗る人物が2回出てきたのだが、これはどういうことなのだ?」
レキリス・キャソル「本物のドミトリー様は1591年に癲癇にて亡くなられたのですが、当時の民衆や貴族の方々はこれを信じておらず、一般には『ドミトリー様はボリス・ゴドゥノフに暗殺された』『いや、実はドミトリー様は生き残っていらっしゃるのではないか』という俗説がまことしやかに囁かれていたのでございます。この風説を最大限利用し、東に接する大国・モスクワ大公国の力を殺ごうとしていたのが、当時のポーランド王国であったという次第です」
神凪羽常「ポーランドも昔は結構強かったんですね……」

レキリス・キャソル「続きましては、中国での王朝交代でございます。ただし、中国の王朝交代は回数が多いことと、異民族による征服によって王朝が交代する例が存在することもありまして、説明がなかなか難しいものでございます。そこで、ヨーロッパの例の代わりと致しまして、主要な王朝交代における旧王朝の最終皇帝と新王朝の初代皇帝の血縁の差を御紹介致したいと思います」

旧王朝・旧政権新王朝・新政権(初代国家元首名)血縁関係親等差
夏(禹)
殷(子履/天乙)
周(姫昌)
秦(エイ政) ※
西漢(劉邦) ※
西漢新(王莽)祖父の妻の甥(5親等)
東漢(劉秀)叔母の夫の血縁者(15親等)
西漢東漢(劉秀) ※同一宗家14親等
東漢魏(曹丕)妻の兄弟(2親等) ※
蜀(劉備)同一宗家?27親等? ※
呉(孫権)
西晋(司馬炎)
西晋東晋(司馬睿)叔父の曾孫5親等
五胡十六国 ※
南朝
東晋宋(劉裕)
斉(蕭道成)
梁(蕭衍)同一宗家
陳(陳覇先)
北朝
五胡十六国魏/北魏(拓跋珪)
魏/北魏東魏(元善見)従兄弟の息子?5親等
西魏(元宝炬)従妹の夫(従兄弟)?4親等
東魏北斉(高洋)
西魏北周(宇文覚)
再統一後
北周隋(楊堅)父の妻の父(2親等)
唐(李淵)祖父(楊堅)の妻の姉の男子(5親等)
武周(武照/武則天)1親等
武周唐(李顯)七男1親等
五代十国(中央政権のみ列挙)
後梁(朱全忠)
後梁後唐(李存勗)
後唐後晋(石敬糖) ※娘の夫(1親等)
後晋後漢(劉知遠)
後漢後周(郭威)
後周北宋(趙匡胤)
再々統一後
後周北宋(趙匡胤)
北宋南宋(趙構)2親等
金(完顔旻/阿骨打)
モンゴル帝国 ※
(テムジン/チンギス・ハーン)
南宋
モンゴル帝国/元明(朱元璋)
後金→清(愛新覚羅 努爾哈斉)
帝政停止後
中華民国(袁世凱)
中華民国中華人民共和国(毛沢東)
中華民国/台湾(蒋介石) ※
※秦の建国者は中国を統一した始皇帝のものを用いている。

※西漢は「前漢」、東漢は「後漢」と呼ばれることもある。「西」「東」の区別は首都の所在地(東漢成立時に首都を長安から洛陽に移している)に基づいている。

※東漢の最終皇帝と魏の初代皇帝の血縁差は、魏の初代皇帝を曹操(武帝)ではなく曹丕(文帝)と見なした場合のもの。

※『三国志演義』では、蜀の建国者である劉備は西漢の景帝から14代下った劉王室の末裔となっているのだが、正史では系図が断絶しており、本当に血を引いていたのかどうかは疑問が残る。

※五胡十六国内部での権力闘争については省略する。

※梁の初代皇帝・蕭衍は斉の皇室と同一の宗家に属している。

※後晋創始者の名前は、正しくは「石敬[王唐]」と書く。

※南宋滅亡時、モンゴル帝国は緩やかな国家連合体に再編されており、南宋を直接滅ぼしたのはクビライ・カーン率いる大元大蒙古国(通称「元」または「大元」)であるのだが、このページでは便宜的にモンゴル帝国の呼称をそのまま使用する。

※本コンテンツでは、中華民国(台湾)と中華人民共和国を別の国家として扱う。

醍醐ソウジ「凄い数だな……」
神凪羽常「東漢から蜀、宋から斉への王朝交代が発生した例を除いて、原則として1宗家につき1国号と考えて良さそうですね」
レキリス・キャソル「その通りでございます。そのため、以下に示しますように、5親等以上離れた人物が帝位を継承した場合にも、同一宗家に属している限り、国号──言うなれば『王朝名』は一切変わらなかったのでございます」

先帝次帝親等差
平帝(西漢第13代)孺子嬰(西漢第14代)6
孺子嬰(西漢第14代)光武帝(東漢第1代)14
冲帝(東漢第9代)質帝(東漢第10代)8
質帝(東漢第10代)桓帝(東漢第11代)7
桓帝(東漢第11代)霊帝(東漢第12代)5
孝愍帝(西晋第4代)元帝(東晋第1代)7
仁宗(北宋第4代)英宗(北宋第5代)5
高宗(南宋第1代)孝宗(南宋第2代)15
寧宗(南宋第4代)理宗(南宋第5代)19
シデバラ(モンゴル帝国第9代)イェスン・テムル(モンゴル帝国第10代)5
イェスン・テムル(モンゴル帝国第10代)コシラ(モンゴル帝国第11代)5

アークス・アルクスト15親等19親等……?」
神凪羽常「ヨーロッパではヴァロア朝フランス王国で6親等、ハプスブルク朝オーストリア公国で7親等の王位継承がありますが……そのことを考慮したとしても、15親等や19親等の継承でも国号が変わらないというのは、ある意味驚異ですね。普通ならば、王朝交代が発生しても不思議ではない数字ですし、歴史家から王朝交代が発生したと看做されても反論できないものですよね……」
醍醐ソウジ「中華文明圏の特徴として一般的に言われているのは、大家族制の存在だ。この中では、『姓が一緒なら同一祖先』という考え方が一般化しているため、ここから『同じ祖先の血を引いているのだから、国号を変える必要は無いよね』という考え方が生じているのではないかと作者は推測している。他にも、15親等・19親等の帝位継承を行った南宋時代は、異民族王朝である女真族の金に国土の北半分を奪われる危機的状況であり、『何が何でも趙匡胤の血を引く漢人王朝を維持しろ』といった意識が働いていた可能性もある。これは完全に作者の推測ではあるのだがな……」
アークス・アルクスト「近現代の東アジアに強い影響力を有し、世界史コンテンツでは白眼視される傾向の強い朱子学も、元を正せば南宋時代の漢民族の知識人や為政者達のアイデンティティー・クライシスを乗り越える為に考え出されたものですしね……」

レキリス・キャソル「では、最後に日本での皇位継承と王朝交代を御覧──」
奈津嬉「ちょっと待って下さい! 日本は神武天皇以来、125代に渡って一度も王朝交代を経験したことが無かったんじゃないんですか!?
レキリス・キャソル「ところが、日本は少なくとも2回は『王朝交代である疑いの濃い』皇位継承を行っているのでございます」
奈津嬉「ええっ!?」
醍醐ソウジ「とりあえず、疑惑の対象となる皇位継承を確認するか」

  (1) 仲哀天皇 → (神功皇后) → 応神天皇

醍醐ソウジ「最初の疑惑はここだ。史実では、仲哀天皇が200年に没したため一時神功皇后が政務を代行し、269年に神功皇后が崩御してから応神天皇が即位したという流れとなっている。かつての日本では、神功皇后を天皇の1人としてカウントすることも行われていたが、明治時代になって天皇から除外されている。その結果として、日本では200年から269年まで天皇が存在しない時代が生じてしまっている」
奈津嬉「ふむふむ……」
醍醐ソウジ「では、ここで両天皇の生年月日及び没年を確認しよう」

天皇生年月日没年月日
仲哀天皇200年2月6日
応神天皇200年12月14日310年2月15日

醍醐ソウジ「二倍年暦説の存在を抜きにして、仲哀天皇の没年月日と応神天皇の生年月日の間隔を計算すると、どういう結果になると思うか?」
神凪羽常「閏月が挿入されていない条件ですと、太陰暦換算で約305日になりますね」
醍醐ソウジ「では、一般的に女性が妊娠してから出産するまでの期間はどのくらいあると思う?」
アークス・アルクスト「世界保健機構の基準ですと、最終月経日から280日ということになっていますね。女性の出産日に関して一般的に言われる『十月十日』とも概ね一致しますし、この数字で計算しても差し支えないでしょうね」

作者注:十月十日
 妊娠した女性の出産予定日を計算するのに使われる表現の1つ。正確には「10ヶ月目の10日目」であるため、実際の妊娠期間は約9ヶ月半ということになる。


神凪羽常「……………………あれ?」
醍醐ソウジ「気付いたようだな」
神凪羽常「二倍年暦説を使って1年の日数を半分に減らさないと、神功皇后の最終生理日が仲哀天皇の崩御後になってしまいかねないですね」
奈津嬉「ちょ、ちょっと待って下さい。『神功皇后はお腹に石をあててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせた』という話があるんですけど?」
醍醐ソウジ「じゃあ逆に訊ねるが、出産予定日を無理に遅らせる理由はどこにあるんだ? 当時彼女が三韓征伐に出ていたことを考慮しても、かなり無理があるのだが……」
奈津嬉「……………………」

作者注:三韓征伐
 神功皇后によって実施されたとされる朝鮮半島への出兵。『日本書紀』では200年に実施されたことになっている。だが、朝鮮半島側に残る資料などを突き合わせて考えると、三韓征伐は実際には行われていなかったか、実施されていたとしても3世紀初頭ではなく4世紀ではなかったかと思われる。

 神功皇后が三韓征伐を実施した理由は、仲哀天皇崩御直前に行われた神託にある。
 『日本書紀』などによると、200年当時、仲哀天皇と神功皇后は熊襲征伐を目的として筑紫国に滞在していたのだが、その時、歴代天皇の重臣であった武内宿禰(第8代孝元天皇の孫)が神のお告げを求めたところ、神功皇后に対して「西の方に金銀財宝で豊かな国があるので、それを授けてやろう」という内容の神託が下った。ところが、仲哀天皇がこの神託を虚言ではないかと疑ったところ、神託を下した神が激怒、その直後に仲哀天皇が急に息を引き取る。この事態に慌てた武内宿禰と神功皇后が仲哀天皇の葬儀を直ちに行い、再度神のお告げを求めたところ、「神功皇后の胎内の子供に西の方の国を授ける」という内容の神託が下ったことから、神功皇后は準備を整えて身重のまま朝鮮半島へ出兵した……というわけである。
 だが、仲哀天皇崩御の現場に神功皇后と武内宿禰だけしかいなかったことや、出生日や没年から逆算すると、応神天皇の父親が仲哀天皇ではない可能性が極めて濃厚になること、仲哀天皇の葬儀が軍事行動中であることを考慮しても慌しく行われたことなど、仲哀天皇崩御前後の事実関係には不審な点が多く、何らかの謀略が存在したのではないかと考えることも可能である。

 余談だが、神功皇后が応神天皇を生んだのは、朝鮮から帰る途中の筑紫国であったらしい(福岡周辺には、応神天皇出生に関する逸話の数々に基づいた地名が存在するとか……)。


醍醐ソウジ「仲哀天皇崩御に関する疑惑は他にもある。実は、仲哀天皇には神功皇后とは別に大中媛という妻がいて、彼女との間に香坂王忍熊王という2人の王子が生まれている。彼らは応神天皇の腹違いの兄弟になるのだが、彼らは三韓征伐からの帰還後、家中で応神天皇の勢力が強まるのではないかと考え、反乱の計画を練ろうとしていたのだ。この反乱計画は、香坂王が事故死し、その後忍熊王が神功皇后の意を受けた武内宿禰らによって謀殺されることで水泡に帰しているのだが……」
神凪羽常「やはり、陰謀の匂いが漂っていますね……」
奈津嬉「うーん……」
アークス・アルクスト「ちょっと気になったんですが、仲哀天皇と応神天皇との間に直接の血の繋がりが無いとなると、誰が応神天皇の父親になるんでしょうか?」
醍醐ソウジ「状況から考えると、神功皇后の腹心だった武内宿禰が最も怪しいだろう。つまり、『神功皇后と武内宿禰が仲哀天皇を暗殺し、2人の子供である応神天皇が新しい天皇となった』という憶測が成立してしまうのだ。単に崩御の現場に居合わせただけならば暗殺の疑惑なんて起こらなかっただろうが、仲哀天皇崩御後に神功皇后が応神天皇を出産し、応神天皇の異母兄弟が反乱を計画しているこもと含めて考えると、これはかなりきな臭い話になってくる」
奈津嬉「で、でも、武内宿禰は孝元天皇の孫ではなかったのですか?」
神凪羽常「孝元天皇は欠史八代の1人であり、歴史学ではその実在に疑問符がついているのですがそれが何か?」
奈津嬉「がーん…………」

作者注:欠史八代
 第2代天皇・綏靖天皇から第9代天皇・開化天皇までの8代のことを指す。他の天皇と比較して事跡の記述が極めて少ないことから、その実在性に疑問を抱かれている。実在性を認める立場からは、神武天皇から開化天皇までの9代の天皇が、第10代天皇・崇神天皇とは別の王朝ではないかとの指摘も出されている。


アークス・アルクスト「となりますと、神武天皇と武内宿禰との間には血が繋がっていない可能性も出てきますね……」
神凪羽常「立派な皇位簒奪劇じゃないですか」
醍醐ソウジ「…………とまあ、こんな感じに、応神天皇の出生には疑惑が存在するのは事実だ。神話と歴史の境界があやふやな時代の出来事なので、疑惑の真偽は定かではないのだが、陰謀の存在を推測するに足るだけの記述が存在することは把握しておいたほうがいいだろう」

  (2) 武烈天皇 → 継体天皇

醍醐ソウジ「『日本書紀』では、武烈天皇と継体天皇は男系で10親等離れている。継体天皇こと男大迹尊は近江の豪族出身であるが、彼は応神天皇の5世孫ということになっているからだ」
神凪羽常「ふむふむ……」
醍醐ソウジ「で、武烈天皇の血統が途絶えたため、応神天皇から5親等離れている男大迹尊が畿内に招かれ、武烈天皇の姉・手白香皇女と結婚した上で皇位を継承したことになっている。ところが、この皇位継承も胡散臭いものがある」
奈津嬉「何があったのですか?」
醍醐ソウジ「まず、武烈天皇が『日本書紀』ではぼろぼろに貶されていた点だ。日本史上では初めての暴君と言っても良い」
奈津嬉「それだけだったら、何の問題も無さそうですけど……」
醍醐ソウジ「問題はこの次だ。継体天皇が即位した後、彼は即位後20年間は大和に入らなかった。この間、彼は河内に留まっていたようだ」
アークス・アルクスト「え?」
神凪羽常「ということは……」
醍醐ソウジ継体天皇が何らかの理由により、大和に入ることができなかったというわけだ。こうなると、当時何らかの政変や王朝交代が発生したと疑われるに十分な状況証拠があると言わざるを得ない。先帝の悪行を捏造も含めて書き並べるという行為は、帝位簒奪時や王朝交代時には決して珍しい話ではないからな。それに、男大迹尊が応神天皇の5世孫であるという話も、本当かどうかは怪しい
奈津嬉「うーん……」
醍醐ソウジ「まだ続きがあるぞ。男大迹尊と応神天皇の血縁関係を認めたとしても、既に皇族を離れ地方の豪族となっていた人間を中央に復帰させ天皇に即位させたのだから、表面的には『別の家による皇位継承』が成立し得るわけだ。これは、カペー朝からヴァロア朝への王朝交代が発生した状況に似ており、ヨーロッパ基準では王朝交代として扱われる可能性がある」
神凪羽常「なるほど……」
醍醐ソウジ「この継体天皇は武烈天皇の姉との間に1人だけ子供が生まれており、その子供──後の欽明天皇(509〜571、在位539〜571)が、現在まで続く日本の皇室の始祖となる。だが、彼には目子媛という先妻がおり、継体天皇と目子媛との間から安閑天皇(466〜535、在位531〜535)宣化天皇(467〜539、在位535〜539)という2人の天皇が生まれている。そのためか、一部の歴史学者は『安閑天皇・宣化天皇の朝廷と、欽明天皇の朝廷が対立していたのではないか』と考えているらしいぞ」

アークス・アルクスト「王朝交代の疑惑が持たれている皇位継承劇はこれだけですか?」
醍醐ソウジ「男系男子の血統が断絶する疑いが持たれている王朝交代はこれだけだ。安閑天皇以降の時代に登場する天皇は全員、継体天皇の男系男子血族であることはほぼ間違い無い。しかし、この男系男子による皇位継承劇の中にも、極めて縁遠い皇族間での皇位継承が行われたケースが複数存在し、日本人の学者の中には、これらの例を指して王朝交代と看做す声が存在するのだ。とりあえず、継体天皇即位後の日本で、5親等以上離れている皇族の間で皇位継承が行われた例を拾い出してみよう」

先帝次帝男系基準での親等差
(婚姻関係も考慮した親等差)
天武天皇系内部での皇位継承
孝謙天皇(第46代)淳仁天皇(第47代)6
淳仁天皇(第47代)称徳天皇(第48代)6
天武天皇系から天智天皇系への皇統変更
称徳天皇(第48代)光仁天皇(第49代)8(2)
承久の乱の影響
仲恭天皇(第85代)後堀河天皇(第86代)5
四条天皇(第87代)後嵯峨天皇(第88代)6
大覚寺統(南朝)と持明院統(北朝)による王朝分裂
後伏見天皇(持明院統/第93代)後二条天皇(大覚寺統/第94代)6
後二条天皇(大覚寺統/第94代)花園天皇(持明院統/第95代)6
花園天皇(持明院統/第95代)後醍醐天皇(大覚寺統/第96代)6 ★
後亀山天皇(大覚寺統/第99代)後小松天皇(持明院統/第100代)12 ★
持明院統から伏見宮家系への皇統変更
称光天皇(第101代)後花園天皇(第102代)8 ★
伏見宮家系から閑院宮家系への皇統変更
後桃園天皇(第118代)光格天皇(第119代)7(1) ★
※南北朝対立では、南朝(大覚寺統)を正統政権と看做して計算している。

醍醐ソウジ「この中で、『★』をつけた4つの皇位継承は、作者の視点からすると『王朝交代の疑惑を指摘され得る』皇位継承になる。その中で最も遠い血縁者同士による皇位継承が行われたのは、後亀山天皇から後小松天皇への譲位であり、これについては『王朝交代』と強弁する余地はあるな。後亀山天皇以降、大覚寺統からは天皇が輩出されていないことを考えると、足利義満による南北朝合一は、『大覚寺統から持明院統への王朝交代』と言えなくもない。あと、南北朝合一を王朝交代と看做すなら、その南北朝分裂の原因を作った後醍醐天皇が即位した時点で、『大覚寺朝』とも呼ぶべき別王朝が開かれたと考えることも可能だぞ」
奈津嬉「持明院統から伏見宮家系への変更と、伏見宮家系から閑院宮家系への変更は、王朝交代ではないと思いますけど? 伏見宮家も閑院宮家も皇族の一員だったはずですけど……」
醍醐ソウジ「この2つの例は、伏見宮家と閑院宮家を皇族の中でどのように位置付けるかによって、王朝交代と看做せるか否かが変わる箇所だ。伏見宮家と閑院宮家は天皇の直系男子が絶えた時に、代わりに皇位継承権者を輩出することを目的として設立された宮家の一部である。イメージとしては徳川将軍家の『御三家』『御三卿』に近いものがあるな」
レキリス・キャソル「確か、宮家の方々は皇族の身分の保持を許されておりましたな
奈津嬉「ということは、待遇面では皇族の一員なんですよね〜」
神凪羽常「ですが、『伏見宮』『閑院宮』というように、各宮家の識別の為に、名字に近いものを使っていますよね。これって本物の名字なのでしょうか?」
醍醐ソウジ「作者が調べた限りでは即答できなかったな。ただ、宮家から天皇が輩出された場合、名前に付いていた『●●宮』という部分は、天皇に即位した時点でどこかに消えてしまっている。そのため、『宮家から天皇が輩出された場合にも、王朝交代には該当しない』と主張することは可能であるし、作者としてはこの主張に賛成したいところだ」
奈津嬉「なるほど〜」
神凪羽常「となると、継体天皇以降に王朝交代の疑惑がある皇位継承が行われたのは南北朝時代だけ……ということですか?」
醍醐ソウジ「恐らくな」

アークス・アルクスト「では、やっと核心に入るのですが……」
醍醐ソウジ「『核心』?」
アークス・アルクスト『女系天皇の即位は王朝交代になるのか?』という質問に対する回答ですよ」
醍醐ソウジ「ああ、そのことか…………」
神凪羽常「……どうなんですか?」【ワクワクテカテカ】
奈津嬉「どうなんですか〜?」【ワクワクテカテカ】
醍醐ソウジ「…………結論から言ってしまうと、『“Yes”とも“No”とも言えてしまう』といったところだな」
神凪羽常「…………え?」
奈津嬉「…………どうしてなんですか〜?」
醍醐ソウジ「まず、現行考えられる皇室典範の改正案を使うと、女性天皇の配偶者は民間人としての戸籍を放棄し、皇籍に入ってから結婚するという形を取ることになるはずだ。そして、女性天皇のほうは名字を新たに作らないことになる。……まあ、表現は平たいが、女性天皇の配偶者が婿入りする形になるわけだ。この場合、名字を『変更せずに』家を後ろの世代に伝えるのは女性天皇の側──つまりは皇族の側となる」
アークス・アルクスト「ということは、女性天皇の子供も当然、同じ皇族の一員ということになりますね」
醍醐ソウジ「そういうわけだが……この状況、ヨーロッパの某国の王室と殆ど同じ状態になることにそろそろ気付かないか?」
神凪羽常「あっ……」
奈津嬉「?」
神凪羽常「女王がオラニエ=ナッサウ家を継承したオランダ王室と同じ状態になりますね」
奈津嬉「!」
アークス・アルクスト「この考え方ですと、女系天皇でも王朝交代にはならないはずですよね?」
醍醐ソウジ「その通りだ……と言いたいのだがな、そうも簡単には片付けられない。中国における王朝交代のルール──言うなれば『宗家』を単位とした王朝交代のルールによって女系天皇による皇位継承を考えると、今度は判断不能という結論が出てしまう」
アークス・アルクスト「どうしてなんですか?」
醍醐ソウジ「簡単に言うと前例が無いからだ。中国では女帝が登場したことは1回しかないし、そのたった1回で即位した武照(武則天)は、皇帝の后という立場に過ぎない。李淵から始まった唐王朝の男系男子による帝位継承は結局『途切れていない』のだ。宗家を単位とした考え方からすると、女系天皇は別王朝扱いされる可能性があるのだが、作者としては断言することはできない」
奈津嬉「難しいんですね〜」
醍醐ソウジ「そういった事情があって、日本で女系天皇が誕生したとしたら王朝交代になるかというと、どちらとも言えないというのが現時点での回答になるな。『王朝交代の有無を判断するルールをどこから拾ってくるか』によって結論が180度変わってしまうからだ」
奈津嬉「歯切れが悪いですね〜」
醍醐ソウジ「双方とも、自説にとって有利なルールを援用することが目に見えているからな……」



アークス・アルクスト「最後に聞きたいのですが、『女系天皇が誕生して王朝交代が発生したら、“日本”という国号を捨てなければならない』という主張がありますけど……これはどうなんですか?」
奈津嬉「どうなんですか〜?」
醍醐ソウジ電波。……以上で説明終わりでいいか?」
奈津嬉「先生、いきなり終わらせないで下さいよ〜」
醍醐ソウジ「作者がこの主張を電波呼ばわりする根拠は2つある。第1に、その由来が何であろうと、『日本』──厳密には『日本国』という国号は『現行の』憲法で規定されていることを指摘する必要がある。中国の易姓革命が日本に入ってきているかどうかは、はっきり言ってしまうと全く意味が無い。現在の日本における最高法規である日本国憲法で『日本国』という呼称が国号として使われている以上、男系男子天皇の断絶が発生しようが、その事実のみを以って自動的に『日本国』という国号が変わるわけではない。作者としては、『国号を変えたいのであれば憲法を変えろ』としか言えないのだ」
神凪羽常「そうですよね〜」
アークス・アルクスト「では、2つ目の根拠は?」
醍醐ソウジ王朝名は為政者の判断で決定される面が存在することだ。同じ宗家でありながら王朝名を変更した蕭家(斉→梁)や、『ドイツ風の名前が気に入らない』というだけの理由で王朝名を変えたイギリス(ハノーヴァー朝→ウィンザー朝)の例もある。また、ロシアのロマノフ王朝は一時男系相続と女性相続が入り混じる状態となったものの、王朝名は『ロマノフ朝』のまま存続している。王朝名は血縁関係や王位継承方法の変更によって機械的に変更されるものではないのだ
アークス・アルクスト「なるほど……」
奈津嬉「うーん…………」
神凪羽常「それにしても、『女系天皇が誕生して王朝交代が発生したら、“日本”という国号を捨てなければならない』という話、女系天皇反対派からしか聞かないですよね……」
醍醐ソウジ「Y染色体理論の例もあるが、珍説を乱発しているという印象がどうやっても拭い去れないな……」




目次
冒頭
女系天皇反対論に対するツッコミ
伝統軽視
聖俗併存の軽視
権威喪失への懸念
王朝交代論
外部介入の恐れ
有識者会議への不満
当事者意向の無視
女系天皇容認論に対するツッコミ
明瞭性
安定性
象徴天皇制との親和性
男女同権との親和性
運用実績
代替案
結論
パンドラの箱 鏡面反射空間



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