#15 奈落の底にある歪曲



(15-a) 甲申事変に日本側はどれくらい深く関与していたのか?

「この話、“#12 Wheel of Fortune”“#13 The Dreadnought”でも触れられていたな」
「この問題で作者が悩むことになった経緯から説明しないといけないですね」
「そうね。実は、作者は初めのうち、甲申事件の経緯を次のように理解していたのよ」

金玉均らと後藤象二郎らがクーデターを共謀

伊藤博文がクーデターの実施に反対、井上馨にその旨を伝える

井上馨が逆にクーデター計画の実施に賛同、竹添進一郎に協力を指示

親清派だった竹添進一郎は当初クーデターに協力する姿勢を見せる

クーデター本番、日本軍が動員される

クーデター中に竹添進一郎が撤兵を命令
(日本党にとっては裏切られたも同然)

クーデター失敗、日本党関係者に対する粛清

「全体としては、朝鮮国内の日本党関係者にとって最も好意的な解釈だったというわけね」
「そうね。角田房子『閔妃暗殺』もこの流れに基づいて、事変前後の事実関係を描写していたのよ」
「では、この見解を捨てる原因となったのは一体何だったんだ?」
「この解釈に基づいて甲申事変を執筆する場合には、1つ重大な前提があるのよ。それは『井上馨が金玉均ら日本党の能力を、一定以上の水準で信頼していた』ということね。井上馨が金玉均らを鉄砲玉として使うつもりが無い限り、クーデターを起こす人間にある程度の信頼を寄せていないと辻褄が合わなくなるのよ」
「それはそうですよね。クーデターの支援に使う金は国民の税金ですし、クーデターによって他国の政治に介入するつもりである以上、一定以上の成果を収めないといけませんからね」
「つまり、作者が考え方を変えた原因は、この前提が崩れてしまったためというわけか」
「簡単に言ってしまうとそういうわけね」
「でも、どうしてその前提が崩れてしまったのですか?」
「作者によりますと、以下の事実の発覚が原因であるとのことでございます」
(1) 1883年7月2日に行われた金玉均と井上馨の会談内容
(2) 1884年11月28日付電信
(3) 甲申事変後、日本政府が金玉均らに見せた対応
「『(1) 1883年7月2日に行われた金玉均と井上馨の会談内容』……ああ、劇で私が火病を起こそうとしていた件ね」
「あの会話を読む限りだと、確かに金玉均が金融に関する常識には少々欠けることは分かるな。ただ、彼が経済政策のド素人だとしても、そのことで革命家としての金玉均の能力に傷が付くわけではないのではないのかね?」
「彼の経済政策に関する能力不足は、彼が両班階級という『経済と商売を最も忌み嫌っていた人々』の出身であることも少しは影響しているかもしれないわね。当時の朝鮮半島はまともな貨幣経済が機能していたのかどうか怪しい状況であったため、経済や金融に関するイロハが分からなかったとしても不思議じゃないのよ。でもね、巨額の金を借りるのに、その返済方法を考えないというのは無責任にも程があると言わざるを得ないわね。それに、井上馨を危うく激怒させようとした最後の捨て台詞もかなり問題があるわね」
『外債を引き受けて下さらないのであれば、朝鮮を見捨てたも同然と思わざるを得ない』……でしたっけ?」
「ええ。交渉の駆け引きとして少々過激な台詞が出てしまったのかもしれないけど、それにしてはちょっと問題があり過ぎる台詞ね。『日本に朝鮮を保護する義務がある』と考えている風に受け取られかねないわよ」
「インターネット上でこの時の会話内容を取り上げた論者は、このテキストの作者以外にも2人確認できたんだけど、どちらの方も同じような感想を抱いたらしいわ。

  『金玉均かなりダメポ orz 』

──ってね」
「こちらでございますか」


井上馨の懇切な説明を何一つ理解せず、拗ねている様にしか見えない。
我が国は朝鮮を訓育する義務が存するかのような物言いである。
朝鮮開化派と目される人物をしてこの有様とは、呆れる外無い。

出典:NAVER総督府日報・2005年4月24日付記事(http://www4.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=473099&log=20050424


 開化派と言われ、あるいは主和者とも言い、中でも日本党と称する人々は日本から随分援助も受け、とりわけ金玉均などは個人的に支援する人も多かったと聞く。しかし、前述した「重層の開化派」や「明治丸の金玉均」でも感じたことであるが、「日本と手を携えて共に開化の道をゆかん」というよりは、どうもただ日本の力を利用したいだけの、とりわけ金玉均などはこの井上外務卿との対談を読む限りにおいては、政府内で権力を取りたいのは実は金玉均本人ではなかろうかと思えてくる。

(中略)

 どうもこの国の人は日本人を落胆させて止まない性情のようである。ここでも前年12月に横浜正金銀行から17万円を借用した際に大蔵省まで巻き込んで尽力した井上をひどく落胆させた何かがあったことが窺われる。即ち「人に詐り取られたことも承知している。随分貴下は不始末の人である。」と。
 300万円もの巨額の国債のことも、その後の具体的な計画もないままいわば後先あまり考えずに申し込んでいるような様子が彼の話し振りから窺われる。

 井上の「万事急激に走るべからず」の助言に対しても、再三その積りであると言い「決して貴慮を煩わさるることなかれ」と言いながら、この後政府内で権力闘争に明け暮れ終には流刑に処されんとする勢いまでになったことから、一気に全権力を握らんと無謀極まるクーデターを起こして更に竹添公使らを謀って巻き込み、ために大勢の民間の日本人までが惨殺される事態になるという一大事を惹き起こした人物の1人である。

 なぜに今でもこの人を持ち上げる人が多いのであろうか。後に暗殺される悲劇の人であるからだろうか。判官贔屓は日本人の常とは言え筆者はこの人を評価しない。実に日本にとって迷惑な人物であり、朝鮮にとっても功罪相半ばする人ではなかったろうか。

(後略)

出典:きままに歴史資料集『日清戦争前夜の日本と朝鮮(2)』(http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/060/resi038.html

「特に、2番目の資料で取り上げた『きままに歴史資料集』のページに掲載されていた金玉均論は、是非とも一読することをお勧めするわ」

「……じゃあ、そろそろ2番目の説明に入るべきね。この『(2) 1884年11月28日付電信』というのは、スケベ小僧伊藤博文が吉田清成と協議して決定し、私──じゃなくて井上馨が追認を与えたものだったわね」
「つまり、日本政府はクーデターが起こったとしても端から応援するつもりは無かったわけか」
「当時、清とフランスが戦っていたはずですが、その事実はスルーされてしまったのですか?」
「ええ。日本政府の上層部ではスルーされているわね。ただ、これには伏線があるわ。実は、甲申事変が起こる少し前、日本政府の上層部で、フランスと軍事同盟を結び、共同で清国を叩こうとする計画が論議されたことがあったのよ」
「一見するとガゼネタにも思えるが……それは事実なのか?」
「はい。市川正明様が編者となられた『日韓外交資料 (3) 甲申事変・天津条約』で、編者の解説という形でこのエピソードは紹介されております。本編では場所の関係上、劇としての演出はカットされてしまいましたが、なかなか示唆に富む記事でございますのでここにて御紹介致します」


 この当時清仏戦争の危機に、フランスが対清政略の必要上から日本に同盟を提議したが、井上外務卿は殆どこれに関心を示さず、日清協調の見地からこの提議を拒否するにいたった。しかし、ベルリンの伊藤博文は、積極論を主張し、外務卿が直ちにフランスの提議を拒み、また再度の要請も、徒に斥けたことを遺憾とし、電報を以って、外務卿の反省を求めたのであるが、井上外務卿はこれを容れず、フランスとともに清国と交戦するが如き同盟の必要性を認めなかった。

出典:市川正明・編『日韓外交資料 (3) 甲申事変・天津条約』巻末の解説より(原書房、1979)

「清仏の対立を踏まえた外交戦略は、日本党の問題が生じる以前から論じられていたわけだな」
「で、この話を踏まえた上で、1884年11月28日の返信を評価すると、当時の日本政府は清国政府と戦争を起こす気は更々無かったという結論が当然のように導き出されてくるのよ。劇本編で道化師さん演じる袁世凱に言わせていることなんだけど、日本が本気で清国と渡り合うのならば、1884年10月の竹添公使の帰任時に、駐朝鮮公使を『親清派から交代させているはず』なのよ。でも、朝鮮に戻っていったのは、『日本初のチャイナスクール』と揶揄されても仕方無いくらいガチガチの親清派である竹添進一郎。彼が甲乙両案を本国政府に出した真意は分からないけど、清国との対決を避けるという基本方針に関して、井上馨と竹添進一郎との間に、大きな意見の差異があったとは考え難いわね」
「俗説が崩されているところを見ると、頭が少しくらくらしてきますね……」

「では、そろそろ3項目の説明に参ります……が、これは次章で触れる内容にも重なりますな」
「『(3) 甲申事変後、日本政府が金玉均らに見せた対応』のことね。これは簡単に触れるだけにしておくけど、日本に亡命した金玉均らに対する日本政府の反応は、『冷淡』という表現では温く感じられるほど冷たいものだったのよ。まず、井上馨が金玉均らとの会談を拒否したと言われているのよ」
「井上馨からしてみれば、自分達の権力闘争に日本軍を巻き込んだ挙句、日本の民間人36人を死なせてしまった『張本人』になるから、面会を冷たく拒否したとしても不思議ではないわね」
「金玉均らの日本での『受難』はこれだけに留まらないわ。1885年11月に発生した大阪事件が原因で、金玉均は一時期小笠原諸島に幽閉されているのよ。大阪事件の首謀者は自由党の過激派であり、この事件に金玉均がどれくらい深く関わっていたかは分からないわね。でも、大阪事件の後に日本政府が見せたリアクションからも、当時の日本政府が金玉均を厄介者ないしは危険人物と看做していたことは想像できると思うわよ」
「金玉均を英雄視する人々からすると、火病の原因になりそうな展開だな」

「まあとにかく、こうやって見ると、日本政府と金玉均の相性は決して良くないものであり、井上馨など日本政府首脳部は、金玉均のことを信用していなかったのではないかという推測が成り立つのよ。無論、推測に過ぎないんだけど、『日本政府がノリノリになって金玉均のクーデターを支援していた』という考えよりも、よっぽと現実味のある推測だと思わないかしら?」
「しかし、それでは金玉均が書き残した資料との間に、齟齬が生じる結果になりませんか? 金玉均の『甲申日録』には、今回のクーデターにおける竹添進一郎の役割が大きく記されていると言われていますけど……」
「……秋葉様、実はその件でございますが…………」
「何かあるのでしょうか?」
「身も蓋も無い表現で恐縮でございますが、『甲申日録』の内容が全て真実であるという保証は、一体どこにあるのでございますか?
「えっ? しかし……」
「それでは、こちらのテキストを御覧頂けますか?」


 こうしてできた新政権は六日の朝その政綱を発表したということになっている。ところが、この政綱なるものは、これまで金玉均の『甲申日録』にでているものを無批判に紹介しているだけであった。しかし、『甲申日録』そのものがずいぶんいいかげんな文章だから、そこにあることは、とうていそのまま信じられない。甲申事変ののちに日本に亡命してきた金玉均と交友だった犬養毅は、『甲申日録』の成立事情について、つぎのようにいっている。

「金氏が日本当局を信頼していよいよ日本に来てみると、案に相違して日本政府の氏に対する待遇は甚だ冷淡を極めたものであった。ことに当時の外務大臣井上馨氏の如きは、金氏がいくたび訪ねても、会ってくれぬといって、当時氏はひじょうに憤慨し日本の背信を憤っていた。そこで氏は憤慨のあまり明治十七年の改革顛末をくわしく書き、それをもって井上馨氏にぶっつかり、あくまで日本が背信的態度にでるならば、吾輩はただ之を天下に公表して日本政府に酬ゆるのみだといって威嚇したことがあった」

 執筆事情がこうだったから、当然その内容にうそや誇張がある。だいたいの傾向としては、自分たちの行為を美化し、福沢や後藤、井上角五郎との関係はかくして、竹添公使との関係だけを強調している。

出典:筑摩書房編集部・編『世界の歴史11 ゆらぐ中華帝国』270ページ(筑摩書房、1969/当該部分は山辺健太郎氏が執筆)

「ええっ!?」
「この犬養毅という人物の証言を信じるとなると、『甲申日録』は日本政府を脅す為の材料として作成された可能性があるということになってしまうではないか」
「単なる回想録やメモではなく、政治的意図がプンプン漂っている文書であり、その内容に嘘や誇張が混ざっているということになるわけだから、信憑性に対する評価は下げざるを得ないわね」
「ちなみに、犬養毅の証言に出ていた『当時の外務大臣井上馨氏の如きは、金氏がいくたび訪ねても、会ってくれぬ』という部分は、甲申事変直後に井上馨が金玉均らとの面会を拒絶した件を指すのではないかと思うわ」
「犬養毅様の証言は非常に示唆に富んでいると申すことができましょう。では、山辺健太郎様が書かれている続きの文章も御覧下さいませ」


 たとえば、甲申事変ののちに成立した金玉均らの三日天下の政綱にしても、金玉均とむ井上角五郎のいうものとを対照してみると、次のように違う。

(中略)

 この井上角五郎のあげた政綱も、金玉均が書いた政綱も、おなじく記憶だけによったものである。しかし、金玉均のクーデターが福沢諭吉、後藤象二郎と連絡してやられたのだから、福沢の手先であった井上は、このクーデターのいわば黒幕であった。したがって私は、井上のいうほうが真相に近いと思う。
 それだけではない。金玉均のいう政綱なるものは、多分におもいつきていどのものである。その証拠に、『甲申日録』のどこをみても、改革要綱の相談をしたところや、これに関するかれ自身の構想について書いたところは一つもない。『日録』にでていることは暗殺の相談ばかりで、およそ建設的なことはなに一つでていない。
 またクーデターによって成立した政府についても、閔氏の派閥にかわって、大院君の一族をいれたりしている。さらにおかしいのは、恵商公局革罷という政綱であるが、記録によると金玉均は、この恵商公局の長官になっている。つまり廃止すべきはずの官庁の長官に金玉均がなった、というのもおかしな話で、これは、金玉均がこの『日録』を書いたとき筆にまかせて、つい書いてしまったものであろう。
 当時の金玉均らの思想からいって、かれらに民主主義といったような気のきいた考えはあるはずがない。したがって私は、このときのたった一晩だけの政綱としては、むしろ井上角五郎のいう、科挙の廃止だとか、殿下を陛下とあらためるとか、公債公募(これは金玉均が、甲申事変前に計画し建議した)とかが政綱であったと思う。
 したがって私は、政治改革としての甲申事変の意義をこの『甲申日録』にでている政綱からは論じられないと思っている。また、客観的な事実としても、事変すなわちクーデターは優勢な清国軍に鎮圧されてしまったし、このときの政綱もせまい宮廷のなかだけの作文で、世間の目にふれなかったものだったから一般社会への反響としては、日本軍のあとおしでやった親日派の三日天下に過ぎなかった。また事変が清国軍によって鎮圧されたため、これからのち清国の朝鮮に対する支配がつよくなっている。あらゆる面から見て、この事変が朝鮮の進歩と発展に役立った点はない。

出典:筑摩書房編集部・編『世界の歴史11 ゆらぐ中華帝国』270ページ(筑摩書房、1969/当該部分は山辺健太郎氏が執筆)

「このテキストの作者が、金玉均様による政治改革の内容──特にここで触れられております14ヶ条の政綱を殆ど無視したのは、この山辺健太郎様のテキストにもありますように、事件当事者によって政綱の中身が異なっており、『誰の』政綱が正しいものであるのか全く分からなかったからであります」
「うーん……」
「これらの疑惑に対する真偽を見極める為には、『甲申日録』の実物に目を通す必要があったんだけど、実はここで非常に困った問題にあたってしまったのよ」
「ほほう……それは一体何だ?」
「『甲申日録』を読むことができなかったのよ」
「……………………なぬ?」
「『甲申日録』そのものが見つからなかったの?」
「そういうことになるわね。国立国会図書館で使われる検索システム・NDL-OPACを使い、『甲申日録』で検索を掛けたところ、ヒット件数が何と0件。著者名『金玉均』で検索を掛けても6件しか見つからなかったわね。『甲申日録』の一部が抜粋された形で引用されることはあるんだけど、『甲申日録』そのものが何故か見つからず、かなり困った思いをしたのよ。まあ、作者が検索条件を入れ損ねた可能性もあるけどね……」
「でも、どこかに引用元となる『甲申日録』の原本があるんじゃないの?」
「そう思ってたんだけどね……実は違うらしいのよ。北朝鮮系の新聞『朝鮮時報』の記事に、こんなことが書かれていたわね」


朝鮮時報 1998年9月24日

長野で金玉均の書を観る

自由民権運動とも関わりか

琴乗洞


(中略)

 私は、金玉均長野行きの記録がないことを述べ、今一つ、傍証として、この家での日記か新聞記事が欲しいと言った。その時、1980年刊の小山敬吾著「千曲川」を出された。
 そこには、「悦之助の手引きで小諸の『山五』に身を潜めた」との記述があったが、典例資料は記されていなかった。これでは金玉均長野行きの確証にはならない。
 この書も東京の悦之助宅で書いて、東京に持ってきた可能性も否定できない。そのことをいうと小山氏は、「東京のものを小諸に持ってくるということは無かったはずです。東京の悦之助家にあったものは、そのまま残っていました。しかし、この東京にあったものは関東大震災の時、家もろとも、みんな焼けてしまいました」という。

 私は小山悦之助の名に心当たりがあった。1916(大正5)年、葛生東介が「金玉均」(164ページ)という本を出した。玉均の在日生活を知る上での実に貴重な本で、多くの金玉均の友人たちが思い出を寄せていて、ここに小山悦之助の名があるのである。
 しかも朝鮮の近代史にとって大変に重要な資料「甲申日録」原本のことが書いてある。朝鮮近代史に一大画期をなす甲申制度についての最重要資料は金玉均自身が、日本亡命後に書いた「甲申日録」であるのは、天下周知のことである。しかし、朝鮮(南北とも)や日本の歴史研究家が探しても、あるのは、写本ばかりである。しかも、転写の際の誤字がそのまま誤記されていて、真を伝えるという意味では、欠けるものがある。では、原本はどこにいったのか。

 小山悦之助は上記「金玉均」中に「金玉均氏の日記と絶筆」という談を寄せている。

 金玉均は上海行きの二日前に訪ねてきて、今までのお礼といって「一間の稿本」、すなわち金氏が明治十七年の騒乱の顛末を自ら記した日記」、つまり「甲申日録」原本を渡したという。彼は「之を頂戴して大切に秘蔵して居る」といっているが、これがウソでないのは、上記「金玉均」本に金玉均自筆の有名な甲申政変時の郵政局開局祝宴の際の、大きなテーブルを囲んだ十八人の人物名を記した図が挿絵として写真版で入っていることでも判る。
 しかし、小山宗一氏の話で、「甲申日録」原本が関東大震災時に消失したらしいという証言になり、誠に残念である。

(後略)

出典:上野誠版画館・2005年2月2日付版画館通信『金玉均の書』(http://hito-art.jp/nikki-5-2-2.htm)にて
引用されていた朝鮮時報1998年9月24日付記事

『甲申日録』の原本が関東大震災で焼失してしまったのですか……これはかなり痛いですね」
「つまり、現代に伝わる『甲申日録』は、全てが写本なのよ。当然、コピー機の無い時代に手作業で写本を行うわけだから、作業者のうっかりミスで誤字・脱字が紛れてしまうこともあるし、写本を行った人間の『意図』によって『正確な写本が行われなかった』恐れも無いとは言えないのよ。現在『甲申日録』の写本がどれだけ伝わっているかについては、韓国学中央研究所という団体が作成した資料HTML版で列挙されているんだけど、写本によっては落丁があったり編集の形跡があったりしていて、『資料として役立たず』になる恐れがあるのよ」
「それは厳しいわね……」
「結局、作者が発見できた『甲申日録』のテキストは、全て他の文献に一部だけが引用されたものばかり。しかも、どの写本から拾ってきたものかが判然としない上、原本は関東大震災で焼失。更に、『甲申日録』の執筆動機が政治的なものであり、竹添進一郎を貶めるような記述が故意に為された疑いが濃く執筆者の金玉均は甲申事変の首謀者……。そういう事情があって、作者は『甲申日録』の記述を積極的に採用することができなかったのよ。14ヶ条の政綱に関する記述をスルー同然にしてしまったのも、『甲申日録』から引用されていた金玉均の14ヶ条を信じられなくなったことが原因ね。彼を『朝鮮の革命者』と見なすサイトでは、各条の中身まで踏み込んで書くことが多いんだけどね……」
「しかし、こんな風に歴史書の中身を疑い始めたらきりが無いですね……」
「確かにその通りね。ただ、甲申事変の場合、日本政府が残した公文書と通説が大きく異なっており、『梅泉野録』など同時代の朝鮮を扱った文献と通説との間にも落差が存在することが予め分かっていたのよ。だから、早い時期から、現在の通説に最も大きな影響を与えている(と思われる)『甲申日録』の中身を疑う必要がありそうだということはひしひしと感じていたのよ」

「で、このテキストの作者と同じように『甲申日録』の中身を疑った山辺健太郎氏は、自身の手による調査を踏まえた上で、甲申事変を『井上馨と竹添進一郎と福沢諭吉らと金玉均らの共謀』と判断したのよ。言い換えると、『甲申日録』で“捻じ曲げられた事実”のうち、福沢諭吉らが事変に関与していなかったという部分を主に是正したわけね」
「しかし、このテキストの作者はもう少し別の考え方をしたわけだな?」
「そういうこと。作者が下した評価というものは、山辺健太郎氏の行った再評価では重視されなかった、竹添進一郎らが事変に積極的に関与していたという部分を主に是正した形になるわね。で、何故山辺氏と同じような解釈に至らなかったかというと、上で指摘した3項目を知ってしまったため、『井上馨と竹添進一郎がクーデターの実施に積極的な同意を与えていた』という説に賛成できなくなってしまったからなのよ」
「そうなると、考えられる『真相』はおのずと限られてくるわね」
「ええ。井上馨と竹添進一郎だけでなく、伊藤博文と吉田清成もクーデターの実施に反対していたとなると、日本政府は日本党を支援してクーデターを起こす気が全く無かったということになるわけ。こうなると、『甲申日録』や通説は誤っている──ということになってしまうのよ。じゃあ、クーデターはどうして起こったのかというと、その答えは『日本党の独断(暴走)』としか言えなくなるわけ
「回りくどく分かり辛い説明になってしまいましたが、何とかまとまったようでございますな」
「しかし、『甲申日録』の中身を疑って掛かるという話は、我はあまり聞いたことが無いな」
「『甲申日録』の内容が半ば盲目的に信じられている背景は、以下のようなものが想像されるわね」
(1) 執筆者が甲申事変の首謀者である金玉均であるため、その分情報の確度が高いと思われている
(2) 「金玉均は日本(竹添進一郎)の裏切りによって志を絶たれた革命家」というイメージが流布している
(3) 執筆当時の背景情報を知らない(または知った上で無視している)
「2番目は一種の判官贔屓と言えるわね」
「日本人の判官贔屓も度が過ぎると問題ですね……」

(15-b) 12月6日午前8時に出された袁世凱の書簡が、清国軍攻撃までに竹添進一郎へ届かなかった原因は?

「結論から言ってしまうと分からないわね」
「チョットマテ、それじゃ話にならんだろうが。真相を知る為のヒントくらいは無いのか?」
「まあ、状況から考えると、以下のいずれかが原因ということになるわね」
(1) 「袁世凱が午前8時に書簡を発した」という話がそもそも嘘である
(2) 清国軍から書簡を受け取った朝鮮人官吏が何らかの理由で書簡を遅配した
(3) 「竹添進一郎が書簡を清国軍攻撃後に受け取った」という話がそもそも嘘である
「どれも理屈の上では有り得る話だけど、このテキストの作者はどの説が一番有り得そうだと思っているのかしら?」
(1)(3)の可能性は低いわね。袁世凱・竹添進一郎共に、そのような嘘を吐く動機というものが見当たらないからね」
「となると、消去法で『(2) 清国軍から書簡を受け取った朝鮮人官吏が何らかの理由で書簡を遅配した』ということになるわけだな?」
「でも、ここでいう『何らかの理由』の中身は分かりませんよね?」
「あら? 理由は明白じゃないかしら? 状況から考えて、清国軍の陣地で手紙を取り次いだのは支那党の人間でしょ? 彼らからしてみれば、自分達の影響力を伸ばす為には、日本党と日本軍の両方に消えてもらったほうが好都合だから、それが原因になってるんじゃないの?」
「つまり、手紙を取り次いだ支那党の人間が、日本軍と清国軍の武力衝突を誘発させる為に、故意に書簡の配達を遅らせたということになるわけだな?」
「…………いえ、そう簡単な話ではございませぬぞ、陛下」
「ほう、どういうことだ?」
「清国軍から書簡を受け取った人物と、書簡を島村久様に渡した人物が同一人物であるかどうかは分からないのではございませぬか?」
「?」
「…………ああ、なるほど──って、チョットタンマ。それじゃ、日本党の人間が遅配に関与した可能性があるってことじゃないの」
「さすがは来栖川様、御明察でございます」
「確かに、その可能性は排除できないはずですね……」
「む? ひょっとして、我だけが仲間外れということか?」
「どうやらそのようですね」
「むう……。それじゃ、どういうことか説明してもらおうか」
「説明……と言っても、そんなに難しいことじゃないのよ。清国軍から書簡を受け取った人物が昌徳宮の前まで来たとして、書簡を持ったまま昌徳宮の中に入り、島村久に書簡を手渡すことってできるのかしら? 清国軍から書簡を受け取った人間が島村久まで手紙を運ぶんじゃなくて、昌徳宮の出入り口で、書簡を持った支那党の人間が書簡を日本党の人間に取り次ぐことも十分に考えられるはずよ?」
「確かにそうだ──って、ちょっと待てぃ!」
「やっと気付いたようですね……」
「支那党の人間から書簡を受け取った日本党の人間がいると仮定して、その日本党の人間が書簡を遅配する理由は一体何なんだ? 動機が分からぬではないか」
「動機は支那党の人間が遅配を行った場合と同じでございましょう、陛下」
「つまり、日本軍と清国軍の武力衝突を誘発させる為だというのか? しかし、そのようなことをやっても日本党の人間にはメリットが──」
「ところが、動機はあるのですよ」
「なぬ?」
「もしも、1884年末の朝鮮半島で、日本軍と清国軍の全面的な武力衝突が発生したとなったら、どういうことになると思います?」
「その時は、日本も本腰を入れて戦争に突入せざるを得なくなるわけか。対朝鮮・対清政策で宥和路線を進んでいた日本にとっては、決定的な方針転換になるな」
「清とフランスの戦争に日本が介入することは、日本党の人間にとっては決して悪い話ではありません。彼らにとっての最大の敵である宗主国・清を追い払う好機ですからね」
「有力容疑者が2人という状態では、結論を出すのは不可能になるわね……」

「これで、甲申事変に関する話は一段落ついたことになるわね。作者なりの解釈と推測を加えた内容なので、読者の方によっては異論・反論があるでしょうし、作者としては別にそれで構わないと思っているわよ。今回作者が提示した流れというのは、日本での通説のあちこちにイチャモンを付けたものだし、現在の日本では少数説に属しているからね。ただ、はっきりと理解してもらいたいのは、甲申事変前後の事実関係には謎や不明な点が多数残されていることと、『甲申日録』の内容を鵜呑みにすることには問題があることの2点ね。これだけでも理解してもらえたなら、作者がひーひー言いながら国会図書館に通い詰めた甲斐があったというものだわ」
「適当に取り繕いましたね……」
「そういえば、この事変の事後処理はどうなったんだ? 日本政府が事件の第一報を掴んだという時点でストーリーが終わっているようだが……」
「事変の事後処理に相当する部分の話は、次章以降の執筆となるわね」



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