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執筆者  佐原けいた  月夜の戯れ言 

「……桜組伝説?」
 リビングで煙草をくゆらせながらテレビを眺めていた女性は、いつものようにぶっきらぼうな声色のまま、自分の娘の問いに答えた。
「うん、そう。桜組伝説。お母さん、高等部までリリアンに居たんでしょ? だったら、桜組伝説の一つも知ってるんじゃないかなあ、って」
「ああ、もうすぐ学園祭か」
 合点がいったようだ。
 学園祭にてリリアンの二年桜組の生徒たちが、『自分たちのオリジナル』 と思い込んで、桜組伝説なる催しを企画するという事実は、割とよく知られた話なのだ。
 もっとも、二年桜組の生徒たちは、大半がその事実を知らない。
 オリンピックかうるう年か。周期的に、『桜組伝説』 なる、何故二学年にだけ桜組が存在するのか? というテーマのもとに小冊子が作成され、それが桜亭に置かれるという、四年に一度の風物詩を。
 勿論高等部の教師たちは知っている。或いは一部のリリアン出身の生徒の母親ならば、知っていてもおかしくはない。
 だがしかし、それを大っぴらに吹聴したりしないのは、ある種の、『お約束』 である。
 折角の桜組の生徒たちのやる気を、無下に削ぐこともないだろう。
「紫音は今年、桜組だったんだな」
「もー、自分の娘のクラスぐらい、しっかり覚えておいてよ」
 相変わらずだなあ、と。やれやれと心の中で溜め息をつく紫音である。

 つい昨日のことであるが、紫音は自分が執筆した桜組伝説を、今回の学園祭企画のいいだしっぺである文芸部の生徒、不破峰に提出したばかり。
 しかし不破峰の評価は、お世辞にも高いものではなかった。
 ある程度文章を書くことに慣れ親しんだ紫音にとっても、それほどの自信作とは云いがたいものだったので、あの、『桜の葉』 は、不破峰のセンスを満たすものではない、という予想はしていたのだが……。

 ということもあって、紫音は他力本願的行為に頼ることにした。
 紫音の母親は、リリアンの出身だ。ならば一つくらい、『伝説』 を知っているのではないか、と。
 つまりは、”原作=母、文=紫音”という構図を思いついたのだ。

「桜組伝説ねぇ……」
 紫音の母は思案顔を浮かべる。そのまま数秒。
 一度、煙草を深く吸い、そして吐き出した煙が霧散するのを見届けて、母親はゆっくりと口を開く。
「……二年李組に、悠(ゆう)と云う少女が居た。その子は、学級委員長だった」
「ゆう? 悠ってもしかして……」
 悠というのは、紫音の母親の名だ。
「悠には無二の親友が居た。同じく李組の、亜衣(あい)と云う少女だ。こちらは、副委員長だった」
「ねえ、悠ってお母さんのこと?」
 娘の問いに、しかし母は答えない。そう、母親の口から紡がれているのは、既に桜組伝説なのだ。娘と母の会話など、そこには在るべき筈も無い。
(二年李組……ってことは、お母さんが高等部に居た時はまだ、桜組はなかったんだ。でも、その委員長の悠って子が、お母さんとは限らないし……)
 いきなりだが疑問は尽きない。しかし母は、紫音の問いには到底答えてくれそうもない。

「概ね平和的な雰囲気を保つ、リリアン女学園。他所の教育機関にありがちな、生徒間の陰湿なイジメや、それに伴う登校拒否などは皆無に等しい。だが、二年李組だけは例外的に特異だった。そう、あたかも全ての皺寄せ全ての齟齬が二年李組というクラスに押し込められたと言っても差し支えない程に、ね」


「曰く、”二年李組には、悪しき風が吹く” という──」



  *  *  *



 -悠-


 二学年に進級し、悠(ゆう)は、二年李組というクラスの一員となった。
 通常一年から二年へと進級する際にクラス替えは行われるが、二年から三年へと進級する際には、クラス替えは行われない。
 クラス替えというのは生徒にとっては非常に重要なもので、それは学園側も了承しているところなのだろう。
 受験などの進路問題で、三学年ともなると加速度的に忙しさが増す。
 だとしたら、一年間を共にして、気易い関係を築き上げたクラスメイトと共にもう一年を過ごせるというのは、非常に良心的なことだと思う。
 だって、ただでさえ忙しいのに、新しい人間関係に違和感なく馴染める人間など、ほんの一握りだろうから。
 もうすぐ悠は二学年を終えて三学年に進級するが、当然の如く、二年李組のメンバーと共に三年李組の一員として過ごすのだ。
 悠が今年わざわざ学級委員長に立候補したのは、忙しい三年になって委員長と言う役職に就きたくないから、という打算的な思いが少なからずあった。
 小等部の頃からの親友である、亜衣(あい)ちゃんに促された、というのも理由の一つ。「亜衣ちゃんが副委員長やってくれるなら」 という条件を飲んでもらって。
 
 けれど、悠が学級委員長に立候補した一番の理由は、別にあった。


 ──曰く、”二年李組には、悪しき風が吹く” という。


 その風聞の発祥が何時だったのか定かではない。誰が言い出したのか、誰が広めたのかは、既に今となっては知るべくもない。
 昔から連綿と言い伝えられてきたことなのか、それともつい最近にぽっと生れ落ちたことなのか、誰も真実は知り得ない。
 ただ一つ皆が理解していたのが、その風聞が決して見当違いのものではない、ということである。


「……結局私たちに、小夜子さんを救うことは、出来なかったのかな……」
「悠はよくやったと思う。でも、個人に出来ることなんてたかが知れてるんだ。どんなに頑張ったって、叶わないことはある」
「それは判ってるけどさ……」
 リリアン女学園からの帰り道の道すがら、悠と亜衣ちゃんは、とあるクラスメイトの家に寄ってきた。今はその帰り道だ。
 クラスメイトの名を、結城小夜子(ゆうきさよこ)さんと云う。
 最初の席替えで悠と隣の席になって、決して多くは無いが言葉を交わした。国語や古文が得意で、それ系の科目が苦手な悠は、何度か授業中に助けてもらったりした。

 ”……詩とか、書くの好きなんだ。”

 そう、恥ずかしそうに言った小夜子さん。
 線が細くて、儚げな少女だった。短めにカットされた髪の毛。頬に掛かる部分だけが一寸長くて、ちょっとおっかなびっくり話す時や、恥ずかしげに俯いてしまう時、いつもひょこひょこと揺れていた。
 恥ずかしがり屋でちょっと寡黙な子だったけど、悠は小夜子さんのことを好ましく思っていた。もっと親しくなりたいと、そう思っていた。 

 その小夜子さんが、ぱったりと学園に姿を見せなくなったのが、そろそろ空気がじめじめと湿ってきて、長袖で過ごすことが辛くなり始めた時期。六月頃のことだった。
 理由は定かではないし、クラスメイト達は、示し合わせたように小夜子さんが欠席を続けている、という話題から目を背けた。
 しかし悠には、おおよその見当がついていた。それは、悠が学級委員長に立候補した理由と、決して浅からぬ関係があったのだ。

 ──マリア様に見守られし乙女の園。
 明治時代から続くという伝統と、由緒正しき格式を持つリリアン女学園は、その校風と教師たちの質の高さなどにより、世間でよく云われるような、教育機関にありがちな生徒間の陰湿なイジメや、それに伴う登校拒否などのトラブルは殆ど見受けられない。
 マリア様が見てるから、悪いことは出来ないもの。
 よく云われる言葉だが、表面的にも内面的にも、その言葉は正しく的を射ていたのである。

 だがしかし、例外は存在した。
 理由など誰も知らない。科学的裏付けなど存在しない。それは例え、マリア様にだって説明不可能な特異な事象。
 そう、二年李組だけが例外的にそういった、『生徒間のトラブル』 が、伝統的に発生し易かったのである。


「小夜子さん、私たちとお話してる時は、あんなに楽しそうなのに……」
「……多分、大勢が駄目なんだと思う。悠とはあの頃から仲がよかったから、心を開いてくれるみたいだけど」
「亜衣ちゃんとも、気易く話してくれてるよ」
 それを受けて亜衣ちゃんは無言に穏やかな笑みを浮かべた。合わせて彼女の綺麗な髪の毛が微かに揺れる。
 特別な事は何かしてるようには見えないのに、亜衣ちゃんの髪の毛はとっても綺麗で程よくしっとりとしている。パサパサ気味の髪の毛を上手く纏めるのに毎朝手を焼いている悠は、素直に羨ましく思う。
 悠が小夜子と親しくなり、そうして、悠とツーカーの亜衣とも、必然的に度々会話を交わすようになった。
 だがしかし、リリアン女学園における三人の時間というのは、決して長くは続かなかった。
 
 そうして悠は、亜衣ちゃんと話し合った。
 ずっとずっと、それこそ家族みたいに親しくて、そして近い関係を保ってきた。亜衣ちゃんはとてもクールな子だったから、どちらかというと一つにかまけると回りがお留守になってしまう悠とはきっと、バランスの取れた友人関係だったのだと思うけれど。
 多分、これまでで一番、真面目に亜衣ちゃんと話し合った。

 ──やっぱり、私たち二人で何とかするしかない、という事を。

 二年李組にまつわる暗い噂。それは噂だけでなく、実際に効力を伴う、いわば呪いのような物だろう。
 ”自分たちの代で、二年李組にまつわる黒い部分。それらを払拭してやる” という意志のもとに、悠は学級委員長に立候補したのだ。
 亜衣ちゃんは悠の決意を汲んでくれて、自分も副委員長へ立候補してくれた。
 ずっとずっと、昔からの付き合いだ。いつだって二人で頑張ってきた。一人では到底叶わないことでも、二人で掛かれば恐いことなど何もない。
 そう、二人で立ち向かえばきっと、二年李組に吹きすさぶ悪しき風にだって、絶対に負けやしない。
 こうして悠と亜衣ちゃんが、二年李組という同じクラスで、机を並べることになったという事実にも、何かしら運命的なものを感じたからだ。

 陳腐なセリフと言わば言え。
 学級委員長などと云う煩雑な役職に立候補したのは、悠の正義感に他ならない。
 そして、その決意を実行に移すことが出来たのは、亜衣ちゃんが傍に居てくれたからだ。



  *  *  *



「……紫音のクラスでは、イジメとかあるか?」
 ずっと母の語りに聞き入っていた紫音は、唐突に自分の名を呼ばれて我に帰る。イジメ? そんなものは二年桜組には、いや、リリアン女学園には──。
「ない、と思うよ」
 100%存在しないとは言い切れない。少なくとも自分の知る限りは、という意味だ。
 娘の返事を予測していたかのように、母は小さく頷いた。
「そう、今のリリアン女学園にそんなものは存在しない。だが、その当時の二年李組には当たり前に、他所の学校機関並には存在していた」
 その事実を何とか払拭するべく、悠と亜衣という二人の少女が立ち上がった──これまでの経緯は、つまりそういうことだ。

「悠も亜衣も、年不相応に頑張った方だと思う。二人ともクラスの中心になりうることの出来る生徒だったから、決して彼女たちの努力は無駄ではなかった」
 イジメなどの事実が存在し、それが世間に明るみに出た場合……つまりは、被害者の側の自殺などにより社会的問題に発展した場合、取りも零さず学校側は、「知らなかった。今後はこういったことの起きぬよう尽力する」 というような主旨のコメントを残す。
 それは半分が事実であり、半分が不明である。
 学園側、つまりは担任教師が知らなかった、というのは概ね事実であり、この場合責められるべきは担任教師だけではない。
 何故ならイジメというのは、すべからく生徒以外に露呈しないように行われるのが定石だからだ。
 だからこそ生徒の一人である悠と亜衣は、そういった雰囲気を鋭敏に感じ取ることが出来た。
 彼女たちは、自分たちが二年李組の生徒たちの人間関係の中心に在り続けることで、多少強引にクラス内の秩序と平和を維持し続けたのだ。

「それって……」
 いくらなんでも強引過ぎる、と紫音は思う。そんなことをすれば、誰だって逆に反発したくなるだろう。
「確かに、強引ではある。でもな紫音、あの頃の二年李組を見れば、そういうやり方も致し方ないと思えるよ、きっと」
 紫音は沈黙する。自分には恐らく、想像することも叶わないことだと思う。二年李組の呪いがどこまで重いものだったのか未だに紫音は計りかねているが、少なくとも平穏とは程遠かったのだろう。
「悠と亜衣のやり方が功を奏したのか、イジメらしいイジメはそれ以上起こる事は無かった。それだけでも僥倖だよ。犠牲者は一人で済んだんだからな」
 犠牲者という単語を聞いて、紫音はびくりとその身を震わせる。
 そう、『既に起きてしまった事実』 たる、結城小夜子はその後、一体どうなってしまったのだろうか。
「……不登校を続けていた結城小夜子の家に、悠と亜衣は何度か足を伸ばした。それでも小夜子は、どうしても学園に顔を出すことは出来なかった。彼女たちの二学期はそんな風にして過ぎていった。多少強引な手法でクラスを纏めた二人に対する級友たちの風当たりは、決して快いものではなかったが、それでも多少気障りという程度だった」
「どうして?」
 今度はクラス中の負の感情が、二人に向きそうな状況ではある。
「それしか方法が無いって、皆理解してたんだろうな。諸手を上げて歓迎できるやり方ではなかったが、特別不満があるわけでもない。それだけ二年李組という存在は、難しい位置に在ったんだ。それに悠と亜衣はクラスの中心人物になり得る人間だと言っただろう。イジメに遭い易い生徒、遭いにくい生徒と云うのは、リリアンでも変わらないよ」
「そう、かもね。悪しき風……呪い、か……」
 一体それは、いかほどのものだったのだろう。紫音にとってイジメとは、テレビの向こうの世界の話だ。実際にお目にかかったことも、ましてやしたりされた事も無い。
 悪しき風という一種幻想的な言葉が生み出す、イジメという極めて現実的な事実。
 その不透明に濁った事実に、紫音はかつてない思いを馳せる。

「……ある種の膠着状態だった二年李組に変化が訪れたのが、三学期が始まって直ぐのことだ。クラスは仮初めの平和が徐々に板につき始めた頃で、悠も亜衣も、相変わらずの日々を過ごしていた」

 転校生。
 二学年の三学期と言う、とても不自然な時期に。

「転校生の名を、桜井百合子と云った。彼女の存在もまた──特異だった。悠にとっては特に……ね」
 既に母の語る桜組伝説に入れ込んでしまっていた紫音は、ただ小さく頷くことで話の続きを促す。二年李組と、その現状をどうにかしようと足掻き続けた少女たちの行く末を、是が非でも知りたい。
「ここで語り部は、悠から百合子へとシフトする」
 紫音はきょとんとする。語り部がシフトすると云う事は、つまり視点が変わると言う事だ。物語を紡ぐ上では重要な手法だが、いきなりそんなコトを切り出されても、どうしてよいやら対処に困る。
「でもな、紫音。よく覚えておいて」

 ──視点の変更なんて、登場人物たちの気持ちを顧みない、極めて強引な手法だって事を、ね。



  *  *  *



 -百合子-


 大きな桜の木を見上げていた。
 節くれ立って年月を感じさせるその老木は、ただ無言で私の姿を見下ろしていた。
 当然こんなに寒い時期だから、桜の花はまだ芽吹いてすらいない。
 見るからに寒そうだった。

「さ、寒い……」
 びゅうっと吹き付けてきた風に、思わず身体を震わせる。
 きょろきょろと辺りを見回すと、どうやら私の居る場所は、校庭の外れもいい所だった。
 人気はなく、いたって寂しい佇まいを醸し出している。
 だれもいない。
 だったら私はどうして、こんな所で一人、桜の木を見上げてたりしたんだろう。
「ああ、そっか思い出したぞ」
 私の名前は桜井百合子。
 今日からここ、リリアン女学園高等部、二年李組に通うことになったんだ。
 じゃあどうして、朝っぱらからこんな寂れたところで突っ立ってるんだとツッコまれたら、きっと答えられないと思うけどね……。

 それにしても、はてどうして私はこんなところに突っ立っていたのかなあと、ぼんやりと考えていたところでチャイムが鳴った。
「わわっ、いきなり遅刻はマズイ!」
 スカートを翻して、私は校舎を目指して走り出した。


「はじめましてごきげんよう。今日から一緒に皆さんと学ぶことになりました、桜井百合子です。よろしくお願いします!」
 何事も始めが肝要だ。
 『ごきげんよう』 っていう挨拶も、しっかり練習した。
 うん、元気が一番、っていうことを、しっかり最初にアピールしなきゃ。
 担任の先生の一言のあとに、ぱちぱちと拍手を頂いた。
 そうしてこっそりと、教室内をぐるりと見回す。
 みなさんの表情は割と、複雑なものだったかもしれない。
 でも、時期が時期でとっても微妙だし、それも当然かと思う。
 日本人は、余所者に冷たい、ってよく云うしね。
 
 担任の先生に促された先に一つ、空席があった。
 窓際で、日当たりの良さそうな席だ……うわぁ、午睡にぴったりな席かもしれない。
 私は、出来るだけおしとやかな風を装って、あてがわれた席を目指す。
 今時珍しい長い長いプリーツスカートはやっぱり、暫く慣れるまで時間が掛かりそうだったけれど……。
「ごきげんよう。桜井百合子です。これから、宜しくお願いします!」
 私の席の隣に座る、意志の強そうな人に挨拶をする。
 この学園初めての、『お隣さん』。
 でも……。

 
 私がリリアン女学園の二年李組で過ごすようになって、一週間ほどが過ぎた。
 そろそろクラスメイトさんたちの顔と名前も一致し始めた頃で、だいぶ気兼ねなく皆さんとお話できるようになったかな、と、そんな時期だ。
「あの、悠さん? その、この漢字の読み、教えてもらえないかなあ、なんて」
「……わだかまる、よ」
「あ、う、うん。どうもありがとっ」
 『蟠る』 なんて、普通の高校生に読めるかってのー。
 
 今現在、現国の時間。
 席順に教科書の朗読が行われている真っ最中であったが、どうやら私が当てられそうな場所に、どう脳みそをひっくり返しても、読めない漢字が一つ在った。
 こういうときは、隣人頼み。
 ちょっとした縁でお隣さんになることになった、悠さん。
 まだまだ知り合って一週間だけど、とても素敵な子だっていうのはよく判る。
 リーダーシップを備えてて、正義感が強くて。それでも飾ったりすることはなくて、あくまでも地道に、ひたむきに物事と向き合う人だ。
 授業中はとても真面目。学級委員長さんだから、そんなの当たり前、って言う人もいるかもしれないけど。
 でも、休み時間は程よく気を抜いてくれる人で、悠さんのお友だちの、亜衣さんと仲良さそうにお話してるの見ると、ちょっとだけ羨ましく思える。名コンビ? みたいな。

 でも、気がかりなことが一つあった。
 どうしてか知るべくもないけど、悠さんは、私とお話する時だけ、硬い。
 悠さんは、人見知りするような人には見えない。
 だったら私が、知らないうちに悠さんの気に障るようなこと、言ったりしたりしたのかな……。
 本当に素敵な女の子で、なにより、結構可愛い。
 もっともっとお近づきになりたいんだけど、何か得たいの知れない壁のようなものが、私と悠さんの間には、高く高くそびえ立っている。
 今はまだその壁を、到底乗り越えられそうにない。


「百合子さーん、お昼食べにいこ!」
「あ、うん、ちょ、ちょっと待ってて欲しいかもー」
 教室の入り口から、私に向かって声をかけてくれたお友達に、ちょっと待ってもらって、私は視線を横に向ける。
 そこには、4時間目でつかった教科書などを淡々と仕舞っている、悠さんの姿があった。
 どうやらこのクラスは、一つの学期ごとに席替えが行われるらしくて、必然的に、転校してきてまだ一ヶ月の私は、変わらず悠さんと机を並べて学園生活を過ごしていた。
 二年李組のみんなは、とっても素敵な子ばかりで、最初の頃は、「ちょっと雰囲気暗いかな?」 なんて思ったりもしたけれど、今では全然そんなこともなかった。
 むしろとっても明るくて、毎日がスゴク楽しい。
 もしかしたら、能天気なだけが取り得の、桜井百合子っていうヘンな珍入者のせいで、どちらかといえば静かだった二年李組というクラスの雰囲気が、変わってしまったのかもしれない。
 そう、変えてしまったのかも、知れない。

 でもそれって、悪いことなのかな? ううん、そうは思わない。むしろ、少なくとも良いことだと思う。
「はーやーくー」
「も、もうちょっと待ってってばさ!」
 急かす友人をなんとかなだめて、私は悠さんと向き合う。
「あのね、悠さん」
「……なにかしら」
 その瞳。
 悠さんの、とてもまっすぐな瞳。
 まっすぐだからこそ、嘘偽りがないからこそ、だからこそ私は、たじろいでしまう。
 悠さんは、嘘のつけない人だ。誰かに何かを言いたい場合、遠まわしにオブラートに包んだりしない。まっすぐに、自分の思うことを伝える人だ。
 だから、わかる。
 この人は私のことを、決して快く思ってはいない。
 けど、どうしてもその理由を口にすることの出来ない何かが存在するからきっと、何も言わないんだ。
「……ごめんなさい。なんでもないの」
 本当は、お昼一緒にどうかな、って誘いたかったんだけど……どうしても、言えなかった。
 悠さんの瞳が、声が、存在が。すべてが、私のことを否定していたから。

 
 本日の授業も滞りなく終え、靴を履き替えてさあ帰るぞ! というところで、私は急ブレーキをかけた。
「……いけないいけない」
 ちょっとした忘れ物。
 現国のノートは、ちゃんと家に持って帰らなきゃ。
 国語や古文は大の苦手だったから、きちんと復習をしないと、授業について行けない。
 ほかの教科のノートや教科書は、毎日持って帰る必要はないけど、国語系だけは、別。
 
 校舎内は、もう人影はまばらだった。
 部活動やってる人は、部活に精を出している頃だし、帰宅部な人は、今ごろ自宅に向かう電車かあるいは、バスの中だ。
 急ぎ足に二年李組を目指す。
 この一ヶ月ですでに見慣れてしまった、二年李組の教室がようやく見えてきて、私はなぜか安堵する。
 理由は、よく判らないけど。

 教室と廊下を繋ぐ扉に手をかけたところで、教室内に誰かいることに気づいた。
 こんな時間に、だれだろう……。
「……じゃあ、小夜子さんはどうなってもいいって言うの、亜衣ちゃんは」
「別に、そんなことは言ってない」
「だって……!」
 悠さんと、亜衣さん……?
 放課後の二年李組の教室にいたのは、私のよく知る人たちだった。
 よく知る人たちが、私の知らない表情をのぞかせている。私の知らない言葉で話している。
 盗み聞きなんて最低な行為だって頭では理解していても、私の行動は、その認識とは180度異なっていた。

「彼女のおかげで、私たちのクラスの雰囲気は良くなったよ。私がどうやっても出来なかったことを、彼女はあっけなくやり遂げちゃった。それは、認める」
「……」
「でも、こんなのはおかしい。絶対に間違ってる。小夜子さんはどうするの? 国語や古文が得意で、詩を書くのが好きだって、恥ずかしそうに言ってた、あの小夜子さんは?」
「落ち着け、悠。なにムキになってるんだ。言ってる事が支離滅裂だ。」
「ムキになんてなってない! 支離滅裂じゃない! そんなに落ち着いてられる亜衣ちゃんの方がおかしい! 百合子さんなんて……いきなり現れて、いったい何なのよ!?」
「……嫉妬してるのか? 百合子に」
「!?」
「悠の目指したこと、それはよく理解してるつもりだ。今の、こんなに雰囲気のいい二年李組はまさしく、奇跡的だと思う。こういうクラスを悠は……私たちは、目指したんだ。けど、私たちがどれだけ足掻いても起こせなかった奇跡を、百合子がたったの一ヶ月足らずで起こしてしまった。きっとそれが、悠は……」
「ちがう……そんなの違う……!」

 教室内でがたがたと、人が動く気配。二人の会話に聞き入っていた私は、致命的に対処が遅れてしまった。
「……!?」
「あなた……」
 乱暴に開かれた扉の向こうには、今にも泣き出しそうな、悠さんの顔があった。
 わたしは硬直したまま、なにも言えなかった。
 理解は出来ない。
 悠さんが何に理不尽な思いを募らせているのか、余所者の私には、到底理解できそうもない。
 ただ、悲しかった。
 悲しい思いをしている悠さんが、可哀相だった。
 何か話し掛けてあげたかった。でも、何を話す?
 なぐさめてあげたかった。理由も理解しないままに?
 そばに、いてあげたかった。──けれど私は、彼女のそばには、居ては、いけない──。


 誰も居ない廊下を走り去る悠さんの背を、私はただ、呆然と見送るしか出来なかった。
「……気にするな、百合子」
「亜衣……さん」
 ぽんと肩に手が置かれた。振り返るとそこには、亜衣さんが居た。
「百合子が考え込む必要なんて、ない話だ。悠のどうしようもない拘りなんだよ」
 こだわり……拘るには、それ相応の理由が絶対にある。悠さんが拘るほどの理由とは、いったい何だろう。
「……行こう、百合子」
 亜衣さんは、クラスメイトに、『さん』 を付けない。名前にさんづけが一般的なリリアン女学園では、珍しいと思う。
 クラスの子たちは慣れてるみたいだけど、私はまだ慣れない。ちょっと、どきどきする。
「ねえ、亜衣さん」
「なんだ?」
 私は、悠さんの邪魔をしちゃったのかな? 私は、ここに来ちゃ、いけない人間だったのかな……? 
 そう、聞いてみたかった。
「わわっ」
「もうそろそろ日も暮れる。早く帰ろう」
 ぐいっと頭を寄せられて、私はよろけてしまった。そうやってよろけた先には、意外なほどに柔らかな、亜衣さんのほっそりとした身体があった。
 きっとこれまで、影に日向に悠さんのことを支えてきた、亜衣さん。
 クールで、大人びてて、何事にも動じない亜衣さんのことを、私は少しだけ誤解してたかもしれない。 
 亜衣さんだって、言いたいことを我慢してる。つらくて、悲しくて、わめき散らしたいことをきっと、我慢してるんだ。

 ──だって、亜衣さんの身体は、こんなに辛そうに震えてるんだもん……。


 翌日の放課後。
 私は悠さんに呼び出された。あの、桜の木の下に。



  *  *  *



 紫音は押し黙ったまま一言も発しない。紫音の母は、いい加減崩れ落ちそうだった煙草の灰を、無造作に灰皿に落とす。
「紫音は、どう思う」
「……どう思うって、誰のこと?」
 そう問われても、何をどう考えてよいのやら。紫音は言葉に詰まる。
 悠も、亜衣も、そして転校生の百合子も、どこかちぐはぐな関係だった。肝心な部分が不明瞭なまま、彼女たちは交差している。どれほど目を凝らしても、核心が見えてこない。
「悠さんの気持ちは、判るよ。自分に成し得なかったことが、いきなり登場した第三者に、かっさらわれちゃったんだもの」
「……そうだな。人間として正しい心理だ。桜井百合子は、悠の理想像だった。でもそれは、百合子が特別だったっていうだけなんだ。悠が普通の人間だとしたら、百合子は天使のような存在だ。どう足掻いたって、悠は百合子には敵わない」
 すべての人に好かれ、すべての人に愛され、すべての物事を、事象を、人を、幸せなエピローグへといざなえる存在など、この世に有り得ない。
 二年李組の生徒たちにとっては、桜井百合子は掛け値なしに幸福の象徴だった。だがしかし、そんな幸福を目指した悠にとっては、自身の無力をまざまざと見せ付けられる存在でしかなかったのだ。
「でも、百合子さんは」
「うん、そうだ。百合子には何の罪もない。ただ二人の間にあったのは、持つ者と持たざる者の確執だけだ。しかしその溝は、絶対に埋まることはない」
 埋まらない溝は、百合子にとっては戸惑いと、悠に対する、微かな同情を湧き上らせるものだった。
 そして、悠にとっては──。

「……ねえお母さん、ひとつだけ、どうしても知りたいことがあるんだけど」
「なんだ」
「このお話の、その、主人公って、結局誰なのかな……?」
 初めは悠だと思っていたのだが、どうやらそう単純でもないらしい。悠とも取れるし、百合子とも取れる。
「紫音は、誰だと思う」
「うーん、やっぱり、悠さんなのかなあ……」
 決して自信はなかったが、紫音はそう答えた。何故なら彼女の立ち位置も、百合子の視点を経た今となっては不明瞭だ。加えて百合子に対する劣等感などは、主人公としての読み手の感情移入を削ぐ。
「──悠を主人公に据えるなら、ここで物語を終わらせても構わない」
 唐突な母のセリフに、またしても紫音は言葉を失う。
 確かにここで終わらせることは可能だろう。悠と、彼女に呼び出された百合子の間で、どんな会話が交わされるのか。母の口から語られなくとも、想像する事は出来る。
 悠と百合子が、その仲を修復するにしろ。或いは、決定的に袂を別つにしろ。
「書くのは紫音、おまえなんだからな。これまでの経緯を総括して、悠を主人公として定義して、しっかりと桜組伝説として仕上げられる自信があるなら、これでおしまいだ。この先など存在しない」
「……」
 挑発的な母の物言いは、かれこれ十六年も娘をやっている紫音にとっては慣れ親しんだものだったが、しかし何処か腑に落ちない思いがある。
 語られるべきなのに、語られていない事実が潜んでいる。
 人を喰ったような、付け加えて煙に巻くような母の態度。その裏に決して軽くない事実が息を潜めていると、娘としての直感が告げている。
 果たしてその直感は結局、母に話の続きを促すことになる。

「悠と百合子は、確かに物語の渦中たる人物だ。だがしかし、そんな二人を一番近くで見守っていた彼女は、一体何を思い、そしてどう動いたのだろうな……」



  *  *  *



 -亜衣-


 『忘れる』 という行為は、人間に備えられた自衛作用であると物の本で読んだ事が有る。成る程確かに、いつまでも辛く苦しいことを克明に脳が記憶していたならば、その後の生に支障をきたすだろう。
 例えば亜衣とは古い付き合いである友人の悠は、亜衣と出会ったときの事を忘れてしまっている。幸か不幸か亜衣は忘れなかったのだが、悠は其の事実を忘れ、そして曲解してしまっていた。
 愚にもつかない瑣末な事なのだが、亜衣と悠の出会いは決して、友好的なものではなかったのだ。しかし悠の現在の認識では、それは非常に友好的で、平和的なものに置換されてしまっている。
 悠にとって亜衣との友好的ではない出会いは、現在の友好的な関係にとってつまり矛盾だ。決して好ましい記憶ではない其れから、悠の無意識は故意に目を逸らしそして、忘却した。
 だがしかし大切なのは今現在であり過去ではない。今の二人の関係は亜衣にとっても好ましいものだったから、つまり其れは、瑣末なコトなのだ。

 忘却は罪ではない。だとすれば一体何なのだろう。

「悠……おまえ、百合子に一体、何を言った……?」
「……」
 桜の老木の下に立ち尽くす悠は黙したまま答えない。言葉もないと形容するのが相応しいのだろう。
 悠の足元には、一人の少女が倒れ伏していた。見覚えのあるその姿は、転校生の桜井百合子のものだ。幸い地面は乾いていたが、それでも百合子の制服のそこかしこが土に汚れている。
「知らない……私は、わたしは……」
 平常とは云い難い悠も放っては置けなかったが、それでも今は倒れ伏した百合子をどうにかするのが先決だ。百合子の事は、亜衣は専門的な知識を持ち得なかったから、行く末に関しては何も言えない。だがしかし、ここで何とかしなくては、何より悠の立場が危うくなる。
 ぐったりとした百合子をどうにか抱きかかえ、手近にあった古びたベンチに横たえる。呼吸は乱れていない。脈も正常だ。それでもこの先、桜井百合子と云う存在に未来が有るのか否か、それは想像がつかない。

 百合子が悠に呼び出されて何処かに消えたということを、亜衣はクラスメイトたちから聞かされた。既に百合子は二年李組の中心人物だったから、誰もが百合子のことを心配していた。
 そして、誰もが悠のことを疎んじていた。
 今の二年李組が始まってからこっち、悠の精一杯の努力を煙たがっていた級友は決して少なくなかったが、それでも其の努力は認められて然るべきものだと、それがクラス全体の認識の総括だった。例え仮初めの平穏だろうと、それを手繰り寄せた悠の努力は、受け入れられて当然だと亜衣も思う。
 だがしかし、人は忘れてしまう生き物だ。
 悠の掛け値なしの努力は、桜井百合子に塗り潰されてしまった。あらかじめ断っておくが、悠が必死で掴み取った仮初めの平穏が、ではない。
 悪しき風吹くと忌み嫌われた二年李組をどうにかすべくその身を砕いた、悠という学級委員長の努力──其の、『記憶』 が、級友たちの中から薄らいでしまったのだ。
 つまりそれは、悠が──。

「悠!」
 自失していた悠は、うわ言のように繰り返し繰り返し、何かを呟いていた。両の肩を強く揺さぶっても、悠の口をついて出る言葉は要領を得ない。こんな状態の悠を放っておくのは不安に駆られたが、しかし百合子をどうにかするのが先決だ。
「わたし、は……」
「悠……」


 翌日の放課後、亜衣は、悠を同じ桜の木の下に呼び出した。
 いや、『連れて来た』 と形容するのが正しいかもしれない。今日の悠はただ一日、ぼんやりと自分の席に座っていることしかしなかった。ノートも取らず、教師に当てられても、ただ判りませんと答えることしかしない。腫れ物を扱うようなクラス中の雰囲気が気に食わない。遠巻きにひそひそと悠を不当に揶揄している連中を睨んで黙らせることぐらいしか、亜衣に出来ることはなかった。
 悠に話があったのは事実だが、何よりクラス中のぶしつけで気遣いのない視線の中で、悠を晒し者にしておきたくなかった。李組に吹くと云われる悪しき風に抗おうとその身を砕いた悠が、今では抗うことも出来ずその風を一身に浴び滅び消え果てようとしている。それだけは、絶対に許せない。
 悠を伴って教室を出ようとするさなか、亜衣は一度だけ後ろを見やった。

 悠の隣の席は、まるで初めから誰も座っていなかったかのような──もぬけの殻だった。


「悠、あのとき百合子に、一体何を言ったんだ?」
 丸々一日前の問い掛けと同じ事を、もう一度繰り返す。あの時の悠は動転し自我を失していたが、今は只呆然と佇んでいる。
 それでも悠という少女は、強き心、逆境に挫けぬ心を持つ人間だ。例え一時のショックに自失しようと、そのまま流されてしまうような人間では断じてない。信じればきっと悠は答えてくれる。だとすれば今こんな現状で、私が悠を信じてやらなくて誰が信じてやるのだ。
 だからこそ今、私は悠にもう一度問い掛ける。そして──悠を信じて、全てを話そう。

 俯いたままの悠の表情は読み取れない。亜衣は只、ひたすらに悠を待っていた。
 やがて、搾り出すように震えた声が、悠の口から零れそして、落ちる。
「……小夜子さんを、返して、って……」
「そうか……」
 亜衣にとって其の告白はは、充分に予想できたものだった。しかし尊重すべきは悠が亜衣を信じて話してくれること。自分が取り返しのつかぬことをしでかしてしまったと自覚しつつも、悠は亜衣を信じて話してくれた。亜衣にとっては其れだけで充分だった。
「小夜子は、私たちのよく知る結城小夜子は、何処に行ってしまったんだろうな」
「!? 亜衣ちゃん、小夜子さんのこと、覚えて……」
「当たり前だ」
 きっと今自分は、苦笑を浮かべている事だろう。思い込みの激しい悠のことだ。きっと自分以外の級友たち全員が、結城小夜子を忘れてしまったとでも思い込んでしまったのだろう。当然、亜衣も例外ではない。
 其れは有る意味、亜衣の迷いが彼女を後押ししてしまったとも言えるのだろうが……。

「小夜子が顔を見せなくなったのが、確か六月の頃だ。あの頃は私たちもまだ、何をどうすれば良いのか判らなかった」
「……そう、だね。でもまだ手遅れじゃないと思ったから。私は、私たちは……」
「手遅れだったんだ」
「……え?」
「手遅れだった。もう小夜子を救うことは、不可能だと私は思った」
 亜衣の言葉が悠の中に浸透するのには、いくばくかの時間を要した。つまり其れは、前提の否定に他ならなかったからだ。
「私は知ってたんだ。あの時、一学期も始まってすぐの頃、小夜子をイジメていたのが誰だったのかを。そして、何をされたのかを、ね」
 あのときの悠は、その事実を知りたがっていた。だが、其れを知ってどうする? 既に起きてしまった事実を、過去の事として割り切ることなど出来る人間ではないのだ、悠は。
「どうして、教えてくれなかったの……!?」
「教えたら、悠はその時、どうしていた?」
「そんなの決まってる……小夜子さんを苛めた連中を、同じ目に遭わせてやる。そう、今からだって遅くはないの! だから……!」
 今となっては隠しておくことにそれほどの意味などない。あの時の悠には、小夜子を苛めていた誰かを裁くという意思よりも、二年李組をどうにかしたい、という意思を持っていて欲しかったのだ。
 誰よりも強き意思の持ち主であった悠の其れを、負の感情に浸したくなかったのだ。亜衣は、正義感を迷いなく振るうことの出来る強き意思を備えた悠に、心惹かれたのだから。

 悠は強固な視線を投げつけてくる。だから、教えて──。悠の視線がそう言っていた。
「もう、曖昧だよ」
 そう、今となっては全て曖昧だ。
 自分たちのクラスの雰囲気が悪いのは、ここが二年李組だったから。誰かが誰かを苛めるのは、ここが二年李組だったから。誰かが誰かに苛められるのも、ここが二年李組だったから。
 誰もがその風聞に依存していた。何年前なのか、それとも何十年も昔のことなのか。もしかするとその当時、リリアン女学園には似つかわしくない、生徒間の陰惨なイジメは在ったかもしれない。その事実を元に、二年李組には悪しき風が吹く──そんな風に揶揄されたという事実も、あったかもしれない。
 だが、その代の生徒たちがリリアンを離れてしまえば、そこで終わる筈だった。しかし其の風聞だけは、いつまでも残り続けた。悪しき風は、いつまでも二年李組に、わだかまり続けた。
「私は、一部始終を小夜子本人から聞いたんだ。私が彼女を問いただしたわけじゃない。悠には教えずに、私にだけ教えてくれた理由はもう、知ることは出来ないけど……」
 きっと小夜子は、悠のことを本当に好きだったんだろう。
「……今更そんなこと言われたって、納得出来る筈、ないじゃない……」
「ごく普通の友達同士でありたかったんだろうな、悠と」
 普遍的な友人関係。勉強のこと、趣味のこと、好きな誰かのこと。そんなことを気兼ねなく話せる、屈託の無い友人関係。小夜子は望んだものは只其れだけだった。だがしかしその小さき望みすら、悪しき風に覆い尽くされてしまった。
「でも、もう小夜子さんは……」
「……うん」
 恥ずかしがり屋でどちらかと云うと寡黙で、国語や古文が得意で、詩を書くのが好きだと言っていた結城小夜子。もう二度と彼女に会うことは叶わない。
 彼女はもう、この世に存在しないのだから。



  *  *  *



 悠も、亜衣も、そして彼女も、誰も悪くない。全てはそう、所詮幻想、まやかしでしかなかった、『悪しき風』 の所為なのだから。
「……お母さん、これ、本当にあったことなの? 本当に小夜子さんは……」
 母の視線は虚空に向けられたまま微動だにしない。殆ど吸われることなかった煙草の灰を落とし、一度だけ深く吸い、そして無造作にもみ消す。
 こんなことを聞くのはルール違反なのかもしれない。それでも紫音は聞かずにはいられなかった。母の語る桜組伝説、それは実際に起きた事件なのか。
 ──お母さんは一体誰だったの? 悠さん? 亜衣さん? それとも……。 そう、聞きたかった。
「……もう忘れたよ。言っただろ、人間なんて、都合の悪い事なんてあっという間に忘れてしまう生き物なんだ。李組のクラスの連中も。そう、おまえが入れ込んでる、悠という学級委員長だった少女もな」
「悠さんが、一体何を忘れたって言うの」
「亜衣との出会いを忘れ、曲解していると言っただろう。彼女はな、昔、一人の同い年の少女を苛めていたんだ」
「え……?」
「悠も、その少女も、当時幼かった。イジメなんて云う言葉の意味も、まだロクに知らない頃さ」
 それは本当に、稚拙極まりないことだった。例えば幼子がトンボの羽を興味本位で毟ってみたりすることと同レベル。その子が一生懸命創った砂の城を壊したり、自分より綺麗な髪の毛を引っ張ったり、その程度のことだった。
 それでもその子が辛く感じていたなら、悲しく思っていたなら。悠に恐怖心を抱いていたならば、それは正しく、被害者と加害者の関係だ。
「まさか、その悠さんが苛めてた子って……」
「悠はその事実を忘れていた。平和的な記憶へと置換していた。だがしかし──亜衣は、忘れてはいなかった」
 亜衣がその事実をどう受け止めていたのかは判らない。十年以上前の記憶だ。風化と劣化を重ね、亜衣の中でもすでに曖昧だろうが、少なくとも亜衣にとって快い記憶ではなかったはずだ。
 それでも亜衣は悠を支え、信じた。今の二人の間に在ったものはそう、掛け値なしの信頼関係に他ならないのだから。

 母と娘には、しばしの沈黙が訪れた。母は、もう何本目とも知れない煙草に火をつける。
 沈黙は重い。だがしかし、彼女たちが耐えていた重みとはきっと、こんなものではなかったのだろうと紫音は思う。だって、悠と亜衣の会話から察するに、結城小夜子と云う少女は──。
「自殺した」
「!?」
「……と、一言で表してしまえるなら、ある意味判り易い」


 半年以上も同じクラスで顔を合わせ、机を並べて過ごすクラスメイトたちならば、例え自分とはそれほど親しくはない生徒といえど、性格や背格好、細かく言えば、話し方や或いはクラス内においてどういった立ち位置なのか。なにより顔くらいは意識せずとも覚えてしまうものである。
 頻繁に言葉を交わす生徒はもとより、接点の薄い生徒といえどそれは例外ではない。
 だが、もし。
 とある生徒が一学期も早々に姿を消してしまって、以降、一学期、二学期と暦を重ねたならば、果たしてクラスメイトたちにとって、その生徒は一体どういった存在と成り果ててしまうのだろう。

「三学期の頭に転校生として二年李組にやってきた桜井百合子。彼女は魅力的なパーソナリティを持った生徒だった。百合子でなくとも、悠だってクラスの連中にとっては充分に印象深い存在だったはずだが……百合子の登場は決定的だったな。印象なんておしなべて相対的なものだ。更に強い印象にあっけなく上塗りされてしまう。あまり目立たない存在だった小夜子の印象など、もう、その頃には誰の中にも残っていなかった。結城小夜子と云う不登校の少女は確かに居た。しかし、誰も小夜子の顔を覚えていなかったんだ」
 紫音は押し黙ったまま。母の手元から立ち上る煙の向こうの何かを、じっと見つめていた。
「彼女は結局、自分で自分を殺したんだ」
「……?」
「だから、結城小夜子と桜井百合子は、つまりイコールと云う事だ。俗に云う二重人格。結城小夜子という不登校の少女は、転校生の桜井百合子と、つまり同一人物だという事だ」

 小夜子とは正反対のパーソナリティを持った百合子は、つまり小夜子の理想像だった。
 陰湿な苛めに遭い、その記憶と共に自分の人格まで封印──つまりは忘却してしまった。繰り返すが人間など、自分にとって都合の悪い事実など、あっさりと忘れてしまう生き物だ。それはどんな性格の人間だろうと例外はない。例えば悠が亜衣との過去を忘れてしまったように。
 だが、忘却とて万能の逃避ではない。小夜子が、彼女自身の記憶を忘れ消し去る為には、取り返しのつかないリスクが伴ったのだ。
 忌まわしい記憶ごと結城小夜子と云う人格を消し去った──或いは、封印した。封印、されてしまった。
 結城小夜子が終わり、桜井百合子が始まった。陰惨でしかし嵐のようなイジメが通り過ぎた後に小夜子でも百合子でもない曖昧に自失したままの少女の目の前にあったもの。
 それが、あの桜の老木だった。

「そんなこと……」
 有り得ない、紫音はそう続けようとしたが、口の中がからからに乾いていて言葉にならない。
「ま、確かに有り得ないかもしれないな。小夜子と百合子と、一本の桜の老木。その桜を、『見ること』が、人格がシフトしてしまうスイッチになったんだ。その桜を見てしまえば、あの陰惨な記憶を嫌でも思い出してしまう。小夜子はそれを忘れようとして──。不登校を続けていた小夜子が、どうして桜の老木の元へ赴いたのかは知らん。知らんがな、予想は出来る」
「……」
 命を、絶とうとしたのか。
 クラスメイトたちの記憶からは徐々に自分が薄らいでいく。残されるのは忌まわしく忘れがたい記憶のみを後生大事に抱え陰鬱と生きる自分自身のみ。
 光射さぬ未来を憂いて生を終わらせようとした彼女をを待っていたのはしかし、結城小夜子との永劫の別れ。そして桜井百合子との邂逅だった。
「けどな紫音、例えばおまえがその当時の李組の生徒だったならどうだったと思う? 結城小夜子の、せめて顔くらいは、ほぼ一年後においても覚えていることが出来たと思うか?」
 紫音は答えられない。覚えていられる自信など、これっぽっちもなかったからだ。
 二重人格など現実的ではない。実際にそういった症例は存在するのだろうが、よもや身近でまみえることになろうとは、想像だにしなかった。
 理不尽な暴力に身も心も苛まれる。気を遣ってくれた人間はいたが、結局は本来の自分の居場所を思い出させ、しかしそこに居ることは叶わない。既に誰の心の中からも自分と云う存在が消え果てしまったのなら──或いは、彼女にとっての現実は、全てを忘却するべきモノに成り果ててしまうのかもしれない。
 理想の自分が住み生きる世界は、ひどく居心地が良い。それは想像の世界にしか過ぎないものだったが、本来の自我の消失と云うリスクを伴うのなら充分に手繰り寄せることの出来る、現実感を伴った空想そのもので。
 計らずしも小夜子は、そのスイッチを押した。
 当然紫音は、そのような理不尽な目に遭わされた事も、ましてや全てを忘れ去りたいとなどと切に願ったことも無い。自分ではない自分の存在を誕生させることを望んだことも無い。
 理解は出来たが、納得など出来そうも無い。しかし紫音の中の何処かの感情が、それを肯定する。もしも自分がそのような立場に立たされたとしたら……。果たして、小夜子と同じものを望んだのだろうか。

「そうだ……先生は!?」
 紫音にはひとつ閃いた事があった。悪質なイジメを見逃してしまうのは当然誉められたことではないが、しかし担任教師一人を責められるものでもない。
 だが、桜井百合子と云う虚像だった転校生はどうだ。担任なのだから、生徒の顔、少なくとも存在を忘れる可能性などゼロに等しいだろう。桜井百合子を転校生として招き入れる事など有り得ない。有ってはならない。
「二年李組の担任の先生は、このときどうしたの? 何を考えていたの? 答えてよお母さん!」
 それは純然たる否定だ。母の語る桜組伝説の物語性の、純然たる否定の言葉に他ならない。それでも紫音は言わずにはいられなかった。認めたくなかったからだ。
「……担任教師、か。そんなキャラクターなど、この話には存在しないよ」
「嘘!」
 二年李組の担任教師は、この物語に絡む必然性がある。勝手な都合で削られて良いキャラクターではない筈だ。
 そのまま母と娘が睨み合う事数分。母は煙草の箱に手を伸ばしたが、既に中身は空だった。小さく舌打ちを一つ、そのまま空箱を握り潰し、屑篭に投げ捨てた。
「……若い女性の教師だったよ。大学を出たばかりの、いわゆる新任教師だ。リリアンの上層部が何を考えていたのか知らないがな、生徒たちとの差など殆どない若い教師をあてがって、新しい風でも呼び込もうとしたのか。或いは、何も知らない新任教師に、極めて扱いの難しいクラスを受け持たせたのか。それは判らん。ただ、二年李組の担任は若く、経験などなきに等しい教師だった。ま、教職者と云うものに対する熱意は持っていた」

 下らない風聞などその教師は知らなかった。だが、現実は着任早々に身をもって知ることになる。
 しかし、悠と亜衣というそれぞれ学級委員長、副委員長がよく動いてくれたことは、彼女にとっては数少ない救いだった。
 それでも、一介の高校の教師が生徒に対して出来ることなどたかが知れている。立場の異なる者に真実を教える者など皆無だったし、クラスのための努力など、結局は自身の無力を再確認するだけに留まった。
 そのまま一学期、二学期と時は流れ、そしてやはり彼女にとっての膠着状態も、一人の転校生。正確には、転校生の母親によってもたらされることとなる。

「その教師は随分と驚いただろうな。小夜子の母親にどうしてもと自宅に呼び出されて出向いてみれば、自分の記憶とは正反対の小夜子──この時は桜井百合子か。百合子と、全く様変わりしてしまった娘を、転校生としてリリアンに通わせて欲しいと、母親に頭を下げて頼まれたのだからな」
「……」
「小夜子の母親の心理など理解は出来ん。したくもないが、私はこの通りの駄目な母親でね。実の娘の前で平気で煙草を吸うわ、あまつさえ家事も娘に任せ切り。親戚付き合いも悪い、というか一切無いな。だからかも知れんが、まっとうな母親の気持ちと云うのが理解出来ん。今更マリア様の加護にすがろうとは思えんが、それでもおまえが真っ直ぐに育ってくれたことだけは、マリア様にいくら感謝してもし足りないくらいだ」
「そんなこと、気にしてないけど……」
 紫音は父親という存在を知らない。原初的な記憶の中に、母ではない誰かに幼い頃の自分が抱き上げられた、というイメージの断片がある。それが父親かどうかは定かではないが、紫音はそれを気に病んだことはかつて一度も無い。
 母親は昼間主に眠っていて、夕方に起き出しては紫音にとっての夕食、つまり母にとっての朝食を共にする。そのまま母は仕事に行くと言って家を後にして、朝方のまだ紫音が起きる前に帰宅する。何らかの夜の仕事だとは予想しているが、表立って聞きただしたことは無い。
 決して安くないリリアン女学園に通うための学費を稼いでくれて、朝はいつも紫音のことを起こしてくれる。世間一般の母親とはいくばくかのズレがあるのだろうが、紫音にとっては充分に母親だった。
「私には小夜子の母親の気持ちが理解出来ん。おそらく紫音、おまえが小夜子の真意を理解出来ない事と同程度にはな」
 母は空いた手でライターを弄びながら言った。おそらくは煙草を吸いたいのだろう。
「李組の担任教師は……何を考えていたのだろうな。小夜子の母親の提案を飲んだんだ。せめて娘に、普通に学校に通わせてやりたい、そういった母親の気持ちを汲んだとは思えんがな」
「……どうして?」
「その教師には子供など居なかった。子を持たぬ者に、子を成した母親の心理は理解出来んよ。だから……状況を打開させたかったのだろう。悠と亜衣も尽力によりクラスはそれなりに平穏ではあったが、それでも結局、これまで担任は無力だった。だが、様変わりした小夜子、つまり百合子を転校生として迎え入れることは、自分にしか出来なかったのだから。所詮は直ぐに露呈してしまうだろうが、百合子は見た目には小夜子なんだ。対外的には、久しぶりに登校してきた結城小夜子、としておけば少なくとも暫くは時間が稼げる」
 だがしかし、結果は──。
「事態は最悪のカタチで露呈した。百合子だった小夜子は意識を失い、そして倒れた。原因は悠だな。その悠を庇うことも、倒れた百合子をどうにかすることも、一介の担任には過ぎた所業だ。結局学園側に露呈して、責任を追及された。否定しなかった担任教師は結局、リリアンを去ることになったが……」
「……どうしたの?」
「その当時若かったその担任教師にも、それなりの意地はあったのだろうな。いや、若かったからこその意地だったな……。彼女は去り際に学園側に対して一つの提案をした。彼女なりに事態を受け止めて答えを出したんだ。自分の教職生命と引き換えに学園側にその事実を突きつけた」
 何処か母親は自嘲気味だった。そう、まるで過去を懐かしむような。
 以前に母親は、自分がリリアン女学園の出身だとこぼしていた。果たして『出身』という言葉は、どこからどこまでを意味するものなのだろう。
「さて一体それは、どういったものだと思う?」
「さぁ……?」
 母親の様子は確かに若干変わってはいたが、ただ単に煙草が切れたからなのかもしれない。

「二年李組の改名だよ」

 そう言って母は立ち上がった。二年李組の改名? それが何を意味するのかとっさには理解できずに、紫音は呆けたままだった。座り込んでいた紫音の脇を、母は無情にもスタスタと歩いていく。
「ちょ、ちょっと待ってよお母さん!」
 なんだ、と母親は面倒くさそうに振り返る。すっかり時間を失念していたが、そろそろ仕事に出向かなければならない時間である。それでも紫音はどうしても引き止めたかった。聞きたいことが山ほどある。
「悠さんは? 亜衣さんは? 百合子さんはどうなったの? それに、改名された二年李組って……」
 つまりそれが、母の語る桜組伝説なのだろうか。
「……もう忘れたよ。これで、この話は終わりだ。改名後の名前など知らん。今は桜組となっているようだがな。そして、この連中がその後、どうなったのか──紫音、おまえが決めるんだ。書くのは私じゃない。おまえなんだからな。紫音にとっては間違いなくこれはフィクションだ。誰もが不幸なままでもいい。或いは、誰か一人でも救ってやるといい。紫音の望むように、この話にエンドマークを印せ」
 行ってくる、とぶっきらぼうに呟いて、母親はリビングを出ようとする。これ以上母を引き止めることは出来ない。だから、最後にどうしても聞きたいことを一つだけ。
「……お母さんは、誰だったの? 悠さんなの? それとも」
「忘れた」
「じゃあ、どうして名前がおんなじなの!? 意味ぐらいあるんでしょ? 教えてよ!」
 紫音はいい加減苛立っていた。理解も納得も出来ないことだらけだったが、それだけはどうしても知りたかった。何故、母と同じ名前のキャラクターが居るのか、その理由を。
 すると母は、ことさら面倒くさそうにこう答えた。
「……ただ単に、おまえの感情移入を誘うためだ」



  *  *  *


 -???-


 そして私は、また桜の木の下に居た。
 目の前には一面の桜色。薄桃色の花々の隙間から、ごつごつと節くれだった幹が所々覗いている。
 頬撫でる風は春真っ盛りと呼ぶに相応しく、まだまだ肌寒さは拭えないが、それでも吹き付けてくる風は柔らかで、春の到来を私たちに教えてくれる。
 
 わたし……たち?

 暦は四月を数える。私にとって三度目のリリアン女学園高等部での春は、何処か切なさをひどく近くに感じる。
 無くした記憶がちっぽけな私を苛む。正体の知れない不安はまるで、覚めない悪夢のように思える。
 私の知らない記憶はきっと、私ではない誰かが知っている。

 ……。

 それは嘘だ。私は全てを知っていた。今の私、という狭義の意ではない。
 私ではない私しか持ち得なかったはずの記憶も、きっと今の私は細大漏らさず知っているのだから。

 そう、私はきっと、悠さんのことが大好きだった。
 どこまでも前向きで強き心を彩る彼女の生き方は、とても格好が良かった。負けず嫌いでちょっとだけ頑固な人だったけれど、どこまでもひたむきで真っ直ぐで、自分の強さを少しも鼻にかけない素敵な人だった。
 しかし私は、彼女を傷つけてしまったのだろう。悠さんの悲しそうな表情ばかりが印象に深い。

 亜衣さんのことも、好きだった。
 的確に悠さんをフォローする亜衣さんはそう、まるで大人の女性みたいだった。ぶっきらぼうで癖のある話し方にどうしてか私は胸を高鳴らせた。悠さんと亜衣さんのコンビは相性が抜群で、まるでそう、二人揃って両の翼。そんなイメージを私に抱かせた。
 少しだけ嫉妬もした。それは二人のどちらに対してなのか、分からず終いだったけれど。
 桜井百合子という虚を受け入れてくれた担任の先生とは、あまりお話が出来なかったけれど。それでも私のことを見つめてくれた瞳は、とても優しかった。
 今はもう逢う事は叶わない。けれどいつか、お礼を言いたいと思う。

 ……ここには誰も居ない。少しだけ寂しい。

 ある意味での始まりの場所だったここ、大きな桜の老木の下。
 この場所でクラスの子たちにされたことを、私は生涯忘れることは出来ないだろう。それを忘れたいと願った私は、私自身さえもまるで泡沫の夢のように忘れてしまったのだから。
 辛かった。痛かった。恥ずかしかった。
 一生分の辛酸を舐め尽くしたと形容しても言い過ぎではないかもしれないけれど、それでも私はこうして今ここに両の足でしっかりと立っていられている。
 融けない雪が無いように、癒えない傷もまた存在しない。傷痕くらいは残るかもしれないが、醜い傷痕とて自分自身の一部なのだ。きっといつか、自分として受け入れることが出来る筈だから。
 
 ──もう、ここには用はない。

 行こう。まだまだ登校ラッシュには程遠い時間。リリアンの敷地内は凪のように静まり返っており、人の気配はほぼ皆無に等しいけれど。
 これから始まる三学年と云う季節に臨む前に、どうしてもあの場所に足を運んでおきたかった。
 あの教室へ。
 予想通り学園内はしんとしていて、私の足音はとてもよく響いていた。
 程なく私は目的地に辿り着き、そして半ば無意識にそれを仰ぐ。


 『二年桜組』

 かつて二年李組だったその教室の入り口、そこに掛けられていた真新しいプレートには、そう銘打たれていた。 
 

 桜組。それがこの場所の新しい名だった。
 きっと意味などないのだろう。これから始まる春という季節にちなんで付けられたいわば、学園の上層部の些細な意思に他ならない。
 だとすればこの私のちょっとした悪戯心は出来心。誰にも公言することは出来ないからきっと、生まれたばかりの私の初めての意思。
 結城小夜子としてリリアンに籍が置かれているはずの私だけど。
 本当の名前は、『さくら』。新しく生れ落ちた私が、私自身の名を定める。
 結城桜。
 クラスの改名後の名に意味など無かったはずだけど、だとしたら私が。私だけが、この改名を定義付けてみよう。

 桜組と廊下を繋ぐ扉を開ける。
 中には、とてもよく見知った姿が二つ在った。
 彼女たちはどう思っているのだろう。今この場所に現れた私を、一体誰だと思ってくれているのだろう。
 誰でもいい。小夜子でもいい。百合子だっていい。どちらも私自身に他ならないのだから。

 けどいつか、本当の名前を伝えられたら。
 私の名前はさくらだよって、笑顔で大好きな二人に伝えられたなら。
 二人は笑うだろうか。怒るだろうか。それとも呆れるだろうか。
 それでも、彼女たちと大切な何かを共有できるならばきっと。
 ただ、私はそれだけで──



  *  *  *



「……随分とまた、量を書いたわね」
 席についたまま不破峰は、心底呆れたように呟いた。不破峰の机の上には、いつぞやの作品例にされてしまった桜組伝説の時の、ゆうに数倍の量のプリンタ用紙が置かれていた。
 当然紫音にとって、その不破峰の態度は予想できたものだったから、別段驚きもしないし、反論もしない。ただ自分はひどく長い文章を書いてしまったなと、それだけだった。
「ん、まあね」
 しかし、紫音の反応が鈍いのはそれだけが理由ではなかった。
 結局あの後、母の語った物語に登場した人物たちは、一体どうしてしまったのだろう。その後の生を、何を思って過ごしたのだろう。
 母の語りを継ぐ形でどうにか物語として仕上げたのは紫音だったが、当然それが真実ではないのだろう。そう、真相は紫音の母が知るのみである。
 悠は、亜衣は、そして小夜子と百合子は? そして結局、母は一体誰だったのだろう……。
 尽きない疑問は、紫音から普段の能天気さを奪っていた。
「元気ないわね、紫音さん。無理は禁物よ? 結局学園祭の余興でしかないんだから」
「うん……」
 紫音を気遣いつつも不破峰は、手に持つとそれなりの重量のある紫音の作品を読み進めている。
 読むのが早い。紫音は単純にそう思った。恐らくは自分の何倍も活字に慣れ親しんでいるのだろう。
 しばらくは紙の擦れる音だけが、二人の周りには響いていた。
 クラス内はそれなりに喧騒に包まれていたが、しかしこれっぽっちも紫音の耳には入ってこなかった。

 誰かの笑い声も、ふざけたような声も、そしてちょっと真面目な声も。今の二年桜組の平和的な喧騒が全て、母の語ったあの物語の上に成り立っているものだとしたら。
 私は一体、どうすればいいのだろう。
 桜組伝説として纏め上げ、こうして不破峰に提出してしまったが、果たしてそんなに軽く扱ってよいものだろうか。

「読み終えたわ」
「早っ!?」
 いくらなんでも早すぎる。紫音は、眼鏡を直す仕草をする不破峰を、まじまじと見つめてしまった。
「安心して。内容はしっかりと把握してるから。でもね、これで何が不満なの?」
 不満? そんなんじゃない。紫音はただ、思い馳せていただけだ。
 自分で書いたくせに割り切れていない。手ずから印した物語へのピリオドも、まだ胸の中にわだかまり続けている登場人物たちへの感情も。
「もしかしてこれは、貴女がゼロから生み出した物語ではないから、かしら?」
「……すごいね。わかっちゃうんだ」
 あっさりと紫音が認めるとは思っていなかったのか、不破峰はやや気抜けしたようだった。
 沢山の物語に触れてきたはずの不破峰には到底理解できないかもしれないが、書くこと、そして読むことへの経験と理解の浅い紫音にとっては、どうしても釈然としない思いが頭にこびり付いて離れないのである。
 あれっきり母は桜組伝説について語ろうとはしなかったし、これではまるで、自分がこの物語を手放してしまえば、悠も、亜衣も、誰も彼も救えない。そんな子供じみた思いに囚われて。
「原作者はどなた?」
「私の、お母さん。最後だけ私が考えて書いたの」
 へえ、と不破峰は幾ばくか考え込み、それじゃあ私も紫音さんに一つ書いてもらおうかしら、などとぶつぶつ独り言を呟いている。今度の原作者は不破峰か。確かに不破峰は、ぼちぼちと集まってきたクラスメイトたちの桜組伝説の編集作業で忙しいはずである。仮にカタチにしてみたい物語を不破峰が思い描いていたとしても、執筆の時間を捻出することは厳しいのかもしれない。
 それは構わない。構わないのだが……こんな気持ちで果たして不破峰の物語を100%に書ききれるのかは、はなはだ疑問が残る。
 だから紫音は、うんともいいえとも答えられずに、ただ埋没してばかりだった。不破峰もなにか、落ち込む紫音に思うところがあったのか、それ以上は何も言葉を発しない。
 二人とも、向き合ったままただ無言だった。

「……詩でも書いたら?」
 気まずい沈黙を破ったのは、不破峰だった。直ぐには意味が理解できず、紫音は間抜けにも、「へ?」 と聞き返してしまう。
「詩よ。詩集なんかの、詩。結城小夜子さんは詩を書くのが好きだったんでしょ? なのに、作中には詩らしきものの一つも出てこない。回収されてないわ伏線が。これは由々しき問題よ」
 う、と紫音は言葉に詰まる。
 いわゆる詩を書き綴るのは、小説を書くのとはまた異なるセンスを必要とされるものである。つまるところ紫音にはそのセンスが欠落していた。考えたことが無いわけではなかったが、結局無駄な冒険は控えることにしたのである。
「でもそのあの、私には詩なんて高尚なものはしたためる事が出来なくて。ははは……」
 笑って誤魔化そうとする紫音だったが──不破峰は、笑顔だった。
「大丈夫よ」
「不破峰、さん……」
「私も、一緒に考えてあげるから。ね?」
 その笑顔につられるようにして紫音は、泣きそうな笑顔を浮かべて、大きく頷いたのだった。

 誰もが幸せで笑顔に彩られたエピローグなど結局は、単なる予定調和でしかないなのかもしれない。
 結局彼女と悠は仲違いしたままだったのかもしれないし、改名し二年桜組となった李組は、悪しき風を払えなかったのかもしれない。
 しかし、それは当然のようにフィクションで、こうして紫音が胸をいためる必要など、それこそ小指の先ほどにも有りはしないのかもしれないけれど。

 せめて、忘れ得ぬよう。
 紫音も、そしてきっと不破峰も、ただそれだけを信じて。
 

 <了>



 


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