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(古代〜植民地時代以前)
むかーしむかし。狩猟民たち。バンツー人たち。そして彼らの王国が栄えた。
およそ2万年前までには、ジンバブエをふくむ南部アフリカに狩猟・採集民が住みついた。紀元前8000年ごろまでには、石器時代後期の人間が、岩
陰や洞窟に住み着いた。後に採集狩猟民は、北からやって来たバンツー語系の人たちの社会に吸収されるか、もっと南の方、今のボツワナや南アフリカ地域へ去っていった。
以後、ジンバブエ地域で栄えたのは現在も人口の主流を占めるバンツー語系の人たち。特にゴコメレと呼ばれるバンツー系は、紀元500〜1000年の間にコイサンを吸収し、金採掘と放牧で
生活するようになった。グレートジンバブエ遺跡で有名なグレートジンバブエ王国を建設したのは、バンツー語系の中でもショナ語を話す人
たち。グレートジンバブエ王国は、金やその他物資の交易で繁栄したが、15世紀までに衰退
、分裂した。分裂した王国の中でもロズィはよく栄えた。
ズールーがやって来た。
1834年、ンデベレ人がジンバブエ地域に到来。ンデベレ人は
バンツー・ズールー語系の
民族で、もとは南アフリカ地域に住んでいたが、内乱で地域が混乱したため、北方に移動し、現地人を征服しながらジンバブエ地域にやってきた。ンデベレ集団は
現地ロズィのリーダーを殺し、現在のブラワヨ市がある地域を首都とし、ンデベレ王国を築いた。王国を拠点として、ンデベレ人はショナ語系の地域を侵略した。
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『グレート・ジンバブウェ:東南アフリカの歴史世界』
吉國恒雄 著
グレート・ジンバブウェ時代の歴史を解き明かす。数々の王国が興り、衰退し、新しい王国に取って代わられた。 |
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セシル・ローズ到来。ローデシアのはじまり。:1890年
1800年代後半、イギリス人セシル・ローズが、南アフリカ以北の未開拓地域のイギリス支配を計画。ローズはンデベレ王国のローベングラと協定を結び、ジンバブエ地域の鉱山開発権を取得した。さらにローズは『イギリス南アフリカ会社』を設立し、現在のジンバブエ、ザンビア、マラウィ地域の植民地経営の特許を
イギリス女王から取得した。1890年、イギリス南アフリカ会社から派遣された初めての開拓団が現在のハラレ市地区に到着。会社はこの地区を首都ソールズベリとし、植民地経営を開始した。国名はローズにちなんでローデシアと名づけられた。
植民地支配
1896−97年、植民地支配に抵抗する地元住民ショナ、ンデベレによる蜂起、「第一チムレンガ(チムレンガ=闘争:ショナ語)」が起きた。植民者による土地の収用、税金取立てなどに不満が
高じたためだ。しかし蜂起は武力で抑えられた。植民者は当初、ジンバブエ地域の鉱山開発を目的としていたが、
鉱脈の規模が比較的小さいか、採掘に高い技術が必要であることが判明した。そこで多くの植民者が農業に注目し、植民地政府は土地占拠を実行。黒人住民をどんどん
土地から追い出し、国土の半分以上を人口数%の白人植民者が所有する結果となった。1922年、国民投票により、イギリス南アフリカ会社による植民地経営は幕を閉じ、住民による自治政府が設立され
、国名は南ローデシアとなった。
第二次世界大戦後、イギリス、その他ヨーロッパ諸国からの白人移民が南ローデシアにどっと押し寄せ、ヨーロッパ型産業が盛んになった。1953年
には、中央アフリカ連邦を設立。ニャサランド(マラウィ)、北ローデシア(ザンビア)、南ローデシア(ジンバブエ)が連邦
を結成した。北ローデシアの鉱物を南ローデシアに運び、ニャサランドの労働力を使って精製、工業製品に仕立てるシステムが形成され、3カ国の住民の移動は自由となり、交易も盛んになった。
しかし連邦も長続きはしなかった。1960年はアフリカの年であり、17カ国のアフリカの国々が独立した。南部アフリカ諸国は独立が遅れた。ヨーロッパ系入植者が多く、彼らの利権がからんでいたため
だ。しかし1963年、中央アフリカ連邦は解体し、マラウィ、ザンビアが独立した。
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『アフリカ人都市経験の史的考察:初期植民地期ジンバブウェ・ハラレの社会史
』
吉國恒雄 著
植民地支配下のハラレ市(元ソールズベリ市)で、黒人住民はどのように生きたか。 |
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一方的独立宣言:1965年
アフリカ諸国の民主的独立の気運が高まる中、南ローデシア白人
政府は黒人主権を認めなかった。当時黒人にも参政権は認められていたが、参政権を取得するには高い経済的地位を要求された。人種差別を基本とした南ローデシア経済システムの中では、黒人が経済的に豊かになるのは困難だったから、ほとんどの黒人が参政権をもてなかった。1965年、南ローデシア白人政権は一方的独立宣言(Unilateral Declaration of
Independence)を公布、国名をローデシアとした。
一方的独立に踏み切ったのは、宗主国イギリスが勧める平等な投票システムを回避するのが大きな理由のひとつ。イギリスを始め、国連加盟国はローデシアの独立を認めず、経済制裁を課した。が、南アフリカやその他諸国が制裁に参加しなかったため、
制裁効果は薄かった。
自由解放闘争が本格的に:1960〜79年
1960年代、ANC、ZAPU、ZANUなどの黒人政党が結成されたが非合法化されたため、黒人政党はゲリラ活動を通して民主主義を求めて戦った。1970年代後半、南アフリカ、アメリカなどの介入で、黒人政党と白人政党との間で度々憲法会議が開かれたが、同意に達せず決裂した
。しかし1979年、イギリスの介入でふたたび政権会議が開かれ、合意に達っし、ランカスター条約が結ばれた。
*ZAPU: Zimbabwe African People's Union。
ZANU: Zimbabwe African National
Union。 ZAPUから分派。Ndabaningi Sitholeが設立。
ZANU-PF: 独立時の選挙前にムガベがリーダーとなり設立。
独立〜1990年代
1980年、1人1票制の選挙により、ZANU-PF (Zimbabwe African National Union
Patriotic Front)が勝利。しかし選挙結果
とZANU-PFびいきの政治・経済状況に不満を持ったPF-ZAPUが蜂起。ZANUは武力で蜂起鎮圧
にあたったが、蜂起には無関係だったンデベレ一般市民も多く殺害された。1987年、PF-ZAPUはZANU-PFに合体・吸収された。1980年代のジンバブエ経済は比較的好景気にめぐまれたが、90年代初めまでに低迷する。1992年、ジンバブエ政府は土地強制徴収法を制定。当時、農業用地の約60%が人口1%未満の白人に所有されていた。同年、IMF、世界銀行の主導で経済構造改革ESAP (Economic
Structural Adjustment Program)が導入された。しかしESAPを導入した多くの発展途上国が経験したように、経済政策は
効果を示さず、国家経済はますます低迷。失業者が増加、物価が高騰、食糧暴動が起き、国民の間で与党ZANU-PFに対する不満が高まった。
国民の不満を代表するため、1999年に結成された政党MDCは、2000年の国会議員総選挙で約半数の議席を確保するほどの人気を見せた。1980年の独立以来圧倒的な勝利を誇っていたZANU-PFは
、焦りを感じ始める。
- PF-ZAPU: 独立時の選挙前にZAPUが変名。
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『ジンバブエ』
高橋朋子 著
ジンバブエの人たちはどんな風に暮らしているの?ジンバブエ都市と農村の暮らし。
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経済の低迷:2000年以後〜現在
2000年、一部の退役軍人が白人農場の不法占拠を開始。ZANU-PFは、国民の不満の矛先を変えるため、退役軍人による白人農場不法占拠を支持すると同時に、急
スピードで土地強制徴収を実行。黒人住民に土地再分配を約束した。公的には土地の強制徴収は終了したとされているが、不定期な土地徴収は2006年現在も続いている。2000年以後の選挙(大統領選挙、国会議員総選挙)では、野党や野党主導のデモンストレーションに対し、政府が暴力で介入・鎮圧。地元住民に死傷者が絶えず、国際的な
非難を受けている。また、産業低迷、外貨不足、価格統制などにより、生活品の不足が続いている。砂糖、石鹸、ガソリン、ディーゼルなどが不足し、多くの不足品がブラックマーケットで販売
されるのが近年の傾向となった。ハイパーインフレーションはここ数年つづき、2005年度は500%を、2006年には1000%を超え、住民の生活は日々苦しくなっている。
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『ジンバブエ・収穫の秋(とき)』
高橋朋子 著
2000年、世界中で論議をかもし出したジンバブエの土地改革。人々の土地への思いはどのようにかなえられるべき?
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