まえすとろ日記 番外編 

 

僕の大切なお気に入りの1枚のレコード

 21世紀を迎えた今日、CDが全盛期の今では、『レコード盤』という響きも懐かしいものになってしまった。
 私が学生の頃は、バイトで貯めた少ないお小遣いを握りしめレコード屋さんに通い、充分時間をかけ吟味したうえで、一枚一枚のレコードを大切に集めたものだった。
  そんな中で私の「お気に入りの一枚」がある。
 『ヴィルヘルム・バックハウス/最後の演奏会』。そのタイトルは当時の私の瞳に衝撃的に飛び込んできた。幸か不幸、そのレコードは二枚組のもので、その時の私の財布の中身ではとうてい太刀打ちできない代物だったが『最後の演奏会』のタイトルの魅力か、不思議にも1週間後には'私のコレクション'として、無事に収まっていた。(何食かお昼ご飯をぬいた気もするが…….)

*      *      *

 真新しいレコードに針を落とす。
 そこには、80歳をとうに過ぎたバックハウスという名の楽聖ベートーヴェンの姿があった。
 第一楽章……第二楽章……バックハウス特有の正確でしかも情熱的なピアノの音色であった。しかし'その異変'は曲も後半にさしかかった所でおこった。
 あの完璧を誇るバックハウスの演奏が乱れたのである。

 そして、1つの楽章を残したところで演奏が止まった。

 『Ich bitte um eine kleine Pause……..(少し休ませてください…….)』この声を最後に、その後'このレコード'からは再び'楽聖の姿'を見る事ができなかった。
 レコードの針がさらに進む。アナウンスによりプログラムの変更が告げられ、シューマンの小品二曲(幻想小曲集より第1曲と第3曲)を演奏した後、再びアナウンス。
 『演奏者の体調の都合によりシューベルトの即興曲(変イ長調)をもって終了いたします。』           
*      *      *

 このレコードはライブ録音である。つまり、録音の奥には、大変な思いをしてこの演奏会のチケットを買った多くのフアンがいる。演奏会もまだ3曲目。それも、1曲は未完で、2曲は小品。しかも、あとシューベルトの短い1曲でこの演奏会を終えようとしている。
 しかし、観客の誰一人としてこの'老いた演奏家'を非難する者はおらず、そればかりではなく、全ての聴衆が温かい、そして熱い拍手で再び'この巨匠'を迎えたのである。ステレオの前の私と同じように……。
 結果的にこのシューベルトが、'バックハウスの生涯最後の演奏'となってしまったが、この巨匠が、文字通り'命をかけたその演奏'は本当に素晴らしく、「音楽とは何か」「命をかけることとは何か」を私に訴え、悲しいことにこの七日後に他界するものの、「限界」などと言う言葉など感じさせない音楽にかける情熱、ひたむきさ、そして『すごさ』がそこにあった。

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 この一枚のレコードは当時若かった私に「音楽観」だけではなく『生き方』そのものを教えてくれた気がする。最後まで、ひたむきに全力で音楽をする情熱とともに……。 自分がくじけそうになった時、何よりも励ましの宝物。 これが『僕の大切なお気に入りの一枚』である。                          

指揮者:酒井 敦 記

 

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