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★はじめに...★
 小生のような世代にとって、手塚治虫は特別な存在です。
漫画家としてはもちろん、アニメーション作家としても色々な意味で大きな存在でした。
その作品群から多大な影響を受け、自らの生涯の仕事を決定する大きな要因のひとつとなりました。
中でも「COM」の存在は大きく、進路を決めかねていた高校生の頃に背中をポンと押してくれました。
 そんな訳で、漫画とアニメーション、手塚治虫との出会いから「COM」に至るあたりまでについて、
思いつくままに書いてみようと思います。しかしながら、記憶をたどりながらの作業になりますので
脱線は必至、話が前後したり記憶違いも多いかと思いますが、そのあたりは暖かい心でご容赦いただき、
眼に余る部分については優しくご指摘をいただけたらと思います。
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★漫画との出会い★
 漫画との出会いは何時だったのだろう...と記憶をたどってみたが、幼少期の記憶は数えるほどしか
無く、色々思い出せるのは2年保育の幼稚園に入園した頃から。その頃我が家は、神奈川県藤沢市辻堂の
大平台という所の一軒家に住んでいた。その家は、母の話によると父方の祖父が建ててくれたようで、
海水浴で有名な湘南海岸の近くで、江の島の灯台の光が当たる高台に有った。当時の湘南海岸は、巨大
産業と化した近年のような海水浴場ではなく、夏の海の家もまばらで普通に泳いだり遊んだり出来たし、
水も綺麗で地引き網漁も行われていて大きな鯵等が沢山獲れた。イルカのショーで有名になった江の島
水族館マリンランドが出来たのもその頃で、江の島へ渡る橋もまだ半分ぐらい木造だった。
 漫画との初めての出会いは、おそらくそれ以前だと思われるが、なにしろ記憶がない。あくまでも
想像だが、祖父の代から我が家ではズーッと朝日新聞を購読していたので長谷川町子の「サザエさん」が
漫画初体験という事で間違いないと思われる。
 幼少期から病弱だった小生は、すぐに扁桃腺を腫らして寝込んで家で過ごす事が多く、幼稚園生の頃
には自然と絵を描いたりするのが好きになっていた。月に一度ぐらいの割合で孫の顔を見に来ていた
祖父は、そんな孫に漫画月刊誌を土産に買ってくるようになった。最初の頃は「少年画報」「日の丸」
「冒険王」「漫画王」「ぼくら」「少年」等、毎回違う月刊誌だったのだが1年後ぐらいには「少年」
のみになっていた。記憶には無いのだが小生が祖父にリクエストした結果なのであろう。何故なら、
「少年」には手塚治虫の「鉄腕アトム」と横山光輝の「鉄人28号」が連載されていて、その2作品の
大ファンになっていたからである。
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2011.08.01/さいとうてるひこ
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★幼稚園児の苦悩★
 かくして「少年」の愛読者となった湘南ボーイの幼稚園児であったが、ここでひとつ大きな問題が。
月刊誌である「少年」を愛読するための唯一のスポンサーの祖父は、毎月必ず来る訳では無いという
事だ。「少年」の連載漫画の多くは、ほとんど1話完結だったが、大好きな「鉄腕アトム」と「鉄人28
号」等の人気漫画は所謂「続きモノ」。「鉄腕アトム」は別冊付録と合わせて1話完結というケースも
多かったが、「鉄人28号」の方は完全に「続きモノ」で、1ヶ月抜けたりすると話がつながらないので
ある。「鉄腕アトム」は大好きだったが、暗い悲劇的な話が多く幼稚園児には少し難解だったのか、
当時は巨大ロボットを正邪入り乱れて奪い合う単純なストーリーの「鉄人28号」の方が重要度が高かっ
たのだ。
 祖父が来ない月は「少年」が、「鉄人28号」の続きが読めないという困った事態になって、母に
ねだってみたりしたのだが、息子を公務員にする事を夢見ていた母にとっては、漫画は悪書以外の
何モノでもなかったようで取り付く島も無い。もちろん父にも懇願してみたが、母に怒られるからと
一蹴されてしまった。辻堂駅まで行けば貸本屋も有ったので借りられたかもしれないが、幼稚園児時代は
小遣い制では無かったので、もう八方ふさがりである。病弱だった故に通っていた小児科医院には「少年
画報」と絵本群しか無いし、我が家の隣には小学生の兄弟が住んでいたが、兄が「少年ブック」弟が
「日の丸」を購読という残念な状況。もちろん「少年」と交換に貸してもらってそっちもしっかり読んで
いたのだが、「鉄人28号」の欠落を補完できる訳では無い。幼稚園の仲の良い同級生にもあたったが、
そもそも漫画月刊誌を読んでいる園児自体がほとんどいなかったのである。
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2011.08.25/さいとうてるひこ
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★幼稚園児の苦悩 Part2★
 幼稚園児にして漫画にどっぷりと浸かっていた湘南ボーイは、自らのコレクションを繰り返し読む
だけでは飽き足らず、近隣の友人から借りたり、貸してもらえない場合は友人宅で長居をする等、
とにかく可能なかぎりの手段を講じて漫画を読んでいた。そんな漫画ライフを送る上での最大の悩みは、
最強の敵である母との攻防だった。家で漫画を読んでいると、漫画を読むと馬鹿になると信じて疑わ
なかった母から、必ずと言っていいほど「漫画ばっかり読んで」とキツイ一言が飛んでくる。さらに恐ろ
しい事に、少し前の雑誌を「もう読んだでしょ」とばかりに処分しようとするのである。それには激しく
抵抗したのだが、無趣味だった母には何かを集めたり同じ本や雑誌を繰り返し読むという発想が皆無
だったようだ。泣いたりわめいたりと様々な抵抗を試みる息子に対して最後には決まって面倒臭そうに
「邪魔だから」のひと言を吐き捨てるように言って一応引き下がってはくれるのだが、執念深い母に
よってこのやり取りは月に1、2回は繰り返され、その度に幼稚園児は恐怖におののくのでありました。
 江の島の灯台の光が当たる高台の新興住宅地の一軒家は、10数冊の雑誌が邪魔になるほど狭くは
なかったので、母の考えはまったく理解できなかった。我が家の間取りは、6畳と4畳半の畳の部屋と
10畳ぐらいのリヴィング、2畳半ぐらいの台所に五右衛門風呂とトイレという、昭和の親子3人が暮らす
には十分な広さの平屋。電気と水道はもちろん来ていたが、台所での調理はプロパンガス、コンロが
一口しかなく電熱器や七輪も稼働する事が多かった。上部に氷を入れて食品類を冷やす木製の冷蔵庫も
あったが、あまり使っていなかったように記憶している。五右衛門風呂は要するに直径1mぐらいの
鉄釜で、薪で沸かすため底の部分が熱くなるので円形の簀の子に乗って入る。お調子者だった小生は
年に2回くらい簀の子を忘れて飛び込んで足の裏を火傷していた。トイレは当然汲み取り式であります。
家の敷地全体は結構広く、玄関から門までは7mぐらいあり、リヴィングの前にはテラスが、庭全体には
芝生が敷き詰められ大きめの花壇も有った。休日には父が、ころころ転がす芝刈り機で芝を刈り、ゴルフ
のスウィングやパターの練習を、当時メチャクチャ流行っていたスピッツも飼っていた。電話はまだ
無く、隣に「呼び出し」を頼んでいた。携帯電話がひとり1台の現在からは考えられない事だが、この
「呼び出し」は普通に行われていて、名刺や年賀状等の電話番号にカッコして「呼び出し・○○様」と
書かれていた。最寄りの辻堂駅までは歩くと30分以上かかるので、東京の商社に勤めていた父は歩いて
5、6分のバス停から辻堂駅行のバスに乗って通勤していた。今考えると裕福とまでは言えないが結構
優雅な生活だったと思う。
 閑話休題、3部屋の内の4畳半が小生の部屋だったが、幼稚園児なので机も無く母の衣類の詰まった
箪笥がひとつあるだけ。この部屋には床までの窓が無かったので、部屋の角の下に高さ15cm幅45cm
ぐらいの「掃出し口」と言う小窓があった...電気掃除機なんて夢の時代。雑誌やおもちゃ類は押入に
収納していたので、むしろ広すぎる感じで夜ひとりで寝るには恐いぐらいだった。にもかかわらず
「邪魔だから」と言って10数冊の雑誌を処分したがる母。要するに漫画は悪書だから家に置きたく
なかったのだろう。ある日幼稚園から帰ると、小生の漫画雑誌コレクションが新しい物2、3冊を
残して無くなっていた。さらに押入のおもちゃ類も半分ぐらいになっている。イノセントな幼稚園児と
言えども事態はすぐに飲み込めた。泣きながら母に訴えると、クズ屋さん(昔は廃品回収業者の事をこう
呼んでいた)が来たので出したと言い「もう読んだでしょ」と「邪魔だから」を繰り返すのみ。大人が
信じられなくなった瞬間であると同時に、突然宝物を失うという悲劇的事件の反動(オオゲサですな)で、
モノを何でも溜め込むというハムスター習性の芽生えた瞬間でもあった。この、機会を見つけては息子
の宝物を処分しようとする母との攻防は小学校高学年まで延々と続くのであった。
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2011.09.18/さいとうてるひこ
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★まったくの別世界★
 我が家の周辺は強い海風によって砂が堆積した砂地で、土を入れたりして造成した新興住宅地だった
のだが、昭和32年頃はまだまだ家もまばらだった。緩い坂を下って来た途中に合った我が家の一角は、
隣と裏に一軒ずつ家が有るだけであとは雑草が生い茂る空地、その坂をズーッと下って行くと湘南海岸に
流れ出る引地川があった。近所には住宅が固まっている地域もあったのだが、地域全体としては空地
だらけという印象。通っていた幼稚園は歩いて2、3分の住宅密集地にあり、出来たばかりだったのか
園児の数も少なかった。情けない事に、運動会がイヤだった事とブランコで1回転しそうになるまで漕ぎ
まくった事以外この幼稚園でどんな事をしていたのかまったく記憶がない。
 その幼稚園へは我が家から緩い坂を少し登って左へ曲がるのだが、その角に周辺の住宅群とは明らかに
違うモダンで上品な作りの家があった。大邸宅という訳ではないが庭も広大で、当時はそんな言葉が
なかったが所謂「家庭菜園」で野菜や果物を作っていた。そこに住んでいたのは初老の外国航路の船長
さん夫妻で、どういうきっかけだったのか解らないが両親が親しくなって、たびたび食事に招待され
たりするようになっていた。英語が喋れて外資系の商社に勤めていた父と船長さんは、話題が共通する
部分があったのかもしれない。リビングには高級そうな家具や外国製の置物や立派な額に入った絵画や
船の写真が飾ってあり、食器棚には高そうなグラスや皿等が沢山収納されていた。それらを目にした
両親は、あまりの生活水準の違いにすっかり舞い上がり、しばらくは我が家での食事時の話題の定番に
なった。船長さん夫妻には子供が居なかったようで、両親を子供のように思ったのかとても優しくして
くれ、父は高級そうな外国製のパイプ一式を、母はこれまた高級そうな茶器等を、小生も外国製の珍しい
チョコやクッキー、おもちゃや絵本類を遊びに行くたびにもらった。船長さんは仕事柄留守がちだった
ので母とふたりでお茶に呼ばれる事も多く、奥さんと母が世間話をしている間は壁に飾られた絵や写真、
珍しい外国雑誌に夢中になった。帰る時には、奥さんが家庭菜園で作った立派な水瓜や南瓜、トマト等の
野菜類をもらう事も多く、世間には普段の生活とはまったくの別世界が存在する事が、ボーッと育った
幼稚園児にもよく解ったのであった。
 船長さん夫妻と出逢った事で、小生の絵のテーマが船中心になった。それまで電車や汽車の鉄道関係
と自動車が中心だったが、それ以後船の絵ばかり描いていた記憶がある。テレビも無かったその頃の
幼稚園児は、家に居るととにかく暇である。祖父にもらった漫画雑誌を読む以外の時間は、母が愛聴
していたラジオを耳にしながら、ほぼ絵を描いていた...まだ漫画の模写をするという知恵が働かなかった
幼稚園児時代。残念な事にその頃に描いた大量の絵も漫画雑誌コレクションと同様に母の大粛正によって
処分されてしまったのだった。後年、絵を描く職業について数年が経過してからだが、デパートで開か
れた「漫画展」に展示されていた手塚治虫の子供時代の作品群を目にして愕然とした。あの偉大な才能を
生んだのは、子供の才能を伸ばし描いた絵をちゃんと保存しているという御両親の姿勢や家庭環境が
大きかった事が解って、船長さん夫妻とは違った意味の、まったくの別世界が存在していた事を思い
知らされたのであった。
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2011.10.15/さいとうてるひこ
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★付録屋★
 前回も書いたが、当時の幼稚園児は家に居るととにかく暇である。普通の幼稚園児なら幼稚園から
帰ると、陽が暮れるまで表で遊び回っているのだろうが、小生はすぐに扁桃腺を腫らして高熱が出る
子供だったので、家に籠っている事が多かったのだ。そんな訳で、漫画雑誌を繰り返し読むか絵を
描いている事が日常だった。「少年画報」に連載されていた「赤胴鈴之助」のラジオ・ドラマが
始まっていたが、夢中になって聴いたという記憶は無い。むしろ、母が愛聴していた「歌のない歌謡曲」
「チャッカリ夫人とウッカリ夫人」等の方が好きだったぐらいである。
テレビというモノの噂も聞いてはいたが、我が家にやってくる気配は微塵もなかった。
他には、空地や道ばたで拾ってきた木片を父の大工道具で加工...と言っても釘を打って合体させるぐらい
なのだが、飛行機・船・車等(のつもり)を作ったりもしていた。そんなだから、母が裁縫に使って残った
糸巻きと割り箸、ロウソク、輪ゴムで父が作ってくれた「糸巻き戦車」には感動して夢中になり、空の
糸巻きが手に入ると自分でも作るようになった。そうやって何かを作る事にも熱中しだした幼稚園児は
後年、「分解くん」にもなるのであった。
そこで漫画雑誌に毎月付いてくる「組み立て付録」である。当時の漫画雑誌各誌は付録の多さを競い
始めていて、通常は「組み立て付録」ひとつと「別冊付録」が2冊にカードのような簡単なモノが付く
「5大付録」ぐらいなのだが、新年号には「10大付録」と倍増していたりするのである。「組み立て
付録」がふたつに「別冊付録」が3冊とかになり、残り半分ぐらいは子供騙し(少年雑誌だからねぇ)の
水増しに近いモノ。そんなモノでも次号予告を見た幼稚園児は大興奮、楽しみな気持ちが強過ぎて
夜眠れなかったぐらいである。「組み立て付録」のクオリティも毎号様々で、あっという間に完成する
モノもあれば、父の手を借りなければならない難物もあった。そして漫画雑誌各誌は付録の多さとあわ
せて「組み立て付録」の豪華さをも競うようになり、徐々に部品数も増え工作も複雑になって行った。

 我が家から最寄りの辻堂駅までは小柄な幼稚園児にとっては果てしなく遠く感じた。我が家の横の
ゆるい坂道を左側に船長さん宅を見ながら上り切ったあたりには松林に囲まれた数軒の住宅があり、
そこからは歩いて降りるのも恐いくらいのかなり急な下り坂になっていて、そんな下り坂の途中に家が
建っていたのも驚きなのだが、松林の中はかなり暗く手前の南側(上段ですヨ)には別の家が建っていた
ので、その家にはまったく陽が当たらなかったのではないか。当時はそんな事考えもしなかったが、
今思い出してみても不思議でしょうがない。昔は不思議な家が沢山あったのだが、それはまた別の話。
その坂を下り切ったあたりで松林が途切れ少し上ると広い鋪装された道路に出る。広い割にほとんど
車も通らなかったのだが、それもそのはずで左に行くと湘南海岸へ通じる大きな道路に出るのだが、
右側は50mぐらいから先はまだ砂利道で道幅も半分ぐらい。とりあえず作れる所から着手みたいな杜撰
な道路計画だったんじゃないかと妄想している。その道路を渡ると右側は大きめの薮が続くのだが、
左側は道を造るために小山を切り崩したような崖で、今にも崩れてきそうで恐かったのを覚えている。
そこを越えたあたりにかなりな樹齢の大木が何本かある稲荷神社があり左側には雑貨屋が...我が家から
一番近い商店であります。そのあたりから道の両側は立派な土塀が続き大きなお屋敷がならぶ。その先を
少し行くと左側に広い境内のお寺があり、そこを中心に毎年お祭りが開かれていた。ハッキリ覚えて
いないのだが、お祭りは年2回あったような気がする。お寺を過ぎてさらに進むと立派な土塀が途切れ、
狭い路地で両脇が生け垣の住宅街になり、その先は小さな店ばかりが連なるひっそりとした商店街が
あり、辻堂駅前のバスが通るにぎやかな大商店街へとつながっている。
 幼稚園児にとっては結構な距離の場所にあるお寺の広い境内で開かれていたお祭りには、おなじみの
金魚すくいや綿菓子等の屋台が出るのだが、道路にはゴザを敷いて商品を並べるような露店が立派な
土塀にそってずらっとならぶ。バナナの叩き売りや古道具屋、怪しい舶来商品を売っている怖い顔の
オジさん等に混じって古本屋も来ていた。難しそうな厚い本や大人向けの雑誌ばかりならんでいて子供が
読むような単行本や漫画雑誌は無かったが、端の方にセロファンの袋に入った薄っぺらいモノが沢山
ならべられていた。気になったので勇気を振り絞って恐る恐る古本屋のオジさんに聞いてみると、
それは少年雑誌の「組み立て付録」だったのだ。
なんと「組み立て付録」だけを売っていたのである。
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2012.02.12/さいとうてるひこ
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★付録屋 Part2★
 付録屋の存在は衝撃的だった。本誌や別冊付録は友人に借りたり、医院の待合室や理髪店で読めたり
するが、「組み立て付録」はそういう訳にはいかない。せいぜい友人宅で完成したモノを見せてもらうか
遊ばせてもらうぐらいである。購読している「少年」以外の雑誌の付録をそうやって目にしてしまうと、
モーレツに欲しくなったりするのだが、何しろ大蔵省(死語だねぇ)は漫画雑誌を悪書と考えている
母であるから、懇願して買ってもらうというのは絶望的。唯一の希望である祖父が来る頃には次の号が
出ていたりする。そんな欲しくてたまらなかった他誌の「組み立て付録」が取りあえず手に入るので
ある。値段は忘れてしまったが、所持金で沢山買えるほど安くはなかったので慎重に選ぶ事になる。
とは言っても、なにしろ場所は「お祭り」なのだ。
 その付録屋と出逢った年は、はじめて隣家の兄弟と子供だけでお祭りに行った年で、見栄っ張りだった
母が隣家に負けまいと少し多めの小遣いを渡してくれたとはいえ、綿菓子、べっこう飴、水飴、金魚
すくい、水風船釣り、くじ引き、お面等々、様々な誘惑であふれかえっている。幼稚園児の時代は
小遣い制ではなかったし、普段は買い食い禁止令がだされているので、自分で選んで飲み食い出来る
初めてのチャンスだったのである。そんな豪遊初心者がなんとも魅力的な付録屋に出逢ったために、
単純な欲望と乏しい知識しか収納されていない小さな脳味噌をフル回転して予算を考え計画的に行動する
という高いハードルをクリアしなければならない状況に置かれてしまったのだ。そんな誘惑の数々の
中でも「金魚すくい」は母に言われて最初から予定に入っていたので外せない。何故かというと、
我が家には金魚鉢があるのだが、中には藻が揺れているだけという情け無い状況。幼稚園に入った
ばかりの頃だったと思うが、両親に連れられて行ったお祭りで初めて金魚すくいをした。父が一匹
すくい取ったが金魚すくいのシステム自体が理解出来ていない幼稚園児は一匹も取れずに終わった。
おじさんが一匹オマケしてくれたので、結局二匹の金魚が入った小さなビニール袋をさげて家に帰った。
取りあえず洗面器で飼う事にしたが、金魚用の餌もいるし藻も必要だという事で2、3日後に父が金魚鉢
と併せて買って来た。かくして、洋間のサイドボードの上、基本無趣味の母にとっての唯一の趣味と
言っても良いレース編みで作った敷物を敷いた小振りで綺麗な金魚鉢の中で、二匹の金魚が優雅に泳いで
いるというオシャレな生活(当時)が始まった。父が言うには水道水をそのまま使えないので、水道水を
バケツに入れて1日天日干しにしてカルキ抜き(死語?)をしなくてはならない。その事の意味すらよく
理解できない幼稚園児にそんな作業は無理なので、餌をやる係になったが、餌をやりすぎないように
キツく注意されたにもかかわらず、金魚が餌を食べる姿が見たくて日に何度も餌をやってしまう。
そんな好奇心の強い幼稚園児のおかげで、水は汚れるし不規則な食生活のストレスで金魚さんたちは
数ヶ月でお亡くなりになってしまう。当時はよく夏等に自転車にリヤカーの「金魚売り」がやって来たり
したが、元々金魚鉢の金魚を優雅に眺めたりするようなタイプではなかった両親は、金魚を買ってまで
飼おうとは思っていなかったのか、結果としてお祭りのたびに新しい金魚が入居するものの、1年の内の
大半は洋間のサイドボードの上には藻が揺れているだけの金魚鉢が飾られる事になるのだ。そんな訳
だから、小遣いを渡された時に、「金魚すくい」を必ずして来るように言われたのである。
そういう約束はきちんと守る変な子だったので、とりあえず金魚すくいにチャレンジ、小さなビニール
袋に二匹の金魚を捕獲したのだ...二匹とも金魚屋のおじさんのオマケだったケド。
 母の指令の「金魚すくい」をとりあえずクリアし、重要な目的のためには他の欲望を抑える事を学んだ
幼稚園児は、散財を綿菓子と水風船釣りぐらいにとどめ、待望の「組み立て付録」購入に集中。
付録屋のおじさんに2、3種類入っていると言われたセロファンの袋の「組み立て付録」を2個買って、
ウキウキで帰路についたのであります。

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2012.12.13/さいとうてるひこ
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