『祝日大祭日唱歌』

1893 (明治26)年8月 制定


1891(明治24)年に,文部省は小学校に祝祭日のお祝いの儀式を執り行うよう指示し,その儀式のときに歌う歌を選定し1893(明治26)年8月に『祝日大祭日唱歌』を公布した.
この儀式唱歌の中には年配の人なら誰でも知っている,「年のはじめの ためしとて」で始まる『一月一日』や『紀元節』,『天長節』の歌が含まれる.

昭和の時代に入ると,明治天皇の遺徳をたたえる明治節(11月3日)が新設され,明治以来の四方節(1月1日),紀元節,天長節(昭和天皇の誕生日,4月29日)と共に四大節(しだいせつ)としてお祝いされた.四大節の祝日には,家の門柱には国旗が掲げられ,小学生はよそ行きの洋服を着て登校し,儀式では,
御影(天皇皇后の写真)開扉,君が代斉唱(2回),
御真影(ごしんえい,天皇・皇后の写真)に最敬礼し,教育勅語の奉読,
校長の訓話を聞き,祝日の唱歌を歌う,
御影閉扉で式を終わる.
堅苦しい儀式が終わると,生徒は担任の先生から紅白のお菓子をもらい,下校した.



明治天皇.エドアルド・キオッソーネ画(1888年1月)
に基づく写真.御真影として学校に配布された.


制定までの歴史を振り返ってみよう.
明治になり近代化政策が着々と実行されるようになった.そんな中,1873(明治6)年10月の太政官布告で「年中祭日ノ休暇日ヲ定ム」とし,紀元節,天長節などの祝日が定められた.1878(明治11)年には春季皇霊祭(春分),秋季皇霊祭(秋分)が追加され,祝祭日の数は10日となった.祝祭日に学校で儀式が行われることは初めの内は無かったが,森文部大臣のときに,祝祭日に学校で式典を行う試みがなされた.御真影(天皇の写真はエドアルド・キオッソーネが1888年1月に描いた肖像画から作成した)も全国に普及しはじめ,1890(明治23)年に教育勅語が発せられ,ようやく1891(明治24)年6月になって,祝日大祭日の儀式のやり方を定めた文部省令第4号『小学校祝祭日儀式規定』が制定された.この規定によると,紀元節(神武天皇の即位の日,2月11日),天長節(天皇誕生日,11月3日),元始祭(1月3日),神嘗祭(10月17日),新嘗祭(11月23日)の日は,

御影に最敬礼し万歳,教育勅語奉読,校長訓話,祝祭日に相応する唱歌合唱

をすることとし,一月一日(慣例上の祝日)は,御影に最敬礼と万歳,唱歌合唱,その他の4祭日では,校長訓話と唱歌合唱とするなど,式次第が事細かに規定されている.また儀式には市町村長および役場の学事に関係する職員はなるべく参列するようにとか,生徒に茶菓やほうびを出しても良いという条項もある.もっともこの規定は明治26年には緩められ,いわゆる三大節(一月一日,紀元節,天長節の3日)の儀式を執り行えば,後は任意で良いこととなった.

ところが,これらの儀式に歌う唱歌の準備はまだできていなかった.歌うべき唱歌をどうしたら良いか,という現場からの問い合わせに対して,文部省は,いくつかの例をあげ,現場の状況に応じて適宜判断するよう初めの内は指示していた.しかし,混乱を無くすため,2年程かけて慎重に審議し,祝日に小学校で歌うべき曲を定め,文部省告示第三号官報第3037号付録『祝日大祭日歌詞並楽譜』として1893年8月12日に公布した.

曲の選定の経緯については,遠藤 宏『明治音楽史考』(有朋堂,1948年4月) に詳しい.遠藤に依ると,1891年10月に発令された祝日大祭日歌詞及楽譜審査委員は

村岡範為馳(委員長),黒川真頼,野尻精一,瓜生 繁(しげ),上原六四郎,鳥居 忱(まこと),上 真行(うえ さねみち),渡辺薫之助(文部視学官),篠田利英,佐藤誠実(文部属),ルードルフ・ディットリヒ

の有識者で,その後,

神津専三郎,林広守,小山作之助,山井基万(もとかず),林広継,納所弁次郎

が追加任命された.まず歌詞が慎重な審議の末決定され,この歌詞に作曲する委員を多数嘱託し作曲させ,集まった曲の中から最も適当な曲を選定することとした.この結果ようやく最終案を作ることができ,『小学校祝日大祭日儀式唱歌用歌詞及び楽譜選定』として1893年8月に告示した.

昭和の時代に入ると,1927(昭和2)年には四方節(1月1日),紀元節,天長節(昭和天皇の誕生日,4月29日)に加えて,明治節(11月3日)を新設され四大節(しだいせつ)となったが,これらは小学校の最も重要な儀式であることには変わりがなかった.これらの祝日は太平洋戦争の敗戦後1948年に全て廃止され,「国民の祝日に関する法律」にとって変わられ,相当する儀式も無くなった.

この儀式用唱歌は戦前の小学生にとっては皆馴染みが深いが,今となっては,なかなか纏まってこれらの唱歌の楽譜を見る事ができない.その不便を補うため、以下に祝日大祭日に歌われた曲の歌詞と楽譜を示す。楽譜は民間からもいろいろ出版されたが,ここでは宮田六左衛門『祝日大祭日歌詞並楽譜』(共益社,1893年8月)から採った.これは筆者がまだ官報を見る機会が無いためである.『祝日大祭日歌詞並楽譜』にはもともと歌番号は無いが,便宜にために付けた.歌詞の振り仮名は明らかなものを除きカッコで示した.また別版の 「明治節」は『新訂 尋常小学唱歌のすべて』(日本コロンビア)のCD (GES-30949〜30955)の解説書から借用した.お許しを乞う.




 『祝日大祭日歌詞並楽譜』

  文部省告示第三号官報第3037号

  小学校ニ於テ祝日大祭日ノ儀式ヲ行フノ際唱歌用ニ供スル歌詞並楽譜別冊ノ通撰定ス

        明治二十六年八月十二日
                  文部大臣  井上 毅


 別冊
  第一  君が代 
  第二  勅語奉答
  第三  一月一日
  第四  元始祭
第五  紀元節
第六  神嘗祭
第七  天長節
第八  新嘗祭


 追加された祝日大祭日唱歌

  勅語奉答 B
  明治節


 教育勅語


第一 君が代 (古今和歌集 読人不知 作詞,奥 好義(よしいさ)作曲)

  君が代は。
    ちよにやちよに。
      さざれいしの。
    巌(いはほ)となりて。
       苔のむすまで。

[注] 初出は 『保育並ニ遊戯唱歌』第十九曲 である.作曲は林 広守とされていたが,彼
    は宮内省雅楽部の代表として曲を提出したもので,実際の作曲者は奥 好義(よしいさ)
    である.詳しくはこのホームページの別稿『保育並ニ遊戯唱歌』の 「君が代撰譜の事情」
    を参照されたい.
    世間に広く知られるようになったのは, 『中学唱歌集』 (1889年12月)の第一番に掲載さ
    れてからである.祝日唱歌では慣例的に国歌と扱われてきたが,1999年8月の『国旗国
    歌法』で正式に国歌となった.

歌唱は
君が代 布施明 2004埼玉 Kimigayo Fuse akira
http://www.youtube.com/watch?v=-ASG8kJCnWg



第二 勅語奉答 (勝 安芳 作詞,小山作之助 作曲)

  あやに畏き 天皇(すめらぎ)の。
  あやに尊き 天皇の。
  あやに尊く 畏くも。
  下し賜へり 大勅語(おほみこと)。
  是ぞめでたき 日の本の。
  国の教(をしへ)の 基(もとゐ)なる。
  是ぞめでたき 日の本の。
  人の教の 鑑(かがみ)なる。
  あやに畏き 天皇の。
  勅語(みこと)のままに 勤(いそし)みて。
  あやに尊き 天皇の。
  大御心(おほみこころ)に 答へまつらむ。

[注] この場合の大勅語は1890年10月30日発布の教育勅語を指す.
    「あやに」はいいようもなくの意味.
    教育勅語奉読に続いてこの唱歌を歌う.ただし省略しても良いことになって
    いた.生徒の多いマンモス校では式典を高学年と低学年に分けて二度行う
    必要があった.その際,低学年にはこの歌は難しいので,巻末の易しい版Bを
    歌った.

歌唱は
勅語奉答 勝海舟作詩
http://www.youtube.com/watch?v=ldzeG96pQps



第三 一月一日 (千家(せんげ)尊福(たかとみ)作詞,上 真行 作曲)

一 年のはじめの 例(ためし)とて。
  終なき世の めでたさを。
  松竹たてて 門(かど)ごとに。
  いはふ今日こそ たのしけれ。
二 初日のひかり あきらけく。
  治まる御代の 今朝のそら。
  君がみかげに 比(たぐ)へつつ。
  仰ぎ見るこそ たふとけれ。

[注] 天皇が,皇位の長久と万民の安寧を祈って,1月1日の明け方に
    四方拝を行う.「比(たぐ)ふ」は似たものを較べるの意味.
    第二番の「あきらけく 治まる」は明治の年号を指しているため,
    初めの2聨は1913(大正2)年に
      初日のひかり さし出でて。
      四方(よも)に輝く 今朝の空。
    と改められたという.またこの祝日は生徒に人気があり,様々な替え歌,
    例えば,
      年のはじめの ためしとて。
      尾張名古屋の大地震。
      松竹ひっくり返して 大騒ぎ。
      芋を食うこそ たのしけれ。
    が歌われたという.(金田一晴彦・安西愛子『日本の唱歌』(講談社文庫,
    1998年9月)p. 92)

四大節唱歌 一月一日
http://www.youtube.com/watch?v=-xlEHazYyH8



第四 元始(がんし)祭 (鈴木重嶺 作詞,芝 葛鎮(ふじつね)作曲)

  天津(あまつ)日嗣(ひつぎ)の 際限(きはみ)なく。
  天津璽(しるし)の 動きなく。
  年のはじめに 皇神(すめがみ)を。
  祭りますこそ かしこけれ。
  四方(よも)の民くさ うち靡(なび)き。
  長閑(のど)けき空を うち仰ぎ。
  豊栄(とよさか)のぼる 日の御旗(みはた)。
  たてて祝(い)ははぬ 家ぞなき。

[注] 年の始めに,元である天神地祇および歴代の皇霊を祭る.1月3日.
    「天津日嗣」で天津は天界のという意味で,合わせて天照大神の系統を
    受け継ぐの意味.「天津璽」は天皇継承の印である八咫鏡,草薙剣,八坂瓊
    曲玉の三種の神器を表わす.「豊栄のぼる」は朝日が美しく輝いて昇るさま
    を表わす.



第五 紀元節 (高崎正風 作詞,伊沢修二 作曲)

一 雲に聳ゆる 高千穂の。
  高根おろしに 草も木も。
  なびきふしけん 大御世(おほみよ)を。
  あふぐ今日こそ たのしけれ。
二 海原なせる 埴安(はにやす)の。
  池のおもより 猶ひろき。
  めぐみの波に 浴(あ)みし世を。
  あふぐけふこそ たのしけれ。
三 天津(あまつ)ひつぎの 高みくら。
  千代よろづよに 動きなき。
  もとゐ定めし そのかみを。
  仰ぐけふこそ たのしけれ。
四 空にかがやく 日のもとの。
  万(よろづ)の国に たぐひなき。
  国のみはしら たてし世を。
  あふぐけふこそ たのしけれ。

[注] 神武天皇即位の日.2月11日.
    「高根おろし」は高い峯から吹き降ろす風,「埴安の池」は橿原神宮の
    そばの池,「高みくら」は天皇のすわる高い座のこと.
    この曲は東京音楽学校編『中等唱歌集』(1889年12月)に採録されて
    いたが,儀式用の歌として正式に決定したもの.

東京音楽学校生徒による歌唱が以下で聞ける:
紀元節の歌 2月11日/ 祝日大祭日唱歌八曲
http://www.youtube.com/watch?v=2UvYla-aZzc&feature=related



第六 神嘗祭 (木村正辞 作詞,辻 高節(たかみち)作曲)

  五十鈴(いすず)の宮の 大前(おほまへ)に
  今年の秋の 懸税(かけぢから)。
  御酒(みき)御帛(みてぐら)を たてまつり。
  祝ふあしたの 朝日かげ。
  靡く御旗(みはた)も かがやきて。
  賑(にぎは)ふ御代こそ めでたけれ。

[注] 天皇が伊勢神宮にその年にできた新米を奉納する.10月17日.
    「五十鈴」は宮の前を流れる川の名前.「懸税」とは神前に供える稲穂,
    「御帛」はいろいろ神に供えるもののこと.

歌唱は
神嘗祭(かんなめさい)の歌 10月17日 / 祝日大祭日唱歌八曲
http://www.youtube.com/watch?v=Px45aWI6jWI



第七 天長節 (黒川真頼 作詞,奥 好義 作曲)

  今日の吉(よ)き日は 大君(おほきみ)の。
  うまれたひし 吉(よ)き日なり。
  今日の吉き日は みひかりの。
  さし出(で)たまひし 吉き日なり。
  ひかり遍(あまね)き 君が代を。
  いはへ諸人(もろびと) もろともに。
  めぐみ遍(あまね)き 君が代を。
  いはへ諸人(もろびと) もろともに。

[注] 天皇の誕生を祝う曲.明治天皇は11月3日.
    大正天皇は8月31日であるが,この時期は暑くて不便なので,1913(大正2)年
    より国民の祝う日は10月31日に変更された.昭和天皇は4月29日.


東京音楽学校生徒の歌唱は以下:
天長節の歌 12月23日 / 祝日大祭日唱歌八曲
http://www.youtube.com/watch?v=Y-2iT-dZfCk



第八 新嘗祭 (小中村清矩 作詞,辻 高節 作曲)

  民やすかれと 二月(きさらぎ)の。
  祈年祭(としごひまつり) 験(しるし)あり。
  千町(ちまち)の小田(おた)に うち靡く。
  垂穂(たりほ)の稲の 美(うまし)稲。
  御饌(みけ)に作りて たてまつる。
  新嘗祭(にひなめまつり) 尊しや。

[注] 天皇が新穀を神と共に食べる.11月23日.
    「祈年祭」とは2月4日に豊年を願う祭.「千町」の町とは田んぼの
    区画を表わす語で,千町の小田とは千もある沢山の田の意味.
    「御饌」は神に備える食べ物.

歌唱は
新嘗祭(にいなめさい)の歌 11月23日 / 祝日大祭日唱歌八曲
http://www.youtube.com/watch?v=hWdN3MTXE10



   勅語奉答 B(中村秋香 作詞,小山作之助 作曲)

  あな たふとしな 大勅語(おほみこと)。
  みことの趣旨(むね)を 心に刻(ゑ)りて
  露もそむかじ 朝夕に
  あな たふとしな 大勅語。

[注] 初出は小山作之助編『新撰 国民唱歌』
    「刻(ゑ)る」は刻ざむの意味.



  明治節(堀沢周安 作詞,杉江 秀 作曲)

一 アジアの東 日(ひ)出づるところ
  ひじりの君の あらはれまして
  古きあめつち とざせるきりを
  大御光(おほみひかり)に くまなくはらひ
  教(をしへ)あまねく 道(みち)明(あき)らけく
  治めたまへる 御代(みよ)たふと。
二 恵の波は 八洲(やしま)に余り
  みいつの風は 海原こへて
  神のよさせる みわざをひろめ
  民の栄(さか)行く 力をのばし
  とつ国々の ふみにもしるく
  とどめたまへる 御名(みな)かしこ
三 秋の空すみ 菊の香高き
  今日のよき日を 皆ことほぎて
  定めましける みのりをあがめ
  さとしましける みことをまもり
  代々木の森の 代々とこしへに
  仰ぎまつらん 大みかど

[注] 「代々木」明治神宮のある地名.「みいつ」は御稜威で御威光,
    「とつ国」は外国の意味.「しるく」は著くで,はっきりとして
    いる様子を表わす.
    1927(昭和2)年に明治節(11月3日)が追加新設され,冒頭に述べた
    四大節の儀式として小学校でお祝いされた.

音源は
文部省唱歌 明治節(明治神宮)
http://www.youtube.com/watch?v=EHrdFZZIN50



「教育ニ関スル勅語

(1890年(明治23)10月30日発布)



朕惟(オモ)フニ 我カ皇祖皇宗国ヲ肇(ハジ)ムルコト宏遠ニ 徳ヲ樹(タ)ツルコト深厚ナリ 我ガ臣民 克(ヨ)ク忠ニ 克ク孝ニ 億兆心ヲ一(イツ)ニシテ 世々(ヨヨ)厥(ソ)ノ美ヲ済(ナ)セルハ 此レ我ガ国体ノ精華ニシテ 教育ノ淵源亦(マタ)実ニ此ニ存(ソン)ス
爾(ナンヂ)臣民 父母ニ孝ニ 兄弟ニ友(イウ)ニ 夫婦相和シ 朋友相信ジ 恭倹己(オノ)レヲ持(ヂ)シ 博愛衆ニ及ボシ 学ヲ修メ 業ヲ習ヒ 以テ智能ヲ啓発シ 徳器ヲ成就シ 進(ススン)デ公益ヲ広メ 世務(セイム)ヲ開キ 常ニ国憲ヲ重ジ 国法ニ遵(シタガ)ヒ 一旦緩急アレバ 義勇公ニ奉ジ 以テ天壌(テンジャウ)無窮ノ皇運ヲ扶翼(フヨク)スベシ 是(カク)ノ如キハ 独リ朕ガ忠良ノ臣民タルノミナラズ 又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン
斯(コ)ノ道ハ 実ニ我ガ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ 子孫臣民ノ倶(トモ)ニ遵守(ジュンシュ)スベキ所 之ヲ古今ニ通ジテ謬(アヤマ)ラズ 之ヲ中外ニ施シテ悖(モト)ラズ  朕 爾臣民ト倶(トモ)ニ 拳々(ケンケン)服膺(フクヨウ)シテ 咸(ミナ)其(ソノ)徳ヲ一(イツ)ニセンコトヲ 庶幾(コヒネガ)フ

      明治二十三年十月三十日
    御 名 御 璽 (ギョメイ ギョジ)



[現代文訳] 朕思うに,我が皇祖皇宗が国の基礎を定めたのは遥か昔に遡り,その事業は偉大だった.道徳を確立し,手厚い恵みを臣民に与えた.我が臣民が忠孝を重んじ,全臣民が心を一つにして代々美風をまっとうしてきたことは,我が国体の誇るべき特色であり,教育の根本もまた,そこにある.
爾ら臣民は父母に孝行し,兄弟は仲良く,夫婦は睦まじく,朋友は互いに信じ合い,自らは慎み深く節度を守り,博愛を衆に及ぼし,学問を修め技能を習うことで,知能を啓発し,立派な人格を磨き,進んで公益に尽くし,この世で為すべき務めを拡げ,常に国憲を重んじ法律に従い,ひとたび国家に大事が起きれば,正しく勇ましく公のために奉仕し,天地と共に永久に続く皇運を扶翼せよ.このようにするならば,爾はただに朕の忠良なる臣民というばかりでなく,爾の祖先の遺風を世に明らかにする孝道を発揮することになる.
ここに述べた道徳は,いずれも我が皇祖皇宗の遺訓であり,子孫である天皇と臣民が共に従い,守るべきものである.これらの道徳は古今を通じて誤りなく,世界に行き渡らせて道理に反することではない.朕は爾ら臣民と共に,これを常に忘れずに守り,皆で一致して立派な人格を磨くことを念願するものである. (ドナルド・キーン(角地幸男訳)『明治天皇 下巻』(新潮社,2001年10月)p.115-117).

 教育勅語を作る直接のきっかけは,地方で徳育の混乱に悩んだ地方官が,政府に正すよう要望した1890(明治23)年2月の建義による.これを受けた山県内閣では,芳川顕正文部大臣が中心となり,草案をまとめることとなった.はじめ,中村正直が草案の作成に当ったが,宗教的に過ぎる案だとして不採用になった.法制局長官 井上毅(こわし)がこれに代わり,明治天皇の侍補である元田永孚(ながざね)と協力して,慎重に協議し案文を作成し,完成した案文は9月閣議に提出され確定した.10月30日勅語が下賜されると,政府は10月31日,この謄本を全国の学校に配布し,同時に勅語の奉読と訓話を指示した(参考:鈴木博雄 編著『原典,解説 日本教育史』(図書文化社,1996年2月)pp. 178-179).
 明治天皇は案を事前に熟読し,いくつかの変更を求め,それに沿って変更が加えられ,天皇の最終裁可が下りたのは10月24日であったという(ドナルド・キーン, 同上書 p.115).



(2008年10月)


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