不思議な幼稚唱歌集

斎藤基彦



(図をクリックすると大きくなる.)


ここに不思議な唱歌集がある.真鍋定(さだ)造編修撰譜の『幼稚唱歌集 全』という小冊子である.


真鍋定造編『幼稚唱歌集』の中表紙.



真鍋定造 (1856 (安政3)-1891. 8)
[今泉真幸編『天上之友』(日本組合基督教会牧師会,1915) pp. 79-82 より]


驚いたことに,その内容が文部省音楽取調掛編纂の『幼稚園唱歌集 全』と瓜ふたつ,そっくりなのである.これは二つの唱歌集のソースが同一であるることを示唆している. 両者を比較したものを表1にまとめた.

表1. 『幼稚唱歌集』と『幼稚園唱歌集』の異動.

真鍋定造編『幼稚唱歌集』文部省編『幼稚園唱歌集』 文部省版での変更点
第 1番まなべよまなべ 第5番 学べよ歌詞少し変更
第 2番こどもこども第8番 子供子供
第 3番こころはたけく*第1番 心は猛く
第 4番雨露うるほひて*第13番 雨露
第 5番すすめすすめ第3番 進め進め
第 6番ここなる門第20番 ここなる門
第 7番風ぐるま第26番 風車
第 8番友どち来たれ第7番 友どち
第 9番めぐれどはしなき第22番 環(たまき)歌詞2・4番を削除
第10番ゆけよゆけよ削除
第11番我らがまり第23番 毬歌詞中位変更
第12番かへり行くも第17番 燕
第13番一羽の鳥は第28番 一羽の鳥
第14番みよみよ小児第21番 うづまく水
第15番むかしの昔削除
第16番黄金白銀削除
第17番あにおと妹と第24番 兄弟妹
第18番川瀬にさわぐ第11番 川瀬の千鳥
第19番我大君第19番 我大君歌詞少し変更
第20番太鼓を腰に削除
第21番ますぐにたてよ第18番 真直にたてよ歌詞中位変更
第22番いはほのこけの『小学唱歌集』第一編第15番 春のやよひ歌詞変更
第23番おりなす錦『中等唱歌集』第8番 織り成す錦 歌詞中位変更
第24番花咲はるの第15番 花さく春
第25番三千余まん『中等唱歌集』第5番 三千余万 歌詞少し変更
第26番三千余まん同上同上
第27番一ツトヤ第29番 数へうた歌詞変更, 曲は同じ
第28番やよはなざくら第16番 やよ花桜歌詞4 ・5番を削除.他に小異
第29番雲か雪か第10番 大原女
第30番馬ふとく削除
第31番今より我らは第25番 操練歌詞少し変更
第32番ゆけやわがこまよ第9番 若駒歌詞少し変更
第33番はちよみつばちよ第27番 蜜蜂
第34番やだまはあられ『中等唱歌集』第6番 矢玉は霰 歌詞4番を削除
第35番来たれ来たれ削除

*  目次は「こころはたけく」は4番,「雨露うるほひて」が3番と誤植.


真鍋本の奥付けを見ると,編者の真鍋定造は愛媛県平民,出版社は大阪江戸堀北通二丁目の普通社で,出版人は真鍋広助とある.定造の住所も同じ 江戸堀北通二丁目九番地つまり出版人と同じ住所に寄留となっている.広助は定造の父親か親戚であろう.1886(明治19)年12月2日版権免許を取得,1887(明治20)年3月に出版,定価12銭で売り出された. 下に真鍋本と音楽取調掛本の奥付けを示す.



  真鍋編『幼稚唱歌集』の奥付け.


  音楽取調掛編『幼稚園唱歌集』の奥付け.

音楽取調掛版は1887(明治20)年7月5日出版権届が出て,出版されるのは同年の12月である.真鍋版はそれより9ヶ月早く出版されており,日本初の洋風楽譜付きの幼稚園用の唱歌集ということになる.ただし良く見ると,真鍋版では調音記号の位置などがいいかげんで,音楽出版としては少し質は落ちる.

そもそも,この著者の真鍋定造とはどのような人なのであろうか.幸い 真鍋定造は編著『聖書語類 新約の部』(大阪市西区土佐(堀)3丁目 福音社,1890年2月7日)を残している.その緒言で自身の事を次のように述べている.

回顧すれば明治十八年の事なりき,余の猶同志社学院神学部に在りて,同窓諸友と共に,主の道を講ぜしとき,教師ラールネデ氏は,一日余輩に向ひ,日本に於て現今聖道に最も欠乏を感ずる書籍は,如何なる種類に属するやとの諮問をなせし事あり,当時余輩は之に対(こた)へて,邦語のコンコルダンスなる可しと,以て余輩が平生不便とする所を訴へぬ,師も亦た之を聞て大に然りとし,直(ただち)に余輩を促がして,共に師を輔けて其業を始むべきことを命じたり, 是よりして,余輩十余人の同志者は,師の吩咐(ふんぷ.言いつけのこと)に従うて,各々任を分ち,先づ聖語の抜粋より始めしが,功程未だ幾ばくを経ざるに,早くも同年六月となり,余輩同志者は,尽く本科の業を卒へて同志社を去り,東西離散することとなりければ,分任服事し来りたる編纂の事業は,一に之をラールネデ教師の賢労に任せて去れり,
(以下略)

ここで,ラールネデ教師というのは,ラーネッド博士 (Dwight Whitney Learned, Ph.D., D.D. 1848-1943) のことで,ボストンのアメリカン・ボード (American Board of Comissioners for Foreign Missions) から派遣されて,同志社の創始者 新島襄を助けた人である.アメリカン・ボードというのはアメリカのプロテスタント外国伝道団体を指している.


住谷悦治『ラーネッド博士伝』(未来社,1973)より.

ラーネッドは1848年10月アメリカのコネティカット州カンタベリー に生まれ,1870年エール大学を卒業,続いて同大学院に進学し,1873年ギリシャ文学の博士号を取得した.卒業後,セイヤー・カレッジ(Thayer College, Kidder, Missouri.1869年から1876年まで存続)でギリシャ語の教授をしていたが,アメリカン・ボードの募集に応じて,京都同志社の教師になることを決意し,1875年11月,日本に来日した.翌年,学校の開設と同時に,教師として,英語,神学,経済学,政治学などを教えた.以来足掛け53年,休暇の3年を除いても50年の永きに渡って同志社の発展に尽力した.この間1896年にはエール大学より神学博士号を贈られている.また1919年1月より1920年11月まで同志社の大学長を勤めた.1928年7月 夫人の健康のため引退しアメリカに帰った. 同志社の発展はラーネッドの努力なくしては考えられない.同志社創立以来の功労者と言えよう[1].

卒業生の回想 [1: pp. 51-90,2] を見ると押しなべて,彼は同志社第一の学者で教育に熱心だが,生来寡黙,几帳面で笑った顔を見たことが無いと評された.徳富蘇峰は

記者[蘇峰のこと]は明治九年より十三年迄,足掛け五年間,京都同志社在学中, 幾多の外人教師に接したれども,真に我師といふを敢てするものは,只ラーネッド 先生一人あるのみ.

と賞賛している[1: p. 57].彼は聖書に関する講義録を多数出版しており [3],また日本で初めて本格的な経済学を教えたことでも知られている.

上に引用した『聖書語類 新約の部』の緒言より,真鍋は1885(明治18)年6月に同志社の神学部を卒業したことが分かる.実際,同志社の校友会名簿を見ると,明治18年6月26日邦語神学第3年科目修学証を受けたことになっている.またこの本の奥付けによると,緒言を書いた1890(明治23)年には,東京市芝公園百七十二号に寄留していた.

真鍋は同志社の学生のとき何度か伝道活動をしている.1879年4月に今治に帰郷したときの他,1881年7月今治教会が設立されたときには新島襄と共に会堂開きに参加しその後松山へ赴いている.また今治から派遣されて多度津で伝道,この他1882年には(おそらく今治対岸の)大島に行っている[4].学生のときから熱心なキリスト教の信奉者として運動していたようだ.

大阪国際児童館の桝居孝氏の「雑誌『ちゑのあけぼの』とその時代」という論考[5] によると,『ちゑのあけぼの』は大阪で1886年11月に創刊され1888年4月まで続いた少年少女向けの週刊雑誌で,真鍋はその二代目の編集人をやっていたという.真鍋ら三代にわたる編集者はいずれもアメリカン・ボードの宣教師の影響を受けたキリスト者であるとのことである.真鍋は1856年今治の生まれだそうなので,同志社を出たのは数え30歳,幼稚唱歌集を出版したのは数え32歳のときということになる.

音楽取調掛版『幼稚園唱歌集』は,緒言の書かれた日付からみると1883年6月までに実質的な編集が終わっているように見える.文部省に招かれ,日本の唱歌教育を立ち上げた,メーソン(Luther Whiting Mason,1818-1897)は1882年7月に離日しているが,この唱歌集の編集作業では中心的アドヴァイザーであったろう[6,7]. 安田寛氏にならって[8],想像をたくましくすれば,この『幼稚唱歌集』の場合もメーソンの秘密のリンクで関西方面にリークされたのかも知れない.

以下に音楽取調掛版に含まれていない曲の楽譜と歌詞を示す.

第十   ゆけよゆけよ

一 ゆけよゆけよ まなびのみちを
  まなびのみちに おくれずすすめ
  おくれずすすめ まなびのみちに
  まなびのみちは たのしき道ぞ

二 のぼれのぼれ はなびのやまに
  なまびのやまに おくれずのぼれ
  おくれずのぼれ まなびのやまに
  まなびのやまは はなさく山ぞ
楽譜は第1段第1小節と第3段第3小節は,冊子末尾の誤植表により訂正してある.ただし最終音の音程は誤りと思われるし,調性記号の位置も誤っているが直していない.

第十五  むかしの昔

一 むかしのむかし いにしむかし
  おもかげうかぶ よよのゆめ
  きよみが関に あま津しま
  遊びしむかし ゆめにみゆ

二 過(すぎ)にしむかし いにしむかし
  おもかげうかぶ むねのうち
  をばすての月 みかのはら
  をばすての月 みかのはら
  ねざめのとこに うかぶかな
 原曲はイングランド民謡 "Long, Long Ago" (Thomas Haynes Bayly 1797−1839 作詞).
戦後 1947 年の文部唱歌『思い出』(古関吉雄 作詞)[垣(かき)に赤い花さく いつかのあの家]として知られる.他の訳詩に1888年の 『旅の暮』[落葉をさそふ 森のしぐれ] (大和田建樹 作詞,『明治唱歌 第一集第二十五曲』),1913年の『久しき昔』(近藤朔風 作詞)「語れ愛 (め) でし真心 久しき昔の」がある.

第十六  黄金白銀

  黄金(こがね)しろかね さきにさく
  きくの下水 かをるなり
  つゆの雫を のみてみよ
  齢(よはひ)さへほも のぶと言ふ
第二十  太鼓を腰に

  太鼓をこしに いざとく進め
  いさみにいさみ うてやならせ
  ドンドンドンドン ドンドンドンドンドンドン

二 らっぱをくちに いざとく進め
  そろひにそろへ ふけやならせ
  チトテト テトテトテト

三 てつぽうをかたに いざとくはしれ
  ねらひにねらひ うてやはなせ
  ポンポンポンポン ポンポンポンポンポンポン

第二十二 いはほのこけの

一 いはほのこけの したつゆは
  あをうなばらの みなもとぞ
  いそのまさごは いとほそけれど
  つもりつもれば をかとなる

二 うつるひかげの すぎゆくは
  ひきてはなてる やのごとし
  わづかのひまと おもひおりしも
  つもりてやがて としとなる

三 みるべしひとの あやまちを
  ふたばのうちに あらざれば
  人のまさみち まよひぞいでて
  あしきふちに おちいらなん
 原曲は讃美歌 "Happy Land". 既に文部省音楽取調掛編の『小学唱歌集』初編(1882 年 4 月)第十五 「春のやよひ」として知られていた.

第三十  馬ふとく

  うまふとくたけ高し
  ゆけますらを とくうてよ
  とくせめよ 百まんの
  てきのなかも 思ふままに
  かけちらし ひるすぎは
  ともどもに 身をやすめ
  あすきたれ このそのに
  さきがけは たれなるぞ
第三十五 来たれ来たれ

  きたれきたれ ともびとよ
  つどへあそべ このそのに
  きたれきたれ ともびとよ
  うたへいはへ このみよを
  いざもろともに


また,数え歌のメロディーは音楽取調掛版と同じであるが,採用された歌詞は異なるので,真鍋版の歌詞も示しておこう.

第二十七 一ツトヤ (福羽 美静 作詞)

一ツトヤ 人はこころが第一よ第一よ
  みがいておさめて世(よ)をわたれ世(よ)をわたれ

二ツトヤ ふたたびかへらぬ光陰を光陰を
  むなしくすごしてすむものかすむものか

三ツトヤ 三つ四つ五ツの稚児(をさなご)の稚児の
  ちしきをそだつる幼稚園幼稚園

四ツトヤ よきともえらんで交はらば交はらば
  よきともよき師は身の守り身の守り

五ツトヤ いつまで言へどもつきせぬはつきせぬは
  我身をそだてし親の恩親の恩

六ツトヤ むかしをわきまへ今をみて今をみて
  いまよりひらくる世をおもへ世をおもへ

七ツトヤ なによりだいじは人のみち人のみち
  人々はげめば国もとみ国もとみ

八ツトヤ 八千代をことぶくきみが代をきみが代を
  たすくるひとこそ人ぞかし人ぞかし

九ツトヤ こころををさむる学問を学問を
  光はさやけきまどの月まどの月

十ヲトヤ ところは日の本日のひかりひかり
あまねく国恩わするなよわするなよ

この歌詞の歌は,少し語句の異同はあるが,唱歌集発行の5年前にあたる1882(明治15)年1月30と31日に行われた,音楽取調掛の成績報告のための大演習(演奏会)の二日目に,東京女子師範学校付属幼稚園の児童113名の斉唱で披露されている[9].

少し話しはそれるが,この演奏会について,主催した伊沢修二は,「蓋し和漢洋雅俗諸楽曲を一場に演奏せるは,本会を以て嚆矢とす」と述べている.実際,この演奏会では筝曲をピアノで演奏したり,ピアノと琴・三味線の合奏なども行い,邦楽も洋楽も同じ原則に従っていることを,内外にアッピールしたのだった.

『幼稚園唱歌集』と『中等唱歌集』の歌詞と楽譜については本ホームページの別稿

日本初の官製『幼稚園唱歌集』  および 『中等唱歌集』

を参照されたい.

(2007年10月)

[付記] 本稿を書いた2007年の時点では真鍋定造の事については限られた事しか分からなかった.しかし2011年になって柿本真代氏が真鍋に関する詳細な伝記を明らかにした[10].それにより,活動の様子を抜書きしよう.

 定造は真鍋与平とヒデの4男として1856 (安政3) 年に四国の今治に生れた.1876年春と翌年5月に神戸からアトキンソン (John L. Atkinson, 1842-1908),1878年春にダッドレー (Julia E. Duddley, 1840-1906) が今治へ伝道に来た.今治ではキリスト教を学ぶ組織,愛隣社を結成され,定造は最年少でその社員になった.
 1878年秋同志社英学校に入学,今治にキリスト教の会堂が1879年9月にできると,伊勢(横井)時雄牧師が着任,定造はアトキンソンにより受洗した.1880年5月今治に帰省するために乗った和合丸が嵐のために沈没したが,からくも一命をとりとめた.しかしこの事故が原因で身体をこわす.その結果同年9月同志社を中退し,伝道活動に専念する.1883年12月岡山の笠岡で定住の伝道師となった.
 1884年同志社速成神学科に再入学,翌年6月卒業.しかし病のため笠岡には戻らず,今治に帰った.『幼稚唱歌集』(1887年3月),『聖書語類』(1890年2月) を出版,週刊『ちゑのあけぼの』の編集 (1887年1月-5月) に活躍するが,1890年4月今治に帰省.1891年8月今治で死去,享年36歳の若さであった.

Ver. 2 (11/07): ラールネデに関する記述を加えた.
Ver. 3 (12/07): 住谷悦治『ラーネッド博士伝』(未来社,1973)により,ラールネデに関する記述を加えた.
Ver. 4 (1/08): 真鍋の伝道活動について書き加えた.
Ver. 5 (4/11): 真鍋の伝記について書き加えた.

参考

[1] 住谷悦治『ラーネッド博士伝』(未来社,1973).
[2] 同志社社史編『創設期の同志社 ― 卒業生たちの回想録』(同志社社史資料室,1986年12月).
[3] 上記『ラーネッド博士伝』の著作目録(pp. 797-799)に多数記録されているが,一例をあげれば,
   ラールネデ講述,速水琢巌筆記『基督教会歴史』(福音社,1889年).
[4] 茂 義樹「『七一雑報』における日本基督伝道会社」,同志社人文科学研究所編
    『七一雑報の研究』(同朋社,1986年3月) pp. 175−199.
    この資料は桝居孝氏のご教示による.記して感謝申し上げる.
[5] 桝居 孝「雑誌『ちゑのあけぼの』とその時代 ― 明治十九年〜明治二十一年 ―」,
    「国際児童文学紀要」第13号 (1998) pp. 1-20.
[6] 遠藤 宏『明治音楽考』(友朋堂,1948年4月) p.144.
[7] 中村 理平『洋楽導入者の軌跡』(刃根書房,1993年2月) p. 521.
[8] 安田 寛『唱歌と十字架』(音楽之友社,1993年).
[9] 伊沢修二著,山住正巳校注『洋楽事始』(東洋文庫,平凡社,1971年6月) p. 39.
[10] 柿本真代,「新島研究」第 102 号(2011 年 2 月 28 日)pp. 113-132. 『初期同志社英学校に学んだ真鍋定造の軌跡』―伝道師から児童雑誌の編集者へ―.


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