黒船来航



(図をクリックすると大きくなる.)


 幕末になると日本開国を求めてペリー提督 (Matthew Calbraith Perry) が日本にやってきた.徳川幕府は周章狼狽し,江戸では

「太平の 眠りを覚ます 上喜撰(お茶の名前で蒸気船にかけた)
 たった四盃(船四隻にかけた)で 夜も寝られず」

と皮肉られた.ここでは賑やかな音楽の聞こえる画題をとりあげる.




図1.黒船之図
本間北曜画
1853(嘉永6)年
本間美術館蔵


図2a.Matthew Calbraith Perry


     図2b.ペリー像
        神奈川県下田市



 図3 (a)

 図3 (b)

 図3 (c)


 図3 (d)             図3 (e)

 図3 (f)

 図3 (g)


 図3 (h)                

 図3 (i)

 図3 (j)

図3.種々のペリー図.
(a) 『島津家文書』 東大史料編纂所蔵(国宝)
(b) 『黒船来航絵巻』 神奈川県立博物館蔵
(c) 『合同舶入相秘話』 福井市郷土歴史博物館蔵
(d)  通称「西郷ペリー」 江戸東京博物館蔵
(e)  通称「天狗ペリー」 江戸東京博物館蔵
(f)  提督ペルリ肖像「異国落葉籠」1854(嘉永7)年 
   江戸東京博物館蔵
(g) 「惣大将ヘロリ真図」 黒船館蔵
(h) 「提督ペルリー肖像 次官アワタームス肖像」 1854年,  Peabody Essex Museum, U.S.A. 蔵
(i) 「水師提督名マツラウセペルリ」 黒船館蔵
(j) 「ペリー肖像」 下岡蓮杖画(1901) J.W. Henderson 氏蔵





図4."First Landing at Gorahama"
Wilhelm Heine (1827-1855) 画
1853(嘉永6)年


1853年7月8日(嘉永6年6月3日),開国をせまる国書を携えたペリーが蒸気船 サスケハナ(旗艦サスケハナ艦長ブキャナン大佐,副官コンティ大尉), ミシシッピーと帆船プリマス,サラトガの計4隻で浦賀に来航し,沖合いに停泊 した.7月14日(和暦6月9日)にペリーは部隊を久里浜に上陸させて,浦賀奉行 にアメリカ大統領フィルモアの国書を手渡した.



図5.ペリー浦賀来航図
1853(嘉永6)年
彦根城美術館蔵

幕府側は国書受け取りのための仮応接所(会議所)を浜辺に仮設した.浦賀奉行 戸田伊豆守は200人,井戸石見守は100人の兵を率いて応接所に待機し,その両翼を彦根藩兵2000人,川越藩兵700人で固めた他に忍藩兵.海上は会津藩.




図6.「アメリカ人久里浜上陸行軍之図」(水彩画)
1853(嘉永6)年
靖国神社遊就館蔵

上陸した隊列は,星条旗と軍楽隊を先導とし,続く中心部に国書と委任状を持つ 童子2人と赤い服装のペリー,その後に護衛の隊列が続いた.総勢500余人であっ たという.
この上陸の時 "Yankee Doodle" (アルプス一万尺)が演奏されたという[笠原:p. 18f.]. 『明治唱歌』第二集第十四「慈愛の笑顔」 を参照.


図7a.「合同舶入相秘記」
福井藩主 松平春嶽著
1853(嘉永6)年
福井市郷土歴史博物館蔵
1853年久里浜に上陸した軍楽隊.



図7b.「米艦渡来紀念ノ図」(部分)
画家不詳
1853年
横浜開港資料館蔵
1853年久里浜に上陸した少年鼓笛隊員.ラッパと太鼓を手にしている.




図8a.黒船来航絵巻
1853(嘉永6)年
大垣藩家老戸田縫殿文書
個人蔵
ペリーのもたらした楽器


図8b.ペリー来朝浦賀紀行図
松代藩真田家文書写本
1853(嘉永6)年
ペリーのもたらした楽器


図9.「ペルリ提督神奈川上陸図」
Wilhelm Heine 画
1854年(嘉永7年)



翌1854年,蒸気船サスケハナ,ポウハタン,ミシシッピ,帆船マセドニアン,ヴァン ダリア,レキシントン,サザンプトンからなる7隻(遅れてもう 1 隻帆船サラトガが 加わった)からなる黒船が再来し,2月13日(嘉永7年1月16日)横浜金沢沖に停泊し た.長い交渉の末,幕府は遂に和親条約を結ぶこととなった.
ペリーが調印のため3月31日(嘉永7年3月3日)横浜に上陸するとき,マセドニアン号 から17発の礼砲が鳴り響き,音楽 隊が "Hail Columbia" を演奏したという[笠原:p. 58f.]. 『中等唱歌集』第十 「御国の民」を参照.



図10a.「黒船来航絵巻」
高川文筌 画
1854年(嘉永7年)
個人蔵

横浜でのミンストレル・ショー.
ミンストレル・ショーとは黒人の扮装でこっけいな演技をして観客を喜ばせる出し物.交渉中は幕府の高官が米船に招待され,ミンストレル・ショーを見て笑い楽しんだという.


図10b.同前


図10c.「船中狂言図」
歌川豊国 (1786-1864) 画
横浜市中央図書館蔵

William Fry (1813-1864)作曲 (1845)『レオノーラ』に基づくブルレスク(こっけい劇)『リヨンの娘』.

ミンストレル・ショーは,交渉の節目毎に横浜公演(1854年3月27日(嘉永7年2月29日)),函館公演(1854年5月29日(嘉永7年5月3日)),下田公演(1854年6月16日(嘉永7年5月21日))の都合3回行われた.プログラムはいずれも,第1部,第2部,ヴァイオリン独奏をはさみ,ブルレスク『リヨンの娘』で終わるが,前半の出し物は少しずつ異なる.「アンクル・ネッド」,「主人は冷たい土の中」,「草競馬」(多少留保付きだが)などフォスター (Stephen Collins Foster, 1826−1864)の新作が歌われた[笠原:p. 102f.].

歌唱は以下で聞ける:
「主人は冷たい土の中」
"Massa'a In De Cold Cold Ground"-RICHARD CROOKS
http://www.youtube.com/watch?v=Yu1AP5_5M3Y

「草競馬」
camptown races
http://www.youtube.com/watch?v=peZseIp3QGI

1854年4月4日 (火曜日,安政元年3月7日) ペリー艦隊の「サラトガ」(艦長アダムズ) が本隊より一足早く横浜を出港するとき,旗艦「ミシシッピ」の楽隊が "Home, Sweet Home (埴生の宿)"を演奏した [Samuel Wells Williams (1812-1884), (ed. by Frederick Wells Williams), "A Journal of the Perry Expedition to Japan (1853 - 1854)" (1910), p.158].日本の聴衆は居なかったけれど日本国内での初演と言えよう.[桜井私信: 2013. 06. 06]


図11. 吉田松陰と金子重輔の像
下田市

ペリー艦隊は和親条約を締結後,1854年4月18日(嘉永7年3月21日)下田に移動した.この時,長州藩を脱藩した吉田松陰と金子重輔は4月25日(陰暦3月28日)午前2時頃,米船に近づき密航を哀願するが,断られてしまう.密航の禁を犯した彼らは幕府に捕えられ,長州へ送られ幽閉された.この時,松下村塾を開く.この後,松陰は江戸で梅田雲浜との関係を疑われ,死罪となる.享年30歳.
ペリーは下田から函館へ向かい,5月17日(陰暦4月21日)函館到着,松前候代理松前勘解由と会見し,ゆっくり函館を視察して,6月3日(陰暦5月8日)函館発,再び下田に戻った. ここで下田・函館両港開放の細目を規定した下田追加条約 を結び,琉球へ去った.


図12.松前勘解由(?-1868)
エリファレット・ブラウン・ジュニア撮影
(ペリー艦隊付き写真師)
1854年5月(嘉永7年4月か5月)
北海道松前郡松前町郷土資料館蔵

日本人初の銀板肖像写真.


ペリー来航の時日本で英語を話せるのはアメリカから戻った漂流民の万次郎(ジョン・マン)のみであった.しかし水戸徳川斉昭公の強い反対で,彼はこの時表舞台には出ることはできなかった.だが日米修好通商条約の批准書を交換するための遣米使節団では,1860年2月10日(万延元年1月19日)発の咸臨丸に乗り組み,軍艦奉行木村摂津守喜毅,船長勝麟太郎らと共に,通訳としてアメリカに渡った.ちなみにこの咸臨丸渡航の際雇われた水先案内ブルック(John Mercer Brooke)は幕末のもう一人の漂流民彦蔵(ジョセフ・ヒコ)の帰日を支援した人である.


図13. 咸臨丸難航図.
鈴藤勇次郎画
(長崎海軍伝習所第一期生)
横浜開港資料館

咸臨丸は100馬力の蒸気機関付き3本マストの
木造帆船.40.0 m x 8.74 m, 排水量 620 t

図14. 中浜万次郎 (1827-1898)
新人物往来社編『〈別冊歴史読本64〉
世界を見た幕末維新の英雄たち』
(新人物往来社、2007年)より

万次郎(1827年1月27日(文政10年1月1日) - 1898(明治31)年11月12日)は土佐・中浜村の貧しい漁師の次男で,1841年1月27日(天保12年1月5日)土佐・宇佐浦からはえ縄漁に出て遭難.1841年2月5日(天保12年1月14日)鳥島に漂着し, 1841年6月27日(天保12年5月9日)アメリカ捕鯨船ジョン・ハウランド号(ウィリアム・ホイットフィールド船長)に救助された.
ホイットフィールド船長に気に入られた万次郎は養子となり,アメリカで教育を受け,捕鯨に従事,やがて帰国に意思を固める.資金を稼ぐため,当時ゴールド・ラッシュだったカリフォルニアに行き,金の採掘に従事する.ここで得た資金を持ってハワイに渡り,上海行きの商船サラ・ボイド号(ホイットモア船長)に乗船. 琉球近海に来て,1851年2月3日(嘉永4年1月3日)小舟で琉球文仁小渡浜海岸(大渡海岸,現在の沖縄県糸満市)に上陸し,8月27日(旧8月1日)鹿児島に着く.10月23日(旧9月29日)長崎着.取調べの後故郷の高知城下に1852年8月25日(嘉永5年7月11日)着く.
土佐に帰る途上 Foster 作曲 (1848) "Oh! Susanna" を歌ったという [朝日新聞 2010.6.26e1・2面].金鉱堀りのとき覚えた歌だろうか.

歌唱は例えば
Oh Susanna
http://www.youtube.com/watch?v=rijQX5S1AYM

当時ペリーの来航によって幕府はアメリカの知識を必要としていたことから,幕府に召聘され江戸で直参の旗本となり,生まれ故郷の地名を取って「中濱」と名乗った.咸臨丸で帰国後は軍艦教授所教授に任命され,明治維新(1868年)後は開成学校(現・東京大学)の教授に任命され教育に邁進した.
日本に『ABCの歌』を初めて紹介したと言われる.


ちなみに,日本人を写した最古のダゲレオタイプ写真は,スイスの写真研究家,ルイ・ミシェル・オエール氏所有の浜田彦蔵(ジョゼフ・ヒコ) であることが2007年に判明した[Wikipedia「浜田彦蔵」].

彦蔵の乗った栄力丸は,江戸から郷里の播磨国阿閇(あえ)村(現・加古郡播磨町)へ帰る途中,1850年12月3日(嘉永3年10月30日)に遠州灘で難船し2ヶ月程漂流した.南鳥島付近で1851年1月22日(嘉永3年12月21日)米船オークランド号に救助され,1851年2月3日(嘉永4年1月3日)サン・フランシスコに入港した.写真はこの折のものとされる.


図15.浜田彦蔵(ジョゼフ・ヒコ)
(1837 -1897)
サンフランシスコで撮影
1851年(嘉永4年)
Wikipedia 「浜田彦蔵」より

その後彦蔵はアメリカで教育を受け, 1854年10月 洗礼を受け, 1858年6月 Joseph Hecoとして帰化した. ピアース・ブキャナン・リンカーンの3代の大統領に (それぞれ1853年8月, 1857年11月, 1862年3月)謁見, 日本人として大統領に会った初めての人である.
領事付き通訳として1859年7月29日(安政6年6月30日)神奈川に来日した.
幕末の混乱期に身の危険を感じて一時1861年9月(文久元年8月)日本を離れアメリカに戻るが, 1862年10月(文久2年閏8月上海を経て再び横浜に米国領事館通訳として)再び来日.
1863年7月16日(文久3年6月1日) 軍艦ワイオミング号(艦長マクドガル中佐,ヒコ乗艦) は,米蒸気商船ペンブローク号が下関停泊中,毛利藩軍艦 庚申丸(久坂玄瑞指揮, ランスフィールド号?)・癸亥丸に旧5月10日に襲撃された報復として, 下関海峡で軍艦庚申丸・壬戌丸を砲撃して撃沈,癸亥丸を大破した.その際 米兵5人死亡,7人負傷した.
その後神戸・東京に住み,1864年6月(元治元年5月)日本で初めての新聞(『新聞誌』と題して手書きで始め2・3ヶ月で休刊,翌1865年4月(慶応元年3月)木版の『海外新聞』と改名して再開,1866年11月(慶応2年9月)まで続く)を発行するなど,日本の近代化に努めた.
また1867年6月(慶応3年5月)には桂小五郎(木戸孝允)・伊藤俊輔(博文)らの求めに応じ,アメリカ社会の様子を語った. ヒコはこの後長州藩の代理人(エージェント)を引き受ける.


図16.左より伊藤俊輔(博文),桂小五郎(木戸孝允),
ベッデル,ヒコ.
1867年(慶応3年)
浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)(土方久徴・藤島長敏 共訳)明治文化研究會編『開國逸史 アメリカ彦蔵自叙傳』(ぐろりあそさえて,1932), p. 365.
神戸大附属図書館蔵


ベッデル(Alexander Madison Vedder, 1831-1870)は 画家 Elihu Vedder の兄. 1863年7月末,海軍医官として軍艦 Jamestown で横浜に来る. 1868年初め,毛利藩公付き医者となる.1869年,医長として神戸病院(現神戸大医学部)を立ち上げるが,中風に罹り1870年春に離日.サン・フランシスコに到着して数日で死去した.

明治になり,1872年8月から1874(明治7)年には大蔵出仕となり, 渋沢栄一の下で「国立銀行条例」の編さんに 関わった.
1877(明治10)年9月頃郷里の松本e子と結婚し浜田家を再興. 1897(明治30)年12月東京の自宅で死去し,青山の外国人墓地に「浄世夫彦」として葬られた.なお帰化法が制定されたのは1899年のことである.

ヒコの生年は,浜田彦蔵著,中川努・山口修訳『アメリカ彦蔵自伝』(平凡社,1:1964年2月; 2:1964年7月)[Joseph Heco, "The Narrative of a Japanese" Vol. 2 (Maruzen, 1891? & 1895)の翻訳]に従って,1837(天保8)年,母の亡くなった1850年(嘉永3年5月)には(満)13歳とする文献が多い.
ところが,近盛晴嘉『ジョセフ=ヒコ』(吉川弘文館,1963年12月)によれば,大正天皇の侍医頭の池辺棟三郎博士の書いた死亡届では「病名 心臓肥大兼右肋膜炎 ジョセップ、ヒコ 六十ニ年」[同書:p. 108]となっており,妻 松本e子の弟松本銀三郎の書いた青山墓地にある浄世夫彦墓銘碑には「天保七年播磨国農家ニ生ル。・・・年齢六十ニ遂ニ寂。」とあるという[同書:pp. 136-137].近盛はこれを単に間違いとした.
またヒコ自身の叙述した,『漂流記』(1863年,文久3年9月)では「天保七丙申年秋八月播州浜田村(母の再婚先)に産る」とし,奥田昌忠『長瀬村人漂流談』では漂流の1850(嘉永3)年で「炊彦太郎(彦蔵の幼名)歳(数え)十五歳」とある.
つまり,家族や近しい者の間では1836(天保7)年申年生まれとして通していたと考えられる.勿論,母の死亡時満13歳が正しい可能性もあり,船に乗ったとき若すぎるのはまずいと思って年齢を偽った可能性もあるが,何分子供の時の話である.大人になり結婚して妻に語った生年を正式のものと考えるのが自然であると私には思われる.
私自身についても,母は私の妻に,「息子は本当は12月28日生まれだが,生まれて数日で数え2歳になるのは可愛そうだから,正月2日生まれで届けた」と語ったそうである.もとより本人の知らない話である.明治以来小学校入学は満年齢で決まるから,どちらでもあまり関係は無かったはずであるが,当時慣習の数え年で入学が決まると誤解したのかも知れない.


(2009年12月)

2010. 6. 29  万次郎とジョセフ・ヒコについての記述及び写真を追加した.
2011. 12. 18  神戸大学文書史料室 野邑理栄子氏に図16の写真を提供いただいた.記して感謝する.

[参考]

 主として
大久保利鎌監修,松平乗昌・岩壁義光解説『黒船来航譜』(毎日新聞社,1988年12月)
笠原潔『黒船来航と音楽』(吉川弘文館,2001年6月)
浜田彦蔵著,中川努・山口修訳『アメリカ彦蔵自伝』(平凡社東洋文庫, 1巻[1964.2]8刷1982.9; 2巻[1964.7] 4刷1976.3)
近盛晴嘉『ジョセフ=ヒコ』(吉川弘文館,[1963], 1986年5月)

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