最首塾 on the web / 最首塾お知らせ

最首悟関連の書籍案内

*こちらのページからご注文いただければ、お安くお送りできます。
*公費書類作成その他、応相談。
*ご希望の方は、saishjuku@yahoo.co.jp(「最首塾・丹波博紀」宛)までメールをください。
*簡易包装を心がけております。どうかご理解ください。


『「痞(ひ)」という病いからの 水俣誌々パート2』
どうぶつ社、2010年2月
  著者=最首悟
  編集=丹波博紀
  装画=中田千絵

*定価2,310円(税込)のところを、1,900円(税・送料込)にてお送りできます*




いただいた書評/コメント(一部抜粋)

■「水俣はわれわれの病いと…」『思想のひろば』(滝沢克己協会)第21号2010年3月31日

滝沢(克己)は「正常化」の大学に訣別した。最首がどれほど苦しんだことか。さらに重度複合しょうがいのお子さん。それでも崩折れない。自己そのものだけを頼りに、いかにも頼りなげに生きかつ語り続ける無頼の人。加藤周一は集団主義の日本社会では個人が大事といった。近代主義とはいうまい。滝沢の存在も主張も結局そこに行き着く。足尾には田中正造がいて、熊野には南方熊楠がいた。水俣に最首もいることの貴重さを思い、本書を勧めたい。

■鬼頭秀一「<いのち>を真摯に問い続ける」信濃毎日新聞2010年4月11日

冒頭に立教大学での講義録を配置し、水俣病について初めての人でもその問題の本質がよく分かるように構成され、また、国家や法のあり方の問題から始まり、私たちが、社会がこの問題とどう関連し位置づけられているかが明確にされる。最後は「いのち」の本質的な問題に至り、学問ならぬ「問学」という新しい知の営みにつなげている。

■神貴夫「書評:<痞>という病いからの」『情況』2010年6月号

環境問題の解決に向けて様々な技術的な検討がなされている。しかし、本書を通読すれば、それらはことの表層にしかすぎないこととがわかる。水俣病が人類に突きつけた真の問いとは何か。その底知れぬ奥深さの先にこの世にゆだねられた命の存在の安らぎに気づかされていく。

「<痞>という病いからの」ウツな本棚(アップロード日不明)

実は、すごくおもしろい。おもしろい、というのは時によっては不謹慎ないいかたかもしれないが、でも、おもしろい。最首さんのご本や文章、普段気付かずに、あるいは見ないでいたことをはっきりわかりやすく見せられるのに、だからと言って不快になったり落ち込んだりせずに、なんだかとても、肯定されたような不思議な気分になる。とくに今回のものは1990年代からの、最首さんの「問学」の成立に向かって書かれているものも収録されていて、「自分が、あるいは研究が有用なものなのか」などなどの自問自答を通して、読み手もまた自分や自分のすることについて考えざるをえないことになる。

「今の時代の病(最首悟)」暗川(アップロード日2010年03月10日)

わかりにくかったのは「はじめに」と最後の方だけで、大半は非常にわかりやすかったです。この本は最首さんが1990年以降に記した水俣関連の文章を集めたもので、いつも「水俣にはすべてがある」とおっしゃっている意味が非常によくわかるものでした。この本を読んでいると、国家、学問(医学)、政治、行政、司法、差別、、、すべての問題が見えてきます。すべてが患者を「棄民」として切り捨てたのです。




 目  次 

まえがき

吃造

1 水俣と国家
2 水俣の痛み
3 漁師八十年――下田善吾聞き書――
4 水俣病和解にあたって
5 ソーシャル・サービスとしての福祉
6 水俣病から見た医学者の姿
7 福祉行政のあるべき対応
8 水俣病事件と法
9 水俣病事件と法
10 水俣病の寒気
11 責任をとるということ
12 私たちの病い、水俣病

狂譴衂

13 共生の海
14 報い
15 ことばが無在のとき
16 不可視の水俣病
17 「水俣病歴史考証館」に寄せて
18 表現されることのない苦しみ
19 尋ね続けること
20 共同性へのシンボル
21 「水俣・東京展」開催に向けて
22 水俣四〇年のメッセージ
23 「帰ってこい」というメッセージ
24 〈いのち〉のひびき
25 日月丸のこと
26 すべてが病む中で
27 語り部に想う

径荵絢?

28 今、水俣について思うとき
29 相思社に想う
30 全共闘から始まった旅
31 インタビュー_水俣を抱き旅立つ
32 水俣学
33 市民とみなまた
34 一九六八、問われた個人の倫理
35 有用へのゆるぎない自負
36 宇井純のテーゼの現在
37 水俣の底知れぬ井戸
38 公害に第三者はいない
39 自らを未党派と名付ける

犬い里/問学

40 水俣病の現在
41 環境危機への対処
42 言葉はほんの一部にしか過ぎない
43 水俣_新たな五〇年へ
44 水俣問学
45 みられることをとおしてみるものへ
46 水俣・和光大学展
47 ひろがる「水俣」の思い
48 「いのち」という果てしない旅
49 「つづく」という意志
50 「つづく」は「いのち」
51 あねさん、あねさん
52 天の病む
53 「いのち」に問われる一般教育
54 いのち噴き出す仮面
55 江津野老、人間なるものの凝縮
56 私たちの自発する義務

あとがきにかえて

おろおろ神

編集記 引き継ぐべきことについて……(丹波博紀)


◇◆本書より抜粋◆◇
*以下は校正前の文書からの抜粋です。

◆まえがき(全文掲載!!) / 目次へ

「怨」の一字を黒地に白で染め抜いた旗がひるがえる。それはもう一つの、白地に黒の「涅(ね)」の字の旗を浮かび上がらせる。どこかで「毘(び)」の白旗も立てられているようだ。「怨」の字旗と「涅」の字旗が重なり合う。裏表の張り合わせではない。「怨」を見つめていると「涅」がにじみ出て、また「怨」になるようだ。それは「怨」旗を掲げて行進している人々、水俣病と認められない人々が醸し出している幻旗であり原旗であるのかもしれない。上杉謙信の「毘」の一字旗も、そのようにして時折見えるかのようである。「毘」は七福神の毘沙門天に通じ、大日如来の毘盧遮那(ビルシャナ)につながる。そのようなことを思うと、「毘」は「昆(こん)」へ滲みながら移行してゆくようだ。田がつながり日のもとに並ぶ。「毘」はへそであり、「昆」は一つに円くまとまる。

「涅」は水と日と土からなる。というふうにはならず、日に意味はないと字典はいう。でもお日さまの日にしたい。「涅」は黒い粘土で、それが日を浴びて暖かくなっている。「涅」は「泥」に近く、「泥」も「ネ」と発音する。「泥」を捏ねて熱を帯びてくると「日泥(ひどろ)」か。「日泥」は「昵懇(じつこん)」の「昵」、これも「ネ」と発音し、ねっとりと暖かく親しみやすい「日」と近い字で、また親しみやすい女の人、すなわち「尼(に)」にも近い。そして「尼」は「海女(あま)」であり、アマは「天(あま)」に通じる。

水俣にはじめて向かったとき、車窓から不知火海を見て、若山牧水の「白鳥(しらとり)は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」を思った。房総の白浜でつくったというこの歌は、いや、この白鳥は、不知火海に似つかわしくないように思われた。「生あるものは皆この海に染まり」と口をついて出てきて、あとで石牟礼道子さんの「乳の潮」を知った。

不知火は、日に灼かれる干潟あるゆえの出現である。そして干潟には無尽の〈いのち〉が犇(ひし)めく。干潟の「涅」を掬い取って拡大観察にかけると、無数の微小なタコつぼのごときセル(小部屋)が見えてくる。もし地球上で生き物が誕生したとすれば、それはこの干潟の粘土の小室においてであったろう、という仮説がある。

怨旗の怨念は、だれに、どこに、何に向けられているのだろうか。虚空へ、となれば最も深い怨念が示されそうであるが、この世に絞るとすれば、力ある者に利する杓子定規の直線的な合理に対して、と言うほかはない。それは機械をつくりだす論理であり、明解な是か非かの選択しか許さない考えである。それは単純な規格化を可能にし、大量生産、大量消費、大量廃棄の道筋に人々を追い込んだ。それは人間を分断し、人材化し、容赦なく捨て去る社会を生み出した。キチッ、キチッと線を引くように処理すると、人は部品になってしまうのだ。

みずからなる自然(じねん)は廃棄物を出さない。自然に直線はない。自然の多様な網の目相関は、一つの目の不具合に全体が反応する。一つの目、ひとまとまりの目をそれとして切り出すことはできない。切り出すと〈いのち〉を失ってしまう。路傍の石を、何ものもない純粋空間というような場に置けば、それは死んでしまう。路傍の石は無数の関係を紡いで、その態様は生きているとしか言いようのないものだ。しかし近代科学の精髄は、何ものもない真空の空間に、点としての物質を二つ導入して、その間に発生する関係を調べることにあり、どのような事物も、調べようとする性質について、その事物が置かれている環境を無視する、あるいは無視できるものとしての性質を調べる。そのようにしてしか明晰性は得られない。

そのような明晰性、明快性こそが高度に便利な科学技術社会をもたらし、あり得ない幻想を人々に植え付ける。無菌などという幻想である。何兆にも及ぶ大腸菌との共同なしに人は生きられないのである。しかし大腸菌との共同などという言い方そのものが明晰な論理の流れの中にある。その思潮は、ほぼ四〇〇年前の「ひっきょう人間も機械だ」としたデカルトに始まり、自然と縁を切る人間の完成を目指してきた。自分の思考がいかにそのような近代合理に根ざしているか、そして生活がいかに近代合理の具体化である便利な機械文明にどっぷりと浸かっているか、そのことに気付くと、どうにも居心地の悪さがやってくる。うずきや、やましさ、うしろめたさを振り切ることができない。

「慢」という今日の時代の巨きな病いに自分もかかっている、としたのは宮沢賢治だった(賢治最後の手紙、一九三三年)。風の中を自由に歩けるとかは、できないものから見れば神の業に均しい、そんなことは人間の当然の権利だなどというような考えは世界の実際と余りに遠い、と賢治は死の一〇日前に記した。「慢」という病はとうぜんのごとく続きながら、この時代、被害者であり加害者であるような、テクノロジーの成果を批判しながら享受しているような、この居心地の悪い時代、「祈るべき天とおもえど天の病む」(石牟礼道子、一九七四年)時代の病いは何とよぶべきだろうか。

「痞(ひ)」という病いがある。つかえたりふさがったりする病いらしい。胸が痞(つか)えるという。親鸞とおなじく「独りで」をつらぬこうとしたクリシュナムルティは、恐怖が「否(いな)」と言わせないのだ、学校はもっぱら子どもに恐怖を教え込んでいると言った。恐怖を克服するのに必要なのは反逆心だ、「否」と言うことだと説いた。

わかる、わかるけれども……。そのような状態を「否」が病んでいると形容してみる。その病いを「痞」と呼んでみる。そして、「痞」という時代の病いからの、と言いかけて、あとは容易くは発語できない。「痞」はほとんど自縄自縛の病いなのだ。しかし、発語できない状態に留まることもできない。さようしからば、またもどって、「痞」という病いからの、と言い続けることか。またしても、うしろめたい。

しかし、そのうしろめたさがかろうじて、怨旗に重ねて涅旗を見させる、という思いをもたらしてくれる。怨念を浴びて生きてゆくことはできない。怨旗を掲げる人々に寄り添うことはもっとできない。しかし、うしろめたさを養うことはできる。熊に襲われて死んだカメラマンの星野道夫は「食べるとは殺すことである」と言った。やましさは、その回路に入り、涅に足をつけるうながしでもある。

◆ 水俣と国家 / 目次へ

水俣の問題とはどういうものなのか、少し説明しないといけません。図書館で探してもらいたい本に清水幾太郎の『現代思想』(上下、岩波書店、一九六六年)があります。その中に二〇世紀とは何かとあって、それは可塑性の文明なんだと言っています。 しなやかな文明、人間の頭で考え出したことを物体化できる文明だ。鉄鋼文明は一九世紀文明である。それは硬い。キューポラ(溶銑炉)のある町・川口は鋳物の町ですけれども、鋳物は鉄に比べればもろい。鋼鉄はしなやかだけれども、やはり硬い。それに対して、しなやかさといったら何か。プラスチックである。二〇世紀はプラスチック文明であるというんですね。そしてもう一つ、電子機器を使った情報、これもしなやかさを代表する。人類の英知がここまで来た。何か清水幾太郎がもろ手を挙げて二〇世紀讃歌みたいになってしまっている本なんですが、該当箇所をぜひ読んでもらいたいと思います。
そのしなやかさは、もろい塩化ビニールに可塑剤を加えて作り出したものです。私たちの記憶では、バケツなどすぐボロボロにひびが入るような感じで、割れやすかったです。それをしなやかにしていく技術・製品を実はチッソという会社が作り出したんです。一九六五(昭和四〇)年に片仮名のチッソという会社になりますが、その前は漢字の新日本窒素という会社でした。
それはオクタノールというアルコールの一種を原料にして作り出すのですが、チッソは世界的にもシェアをもっていて、もちろん日本の市場では七〜八割、独占的なすごいシェアを誇るんです。チッソはそれで伸びるんですね。いま押さえてもらいたいことは、チッソはそういう意味では二〇世紀文明を代表する企業だということです。
ただ、その技術をどう展開するかというときに、石炭化学工業という分野があって、初めは材料をそこから取ってきていた。コークスを焚き、石灰を焼いてカーバイドを作り、そこからアセチレンを作り出していくというのが、アセトアルデヒドを作ったり塩化ビニールを作ったりする工程だったわけですけれども、それではもう先が詰まっている。石油化学工業へ転換しなければならないという時代に差し掛かってくる。それが一九五九年とか一九六〇(昭和三五)年の問題なんです。

◆ 水俣の痛み / 目次へ

水俣病の傷みは政治、経済、社会にまたがる錯綜した要囚によって、広がり深まっているのだが、しかしどれほど四面楚歌であろうと、政治・経済に抵抗することは出来る。貧乏の極みでも矜持を失わないことはあり得る。しかし社会的な冷視と指弾には気が萎えてしまうような無力感が生じてくる。その社会の輪が狭まってきて、いわば同じ身どうしの反発になってくると、文字どおりの修羅場が出現する。とは言っても、修羅場は外部の者に窺い知れない親和力を秘めて、当事者はお互いに抱きかかえているところがあるのである。
しかし、対処の仕様がない苛立ちばかりがつのって、精神の安定を際限なく失わせて行く大きな原因がある。それは学問の透明さである。局部的に、それがつくられた、建て前としての透明さであることを反論することはできる。だが学間総体となるとむずかしい。特に公害という事象では、学問への期待をゼロにすることはできないのである。その、現実の力と駆け引きとは一線を画す、と思いたい学問と、その担い手である、全面的には罵倒し切れない、それなりに良心的な学者が患者の前に立ちはだかるとき、傷みは言葉を失ってくるのである。現代文明の傷み象徴する水俣病が、現代文明の大きな推進力である学問によって、その傷みを否応なく拡大されて行くところに、出口なしのつらい世界が口をあけ始める。

◆ 漁師八十年――下田善吾聞き書―― / 目次へ

この点についての下田さんの話には、聞いているうちにやはり一種の感銘をおぼえないわけにはゆかないものがある。救済されなければならないのは、一本釣漁師であるという前提をおいて、この前提にはいわず語らずの下田さんの自己批判がこめられているように思われるが、しかし、漁師は働けるうちは働きぬいて、不労所得を得ることなど夢にも思ってはならない、それが漁師の誇りというものだというのが、下田さんの持論である。
漁師は海に向って立派な構えの家をつくる。自分一代の稼ぎで、そういう家を建てかえることが、漁師のはげみであり、そうして建てた家は漁師魂の表われでもある。重症患者が、補償金をもらうことは否定しない。将来の生活を保証するのに是非とも必要だからである。だがまだ働ける漁師が補償金をもらって、それで軒なみに家を新築するというのは、漁師の堕落であるといわねばならない。元気で稼ぐことができれば、当然建てられたはずなのに、身体がいうことを聞かないために蓄財できない、だから補償金で家を建てるという理屈は漁師のものではない。漁師にとって板子一枚下はいつも地獄で、元気であってもいつなにがおこるかわからないのだ、家を建てるのは運の強さの結果であって、予定調和的に建つものではない。海を汚し魚を死滅させた責任をチッソに問うことと、苦しいといいながら補償金で家を建てたり、遊興につかってしまうこととは、全く別のことである――。
下田さんが、このままを話されたわけではない。要約して意を体すると、およそこのょうになるだろうと思われるのである。下田さんの意見には、海上での狩猟行為にまつわる不安定をひきうけ、ひきうけることによって剛毅さが生じ、剛毅さの故に、陸上生産者の則の埓外に生きるという、漁師の理念がほのみえるような気がする。あるいはまた、『芦北町史』に、鶴木山のことを何故書かぬという慷慨に通じる、歴史に根ざす奥深い漁師差別への憤満をおのずと物語っているのかも知れない。
水俣病の悲惨さは、人体の被害にとどまらず、「社会病」として現出したことのうちにあり、患者が苦難のすえに自分の力で手に入れた補償金によって、「社会病」の悲惨さは増しこそすれ減りはしなかった現状を思うと、下田さんの持論を、「水俣病隠し」を助長するものと単純に批判することは到底できない。

◆ 水俣病和解にあたって / 目次へ

水俣病という、天然自然が原因であるかのような悲惨な人体被害は、今から四〇年前の一九五六年にその発症が公式に記録された。その後の四年間で対策が効を奏して水俣病は鎮静し、補償も完了した。患者数九〇名の、首都東京からはるかに遠い九州水俣の、ローカルな海に生きる人々の被害であった。一九六〇年一月をもって恐怖の水俣病は終息したのである。その後の五年間で起こったことは、母親たちの訴えに端を発した胎児性水俣病患者一六人が認められたにすぎなかった。三一年前の一九六五年、患者数は一一一名だった。
ところがこの年、新潟第二水俣病が発生し、二九年前の一九六七年、患者家族は原因企業の昭和電工相手に損害賠償の訴えを起こした。抑えに抑えていた釜の蓋がついに開いたのである。気がついてみれば日本は公害の見本市のようになっていた。
二八年前の一九六八年政府は、熊本水俣病はチッソ(一九六五年より。旧社名は新日本窒素肥料)の排水が原因であることを発表していた。ただし対策も補償も全て終わっているとした。その一年後の一九六九年、水俣病患者二九家族が孤立無援、四面楚歌の中でチッソに損害賠償の訴えを起こした。水俣病公式発生以来一三年後のことである。この年一九六九年は水質保全法の排水規制が水俣にはじめて適用され、しかもその対象となるアセトアルデヒド製造設備は、前年の政府公式発表の直前に運転停止、スクラップ化されていた。
水俣病には全てが詰まっていると言われる。敗戦後の日本の人々の意識から学問のあり方、国家の政治経済福祉施策にいたるまであらゆる問題が錯綜して因となり果となり、水俣病被害者を棄民のごとく扱ったと言って過言ではない。ついに本年水俣病公式発生四〇年の年、数千から数万におよぶ数不詳の水俣病被害者はおそらく一人として納得しないまま、原因企業との和解に応じることになった。国は被害者が老齢化し力尽きる時点まで責任を否定しつづけ、水俣病の定義を厳しくし、原因企業が患者に支払う補償金を企業に貸し付けることのみを行ってきた。

◆ ソーシャル・サービスとしての福祉 / 目次へ

水俣病のような原因不明かつ激越な病気について、行政は医学的解明を督促し支援しなければならない。‥狙性かどうか、原因は何か、住民分布はどうか、じ絨箴匹呂匹Δ覆襪、タ靴靴ど袖い両豺隋病像の教科書的確立、がその主たる課題である。漁業停止や企業がからむ際の操業停止は、別の範疇に入る。医学面ではイ長期に渡り、少なくとも患者と呼ばれる存在が居なくなるまでは確定しないことに留意しなければならない。
しかし、水俣病について、日本の医療医学行政は全く行政に値しなかったし、今でもそうである。加害企業チッソの強硬な態度と共犯して、生活困窮の線引を水俣病であるかどうかの医学的線引に置き換えたことが、そもそもの行政放棄のルビコンだったのだ。医学者もまた総じて科学者に値しなかった。
自分たちは、医学上の厳密な線引を指向するだけであって、救済するかどうかの判断は行政にあるというポーズをとりながら、内実は企業−国家共同の意志を取り入れた。この態度は、第二次世界大戦中の「科学に国境はないが科学者には祖国がある」というものより悖ることを声を大にして言わねばならない。科学をいい加減にして原爆は造れないのだ。もし医学を科学とするなら、病像を追い続けて、それまでの常識に反する症状があれば逐一記載し続け新疾患の定義を確立しようと努めるだろう。

◆ 水俣病から見た医学者の姿 / 目次へ

水俣病を例にとると、この、悲惨な急性劇症から、慢性の多種多様の症状を示し、そのひとつひとつが生きてゆくのに耐え難い、人類が遭遇した初めての病いに対して、本来ならば福祉・医療行政は第一に生活困窮と、病苦の実態について素早く把握した上で、人々を援助する緊急の施策を講じなければならなかった。その上で大規模な実態調査を立案し行い、かつ継続し、そのデータに基づいて恒久的救済制度をつくらなければならなかった。産業行政の緊急措置については、今、割愛するとして、第二に、医療行政は医学者にその病気の病像・予後について、定義、診断、治療法の研究を要請しなければならなかった。
実際の歴史は、原田さんが詳しく述べているように、国家的立場を優先させて企業保護を図るために、第一と第二をごちゃまぜにして患者切り捨てを目論んだのである(例外はある)。
[中略]
医学者が学問を掲げ、それが真摯であっても、それが現実の人々の困窮、惨苦を生みだし固定するなら、そんな学問は要らないのだ。

◆ 福祉行政のあるべき対応 / 目次へ

著者の長年のレパートリーである福祉行政の面からすれば、著者の水俣病に関する主務は処理責任をめぐってであった。それは「水俣病の不安をもつ人々に対する健診制度と医療費負担」という起案になってあらわれたが、とうてい水俣病に苦しむ人々の納得するものではなかった。なぜか。
水俣病は現在進行形の病いである。重金属中毒の常識を越えて病状は多彩を究める。そのような病いに対してあるラインをひいてここから先が水俣病と断定するのは医学ではない。それを高度の専門医学と言いくるめ、医学者に断定を迫ったところに行政の責任があるのだ。
行政の任務は、その地域に特有に出る症状を軽度重度にかかわりなく水俣病に関係ありと認め、被害者の実態把握と健康保証、生活の維持に努めることである。行政自体の担う補償については、五万人規模ではとうてい社会負担に耐えぬから、仕事のできる状態に応じて我慢してくださいとひたすら頼むことである。 著者の福祉行政論を読んでいると、水俣病についてどうしてもこのようなあるべき対応が浮んでくる。やはり著者には生きて実践してほしかった。

◆ 水俣病事件と法 / 目次へ

今、ここに、「川本輝夫、この土気色にやつれ果てた人間をとらえて罰するだけでことがすむものでございましょうか」という最高裁長官にあてた一九七七(昭和五二)年七月一五日付の、石牟礼道子他一同の嘆願書がある。「国というものは奈辺にありや」という血を吐くような叫びがひびく。たしかに法の番人がゆらいだこともあった。しかし、そこに加害者としての姿を現した国は、水俣病について、あいかわらず責任を認めていないのである。
  国が責任を認めざるをえないような「法」を私たちは生み出せていないのだ。そのことを私たちは苦く受け止める。しかし「法」や「法造り」は圧倒的に「法人」や「金持ち」に味方しているのだ。そのことをはっきり見据えて、私たちは行動しなければならないと思う。

◆ 水俣病事件と法 / 目次へ

水俣病のような、人類がはじめて出会った病いの実態について、「この人は水俣病ではない」と言い切ることは学問的には長い年月がかかる(実際には早々と宣言し、しかも被害者数が膨大になりそうなので厳しくした許せない学者たちがいる)。だから医療をふくむ行政としては、「この人は異様に苦しんでいる」ことが対策の出発点であり、疑われる原因については一つ一つ仮の暫定的な手をうってゆかねばならない。ところが法そのものがないか、法の運用に歯止めがかかる。何と、行政指導の義務が生じるのは、指導をしたら「関係者においても通常それに従うであろうと推測することができる事情」(東京訴訟地裁判決)にあることが必要だというのだ。
本書は、水俣病を通して、法や法のあり方に対する私たちの疑いが正当であることを詳述している。そして疑いは法の土台である何が大切なのかという価値の問題であるかぎり、私たちに問題が投げ返されていることも示しているのである。

◆ 水俣病の寒気 / 目次へ

科学一般は事実を重んじ事実を追求する営みである。技術は何が大切かという価値を具体化する営みである。そして日本では、一九四〇年に「科学と技術」に代わって、有用な「科学技術」という用語が正式に採用された。猿人は人であるように「科学技術」は技術なのである。科学はその出自には含まれていた、そのこと自体という独立性を失った。そして技術は価値にしたがって変動し、価値は支配的な力によって規定される。水俣病事件の犯人たちは技術者なのである。事実は重んじるのだが、価値に従って、猫実験一例では事実と言えず、病状はすべて既知の病気によって説明され、あるいは症状は横並びでなくてはならず、中毒である限り体内毒物最多量がピーク症状となるはずなどという事実に対する態度を決める。そのためにする事実の重んじ方が科学的だと思いこんで疑わない、そのことが寒気を覚えさせるのである。

◆ 責任をとるということ / 目次へ

伊藤蓮雄医師は熊本県の保健所長から衛生部長になっていく、当然「こちら」意識の持主である。彼が責任をとらなければいけない対象はぼやーっとした「天皇的なるもの」である。ところが「天皇的なるもの」に絶対的な怖さはなく、実情はむしろ責任を押しつける存在として設定されている。それで、いくら嘘をついても「嘘は方便」だし、忠誠(彼にはチッソヘの忠誠もある)の証しだし、つまり本丸防衛の努力だし、ということになって、倫理的には自分はよく頑張っているという自己評価はあるにしても、心が痛むなどということはさらさらないのだ。
自分のところで守備線が突破されるとどうなるか、それは終生畏怖を伴う落ち度であるよりも、仕方がない、援軍が来なかった、その責任は自分になく「天皇的なるもの」にあるにきまっているということに落着くだろう。かくして倫理的に苦しむという人格はついに形成されないのだ。彼が水俣病に苦しむ人々に心を動かされないということはないだろう。同情や憐憫の情は人一倍もっているかもしれない。しかし、そのことと倫理はつながっていないのである。

◆ 私たちの病い、水俣病 / 目次へ

水俣病とは何だろう。どうして病いなのだろうか。あらためてそう尋ねてみると、病いにかかったのは、有機水銀中毒の被害にあった人々ではないのではないかという気持ちになる。有機水銀を海に無処理で排出していることを知りながら隠し続けた人たち、行政的対策は該当する法律がないから何もできないと頬かむりし続けた人たち、人類がはじめて出会った類例のない人体被害であるのに早々とその定義を下した人たち、被害者は金目当てのニセ患者が多いとキャンペーンをはった雑誌編集者たち、なかんずく原因は有機水銀であることが判明したとたんその出所を軽々に口にしてはならないと恫喝した通産大臣、みんな精神的に病んでいるとしか言えない。そしてそのような、経営者や官僚や医学者や言論者や政治家を生み出した日本が病んでいるのではないだろうか。
病いは精神と身体の両方ともが関係するけれども、大きく分ければ身体の病いか心の病いかに分けることができる。そのような目で水俣病を見ると、有機水銀の影響を受けた人たちは受有機水銀水俣病を病んだのであり、その他の人々は与有機水銀水俣病にかかったと言えるのである。

◆ 共生の海 / 目次へ

親和的関係という聞き慣れない言い方をしましたが、それは、共同体の中の成員にふりかかってきた災厄がその人の罪の証しとしてではなくて、共同体の罪の証しとして受け止められ、そのために共同体の成員みんなが怖れおののくという関係を意味します。
私は、不知火海で二人の網元のところへずいぶん通いました。いちばん感銘を受けたのは、網元というのは無数の錯綜した貸し借りの一切を頭に入れておかねばならない、ということでした。貸し借りは、一カ月くらいの短期のものから代替りで伝わっていく長期のものまで重層していて、しかも過不足なく決済されねばなりません。共同体を背負って行く網元というのは大変な仕事です。しかし、それは網元にかぎらず、人間は皆、貸したり借りたりして共同体をつくっているのです。
そして貸し借りは人間をこえて山川草本、生きとし生けるものすべてに広がってゆきます。それこそ無数の絆が、日に見えないクモの糸のように張りめぐらされていて、どれ一つとして断ち切っていいものはありません。
そのような縁のもとでは、人の煩悩が呼び寄せる罪は、けっしてその人一人のものではなく、共同体の成員みんなが怖れ慎み、生活をふりかえる契機として立ち現れてくるのでありましょう。苦しむ人と共同体の関係のそのようなあり方を「親和的」と言いたいわけです。
[中略]
また、そうして共同体の親和性が回復されないかぎり、水俣病の苦しみは癒されることはないのです。

◆ 報い / 目次へ

水俣や天草に通っているうちに、そういう思いがやわらかく解きほぐされてきたように思う。みんな煩悩の人でありますからに、という濃密な雰囲気にしだいに気付き、そのなかに浸りはじめたと言えばよいのであろうか。均しなみに生きとし生ける者は煩悩をもつのであり、「報い」もまた均しなみに全ての人に及んでいるのである。煩悩だけは山とありますもんなあ、と水俣病という苦しみの中にある人にいわれると、なんだか素直に、お互い不完全な人間であることの原初的な絆を感じることができるように思う。
水俣病患者は、主に漁家だったこともあって、殺生もからめ、さんざんに因果の「報い」が言い立てられた。そして金に汚いニセ患者という噂は今にまことに根強い。そこには自分は「報い」など受けるいわれはないとする、奢りと想像力の貧しさが渦巻いている。その重包囲をかいくぐって、患者の懐に飛び込むと、なんというやさしさと懐かしさがあるだろう。私は徐々にそういう体験を重ねている。

◆ ことばが無在のとき / 目次へ

自然は、海は、人間がまだいないとき、どんな様子だったのだろう。人間がいないのだから、自然や海は存在しないのだというものの見方がある。たとえそうであっても、自然や海にあたる、その名付けられていないものの様子はどうだろう。
やっぱり荒々しかったり、浮き浮きしたり、のんびりしていたのだろうか。そういう様子もみんな名付けられていないので、無数の名付けられないもののざわめきは、ただただ、しんと静まり返っていたというのだろうか。
宮本成美さんの「不知火海」の写真は、わたしたち人間の存在や、その営みや、その愛情をスッとワイプアウトしたという、ありえない仮定の想像を実行してしまったときの、名付けられないものの、言いようのない何かを写し出している。
すぐに人間にもどってくるのだ。だが、その一瞬のはざまに、人間と名付けられるような、しかし私たちではない、原型のごとき存在が立ち現れる、その大きく開いた口のようなものの、その暗闇は何なのだろうか。

◆ 不可視の水俣病 / 目次へ

私たちは政治社会に生き、政治の担い手である。だからといって政治が生活に直接登場してくることはまれで、しかも国会とか永田町周辺でやられていることが政治ではない。政治は私たちの生活と深く関わっている何かである。水俣病もまた同じで、それは水俣病にかかっているかどうかに関係しないのである。
『阿賀に生きる』は、そのような広義の不可視の水俣病に挑戦し、なかばその目的を達した。そのことが観る者に深い新しい感動を与える。阿賀野川の舟を二百隻もつくった老舟大工が、水俣病で手が効かなくなり、その技術の伝承を図るでもなく欝屈しているように見える。その老大工が映画の中で、舟造り志願の大工に技術を伝えはじめる。舟は進水し、祝の席で舟大工はやはりほとんど口をきかない。しかしその老人の心のリズムが直接私たちの心を震わせ、共振させるのである。なぜ老舟大工は舟造りを始めたかは、ほとんど言語表現を越える。映画のジャンルが、だからあるのだと言いたいくらいに、老人と水俣病と映画そのもの(その映画を撮りにやってきた若者たち)がからまり合つている。

◆ 「水俣病歴史考証館」に寄せて / 目次へ

水俣の地に、民間の手による小さな水俣病歴史考証館が開かれて一年半になる。私も言うに恥ずかしい少しの手助けをしている。民衆の受けた被害を民衆の手で明らかにし、後世に伝えようとするこのような試みは類がない。
しかし、不知火海沿岸二〇万の人々がまったく無被害ということはないという水俣病にあっては、このようなかたちの資料館が一番ふさわしいのだと思う。将来、政府や自治体が水俣病資料館をつくったとしても、民間資料館の意義は消えることはない。いな、むしろこの小さな水俣病歴史考証館が存続することが、どこにも出口がないような地球汚染に歯止めをかけるシンボルになるだろう。
国家の失政や巨大システムの暴走は、根本的には私たち一人一人が是正するほかないのである。しかも、私たち自身が、煩悩深き身である。無辜なる者とはとうてい言えない。それゆえにこそ、因果応報の戒めが根付くのであるが、それはまた、濃やかな人情や一蓮托生の思いや相互扶助の心があってはじめて再生への共同心情になるのだと思う。水俣病歴史考証館がそのような証であり続けることを、そしてそれは不知火海の風土において可能であることを期待し、信じてゆきたいと思うのである。

◆ 表現されることのない苦しみ / 目次へ

水俣湾には、水銀四五〇トン(有機水銀は二七トン、これだけで一億三五〇〇万人を殺せる量である)をはじめとして、タリウム、セレン、マンガン、カドミウム、クロム、鉛、亜鉛、銅、鉄など数十種類の重金属が排出・堆積していた。タリウム、セレンなどは、当初、奇病の原因物質と目された毒性物質である。
これらの重金属が単独、あるいは複合して引き起こす人体への影響は無視できるようなものでなく、とりわけ有機水銀との相乗作用は複雑かつ重篤な症状を招く可能性が大である。しかも、実験的にこの相乗作用を調べるのは、研究費と人事を要する時間を考えると不可能と言って過言ではない。
本来、水俣病とは、有機水銀を抜きん出た主要原因物質としながらも、このような多種の重金属の複合中毒をふくむものとして定義されなければならなかったのである。

◆ 尋ね続けること / 目次へ

おそらく文明の転換なしには、人類は存続できないだろう。大災厄に対する現在までの人類の智恵のあり方は、臨界点まで現象は進行し続け、臨界点でガス抜きが行なわれ、崩壊ののち、ふたたび事態は進行し始める、というものだったろう。人口問題などについて、ストレートに戦争の効用を説く者もいたのだ。現在、そのような形での人類の存続のシナリオはもはやあり得ない。理性、あえて理性と言おう、を駆使した局部的に精緻な解決策が、そのそれぞれが思いもかけない結果を招き、あるいは相乗し合って全体として巨大なマイナスになる可能性の下では、行くところまで行くしかないという選択は有り得ないのである。
ではどうすればよいのか。文明の転換の必要性を絶望的困難さと引き換えであれ、認めたとしよう。しかしその転換先の文明とはどんなものなのか、どんな見取図をもって転換するのか、第一そのような発想で文明転換が行なわれるものなのかどうか。考えても仕方がないとすれば、成り行き主義にはまる。
水俣病・MINAMATAの意味を尋ねよう。尋ね続けよう。全感官を動員しよう。すくなくともこれだけは、成り行きからも理知的技術主義からも免れてあるだろう。二〇世紀末、私たちは一つの文明に見切りをつけられるだろうか。

◆ 共同性へのシンボル / 目次へ

水俣病が文明病として、共同性の危機として出現したことの意義は大きい。
水俣病患者運動は、共同性への回復の模索であるといえる。あるいはその模索を秘めている。「患者と地獄までつきあう」という熊本告発のスローガンは、まさにその端的な表現であった。
水俣病患者運動支援とは、関わるものが、共同性に向って石を一つ一つ積んで行くことである。カンパも集会も坐り込みも作品群も、それぞれの石であった。今私たちそれぞれは、どのような石を積んでいるのか、積もうとするのか。私は比楡でなく、水俣の地に一つ石を置いてみようかと思う。そんな石やたらに置いてはだめと現地から断られても。

◆ 「水俣・東京展」開催に向けて / 目次へ

水俣の現在は、「『公』との和解」と「埋め立て地に数千の地蔵・野仏を」の動きに集約されるかもしれない。そして二つともが「公」探しの旅立ちの表現とみなすことができ、水俣を現代の文明の混迷を切り裂く刃(やいば)とさせるのである。
私たちもまた旅立たなくてはならない。その一つのあかしとして、私たちは来年夏、東京で水俣展を数週間にわたって大規模に開催する準備を進めている。水俣の過去現在を開示し、新たな「公」に向かっての私たち自身の旅立ちでありたいと願っている。

◆ 水俣四〇年のメッセージ / 目次へ

打瀬船は何ものであり、何を積んで、何を伴ってきたのか。
「水俣・東京展」の会場には、土本典昭さんの労作「記憶と祈り」の一室があり、水俣病死者の遺影で埋め尽くされていた。不知火海の漁具や小舟も持ち込まれていた。しかしそれでは「水俣四〇年目のメッセージ」は十分でなかったのだ。では何が足りないのか。なぜ打瀬船はやってくる必要があったのか。
この問いに非「水俣」が応えるのは容易なことではない。私は私の限界をつきつめて、「この問いに応えようとする態度をもつこと、その要請がすなわち『水俣四〇年目のメッセージ』そのものなのだ」と応えようと思う。それははぐらかしであり、迂遠すぎる応えではないのか。いやそうではないのだ。直截に応えるということは、「水俣」と接点があるという前提に立つことである。そして接点があるとしても、そこで行き交う言葉の意味がちがっていたら、その応えは誤解か自己満足にすぎず、応答の拒否の一種でしかなくなるのである。

◆ 「帰ってこい」というメッセージ / 目次へ

水俣病は究極の「不治の病」のはじまりだった。水俣病自体、不治の病である。しかし、水俣病は、もっと広義には、あるシステムが必然的に生み出す、そのシステム自体の不可逆的な死に至る病いを意味している。そのシステムとは、端的に言って、科学技術文明社会である。科学技術文明は二〇世紀半ばを過ぎて、プラスティックと電子情報という二大技術を実現させて、しかもその到達段階が自らの文明の終焉を刻々と明らかにしていくという特性を帯びた。
そんなことはあるはずがない。それに今さら電気なしで暮らせるか。人間の賢さを信じよう。きっと維持可能な科学技術文明があるはずだ。というそばから「こんなはずではなかった」という自失と不安の念がちらつく。そしてとにかく明日が今日になる。
そのような毎日を暮らせない人たちがいる。その第一に他ならぬ水俣病を病んだ人たちがいると言っていいのだと思う。しかしそのような人たちの思いは容易には形にはならない。切れ切れの絶叫は、時に私たちを打ちのめすが、ではどうしたらいいかというメッセージになる前に消えてしまう。もちろん、そうするのは私たちの気ぜわしい日々なのであるが。
『常世の舟を漕ぎて』の語り手は、そのような私たちの言い訳をもはや許さない。ここにははっきりとしたメッセージが記されている。それはおそろしく単純で、「帰ってこい」というのである。

◆ 〈いのち〉のひびき / 目次へ

人は人と直接触れ合うことができない。人は社会をつくってくらす。社会そのものが媒介であり、社会は制度という媒介を無数に作り出して行く。その究極の抽象表現が貨幣である。一切の媒介の否定は社会そのものの否定であるだろう。媒介(制度)の必要を認めながら、媒介が自己増殖することを防ぎ、媒介に絡め取られて、人間が透けてしまうことをどう阻止するのか。緒方正人はその稀有な体験を通して、この大問題を解く道を切り開いたといえる。その切り開き方は古くて新しく、そして何度も何度も個人によって切り開かれねばならない。
その切り開き方とは、〈いのち〉を普遍とすることである。「語らず言わず/その声きこえざるに/そのひびきは全地にあまねく」(旧約詩編一九)。創造主も神も仏も、そのひびきにおいて〈いのち〉と密接不可分であり、いな、むしろ、〈いのち〉のひびきにおいて創造主も神も仏もひそむとすべきであり、〈いのち〉のひびきに共鳴する時、わたしはわたしの内奥に大いなる道義と、それに伴う義務をはらむと。
緒方正人は、教団も教義もいらないという。しかし洗礼を受けなかったシモーヌ・ヴェイユがそうであったように、じゅうぶんに信心している。その本願は、人と共に「生まれて、生かされて、生きて、生きぬいて、見事に死に切りたい」ということである。すなわち〈いのち〉が響き合うことだ。この私が、そのように、自分を突き詰めることなのである。

◆ 日月丸のこと / 目次へ

前に、水俣の人たちの「判ってもらいたい気持ちと触れられたくない気持」が両方とも本当であることについて触れた(「意図して忘れようとする動きに抗して」『明日もまた今日のごとく』一九八八年)。沈黙について、上っ面のわかり方だったと思う。水俣の調査についても、調査という言葉自体がだんだんいけなくなった。

なにゆえに 家を出でしと 折ふしは こころに愧(は)じよ 墨ぞめの袖

良寛のこの歌の「愧」という字を見ていると、すごいと思う。悽愴という感じである。そしてしだいに別の感じに変わってゆく。ゆっくりとその変化が起こったように思う。その感じは、悲しみと言えばいいのだろうか。ただ「悲」の中身が、これまた問題で、結論的に言うと、今は「まるい」ことを含んでいるように思っている。沈黙を前にして愧じて、沈黙や愧から悲しみがにじみ出てきて、ひろがってまるくなる。沈黙は「まるい」。
日月丸は帰らない旅に出て沈黙を乗せてきた。

◆ すべてが病む中で / 目次へ

はるかにつらなる時空すべてが病んでしまったのではないか。その中にあって、正義のために人を殺すことから始まり、国のために水俣病の定義を狭めることから、自分を健常と見なすことまで、人々はみな病んでいるのではないだろうか。

祈るべき天と思えど天の病む

救いはないと石牟礼道子は言っているかのようである。その血の吐くような思いにどこまで近づけるのか。その惑いの中で、ふと凝りが解けそうになる。すべてが、天まで病む中で、どうして病んでいるという意識がやってくるのだろうか。それは病む私が意識しそうにないことである。では誰の意識なのだろうか。わからない。わからないのに、ぼーっと明かりがさしこむかのようである。
ひょっとすると、すべては病むという意識は本来の、本源の区切りから発せられているのかもしれない。それは光りであり、いのちなのかもしれない。たぶん、能「不知火」はこのようにして生み出され、このようにして奉納されるのだと思う。

◆ 語り部に想う / 目次へ

水俣や、その周辺地域の人々が味わった苦しみについて、実際に水俣病に襲われた人々の苦しみだけでなく、その人々を、迫害した人々の苦しみも含めて、どのような人であっても語り尽くすことはできないように思われます。
この「語り尽くすことはできない」という思いが広く共有されている時、「語り部」が背中を押されるようにして、登場してくると言えます。「語り部」は、好き好んでしゃべる目立ちたがり屋ではないのです。
「古事記」は「語り部」の伝承だということを、私たちは知っています。しかし太平洋戦争という侵略戦争を起こした、明治以来の日本国家の成り立ちを述べたものだというので、「古事記」に親しむ、あるいは子どもに「古事記」に親しんでもらおうとするには、どうしても心理的なバイアスがかかってしまいます。わたしもその一員ですので、あまりくわしくはないのですが、やはり「古事記」も語り尽くせないことを、人々の中からしぼり出されてきたような「語り部」が語ってきたものではないかと想像します。

◆ 今、水俣について思うとき / 目次へ

水俣に横からぶつかり横から入り込むことはむずかしい。縦方向への移動を心象風景としてもつことが、水俣への入り口かもしれず、そしてそのようにして、やっと、天まで病んでいる中で、どうして病んでいるという意識がやってくるのか、ということに希望の徴をみることになるのだろうと思う。

◆ 相思社に想う / 目次へ

小さな血縁共同体が強大な企業・行政(おかみ)にバラバラにされ、踏みにじられる時、端的に、そこに割って入り両方に関係をもつ非血縁的共同体ともいうべき、集団と機構が必要になってくる。そして実は個人を基礎とする近代契約社会にもそのような集団と機構が必要であることが一九七〇年代からの公害・住民運動の中で次第に意識されてきた。ローカルに生きるには、地域を守り抜く情理が必要なのだ。地域社会あるいは地元の暮らしには、矜持と気概と展望と紐帯が欠かせず、それは血縁だけでは、そして個人集団、あるいはNPOだけでは築けないのだ。

◆ 全共闘から始まった旅 / 目次へ

一九六〇年代末、大学にいるものは程度の差はあっても、何のための学問かという疑いにとらわれた。それは高校生にも波及したが、もっとも深刻だったのは、位置の不安定な大学院生と助手だった。その原因は、急速に巨大化する科学技術の制度化や考え方から、誰も免れられないことにあった。そして事態は気がついてみたら、環境破壊のただ中だった。

◆ インタビュー_水俣を抱き旅立つ / 目次へ

『水俣巡礼』に書かれていますが、当時大学は授業が全然なくなってしまっていて、岩瀬さんが英文科の大学院に進んで一年目を過ぎ、二年目の一月に初めての講義をする。その間は講義が全然ないんですよ。そういう状態の中で、岩瀬さんのような学生は、闘いの場を大学の外へ求めていくんです。
私の場合には、「出ていったらおしまいだ、それだと戦後文化人と同じになってしまう。大学に籍を置きながら、大学を批判し自分を否定するんだ」と考えていました。半分は「俺は怠惰だから」と思いながら、それでも大学から出ていかない。三里塚へも水俣へも行かない。行ってはいけないんだ。そう決めていました。
岩瀬さんの場合は、身軽と言えば身軽、ナイーブに、水俣の映画を見て、どうしようもない怒りを感じるわけです。そしてすすり泣く。許せないと思う。これで振り子が振れてしまうわけなんです。居場所がない、という背景は変わらないんですが、そこから、彼は自分をオリエンテートできた。そうして、新しい世界が開けていくんです。

◆ 水俣学 / 目次へ

水俣病は終わらない。それは近代科学技術文明国の病であり、日本列島の社会風土の病であり、人間そのものにひそむ闇にかかわる病でもあるからだ。その病因の徹底的追究は、現代における人間と社会のあり方を問うことにつながる。
そのような課題に取り組むのが「水俣学」だと、医師として水俣病に四〇年以上かかわってきた原田正純は提唱し、具体化の一歩が本書になった。水俣学は素人が参加してこそ成り立つ学問だと原田は言う。どうしてか。水俣病は医学者をはじめ専門家が故意に、あるいはやむなく、あるいは無自覚にあいまいにし、隠ぺいした病だからだ。

◆ 市民とみなまた / 目次へ

近代市民社会で出発する「公-共―私」に対して、「みなまた」は、私が定かでない「公―共私」から出発するほかない。
「公」は疎遠な「お上」であって、「共私」は溶けた私どうしの関係である。そして「Mたち」はその「共私」という関係を断ち切られて、死民化し、漂私にならざるを得なかったのだ。関係の切れ端化した漂私は、「共私」という関係を復活させたいのか、それとも「共-私」をつくりだしながら、「公-共-私」を目指すのであるか。少なくとも「公-共―私」という近代市民社会の回路を経由しない、あるいはできるはずがない、ということだけははっきりしている。
「みなまた」はドブロク的である。酒化し、さらに蒸留を図れば、「みなまた」は消えてしまう。批判的知性を持とうとする市民がいかに土俗「みなまた」とクロスするか、問題はいまだ巨大である。

◆ 一九六八、問われた個人の倫理 / 目次へ

七二年、マルクスの次女と夫婦のラファルグのアンダーグラウンド的著作が訳された。一八八〇年作という古い本である。衝撃的な本で、労働者は大量消費者として位置づけられ強制されるというのである。窮乏の意味がまったくちがって、マルクスに疎まれたという噂がまことに腑に落ちた。現代的につけ加えるなら、大量消費をするためには大量流通手段がなければならず、また大量廃棄を前提にしなければならない。労働者はそのような生活を強いられる。強いられると言っても欲望を刺激させられ自発的に買い続け、捨て続けるのである。公害はまさにそのような資本主義段階の現象なのだ。
わたしはそれまで生産の倫理を問うていた。そして理系研究は結局は死の生産をしているという自縄自縛に陥った。ところが今度は生活を考えると環境・生物・人体破壊の自業自得ぶりを突きつけられたのだ。ここまで来ると否応なく問題設定を大きく変えざるを得なくなった。それは言ってみれば、自然的環境に対する人間の力の必然的限界をわきまえた倫理とは何か、であった。

◆ 有用へのゆるぎない自負 / 目次へ

宇井さんは苦悩しながらも、一人留学を止めて東大に残ったところで大勢に変わりない、それより力をつけるべく出掛けた方がいいという意見に従った。そして七〇年帰国して東大工学部で敢然と自主講座「公害原論」を開いた。宇井さんの選択とその後のたゆみない活動は巨人というほかないものである。それにくらべ、私は宇井さんの自主講座での、マグロの水銀について調査しませんかという誘いを断った。神経症的に己れが有用の存在であることのよすがを切り続けようとしたのである。宇井さんに無用者の存在価値、あるいは無用の用の価値について、何か言おうとしたことはなく、宇井さんを私は文句なく尊敬し続けた。しかし近づくことはできなかった。
イヴァン・イリッチは水俣に来訪した際、「水俣病患者が何千人かつくりだされた、運動のおかげだとしたら、それはいいことなのか」という趣旨の、有用に触れる毒を吐いた。宇井さんとこのことについて話したいと心の底で思いながら、ついに果たせず、宇井さんは逝ってしまわれた。

◆ 宇井純のテーゼの現在 / 目次へ

宇井さんの一番の厳しさは、「公害に第三者はいない」というテーゼとも言える直言である。この意味は直截には、公害には企業という加害者と地域住民という被害者がいる、そこに解決や仲裁の役割で第三者として登場する専門学者は実は加害者なのだという糾弾である。公害は企業のなりふり構わぬ利潤追求と急速な科学技術の展開とが相乗して、学問的に原因が解明できないことが多い。専門家は、客観的な事実の裏付けがないとして、企業を免罪する役を演じるのである。
宇井さんのテーゼは、それだけでは終わらない厳しさを含んでいた。時代としてレイチェル・カーソンのDDT(『沈黙の春』一九六二年)からシーア・コルボーンの胎児を襲う環境ホルモン(『奪われし未来』一九九六年)をつらぬく水俣病は、有機水銀を原因とする中枢疾患を根底に置きながら、生きものに対する無数の微量化学物質汚染相乗効果作用のシンボル的意味をもつに至っている。この地球規模の化学物質汚染については、誰もが被害者であり、しかも加害者である可能性をもっているのだ。宇井さんは第三者はいない、それであなたはどうするのだと迫っているのである。

◆ 水俣の底知れぬ井戸 / 目次へ

一九六八年、宇井純は衆目を浴びる存在になった。ルーサー・キングの暗殺からプラハの春を経て三億円事件まで世界も日本もゆれ動いた。この年に刻まれる世界を網羅する人名に宇井純は入る。宇井純は三八歳、東大工学部都市工学科の助手になって三年目だった。この年、宇井純の果たした大きな役割は五つある。
^貽鷏遏◆惴害の政治学』を出版した。⊆祁遏▲茵璽蹈奪僂暴亳いて世界に日本の公害、特に水俣病を知らせた。七月、東大本郷構内の山上会議所で、助手よ奮起せよという激越なアジ演説を行なった。ぅランダのデルフトで、簡易汚水処理法を学んだ。ヅ貘臚争で疲弊しなかった。
イ魏未燭靴震魍笋箸垢襪里鰐麺鼎世、「宇井さんが力を消耗しなかった事が、日本の公害問題の解決のためには良かった」(中西準子)という意味では、たいへん大きなことだったのである。WHO上級研究員としてヨーロッパに出かけるということを知らない者にとっては、東大助手共闘結成のきっかけになる助手集会でのアジ演説は何だったのかと唖然とし、あるいは海外へ出掛けるからこそ、あれだけの演説ができたのだと穿った見方が出るのも当然だったが、あれこれ差し引いても東大闘争に与えた宇井演説の影響は大きかった。それが帰国して工学部八号館で自主講座「公害原論」を開き、東大の「夜の総長」と言われることにつながるのである。六八年、ヨーロッパに居て、そのあと大きな役割を果たした日本人として加藤周一と共に宇井純の名は記憶されるべきである。

◆ 公害に第三者はいない / 目次へ

宇井純の言う第三者はいないという意識がほとんど罪意識のようにすべての人にいきわたる。それはいつだろうか。普通に暮らしていて、しかもあっちこっち色々と体の不調、心の不調を感じる。そこに罪意識がダブるだろうか。アダムとイブが知恵の実を食べて以来の罪意識の変容がここにある。そして私たちはすべて、そこから脱却しなければ未来はないだろうという時代に生きています。
しかし、そんなに簡単にものは言えない。最終的なメッセージは石牟礼道子からすでに発せられています。「祈るべき天と思えど、天の病む」。
四大宗教を超えた普遍的な宗教を一方で目指しながらも、この言葉の前に私たちはどうしたらよいのだろうか。やはり人を、そして生き物を日々の暮らしの中でいつくしむ。そこからしか始まらないのではないか。
とは思うのですけれども、いつくしむとは何か、ということでまた堂々巡りがはじまる。そしてこの堂々巡りを避けてはならないというふうに思います。

◆ 自らを未党派と名付ける / 目次へ

五年の後の「水俣 患者さんとその世界」、それは一条の光となって画面から放たれた。その五年の間の土本さんの苦闘とその解き放ちを思う。映画は「生きものの記録」である。わたしは今、いささか「いのちはいのち」であるという言論をしようとしている。「いのち」は、ただを含む無量価値、人間の器量では計り知れないものであることに逢着しようとしている。「いのち」の言論、表現という作法で言えば、わたしは土本さんにその入り口に連れて行ってもらった。それはすなわち未党派と無党派の接点を土本さんが見て採ったことを意味する。その入り口からの回廊をわたしはもう少し歩む。

◆ 水俣病の現在 / 目次へ

残ったのはさまざまな症状に苦しむ膨大な中枢性有機水銀中毒の人々である。この人たちは、ではグレー水俣病とでも言うのかと私たちは批判してきたが、環境省や認定審査会はグレーを一切認めないということも加味して、そして病像の全貌は解明の彼方という意味を込めて、グレー水俣病を正式に使う必要があるだろう。それはさまざまな化学物質の相互作用や相乗作用に加え、放射能、電波、アスベストなどの傷害も加えた汎水俣病症候群というべき現代病の一つである。この対処は科学的医学的には果たされない。科学技術文明工業化社会のあり方、人の生き方を変えるしかないのである。

◆ 環境危機への対処 / 目次へ

四つの生活(態度)世界を概括してきましたが、人間はそれぞれの世界をめぐったり、押しやられたりするものの、やはり、気寮こΔ本質的と言えるでしょう。志向性は意志性を元にしており、意志性は〈いのち〉につながっているからです。どうして〈いのち〉に意志性があると思うのか、そうとう根源的な問いです。ただ、そのことを直観的に認めるか、論理的に否定しようとするか、そのどちらも生命系システムの探求の原動力になっているということは指摘できます。しかし志向性が〈いのち〉の意志性につながっているとしても、人間の志向性は〈いのち〉の意志性に反したり、それをねじまげようとしたりすることは十分考えられます。それゆえ気寮こΔ蓮⊃祐屬良然的なあり方であると同時に〈いのち〉にとって、すなわち〈いのち〉を他の生きものと共に体現している人間にとって、もっとも危険なあり方であるとも言えるのです。

◆ 言葉はほんの一部にしか過ぎない / 目次へ

世界をどのように探って、どのように結晶させるのかを探求する際に、「言葉はほんの一部にしか過ぎない」ということをこの場にいらっしゃる皆さんと共有すべき出発点にしたいと思います。そしてそれは水俣を考えていく時のひとつの合言葉になるだろうと思います。
先ほど霧が立ち込めていると言いました。ふつう「霧」というと暗中模索、不安といったイメージが喚起されるのでしょうが、私には自分を取り巻くこの霧そのものが光り輝く安心の印のように思えるのです。

◆ 水俣 新たな五〇年へ / 目次へ

私は「問われている」ということにかこつけているようなのですが、水俣病の患者さんは、そして娘もふくめて、「触れている」のかなあ、などという思いがしてきます。
何に、誰に、何を「問われている」のか、何に、誰に、「触れているのか」。口ごもりますが、あえて言えば、「いのち」というのかと思います。なにか根源的なことです。神や仏を超えること、というと語弊がありますが、神や仏がいちばんなおざりにできない何か、「いのち」はそのような何か、少なくとも人間にとってその価値などとうてい測れない無量価値であり、バリューフリーである何か、なのかと思います。

◆ 水俣問学 / 目次へ

「土にみられる」。みられるとは問われること。わたしは学問を目指して、問学に赴かざるを得なかった。学問とは問うことである。答えが得られるかどうかは二の次である。それが、答えが得られるように、問いを刈り込み整形することに変わってきた。これを業績主義といい、学問が堕落し、権力・金力と結託する元凶である。しかし、そもそもは「問う」ことが、野次馬的に、岡目八目的に、あるいは立身出世のために、発せられることが可能だ、というところに問題の根がある。学問批判は自分の身がもろに関わってくる「問うから問われるへ」を必然的に導き出すことになる。
水俣問学とは、水俣から問われる、その問いをなんとか受け止めようとする営みである。営みの幅は広い。日常の暮らしを通して、自分の職業を通して、水俣からの問いに応答しようとする。

◆ みられることをとおしてみるものへ / 目次へ

みられることをとおしてのみるものへ、みることをとおしてのみられるものへ、の相互逆転をわたしたちは、映画の進行とともに、意識せざるを得ない。そして、みる−みられるが相互に転化し、流動する時、はじめて、完全、不完全を放逐した、異質の存在として、彼らとわたしたちは向き合うのだという彼らの主張が鳴りひびいてくる。

◆ 水俣・和光大学展 / 目次へ

わたしは岩波の雑誌『科学』で筋金入りの反科学者と名指しされて、そんなハードではとてもじゃなくて、グズグズのソフトだとは思いながら、やはり反科学者といわれるとカチンと来るのですが、もうそれは返上しないことに決めた。反科学者でいい。そして、この今の文明社会の成り立ちの根本を問わざるを得ない。
研究と教育とを掲げる大学は、この現代的な水俣病という課題、拡大された水俣病の問題を抜きにして成り立つはずがないんです。教育となれば、無党派の党派、無思想の思想と同じで無教育の教育です。わたしは学生を教室に閉じ込めておくことに忍びないし、それだけの根拠を持たない。字義通りの野放ししかない。野放しにしておくと学生は育つ。今日のリレートークで、この会場に入れ替わり立ち替わり出てきた学生は、みんな育っている。ものは言えないけど。ものなんか言わなくていい。

◆ ひろがる「水俣」の思い / 目次へ

『水俣五〇年 ひろがる「水俣」の思い』(作品社、二〇〇七年)は、二〇〇六年九月に行なわれた「水俣・和光大学展」の記録を元にして、水俣展をきっかけとした、分野にしても書き手の年齢にしてもさまざまにひろがった文集です。シンポジウムの参加者をふくめ二七名の人たちが話したり書いたりしています。
題名の「ひろがる水俣の思い」は二つの意味を合わせています。一つは「『ひろがる水俣』の思い」です。もう一つは「ひろがる『水俣の思い』」です。はじめの「『ひろがる水俣』の思い」は、水俣病は終わらないのはもちろん、ひろがって来ているという思いです。

◆ 「いのち」という果てしない旅 / 目次へ

私は早晩死ぬのであるが、死によって形が変わることは確かなのであるけれど、形がなくなってしまうとはにわかに言えない。見えない形に変わるということはありえるからだ。見えない形は形で、例えば透明人間という形はあるわけである。死んで焼かれて見えない形になったとして、形ある者としてはやはり「いのち」の分有で、「自ら意志」はあるのだと思う。「自ら意志」をもった「見えない形」を石牟礼道子さんにならって「気配」と呼ぼう。「気配」たちはいたるところにいる。石だって寿命が尽きれば「気配」になる。ホトケも気配、モノノケも気配、気色は気配を察するというより、もうすこしはっきりと形になる寸前のような気配である。色即是空は難しいけれど、空に対する色は現象から形まで具象の度を深めてゆく。その深まりの鳥羽口あたりはたいへん淡い。気色はそういう感じの表現で、気配は気色を経て形あるものになって行く。

◆ 「つづく」という意志 / 目次へ

現実に戻ると、自然を対象化し、自然を管理保護する使命観と自然を収奪して絶えざる経済成長をはかることこそが人間の本質とする人間観があいまって、科学技術力を押し上げようとする不断の努力になる。当事者たちは寝る間もないほど仕事に追いまくられている。それに国家間競争と宗教戦争がからみ、人間の手による地球上の生物・人間の絶滅は杞憂ではなくなっている。直截に言えば、私たちは「いやいやながらの参加」(モラヴィア)から「参加せず」に態度変更が求められている。誰から求められているのか。「続く」という意志からである。なぜ続かねばならないか。この問いは問いにはならないとも、究極の問いとも言える。生物は調べるほどに秩序の複雑高度性を増して、鶏か卵かの堂々めぐりを抜け出ようとすれば、あるいはひとりでに秩序が生まれてくるということに納得しなければ、「続く」という意志を設定しなければならないからだ。問題は「参加せず」という生き方はどんな生き方か、である。それは「私は自然環境そのものである」という見方を実生活に持ち込む努力だと、とりあえず言うことができるだろう。

◆ 「つづく」は「いのち」 / 目次へ

しかし窓枠の中こそ生身の世界であって、私たちのすべてである。そこで耐え難い痛みや痙攣や吐き気やこむら返りが日常的に起こってきたらどうするか。当事者は耐え難く、傍に付き添う者にとっても耐え難い。そして傍にいる者にとって耐え難いことはもう一つある。自分で排泄の始末もせず、言葉を発せず、およそ物を掴まず、したがって、ご飯を自分では食べず、痛みを表現できない人を傍にして、どうしたらいいというのだ。その人が微笑んだりしたらどうしたらいいというのだ。どうしたって窓枠の外へ想像を馳せる。そして窓枠の外が甘く幸せな世界で窓枠の中が不幸、不運とイメージして、この日々を耐えられるか。そうはゆかない。

◆ あねさん、あねさん / 目次へ

石牟礼道子はただならぬ作家であって、人間の素朴なお人好し性のその先に人を誘って行く手練、すなわち毛頭誘っている気配なしに誘って行く、あるいは首根っこを掴まえて強引に連れて行く技に長けている。「あねさん、あねさん」の主婦は、石牟礼道子の本を読まない。読む必要はないともいえる。石牟礼道子が読者を連れて行こうとする場にこの主婦はそもそも居るかもしれないからだ。しかしこの主婦は砂田さんの芝居を観に行った。「あねさん、あねさんしかわからなかった」。あねさんとは石牟礼道子のことである。ひょっとして「石牟礼さんしかわからなかった」と言っているのだろうか。

◆ 天の病む / 目次へ

ずっとずっと病み続ける。その中で、そうであるならそのようにと、「さようなら」と、別れることも、微笑みあうことも、慈しみあうこともできる。そしてきっと治る、きっと脱出できると思って、それゆえに喜怒哀楽に振り回される人たちを、もっと泣いたらいい、もっと怒ったらいい、もっと愚痴をこぼしたらいいと、幼子に対するように、あやすのである。
ひょっとすると石牟礼道子も杢太郎少年にあやされているのかも知れない。「天の病む」って、ことさら言うこともないのに、言わなければ済まないあなたも、やはりかわいげのある人だ、と杢太郎少年の黒いぽっちりした目は語っているのかも知れない。仏さんの微笑む目、慈しむ目も、ずっとずっと病む世界に居たために、そういう目になったのかも知れず、もはや杢太郎少年の目と区別が付かない。
それにしても、杢太郎少年と石牟礼道子が微笑みあって江津野老人を語らせている、その江津野老人に挑戦する役者が出てくることはすごいことだ。立ちこめた霧が晴れることなく、そのまま発光してゆくことを望む。

◆ 「いのち」に問われる一般教育 / 目次へ

そのような「天の魚」が駒場寮の跡地で演じられる。となれば思い起こすのは「一般教育」である。新制(新生)大学の「一般教育」の場として注目されたのが東大教養学部である。矢内原忠雄ぬきにそのことは語れないが、「一般教育」の理念に〈いのち〉を盛り込んだのは上原専禄(一橋大学長)だった。上原専禄は「歴史的省察の新対象」(一九四七年)で、新しい時代に面して、私たちは個体生命の価値を問う思考と行為にわたる限りなき自己試練に一身を投ぜざるを得なく、それは価値の存廃を中心問題とするところの生命感覚の苦悶だとした。そして「大学教育の人文化」(一九四八年)で、「一般教育」のカリキュラムに、アメリカ教育使節団が提示した自然・人文・社会の三系列に生物を加えた。アメリカでも希少なシカゴ大のカリキュラムを参考にしたのだが、これは特筆すべきことで、自然科学の生物学というよりは、生きもの学にふさわしく、「飲・食・住といった生活活動の具体的な在り方が特種ヒト的な有様になっている」(廣松渉の言い方)ことの考究から広がり絞られてくる、おそらくヒトには測りがたい〈いのち〉の価値についての総合学の芽をはらんでいたのである

◆ いのち噴き出す仮面 / 目次へ

今回の、「天の魚」駒場公演の企画運営の代表を務めるにあたって、もろもろの思いや歴史が渦巻くのだが、その最奥には〈いのち〉がすべて、すべてが〈いのち〉がほのかに灯っているような気がしている。一九五九年暮れ、私は駒場寮に入った。それは水俣病の第一の幕引きが行われる時と重なっていたが、私にはついぞ水俣病は頭になかった。一九六八年巨大墳墓の石蓋がついに開いて、埋め込まれていた水俣病罹災者が行動し始めた。その時、私は助手という身分で、駒場構内の第八本館に学生七五名と閉じこもっていた。東大教養学部は「一般教育」を掲げる新制大学のシンボルであり、専門学部と一線を画し対抗する存在であった。旧制一高から、その鼻もちならない気風も受け継いだ駒場寮は、鼻つまみ的匂いをまき散らしながらも、「一般教育」の内実を支えたといってもよい。「一般教育」はその推進者であった上原専禄の言に見られるごとく、その中心において、侵略戦争の反省を込めて、〈いのち〉観と〈いのち〉感覚を養おうとした。「マッチ擦る つかのまの海に 霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや」。一九九一年「一般教育」は廃止され、二〇〇一年駒場寮は、五七〇名の警備員と教職員が学生を追い出し、打ち壊された。

◆ 江津野老、人間なるものの凝縮 / 目次へ

そして水俣である。侵略の一半を担った野口コンツェルンすなわち朝鮮チッソは、戦後水俣に引き上げて植民地支配のやり方をそのまま続けた。そして日本の復興に大きく寄与したと自負している。水俣は広島・長崎と同じく、私たちの戦争責任の問題であるのだ。水俣には在日朝鮮人として迫害を受け、原爆症にかかり水俣病になった人がいる。そのような人たちの苦しみについて、ほんとうに少なくとも心を閉ざしてはならないのだ。戦争は終わっていない。広島・長崎は終わっていない。水俣は終わっていない。

◆ 私たちの自発する義務 / 目次へ

近代間接民主主義は、成人は社会をよりよくする義務を誓った、契約を結んだという前提に立っている。そして社会人は政府という機関を動かしているドライバー(主権者)なのだ。さらにその制度は、昨日よりは今日人間は心身ともに進歩するという成長達成をよしとする価値観に支えられている。ふりかえれば、日本の成人式を考えるまでもなく、私たちにはそういう義務の念がない。何かに向って行く成長達成の価値観もない。間接民主主義は根付かず、それゆえ、主権を持つ加害者だと言われても、身に沁みないのだ。
では私たちに義務の念はないのだろうか。社会性存在として、そんなことはありえない。私たちの自発する義務は、情に基づいて、弱い者をかばうということにある。さまざまな被覆を取り除いて、素直に自分の生きがいを取り出すなら、それはより大きくより強くより高くではなく、弱く生きがたい者を守って生きることではないだろうか。水俣の地にある福子思想はその光る表現である。弱い者をかばい養うという発露する義務に基づいて、社会制度を組み直す、今はその正念場だという気がする。

◆ おろおろ神(全文掲載!!) / 目次へ

石牟礼道子の世界には、さまざまな神が登場して、人間のかたちをしている。なかでも悶え神は身に染みる。何の解決もできないけれど身をよじって、切なさはどうしようもなくあふれ出す。その切なさは分かるような気がして身に染みてくるのだが、悶え神にはなれないと思う。

何の解決もできないという点では同じなのだが、身をもてあまして右往左往して、いい加減やめたらと言いたくなるのがおろおろ神である。悶え神はやっぱり世の苦しみを引き受けている。おろおろ神はそもそも苦しみを引き受けるどころか、苦しみの程度もわからなくてサレきまわっているのだ。サレくとは漂く、うろつくという意味である。オロオロとは心情的だけなく、心情が身の動きに出てきて、じっとしていることができない。事態をどうするのかと、事態はどうなっているのかが絡み合って、オロオロしてしまう。

階層的にも経済的にもほどほどで、心情の幅も狭く、「真の」がつくと到底わからぬとあきらめてしまう。「真の愛」など、どうしようもとっかかりがない。そういう階層を中間層と名づけるのであるが、中間層の住人が、何か大変なことだと思うことが生じると、もうおろおろ神になる気配が出てくる。何か大変と思ってもその大変さを突き止めてゆく、深めてゆくことができない、いや深めることなどできるはずがないと思って、それでも何か大変なことだと感じられて、おろおろし出すのである。

ただ、おろおろ神は、同類が増えるのだけは願っているのだ。増えて、そのあかつきには、共同行動するのか、連帯するのか、そんなことを思うだけでも、おろおろしてしまうから、いくら増えたって、しょうがないのだけれど、増えることだけは願っている。

おろおろ神がまわりを見回して、あいつもおろおろ神じゃねえか、しょうがねえなぁ、と思いながら、少なくとも何かの大変なことは無視されていない、忘れられていないと思えることが、おろおろのなかの多少の安らぎとなる。おろおろのままでいることにもエネルギーはいるのだから。

水俣のおろおろ神たちはきっとそう思っているよ。