
【歴史物語】 覚えるモノは全部で6つ

【1】
春は曙。やうやう白くなりゆく、山際すこし明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
最も早く成立したものは、清少納言による『枕草子』。
清少納言は、二代目の勅撰和歌集である『後撰集』の選者、梨壺の五人の一人である清原元輔の子としても有名です。
「元輔が後と言はるる君しもや 今宵の歌にはづれてはをる」(中宮)
「その人の後と言はれぬ身なりせば 今宵の歌をまづぞよままし」(清少納言)
清少納言が枕草子を記したのは、中関白藤原道隆の娘であり、一条天皇中宮から後に皇后となった定子のもとへの宮仕えの最中であることが、作品の中から読み取れます。
ゆえに、枕草子は、西暦1008年頃、女流文学が発達した平安時代中期に成立したと考えられ、同じく女手による作品、『蜻蛉日記』の直後、『源氏物語』の成立のほぼ同時期だったようです。
ちなみに、定子が出産の後に死去したのは西暦1000年です。
作品の内容としては、「虫は」「木の花は」「すさまじきもの」「うつくしきもの」に代表される「ものはづくし」の「類聚章段」、日常生活や四季の自然を観察した「随想章段」、清少納言が出仕した定子皇后周辺の宮廷社会を振り返った「回想章段」の三つに大別されます。
清少納言独特の感性により書かれており、『源氏物語』の心情的な「もののあはれ」に対し、知性的な「をかし」の美世界を著しているとされます。
基本的には、清少納言と中宮の機知、漢文や和歌を引いた会話や歌の遣り取りが中心の話で、「定子様ったら素敵!」が言いたい訳です。清少納言の傲りとも言われる「香炉峰の雪」の話も、結局は「その答えを求める問いかけの出来る定子様は素敵!」であって、「そんな定子様に褒められてしまった!」っていう作者の素直な喜びがある訳です。女性ながらに漢文のできる作者には、同じく漢文のできる定子の素晴らしさがよりよく分かったのではないでしょうか。
ちなみに漢文についてもうひとつ、百人一首にも選ばれた筆者の和歌。
「夜をこめて鳥の空音ははかるとも よに逢坂の関は許さじ」
は中国の『史記』に書かれている孟嘗君の有名な話、『鶏鳴狗盗』をふまえています。
最高敬語の動作主は、まず中宮定子とみて間違い有りません。他の登場人物としては、清少納言の先輩である宰相の君や、同僚の女房、中宮定子の親族などがあります。
巻末には、中宮定子の兄・内大臣藤原伊周が中宮と天皇に当時はまだ高価だった料紙を献上した時、「帝の方は『史記』を書写なさったが、こちらは如何に」という中宮の下問を受けた清少納言が、「枕にこそは侍らめ」と即答し、そのまま中宮から紙を下賜され、それが執筆の動機・作品名の由来となったというエピソードがあります。
しかし、作品名については「しきたへの枕」という詞を踏まえた洒落か、歌枕を羅列した章段が多いために付いた名か、など、様々な説があり、未だ定かではありません。
この作品は、鴨長明の『方丈記』、吉田兼好の『徒然草』と並んで日本三大随筆と称されます。また、『枕草子』と『徒然草』を古典随筆の双璧、『徒然草』と『方丈記』を隠者文学の代表(草庵文学)といったりします。
□■□無駄話□■□
―清少納言という人―
―清少納言と紫式部―

【2】
ゆく川の流れは絶ゑずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶ泡沫はかつ消ゑ、かつ結びて久しく留まりたるためし無し。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。
『枕草子』の次に現存する随筆が書かれたのは、約200年後の鎌倉時代初期、西暦1212年頃で、作品名は『方丈記』です。
筆者、鴨長明は随筆の他にも説話『発心集』や、歌論『無名抄』を記しています。
この作品では、平安時代の出来事にも触れ、実証的に無常を説きました。隠者文学の典型であり、比喩や対句が駆使され、漢文脈の勝った和文の名文とされています。
同時代の作品としては、直前に藤原定家による評論『近代秀歌』、直後には源実朝による私家集『金塊集』 (実朝は『近代秀歌を』歌の教科書としています)、『発心集』に続く説話『宇治拾遺物語』などがあります。
□■□無駄話□■□
―方丈記による福原遷都―

【3】
徒然なるままに、日暮らし、硯に向かひて、心にうつりゆく由無しごとをそこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
3つめの随筆は『徒然草』。作者は吉田兼好(卜部兼好・兼好法師)です。
彼は和歌にも秀でており、二条派の和歌四天王とも呼ばれました。
徒然草は、『方丈記』の約100年後、鎌倉時代末期、西暦1331年頃に成立。
(ちなみに、幕府滅亡が1333年です。)
約250段から成り、内容は、求道・処世・趣味を記した「人生論」や、「説話」、「故実考証」などで多彩であり、それを記す思想は「仏教的無常観」「儒教思想」「王朝懐古趣味」などで、こちらもまた多元的です。
内容により、硬い漢文脈の文体と、王朝的な文体とが使い分けられています。
また、『枕草子』の影響を受けたとみえる章段もあります。
□■□無駄話□■□
―吉田兼好の友人論―

【4】
むかし人は、言ふべき事あればうち言ひて、その余はみだりにもの言はず、言ふべきことをも、いかにも言葉多からで、その義を尽くしたりけり。わが父母にてありし人々もかくぞおはしける。
ここからの随筆は成立がかなり近い年になっています。すべて江戸時代の作。
そのなかでも、江戸時代中期の西暦1716年に成立した、上記の文で始まる『折りたく柴の記』は、家宣・家継将軍に侍講として仕えた新井白石の作です。
彼は他にも、『読史世論』や、シドッチに対する諮問をもとに記した『西洋紀聞』『采覧異言』なども記しています。
この作品は、筆者を寵遇した将軍徳川家宣の死後に起筆されました。平易な和漢混交文で書かれており、内容は父母や自身の生い立ちなどで、自伝的随筆です。
□■□無駄話□■□
―新井白石の生い立ち―

【5】
おのれ古典をとくに、師の説と違へること多く、師の説のわろき事あるをば、わきまへ言ふことも多かるを、いと有るまじきことと思ふ人多かめれど、これすなはちわが師の心にて、常に教へられしは、後に良き考への出で来たらむには、必ずしも師の説に違ふとて、な憚りそとなむ、教へられし。こはいと尊き教へにて、わが師の、よにすぐれ給へる一つなり。大かた古を考ふる事、さらに一人二人の力もて、悉く明らめ尽くすべくもあらず。[40段]
『折りたく柴の記』のおよそ100年後、江戸時代後期の西暦1800年前後に書かれたのは『玉勝間』。本居宣長によって書かれたこの作品は、全十四巻に及び、内容は文学・語学・史学などの学問研究法や考証などです。
本居宣長は国学者でもあり、国学四大人の一人に数えられ、賀茂真淵を師としています。
また『古事記伝』『源氏物語玉の小櫛』なども記しました。

【6】
『玉勝間』の直後、1810年頃に、村田春海は『琴後集』を記しています。
彼もまた賀茂真淵に学ぶ国学者で、加藤千蔭と共に門下の双璧と称されました。
歌人でもあります。

【7】
最後は松平定信による『花月草子』。江戸時代後期の西暦1820年頃です。
この作品では、人事や風物の感想をつづっています。
筆者の作には、自分の名前をもじったとされる『宇下人言』などもあります。

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