雑賀踊の成立


―民衆が託した想い―



  目次

はじめに
 註
第一章 和歌祭の中の雑賀踊
 第一節 雑賀について
 第二節 和歌祭について
 第三節 雑賀踊について
 註
第二章 印南祭の中のケンケン踊
 第一節 印南祭について
 第二節 ケンケン踊について
 註
第三章 雑賀踊の成立
 第一節 雑賀踊由来諸説
 第二節 雑賀踊とケンケン踊比較
 第三節 民衆から見る雑賀踊の成立と伝播
 註
おわりに



 はじめに

 雑賀踊とは、武者の姿をし、両手に持ったササラを摺りながら踊るというものである。
それは、名称からもわかるように、中世和歌山に築かれていた地縁的共同体・雑賀に因ん
だものであり、現在でも、和歌山市和歌浦の紀州東照宮の例祭・和歌祭と日高郡印南町山
口の山口八幡神社の秋祭り・印南祭で奉納されている。
 しかし、この雑賀踊に関する先行研究の多くは、和歌祭の渡御の練り物の中の一演目と
して、或いは印南祭の神事の一つとして、その由来や踊りの様子を紹介されているに過ぎ
ない。(1)こういった研究状況の中で、高橋修氏が「紀州東照宮の成立と和歌浦」(2)で、雑賀踊
の成立について考察されている。この論文のテーマは、中世から近世にかけて和歌浦はい
かに変質し、その過程の中でなぜ紀州東照宮は和歌浦に勧請されたのかを探るもので、和
歌浦の近世的変容と景観の空間論的分析が成されている。その上で、「第3章 和歌祭の
成立―その歴史的意味―」として、雑賀踊を手がかりに和歌祭成立意義を述べられている
のである。この中で、高橋氏は主に領主の支配の観点から雑賀踊成立に関して次のような
一つの仮説を提示されている。
 天正十三(一五八五)年の豊臣秀吉による紀州征伐により、雑賀はその幕を閉じる。雑
賀の指導者達も没落し、多くの寺社が焼き討ちに遭い、村落共同体や宮座の神事等も解体
された。しかし、焼き討ち後も農民達は自らの土地に留まり、解体された共同体の復興を
担っていかなければならなかった。そこに、和歌山に入国した初代紀州藩主・徳川頼宣は
寺社を復興することで農民らをイデオロギー的に支配していったのである。その内の一過
程として、雑賀を構成する郷の一つである雑賀庄の惣社・矢宮神社も例外ではなく、寛永
十四(一六三七)年に再建された。これに対し、旧雑賀庄民は惣社再建の返礼として、古
代・中世から矢宮神前で行われていたであろう農耕予祝神事の流れをひくササラスリと、
徳川家に仕えた鈴木孫市(雑賀の指導者の一人)に付会させるため、雑賀衆のイメージを
取り入れた武者行列とを組み合わせた雑賀踊を奉納するようになった、というものである。
 この仮説は、高橋氏も述べられているように領主によるイデオロギー支配の視点から導
き出されたものであり、実際に和歌祭に奉納していた町人達の視点が欠けている。そのた
め、旧雑賀庄民の惣社再建への返礼というだけではなく、他にも雑賀踊成立に対する民衆
の思いがあったのではないかと考えられるのである。そこで、本論文の課題は、民衆、つ
まり実際の奉納者である町人の側から雑賀踊の成立を考えることとする。どういった人々
が踊を奉納し、そこにはどのような思いがあったのか、またそれは高橋氏の言う旧雑賀庄
民としての意識とどう関係してくるのかを探っていきたいと思う。さらに、印南祭での雑
賀踊も紹介し、和歌祭での雑賀踊との比較、そしてその関連性を考えていくこととする。

 (1)和歌祭の雑賀踊に関しては、田中敬忠『和歌祭の話』(田中敬忠先生頌寿記念会
    一九七九年)。印南祭に関しては、『印南町史』通史編下巻第十一編第四章第2
    節各神社の祭礼1452頁。
 (2)和歌山県立博物館『紀州東照宮の歴史』(一九九〇年)所収。



 第一章 和歌祭の中の雑賀踊

  第一節 雑賀について

 雑賀踊がモチーフとしているのが、雑賀衆である。ここでは、この雑賀衆が基盤として
いた雑賀について述べていく。
 中世後期には、和歌山には戦国大名のように一国を支配するような存在はなく、住民た
ちによる地縁的共同体や、寺社勢力、国人領主が乱立していた。雑賀とは、その中にあっ
た地縁的共同体であり、現在の和歌山市から海南市北部にかけての地域が五つの郷(十ヶ
郷・雑賀庄・中郷・社家郷・南郷)に分かれ、雑賀五組として自治が行われ、紀州におけ
る「惣国」を形成していたものなのである。
 まずは、雑賀、紀州「惣国」に関する先行研究の概要を簡単に説明しておく。古くから
雑賀に関して研究がされてきたが、それは一向一揆という視点からであった。(1)七十年代に
入り、石田晴男氏(2)が政治史的視点から紀伊国守護畠山氏の動向と合わせて、「紀州惣国」
という雑賀・湯河・高野・根来寺衆・粉河寺衆から成る紀伊国一国規模の「惣国一揆」が
存在したと考察されたのである。これに対し、小山靖憲(3)・熱田公(4)・小林保夫氏(5)らが、石田
氏の用いた史料を再検討し、さらに新たな史料を加えるなどして、紀州「惣国」は一国規
模のものではなく、雑賀衆そのものであると反論されている。こうした紀州「惣国」がど
の範囲なのかという論争に対し、川端泰幸氏(6)が、「惣国一揆」は必ずしも一国規模のもの
を指すのではなく、ゆえに紀州「惣国」を「惣国一揆」と切り離して考える必要はないと
し、その観点から紀州「惣国」の実態的側面、そしてその形成の契機を考察されている。
 こうした先行研究の流れで明らかにされてきた雑賀・紀州「惣国」のその具体的な姿を、
主に川端氏の考察を基にまとめていく。
 はじめに、先に挙げた雑賀五組の地域を確認していきたい。具体的にその地域を示すも
のとして【湯河直春起請文】(7)があり、この史料から雑賀の地域範囲を示していく。

【史料1】湯河直春起請文

  敬白 起請文事
 右意趣者、今度代替為礼儀差越湊喜兵衛尉候処、如先
 不可有別儀旨、誓紙到来候、此方之儀茂、聊不可有疎
 意、若此旨偽申者、日本国中大小神祇・八幡大菩薩・
 春日大明神・殊氏神可罷蒙御罰者也、仍起請文如件、
    永禄五年七月吉日       直(花押)
      雑賀
       本郷  源四郎大夫殿
       岡   三郎大夫殿
       湊   森五郎殿
       同   藤内大夫殿
       宇治  藤右衛門尉殿
       市場  五郎右衛門尉殿
       三日市 左衛門大夫殿
       中嶋  平内大夫殿
       土橋  平次殿
       同   太郎左衛門尉殿
       福島  次郎右衛門尉殿
       狐嶋  左衛門大夫殿
       狩取  与三大夫殿
      中郷
       岩橋  源大夫殿
       岡崎  藤右衛門尉殿
       栗栖  四郎大夫殿
      野上
       若林  治部殿
       和佐  九郎大夫殿
       山本  刑部左衛門尉殿
       加能  刑部大夫殿
      十ヶ郷
       鈴木  孫一殿
       楠見  藤内大夫殿
       坂井谷 源次郎大夫殿
       松江  左近大夫殿
       賀田  助兵衛殿
       木本  源内大夫殿
      南郷
       大野  稲井殿
       旦来  松江殿
       多田  神主殿
       吉原  林殿
       安原  五郎右衛門殿
       吉礼  次郎大夫殿
       三葛  田所殿
       本和多利 左衛門大夫殿
      社家郷
       中嶋  嶋田殿
       神崎  中務殿
             進之候

 この古文書は、亀山城(現・御坊市湯河町小松原)を拠点に日高地方を支配していた国
人領主の湯河直春が、永禄五(一五六二)年に河内・教興寺の戦いで死亡した先代・湯河
直光から代替わりした際に、従来通りの関係を確認するために雑賀へ送った起請文である。
この起請文については、その案文【湯河一族連署起請文案】(8)も存在し、その差出人は直春
をはじめとする湯河一族、宛名は「口郡  雑賀庄 中郷 十ヶ郷 三上 社家  御中」
となっている。この二点の史料から、雑賀五組が口郡としてまとまっていたこと、そして
その具体的な地域が読み取れる。その地域を地図に表したものが[地図1]である。(9)
 次に、雑賀五組の構成について述べることとする。雑賀は、何度も述べているように地
縁的共同体であり、各郷に属する村落、そしてその住民が構成主体である。そしてその運
営は、各郷の村落領主が代表者となり、その合議によって為されていたのである。前掲の
【史料1】の宛名に記されていた人々は、対外的に起請文を受け取っている点から見て、
雑賀の代表者達であったと言えるだろう。また、天正十年に比定される【惟任光秀書状】(10)
に、「一、高野・根来・其元之衆被相談、至泉・河表御出勢尤候、知行等儀、年寄以国申
談、後迄互入魂難遁様、可相談事」とあることからもわかるのである。
 こうした地縁的なまとまりと同時に、雑賀内部にはもう一つの集団があった。それが雑
賀門徒衆である。彼らは真宗道場を中心に、その本末関係(性応寺末・真光寺末・淨光寺
末・直末の四派+それ以外の方はつれ)によりまとまっていたと考えられている。そして
この雑賀門徒衆にも、その統率をとる年寄衆が存在しており、それが岡了順(年寄衆筆頭)
・宮本平大夫・松田源三大夫・島本左衛門大夫の四名である。彼らは先の四派の本末の代
表道場主である。(11)しかし、この雑賀門徒衆は、雑賀五組のまとまりによって規制されてい
た面もあることから、雑賀五組の構成は、まず地縁でまとまる雑賀衆が前提としてあり、
その中で活動によってさらに別の集団が存在していたのである。
 続いて雑賀のもつ機能について、先行研究で紹介されている史料から見ていきたい。
【岩橋荘神主等連署去状】(12)では、岩橋庄と和佐庄(共に中郷)で芝相論が発生した際、両
庄内で収拾がつけられなくなり、上位者として根来寺「泉識坊」と「惣国」に仲介が委ね
られ、岩橋庄が和佐庄に芝を渡し置くことが証文で確認されたというものである。仲介に
入った「惣国」の具体的な人々は「雑賀庄?衆人数」として六名の署名がされている。また、
【湊藤内大夫等連署起請文】(13)は、雑賀庄内の湊の住民と国人領主湯河氏の被官衆と丹下孫
四郎とのトラブルについても、「惣国人数」と称した雑賀衆が惣国側の事件当事者である
湊住民に任せ置かれたので、その処理を行い、その点について湯河氏に被官衆の免責を条
件に干渉しないように文書を差し出したというものである。これらの事例より、「惣国」
とは、雑賀五組地域や他勢力間において検断権を行使し得る「公」的な存在であり、また
その「惣国」は雑賀五組の代表者数名によって構成される機関であり、村落結合を基盤に
「下」から形成されたものであるという。
 最後に、これまで述べてきたように地縁的共同体として結束し、代表者により運営され、
さらに「惣国」という公的機関をも兼ね備えていた雑賀の中世(特に織豊政権期)から近
世に至るまでの歴史のおおよその流れを記しておく。(14)
 元亀元年(一五七一)に始まる石山合戦に雑賀衆は当初対信長ではなく、信長方として
参戦していた。しかし、天正三年(一五七五)年以降、石山本願寺で対信長として戦う。
しかし、その翌年雑賀五組のうち、中・社家・南郷の三組と根来寺が信長へ内通し、天正
五(一五七七)年、その三組が案内となり、残る二組を降伏させるため、信長が紀州攻め
を行い、一時は降伏する。しかし、天正五〜八年には本願寺を中心に再び結集が見られる。
天正八(一五八〇)年本願寺と信長は和睦を結び、顕如上人は紀州の鷺森御坊へ退去させ
られる。その後天正十一年(一五八三)年に顕如上人は貝塚へ移り、天正十三(一五八五)
年豊臣秀吉の紀州攻めにより、雑賀は解体し、他の在地領主も没落。そこで秀吉によって
原刀狩令が実施され、和歌山城築城、秀長が配置される。その後城主が桑山氏、浅野氏と
移り、元和五(一六一九)年徳川頼宣が入国し、藩政時代へと入るのである。


  第二節 和歌祭について

 これまで、雑賀踊の土台となる中世和歌山に存在した雑賀について述べてきた。ここか
らは雑賀踊自体に目を戻し、まず和歌祭について説明していく。
 和歌祭とは、紀州藩初代藩主・徳川頼宣が、父・家康を祀るため元和七(一六二一)年
に建立した、紀州東照宮の例祭で、元和八(一六二二)年四月十七日(徳川家康の命日)
に初めて行われた藩主主催の官祭である。(15)頼宣にとっての祭の意義は、戦勝を祝したもの
で、また観兵式を兼ねたものであったという。(16)官祭であり、かつこのような意義を持つ和
歌祭の内容は、紀州東照宮から片男波の御旅所への渡御行列がメインとなっている。この
渡御行列は、先の渡り物・練り物・渡り物から構成され、先の渡り物と渡り物は和歌庄屋
が、そして練り物は和歌山城下町の各町が支配し、その出し物を受け持っていた。(17)この練
り物に参加できる町とは、「古町」と言われる地子免除地、つまり城下町形成期に計画的
に町割された地域で、藩との関わりも深い、特権的な町が中心となっており、多くの町人
が官祭である和歌祭に積極的に参加はしているものの、閉鎖的な側面をもっているという。(18)
 以上のような特色をもつ和歌祭だが、藩政時代の祭の流れは次のようなものであった。(19)
祭前日(宵宮)には、東照宮では鳥居前の左右に大身槍を十本宛立て、藩士一同が警護し
ており、民衆は祝宴を張り飲酒歌舞に興じた。祭当日は、未明に神殿にて祭儀を執行、社
殿の広庭で万歳楽を奏し、伶人が凱旋の曲を舞楽、のち田楽を奉納し、午前八時、三基の
神輿が石段を下り、渡御が整列する。その後御旅所へ向け渡御が出発。御旅所では神輿を
安坐し例式の祭典が行われ、藩主の御拝、角力、母衣舞、薙刀振、雑賀踊が演技をする。
還御では、途中それぞれの出し物が演技をし、海上ではお関の軍船が鼓鉦を鳴らし、船歌
を歌うという、海陸で祭礼を賑わせたという。
 和歌祭のメインである渡御は、多くの出し物が出ており、華やかであった。そのため、
祭の様子が様々な絵巻物や屏風等に描かれた。これらの絵画史料は、当時の行列の内容や
人々の様子を伝えている。そこで、絵画史料や文献により行列順等が判明できるものを使
い、年代順に渡御行列の変遷を追跡していく。
 [表1]は、前掲の高橋修氏論文に掲載されている「和歌祭渡御行列変遷表」を参考に
しつつ、筆者が史料を紹介している元の文献等で確認できたものを一覧表化したものであ
る。この表から、和歌祭の初年度である元和八(一六二二)年には、数多くの練り物が出
ているが、その後、行列の内容はあまり変動がなく、一定の形を形成しつつあることがわ
かる。また、本論の題材である雑賀踊は、元和八年当初には見られず、正保三(一六四六)
年が初見である。
 こうした絵画史料や文献から、和歌祭は始められた時から多くの町人達が参加し、見物
人も多く集まる華麗なものであったことがわかるが、年々行列の規模が大きくなってきた
ため、寛文六(一六六六)年に規模の縮小が行われた。だが、その中でも雑賀踊・具足着・
面被りは古から紀州にあったものとして残されたのである。(20)
 このように祭の規模が大きくなったがために縮小を命ぜられながらも、藩政時代にはこ
の和歌祭は国中第一の大祭であった。しかし、明治に入り、主催者である紀州藩がなくな
ると、一時中断され、祭具も散逸してしまったのである。(21)だが、明治十八(一八八五)年
一月、徳盛社という後援会が設立され、市内有志等の組合により、出し物が出されたが、
それは簡略なものであった。その後、明治三十二(一八九九)年四月、明光会設立、追々
祭は復興されていく。だが、この年から暦が新暦へと変わり、祭日は五月十七日へと変更
される。さらに、大正九(一九二〇)年の藩祖御入国三百年祭から隔年ごとに行うことと
なるのである。昭和に入っても財政難により、毎年実施できず、日中戦争開始に伴い、昭
和十三(一九三八)年から昭和二十三(一九四八)年までの十年間、渡御は中止されてし
まう。戦後、昭和二十三年五月八日に復活するも、それはみなと祭の一環としてであり、
その後近年までは、商工会議所の祭(商工祭)に組み込まれ、行列の道順を変えながら、
残存してきたのである。
 しかし、二〇〇二年四月二十八日に商工祭から独立し、和歌祭保存会を中心に東照宮の
祭として、和歌祭が行われた。地域で和歌祭についての勉強会が行われるなどして、以前
の祭の様子を復活させようというもので、渡御には地元の住民や小中学生等多くの人々が
参加し、非常に盛大に行われたのである。本節の最後として、二〇〇二年の和歌祭の内容
を記しておく。
 〔当日の式次第〕
午前八時 神前祭典
午前十時 神輿下ろし〜神輿渡御(和歌浦漁港まで)
正  午 渡御行列出発(東照宮会館前広場より)
    〜神輿と合流〜片男波御旅所〜還御〜東照宮会館前にて演舞

 〔渡御行列内容〕
行列奉行 打鉦 神旗 鉾旗 伶人 総奉行 総奉行付 腰元 御唐櫃 御榊 賽銭箱 
獅子頭 巫女 御幣 左右大臣 唐団扇持 太刀持 神官 摺鉦 太鼓 神輿大神輿 
御所神輿 宮司 甲兵 行列奉行 連尺 子供連尺 団扇太鼓 餅花踊 餅搗踊(臼曳台
餅手合 杵踊 囃子方 餅花傘) 舞姫 献花台 行列奉行 雑賀踊(忠棒 大太鼓 
法螺吹 拍子鉦 笛吹 請棒 笹羅踊 雑賀一族会) 武者 行列奉行 傘鉾 薙刀振 
母衣 行列奉行 面被 唐船 行列奉行 供押道具


  第三節 雑賀踊について

 雑賀踊の概要は「はじめに」で記した通りである。しかし、後述するように、和歌祭の
ものと印南祭のものは、その踊り方が異なっている。そこで、印南の踊と比較するため、
詳しくその芸態を現在のものからではあるが、まとめておく。
 雑賀踊の踊り子について。現在は男子小学生が踊り子を務めている。しかし、近世・近
代に描かれた雑賀踊の図からは、当時は子供ではなく成人男性かと思われる人が踊ってい
るように見える。
 雑賀踊の拍子について。第二節の最後に二〇〇二年の渡御行列の内容を記したが、そこ
にもあるように拍子は主に大太鼓と拍子鉦でとる。法螺や笛は踊に直接的には関わってい
ない。藩政時代の拍子がどういったものであるかはわからないが、おおよそは同じもので
あると思われる([表1]にあるように、雑賀踊の一団の囃子方の内容が現在と大差ない
ため)。
 踊り方について。現在のものをイメージ化すると、[図1]のようになる。主に大太鼓
に合わせて一つ一つポーズを決めていくという形である。これは、昭和二十四(一九四九)
年の渡御の様子を撮影したと思われるVTR(テレビ和歌山所有)に一部映っている雑賀
踊の様子からも同様の踊り方がうかがえる。
 衣装について。[写真1]を参照してもらいたいが、現在のものは烏帽子をかぶり、(22)
士装束に帯刀し、両手にスリザサラを持つ。
 雑賀踊の様子は、近世に多くの絵画史料の中に描かれているものの、全体としてどうい
った踊であったかは図りかねる。しかし、変化を加えながら現在にまでその様相が伝わっ
ていると見られる。
 芸態そのものについての解説はここまでとして、続いて、近世、和歌祭に雑賀踊を奉納
していた町がどこなのかを探っていきたい。
 近世の和歌祭に関する史料が絵画・文献共に多く存在しているのは先述の通りである。
しかし、その中でどの出し物をどこの町が担当しているかを知るものは多くなく、筆者が
先行研究から知り得ているものでは二点のみである。まず一点は[表1]にも挙げている
「和歌東照宮御祭礼之次第書」(23)である。この史料には、出し物の参加人数・名称・形態・
担当町名が記されている。しかし、この中には雑賀踊あるいはそれに通じるものがないた
め、ここでは使用できない。もう一点は文政四(一八二一)年以後の作と考えられる川上
舎寿筆「東照宮御祭礼絵図大観」(24)である。これは絵巻物であり、出し物の名称・人数・担
当町名が、その出し物の絵と共に書かれている。これによると、雑賀踊については「雑賀
踊五拾人 中ノ店三丁目」と記されているという。(25)
 「中ノ店」とは、現在でも町名として残っており、中ノ店北ノ丁・中ノ店中ノ丁・中ノ
店南ノ丁と三丁に分かれている([地図3]参照)。『角川日本地名大辞典 30 和歌山
県』によると、中ノ店は和歌山城下内町のうちの町人町で、城下に三ヶ所あった魚市場が
置かれていた町の一つであるという。
 この中ノ店の住民が雑賀踊を奉納していたということが「東照宮御祭礼絵図大観」によ
り確認されたが、さらにその住民の中でも中心となっていた集団がいたことが別の史料か
ら読み取れるのである。それが、和歌山市東紺屋町に在する浄土真宗本願寺派念誓寺([
地図3]参照)所蔵「濫觴書」(第三章折込【由来D】)である。この史料は、十八代住
職・覚了が、念誓寺の開基から執筆時までの由緒を、幕末から明治にかけての頃に記した
ものだという。(26)本史料によれば、慶長年中に六代目了誓が、当寺の門徒八十余りを中ノ店
に移し、そこに通寺(27)(=掛け所)を建立し(【由来D】緑字部)、東照宮の祭礼が始められ
たので、了誓はその中ノ店の門徒に勧めて「御神君様御治世之御様子を象り、且鷺森ニて
宗門之末廣らかニ御繁昌と片足ニて躍しを象」った踊を「雑賀躍と称し」て踊らせたとい
う。そして、前ならし(稽古)はこの掛け所で、大ならしは鷺森御坊([地図3]参照)
境内で行ったと記されているのである。(【由来D】黄字部)。ここで引っ掛かるのが「鷺
森」以下のくだりだが、この史料で言われている雑賀踊の由来は、現在広く認識されてい
るものとは異なる。これについては、第三章第一節で詳しく述べることとし、ここでまず
確認しておきたい点は、雑賀踊は中ノ店にあった、念誓寺の掛け所の檀家達が、独自の由
来を持って踊っていたということである。
 ここで、念誓寺について少々解説を加えておく。『紀伊続風土記』(28)によると「東紺屋町
にあり、僧道全延徳四年の開基、道全は鎌倉佐原十郎重清十代の裔なり、蓮如上人を帰依
し、道場を岡の麓に創建す、慶長年中和歌町に移り後今の地に移る、本堂九間・七間鐘楼
僧坊等あり」という。同様の内容が先ほどから挙げている「濫觴書」にも記されている。
この念誓寺は元、「岡の麓」にあり、現在の珊瑚寺([地図3]参照)の寺門辺りであっ
たと伝えられる。(29)そしてこの岡に所在していた中世では、本章第一節にその名前を挙げた、
雑賀門徒衆の年寄衆筆頭・岡了順の道場だったのである。また、近世においては、寛文四
(一六六四)年に鷺森御坊に輪番衆が設置されるまでは、鷺森「御坊所元〆」であったこ
とや、紀州藩との関係が深かったこと等もうかがえる。(30)こういった中世から近世まで大き
な存在感を示していた点、また雑賀踊に関しても、その大ならしを鷺森御坊境内で行えて
いた点からも、念誓寺が紀州の浄土真宗寺院の中で地位が高かったと言えるだろう。
 以上、和歌祭がどのようなものであったか、そして雑賀踊の芸態、近世担当していた町
(集団)についての解説を行ってきた。ここでは、祭の特徴、そして参加できる町の特権、
その中での雑賀踊に注目しておいていただきたい。

(1)庄田平(三尾)功「紀州における真宗の発展と雑賀衆」(和歌山大学『学芸』第二
   号、一九五五年)などがある。
(2)石田晴男「守護畠山氏と紀州「惣国一揆」―一向一揆と他勢力の連合について―」
   (『歴史学研究』第四四八号、一九七七年)。
(3)小山靖憲「雑賀衆と根来衆―紀州「惣国一揆」説の再検討―」(『根来寺に関する
   総合的研究』昭和五十七年度科学研究費補助金(総合研究A)研究成果報告書、一
   九八三年)。
(4)熱田公「雑賀一揆と根来衆」(北西弘先生還暦記念会編『中世社会と一向一揆』吉
   川弘文館、一九八五年)。
(5)小林保夫「紀州「惣国」小論」(朝尾直弘教授退官記念会編『日本国家の史的特質
   近世・近代』思文閣出版、一九九五年)。
(6)川端泰幸「紀州惣国の形成と展開」(『大谷大学史学論究』第七号、二〇〇一年)。
(7)『和歌山市史』第四巻(和歌山市、一九七七年)戦国時代(一)―二三一号。
(8)『和歌山市史』第四巻(和歌山市、一九七七年)戦国時代(一)―二三二号。
(9)鳴戸大輔「芝相論と信長の雑賀攻め―天正年間に芝相論はあったのかー」(和
   歌山大学卒業論文、二〇〇〇年)の中で同様の地図「雑賀五組境界図」を作成
   しておられ、筆者が作成した[地図1]はそれとほぼ変更がない。ただし、海
   南市域(大野)を追加している。また、【史料1】に記述のある地名のうち[地
   図1]中に掲載されていない「市場」は「宇治郷二十五本松辺りをいふ」(高
   市志友編『紀伊名所図会』一巻(歴史図書社、一九七〇年)巻之一 九十四頁)、
   「三日市」は『紀伊続風土記』(一)(仁井田好古編、歴史図書社、一九七〇年)
   巻之  宇治に小名として「七日市」「六日市」があると記されているため、
   ともに宇治に比定する。
   また、「野上」は現在の野上町かと思われる。「山本」は不明。
(10)『和歌山市史』第四巻(和歌山市、一九七七年)戦国時代(二)―三六三号。
   この史料の年代について、藤田達生氏が「兵農分離政策と郷士制度―和歌山藩
   隅田組を素材として―」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第六十九集(国立
   歴史民俗博物館、一九九六年))の中で、それまで天正五年とされていたのを
   天正十年へと変更されている。
(11)雑賀門徒衆に関する研究は、武内善信「雑賀一向衆列名史料について」(『本
   願寺史料研究所報』二十五号(本願寺史料研究所、二〇〇〇年)、同氏「天正
   三年の雑賀年寄衆関係史料」(『本願寺史料研究所報』二十七号(本願寺史料
   研究所、二〇〇二年)の中で、史料の紹介を通して詳しく考察されている。な
   お、本論文の雑賀門徒衆に関する記述はこれらによっている。
(12)『和歌山市史』第四巻(和歌山市、一九七七年)戦国時代(一)―二二一号。
(13)『和歌山市史』第四巻(和歌山市、一九七七年)戦国時代(一)―二三四号。
(14)以下の雑賀の歴史に関する記述は、播磨良樹『「雑賀惣国」の構造をめぐって
   〜対権力との関係から〜』(二〇〇二年六月二十九日開催、1617会・和歌
   山地方史研究会報告レジュメ)に基づく。
(15)久留島浩「祭礼の空間構造」(高橋康夫・吉田伸之編『日本都市史入門 T 
   空間』東京堂出版会、一九八九年)。
(16)田中敬忠、前掲書。
(17)三尾功『近世の和歌祭』(二〇〇二年三月二十三日開催、和歌の浦アート展実
   行委員会主催 講演会「和歌祭と和歌の浦」報告レジュメ)。
(18)高橋克伸「城下町和歌山における二つの祭礼について―和歌祭礼次第書と日前
   宮砂持絵図を比較して―」(和歌山県立博物館『研究紀要』創刊号、一九九六年)。
(19)田中敬忠、前掲書。
(20)高橋修、前掲書。また、三尾功『近世都市和歌山の研究』第五章第三節「和歌
   祭と「和歌御祭礼図屏風」」(思文閣出版、一九九四年)にこの内容が記され
   ている、紀州藩家老三浦家の「御用番留帳」寛文五(一六六五)年九月十一日
   条が引用されている。
(21)田中敬忠、前掲書。以下明治以降の和歌祭の変遷の記述はこれによる。
(22)高橋修氏が前掲書の中で、甲の変遷について指摘されている。まとめると、祭
   初期は烏帽子を着けているのに対し、後には置手拭形の雑賀鉢の兜をかぶって
   おり、それは次第に武者行列としての色彩が濃くなっていったことを示してい
   るのだという。
(23)[表1]記載の註(1)に同じ。
(24)和歌山市立博物館'87夏の企画展『絵画にみる和歌祭』(和歌山市立博物館、一
   九八七年)8頁。
(25)(24)に同じ。
(26)武内善信氏のご教示による。
(27)仁井田好古編『紀伊続風土記』(一)(歴史図書社、一九七〇年)巻之五 若
   山部下 百十頁。に、「中ノ店中ノ町にあり、廣瀬念誓寺六代了誓慶長年中建
   立、本寺の別院とす、堂四間中四間僧坊等あり」という記述がある。しかし、
   城下町絵図等に記載がなく、厳密な場所までは不明である。
(28)仁井田好古編『紀伊続風土記』(一)(歴史図書社、一九七〇年)巻之五 若山
   部下 百十四頁。
(29)「濫觴書」(東紺屋町念誓寺所蔵)。
(30)(29)に同じ。



 第二章 印南祭の中のケンケン踊

  第一節 印南祭について

 雑賀踊が現在にまで継承されているのは、和歌祭だけではないということは、「はじめ
に」で触れた。本章では、もう一ヶ所の継承地・日高郡印南町の印南祭での雑賀踊(地元
ではケンケン踊とも呼ばれる。しかし、筆者が行った祭の調査時には多くの人々が「雑賀
踊」の名称を使っていた。本論文では和歌祭での雑賀踊と区別するため、便宜上ケンケン
踊で統一する。)について紹介していきたい。
 印南祭と言った場合、和歌山県内では二つの祭を指す。一つは今回の舞台となる山口八
幡神社(日高郡印南町山口)の秋祭り、もう一つは神輿の川渡りで有名な印南八幡神社(
同郡同町印南)の秋祭りである。この二つの祭は、ともに宵宮が十月一日、本祭が同二日
(祭日固定)に行われ、神社の位置関係も直線距離にしておよそ2q程の距離にあり、氏
子集団も印南川をはさみ、対峙している。
 まず、この二つの神社について説明していく。『紀伊続風土記』による、印南八幡神社
の記述。(1)
「○正八幡宮  境内周六十四間
 本社三扉 表行一丈一尺
 末社四社 牛頭天王社 稲荷社 住吉社 猿田彦社
 御輿社  長床
村(宇杉村。印南川左岸)の北にあり、宇杉・光川・東山口三箇村の氏神なり、神主あり、
             社僧 神宮寺
宮の側にあり、真言宗古義印南原村龍法寺末」

山口八幡神社については、(2)
「○正八幡宮  境内森山周四町五十八間
 本社三扉 表行二間三尺
 末社四社 稲荷社 猿田彦社 天宇須女命社 住吉社
 神輿社  長床
村(西山口村。大字山口の印南川右岸)の北にあり、中村・西山口・津井・楠井・上野・
野島等の氏神なり、伝へいふ、当社昔は野島村の祓井戸に鎮まり坐し夫より当所に勧請す、
神主を岡本左近といふ、」

 これらの記載から、両神社の近世の様子、氏子集団が分かる。現在では、印南八幡神社
の氏子は宇杉・光川・東山口に加えて本郷地区も屋台を持ち、一集団として参加している。
この本郷については、『紀伊続風土記』(3)の中では宇杉村の中の小名として記載がある。ま
た、山口八幡神社の氏子の内、楠井・上野・野島は現在の行政単位では、御坊市名田町と
なる。加えて言えば、野島には三つの小集落(祓井戸・加尾・野島)があり、それぞれに
傘鉾や屋台を持っているが、祭には大字野島として参加する。(4)また、中村というのは印南
川右岸の河口付近の近世呼称で、現在は印南川左岸と合わせて印南町の一部となっている。
この中村は、地元の聞き取りでは、江戸中期に戸数が増えてきたために、地方と濱(方)
に分かれたといい、現在でも祭においては地方と濱がそれぞれに参加し、屋台等も別にも
っている。この二者は名称からも分かるようにその性格が異なり、地方は主産業を農業、
濱は漁業としており、地区の幟にも「祝豊秋」(地方)、「祝満魚」(濱)と記されている。
 以上、少々補足が長くなってしまったが、二社の氏子集落をまとめると[地図4]にな
る。続いて、各神社の由緒について述べていきたいのだが、印南八幡神社について残念な
がら、現段階では調べられておらず、ここでは説明できないため、山口八幡神社の由緒だ
けを記すことにする。
 前掲の『紀伊続風土記』の記述にもあったように、この神社の神は移動を繰り返し、現
在の地に鎮座するようになったという伝承がある。『印南町史』通史編下巻(5)に、その伝承
が載せられている。まとめると、大昔、仁寿元(八五一)年頃、祓井戸(現・御坊市名田
町野島)に神が流れ着き、しばらくその地で休息した。しかし波の音を嫌い野島に仮家を
求め遷座する。ついで上野の梅田の宮へ、さらに楠井、津井、濱、地方を経て、男山([
地図5]参照)に遷り、その後西山口に勧請(元弘元(一三三一)年ころ)され、要害城
主湯河右衛門太夫の保護を受けたという話である。(6)
 ここで注目されるのが神の移動した地名が現在の氏子集落と一致する点である。と同時
に山口八幡神社の氏子集落の広がりに疑問が生じてくる。なぜ、この対岸に別の神社を氏
神とする集落がある地域なのだろうか。そこで、まずこの地域が属する近世の行政単位で
ある組=南谷組内における氏子関係を『紀伊続風土記』に基づきまとめてみた。(7)

〈山田荘〉
南塩谷・森岡・南谷・明神川→武塔天神社(森岡村)
立石→武塔天神社(立石村)
〈上野荘〉
野島・上野・楠井・津井→山口八幡神社
〈印南荘〉
中村・西山口→山口八幡神社
宇杉・光川・東山口→印南八幡神社
印南原→大歳明神社(印南原村)
〈切目荘〉→真妻神を一荘の氏神とする
松原・丹生・崎ノ原・皆瀬川・神川→真妻明神社(松原村)
上樮川・下樮川→真妻明神社(下樮川村)
小原・田垣内・高串・上洞(大垣内・休場等の小名)→真妻明神社(田垣内村)
上洞(柿原・布計の上・漆垣内等の小名)・川又→真妻明神社(川又村)

 これより、組と氏子集落との関係を見ていくのだが、結論から言えば、あまり関係性が
見られないと思われる。というのも武塔天神社を氏神とする村は南塩谷以下のみではなく、
他組の北塩谷・天田・猪野々村を含むという点、そして切目荘に至ってはおそらく古代中
世の切目薗からのものを受け継いだものだと思われる点からである。ただし、ここでも問
題となるのは山口・印南両八幡神社についてである。両社の近世以前のはっきりとした沿
革が不明であるため、推測の域を出ないが、伝承にもあったように、中世、日高郡を支配
していた国人領主湯河氏の一族がこの印南の地も支配していたことが古文書からもうかが
われ、(8)地方地区内には、伝承に出てきた「要害(海)山」([地図5]参照)という丘に
あったと伝えられる湯河右衛門太夫(9)の城があり、(10)その子孫といわれる家がその麓に存在し
ている。さらに印南八幡神社の宝物には湯河政春が寄付したという刀があるという事(11)等か
らその湯河氏にこの二社の氏子集落のまとまりは関係してくるのではないだろうか。そし
て、両社の氏子集落はともに湯河氏の支配にありながらも別の共同体であったのではない
だろうか。結局のところは、伝承や今に伝わる旧跡等での推測しかできないが、両社の氏
子の広がりは中世に遡ることができるとしておく。
 ここまでは、印南祭と称される二つの祭に関わる神社とその氏子について述べてきた。
続いて、山口八幡神社の印南祭の内容を二〇〇二年度の祭の調査に基づいて解説していく。(12)
 祭では、各地区から獅子舞・屋台・傘鉾・幟が出され、名田町野島・上野・楠井からは
奴踊り、地方地区からは本章のメインであるケンケン踊が出される。そのため、地方には
「雑賀の屋台」([写真2])と各地区と同じ獅子舞用の屋台の二基がある。祭は神社か
ら印南漁港の御旅所への渡御、そして神社境内と御旅所での神事・神振行事から構成され
る。その詳しい構成については順を追って述べていく。また渡御の道程や神事の場所は[
地図5]にまとめてある。
 祭のための準備は、九月一日から始められる。まず、同日に祭典委員(各区七名程度。
地方地区は五名。神振がスムーズに行えるよう取り計らう。祭の全体責任者で当日は赤い
タスキをかけ、リボンをつける。)や年行事(地方地区の場合は三名。部落の屋台がスム
ーズに渡御できるよう取り計らう。)等の役決めを総会(於青年会場)で決める。また、
獅子舞や踊の練習が各地区集会場で始まる。九月十五日には宮会議が開かれ、屋台の渡御
順をくじ引きで決める。しかし、地方の「雑賀の屋台」は一番で神輿の先導をすること、
神事の一番にケンケン踊奉納というのは既に決まっていることである。こうして各組での
祭の準備が整っていくのである。
 宵宮は、各地区がそれぞれ地元で行う。地方地区の場合、午後四時頃から地方集会所に
てケンケン踊を踊り、引き続き印南漁港にて濱地区も合流してケンケン踊を踊る。その後
午後七時過ぎから地方地区と西山口の獅子舞が地方地区内の辻で行われ、その後地方、西
山口、濱の三組で屋台の載せ合いをしながら、印南橋へ向かい、印南八幡神社側の宇杉、
本郷、光川と印南川を越えて屋台の載せ合いをする。(13)
 本祭。午前五時頃、野島の氏子が祓井戸の浜にて禊を行う。そして午前七時頃に野島が
出発し、順に上野、楠井と合流。津井とは午前八時頃に合流し、浜伝いに御旅所となる印
南漁港を目指す。同時刻頃には濱・地方も印南漁港に到着し、全体が合流するのが午前八
時半頃である。漁港に全体が集結すると、まず「雑賀の屋台」が野島以下四組に挨拶に行
き、追って全体で屋台の載せ合いをする。載せ合いの途中、雑賀の屋台と各区の幟、奴踊
りの踊り手等が神社に御迎えに行く。他の各地区の屋台や傘鉾等は漁港での載せ合い終了
後、印定寺へ向かい、待機する。
 神社へ向かう一行は途中「男山」で休憩し、午前十時頃に山口八幡神社に到着する。そ
こでケンケン踊を筆頭に奴踊りが境内で奉納される。そして午前十一時十五分頃神輿御立
ち、出御となる。一行は各組の幟、雑賀の屋台、道具持ち(西山口が担当。屋台は出さな
い。(14))、神輿(神輿舁は野島担当。(15))の順に渡御し、御迎えの時と同様「男山」にて休息
をし、御旅所を目指す。
 その途中、印南町役場前辺りで「梅ヶ坪の神事」が行われる。これは前に記した要害城
城主の子孫という湯川家の当主が、神輿舁が中腰で支えている神輿にシトギ餅と御神酒を
供えるというものである。この神事は、その昔、山口八幡神社の神が山から浜に下りてく
る途中に湯河家が酒を出したことに由来するという。その酒を出した婦人が身重だったた
め、翁の面を被り、打掛を着て接待した(16)ため、湯川家の屋号は「翁屋」といい、唯一地区
以外で傘鉾(三番双。[写真2])も出す。
 この神事が終了すると、印定寺で待機していた各地区の屋台がここまで先導してきた「
雑賀の屋台」に代わり、御旅所まで狭い街中を、載せ合いしながら渡御していく。
 御旅所につくと、神前式の後、ケンケン踊、奴踊り、獅子舞が奉納され、全ての神振行
事が終わると、還御となり、野島・上野・楠井・津井は帰還。地方と濱の屋台も印定寺ま
でで神社まで行くのは「雑賀の屋台」、道具持ち、地方・濱の幟のみとなる。山口に入る
と、西山口の屋台が出迎え、ともに神社へ帰る。神社では境内でケンケン踊、西山口の獅
子舞が奉納され、解散。地方地区は最後に集会所前でケンケン踊を踊り、祭が終わる。


  第二節 ケンケン踊について

 前節に続いて、ケンケン踊について解説したいと思う。
 ケンケン踊に関しての史料はほとんどなく、唯一確認出来たのが、「印南中村覚書」
(【史料2】)(17)である。この覚書は宝暦九(一七五九)年三月に、中村地方の西山市良兵
衛好信という人物が記したもので、大きく三つの事柄について一つ書きで記述されている。
三つの大テーマは、「西山口八幡宮七ヶ村氏神聞伝覚」「印南中村印定寺由来覚」「印南
原しりかけ山池山之事」である。この内の第一題目の中でケンケン踊の由来が記されてい
るのである(★部)。それによると、ケンケン踊(史料では「さいか踊」となっている)
は、「万治年中」(一六五八〜一六六一)に「郡奉行福冨市兵衛」にお願いし、「和歌山」
へ許可を得て踊り始め、祭りの中では氏子の七ヶ村の中で一番に踊り、神歌は「浦方又兵
衛先祖」が出しはじめ、「茶べん田」から囃子が始まるということが記載されている。こ
こから、前節で記した、祭でどの神事・神振よりも先に踊るというケンケン踊のもつ特徴
が近世当時からあったということがまずうかがえ、さらにケンケン踊を踊るために紀州藩
へ願を出さなければならなかったこともわかるのである。(神歌を出すものや「茶べん田」
については調査不足のため詳述できない。)
 こうした、ある意味特殊とも言える性格を近世から保持してきているケンケン踊の芸態
にまず迫りたい。しかし、このケンケン踊については過去の様子がわからないため、現在
のものから見ていく。
 ケンケン踊の構成(役柄等)について。踊り手は地方地区の人々である。この印南祭に
おいては宮座の形態が残っており、青年と中老により祭が執行されていく。(18)小学生から獅
子舞や、地方の場合は雑賀の拍子の練習を行い、年を経るにつれてその役割が変化してい
く。この構造の中で、ケンケン踊を奉納する役割を担えるのが四十代〜七十代の男性で、
現在三十名に衣装が与えられている。その中で「年頭」(一番年上の人)が「雑賀の先達」
としてオレンジの陣羽織を着、先頭で踊り、「年頭」の次に年上となる人物が「雑賀警固
責任者」を務める。こういった人物たちがメインとなり、祭当日には他地区の人や獅子舞
の鬼が加わり、踊るのである。
 衣装について。[写真2]からわかるように、その衣装は徒かぶとをかぶり、黒地の着
物、群青の袴に黒足袋。それに和歌祭の雑賀踊同様スリザサラを持つという出で立ちであ
る。このササラは、約40pの竹製で、右手には先を縦に割った方(鞘を模しているとい
う)、左手にはギザギザを刻んだ方(刃こぼれした刀を模しているという)を持つ。「雑
賀の先達」は前述したようにこの衣装にオレンジの陣羽織を着るのである。
 拍子について。踊の拍子は、大太鼓・小鼓・鉦でとっている。これらは一つの屋台に組
み込まれ、それが先ほどから述べている「雑賀の屋台」である。これは、先にも記したよ
うに小学生が担当する。
 踊り方について。詳しくは[図2]を参照してもらいたい。踊の陣形は、各地区の幟と
「雑賀の屋台」を中心にして円形になり、反時計回りに進んでいく。初めはゆっくりとし
た調子で踊り、一定に保たれているが、最後には調子が早まり、幟を支えている若い衆が
掛け声を掛け始め、頂点に達すると踊りが終了する。一回の演技時間は約七分である。
 おおよそケンケン踊の芸態は以上の通りである。次にこのケンケン踊についての最大の
関心事といえば、なぜ印南の地にこの踊が伝承されているかという事である。そこで、一
つの手掛りとして、祭調査の聞き取りで得られた地元に伝わるその由来を紹介する。
 豊臣秀吉により滅ぼされた雑賀一族が印南へ逃げてきた。そして、丸山城主(湯河氏の
拠点であった亀山城のことか)にかくまってくれるよう頼んだところ、何か(芸事か)を
するよう要求されたので、傷ついた足でケンケンをしながら踊った踊だという。そして、
「雑賀の先達」は雑賀の武将を模していると言われている。また、「ケンケン」の名称に
ついては「ケンケン跳び(片足跳び)」と拍子鉦の音が「ケンケン」と聞こえるからとい
う二つの由来がある。
 この伝承から、印南と雑賀衆との関連で、この印南でケンケン踊が踊り継がれてきたと
いうことがわかるものの、雑賀衆をイメージし、拍子に合わせてササラをすり踊るという
点においては、和歌祭の雑賀踊と同様であり、なぜこうもアウトラインが似通った踊が存
在するのかという疑問は解消できない。これについては第三章で解決に努めたいと思う。
 最後にケンケン踊の印南祭における地位について触れておきたい。前述している通り、
ケンケン踊は祭でのどの神事・神振にも先んじて行われ、踊が終わらなければ、どの地区
も踊や獅子舞などが出来ない。そして、神輿の渡御に際しても、神社への御迎え、渡御(
ただし「梅ヶ坪の神事」の場所まで)、還御で神輿を先導するのは「雑賀警固」(=「雑
賀の屋台」と踊り手)なのである。さらに、地方の獅子舞用の屋台の上には「八幡宮」と
標されており(他地区の場合はその地区名を標す。[写真2]参照)、これも地方が渡御
で神輿を先導するためだと言われている。こういった点から、地方地区の人々は「どの地
区よりも権威がある」という意識や祭に対する責任を持っているように感じられるのであ
る。
 このように、ケンケン踊は印南祭において非常に特異性のある存在として、継承されて
きているのである。

(1)仁井田好古編『紀伊続風土記』第二輯(歴史図書社、一九七〇年)巻之六十七 日
   高郡印南荘宇杉村 五六六頁。
(2)仁井田好古編『紀伊続風土記』第二輯(歴史図書社、一九七〇年)巻之六十七 日
   高郡印南荘西山口村 五六七頁。
(3)(1)に同じ。
(4)『印南町史』通史編下巻(印南町史編集室、一九〇〇年)第十一編第四章第二節「
   各神社の祭礼」。
   および『御坊市史』第二巻通史編U(御坊市、一九八一年)第九編第七章第九節「
   印南祭(山口八幡祭)」。
(5)(4)に同じ。
(6)この伝承は、[印南中村覚書](『印南町史』史料編(印南町史編集室、一九八七
   年)第三編第三章 藩政一般―二号・【史料2】)の第一条目と同内容である。伝
   承の中で登場した「男山」は[覚書]によると、「御神子越休山」(  部)を示す
   と考えられ、その理由は渡御の際、神輿を休憩させる山を地元では「男山」と呼称
   することによると思われる。
(7)仁井田好古編『紀伊続風土記』第二輯(歴史図書社、一九七〇年)巻之六十三 日
   高郡総論および 巻之六十七 日高郡山田荘・上野荘・印南荘・切目荘をまとめた
   ものである。
(8)『印南町史』史料編、第二編中世文書史料―九号、十一号、十二号など。
(9)この湯河右衛門大夫はほとんど史料には名を見せず、【印南・湯川系図】(『印南
   町史』史料編、第二編中世文書史料―二十二号)および【湯川記】(同―二十三号)
   に永禄五(一五六二)年の河内国教興寺の戦いで、当時の湯河家当主・直光ととも
   に討死したことがあるのみである。
(10)仁井田好古編『紀伊続風土記』第二輯(歴史図書社、一九七〇年)巻之六十七 日
   高郡印南荘中村 五六六頁。および筆者の聞き取り調査による。
(11)『日高郡誌』下巻(名著出版、一九七〇年)第五篇第二章「各神社の沿革及び現状」
   一一〇六頁。 (12)祭の流れについては、前掲(4)の『印南町史』通史編下巻、『御坊市史』第二巻
   通史編U、および、小山豊『紀州の祭と民俗』(国書刊行会、一九九二年)第一章
   第五節「日高の祭概説」に記述がある。
(13)宵宮でこのような屋台の載せ合いを行うようになったのは、七〜八年前からだとい
   う。以前は印南川を半分でも超えると喧嘩になったが、車社会になり、互いに交流
   を持つようになったことで、部落根性が薄まってきたことに起因するという。(聞
   き取り調査より)。
(14)小部落のため、屋台を担ぐ若い衆がいないためであるという。(聞き取り調査より)。
(15)山口八幡神社の祭神が最初に流れ着いたためだという。(聞き取り調査より)。
(16)湯川家には、翁面が三点、打掛一点が所蔵されている。翁面は、一点(初代のもの
   )はこの伝承に登場する婦人が付けたという由来を持つもので、「天正六歳寅六月
   三番双」の銘がある。残り二点は傘鉾上の人形につけるもので、現在使用のものと
   それ以前に使用されていたものである。また、打掛は紺地に蓮の繊維で織られた柄
   布がついているもので、伝承の婦人が着たものという由来がある。
(17)前掲(6)に同じ。
(18)各地区の青年と中老の構成や祭への意識については、上出邦子氏が「印南祭参加集
   落における「青年」と「中老」について」(和歌山大学教育学部地理学教室『日高
   郡印南町調査報告』一九九九年)で聞き取り調査を元に詳述されている。参照され
   たい。



 第三章 雑賀踊の成立

  第一節 雑賀踊由来諸説

 現在広く言われている雑賀踊の由来は、「天正五年三月の織田信長の紀州攻めに勝利し
た雑賀衆が矢宮神社で喜び踊ったもので、その時鈴木孫市(雑賀衆の指導者の一人)は足
を負傷しており、片足で踊った踊である」というものである。しかし、第一章第三節で触
れたように、その由来は決してこの一説のみではないことがわかった。そこで、筆者の探
し出せた範囲で、雑賀踊の由来に関する記述を紹介したいと思う。ただし、印南祭につい
ては独自の地元伝承を持っており、和歌祭の雑賀踊との関連を後に考察したいと考えてい
るため、ここでは和歌祭の雑賀踊に焦点を絞りたい。
 雑賀踊の由来と考えられるものは四説あり、それぞれ【由来A〜D】とした(折込)。
これらの出典は、【由来A】は「鷺森旧事記」(1)(享保八(一七二三)年成立)、【由来B、
C】は『紀伊名所図会』(2)(文化八(一八一一)年成立)、【由来D】は「濫觴書」(3)(幕末
〜明治成立)であり、その順は出典文献(史料)の成立の年代順となっている。また、【
参考史料E】(折込)は【由来A】と同じ「鷺森旧事記」にある記述である。(4)これら五つ
の由来と史料から注目されるべき点を挙げていく。
 第一点。四つの由来は、その内容から大きく二つのグループに分けられることに気付く。
一つはAとB、もう一つはCとDである。A・Bのグループは、前述した、現在一般的に
言われている「矢宮説」である。C・Dについては、天正十年信長の怒りを買い、三男信
孝に石山本願寺から移った顕如上人がいる鷺森御坊を攻められるも、本能寺の変で命拾い
した門徒達が御坊境内で踊ったものを由来とする(以下「鷺森説」とする)ものである。
 この天正十年の進攻は、雑賀を巡る研究の中ではあまりいわれておらず、史料において
もこれらと【参考史料E】でのみ、筆者が調べた限りでは記述がない。また、このEとC、
Dを読み比べると、共に内容は同じ天正十年に織田信孝に鷺森御坊が攻められるというも
のなのだが、雑賀踊に関する記述がEには見られないというのも気に掛かる点である。
 また、BとCについて、大グループに分けた場合この二つは異なる由来であるが、それ
が同じ文献の中に記載されているという点も見逃せない。
 第二点。「矢宮説」も「鷺森説」も、具体的な内容が異なるものではあるのだが、この
踊は東照宮の祭礼に出されているという表記がある点である。(各由来青字部)。そこから、
この由来が記された近世期には、二種類の雑賀踊があったのか、それとも一つの踊が二種
の由来を持っていたのかが確認される必要があるだろう。
 第三点。現在言われている雑賀踊を踊った創始者とも言える鈴木孫市について、この四
説ともにそうした登場はない。C、Dは現在ほとんど言われていないものなので、本来的
にはA、Bに関わってくるものであるが、どちらにしても記述がないということから、史
料には組み込まれてはいないが編纂期(またはそれ以前から)に人々の中では言い伝えら
れていた、もしくは編纂以後に付会されたのかが考えられる。
 以上、由来四説から大きく三点の注目点が考えられる。これらを確認しながら、二グル
ープの由来がある理由を探っていく。
 まず、順が逆になるが、第二点から見ていきたい。近世期雑賀踊が二つあったのか、一
つの踊に二種の由来があったのかということだが、それについては由来全てに和歌祭に奉
納されているという記述から、祭の様子を描いた絵画史料等で確認していきたい。
 [表1](第一章第一節)に渡御の変遷を記してあり、これを使って見ていくと、「東
照宮縁起絵巻」(5)、「和歌祭礼図屏風」(6)では、雑賀踊は二団描かれているものの、これら以
外は、雑賀踊は一団のみである。他に雑賀踊が二団描かれているものとして山澤与平作「
和歌御祭礼御絵図(7)」がある。この絵図は「東照宮縁起絵巻」を模して描かれたものと考え
られており、(8)また筆者自身絵図の全容を見ることができないので、ここでは外しておく。
 二団描かれている二点の史料についてその制作年代を再び紹介しておくと、前者が正保
三(一六四六)年、後者が寛文五(一六六五)年である。また、この当時の雑賀踊担当町
がどこかが明記されておらず、二団とも前述しているように中ノ店なのか、二団はそれぞ
れ違う町なのかは不明である。描かれている雑賀踊の二団の様子については、踊の中で取
られている所作が二点の史料共にそれぞれ異なる。また、衣装も少々雰囲気が異なり、着
物が色地か白地かという区別がある。これら二点の史料から見る限りだとまだ、第二点で
提示した問題点は解決できない。しかし、この史料が作成された後の他の史料は一団しか
雑賀踊を描いていない点、また担当町がはっきりわかる史料(前掲・「東照宮御祭礼絵図
大観」)がある点、そして寛文六(一六六六)年に行列の規模が縮小された点を組み合わ
せて考えると、雑賀踊が二種あったと言えなくはないが、踊は一つで、二団描かれていた
のは同じ団体(町)が二分して踊っているのを描いたもので、行列が縮小されたことで一
団にまとまって踊るようになり、それ以後は絵図でも一団で描かれるようになったと考え
られる可能性が高くなったのではないだろうか。はっきりとした確証は持てないが、仮説
として提示しておく。
 雑賀踊は一つの踊で、それに付随する由来が二種あったという事を踏まえて、問題点第
一点目の「矢宮説」と「鷺森説」の二つがある理由を考えていく。筆者が付けたグループ
名称から分かるように、この二種の由来の最も異なる点が雑賀踊の原型が踊られた場所(
矢宮神社と鷺森御坊)である。この二つの場所だが、矢宮神社は中世、雑賀惣庄の産土神
であり、雑賀衆の氏神であり、(9)鷺森御坊は浄土真宗の中心であった。ここで思い出しても
らいたいのが、第一章第一節で述べた、雑賀の内部構造である。雑賀に住む住人は地縁的
共同体の一員としての雑賀衆と呼ばれる人たちであった。そして、この雑賀衆の中にはさ
らに真宗道場の本末関係に基づく雑賀門徒衆と言われるまとまりもあり、二重構造となっ
ていたのである。そして、これら二つの集団の拠点と成り得たのが、雑賀衆の場合は矢宮
神社であり、雑賀門徒衆の場合は鷺森御坊(ただし、永禄六(一五六三)年以後)であっ
た。こういったことから、「矢宮説」は雑賀衆を基とする由来、「鷺森御坊」は雑賀門徒
衆を基とする由来であることがうかがえるであろう。
 また、注目点第一点目の中であげたように、「矢宮説」と「鷺森説」であるBとCが、
同じ『紀伊名所図会』に記載されている点については、それぞれのタイトルに着目して考
えてみたい。Bは「雑賀踊来由之事」、Cは「鷺森趁跛跳由来之事」となっている。その
内容も、Bはタイトル通りに和歌祭に奉納されている雑賀踊の由来を述べている。対して
Cは「毎年四月六日の夜に大ならしと言って、鷺森境内で興じている」踊を主に述べてい
ることが読み取れる。(黄字部)。(ただし、その踊が和歌祭に奉納されていることも記載
されているのは前述の通り。)さらには、この「境内での大ならし」は、雑賀踊担当側の
由来Dにも記述されているのである。(黄字部)。これらのことから、Cは実際に和歌祭に
雑賀踊を奉納している中ノ店、またはその大本である念誓寺に取材して記述されたもので
はないだろうか。それならば、C、Dの「鷺森説」は雑賀年寄衆という大きなまとまりと
いうよりも、より小さな集団である雑賀踊担当町の中ノ店や念誓寺独自の由来と言えるだ
ろう。
 また、同じ注目点第一点目に示した、【参考史料E】が、C、Dと同様の題材を記して
いるものの、雑賀踊に関する記述が見えないという点なのだが、これはその内容からのみ
考えると、由来の「鷺森説」は、鷺森御坊からは独立した念誓寺独自の話であると言える
かもしれないが、やはり大ならしが鷺森境内で行われていることから、決して鷺森自身も
無関係ではいられないと思われる。そのため、その史料が製作された年代に大きく差があ
るという点(Eの記事がある「鷺森旧事記」は享保八(一七二三)年成立、「鷺森説」の
初見『紀伊名所図会』は文化八(一八一一)年成立)から、「鷺森説」は参考史料Eが記
される段階では語られておらず、その後に語られ始めた可能性が高いとできるであろう。
ただし、Dの中の記述を信用するならば、雑賀踊が奉納され始めた当初からこの由来は存
在したのかもしれないが、ここでは文献上の初見年代から以上のように考えることにする。
 以上のように、ここでは近世期に記された四つの由来を紹介し、それがそれぞれ基とな
る基盤が異なるものであり、大きく二つのグループに分かれることを、仮説を加えながら
ではあるが、解説してきた。これらの由来は年を経るにつれ、取捨選択されながら、より
人々の中に根付いたものが残され、さらに変化を加えながら現在にまで引き継がれてきた
のだろう。


  第二節 雑賀踊とケンケン踊比較

 雑賀踊と同名称で伝承されてきているケンケン踊。雑賀踊の成立について考察するには、
この二つの踊がそれぞれに関連性のあるものなのかを確認しておかなければならないだろ
う。そこで、芸態の中では関連性が見られるのかを確認すべく、この二つの踊を比較して
いくことにする。
 まずは、踊のアウトラインについて。ともに踊り手は雑賀衆を模しており、衣装の面で
も、烏帽子と甲の違い(現代において)はあるものの、徒士装束を着、手にはスリザサラ
を持っている。これらの点では、非常に似通った姿を見せている。だが、陣形については
祭の中でいつ、どこで踊るかにより異なると考えられるのだが、渡御行列で踊る雑賀踊は
二列縦隊、神社境内や御旅所等決まった場所で踊るケンケン踊は円陣を組んでいる。
 次に、踊そのものの比較に移るが、最もその関連性がわかりやすいものとして、それぞ
れの近世期の踊の様子を比較できれば良いのだが、ケンケン踊はどのような様子だったの
か知る術が全くない。そのため、現在のもので検討していくことにする。
 拍子はともに大太鼓と鉦を使い、ケンケン踊では小鼓も使用する。唄や旋律を奏でるも
のはともに無く、太鼓等の一打一打に合わせて所作をとっていく。
 続いて踊り方。一連の動きは、それぞれの踊を解説している節に提示した[図1]およ
び[図2]を参照していただきたいが、この二つの踊はササラをするというのが大きな特
徴であるため、基本的なパターンとしては「ためる」「ササラをする」の繰り返しである。
しかし、細かくその踊り方を見ていくと、まず、ササラをどの方向に向かってするかで大
きく異なると言えよう。雑賀踊は踊り手の頭上でするのに対し、ケンケン踊は下に向かっ
てすりおろすという感じである。また、そのすり方も雑賀踊は一つ一つきちんとポーズを
決めていくもので、ケンケン踊は基本パターンに乗っ取った、素朴なものである。
 このように、踊り方に関しては異なるものの、やはりアウトラインの酷似性や大まかな
流れから、根源は同じものといえるだろう。そうなれば、この二つの雑賀踊が別々にそれ
ぞれの地で発生したものとはなかなか考えられない。そこで、「印南中村覚書」(10)第二条(
【史料2】★部)の記述から推測するに、印南のケンケン踊は和歌祭で踊られていたもの
が伝播してきたものではないだろうか。和歌山から許可を得て踊り始めたという内容、そ
して和歌祭での雑賀踊の初見が正保三(一六四六)年([表1]参照)であり、印南祭で
許可を得たとされるのが万治年中(一六五八〜六一)だという記述から、和歌祭が大本と
見られるためである。経緯はわからないものの、国中第一の大祭和歌祭をもちろん印南か
らも見物に行った人がいただろう。そしてそこで見た雑賀踊をこの地に伝えたという状況
が推測される。こうした仮定が成され得ることから、どちらがより古態に近いのか判断で
きるものが無く、またそれぞれの祭に合わせてその形態を変化させている可能性が非常に
あり、芸態の細かな点から結論は得がたいが、この二つの雑賀踊は関連性があり、和歌祭
のものが印南へ伝播したものと思われる。


  第三節 民衆から見る雑賀踊の成立と伝播

 和歌祭・印南祭における雑賀踊がどういった踊なのか、どのような人々が踊っているの
か、もしくは踊っていたのか、その由来はいかなるものか、またその関連等を、ここまで
仮説を加えながら説明してきた。以上を踏まえた上で、いよいよ本論文の課題である民衆
側からみた雑賀踊の成立を考えていきたい。
 「はじめに」で記したが、雑賀踊の成立に関する高橋氏の見解の内容を、もう一度確認
しておきたい。(11)それは、領主が惣社や産土神の再建(雑賀踊の場合、矢宮神社)を通し、
宮座形態の吸収をすすめ、民衆がそれに対し返礼として民間神事であったササラスリに雑
賀衆のイメージを付け、祭礼へ奉納したとするものである。つまり、領主のきっかけから
形成されていったというものである。しかし、これまで述べてきたように、雑賀踊を奉納
している町というのは、中世において雑賀衆の代表格であり、雑賀門徒衆の年寄衆筆頭で
あった岡氏の道場である念誓寺の掛け所の檀家たちなのである。そしてこの念誓寺は近世
においても大きな社会的地位を持っていたというのは第一章第三節で述べた通りである。
つまり、ただの庄民たちが返礼として、とするには言い難い点があるように感じてならな
い。もっと町として主体的な姿が思われる。
 矢宮神社の復興は、高橋氏が述べられているように、寛永一四(一六三七)年であり、
祭の始まりから雑賀踊の初見が見られるまでの間にあり、雑賀踊成立の一つのきっかけで
あったかもしれない。しかし、雑賀踊を担当する町はより主体的に、中世から続く城下町
内での社会的地位を持つという特別な存在であることを示すために、最も自らを象徴する
ような雑賀衆に扮し、農耕予祝神事というよりは、当時全国的に流行していた風流踊の要
素を取り入れ、(12)踊り始めたというのが、この雑賀踊の成立となるのではないだろうか。
 さらに、本章第一節で由来が二グループ「矢宮説」と「鷺森説」に分かれ、それぞれ基
盤とする由来の語り部が異なることを指摘し、また「鷺森説」は後代に語られ始めたと考
察したが、これらと、筆者が考える成立の経緯を合わせてみると、「矢宮説」は踊の成立
当初からより広くその重要性を知らせるために語られていたものであり、その後このよう
な踊を踊り、鷺森境内で大ならしを行える自分達について、その正当性を主張するため「
鷺森説」が登場してきたと考えられ、由来が二種類ある理由についても一定の見解が述べ
られる。
 以上をまとめ、民衆側から雑賀踊成立を考えるならば、担当町としての、また念誓寺と
しての特別性そして正当性を城下に、あるいはより広く国中に主張せんがために形成され
てきたものなのだと結論付けたい。
 続いて、もう一つ残された問題・なぜ印南にこの雑賀踊が伝播したのかについて考えて
みたい。これに関しては、全く推測の域を出ず、様々な仮説が立つところであろうが、一
つ筆者としての仮説を立ててみる。
 伝播に関しての、考えられる経緯は本章第二節に示した。しかし、そこでは印南の地で
踊ることを許可された背景には触れていない。その点を推測する。
 印南祭は、中世この地に出城(要害城)を構えていた湯河氏との関係を思わせるような
要素がある。それは、神社の氏子範囲についてもそうであり、またその湯河氏の末裔が一
つの家として、神事の一つを担っているという状況からも言えるだろう。さらにケンケン
踊においても、地元では湯河氏と雑賀衆との関連をうかがわせる伝承もある。この湯河氏
と雑賀衆との関係については、一時期何らかの同盟関係であったことがうかがえ、(13)そこか
ら派生してきた関係が続き、この湯河氏の膝元の印南に雑賀衆をモチーフとした雑賀踊と
の接点が見られたのかと思われる。また、十年ほど前までは、祭の前に雑賀崎の漁師達が
魚を売りに来ていたという話が調査時に聞かれたことから、海運や漁業を通した民衆同士
のつながりもあったと考えられる。これらの湯河・雑賀間の関係、そして地域としての密
な交流から、雑賀踊が伝播される基盤が形成されてきたのではないだろうか。
 印南祭での雑賀踊との関係はこのように推測される。では、なぜ地方地区が踊るのだろ
うか。これについては、湯河氏との関連からすると、出城があったのはこの地方地区であ
り、この城主に関係する地域の中心的地区であったのではないだろうか。そこでこの点に
加え、先述した印南という地域基盤を基に、この地方地区は雑賀踊を踊れるだけの由緒が
あることを語り、「印南中村覚書」にみられるように、領主権力から許可を得たと思われ
る。そして、その踊の由緒や領主からの許可を使い、より地区としての権威を氏子集団の
中で示し、祭の中で特異な存在であり得たのではと推測されるのである。
 印南祭に雑賀踊が伝播されたその背景には、地域としての縁由、民衆間の交流に基づい
た、氏子集団の中での自地区の権威付けという考えがあったと考えられる。

(1)鷺森別院所蔵。この「鷺森旧事記」は、『和歌山市史研究』二十六号(和歌山市立
   博物館、一九九八年)に翻刻されており、これを使用した。十九頁〜二十頁。
(2)[由来B]は、高市志友編『紀伊名所図会』一巻(歴史図書社、一九七〇年)二三
   三頁。[由来C]は、同書一一二頁。
(3)和歌山市東紺屋町、念誓寺所蔵。
(4)(1)に同じ。三十一頁〜三十二頁。
(5)『紀州東照宮の歴史』(和歌山県立博物館、一九九〇年)史料番号1。
(6)前掲『'87夏の企画展 絵画にみる和歌祭』(和歌山市立博物館、一九八七年)史料
   番号U―12。
(7)前掲書(6)に同じ。史料番号U―10。
(8)(7)に同じ。
(9)仁井田好古編『紀伊続風土記』(一)(歴史図書社、一九七〇年)巻之二十一 海
   部郡雑賀荘上関戸村 四六六頁。
(10)第二章の註(6)に同じ。
(11)高橋修、前掲書。
(12)三尾功、前掲書。(第一章の註(20))
(13)第一章に引用の【史料1】より。



 おわりに

 本論文では、これまであまり語られていなかった民衆から見た雑賀踊の成立をテーマに
考察してきた。現在ある二つの雑賀踊について、その根源であろう和歌祭の雑賀踊は、担
当していた集団の性格から、主体的に祭の中でその存在意義を主張しようとする思いから
形成されたもの、そしてその雑賀踊が伝播したものとしてケンケン踊を位置付け、その伝
播には中世からの民衆間の交流によるものが大きいと、筆者なりに結論付けてみた。とも
に、藩政時代に入り、新たに物事が発生するというのではなく、社会の様相が変わろうと
も連綿と続いてきた民衆の生活活動から登場したものと考えたのである。
 だが、この結論は推測によるものが多く、まだ検討の余地がある。中世から近世への流
れの中での民衆(雑賀、湯河氏そして印南)の活動の詳細(中世期の祭礼や宮座・氏子の
関係性など)、また雑賀踊の原型を風流踊としたがその検討や他のササラスリを行う祭礼
行事との比較などが今後の課題となるだろう。
 最後になったが、卒論完成までご指導下さった藤本清二郎先生、海津一朗先生、そして
雑賀踊に関する史料を提供し、ご教示下さった和歌山市立博物館の三尾功氏、武内善信氏、
印南祭の調査に快く応じて下さった塩路武男氏をはじめ地方地区の方々に心より感謝申し
上げたい。