近世の大都市・尾道の風景
市内各地を歩き回る
2005/4/1 尾道絵巻を元に訪ねる   08/04/22更新

近世の大都市尾道の風景を訪ねて

尾道は、荘園時代、世羅の大田の庄の積み出し港としてスタート。中世には、天然の良港を生かし、瀬戸内海隋一の港町となった。それ以来、近代までその地位はゆるぎないものであった。

その間、旦那衆が、あちこちの、寺院を模して尾道に建てていった。文学の、講演などもスポンサーになった。尾道は、京都を模したものが多くある。当時、最先端の文化や、宗教、技術があつまってきたのである。このため、文化の小箱、小京都ともいわれ、その代表格でも在る。

近世には、他の都市が、城下町などで繁栄する中、海をいかした商都として、独自の発展を続ける。どんどん、都会を取り入れつづけている。

そんな尾道を歩いてみるのは、楽しい。近世を飾る絵巻を元に市内を訪ねる。

★NEW(08/04/22) 91-近世の尾道(尾道に残る近世を訪ねて)のうち、正念院・西郷寺・海徳寺・海龍寺を散策する

ようこそ西国街道の旅へ あなたは、Counter 人目の旅人です。

○3,000番をゲットしていいものを貰おう!(トップページ下要領と同様により1000番ごとに粗品進呈)
☆2,000番ゲット H19.1.25 M.A氏(広島市佐伯区)

近世の尾道の風景をひろう

奈良、京都そして大阪から多くの文化を呼び込んだ。その結晶が尾道の神社に数多くある。
中国行程記によると
「此尾ノ道には寺数末庵とも四十八ヶ寺 委く画と云ども不具庵寺社如図
当寺海雲山天寧寺は聖一国師の開基 三重の塔あり
当寺大宝山千光寺は大同二年弘法大師開基なり 寺内に六条判官為義の塔有 並多田満中守本尊の観音有り 寺中庭に宝銖石有り」
とある。寺に関する記述が多いことがわかる。
当時、寺は繁栄の証であった。
その寺を一つ一つ巡り歩いてみよう。

尾道を歩くと新しい発見をすることがある。全てを歩いてみよう。

寺院名 所在 宗派:本尊 更新日
西(土堂)
【持光寺】 西土堂 石門立派。人気のにぎり仏 1枚 05/10/02
境内には、江戸時代に活躍した平田玉蘊の記念碑 1枚
【海福寺】 西土堂 三つ首様は、頭痛、願通に、よく効く 1枚 05/10/16
【光明寺】 東土堂 山門の西の「幡竜の松」は日本名木 1枚 05/10/16
江戸時代に活躍した陣幕横綱の墓・手形 1枚
【宝土寺】 東土堂 尾道の豪商平田弥右衛門が発願 1枚 05/10/16
【信行寺】 東土堂 尾道歴史書「尾道志稿」の著者「亀山士綱」の墓碑 1枚 05/11/19
【天寧寺】 東土堂 るしゃなぶつのなでるとその部位が直る 1枚 05/10/02
天寧寺の三重塔(海雲塔) 1枚 06/04/09
千光寺 東土堂 林芙美子の放浪記に「赤い千光寺の塔が見える」 ★★ 05/10/02
長江へ
【妙宣寺】 長江一 『境内に、等身大の加藤清正像が祀られている 06/02/18
【善勝寺】 長江一 本尊聖観世音は『萩の観音』 、海上安全の観音様 06/02/18
10 【慈観寺】 長江一 内陣の襖絵は尾道の閨秀画家平田玉蘊の筆 ★☆ 06/02/18
11 【正授院】 長江一 豪商小川壱岐の諸国巡礼記念碑「廻国納経立石」 05/11/19
12 【福善寺】 長江一 龍の彫り物などの豪壮な門で『ええもんは福善寺』 06/05/14
13 【大山寺】 長江一 境内に建立の『御袖天満宮』、大山寺は別当寺天神坊 ★★ 06/05/14
御袖天満宮の石段(大林監督転校生の舞台) 06/05/14
西久保へ
14 【常称寺】 西久保 足利尊氏が浦人の願い入れ七堂伽藍建立 ★★ 06/10/15
15 【浄泉寺】 西久保 総欅材の大伽藍の上に畳八畳敷の椰子口は圧巻 ★★ 06/10/15
浄泉寺の畳8畳敷もあると言う郷子口 06/10/15
久保神社(神社境内に尾道石工の神社あり) 06/10/15
16 【尊光寺】 西久保 明治鉄道により分断された中で、唯一以南に残る寺 06/10/15
17 【西国寺】 西久保 尾道三山の一つ愛宕山を背にした備後の名刹 ★★ 07/08/17
18 【持善院】 西久保 摩尼山(西國寺)塔頭寺院 ★☆ 07/08/17
19 【金剛院】 西久保 同上、金毘羅大権現を祀り海上安全専念祈願所がある ★☆ 07/08/17
裏の重軽さん『願い叶えば軽々と上がり、かなわなければと上がらず』 07/08/17
20 【正念院】 西久保 境内の『延命井』に湧き出る清水は人々から『延命の水』と親しまれている。 ★☆ 08/04/20
東久保へ
21 【西郷寺】 西久保 沼隈池田足利の恩賞、外陣で手を叩けば竜の鳴声がする『鳴龍天井』がある ★☆ 08/04/20
22 【海徳寺】 西久保 本堂東脇の『龍燈の松』の灯が尾道水道往来の船舶の灯台の役を果す 08/04/20
23 【浄土寺】 東久保 小津安二郎の「東京物語」の櫓で地で知られている ★★ 05/10/02
24 【海龍寺】 西久保 木造千手観音立像は希な尊像。境内に文楽の墓(竹本弥太夫の墓)がある ★☆ 08/04/20
全48寺院のうち、24寺院、掲載率=50.0%

阿弥陀如来、
釈迦如来、
観世音菩薩
 とは

西部(土堂)
持光寺(浄土宗)(尾道市西土堂町)
 平安の頃伝教大使の高弟持光上人より天台宗の寺として草創され、寺号は日輪山天禅寺と号した。その後、南北朝、足利3代将軍義満の時金剛院持光寺とあらため、京都東山の永観堂浄土宗西山禅林寺の末寺となる。
石の町尾道にふさわしく、堂々とした石造りの山門(延命門)が立派である。にぎり仏は人気がある。また、境内に江戸時代に活躍した女流画家・平田玉蘊の記念碑がある。
平田玉蘊(ぎょくおん)(持光寺内に墓がある)
日時:平成17年6月18日(日)
 平田玉蘊は、江戸末期おのみちに育った女性画家である。玉蘊は、天明7年(1787)に尾道市の豪商「福岡屋」(木綿問屋)の二女に生まれた。尾道出身の福原五岳や、円山派の八田古秀に師事した。北前船の寄港で謳歌している尾道に訪れる菅茶山、頼山陽などの文化人と親交もあった。絵は、平田玉蘊作、「美人舟遊図」である。
海福寺(時宗)(尾道市西土堂町)
 元応2年(1320年)の開基。遊行二祖上人の法弟但阿弥和尚の創建。古くは栗原保に属していたが明和3年(1766)、当山十六代玄量和尚が再興した。
 境内には、「三つ首塚様」があり、香花を手向けると、頭痛、眼痛などの治療に霊験があらたかである。
 三塚とは、江戸時代の義賊3人組が処刑されたが、和尚の夢枕に「回向してくれたら、首から上を治す」と立つので回向した。
光明寺(浄土宗西山禅林寺派)(尾道市東土堂町)
 9世紀承和年間慈覚大師が創建した天台宗の寺であった。建武3年(1336)、足利尊氏の従軍僧西山禅恵国師の法孫道宗双救和尚が尊氏に帰依、浄土宗に改宗した。
 紀州雑賀庄海龍寺弘阿和尚により法然上人御影が施入され備後隋一の浄土宗寺院となった。
山門の西の「幡竜の松」は日本名木となっている。
(写真は手形)光第十二代横綱陣幕久五郎(光明寺境内)
(尾道市東土堂町)
 陣幕は、1829年島根県東出雲町に生まれ、幼少より相撲が強かった。相撲で身を立てるため、尾道に来た。初汐久五郎の弟子となり四股名を「黒縅」、娘雪の婿となる。その後、大阪、江戸にでて「陣幕久五郎」となのり、1857年(安政5年)に横綱となる。東京で没したが、妻とともに、白ひげをここに葬った。
宝土寺(浄土宗西山禅林寺派)(尾道市東土堂町)
 京都禅林寺末寺嘉慶元年(1387)融海意観和尚の創建。尾道の豪商平田弥右衛門が発願、願主となって本堂を建立した。
 同じ境内に、尾道の奇祭ベッチャー祭りの発祥地である吉備津彦神社(一宮神社)がある。
一宮神社
信行寺(浄土宗)(尾道市東東土堂町)
 得生山安楽院信行庵、京都知恩院の末寺。
 健保2年(1214)浄土宗第二祖鎮西聖光上人がとなる。
 九州へ向かう途中に、念仏の行を行った向島三つ石に草庵を結んだのが始まり。
 墓地内に尾道歴史書「尾道志稿」の著者「亀山士綱」の墓碑がある。
天寧寺(曹洞宗)(尾道市東東土堂町)
 貞治六年(1367年)の開基。尾道の人万代道円の発願、足利二代将軍義詮が父の意思を継、工費を寄進、当時、宗派は臨済宗、東西3町にわたる広壮な大寺院であった。
 康応元年(1389年)足利三代将軍義満は宮島参詣の帰途、天寧寺沖に泊め、天寧寺に上陸、備後の守護山名氏の饗応を受けた。
 元禄年間(1688-1703)三原の宗光寺の一雲椿道によって再興曹洞宗になる。
 海雲塔は、嘉○二年(1388)五重の塔としての造営だが、元禄五年風雪により上層部を損じたので、三層となった。国の重要文化財「海雲塔」越の眺望は素晴らしい。
 また、羅漢堂の五百羅漢は江戸後期から明治のものであるが、圧巻です。4月末から牡丹が咲き誇り、「牡丹寺」とも呼ばれる。
 また、境内の、枝垂桜は見るべきものがある。4月上旬に訪れると、この桜、満開出る。(4月8日撮影)
天寧寺の三重の塔(海雲塔)
天寧寺の三重の塔は、本堂の山の手、山の中腹にある。寺域が広かったことがうかがえる。まるで、尾道全体を見下ろすような位置にある。(左の写真の通り)
 海雲塔は、嘉○二年(1388)五重の塔としての造営だが、元禄五年風雪により上層部を損じたので、三層となった。国の重要文化財「海雲塔」越の眺望は素晴らしい。
千光寺(真言宗)(尾道市東土堂)
 大同元年(806年)の開基として伝えられ「赤堂」とよばれる朱塗りの本堂、除夜の鐘で有名な「駑音楼」は尾道のシンボル的な存在。
林芙美子の放浪記でも「赤い千光寺の塔が見える」と書いてある。

(夫婦二人歩き)
日時:平成17年4月9日(日)11時00分〜
 桜の季節、花見をかねて千光寺山(大宝山)に登った。山に上るときは、必ず、千光寺にお参りすることとしている。花見の景色が一段と美しい。

中国観音霊場・千光寺へ参拝
艮(うしとら)神社
尾道市長江
本覚山 妙宣寺(日蓮宗)(尾道市長江一丁目)
 本覚山妙實寺は京都妙顕寺の末寺で、 南北朝時代、大覚大僧正妙實上人が西国弘通の時、文和2年(1353)大覚大僧正 を開山として創建。
 その後大火で焼失したが、元禄6年(1693)再建されて山号も『本覚山』と 改めた。
 本堂東側奥の石段を登ると熊本、本妙寺から勧請した『清正公神社』 があり、等身大の加藤清正像が祀られている。
 石段脇に『力石』があり、庫裡の前に大型の『髭題目石塔婆』が美しい姿を見せている。
 私も参拝をしたが、本堂はいつも明かりがついており、数人の方が、お勤めをしていた。お話をさせていただいた中で、清正公の話しになるが、像の開帳は年一度、7月であるとのこと。大事にされておりました。
 
潮音山 善勝寺(高野山真言宗)(尾道市長江一丁目)
 開基は天平(729〜749)時代、 諸国に国分寺が建立された頃と伝える。
 古くは禅宗で補陀落山善性寺といい、こ こに一精舎を建立し、萩の大樹をもって 聖観世音座像を刻み本尊とした。
天正4年(1576)4月12日、権現山(千光寺山)城主杉原民部太夫元恒の菩提所 となった。杉原氏が木梨鷲尾山城に引き上げて後、無住となり荒廃したが、慶長年中(1596〜1615)性意法印により中興し、潮音山善勝寺と改め真言宗に改宗した。
 本尊聖観世音は『萩の観音』 と呼ばれ、海上安全の観音様と篤い信仰がある。
 また、寺宝「宮人使馬」の 絵馬は、江戸時代初期、尾道の豪商橋本次郎右衛門正栄が異国との交易の時、 難破し、当寺萩の観音に祈願して難を逃れ、お礼に寄進したもの。
第十二世玄空和尚により整備された境内を起点に大宝山を巡る西国三十三観世音霊場石仏がある。
 毎日の手入れが行き届いているようである。
欣求山安養院 慈観寺(時宗)(尾道市長江一丁目)
 貞治4年 (1365)慈観上人が、御調郡栗原村世計橋近くに建立した。その後元和8年 (1622)現在地に移転した。
 天保の飢饉 で失業者が多く、時の尾道町年寄橋本竹下は町内治安維持や救済事業として天保 5年(1834)本堂を再建した。
所謂慈善事業の本堂で、内陣の襖絵は尾道の閨秀画家平田玉蘊の筆である。
 境内に本堂を再建した橋本家の墓碑が在り、奥 に慈観和尚の墓と称する大きな石造五輪塔がある。
 またこの寺は『牡丹寺』 とも呼ばれて、牡丹の季節には芳香を漂わせている。
 本堂は、静観としており、簡単に、拝観できる。
正授寺(浄土宗)(尾道市長江一丁目)
 応永年間の開基。元々は禅宗であった。
 その後、純誉和尚が浄土宗に改宗、知恩院の末寺となる。
 元禄年中諦誉良頓和尚の代常念仏を始める。これにより、江戸、増上寺祐天大僧正より嘉奨され徳川将軍家の位牌や器物を寄贈される。
 戦国武将で、毛利氏の尾道浦代官を勤め、刀を捨てそろばんをもった豪商小川壱岐の守道海が、天正16年(1588)と、慶長2年(1597)の2度諸国巡礼した記念碑「廻国納経立石」などがある。
本尊阿弥陀如来坐像は高さ8尺あり、「半丈六の弥陀」とよばれ、流麗な御姿である。
福善寺(浄土真宗 本願寺派)(尾道市長江一丁目)

 光明山福善寺。守護大名山名宗全側近大田垣光景の子孫、但馬国の城主大田垣因幡守の孫甲斐守が出家、名を行栄法印と云い天正元年(1573)尾道を訪れ久保町に道場を開き布教に勤めた。
寛永7年(1630)現在地丹花(たんが)に寺を移し、本願寺より直参末寺である「一家衆(いっけしゆう)に加えられ旧九条関白家の菩提所格寺院となった。
 山門は幕末、11代往職性圓の室として京都より鳥丸大納言の女を迎えた時、京都の大工職の手で木組み一切が製作され、これを尾道の大工職が受け取り現在地にて組立てたと伝えられている。龍の彫り物などが施された豪壮な門で『ええもんは福善寺』と童唄にも残る尾道名物のひとつである。
 本堂は樺本の紫宸殿造で拝む人を圧倒する。内陣の襖絵は尾道の閨秀画家平田玉蘊女史が西本願寺御影堂の松竹梅の襖絵を素描して帰り、この本堂にて画筆を揮った筆勢雄渾の大作である。
大山寺(真言宗 醍醐派)(尾道市長江一丁目)

米瑠山天神坊大山寺と称し西国寺有縁の寺で延久年間(1069ころ)僧慶鏝によって中興され、承安5年(1175)再建されたと伝えている。
庫裡の東側の段に地蔵堂が在る。本尊は等身大の石造地蔵菩薩像で『日限地蔵』と呼ばれる。前面六体の地蔵は日を限って願掛する事が出来るユニークな『占い地蔵』で別名「重軽地蔵」ともいわれ近郊からの信者が多い。地蔵はもと長江新町雲州街道脇にあったのを現在地に移した。
 御堂の裏に回ると洞窟があって小型の中世石仏が数多くあり、貴重な学問的資料となっている。良く整えられた境内に室町時代の石造宝飯印塔があり、菅公ゆかりの古梅が季節には芳香を漂わす。境内からの眺めはまた格別である。(写真、左奥が、御袖天神)
御袖天満宮(尾道市長江一丁目)

 菅原道真公が天神社に祭られると、長江の浦人達は菅公有緑地大山寺境内に、裳袖 『天神御影』として社が建立され『御袖天満宮』と呼び、大山寺は、別当寺となって天神坊とも呼ばれた。
 慶長11年(1606)に天神御影の修理を行うなど、寺院・神社ともに整備され現在の様になった。
御袖八幡宮の石段は、映画の中で男の子と女の子が転げ落ち、男女が入れ替わった象徴的なシーンを撮影した石段です。長さ5mもの1本石が54段も連なると実に美しいく、残り1本をわざと継いだのは、石工の心遣いです。
尾道市西久保
尾陽山願王院 常称寺(時宗)(尾道市西久保町)

時宗二代遊行他阿真教上人が正応2年(1289)に創建して浦人達の念仏道場とした。暦応3年(1340)足利尊氏は浦人の願いを入れて、七堂伽藍を建立し後光明院帝の祈願所として尾陽出願王院の称号を賜わった。
文和元年(1352)諸堂焼失、唯本堂のみ残るとある。
庫裡の東側の段に地蔵堂が在る。
尾道三体御輿で有名な『祇園社』もこの境内に有った。
本尊阿弥陀如来像は創建当時のもの。
遊亀山 浄泉寺(浄土真宗 本願寺派)(尾道市西久保町)

大永5年(1525)御調郡市村照源寺三世知春の子宗圓の開基。
本尊阿弥陀如来像は尊厳ななかにも優美な容姿である。
本堂前の水盤銘は頼山陽筆。盤を担ぐ『天邪鬼』は文政7年(1824)尾道石工丈前作で見事な鑿(のみ)の冴をみせている。
畳8畳敷もあると言う郷子口を揚げているこの本堂は明治43年(1910)の再建で総欅造りの見事な彫刻は極楽浄土を感じさせる。
畳8畳敷もあると言う郷子口

その大きさには、ただただ、圧倒される。
尊光寺(浄土真宗 本願寺派)(尾道市久保二)
往古より慈雪山尊光寺と称し、明暦3年(1657)慶順法師が浄泉寺三世住職祐綽和尚に帰依して建立した。
鉄道国道に分断された尾道市内で、鉄道国道以南に唯ひとつ残る寺院である。民家に埋もれた場所に建つ寺で破損著しくなり、昭和48年火災予防もあって鉄筋コンクリート建築(本堂内部は木造)に建替えられた。
山門は欅造で300余年の風雨に耐えている。
摩尼山 西國寺(真言宗醍醐派大本山)(尾道市西久保)
○尾道三山の一つ愛宕山を背にした備後の名刹である。宗派は、真言宗醍醐派の大本山。創建は、行基730年ころ。行基が巡国のとき尾道で加茂明神の霊夢をみ、仏堂を起こす。
○治暦二年罹災後、白河天皇の勅命、正和元年花園天皇の綸旨を受け、法塔は高く輝き、伽藍の規模は西国一という意味をこめ西国寺と名付けられる。
○尾道観光のシンボル長さ2mの草履のある仁王門をくぐり百八段の石段を登れば、金堂、三重の塔、大師堂、などが並んでいる。

中国観音霊場・西國寺へ参拝
金剛院(真言宗単立)(尾道市西久保)
 摩尼山(西國寺)の塔頭の寺院として建立された。開基は明らかではないが西国寺中興の僧慶鍍和尚らによって永保3年(1083)山内寺院として建立されたと伝えている。
 文明3年(1471)銘の、西国寺上銭帳に 『金剛院清尊和尚』の名が見え、末寺帳にも筆頭で金剛院の名が見られる。
 敷地内、脇の不動明王金毘羅堂の不動明王がある。西側の一段高い所に金毘羅大権現を祀り海上安全専念祈願所となっている。
重軽さん
 金毘羅宮拝殿裏を回ると「重軽さん」と呼ばれて、願掛け『願い叶えば軽々と持ち上がり、願いかなわなければ重々と上がらず』の石造り天狗面『重軽天狗』がある。
 願いがなく挑んだが、上がらなかった。願わくば上がらずということか。
持善院(真言宗 醍醐派)(尾道市西久保)
 摩尼山(西國寺)塔頭寺院として、西国寺再興の僧慶鍍和尚の開基と伝える。
 文化・文政ころの水害、山津波に再三被災したが、文政12年(1829)大旦那灰屋茂前の寄進銀一貫目などによって本堂・庫裏を一棟として再建されたことが棟札によって知られる。
 正月の初詣での参拝者に配られる「干支の飾紙」は評判が高く、広く外国にまで送られている。
尾道市東久保
正念寺(時宗)(本尊阿弥陀如来)(尾道市西久保)
天正2年(1574)覚阿弥陀仏の開基、来迎山正念寺と称して西郷寺末と伝え、また一説には天正13年(1585)遊行第31代同念上人が諸国遊行の途中この所の地蔵堂脇に念仏道場を開いたのに始まるとも云う。
本堂の阿弥陀如来像は高さ1m程で、室町後期の作かと思われるが、如来には珍しい半跏坐像である。
格天井に描かれた草花・鳥獣・人物等144面の絵には福山藩絵師藤井松林の名も見える。
地蔵堂には等身大の木造『延命地蔵』像が安置され、境内の『延命井』にこんこんと湧き出る清水は人々から『延命の水』と呼び親しまれている。
江戸中期宝永年間頃、正念寺は防地峠の関所越えをする旅人には格好の休み場所で、『延命の水』での湯茶の接待は旅の疲れを癒し、心を和ませた。
西郷寺(時宗)(本尊阿弥陀如来像)(尾道市東久保)
 智月山等持院西江寺。相州藤沢清浄光寺末寺にして遊行六代一鎮上人・正慶年中の開基と伝えている。
南北朝時代沼隈郡池田氏が足利軍に従いその恩賞として尊氏陣中念持仏阿弥陀如来像をもらい請け、文和2年(1353)池田氏の発願で遊行七祖託阿上人によって建立され、念持仏を本尊とした。
このとき尊氏公から仏領として銭二萬貫、院号もあたえられた。
その後、貞治年中、沼隈郡相方城主夫人太一房尼が山門を建立し、慶徳庵、珠彌庵、松之寮、西の寮、東之寮など尼寺12坊を末寺としたが江戸時代に整理されて寺号も西郷寺となった。
本堂東側に巨岩から銘水が湧出て毘沙門天を祠った御堂があり占くは山号を獅子山と言ったと伝えている。
外陣で手を叩けば竜の鳴声がする『鳴龍天井』がある。
海徳寺(時宗)(本尊阿弥陀如来像)(尾道市東久保)
龍頭山海徳寺。もと久保沖の突出た中洲に建治年中(1275-1278)宗祖一遍上人が四国伊像国に渡る時この地に上陸して道場を構え『沖ノ道場』と呼ばれたのが海徳寺の起こりである。
時宗が備後地方に布教された最初の道場でもある。
境内本堂の東脇に一本の老松があり『龍燈の松』と呼んでいた。
昔龍神へこの松の梢上に燈を献じていた伝説にちなんで山号を龍頭山と称した。
この龍神の灯が尾道水道を往来する船舶の灯台の役を果していた。
大正15年(1926)の大火で悉く全焼し、これを機会に現在地に移転した。
転法輪山 浄土寺(真言宗)(尾道市久保町)
 尾道三山の一つ瑠璃山を背にした備後の名刹である。宗派は、真言宗泉涌寺派(京都、皇室の御菩提所)大本山。創建は、聖徳太子626年。
 鎌倉時代、奈良、西大寺の定証上人七堂伽藍を再興。
 足利尊氏が、都で敗れ、西国に落ち延びた後、ここ浄土寺に戦勝祈願の後、上京、将軍の座についている。
 小津安二郎の「東京物語」の櫓で地で知られている。眼下に開ける尾道水道の眺めがすばらしい。

中国観音霊場・浄土寺へ参拝
転法輪山 浄土寺(真言宗)(尾道市久保町)
 
浄土寺の本堂
転法輪山 浄土寺(真言宗)(尾道市久保町)
 
春観音のお祭
稚児がおめかしをしてお参りをする
海龍寺(真言宗泉涌寺派)
(本尊木造千手観音立像)
(尾道市東久保)
古くは曼荼羅寺と称し、永仁6年(1298)奈良西大寺の律僧深教房定証和尚が高野山領・預所兼地頭和泉法眼淵信に招かれて女房達を「受戒」し祈願所として『曼荼羅寺』を建て、浄土曼荼羅を本尊とした。
徳治2年(1307)淵信によって奈良西大寺に寄進され西大寺末寺となる。
正慶2年(1333)本尊曼荼羅図の修理銘によると『前後国尾道浦曼荼羅寺今律尼衆・往侍然柘云々』とある。
律宗尼寺であった寛文2年(1662)海龍王寺と改められてのち京都泉涌寺末となり海龍寺となった。
観音堂の本尊木造千手観音立像(秘仏)は県下で希にみる見事な尊像で鎌倉時代初め頃の最優秀作(県重文)である。
境内に文楽の墓(竹本弥太夫の墓)などがある。
小京都の条件は、明確ではなく、静かな昔からのたたずまいを持っている町が言われています。
本来からいえば、意識的に、京都を模倣した時期(室町時代)があり、そのときに作られた山口、津和野、一乗谷などがそうで、周辺はやまで囲まれ、中央に川が流れるなど自然条件が合い、碁盤の目の街並みがあり、祇園社、八幡宮などが勧進され、祭礼など、年中行事など、京都に由来するものがあることなど、歴史的にもつながりがあるもので、今では、京都より京都らしいところがおおくあります。
 
尾道は、川がないので、歩いていても京都のイメージはありません。しかし、意識的に、奈良、京都の寺社仏閣が数多く勧進されており、文化のるつぼとなったことから、本物だとよくわかりました。
また、小京都、実は全国にたくさんあり、これは連盟でも組めばと思うところ。実は、全国京都会議という組織があるそうです。 
南から、知覧、日南、人吉、日田、伊万里、小城、甘木、中村、安芸、大洲、山口、萩、竹原、尾道、高梁、津和野、松江、倉吉、津山、篠山、出石、京都、小浜、上野、一乗谷、大野、西尾、犬山、八幡、飯田、松本、高山、金沢、城瑞、飯山、湯河原、小山、嵐山、足利、佐野、古河、栃木、加茂、山形、村田、岩出山、水沢、遠野、盛岡、湯沢、酒田、角館、弘前、松前など
 

トップページ近世の尾道(ページトップへ)

現代の尾道へ