尾道石見銀山街道

尾道〜三次〜大森

2006/1/1 開設 11/12/10一部変更

☆NEW(11/12/4) 西国街道をぶらり旅する。ここより速報を御覧ください(速報)尾道石見銀山街道の甲奴町-世羅町今高野山

★NEW(11/12/10) 49-尾道石見銀山街道1-尾道〜三成を掲載。

ようこそ尾道石見街道の旅へ あなたは、 Counter人目の旅人です。

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【銀山街道のページ】
☆6,000番ゲット H22.4.30 K.M氏(廿日市市佐方)
☆7,000番ゲット 2010年11月25日 S.E氏(尾道市栗原)

尾道石見銀山街道の各地へ

No コース 内容 尾道〜 更新日
尾道石見銀山街道
中世の大都市(尾道港 140km
尾道宿〜三成 三成の御旅所(尾道市三成)あと一里 4km 11/12/10
三成〜市 松永への分岐点(尾道市三成 15km
市〜宇津戸 松永への分岐点(尾道市三成 22km
宇津戸〜甲山 松永への分岐点(尾道市三成 28km
甲山〜頼藤 松永への分岐点(尾道市三成
頼藤〜吉舎 松永への分岐点(尾道市三成 51km
吉舎〜三良坂 松永への分岐点(尾道市三成
三良坂〜三次 松永への分岐点(尾道市三成 72km
三次〜布野 松永への分岐点(尾道市三成
10 布野〜赤名 国境を超え赤名宿に至る(飯南町赤名 11/11/12
11 赤名〜九日市 松永への分岐点(尾道市三成 111km
12 九日市〜粕淵 松永への分岐点(尾道市三成 123km
13 粕淵〜大森 松永への分岐点(尾道市三成 140km
14 大森〜温泉津 松永への分岐点(尾道市三成 153km

尾道浦から、北へ、市、甲山、吉舎、三次城下、布野、赤名、小原、銀山、温泉津浦へと進む。

No コース 内容 尾道〜 更新日
工事中
中世の大都市(尾道港 0里
三成〜市宿 旧山陽道と銀山街道の交差点(御調郡市村 3里半 07/02/25
市宿〜宇津戸 甲山上下の分岐・宇津戸(元御調郡宇津戸 5里 06/05/04
宇津戸〜甲山宿 中世の荘園・世羅大田庄(甲山今高野山 6里半 05/04/02
甲山宿〜甲奴 甲奴の里を抜ける
甲奴〜三良坂 和知氏の本拠地・吉舎の町 07/08/07
三良坂〜三次 安芸藩の北の城下町・三次町 07/08/01
三次城下〜布野 尾道路から、出雲・石見路へ
10 赤名宿〜小松地 やなしおの道から、大森銀山へ
11 小松地〜大森 世界の銀山、大森
12 大森〜温泉津 温泉津から世界へ
   区間距離(尾道-甲山)    6里半

尾道石見街道の概要
 石見銀山街道は、近世に整備された、山陰と山陽を結ぶ道である。天領である大森銀山で産出された銀を山陽の港町、尾道まで運ぶために設けられた街道で難所である赤名峠を越えることから「赤名越え」または、「石見路」ともいわれる。

 石見銀山が開発されたのは、戦国大名の大内氏が温泉津を積出港として使っていた。尼子、毛利氏と移り、関が原以降は徳川家康が直轄領とした。大久保長安が銀の産出量を増大させた。安定的に上方に運ぶため、石見街道が切り開かれていった。

どのご時世でもあるが、横領の咎により長安失脚後、上下に代官を置き、銀山を支配、ここを経由し親藩の水野福山藩を経由、直轄の笠岡へと運ぶようになっている。

また、甲山から尾道までは、天平の頃から、荘園である大田荘から尾道まで物資を運び船積みしてなら、今日へと運んだ道。銀山街道としても、また、江戸時代盛んになった、出雲大社道としても大いに往来があったようである。

わたしは、この道に興味を示し、まずは、尾道からの第1歩、甲山までの道を歩むことにした。

尾道石見街道の位置図
石見銀山街道は、瀬戸内の港の中心、尾道から、御調市を経て甲山に至る。甲山は、鎌倉時代今高野山が立つと荘園支配の中心として栄える。小童で上下からの道と合流する。三次で、広島からの雲石街道と合流、赤名峠を越える。街道一の難所であった。赤名で出雲路とわかれる。石見銀山は人口20万の大都市であった。そこから西へ行くと温泉津に出る。

石見銀山街道
 江戸時代に、石見銀山(現在の島根県大田市)と瀬戸内海沿岸部を結んでいた街道で代表的なものは、「石見路」(尾道へ)と「石州路」(福山へ)でした。前者は、関ケ原の戦いの直後、徳川家康の命を受けて石見銀山に派遣された大久保十兵衛(後の石見守長安)が整備した街道で、幅を七尺(=212.121cm)として、36町(=1里=3.927km)ごとに一里塚松が植えられました。江戸時代初期の輸送は不明ですが、文化年間(1804-1817)の史料によると、馬200順に銀を積み、330人という大輸送団だったようです。
 後者については、石見路ほど銀山のつながりは明らかにされてはいませんが、石見銀山産出の集積中継地として上下町に代官所が置かれたこと、「芸藩通志」では、甲奴郡の官道の項に 「石見銀山へ出る者此路による」と記しているなど、銀山との関係性の高さがうかがえます。

 一里塚【いちりづか】…
大きな道路の側に1里毎(約4km毎)に旅行者の目印として設置した塚(土盛り)。道路をはさんで対に設置されるのが通常。

 辻堂【つじどう】…
街頭としての辻にあるお堂・お社のこと。辻(つじ)とは「つむじ(辻)」の音変化したもの。国字、和製漢字。二つの道路が十字形に交差している場所。十字路。交差点。人通りの多い道筋。街頭。をさす。用例:四つ辻(十字路)・札の辻(十字路)・辻芸(大道芸)・辻説法(街燈演説)・辻商い(露天商)・日本の姓の一つ(辻さんといった苗字)

 道標【みちしるべ】…
旅をする人々の便宜を回り、方向や距離を書いて分岐点や交通の要所に建てた標(しるべ)。庶民の旅が盛んとなった江戸後期からよく見られるようになり,石柱,自然石,石仏,燈籠などに行き先,寺社名を刻んである。庶民が読めるように”ひらがな”が多い。

  常夜燈【じょうやとう】…
各所に配置して暗い夜道を照らし出す明かりのこと。今の街燈にあた り、江戸時代などにさかんに石や木造の物でつくられた。港では灯台の役目を果たし、街中では道標として設置される場合もあった。一般には夜道などの安全確保のために一晩中火をともしておく、灯火の役割を果たしたものであった。また、神社等でも石で作られた同様の燈籠がみられ、夜間に おける明かり取りなどに使用された。この他常夜燈は、村のシンボルという意味と、目印(灯台) という意味があり、しばしば旅人の安全を祈願して街道沿いに寄進されることが多かった。金毘羅燈籠(塔身が御進退金毘羅権現)は道に深いつながりのある典型的な常夜燈。

  七尺道【ななしやくみち】…
関ケ原の戦いの直後、徳川家康の命を受けて石見銀山に派遣された大久保十兵衛(後の石見守長安)が整備した街道で、幅を七尺として、36町(=3.927m)ごとに一里塚松が植えられた。
尺(しやく)は、尺貫法における長さの単位である。東アジアでひろく使用されている。日本では、 明治時代に1尺=(10/33)メートル(約30.3cm)と定めた。 中国では、1尺=(1/3)メートル(約 33.3cm)とし、また、メートルにも「尺」の字を宛てている。区別のため、前者を市尺、後者を公尺という。※正確には1尺=30.3030303センチメートル


長さ・距離の単位
(度量衡の「度」)は、尺を基本の単位とする。他の単位は尺と独立に発生し たと考えられるが、後に尺と関連づけられ、その整数倍または整数分の一となった。

1里=36町                           ≒3.927キロメートル
     1町=60間=360尺                 ≒109.09メートル
          1間  =6尺                 ≒1.818メートル
                1尺=10寸=10/33メートル≒0.303メートル

          1丈  =10尺                ≒3.03メートル

 年貢【ねんぐ】…
租税(今で言う税金)のこと。正式には貢祖と言う。近世江戸時代には、本途物成(ほんどものなり)と小物成(こものなり)とに分けられる。本途物成は本年貢とも言われ、に分けて田にかかる本土貢、畠にかかる畠祖、屋敷にかかる屋敷租に分けられる。本土貢は米で納められ、貢租の最も大きい部分を占める。他は通貨、いわゆるおカネで納められる長州では銀納であった。 中世室町時代以前の寄進関係の年貢とは、領有保証への代償、すぐれて二者間の契約行為である。

 蔵入地【くらいりち】…
藩が直接支配を行う領地(直轄地)のこと。

(宿場町)
 石見街道は尾道浦から、北へ、市、甲山、吉舎、三次城下、布野、赤名、小原、銀山、温泉津浦へと進む。
 甲山・・・平安の時代の末(1166)、備後国世羅郡大田荘は、後白河院領として荘園となりました。中国山地の奥地に位置する内陸の荘園である。
(国境の碑)
 備後と石見の県境は
(峠)
向峠・・・尾道を出て、いよいよ山に向かう最初の峠、世羅へは、丘陵地尾根を中心に歩くことになる。世羅から。尾根伝いの道:尾道となったという説もある。(世羅から見れば)
(港)
尾道港・・・平安時代、大田荘の倉敷地となる。室町時代、足利氏とともに発展している。また、江戸時代は、北前船の立ち寄るところ。自然の良港であった。江戸時代、石見銀山の積み出し港となる。
温泉津港・・・

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