まーくんの旅立ち

 厳しい冬の寒さもすっかり緩み、早朝の陽射しは春の優しい空気に溶けて、柔らかくなってお部屋の窓に届きます。
 まーくんは、ママに起こされるよりずっと早く、まだ六時にもならないうちにベッドの中で目を覚ましました。いつもはまだ深い夢の中にいる時間です。特に今日みたいな暖かな春の日には、ベッドの中でうとうとしているのがすごく気持ちよくって、ママに起こされてもなかなかベッドから出ることができません。
 だけど、今日はまーくんにとっては特別な日なのでした。昨日の夜から、心臓がずっとどきどきしてて、なかなか眠ることができませんでした。
 だって今日は入学式。まーくんがはじめて小学校に行く日なんですもの。
 まーくんはベッドから起き上がって、電気もつけないまま部屋の中を見回しました。電気なんてつけなくっても、薄いカーテン越しに窓から射し込む優しい朝陽のおかげで、部屋の中はほんのりと明るくなっています。
 ふっと部屋の端に目を向けると、ピカピカの黒いランドセル。一ヶ月くらい前にパパに買ってもらったもので、まーくんはずっと自分の目の届くところにそれを置いては、眺めていました。
 その大事な大事な宝物を、いよいよ使う日がやってきたのです。まーくんのちっちゃな胸は、期待と不安で張り裂けてしまいそうでした。
「まーくーん、起きてるー?」
 階下から、ママの声が聞こえてきます。ママも今日はちょっとどきどきしているのでしょうか。まーくんを起こすのがいつもよりずっと早いみたいです。
「うん、起きてるよー」
 一階のママに向かって声をかけると、まーくんはピカピカのランドセルを両手で大事に抱えて、部屋を飛び出しました。

「一人で大丈夫?」
 心配そうな顔のママにまーくんは小さく、でもしっかりと頷きました。
 まーくんのおうちから小学校までは、まーくんの足で十五分くらい。学校まではほとんどまっすぐだし、春休みのうちに予行練習でママと一緒に歩いたから、迷うことはありません。とは言っても、お迎えのバスで連れて行ってもらっていた幼稚園とは違って自分の足で歩かなくちゃいけないのですから、やっぱり不安はいっぱいです。
 でも、まーくんは今日から小学生のお兄ちゃんなんだから、しっかりしなくちゃいけないんだ。大丈夫だよ、ってところを見せてお母さんを安心させてあげないと。そう自分に言い聞かせて、まーくんはしっかりとした表情を作ってみせました。
「そう、もうお兄ちゃんだもんね。気をつけて行ってきてね」
 そう言ったママは、まーくんの大人っぽい表情に少しだけ驚いたみたいでした。
「うん」
 まーくんははっきりした声でそう言って、黒いランドセルを背負いました。
 まーくんのちっちゃな身体にはちょっと大きなランドセルが、窓から差し込んだ春の陽射しを受けて頼もしく光っています。
「ママ、行ってきます」
 そう言ってまーくんは、一人で玄関のドアを開けます。いつもはママに開けてもらっているドアは、音も立てずにすっと開きます。まーくんの初登校の朝の、はじまりの扉が今、開きました。
「わぁ」
 まーくんは、おもわず小さな声を上げました。まーくんのおうちの前、小学校へと続く道路の両側が、鮮やかなピンク色に染まっています。
「桜が、すっかり満開ね」
 いちめんのピンク色に見とれてすっかりぼうっとしてしまったまーくんの後ろで、ママがうれしそうな声を上げました。
 毎年春にならないと目立たなくって忘れてしまうのですが、まーくんのおうちの前の道路は、両側にたくさんの桜の木が植えられた桜並木道なのです。
 一週間前に春の訪れを告げる春の嵐が町に吹き、春を今か今かと待ちわびていた桜のつぼみたちが一斉に花をほころばせたのでした。空全体を覆いつくすように咲き誇った無数の桜の花びらたちは、透き通った柔らかな空気の中にひらひらと舞って、まーくんの新たな旅立ちを祝福してくれているようでした。
 学校までの道のりは、半分くらいはこの桜並木道を通っていけます。うっとりするほど綺麗な道に、まーくんはすっかりうれしくなって、まるでスキップをするような軽い足取りで歩き出しました。
「転ばないようにね」
 半分心配そうで、半分嬉しそうなママの言葉も、歩くのに夢中なまーくんの耳には届いていません。
 桜は、まさしく咲き乱れていました。ちょっと強い風などが通り過ぎますと、たちまちに目の前がピンク色の花びらに覆いつくされてしまうほどでした。
 まーくんは歩きながら、ひらひら、ひらひらと漂う花びらを目で追っていました。
 だからでしょう。まーくんははじめ、その人影に気がつきませんでした。もし気づいていたら、引っ込み思案なまーくんは人影がまーくんのそばまで近づく前に、こっそりと離れてしまっていたかもしれません。
 だって、知らない人と話す時はすごく緊張してしまって、いつも上手くしゃべれなくなってしまうんです。緊張のあまり口が聞けなくなってしまうと相手の人は、怒るかあきれるか、もしくはかわいそうにね、って顔をします。怒られたりあきれられたりするのはもちろん嫌な気分ですが、いちばん嫌なのは、かわいそうに思われた時。それはそれは惨めな気分になって、自分はダメな子なんだ、って気分になっちゃいます。
 だから、まーくんはそんな思いをしないように、知らない人には自分から話しかけないのはもちろん、なるべく話しかけられないようにいつも気をつけています。普段なら、ママの後ろに隠れていればまーくんの代わりにママが答えてくれますけど、今はまーくんひとりきりです。

「おはよう。ねぇ、桜がきれいね」
 そんなわけですから、いつの間にかすぐ隣まで来ていた女の子にそう話しかけられた時、まーくんはとてもびっくりしてしまいました。心臓がどきどきと高鳴って、苦しいくらいです。
 話しかけてきたのは、赤いランドセルを背負った女の子でした。ランドセルは傷ひとつないピカピカですから、きっとまーくんと同じように今日初めて小学校に行くのでしょう。頭の両脇で二つに結んだ長い髪の毛が、首を動かすたびにぴょこぴょこと揺れています。
 くりくりとよく動く大きな目と、薄い桃色の唇。ちょっとふっくらとしたほっぺた。ちょうど桜の花びらのようなピンク色のワンピースがよく似合っている、可愛らしい女の子でした。
「あたしはさくらって言うの。今日から小学校一年生。あなたも一年生?」
 ちょっとおませなしゃべり方で、女の子がまーくんに聞いてきました。言葉の終わりにちょっとだけ首をかしげると、結んだ髪の毛がウサギの耳みたいにぴょこん、と揺れました。
 さくらって言うんだ。ぴったりな、かわいい名前だな。頭のどこかでそんなことを思いながら、まーくんの心臓は太鼓のように激しく鳴り続けています。
 黙ってしまったまーくんの答えをじっと待つように、さくらという名前の女の子は、小さく首をかしげたまま、その大きな黒い瞳でまーくんのことをみつめています。
 この子とお友達になりたいな。まーくんは、心からそう思いました。そのためには、頑張らなくちゃ。女の子に気づかれないようにこっそりと、大きく息を吸います。
「ぼくも一年生。まさるって言うんだ」
 せいいっぱい胸を張って、まーくんは声を出しました。声は何とかふるえずにすみました。
 まーくんの言葉に、女の子はうれしそうに微笑みました。笑った顔はもっと可愛らしくて、まるで咲き誇った桜の花みたいでした。
「よかった。ねぇ、一緒に学校に行きましょ」
 女の子はそう言って、まーくんの手を取って走り出しました。女の子の手はとても柔らかくって、引きずられるようにして走るまーくんの心臓はもっともっとはげしく鳴りはじめたのでした。


<おわり>





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