アルビレオ


 アルビレオが光太の通う小学校に転校してきたのは先月のことだった。奇妙な名前である。黒髪黒瞳のアルビレオの姿は日本人のそれで、積もった粉雪のような透きとおった肌は白色人種のようではあるものの、それは彼が日本人離れしているというよりはむしろ彼が人間離れした雰囲気を有していることを表しており、彼が西欧人であるとは思われなかった。アルビレオにも苗字はあったし、それは彼が転校してきた時に光太たちにも紹介されたはずだが、あまりにも平凡な苗字はまるでアルビレオに似つかわしくなく、誰一人として彼を苗字で呼ぶものはいなかったので、一月が経つ頃には、光太もすっかり忘れてしまっていた。アルビレオは他のなにものでもなく、ただアルビレオであった。
 アルビレオが奇妙であったのは名前だけではない。彼の雰囲気はどこからみても、ふつうではなかった。たとえばアルビレオは、いつも灰色の外套(マント)を着て学校に来た。今は暑さ厳しい七月だというのにだ。もちろん、きょうび子供たちは外套(マント)なんて見たこともない。きっと彼らの親たちだってそうだろう。けれどアルビレオはその珍しい姿を見せびらかすでもなく、さも当然のような顔をして毎日学校へやってくるのだ。くるぶしまで長さのある分厚い外套(マント)は、見ているだけでも暑苦しいことこの上ないが、アルビレオの周りだけに涼しい風でも吹いているのか、彼は額に汗ひとつ浮かべることがない。クラスメイトたちは、マントの中に秘密の宝物を隠し持っているのだ、とか夜中にあのマントで空を飛んでいるのだ、とか噂しあったが、当の本人はそんなこと気にならないというふうに涼しい顔をしていた。
 光太が、アルビレオと仲良くなったのは、彼が転校して来てすぐのことだった。転校してきたはじめの日、教室に入ってきたアルビレオと、偶然目が合ったのだ。それ以来、アルビレオは何かにつけて光太にくっついてまわっている。学校の中で光太とアルビレオを別々に見ることは決してない、というほどだった。
「どうして、」
 と、光太はアルビレオに訊いたことがあった。
「どうして、君は僕についてまわるんだい?」
「もしかして迷惑かな」
 アルビレオが哀しそうにその透きとおった顔を歪めた。光太はあわてて言った。
「迷惑なんかじゃないよ。ただ不思議なんだ。だって僕は、あんまり友達が多いほうじゃないから……」
 消えそうな声で言った光太に、アルビレオはにっこりと笑いかけた。まるでお伽話のお姫様のように。
「君を、選んだんだ」
「だから、どうして選んだの?」
「わけなんてないよ。たとえば星が、自分の光る場所を選ぶのにわけがあるかい?」
 光太にはアルビレオの言うことがさっぱりわからなかったけれど、アルビレオに嫌われたくなかったから急いでうなずいた。

「もうすぐ夏休みですから、夜空を見上げる機会も増えることでしょう。今日は夏の星座を皆さんにお教えしましょう」
 理科の時間だった。銀縁の眼鏡をかけたまだ若い女の先生が、黒板にいくつも星印を書いていった。
「今書いたのは、夏に見える明るい星たちです。特に明るく見えるのはこれとこれとこれ。三つを結んで出来る三角形は夏の大三角形と呼ばれます。誰か、それぞれの名前が何かわかりますか?」
 先生はそう言って、教室の中を見回す。光太と、目が合った。
「では、光太くん」
 当てられた光太はあわてて立ち上がる。理科は、光太の得意科目だ。特に星に関してはかなり詳しいといえるだろう。もともと図鑑を読むのが大好きだったし、アルビレオときたらいつも星の話ばかりしていたから。夏の大三角の名前なら知ってる。(こと)座のベガと(わし)座のアルタイル、それに白鳥座のデネブだ。
 だけど光太は答えられない。教室の真ん中で一人だけ立ち上がり、クラスの13人分の視線をいちどきに受けていると心臓が無闇なテンポで鐘を打ち、立っているのがやっとになる。とても声なんて出せる気がしない。
 先生はちょっと困ったような顔で光太を見た。それから小さくため息をついて「座って結構です」と告げた。椅子に座りなおすときチラッと横目で見るとアルビレオはこちらに視線を向けて、なんでもないよ、というふうにウィンクをしてきたので光太はほっとする。
「夏の大三角の星は、琴座のベガと鷲座のアルタイル、それに白鳥座のデネブです。琴座と鷲座は、肉眼で見るのは少し難しいかもしれません。でも白鳥座は、しっかりと見えます」
 先生はそう言って、黒板に大きく十字を描いた。
「白鳥座はノーザン・クロス、つまり北十字とも呼ばれます。十字架のこちら側、つまり白鳥の尾羽にあたる部分がデネブです。そしてこちら側、白鳥のくちばしにあたる部分が――」
 光太はガタン、と音をさせて椅子から立ち上がった。これは、自分が答えなければならない。クラス中の視線が光太に注がれる。先生がそれに気づいて光太の方に目をやり、小さくうなずいた。
「光太くん、これならわかりますか?」
「――アルビレオ」
 大きく息を吸って、光太は声を出した。わずかに震えてしまったけれどちゃんと言葉になった。
 先生はちらりとアルビレオの方に目を向ける。生徒たちもちらちらとアルビレオの顔を覗き見ている。アルビレオは穏やかな笑みを湛えている。彼女は再び光太に視線を戻し、満足したようにうなずいた。
「そうです。この星が、アルビレオ。彼と同じ名前を持つ星です。普通に目で見るとこの星はひとつに見えますが、望遠鏡やなんかで見ると実はとても近くに二つの星がある、双子星(ふたごぼし)なのです。専門的な言葉では、連星(れんせい)と言いますね」
 それから先生は、もう一度改めてアルビレオの顔を見た。アルビレオは、『続けなさい』とでもいうように大きくうなずいた。アルビレオにはそういう、妙に大人びた(それでいて反感を抱かせないような)ところがあった。
 先生は黒板に色のついたチョークで二つの円を描く。ひとつは黄色いチョークで大きく、もうひとつは青で小さく。
「大きい方が黄色、小さい方が青色の鮮やかな二連星です。黄玉(トパーズ)青玉(サファイア)にも例えられ、全天で一番美しい二連星だとも言われています」
 先生の説明は淡々としていて、決して感情的ではなかった。にもかかわらず、光太の心を大きく揺さぶった。一番美しい二連星。夜空の宝石。そしてその名前は、アルビレオ。
 光太はたった今知った言葉たちを、鉛筆で白いノートに書きつけた。北十字(ノーザン・クロス)双子星(ふたごぼし)黄玉(トパーズ)青玉(サファイア)、全天で最も美しい、アルビレオ、アルビレオ。光太の心はすでに、夜空にあった。
 だから、夏休みの自由課題は星の観察にしよう、とアルビレオが提案した時、光太には反対する理由などあるはずがなかった。アルビレオの家に天体望遠鏡があるから、それでもってアルビレオの黄玉(トパーズ)青玉(サファイア)を見ようというのだ。夏の夜に一番美しい宇宙の宝石を捜す。それも、大好きなアルビレオと一緒に。こんなに心躍ることが他にあるだろうか。
「街の中じゃいけない、」
 アルビレオは言う。
「星の輝きが人工の灯りに邪魔されてしまうから。深い山の中でないと」
「お月見山はどうだろう」
 少し考えてから、光太はこの街から電車で1時間ほど行ったところにある山の名前を挙げた。以前、家族でキャンプに出かけたことがある。テントを張ってキャンプ場で一夜を過ごしたのだが、その時に見た無数の星の海は、光太の心に深い感銘を残した。
 アルビレオはちょっと首を傾げてみせたが、やがてうなずいた。
「まだ明るすぎる気がするけれど、このあたりよりはずっとましだ」

 そうして光太は夏休みのはじめの日、日が沈みかけた頃に家から十五分のところにある駅で、アルビレオを待つことになった。真夏の遅い夕焼けの終わりの頃、大きな黒いバッグを肩にかけてアルビレオは駅に現れた。もちろん、いつもと同じく灰色の外套(マント)を羽織って。
「ごめんよ、待たせてしまったね」
 そう言って白い顔に微笑を浮かべる。光太は大きくかぶりを振った。
「そのバッグが望遠鏡なの?」
 光太が尋ねると、アルビレオはうなずいて重そうにバッグを担ぎなおした。あわてて光太はアルビレオのバッグに手をかけた。
「僕が持つよ」
「大丈夫だよ」
「いいから」
 珍しく強引に、光太はアルビレオからバッグを奪い取って自分の肩に掛けた。アルビレオの華奢で透明な身体に、重いバッグはいかにも不釣合いに見えたのだ。望遠鏡の入ったバッグをしっかりと担いだ光太を見て、アルビレオはにっこりと笑った。透きとおった川の水のような、無垢な笑顔だった。
「ありがとう、」
 そう言ってから、アルビレオは自分の言葉に満足したようにうなずいた。
「こういうときに使うんだろう?」
 アルビレオの言いようは、まるで生まれてはじめて『ありがとう』という言葉を使った人みたいだった。だけど光太は何も言わなかった。いや言えなかった。アルビレオの笑顔に見とれていたから。
「切符を買ってしまおう。まもなく列車が来るよ」
 アルビレオが光太の背中を叩いた。どうして時刻表も見ていないのに、列車が来ることがわかるのだろう? 光太は不思議に思ったが、自信に溢れるアルビレオに手を引かれて黙ってついていった。
 ホームには、二人の他には誰もいなかった。駅員の姿も見えない。陽が落ちきって藍色に染まりだした空を、駅舎の青白い()が頼りなく照らしているだけだ。駅は高台にあって、眼下に街の灯が一望できた。宵闇に包まれた街はまるで夜空のようだった。
「ごらんよ、夏の大三角だ」
 アルビレオの言葉に導かれるように、光太は視線を上げる。夜空の低い部分は街の灯を映してほの白く染まっていたが、それでも天頂の方には星が一つ、二つと輝きだしていた。アルビレオの言うとおり、ひときわ明るい三つの星がはっきりと見てとれた。
「あっちのS字は、(さそり)だね」
 アルビレオに負けじと、光太も夜空を指差した。
「ああ。蠍の心臓(アンタレス)が赤々と燃えているよ」
 光太が目をこらしてみていると真っ赤なアンタレスが、まるでちろちろと燃えていた炎に風が吹き付けて、突然その炎をぼわっと大きく燃え上がらせたみたいに、ひときわ赤く燃え上がったように見えた。
「今、アンタレスが!」
 光太が驚いて指差すと、アルビレオはうれしそうに光太の瞳を覗き込んだ。
「わかったかい? アンタレスが君にあいさつをしたんだ。彼はちょっと気難しいけど、気のいいやつなんだ」
 そう言って笑ったアルビレオの黒い瞳が一瞬、金色に光ったような気がして、光太は大きくまばたきをした。アルビレオの瞳だけでなく夜空のまばらな星たちまでもが、いっせいにゆらりときらめいたようにも見えたから、思わずごしごしと目を擦った。
 気がつくと光太は、列車に揺られていた。一瞬、いつの間にか自分が寝てしまって、アルビレオが自分を列車の中に運んでくれたのかと考えた。けれどそうでないことはすぐにわかった。乗っている列車が、いつものものではなかったからだ。光太は数えるほどしか列車に乗ったことはなかったけれども、横に長く伸びた緑色の座席や、ずらりと並んだ白い吊革は覚えていた。ところがこの列車は横に長い座席ではなくて、青くてふかふかした布を張った二人掛けの椅子が向かい合わせで置かれているし、吊革はどこにもなかった。天井に吊るされた電燈は、いつもの白っぽい蛍光灯とは全く違う黄色っぽい暖かな光を放っていた。乗客の姿はない。決定的なのは窓からの景色だった。遥か向こうに見える宝石のような明かりを、光太ははじめ、街の灯だと思った。けれど目をこらしているうちに、それが街の灯などではないことに気がついた。
「――星の光だ」
 思わず声に出して呟いた。向かい側の席で窓の外を眺めていたアルビレオがうなずく。その時になって光太は、自分の肩に掛けていたはずの望遠鏡が入ったバッグが見当たらないのに気づいて、あわててあたりを見回した。
「いいんだ、」
 アルビレオが言う。
「もうあれは要らないんだ。望遠鏡なんて必要ない」
 アルビレオの金色の瞳に見つめられて、光太はうなずいた。あれ、と光太は思う。アルビレオの目って、金色だったっけ。
「ほら、窓の外を見てごらん」
 アルビレオに促されて光太が窓に目を向けると、ちょうど列車が、赤々と燃える光の前を通り過ぎたところだった。赤は炎のそれというより、まるで血の色のような真紅だった。
「今のが、アンタレスさ」
 なるほど、それは地上から見るアンタレスの色とまるで同じだった。
「僕たちは、空の上を走っているんだね。星が浮かぶ、宇宙の上を」
 アルビレオはまっすぐに光太の瞳を覗き込みながらうなずいた。
「さあ行こう、僕の星へ」

 列車は天の川の上を、銀河の上を走っているようだった。星が集まって出来た河の底に、長く長く線路が敷かれているのだ。
「この列車は、アルビレオに向かっているの?」
 光太が尋ねると、アルビレオは月の光を溶かし込んだような白銀の髪を揺らして答えた。アルビレオはいつの間にか、どんどんと透明になっていく。
「ああ、もちろん。だって、僕らは星の観察に行くのだろう」
 それで光太はなんだか納得したような気になって、窓の外に視線を移した。窓の外には無数の星が輝いていた。まるで自分が小さくなって、母さんの宝石箱の中に誤って落っこちてしまったかのように、光太は思った。はじめはあんまりにきらきら輝く星の明かりが多すぎて、どれがどれやらさっぱり見分けがつかなかったけれど、だんだんと目が慣れてくると辛うじて星座のかたちを見分けられるようにもなった。
 そのうちに雨だれのような、ポロンポロンという優しい音色が聞こえてきた。音楽のようだった。
「何の音楽だろう?」
「星めぐりだよ。ベガの姉さんが琴を鳴らしているのさ」
 それから力強い羽ばたきの音。列車の窓に風が吹き付けて真鍮の窓枠がカタカタと鳴った。
「アルタイルの鷲の翼の音だ」
 光太が急いで言うと、アルビレオは一瞬驚いたような顔をして、すぐにうれしそうに声を立てて笑った。鈴のような笑い声だった。
 星の光に照らされた透明なアルビレオの顔は、本当にうれしそうだった。
「さあ、もう着くよ」
 アルビレオの声がそよ風になって耳元で鳴り、光太のいるところはもはや列車の中ではなかった。光太はいつの間にか浮かんでいた。銀河の上に、星の海の底に、夜空の真ん中に。隣に、アルビレオの姿はなかった。
「アルビレオ?」
 不安な声で呟くと、風に鳴ったアルビレオの笑い声が聞こえた。
「目の前にいるじゃないか」
 光太は目を開いた。今まで目を閉じていたわけじゃないのに、もう一度開いたのだ。
 目の前に、アルビレオがあった。見上げるほど大きくて暖かい黄色の黄玉(トパーズ)に、しっかりと寄り添う澄んだ青玉(サファイア)。それはまさしく宇宙で一番美しい宝石だった。
「僕は双子星。
 切っても切れない二つの星。
 僕は黄玉(トパーズ)、君は青玉(サファイア)
 僕は君を、見つけた」
 アルビレオは歌うように言った。光太は黙ってうなずいた。言葉は必要なかった。

 光太は、駅のホームにいた。光太の家から十五分のところにある駅。ホームには誰もいない。駅舎の青白い()が暗闇の夜空を頼りなく照らす。光太は肩にバッグを担いでいた。望遠鏡を入れた黒いバッグ。そういえば、この望遠鏡は光太のものだった。去年の誕生日にお父さんに買ってもらったんだ。誕生日に組み立てただけで、それ以来一度も使わずに押し入れの中に眠っていた。
 光太はバッグを開いた。誰もいない駅のホームで、望遠鏡を組み立てる。街の灯を映してほのかに明るい夜空には、星がまばらに浮かんでいる。白鳥のくちばしに、焦点を合わせる。アルビレオ。
「僕は君を、見つけた」
 光太はひとり呟く。望遠鏡の中で黄玉(トパーズ)青玉(サファイア)が幸せそうに寄り添っていた。





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